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2015年11月07日

中国と東京裁判(5):『梅汝璈日記』2

1946年3月23日土曜日
顔を洗い、朝食を食べると、私はマクドゥガル氏に電話をかけて私が階下の彼の部屋を訪問する旨を告げた。部屋で彼と少し話しをして、私たちは一緒にホテルから彼の車に乗って法廷に向かった。私の車も道を覚えるために後をついてきた。

法廷は以前の陸軍省で帝国ホテルから近くはなかったが、およそ10分ほどの運転であった。陸軍省はいわゆる「軍部」で日本侵略政策の源であり、重大な戦犯(軍閥)の大本営であった。マッカーサー元帥がこの地点を戦犯を裁く国際法廷と決めたのは、おそらく深い意味があってのことであろう。陸軍省の威容は偉大で、周囲の垣はとても森厳で、建物の建築は華美ではないが十分に雄大で、内部も外部も爆撃を受けた様子はなかった。

私たちが上の階に行くと、マクドゥガル氏が私をあちらこちらへと連れて行った。会議室、裁判長室(元東条英機の事務室)、各判事の事務室。それぞれの判事には二つの部屋が割り当てられ、一つは個人秘書の部屋で部屋はとても大きく、じゅうたん、カーテン、椅子、壁画などがとても立派に据付けられており、日光も十分に入り、見てとても気持ちがよかった。私の事務室は会議室の左手にあり、英国判事とカナダ判事の間に位置し、扉にはネームカードが掛かっており、The Honorable Mr.Justice某某とあった。英米人はとても裁判官を重視するので、姓名の前には必ずThe Honorable Mr.Justiceと加えるし、少なくとも”Judege”と付ける。

法廷の警備配置はとても周到で、内外の警戒はとても厳しい警備体制をとっていた。どの判事の事務所にも「立ち入り禁止」と書かれ、必ず彼の個人秘書の部屋を経ないと入れないようになっていた。食堂、カフェ、バーにも「部外者立ち入り禁止」とあり、トイレにさえ「進駐軍専用、日本人立ち入り禁止」と書いてあった。マクドゥガル氏は私を様々な所へ連れて行き、最後に法廷に到着したが、そこは軍部の大講堂を改造したもので、現在はまだ工事が完成しておらず、数十人の日本人大工がそこで仕事をしていた。この法廷の建造はたしかに立派で、見た目もとても壮大であった。さすがにキーナン氏が上海で「米国の最高裁判所がそれに比べられる以外は、世界中どの法廷も比べ物にならない」と私に告げただけのことはある。

大体視察が終了して、マクドゥガル氏は私を米国の法官ヒギンズ(Higgins)氏に会いに連れて行った。ヒギンズ氏はまだ五十二、三歳だが、髪は蒼白で、見たところ少なくとも六十歳前後に見えた。彼は米国の国会議員になったこともあり、政治的にとても名望のある人物だそうだ。最近十数年は司法に従事し、マサチューセッツの高等裁判所長を務めている。マサチューセッツは米国でも司法制度が最もよく、判事を一番多く輩出する地方である。ヒギンズ氏の裁判所は正式な判事が三十二人もいて、これは英米では驚くほど大きな裁判所である。ヒギンズ氏が代表に選ばれて米国から東京に来たのは、キーナン氏がマッカーサー元帥に招聘を頼んだからだそうである。ヒギンズ氏はいつも自分の裁判所のことが気にかかっている様であった。ヒギンズ氏と別れて、マクドゥガル氏と一緒にホテルに戻った。

昼食後に私は少し眠ってから読書をしていたが、マクドゥガル氏の誘いで食堂に夕食を食べに行った。食堂には判事たちのために特別にテーブルが保留されてあり、しかも男女のウエイターがとても周到に接待してくれた。この方法はとても便利で、もしこうでなければ大食堂では、入っていってもなにか場違いな感じがするだろう。

