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2014年07月09日

世界一の両親








 ある女の人が学生の頃に強姦されました。  男性不信になった彼女はずっと男性を避けていましたが、会社勤めをしているうちにそんな彼女に  熱烈にアタックしてくる人がいました。

 その男性の優しさや「こんな自分でも愛してくれるんだ」という気持ちから、彼女も彼と交際を始めました。  そして交際を重ねて二年、ずっと清い交際を続けてきた彼が彼女をホテルに誘いました。

 彼女は「大好きな人とできるのだから怖くない」と自分に言い聞かせましたが、やはりベッドの上で  パニックを起こしてしまったそうです。  その時、彼は彼女が泣きながら切れ切れに語る辛かった過去を辛抱強く穏やかに聞き、最後に  泣き伏してしまった彼女に「ずっと大変な事を一人で抱えてきたんだね」と頭を撫でたそうです。

 そして彼女の頭を一晩中撫で続けながら、彼女に語りかけていたそうです。  「これからはずっと俺が守るから。もう怖い思いはさせないから」  「焦る事は無いよ、ゆっくりと分かり合おう」  「君はとてもキレイだよ、ちっとも汚れてなんかいないよ」

 「ごめんなさい」と繰り返す彼女に、彼は一晩中優しく語り掛け  「いつか、君が僕との子供が欲しいと思う時まで、心で深く分かり合っていこうよ。   僕が欲しいのは君の体じゃなくて君自身だよ」  と言い、その後彼女と結婚するまでの五年間、おでこにキスくらいまでの清い交際を続けました。

 そして結婚してからも焦る事無く、 ようやく初夜を迎えることができたのは結婚後二年経ってからだったそうです。  そして、私と弟が生まれました。

 弟が二十歳になるのを待って、母が初めて子供二人に語ってくれた話でした。  その話を聞いたとき、母の苦しみや父の愛情、そしてそれに母がどれだけ癒されたのか、今ここに  自分の生がある事のありがたさを知って、ボロボロと泣きました。

 さらにその後、父とその件について話した事があったのですが、ホテルでの一件の後  父は結婚してから母を一人にする事のないように自営業を始めるため、五年間貯金をしたそうです。  開業資金、結婚資金が貯まって、母にプロポーズをした時も「一生子供が作れなくてもいい」  と思っていたそうです。

 実際、振り返ってみても父と母はいつも一緒にいた所しか思い出せません。  そんな両親も今はこの世にはいません。  二年前に母がすい臓ガンで、昨年父が脳卒中でこの世を去りました。  母の命日に位牌を抱いたまま冷たくなっていた父を見て、弟と二人号泣しました。

 「お父さん、本当にお母さんのことが大好きだったんだね」と大の大人が葬式で  わぁわぁ泣きました。  法事まで母を一人にできなくて同じ日に亡くなったんでしょうか。

 私たちを叱る時、精一杯厳しくしようとして、出来なくて、目に涙を浮かべながら  一生懸命大きな声を出していた父と、大きくなって「恥ずかしいよ」と文句を言っても  私たちの頭を良く撫でてくれた母。  本当に最高の両親でした。
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いのちをいただく






坂本さんは、食肉加工センターに勤めています。 牛を殺して、お肉にする仕事です。 坂本さんはこの仕事がずっといやでした。

牛を殺す人がいなければ、牛の肉はだれも食べられません。 だから、大切な仕事だということは分かっています。 でも、殺される牛と目が合うたびに、仕事がいやになるのです。 「いつかやめよう、いつかやめよう」と思いながら仕事をしていました。

坂本さんの子どもは、小学3年生です。しのぶ君という男の子です。 ある日、小学校から授業参観のお知らせがありました。 これまでは、しのぶ君のお母さんが行っていたのですが、 その日は用事があってどうしても行けませんでした。 そこで、坂本さんが授業参観に行くことになりました。

いよいよ、参観日がやってきました。 「しのぶは、ちゃんと手を挙げて 発表できるやろうか?」 坂本さんは、期待と少しの心配を抱きながら、小学校の門をくぐりました。 授業参観は、社会科の「いろんな仕事」という授業でした。 先生が子どもたち一人一人に「お父さん、お母さんの 仕事を知っていますか?」 「どんな仕事ですか?」と尋ねていました。 しのぶ君の番になりました。

坂本さんはしのぶ君に、自分の仕事について あまり話したことがありませんでした。 何と答えるのだろうと不安に思っていると、しのぶ君は、小さい声で言いました。 「肉屋です。普通の肉屋です」 坂本さんは「そうかぁ」とつぶやきました。

坂本さんが家で新聞を読んでいるとしのぶ君が帰ってきました。 「お父さんが仕事ばせんと、みんなが肉ば食べれんとやね」 何で急にそんなことを言い出すのだろうと 坂本さんが不思議に思って聞き返すと、 しのぶ君は学校の帰り際に、担任の先生に呼び止められて こう言われたというのです。

