2018年01月16日
ゆう子でREIKOを思い出す
新年早々、巷を駆け巡った「浅野ゆう子結婚」という実におめでたいニュース。
浅野ゆう子様といえば、40代の私が物心ついたころからすでに芸能界で活躍されているお方だが、今でこそ飾らない自然な雰囲気が魅力な彼女も、私が子供の頃は、どちらかといえばケバケバしいイメージの方だった。「沖縄サンバ」とかいう曲を歌っていたころだったろうか。見た目もなんというか、殿方が鼻血を出して喜びそうな類の雰囲気の方であったし、話し方も、海外生活が長い人が日本語をちょっと忘れてしまった風な喋り方をするので、股下1メートルともいわれた超絶プロポーションも手伝って、子ども心に「この人外国の人なんかな?」と思っていたこともあった。
そういうわけだったので、後年のゆう子様におとずれた、ナチュラル系の急先鋒のようなかたちでの唐突な大ブレイクのしかたは、個人的にはちょっとした驚きであった。「トレンディドラマの女王」と呼ばれ、'90年前後のあたりは、浅野温子、田中美佐子などと並んでドラマに出ずっぱりだったように思う。その出演作品は枚挙に暇がないほどだが、なかでもやはり代表格なのが、浅野温子との「W浅野」共演で話題となったドラマ「抱きしめたい!」だろう。今回の結婚の報道時も、この「抱きしめたい!」の過去映像が幾度となく映し出されていた。そしてその懐かしい映像とともに流れていたのが、これまた懐かしいこのドラマの主題歌、カルロス・トシキ&オメガトライブの「アクアマリンのままでいて」である。
「カルロス・トシキ&オメガトライブ」は、前身バンドの「杉山清貴&オメガトライブ」解散後、その後を引き継ぐようなかたちで、ブラジル生まれの日系3世、カルロス・トシキを新たなメインボーカルに迎え「新生オメガトライブ」として誕生したバンドだった。もっとも、デビュー時のバンド名は、その誕生年にちなんだらしく「1986オメガトライブ」であった。後になぎら健壱風のギタリストが脱退したのを機に、何かどさくさにまぎれるようなかっこうで「カルロス・トシキ&オメガトライブ」と名前が変わる。
「アクアマリンのままでいて」は、その改名後に、第2弾シングルとして発表された曲だった。この頃には一頃の熱を帯びたような人気も一段落した感じで、もはやピークは過ぎたかのような印象も正直否めなかったが、この曲で再び機運を盛り返したような感があった。それにしても、今改めて聴いても、文句なしの良曲である。大好きだ。
この曲が発売になったのが、ちょうど30年前の1988年夏。実はこの頃に、バンドには一つの新しい動きがあった。新メンバー、サイドボーカル担当のジョイ・マッコイの加入である。
ベストアルバム 1986オメガトライブ/カルロス・トシキ&オメガトライブ スーパーベスト・コレクション WQCQ-159より。右から2番目がジョイ・マッコイ。
これには驚いた。ジョイ・マッコイは、その直前まで、杏里のサポートメンバーをつとめていた人物だったからだ。この頃の杏里は、男女2人から成るコーラスをサイドにしたがえ、3人で揃いのステップを踏みながら楽曲を歌うというスタイルが定番だったが、そのコーラスの一人がジョイ・マッコイだった。曲でいえば、ちょうど杏里が「HAPPY ENDでふられたい」をスマッシュヒットさせていた頃である。しかも彼の才能は歌だけにとどまらず、ダンスも踊れば、「LAST PICTURE SHOW」という英語詞の曲では、訳詞も担当。杏里が1987年に発表したアルバム「SUMMER FAREWELLS」では、なんと3曲も作曲で参加しており、どれもなかなかの秀曲である。
SUMMER FAREWELLS(杏里)
1987年発表の、杏里の通算11枚目のオリジナル・アルバム
センスの良いジャケット写真が印象的で、思わずジャケ買いしたくなる一枚だが、中身も期待を裏切らない。
完成度の高い楽曲が並ぶ、おすすめのアルバム