夕食後、私たちはロビーに座っておしゃべりをした。ヒギンズ氏はとても誠実で、開放的で、彼は心から中国には感心しており、特に中国人の勇敢さ、最後まであきらめずに抗戦したことを賞賛した。彼は米中は兄弟の国で、我々の友好にはただ光があるだけで決して色あせないと述べた。彼は中国が好きで、中国への尊敬は米国の一般の人々の普遍的な心理で、彼は「私は自分ひとりを代表しているのではなく、一億三千万人を代表している」と述べた。このような率直な告白は、私は数年来初めて聞いた。

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2015年11月06日

中国と東京裁判(4):『梅汝璈日記』1

1946年3月20日水曜日
今日は特別に良い天気で、キャセイ・マンション十階の部屋の窓から外をのぞくと、ただ一面の青い空に、真っ赤な太陽が映えている。これは最近三週間以来なかった景色である。私が重慶から上海に来てすでに五週間となる。最初の二週間の日曜日は太陽が照り、あたかも春のようであったが、ここ三週間は雨が続いて、じとじと降り続き、ほとんど太陽がどんな様子であったかも忘れるほどであった。

 朝に早起きして雨の中をずぶぬれになって歩かなくてもいいようにと、私は昨日特にアメリカ軍本部にキャセイ・マンションの一室を要求したのであった。キャセイ・マンションは旧フランス租界にあり、十三階建の洋風建設で上海の摩天楼の一つである。日本人が占領期間は日本軍が接収して軍の司令部をここに設置していた。日本が投降後にはアメリカ軍がここを接収して高級軍官の宿舎および賓客招待用に使っていた。陸軍運輸司令部(A.R.C)はこのマンションの下の階に設置されていた。すべて軍用機で日本やアメリカに行く旅客はみな朝7時半前にここに来て手続きをして、それから司令部が自動車で江湾軍用飛行場に送っていた。

 キャセイ・マンションは上海で最高の摩天楼の一つではあったが、二十数日間の絶え間ざる雨ですっかり水に浸かってしまっていた。大門の後ろのホールに長い板を渡して、ようやく人が歩いて出入りできるようになっていた。それで私が昨日の夕方にここへ移る際にはとても面倒に感じた。

 しかしとても奇妙なことに一晩たつと、雨がぴたりと止んだだけでなく周囲の水も引いてしまった。窓を開けて見ると、青い空に東から日が昇り春の盛りの気象で昨日までの霧が濃く立ち込めた情景とはうってかわった景色であった。これは偶然の事ではあったが、私の内心をとても愉快にさせ特に興奮させた。

 昨晩は友達と、特に新たに東京から帰ってきた向明思(向哲浚)と話が弾んで寝るのが遅くなり、さらに航空便の出発点が階下にあり心中で遅れる心配もないので、起きた時にはすでに七時であった。

急いで顔を洗い髪を整え朝食を食べるひまもないまま、ボーイに荷物を持たせて下の階に下りた時には七時半だった。手続きを終えると職員が乗客を上の階に連れていき映画を見せ、乗客の心得という映画で防護衣の着方や飛行機に事故があった時の乗客の防護方法と救護方法を放映した。映画は約15分で終わり、画面も解説も明確だった。米国人が生命を重視する仕方はまさに「至れり尽くせり」で、彼らのやり方はまじめで科学的であるのはこんなところにも見て取れる。

映画を観終わって下の階に行くと職員が点呼し、乗客は順番に彼らの準備したバスに乗り込む。私の名前には裁判官(judge)の称号が付いていたので、職員は点呼する際にいつも私を一番目に呼ぶ。これは米国の軍官たちに奇異に感じられたようだ。しかし裁判官は外国人の心の中で最も尊敬を受ける身分であり、特に英米では法治国家を標榜し法律至上主義であるので裁判官の尊厳はとても高い。しかし、この中国の裁判官はいったいどこの裁判官なのか。彼はまたどうして東京に行くのか。これが彼らの心の中の疑問であった。