「坂本、何でお父さんの仕事ば普通の肉屋て言うたとや?」 「ばってん、カッコわるかもん。一回、見たことがあるばってん、  血のいっぱいついてからカッコわるかもん…」 「坂本、おまえのお父さんが仕事ばせんと、先生も、坂本も、校長先生も、 会社の社長さんも肉ば食べれんとぞ。 すごか仕事ぞ」

しのぶ君はそこまで一気にしゃべり、最後に、 「お父さんの仕事はすごかとやね!」と言いました。 その言葉を聞いて、坂本さんはもう少し仕事を 続けようかなと思いました。

ある日、一日の仕事を終えた坂本さんが 事務所で休んでいると、一台のトラックが 食肉加工センターの門をくぐってきました。 荷台には、明日、殺される予定の牛が積まれていました。 坂本さんが「明日の牛ばいねぇ…」と思って見ていると、 助手席から十歳くらいの女の子が飛び降りてきました。 そして、そのままトラックの荷台に上がっていきました。

坂本さんは「危なかねぇ…」と思って見ていましたが、 しばらくたっても降りてこないので、心配になってトラックに近づいてみました。 すると、女の子が牛に話しかけている声が聞こえてきました。 「みいちゃん、ごめんねぇ。  みいちゃん、ごめんねぇ…」 「みいちゃんが肉にならんと お正月が来んて、じいちゃんの言わすけん、

みいちゃんば売らんと  みんなが暮らせんけん。 ごめんねぇ。  みいちゃん、ごめんねぇ…」 そう言いながら、一生懸命に牛のお腹をさすっていました。 坂本さんは「見なきゃよかった」と思いました。 トラックの運転席から女の子のおじいちゃんが降りてきて、 坂本さんに頭を下げました。

「坂本さん、みいちゃんは、この子と一緒に育ちました。 だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。 ばってん、みいちゃんば売らんと、この子にお年玉も、  クリスマスプレゼントも買ってやれんとです。 明日は、どうぞ、 よろしくお願いします」 坂本さんは、「この仕事はやめよう。もうできん」と思いました。 そして思いついたのが、明日の仕事を休むことでした。

坂本さんは、家に帰り、みいちゃんと女の子のことを しのぶ君に話しました。 「お父さんは、みいちゃんを殺すことはできんけん、  明日は仕事を休もうと思っとる…」 そう言うと、しのぶ君は「ふ〜ん…」と言って しばらく黙った後、テレビに目を移しました。 その夜、いつものように坂本さんは、しのぶ君と一緒に お風呂に入りました。

しのぶ君は坂本さんの背中を流しながら言いました。 「お父さん、やっぱりお父さんが してやった方がよかよ。 心の無か人がしたら、牛が苦しむけん。 お父さんがしてやんなっせ」坂本さんは黙って聞いていましたが、 それでも決心は変わりませんでした。

朝、坂本さんは、しのぶ君が小学校に出かけるのを待っていました。 「行ってくるけん!」元気な声と扉を開ける音がしました。 その直後、玄関がまた開いて 「お父さん、今日は行かなんよ!わかった?」 としのぶ君が叫んでいます。

坂本さんは思わず、「おう、わかった」と答えてしまいました。 その声を聞くとしのぶ君は「行ってきまーす!」 と走って学校に向かいました。 「あ〜あ、子どもと約束したけん、行かなねぇ」とお母さん。 坂本さんは、渋い顔をしながら、仕事へと出かけました。

会社に着いても気が重くてしかたがありませんでした。 少し早く着いたのでみいちゃんをそっと見に行きました。 牛舎に入ると、みいちゃんは、他の牛がするように角を下げて、 坂本さんを威嚇するようなポーズをとりました。

坂本さんは迷いましたが、そっと手を出すと、 最初は威嚇していたみいちゃんも、 しだいに坂本さんの手をくんくんと嗅ぐようになりました。 坂本さんが、「みいちゃん、ごめんよう。  みいちゃんが肉にならんと、みんなが困るけん。ごめんよう…」と言うと、 みいちゃんは、坂本さんに首をこすり付けてきました。

それから、坂本さんは、女の子がしていたようにお腹をさすりながら、 「みいちゃん、じっとしとけよ。 動いたら急所をはずすけん、 そしたら余計苦しかけん、 じっとしとけよ。じっとしとけよ」 と言い聞かせました。

牛を殺し解体する、その時が来ました。 坂本さんが、「じっとしとけよ、 みいちゃんじっとしとけよ」 と言うと、みいちゃんは、ちょっとも動きませんでした。 その時、みいちゃんの大きな目から涙がこぼれ落ちてきました。 坂本さんは、牛が泣くのを初めて見ました。

