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2014年02月27日

孔子巡礼の旅(9)周公廟

車夫は続けて私を壽丘へと案内してくれた。そこは古代の王で漢民族の祖先として知られる黄帝の誕生地という伝説があり、それを記念する宋代に建てられたという巨大な石碑がある。ここは曲阜旧城のすぐ近くであり、古代よりこの地に文明が栄えていたことを示す。

寿丘

その奥には少昊稜と呼ばれるピラミッド型の古墳がある。少昊というのは伝説上の帝王であるが、孔子より2000年以上前の人物であり漢民族の祖と言われる黄帝の子孫に当たる。

少昊

その後に車夫は私をすぐ傍にある魯国故城遺跡へと案内した。ここには周公旦とその子供の伯禽を祭る廟がある。魯国は孔子が夢にたびたび見たという周公旦に与えられた国であったが、周公旦は国政に忙しかったので子供の伯禽を魯の王として統治させた。孔子にとって周公旦とは魯の国の開祖であり、その君主を重んじる思想からしても自身の政治的出世のためにも崇敬せざるを得ない存在であった。
周公廟
周公


周公旦は殷を滅ぼして周を建国した文王の四男であり、周の武王や太公望と共に周の建国に最大の功績を残している。さらに武王が逝去した後に幼い成王を補佐する摂政として、親族の反乱を鎮圧して周の繁栄の礎を築いた。周の文化を創設する上で最も功があったのは周公旦である。周公旦は礼楽制度の基礎を据えただけでなく、初めて徳を礼に組み込んだ思想家でもあった。それゆえ孔子は周公旦を夢に見るほど崇敬し、周公旦を才徳が完備した人だと賞賛した。晩年に孔子は周公旦を夢に見なくなったことで自分の余命の短さを悟り嘆いている。下は曲阜周公廟に祭られている周公旦の象である。
旦

周王朝の成立や周公旦について知りたければ封神演義あたりから見るのがいいだろう。
横山光輝のマンガ版の『殷周伝説』が面白くて読みやすい。

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孔子巡礼の旅(8)孔子研究院

孔子研究院は博物館や会議場などから構成された立派な建物が立ち並ぶ広大な敷地にある。また孔子研究院の傍には孔子文化園があり広大な散歩道となっている。

孔子文化園

数年に一度学術会議が開かれる際には会場として使用され賑わうようだが、普段は観光客が時折やってくるくらいで閑散としていた。孔子研究院の中にある博物館にもさほど目を引く展示物はなく、土産物屋で曲阜の地図を買うと目指す舞雩台に向かおうと出口へと向かった。

孔子研究院

孔子研究院の出口には観光客目当ての人力車が待機しており、熱心に声をかけてきたのでそのうちの一人に案内してもらうことにした。目標は孔子がしばしば散歩などに出かけた舞雩台だ。そこは儀式や遊楽の際に孔子がしばしば訪れた場所で、古代においては川沿いの小高い丘となっていたようだ。

舞雩台

現在も舞雩台にはこんもりとした小さな築山が残っており周囲を低い欄干で囲まれている。車夫に築山の中に入れないかと尋ねると裏から見つからないように欄干を越えて入れば問題ないだろうとのことであった。そこで裏から欄干を越えて中に入ると築山の頂上には碑石が立っており、わずかにそこが古代に孔子が訪れた場所であることを示していた。

舞雩台

この舞雩台については論語に次のようなエピソードがある。孔子を子路、曾ル、冉有、公西華が訪れた際に、孔子は彼らに政府に重用されたら何をするつもりかと尋ねた。子路はもし自分が仕官して三年もすれば外敵に攻められ飢餓に苦しんでいる国でも、立派に立て直して勇敢で礼儀のある国にしてみせましょうと言った。冉有はもし自分に三年あれば小国の経済を振興して人々を富ませることができましょうと答えた。公西華は礼服を着て礼帽を身に着け儀式に参加したいと希望を述べた。最後に曾ルに志を尋ねると、春に春服を着て数名の青年と少年を引き連れて沂水で身を清めて舞雩台に上って舞い、人々と歌い家に帰るのが私の希望ですと答えた。孔子は曾ルの話を聞くと感嘆して、「私は曾ルの考えに賛成だ」と述べた。つまり舞雩台は孔子のお気に入りの場所だったということだ。

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孔子巡礼の旅(7)孔子誕生の地ー尼山

孔林の出口でタクシーを拾った私はバスターミナルへと向かった。孔子の名前の由来ともなっている尼山に詣でるためバスに乗るためであった。尼山はまた尼丘とも呼ばれ、孔子の本名が仲尼とか仲丘と呼ばれるのはこの尼山にちなんでいる。

尼山は曲阜の町からバスで40分ほど離れた郊外に位置している。バスターミナルで「夫子洞」行きのバスの乗車券を購入してバスに乗り込む。「夫子洞」とは孔子の名前「仲尼」の由来となった尼山の麓にある洞窟で、孔子の母親がここで孔子を生んだという伝説がある洞窟である。

夫子洞夫子洞の中

バスは曲阜の南へ向けて走っていくが、狭くあまり整備されていない畑の広がる田舎道へ入っていく。バスに乗っていた乗客は途中の村や集落で次々と下車し、バスの中の乗客はとうとう私一人となった。バスの運転手が「どこまでいくんだい?」と尋ねるので、「孔子の生誕場所まで」と答えるとバスの運転手も納得した様子であった。