バスの中では、我々は沈黙して何も語らなかった。車はとても速いスピードで、上海の混んだ街道を走っていく。ある一人の軍官がふと一つの荷物に私のネームカードが付けられているのを発見した。彼はとても厳粛そうであったが、しかし得意そうに探偵が重要な事件のヒントを発見したような表情をした。私は彼が私の名刺を見たがってるのに気づき、わざと頭を窓の外に向けたが同時に彼の動作には注意していた。私が振り返ると彼の表情はさらに変わり、何か彼の同行者に彼らの知らない秘密を発見したと告げたようであった。彼は私に対してさらに恭しく礼儀正しくなったが、それは彼にとって連合軍最高司令部の国際軍事法廷裁判官の地位がとても栄誉なこと、無上の光栄に思えたからであろう。私たちは二三の言葉を交わしたが、江湾で車から降りる際には彼が荷物を出すのを手伝ってくれたり、私を呼んで飛行機に乗せてくれたりして、大変に親切にしてくれた。

九時三十分に飛行機が飛び立った。私は腹が空いていた上に、一杯の水さえ飲んでいなかったので、ややイライラしてきたがどうしようもなかった。飛行機が飛び立つ前に搭乗員が我々に救護衣を着させたが、飛び立って15分経つと今度は救護衣を脱げという。もう危険な時間は過ぎたというのだが、我々には何が何だかわからない。

飛行機は中型の輸送機で、座席は4,50箇所あったが、乗客はただの十数名ほどで、座席の三分の一も埋まってなかった。私と二名の日本人のほかはみな米国の軍官で、ある者は東京行で、ある者は東京で乗り換えて米国に行く者もいた。

あの若い軍官は私の隣に座ったが、この時には我々はすっかり打ち解けて、広い空の上でいろんなことを話した。私の水の問題も解決し、三十分ごとに彼が一杯の水を持ってきてくれるのであった。彼の名前はマクルード(Mclood)といい、大学を卒業して大学院で一年法律を勉強したという。彼は秋に満期退役となるので、その後は大学に戻って勉強を続けたいと言っていた。彼が徴兵されて入隊したときには普通の兵士だったが、数年の戦争を経てようやく下級士官に昇進していた。彼の例から見ても、米国の兵役制度はとても公平で、米国の兵士と士官の教育がいかに高いかを見て取れる。

あの同じ飛行機の二人の日本人については、私は彼らがどういう人物なのか知りたいと思ったが、私はずっと尋ねることができなかった。彼らの態度はとても謙虚で和気藹々としていて、とても私に近づきたい様子であった。なぜなら同乗してた米国軍官たちは彼らを軽蔑し嫌悪し冷たく扱っていたからだ。私は好奇心をもったが近づくのは遠慮しておいた。それにたとえ私が彼らに話しかけたとしても、彼らが中国語か英語を話せるとは限らず、私も日本語は全く分からない。しかし、私の推測では彼らは反戦分子か共産党人だったのではないだろうか。例えば、青山和夫や鹿地亘のような。さもなければ、彼らはどうして米軍の軍用機に乗って監視も付けられずに日本へ帰る資格があるだろうか。もし戦犯なら、米軍に釈放されたのか?この疑問は未だ解けずに私の頭を悩ます。

マクルードと談笑しながら、時折に窓から広がる海を見たり、青い空を眺めたりして、あっという間に時間が過ぎ、知らぬ間に日本の上空に達し、あと15分で厚木飛行場に到着となった。乗務員が私たちに再び救護衣を着るように告げ、またしばらくすると脱ぐように告げた。二分ほどで飛行機は着陸した。このたびの飛行はとても快適で天気も良く、飛行場についたのは午後四時であった。私は三週間上海で雨にうんざりさせられた後だったのでとても幸運を感じた。