そして、坂本さんが、ピストルのような道具を頭に当てると、 みいちゃんは崩れるように倒れ、少しも動くことはありませんでした。 普通は、牛が何かを察して頭を振るので、 急所から少しずれることがよくあり、倒れた後に大暴れするそうです。

次の日、おじいちゃんが食肉加工センターにやって来て、 坂本さんにしみじみとこう言いました。 「坂本さんありがとうございました。 昨日、あの肉は少しもらって帰って、みんなで食べました。 孫は泣いて食べませんでしたが、

『みいちゃんのおかげでみんなが暮らせるとぞ。食べてやれ。 みいちゃんにありがとうと言うて食べてやらな、 みいちゃんがかわいそうかろ?食べてやんなっせ。』 って言うたら、孫は泣きながら、 『みいちゃんいただきます。おいしかぁ、おいしかぁ。』 て言うて食べました。ありがとうございました」 坂本さんは、もう少しこの仕事を続けようと思いました。

ある学校で、保護者の一人から「給食費を払っているのに、 『いただきます』と 子どもに言わせるのはおかしい」 というクレームがあった、との話を聞いたことがあります。

「なんという常識のない保護者なんだ!」と片付けるのは簡単です。 でも、もしもこの保護者が、この話を知っていたとしたら、 どうだったでしょう?

現在の食生活は、「命をいただく」というイメージから ずいぶん遠くなってきています。 そしてその結果、食べ物が粗末に扱われて、日本での一年間の食べ残し食品は、 発展途上国での、何と3300万人分の年間食料に相当するといいます。 私たちは奪われた命の意味も考えずに、毎日肉を食べています。 動物は、みんな自分の食べ物を自分で獲って生きているのに、 人間だけが、自分で直接手を汚すこともなく、 坂本さんのような方々の思いも知らないまま、肉を食べています。

動物だろうが植物だろうが、どんな生き物であっても、 自分の命の限り精いっぱい生き続けたい、 そう願って生きているんだと私は思います。

命をいただくことに対しての「思い」。 お肉を食べて「あ〜、美味しい。ありがとう」 お野菜を食べて「あ〜、美味しい。ありがとう」 そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?

お肉を食べて「うぇ〜、マズッ!」 お野菜を食べて うぇ〜、マズッ!」 そこに生まれる思いはどんな思いでしょう? 食べ物をいただくとき、そこに尊い命があったことを忘れずに、 その命を敬い、感謝の言葉をかけてあげられる人に育ちましょう。

今日もまた、食べられることへの感謝の言葉、 「ありがとうございます。感謝します。いただきます」 食べているときの「美味しい!」という言葉。 そして食べ終わった後の、「あ〜、美味しかった   ありがとうございます。ご馳走さまでした」 という「食べられたこと」への感謝の言葉をかけてあげましょう。 もちろん、食べ残しをせずに。

食べ物が、あなたの体を作ります。 あなたの体に姿を変えて、あなたの中で生き続けます。 そして、体の中からあなたを精いっぱい応援してくれています。 あなたができる最高の恩返しは、たくさんの生き物たちから 命のバトンを託されたあなたの命を、いっぱいに輝かせること。 喜びに満ちた人生を過ごすこと。

それが、あなたと共に生きている たくさんの命たちが、いちばん喜ぶことなんです。
みんなの分まで、命いっぱいに輝きましょう!

出典:西日本新聞社「いのちをいただく」
著者 内田美智子 諸江和美

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一粒の豆よ「ありがとう」






 ヒロインは一人のお母さんです。もう30年近くお目にかかっていませんが、元気でお過ごしになっていると思います。年齢は私とほぼ同じです。十数年前に九州の某所で偶然ばったりとお会いしたきりです。

「あ、暫くでした。お元気で何よりです。お子さん達は?」 「お陰様で無事に暮らしております」 「もう大きくなられたでしょう」 「先生、大きいどころではございません。長男には孫がおりますし、下の子もまもなく結婚します」 「そうですかァ、月日のたつのは早いものですね。あの頃のお子さんは・・・・・」 「はあ、上が小学校の五年生頃でしたかねえ、下の子が三つ年下でしたから・・・・・」

 その二年前にご主人が自動車事故に遭遇しました。のちに私は確認のために事故の現場に立ったことがあるのですが、どちらが悪いのかわからない微妙な事故でした。それにもかかわらず、ご主人は救急車で病院に入りましたが、二時間後に亡くなられ、不幸は追い討ちをかけて、加害者と認定されてしまったのです。相手の方も重傷でした。弁償に当てるために残された家や小さな土地を売り払い、お母さんは二人の幼い子を連れて、知り合いの人の情にすがって、転々と居を移しました。最後にある方のご好意で納屋を提供され、そこに住みました。  中は六畳一間程の広さしかない上に、納屋ですから押入れもありません。電線を引き込んで裸電球をつけました。昼間でも明かりをつけておかないと、室内は真っ暗です。外にあった水道を使わせてもらい、煮炊きは七輪に火を起こしてやりました。