そんなわけで、当時のジョイ・マッコイのいきなりの華麗なる転身は、個人的にはかなりびっくりな出来事だったが、今思い返せば、このころ「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに登場した杏里が、自分の次に、お友達としてカルロス・トシキを紹介していたりしたので、当時、双方にはそれなりの交流があったのだろうと思われる。そういえば、カルロスが「アクアマリンのままでいて」の歌い出しで見せるステップは、杏里が歌う際に多用していた、左右に動くステップとよく似ていた。今思えば、両者ともジョイ・マッコイのダンスの影響を多分に受けていたのかもしれない。
オメガトライブの正式メンバーとなり、さっそく伸びやかなコーラスを披露していたジョイ・マッコイ。しかし、これだけで驚いてはいられなかった。このあと最大の珍事が起こる。
1988年秋、「アクアマリンのままでいて」に次ぐシングル曲として、ある楽曲が発表される。
タイトルは「REIKO」。今までの都会的なAOR寄りのサウンドとは趣を異にした、ブラックミュージック色の濃い曲だった。
しかし、この「REIKO」がちょっとスゴすぎた。
なんとこの曲でリードボーカルをとったのは、新メンバーのジョイ・マッコイ。デビュー以来、ずっとメインをはってきたカルロスが後ろに下がったのである。しかも、ギターのようでギターじゃない、なんかヘンな楽器持って・・・。私の中ではまごうことなき「珍曲」の一曲である。
いったいどうしてこんな事態になったのか。今思えば、この1988年という年は、その前年にマイケル・ジャクソンがソロでの初来日を果たして大いに盛り上がった年だったし、久保田利伸が大ブレイクした年でもあった。明らかにブラックミュージックに対する注目が高まりつつあった時期で、邪推だが、どうもその時勢に乗っかろうとしていたのではないかと思われる。
マイケル・ジャクソンばりのダンスを披露しながら、流暢な日本語を駆使し、歌い踊るジョイ・マッコイ。歌も踊りも上手だし、曲もサウンド自体は決して悪くない。しかしこの「REIKO」という曲、歌詞が圧倒的にヘンな歌だった。
歌い出しが「Reiko 柳腰のファンキーガール」である。
柳腰…。私の中では、美空ひばりや春日八郎の歌でしかお目にかからないようなイメージの言葉である。(よく考えたら桑田佳祐とかも使いそうだ)美人を形容する美しい日本語であることには違いない。しかし、オメガトライブの曲の世界観にはどうにもそぐわない言葉であった。この曲に対する言い知れぬ違和感はそればかりではなかったが、結局、この「REIKO」はあまりヒットしなかったようで、バンド人気も、この曲を境に徐々に凋落。1991年に「カルロス・トシキ&オメガトライブ」は解散する。この年は私がちょうど、進学を機に地方から上京をはたした年であったが、上京後にさっそく遊びに出かけた都心の某所で、偶然目撃した記念すべき有名人第一号が、カルロス・トシキであった。カルロスは、ギラギラ芸能人オーラを発するでもなく、かといって、全く華がないわけでもなく、自然な雰囲気で街の風景にとけこんでいた。オメガトライブが解散し、彼の姿をメディアで見かけることはほとんどなくなっていた頃だったので、なんだか妙に感慨深かったのを覚えている。
あれからかなりの時が経った。
浅野ゆう子様は、変わらず安定の女優人生を歩まれ、今年めでたく結婚。カルロスは、祖国ブラジルに帰って農業家に転身し、にんにく栽培のエキスパートとして、何やら大成功しているとか。そして気になるジョイ・マッコイだが・・・。オメガトライブ解散後の動向がほとんど不明である。B'zのコンサートに参加していたらしい…という話もあるが、もうすでに音楽の世界から身を引いているとするなら、なにか器用貧乏に終わってしまった人のような気がしてしょうがない。どこかで元気に、願わくばまだ音楽やっていることを祈るばかりである。
オメガトライブ・ヒストリー: グッドバイ・オメガトライブ 1983-1991
杉山時代とカルロス時代のオメガトライブの代表曲が一度に楽しめる、お得感のあるベストアルバム。「REIKO」は英語バージョンのみ収録。