飛行機が停止し、私とマクルードが別れの握手をした時に、突然に大佐の制服をきた士官がやってきて、大声で「魏裁判官」は誰かと尋ねた。きっと私を迎えに来たのだと思い、彼に「魏裁判官」ではなく「梅裁判官」だと告げた。彼はそうだ、あなたを迎えにきたといった。彼は「梅MEI」を「魏WEI」と間違えてしまったのである。また昨日上海米軍本部から電報が連合国軍本部にあり、連合国軍本部からの派遣で迎えに来たと説明した。大佐の階級は米国の軍隊ではかなりの身分であるので、この会話は飛行機の乗客たちを驚かせた。いったいこの裁判官はなんの裁判官なのか?どうして中国の裁判官が東京に来るのか?またどうしてこんなに丁寧な歓迎を受けるのか?

この大佐の名前はホフ(Colonel Huff)といい、マッカーサー本部の外交主任あるいは応接所の所長のような身分で、マッカーサーにつき従って多年にわたり歴戦してきたつわものであるが、今は送り迎えの簡単な仕事に派遣されているのであった。ホフ大佐の手配で、全てが順調に運んだ。私が飛行機から降りて日本の陸地を踏むと、彼の護衛と運転手が私の荷物を運んでくれ、一切の手続きは必要なく数分で我々の自動車は厚木飛行場から出て東京へ直接に向かった。厚木は東京から四十二マイル離れており、道路は横浜の外側を走っていた。それで一時間ほどのドライブで、私は横浜と東京の空爆の跡を見た。

私はこの時に好奇心いっぱいに道路の両脇にいる日本の男女の表情に注目した。同時に私は何度もホフ大佐に質問し、まるで孔子が太廟に入った時と同じくあれこれ質問した。ホフ大佐は口のよく回る人で、彼はよく状況を知っていたので、私の質問に満足の行く回答を与えてくれた。私はここにその短い道程で見た全てを細かく書く事はできないし、ホフ大佐に何を質問したかも覚えてはいない。私の全体的印象では東京の工場はみな空爆で焼き尽くされていた。所謂「家は廃墟になり、一面の焦土」であった。この時私はその言葉を本当の意味で会得した。

ホフ大佐の家はマニラにあったが、彼の家は日本人に焼かれてしまった。それで彼は瓦礫や廃鉄が集められた大広場を指差して、これを見るとざまあみろという気分になると言った。私は自分の家も南京陥落の際に燃やされてしまったので、同じような気分であった。

道路の途上で見る男女の表情はかなり違いがあった。男はみな頭を垂れて徐行し、まるで打ちのめされてしまったかのようだったが、女は頭を上げて満面笑顔できびきび歩き、なにも気にしていないようだった。しかし、男女どちらにしても、彼らと私が二十二年前に見た日本とはすでにかなりの差があった。どうしてこうなってしまったのか。これというのも私達が審判しようとしているあの戦犯たちのせいだ。彼らが世界を乱して中国を害したうえに、自分たちの国家の前途まで葬ってしまったのだ。国家に偉大な政治家が不在であったために、政治的頭脳と世界観に欠乏した軍人の暴発という事態に陥ったのだ。もともととても前途有望だった国家がここまでに落ちぶれるというのは「自業自得」ではあるが、歴史上の一大悲劇でありまた一つの教訓でもある。

今日私は始めて八年間戦ってきた敵の本土に足を踏み入れ感想はとても多いが、私の観察はとても浅薄であるので多くは語るまい。私は東京で少なくとも4、5ヶ月は滞在する事になろうから、ゆっくり観察して再び結論を下せばよかろう。