 お母さんは生活を支えるために、朝は五時に起きて朝食の仕度をし、六時には家を出て、近くのビルを一人で各階すべてを掃除する仕事をし、一旦家に戻って食事をすませると、今度は子供達が通う小学校で給食のお手伝いをやり、夜は料亭の板場でお茶碗やお皿を洗うという毎日が、一年中続きました。  ご主人が亡くなられた後の整理もそこに重なって、お母さんの疲労は積み重なっていきました。子供達が二人とも健康で明るい性格であったのがただ一つの救いでしたが、二年もすると、さすがに疲れ果てました。果たしてこれで生きていけるのかしら、いっそのこと子供と一緒に死んでしまったほうが、子供達のためにも幸せであるかもしれないと思い詰めるようになってきました。

 ある日のこと、いつものように朝早く家を出ようとするときに、お母さんはお兄ちゃんがまだすやすや寝ている枕許に、一通の置き手紙を書きました。  ―お兄ちゃん、今夜は豆を煮ておかずにしなさい。七輪に火を起こして、お鍋に豆を浸しておいたからそれをかけて、豆が柔らかくなったら、おしょう油を少し入れなさいー  文字通り薄いせんべい蒲団の中で、体を寄せ合って眠っている二人の子に、もう一度蒲団を寒くないように掛け直すと、まだ暗い中を働きに出ました。

 自殺する人の多くは、瞬時に死を決意するそうですが、その日は普段よりも一層強く子供達と一緒に死んでしまおうとお母さんは意識していたそうです。  どういう風にして手に入れたかは聞いていませんが、お母さんは睡眠薬を多量に買い込んで家に戻りました。心身共に疲れ切っていて、納屋の戸を、すでに寝ている子供達にがたぴしという音を聞かせないように開けるのさえ容易でありませんでした。

 薄暗い豆電球を一つつけただけで二人は眠っていました。普段から電気代を節約しなくては駄目よと言ってあるのを、子供達はよく守っていてくれているようでした。寒いけれども七輪に火を起こす気にもなれず、お母さんは板張りの床の上に敷いたゴザの上に、べったりと座り込んでしまいました。  どうしたらこの子達に睡眠薬を飲ませることが出来るのか、恐ろしい空想が頭の中を駆けめぐりました。

 お母さんはふと気がつきました。お兄ちゃんの枕許に紙が置いてあり、そこに何か書いてあるようなのでした。お母さんはその紙を手に取りました。そこにはこう書かれていたのでした。―お母さん、おかえりなさい。お母さん、ボクはお母さんの手紙にあった通りに豆をにました。豆がやわらかくなった時に、おしょうゆを少し入れました。夕食にそれを出してやったら、お兄ちゃんしょっぱくて食べられないよと言って、弟はごはんに水をかけて、それだけ食べて寝てしまいました。お母さん、ごめんなさい。でもお母さん、ボクはほんとうに一生けんめい豆をにたのです。お母さん、あしたの朝でもいいから、僕を早く起こして、もう一度、豆のにかたを教えてください。お母さん、今夜もつかれているんでしょう。お母さん、ボクたちのためにはたらいてくれているんですね。お母さん、ありがとう。おやすみなさい。さきにねます・・・――

 読み終わった時、お母さんの目からはとめどなく涙が溢れました。「お兄ちゃん、ありがとう、ありがとうね。お母さんのことを心配してくれていたのね。ありがとう、ありがとう、お母さんも一生懸命生きて行くわよ」お母さんはそうつぶやきながら、お兄ちゃんの寝顔に頬ずりをし、弟にもしました。納屋の隅に落ちていた豆の袋を取上げてみると、煮てない豆が一粒入っていました。お母さんはそれを指でつまみ出すと、お兄ちゃんが書いた紙に大切に包みました。

 その時からお母さんは紙に包んだ豆を、いつも肌身離さずに持っています。「もしお兄ちゃんがこの手紙を書いてくれなかったら、私達はお父さんを追って天国へ行っていたことでしょう。いいえ、私だけが地獄へ落とされたと思います。その私を救ってくれたのは、お兄ちゃんの『お母さん、ありがとう』の言葉でした」「今でも?」と聞きますと、お母さんはハンドバックを開けて、すっとあの一粒の豆が入った小さな紙包みを取り出して見せてくれました。

「お兄ちゃんには話したのですか」「いいえ、私がほんとうに死ぬ時に、あの子にありがとうを言うために、それまではそっと自分だけのものにしておきたいと思っています。私の人生の最高の宝物です」  いま、日本の広い空の下に、一粒の豆を包んだ紙を大切に身につけているお母さんが、どこかに一人いるのです。私もお母さんの秘密を守って行きます。私のほうがたぶんお母さんより先にこの世を失礼するはずですので、秘密を守り切れると信じています。