尼山

集落が途切れた道の奥のカーブを曲がると前方に沢山の村人たちが集まってお祭りをしている様子が見えてきた。今日は新春の山開きのお祭りで屋台などが出て村人総出で賑わっているのであった。運転手に帰りの便もバスがあるかと確かめると、「夕方まで一時間に一本バスが出ている」という答えだったので安心してバスを降りた。もしバスがなければ車もほとんど通らないこの田舎道でタクシーを拾うのは相当に困難であろう。

尼山は現在きれいに公園として整備されているが、周囲は畑が広がり車の通りもほとんどないような田舎の山奥にある。今日は新春の開園記念として地元民には特別に無料で開放されているようで、村人たちは身分証明書を門衛に見せると入場を無料で許されていた。私は外国人なので門衛に入場券を購入して入園するよう言われ入場券売り場に行ったが、売り場の女性が怪訝そうな顔で私のパスポートを見ていた。曲阜から尼山までは相当離れているから、ここまで観光に訪れる外国人は珍しいのであろう。尼山には孔子の父親や先祖たちを祭る廟が建てられていた。

尼山

孔子の父親はこの尼山のほど近い村でいわば村長をしていたが、孔子が生まれた時にはすでに老齢に達しており60過ぎであったという。母親の顔氏もまたこの尼山の付近で孔子を生んだが、母親の顔氏のほうはまだ十代のうら若き乙女であった。歴史家の司馬遷が孔子の両親の関係を「野合」と記録していることからすると二人の結婚は正式なものではなかったようだ。

また孔子も母の死まで父親が誰かを知らなかったというから、孔子の誕生には複雑な家庭の事情があったようだ。尼山のふもとの夫子洞には伝説があり、孔子の父親は孔子があまりにも容貌が醜いのでこの洞窟に孔子を捨てたが鷹と虎が孔子に食べ物を運んで孔子を飢えから救ったという。この伝説にも孔子の誕生が周囲から祝福された幸福なものではなかったことが反映されているように思える。

尼山公園

尼山公園を一通り見て回ると、私は帰りの尼山公園の奥にあるバス発着所に向かった。バスの発着所には待合室を兼ねた寂れた食堂がある。15分ほどバス車内で待つと運転手が待合室から出てきて乗り込み、バスは曲阜の町へ向けて走り始めた。帰りのバスの車窓から孔子の生誕地の周囲を目に焼き付けるべく周囲の風景を眺めた。

少し離れた山間に大型ホテルと観光施設を建設する計画があるらしく、工事中の大きな建設機械と建物の基礎が見えた。さらに尼山の近くには大きな河川が流れておりダムがあり、バスはその付近を通る。中国の河川は日本の河よりも雄大でゆっくりと流れており、ダムの周囲はまるで海岸沿いに立っていると錯覚せるような景色だった。孔子は「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」と述べたが、なるほど孔子を生んだ山河には確かに偉大な人物を育むにふさわしい威厳がある。

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孔子巡礼の旅(6)孔林

この墓地には孔子の子孫たち一族の墓が至る所に建てられており、林のように墓碑銘が立っていることから孔林と呼ばれる。孔府から孔林までは歩いておよそ20分の距離があり、城壁に囲まれた旧市街から北へまっすぐに石畳の道が通っている。孔府を出ると観光客向けに人力車が待機しているからそれに乗ったほうが楽に移動できる。

孔林

孔林の入口に到着するとたまたま数人の家族客と人民日報の記者の一団がおり、一団を率いるガイドの説明を聞きながら一緒に移動した。孔子の墓の前には特別に廟のような建物があり、その廟の中に入って行って裏の扉を案内員に開けてもらわなければ孔子の墓にはたどり着けないような構造になっている。

孔林2

孔子の墓の横には門徒の子貢が孔子の死後に喪を三年守った小屋がある。子貢の孔子に対する尊敬の念は厚く、孔子がなくなると三年間孔子の墓のそばで喪に服した。その後は引き続き諸侯を巡って孔子の学説を説いたので、司馬遷は「孔子の学説を世に広めたのは子貢の功績である」と述べている。子貢は晩年を斉の国で過ごしたが、諸侯に匹敵するほどの大金持ちとなり尊敬されながら一生を終えたようである。

子貢

子貢は弁舌に優れており商売で金を儲ける才能があった。彼は孔子に学んだ後に門徒たちの中でも最も外交能力に優れ、何度も魯国から派遣されて外交に参加し成功を収め諸国でも名声が高かった。その外交手段は礼儀に基づきながらも利害を説くので説得力が高かった。


孔子の墓を見学し終わると私と人民日報の記者は出口へと向かった。人民日報の記者とはたまたま入り口で出会い行動を共にしただけであったが、一緒に回るうちにインタビューを受けるようになった。私が日本からわざわざ孔子の墓を訪れたことに驚いている様子であった。

孔子の門徒には金儲けに興味のない顔回のような人間も、子貢のように商売や外交に活躍した人間もいた。
孔子の教えや論語をビジネスに生かした人間には子貢の他に日本の渋沢栄一もいる。

下は渋沢栄一の論語とビジネスに関する著作だ。
企業人やビジネスマンも一読しておいて損はない。

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タグ:孔子
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