およそ五時に世界的に有名なホテルである帝国ホテルに到着した。帝国ホテルは連合国軍最高司令部の所在地で、マッカーサー元帥もここに一時期駐在していたというので、私の想像では雲の上にも聳え立つ大ビルで、上海のパーク・ホテルや、サッスーン・マンションと肩を並べるようなビルだろうと想像していた。しかし事実は私の想像に全く反していた。それは古色蒼然とした二階建ての平屋で、べつに荘厳という感じでもなく、現代設備はみな整っているとはいってもさほどに高級でも豪華でもなかった。聴くところによれば帝国ホテルの最も良い点はこの建築が地震に強いことである。1923年東京大震災ではほとんどすべての東京の建物がみな損壊したが、帝国ホテルはさほどの被害はなく依然として残存していた。戦前はこのホテルは日本政府が外国の貴賓を招待する場所だったようだが、現在は連合国軍司令部のほとんどの将官以上の階級の重要な職員がみなここに住んでいる。

帝国ホテルに着くとホフ大佐がマネージャーのモリス氏(L.Morris)を呼び,一緒に上の階の288号室に入った。ここは早くから私のために指定された部屋であった。マネージャーは「この部屋はあなたが来るのを一ヶ月近く待っていました。私たちはあなたが上海に到着したと聞いてから、ずっとここでお待ちしていました」と述べた。

288号は二階の東側の端の部屋で、中はとても広く三部屋あった。客室、寝室、洗面所である。そのほかに二つのテーブルを置けるくらいのバルコニーともう一つ小さなバルコニーがあり、空気はよく通り二つのバルコニーからは下の街道と広場がよく見えた。内部の施設については当然すべてそろっていた。二ヶ月間にわたり人の出入りが激しく、緊張して忙しい生活を送った人間にとって、このような環境で落ち着けることは、自然と満足のいくものであった。

私たち三人は約十分間ほど挨拶を交して、私は突然に今晩私より先に到着した中国人と其の他各国の判事に会いに行かなければならない事を思い出した。モリス氏がこの時に私のために電話をかけてくれた。しかし結果は私をがっかりさせた。我々の総連絡官である王淡如将軍と日本視察に来ていた顧一樵(顧毓e)博士は一緒に長崎へ原子爆弾の遺跡を見に行ったとのことだった。オーストラリアの判事ウェッブは仕事で帰国していた。英、米、カナダ、オランダ、ニュージーランドの五カ国の判事は東京に長くいて仕事もないのでみんなで京都に遊覧旅行に行ったそうだ。これらの人々は二三日後にならなければ帰ってこない。

私は外交部の劉増華氏と我国の副連絡官唐氏を思い出し、モリス氏に電話を繋げてもらって彼らと夜に会う約束をした。少し疲れていたので、私はボーイに夕食を部屋に持ってきてもらって食べた。食事後に劉氏と唐氏と一緒に戴氏が来た。私たち一時間ほど語り合った。彼らは祖国の様子を私に尋ね、私は東京の状況を尋ねた。あっという間に9時になっていた。かれら三人が去って私はすこし荷物を整理し、熱いシャワーを浴び、すぐに寝てしまった。

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2015年11月05日

中国と東京裁判(3):検察団顧問の倪征噢

向哲浚は深刻な人手不足を感じていた。アメリカは多数の調査人員を派遣していたし、ソ連も当初は七十人を派遣する予定であった。しかし中国政府が当初裁判のために派遣した人員は助手を含めて十人もいなかった。中国の検察側の力不足を見てとった国際検察局は、土肥原賢二と板垣征四郎への起訴と反論の任務をフィリピンの検察官に任せることにした。これは極東国際軍事裁判に中国代表検事として派遣された向哲浚の面子を失わせた。1946年の秋に、向哲浚は法廷が太平洋戦争の審理に入る際に帰国して、東京裁判への人員増強を中国政府に請願した。ちょうどこの時、向哲浚の待っていた人物が帰国した。それは彼の古くからの友人である倪征噢である。
 