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一度きりのお子様ランチ






東京ディズニーランド・ワールドバザールにあるレストランで実際にあった話です。 二人連れの若い夫婦がレストラン「イーストサイド・カフェ」に食事に行きました。  キャスト(ウェイトレス)が2人を二人がけのテーブルに案内してメニューを渡しました。2人はAセット一つとBセット一つ注文しました。オーダーし終わったとき、奥様が追加注文しました。 「お子様ランチをひとつ下さい」と・・・

キャストは「お客様、誠に申し訳ございませんがお子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文は頂けないのですが・・・」と丁寧に断りました。

 すると二人は顔を見合わせて複雑な残念そうな表情を浮かべました。  その表情を見てとったキャストは「何か他のものではいかがでしょうか?」と聞きました。 すると、二人はしばらく顔を見合わせ沈黙した後、奥様が話出しました。

 「実は今日は昨年亡くなった娘の誕生日だったのです。私の身体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。子供がおなかの中にいる時に主人と3人でこのレストランでお子様ランチを食べようねって言っていたんですが、それも果たせませんでした。子供を亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっとおちついて、亡き娘にディズニィーランドを見せて三人で食事をしようと思ったものですから・・・」

 その言葉を聞いたキャストは2人を四人がけのテーブルに案内しました。 仲間に相談して全員の賛成を得て、お子様ランチのオーダーを受けました。  そして小さな子供用の椅子を持ってきて「お子様の椅子はお父様とお母様の間でよろしいでしょうか?」と椅子をセットしました。その数分後・・・「お客様、大変お待たせしました。ご注文のお子様ランチをお持ちしました」とテーブルにお子様ランチを置いて笑顔で言いました。 「どうぞ、ご家族でごゆっくりお楽しみください」

 数日後、お客様から会社に感謝の手紙が届きました。「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。こんな体験をさせていただくとは夢にも思いませんでした。これからは涙を拭いて生きて行きます。また行きます。今度はこの子の弟か妹を連れて・・・」


「しあわせを感じる喜び」林 覚乗著、文芸社

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おかあさん、ぼくが生まれて ごめんなさい






「母への感謝を綴った詩に涙」というタイトルで石川県に住む主婦、高崎千賀子さんの投書が新聞に掲載され感動の輪が広がっています。  『美術館なんて趣味に合わないし、書道なんてつまらない・・・という女子高生の一団の言葉が、 美術館でボランティア監視員をしていた私の耳に入り、思わず口にしてました。 「あそこにお母さんのことを書いた書があるの。お願いだからあの作品だけは読んでいって」と・・。女子高生たちは不承不承、私の指した書を鑑賞しました。すると一人がすすり泣き、そこにいた生徒全員が耐え切れずに、泣き出したのです。

その書は生まれたときから母に抱かれ背負われてきた脳性マヒの人が、世間の目を払いのけて育ててくださった、 強いお母さんへの感謝の気持ちを綴った詩でした。「今の健康と幸福を忘れていました」と高校生たちは話し、引率の先生方の目もうるんでいました』

この詩の作者は山田康文くん。生まれた時から全身が不自由で書くことも話すことも出来ない。 養護学校の向野先生が康文くんを抱きしめ投げかける言葉が康文くんのいいたい言葉の場合はウインクでイエス、 ノーの時は康文くんが舌を出す。出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけで1ヶ月かかったという。気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。そしてその2ヶ月後、康文くんは亡くなりました。

      ごめんなさいね おかあさん
      ごめんなさいね おかあさん
      ぼくが生まれて ごめんなさい
      ぼくを背負う かあさんの
      細いうなじに ぼくはいう 
      ぼくさえ 生まれなかったら
      かあさんの しらがもなかったろうね
      大きくなった このぼくを 
      背負って歩く 悲しさも
     「かたわな子だね」とふりかえる 
      つめたい視線に 泣くことも
      ぼくさえ 生まれなかったら


      ありがとう おかあさん
      ありがとう おかあさん
      おかあさんが いるかぎり
      ぼくは生きていくのです
      脳性マヒを 生きていく
      やさしさこそが 大切で
      悲しさこそが 美しい 
      そんな 人の生き方を
      教えてくれた おかあさん
        おかあさん
      あなたがそこに いるかぎり

              (山田康文)

 山田康文くんは1960年奈良県桜井市に生まれました。山田家の次男で体重は2,700グラム、家族は大喜びでした。しかし生後12日目から熱が続き黄疸が出てきました。乳首を吸う力がなくお母さんは異常に気づき奈良県立医科大学の門をくぐりました。精密検査の結果は脳性マヒでした。難産で康文くんの脳が酸素欠乏を起こしたか、脳内出血したかが原因でした。お母さんの京子さんは万一を願い数々の病院を廻りました。ハリ、指圧の治療、あらゆる治療法を行いました。宗教団体にも入信しました。   しかし康文くんの症状はいっこうに良くなりませんでした。お母さんは康文くんと一緒に死ぬことを考えました。しかし死を押しとどめたものは家族ぐるみの愛と康文くんの生きる意欲でした。