浅野ゆう子様といえば、40代の私が物心ついたころからすでに芸能界で活躍されているお方だが、今でこそ飾らない自然な雰囲気が魅力な彼女も、私が子供の頃は、どちらかといえばケバケバしいイメージの方だった。「沖縄サンバ」とかいう曲を歌っていたころだったろうか。見た目もなんというか、殿方が鼻血を出して喜びそうな類の雰囲気の方であったし、話し方も、海外生活が長い人が日本語をちょっと忘れてしまった風な喋り方をするので、股下1メートルともいわれた超絶プロポーションも手伝って、子ども心に「この人外国の人なんかな?」と思っていたこともあった。
そういうわけだったので、後年のゆう子様におとずれた、ナチュラル系の急先鋒のようなかたちでの唐突な大ブレイクのしかたは、個人的にはちょっとした驚きであった。「トレンディドラマの女王」と呼ばれ、'90年前後のあたりは、浅野温子、田中美佐子などと並んでドラマに出ずっぱりだったように思う。その出演作品は枚挙に暇がないほどだが、なかでもやはり代表格なのが、浅野温子との「W浅野」共演で話題となったドラマ「抱きしめたい!」だろう。今回の結婚の報道時も、この「抱きしめたい!」の過去映像が幾度となく映し出されていた。そしてその懐かしい映像とともに流れていたのが、これまた懐かしいこのドラマの主題歌、カルロス・トシキ&オメガトライブの「アクアマリンのままでいて」である。
「カルロス・トシキ&オメガトライブ」は、前身バンドの「杉山清貴&オメガトライブ」解散後、その後を引き継ぐようなかたちで、ブラジル生まれの日系3世、カルロス・トシキを新たなメインボーカルに迎え「新生オメガトライブ」として誕生したバンドだった。もっとも、デビュー時のバンド名は、その誕生年にちなんだらしく「1986オメガトライブ」であった。後になぎら健壱風のギタリストが脱退したのを機に、何かどさくさにまぎれるようなかっこうで「カルロス・トシキ&オメガトライブ」と名前が変わる。
「アクアマリンのままでいて」は、その改名後に、第2弾シングルとして発表された曲だった。この頃には一頃の熱を帯びたような人気も一段落した感じで、もはやピークは過ぎたかのような印象も正直否めなかったが、この曲で再び機運を盛り返したような感があった。それにしても、今改めて聴いても、文句なしの良曲である。大好きだ。
この曲が発売になったのが、ちょうど30年前の1988年夏。実はこの頃に、バンドには一つの新しい動きがあった。新メンバー、サイドボーカル担当のジョイ・マッコイの加入である。
ベストアルバム 1986オメガトライブ/カルロス・トシキ&オメガトライブ スーパーベスト・コレクション WQCQ-159より。右から2番目がジョイ・マッコイ。
これには驚いた。ジョイ・マッコイは、その直前まで、杏里のサポートメンバーをつとめていた人物だったからだ。この頃の杏里は、男女2人から成るコーラスをサイドにしたがえ、3人で揃いのステップを踏みながら楽曲を歌うというスタイルが定番だったが、そのコーラスの一人がジョイ・マッコイだった。曲でいえば、ちょうど杏里が「HAPPY ENDでふられたい」をスマッシュヒットさせていた頃である。しかも彼の才能は歌だけにとどまらず、ダンスも踊れば、「LAST PICTURE SHOW」という英語詞の曲では、訳詞も担当。杏里が1987年に発表したアルバム「SUMMER FAREWELLS」では、なんと3曲も作曲で参加しており、どれもなかなかの秀曲である。
SUMMER FAREWELLS(杏里)
1987年発表の、杏里の通算11枚目のオリジナル・アルバム
センスの良いジャケット写真が印象的で、思わずジャケ買いしたくなる一枚だが、中身も期待を裏切らない。
完成度の高い楽曲が並ぶ、おすすめのアルバム