 康文くんは8歳の時、奈良の明日香養護学校に入学しました。不自由児のための特殊学校で、康文くんも母子入学でした。康文くんは明るい子でクラスの人気者になりました。1975年4月には体の不自由な子供達が集う「タンポポの会」が「わたぼうしコンサート」を開き、康文くんの詩が披露されました。  このコンサートはテレビ、ラジオでも取上げられ森昌子さんが康文くんの詩を歌いました。

 このコンサートのあと、康文くんは突然天国に行ってしまいました。窒息死でした。横になって寝ていたとき、枕が顔を覆ってしまったのです。お母さんは毎日泣き通しでした。  康文くんの死後、お母さんの京子さんは「たんぽぽの家」の資金集めに奔走し、兄の英昭さんは脳性マヒの治療法を研究するため医大に進みました。

 平成12年1月、七尾市にある願正寺の住職で書道家の三藤観映さんが康文くんの詩を読み感動して筆を取りました。金沢市で開催された「現代美術展」に出展した三藤さんの作品は多くの人に感動を与えました。  今から30年ほど前の詩が三藤さんの書によって多くの人の感動を呼び、絶版になっていた『お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい』が25年ぶりに復刊しました。

 康文くんの先生で、この本の著者の向野幾代さんは復刊にあたって「あの子の詩は障害者が『ごめんなさいね』なんて、言わなくてもすむような世の中であってほしい、というメッセージ。今もこうして皆さんの心に、呼びかけているんですね。いま、障害者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。  『老いる』というのは、障害が先送りされているということ。歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障害になったり・・・健常者の方も、たいていはいつか障害者になるんですよ。だから康文くんたちは私たちの先輩。世の中をより良くするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」と・・・

参考:『お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい』

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とある社長の「決断」







ある町に小さな建設会社を営む男性がいました。
人手も少なくいつ倒産してもおかしくない会社でした。

ある日、営業回りしていた男性は営業先に行く途中大きな事故に遭遇してしまいました。
何人も運ばれていく中、輸血を必要とする人もいました。

その中に珍しい血液型の人がいました。
奇しくも自分の血液型と一致してるとわかった男性は医者に言いました。

「自分の血を使ってほしい。」

その日午後から大事な商談が入っていましたが採血の為、キャンセルしました。

その日の夜男性は妻に1日の出来事を話しました。
笑いながら冗談まじりに話しました。

妻は涙を浮かべました。

男性はそれに気付き
「ごめんな、せっかくの儲け話が、こんな俺のせいで…」

妻は言いました。
「私は、社長の貴方についてきたんじゃない。貴方という人間についてきたのよ。嬉しくて涙がでたのよ。だってこんな素晴らしい人と一緒にいれて私は幸せ者なんだもの。」

数年後、会社は倒産はしましたが、この夫婦は笑顔の絶えない幸せな日々を送るのでした。

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無力な大人








1月の朝がとても寒い時に必ず思い出す少年がいます。
当時、私は狭心症で休職して九州の実家にて静養していた時でした。
毎朝、デッカイ黒のラブラドールレトリバー愛犬テツと散歩していた時にいつも遅刻して実家の前の中学校に通ってた少し不良な少年の事です。

いつの間にかテツと仲良くなり、私ともよく言葉を交わすようになりました。
家庭環境は複雑みたいですが、よく部屋に遊びに来るようになったのです。

しかし、何を語るわけでなくテツと部屋でよく遊んでました。
2月、3月と時が過ぎていき次第にその少年は不良のボルテージが上がり髪も染めていきました。
でも私の部屋ではいつも純粋な少年の目で、テツと遊びよく笑ってます。

そんな時でした、急に部屋に遊びに来なくなり、学校にも行ってないようで心配しておりましたら突然夜中に部屋に来て、さよならを言いに来たと言うのです。
どうしたのか聞いてもうつ向いたままでテツの頭を悲しそうに撫でて部屋をでました。
やっとあったかな春が来たのにそれから少年は来なくなりました。
あったかくなったら遠くまでテツと一緒に散歩に行こうって約束をしていたのに来なくなりました。
何があったんだろう…とても心配な気持ちで何故かテツも寂しそうな顔に見える毎日を過ごしておりまた。

半年が過ぎ、もうすぐで1年がたとうとしてるまだ寒い時期。
いつしかその少年の事も気にしなくなっていた頃、寒かった夜のことです。
愛犬テツが寿命を全うし静かに眠っていきました。
寂しさで胸が引き裂かれそうな思いでした。
こんなにも家族同然に育ったテツと別れることが悲しいものなのかととても落ち込んでいました。

そんな悲しみのどん底であったと思いますが何もしたくなく、何もできなく、何も考えられないほど私は悲しみの底に沈んでいた時のことです。
1年前にこなくなったあの少年が急に部屋に遊びにきました。



私はその少年の顔を見てなぜこんなに明るい顔になったんだろう?
何があったんだろう?

とても興味を引かれながらテツが亡くなった事を告げると少年は笑顔から一変して顔をクシャクシャにして周りも気にしないほど大きな声を出して泣いてます。
わたしも、涙がこぼれました。
テツとの別れを私と同じように悲しんでくれる少年の思いに泣いてしまいました。
良かったなテツ!
おまえの事をこんなにも想っていてくれた人いたよ。
嬉しいな!
会いたかったよな!
また遊びたかっただろうな!
私と少年は悲しみを共有して泣き続けました。

どれくらい時間が経ったのか、少年がポツリポツリと語り始めました。

両親の仲が悪く、家にいたくない事から不良仲間とつるんで犯罪を犯し、昔で言う少年院に入ってたようで、半年で出られるのに親が引き取り拒否をして学園と言う親と一緒に過ごせない子供たちが生活する施設に入っていたようです。
そうだったのか…いろいろあったんだねー… 。
と話をお聞きながら私はなぜ帰ってきてそんなに明るい笑顔になったのかを疑問に持ち聞いてみました。



多くを語る少年ではありませんが、その話を精一杯私に話してくれました。

その話があまりに私に衝撃を与え、またとてもかけがえのない素晴らしい人間の愛情を感じたのでここで紹介をして終わります。

半年の少年院が終わって両親からの引き取り拒否をされ寂しい思いで学園と言う施設に行ったそうです。
施設に長期は入れるわけがないらしく3カ所目の施設に行った時の話です。

その施設には4歳から5歳になる小さな男の子がいて、その男の子がとてもその少年になついてきたそうです。
最初はびっくりし、どうしていいかわからないままで生活をしていましたが、先生から、君になついているのでお兄ちゃんみたいにお世話をしてあげなさい。
他のお兄ちゃん達には懐かない子だから大事にしてあげてね。
と言われたそうです。

その子供はすごくわがままらしく手を焼いていた時のことです。
一緒にお風呂に入るとその子供の背中に違和感を感じました。

背中に何度も何度も何度も何度も同じところにタバコを押し当てられたようなケロイド状のアザがたくさんあったそうです。
その少年はその子供のアザを見て涙がでてきたそうです。
こんなにちっちゃいのにこんなにひどい目にあったのか。
どれだけ悲しかっただろう。
どれだけ痛かっただろう。
辛かったろうなぁ… 。
自分が両親からされたことに比べたらこんなにちっちゃい子がこんなにかわいそうなふうになるまで… 。
それを考えたら涙が幾度も幾度も流れてきて止まらなくなったそうです。

その子供がびっくりしてその少年に聞いたそうです。
どうしたのお兄ちゃん。

ゆうくん痛かっただろう…
うんにゃー覚えてないよ。
痛かったかどうかも覚えてないよ。

それを聞いて少年は涙が止まらなくなったそうです。
僕だけじゃないんだ。
僕だけが辛いんじゃないんだ。
僕だけが悲しいんじゃないんだ。
悲しいなぁこんなに心ちいちゃかったんだ。

それからはその少年は子供と仲良く毎日元気に施設で頑張ったそうです。
明るく笑顔が絶えないそーゆー生活を過ごしたそうです。

そして、その少年がその施設を出る時のことです。
その子供がその少年から離れません。
お兄ちゃん行かないで。
お兄ちゃん行かないで。
泣きながら泣きながらその子供がその少年にすがりついてくるそうです。
その少年もどうしていいかわからずただただその子供の目を見つめて抱きしめるだけでした。

すると先生が、お兄ちゃんは今からがんばるために行くんだぞ。
だからそのゆうくんの大好きなお兄ちゃんががんばるんだからゆうくんもここで頑張んなくっちゃね!
ゆうくんがここで頑張れなかったらお兄ちゃんは凄く悲しいと思うよ。

するとその子供は涙をふき取りふき取り小さい声で、ぼくがんばるお兄ちゃんぼくがんばるお兄ちゃんぼくがんばるから!