そんなわけで、当時のジョイ・マッコイのいきなりの華麗なる転身は、個人的にはかなりびっくりな出来事だったが、今思い返せば、このころ「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに登場した杏里が、自分の次に、お友達としてカルロス・トシキを紹介していたりしたので、当時、双方にはそれなりの交流があったのだろうと思われる。そういえば、カルロスが「アクアマリンのままでいて」の歌い出しで見せるステップは、杏里が歌う際に多用していた、左右に動くステップとよく似ていた。今思えば、両者ともジョイ・マッコイのダンスの影響を多分に受けていたのかもしれない。
オメガトライブの正式メンバーとなり、さっそく伸びやかなコーラスを披露していたジョイ・マッコイ。しかし、これだけで驚いてはいられなかった。このあと最大の珍事が起こる。
1988年秋、「アクアマリンのままでいて」に次ぐシングル曲として、ある楽曲が発表される。
タイトルは「REIKO」。今までの都会的なAOR寄りのサウンドとは趣を異にした、ブラックミュージック色の濃い曲だった。
しかし、この「REIKO」がちょっとスゴすぎた。
なんとこの曲でリードボーカルをとったのは、新メンバーのジョイ・マッコイ。デビュー以来、ずっとメインをはってきたカルロスが後ろに下がったのである。しかも、ギターのようでギターじゃない、なんかヘンな楽器持って・・・。私の中ではまごうことなき「珍曲」の一曲である。
いったいどうしてこんな事態になったのか。今思えば、この1988年という年は、その前年にマイケル・ジャクソンがソロでの初来日を果たして大いに盛り上がった年だったし、久保田利伸が大ブレイクした年でもあった。明らかにブラックミュージックに対する注目が高まりつつあった時期で、邪推だが、どうもその時勢に乗っかろうとしていたのではないかと思われる。
マイケル・ジャクソンばりのダンスを披露しながら、流暢な日本語を駆使し、歌い踊るジョイ・マッコイ。歌も踊りも上手だし、曲もサウンド自体は決して悪くない。しかしこの「REIKO」という曲、歌詞が圧倒的にヘンな歌だった。
歌い出しが「Reiko 柳腰のファンキーガール」である。
柳腰…。私の中では、美空ひばりや春日八郎の歌でしかお目にかからないようなイメージの言葉である。(よく考えたら桑田佳祐とかも使いそうだ)美人を形容する美しい日本語であることには違いない。しかし、オメガトライブの曲の世界観にはどうにもそぐわない言葉であった。この曲に対する言い知れぬ違和感はそればかりではなかったが、結局、この「REIKO」はあまりヒットしなかったようで、バンド人気も、この曲を境に徐々に凋落。1991年に「カルロス・トシキ&オメガトライブ」は解散する。この年は私がちょうど、進学を機に地方から上京をはたした年であったが、上京後にさっそく遊びに出かけた都心の某所で、偶然目撃した記念すべき有名人第一号が、カルロス・トシキであった。カルロスは、ギラギラ芸能人オーラを発するでもなく、かといって、全く華がないわけでもなく、自然な雰囲気で街の風景にとけこんでいた。オメガトライブが解散し、彼の姿をメディアで見かけることはほとんどなくなっていた頃だったので、なんだか妙に感慨深かったのを覚えている。
あれからかなりの時が経った。
浅野ゆう子様は、変わらず安定の女優人生を歩まれ、今年めでたく結婚。カルロスは、祖国ブラジルに帰って農業家に転身し、にんにく栽培のエキスパートとして、何やら大成功しているとか。そして気になるジョイ・マッコイだが・・・。オメガトライブ解散後の動向がほとんど不明である。B'zのコンサートに参加していたらしい…という話もあるが、もうすでに音楽の世界から身を引いているとするなら、なにか器用貧乏に終わってしまった人のような気がしてしょうがない。どこかで元気に、願わくばまだ音楽やっていることを祈るばかりである。
オメガトライブ・ヒストリー: グッドバイ・オメガトライブ 1983-1991
杉山時代とカルロス時代のオメガトライブの代表曲が一度に楽しめる、お得感のあるベストアルバム。「REIKO」は英語バージョンのみ収録。
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