すがりついていたその子どもは、お兄ちゃんから1歩離れて最後は大きな声で言ったそうです。
ぼく泣かないで頑張るからね!
その少年はこらえていた涙がもう我慢できなくなったそうです。その場に崩れてしまったそうです。

よっしゃ!
頑張ってこい!
先生から声をかけられて我に戻り、その場を去って行ったそうです。

そう語り終わった少年の涙はキラキラ輝いていました。

大人の自分がこんなにも頼りないものなのかと、とても反省させられました。
この子たちの信頼関係
この子たちの出会いと別れ
こんなにも素晴らしい人間としての愛があるのかと

いつまでも忘れられない思い出として反省し、
心を洗われるこの思い出を大切にしていきたいと感じる1月の寒い夜のことです。

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父からのmail







今年3月に定年を迎えた父に兄と私で携帯電話をプレゼント。

退職前は携帯などいらんと言っていたがうれしそうだった。

使い方に悪戦苦闘の父に一通り教えてまずメールを送ったが返事はこなかった。

その4月に電車事故で孫の顔も見ずに突然の死。

40年働き続けてホッとしたのはたったの2ヶ月。

葬式後父の携帯に未送信のこのメールを発見した。

最初で最期の私宛のメール。私は泣きながら送信ボタンを押した。

私の一生の保護メールです。

「お前からのメールがやっと見られた。返事に何日もかかっている。
お父さんは4月からは毎日が日曜日だ。孫が生まれたら毎日子守してやる。」


父さん、おつかれさま。そして、ありがとう。

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本当にありがとう






本当に悪さばかりをしてきた。お父さんとお母さんは離婚。
大人の勝手な行動に親がだいっきらいだった。
すぐ喧嘩をしては殴り合い
学校のガラスを割ったり
先生を殴ったりして
毎日のようにお母さんは
いろんな人に頭を下げていた。家には帰らず毎日夜うろうろしていた15歳
行く気もなかった高校になんとなく行って…
なんども退学になりかけて…

でも
自分の子どものときの寂しさを子どもたちにさせたくない
そんな思いがこみ上げてきた18歳の春。短大に進み最高の仲間に出会い
今年保育士という最高の職業に出会った
毎日毎日子どもと触れ合い最高の日々
でもそれには親がいてくれたから。大きくなればなるほど気づく…今までは憎い思いしかなかったのに…
本当にありがとう
口では言えんけど…

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2-1=0







私には父と母と中学一年生の弟がいて、私が高二の頃までは ごく普通で平凡な生活を送っていた―…

多分…私が高三になった頃から両親がお互い何も話さなくなってて、気付いたときには家族みんなで笑って食事することも、家族みんなで寝ることも、みんなで旅行に行くこともなくなってた…。

一番大好きだった場所がいつの間にか嫌いになって、家にいるだけで息がつまるようになり、自分でも知らないうちに親にも気を使うようになっていた。

そんな毎日が続いて、今までありえなかったことが「当たり前」になってしまい、そんな家族が嫌で私は家を出て彼氏の家に泊まったり、友達とオールしたり…しばらく家には帰らなかった。

そんなある日…いつもなら何も言わない母から「帰っておいで」のメール。

とりあえず理由を聞いた。



返ってきたメールを見た瞬間…真っ先に目に入ったのは「離婚」という二文字。

…今まで考えたことなんかなかった親の離婚。いつか家族が元に戻る日が来るのを勝手に信じていた自分が情けなくて…それよりも悔しくて悲しくてひたすら涙があふれた。

やっと落ち着いた頃…家に帰ると私以外の家族がリビングのテーブルを囲んで無言のまま座っていた。

それは、つい半年前の当たり前だった光景。ただ何かが違うだけなのに…。私は何も言えずにただ立っているのが精一杯で。

しばらくすると母が口を開き、私がいつも座っている椅子を指差して優しい声で「しほ」と言った。

私は、震える声で「…はい」と返事をし、椅子に座った。

何秒か沈黙が続き…自分の心臓の鼓動と時計の秒針だけが、静かに聞こえていた。

緊張感の中、ようやく父が口を開き「…ごめんな」と呟いた。

そのあと母が言った言葉は「二人とも お父さんとお母さん… どっちにつく?」

もう だめなんだ…

(どっちかなんて選べない。私にとってお父さんとお母さんは二人で一つなんだよ…?選びたくないよ…)

必死で涙をこらえて
心の中で泣いていた…

そして見つけた
私の方程式は
『2−1=0』

2から1を引いちゃうと…もう何にもなくなっちゃうんです。

だから私はどちらも選びませんでした。と言うより、選びたくなかったんです。

毎日一生懸命働いてくれたお父さん。

私を産んでくれて18年間育ててくれたお母さん。

自分には、そんな二人を選ぶ資格なんかないと思いました。結局 戸籍上は、母の方になったけれど、私は彼氏と同棲することにしました。

今では月に2、3回程度ですが、父とご飯を食べに行ったり母と買い物に行ったりしています。

でもやっぱり寂しくて、彼氏や友達の前だけは我慢しきれずに泣いてしまうこともあるけど、両親が幸せなら私はそれで充分だと思いました。

家族は、離れ離れになっても絶対に途切れることのない大きなものなんだなぁと改めて実感することができました。

お父さん、お母さん

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