倪征噢は東呉大学を卒業後に米国スタンフォード大学法学院やジョン・ホプキンス大学で学び博士学位を取得して、帰国後は司法行政部で向哲浚と共に働いたことがあった。彼らは前後して上海第一特区法院で勤務し、向哲浚が首席検察官で倪征噢はそこの裁判官であった。抗日戦争の終了前後に倪征噢は政府から英米とヨーロッパの司法制度の視察に派遣された。一年後に倪征噢は法制度改革のために英米で学んだ経験を生かそうと抱負を抱いて帰国した。ちょうどこの時に、彼は帰国した向哲浚から東京への応援を要請された。

倪征噢

倪征噢は向哲浚から状況を聞いて、裁判における中国検察団の証拠収集と起訴が順調に進んでいないことを知った。向哲浚は倪征噢と相談して“極東国際軍事裁判中国検察官顧問団”を結成し、倪征噢が顧問団長となることになった。向哲浚は先に東京に戻って法廷の事務を進め、倪征噢は中国国内で証拠を集めてから東京で合流する手はずを整えた。倪征噢の回想によれば「私は北京にも行った。その時は数人の漢奸を探して、彼らに自供を書かせた。当時日本人から強制されて、祖国に裏切り行為をした時の記録である。後にある人は書くには書いたが、その後に火の中で焼いてしまい、少しの証拠も残そうとしなかった。」その自供を書いたが焼いてしまった人と言うのは満州国の立法委員長の趙歓伯である。趙歓伯は収監されていた監獄で第三次世界大戦がまもなく勃発するという噂を聞き、日本軍が再び攻めてくることを恐れて、証拠を提出するのをやめてしまった。こうして北京での証拠集めは、なかなかはかどらなかった。倪征噢と顎森は中国東北地方に行って証拠集めすることを希望したが、当時中国東北部は国民党軍と共産党軍の戦闘が激しく、交通機関も運行がままならない状況であったため、二人は東北行きをあきらめざるを得なかった。

1947年1月、倪征噢は外交部の緊急通知で、早く東京に検察官顧問団を送ってほしいとの東京からの電報を受け取った。向哲浚からの電報には次のように書かれていた。「数日後に、国際検察団は二週間の休暇を取り、被告に弁護の準備をさせ、検察側に答弁の準備をさせることになった。これまでに、法廷で検察側が提出した文書は2300余件、法廷での裁判記録は16000余ページにもなっり、証言者と物証は多く、手続きは煩雑である。倪征噢首席顧問は速やかに準備をして、なんとか2月1日前に連合軍の飛行機で来てほしい。」

極東国際軍事裁判での情況は急を要したが、中国国内での証拠集めは内戦のため思ったようにははかどらず、倪征噢は中国での証拠集めの作業を諦めて日本へ向かうことになった。中国検察官顧問団が東京に到着した時には、中国駐日代表団団長朱世民将軍が自ら厚木飛行場に出迎えた。倪征噢は東京に到着すると直ちに作業に入った。彼らはほとんど徹夜で法廷の裁判記録や各種の証拠資料に目を通し、法廷の裁判過程と尋問の進み具合を理解した。倪征噢らが東京に着いた時、極東国際軍事裁判が事前に制定した手続きの規則に従えば、検察側が証拠を提出する段階はすでに終わり、次は被告人の個人弁護の段階で、検察側には再度証拠を提出する機会は残されていなかった。もし新たな証拠を補充して提出したいのであれば、被告への反駁や質問のなかに差し挟むしかない。

1947年9月16日、土肥原賢二被告の個人弁護が開始された。倪征噢が尋問と反駁のために登場した。土肥原賢二の弁護側の用意した証人は、土肥原賢二が奉天特務機関長だった時の部下の一人で、新聞課長の愛沢誠であった。愛沢は証言して土肥原賢二の人となりはまじめで、当時の主な仕事はニュースを集めることで、何も秘密活動などには携わってはいなかったというものである。倪征噢は愛沢誠に「あなたは上司の土肥原賢二が1935年に北京と天津で「華北五省自治」を組織した事情を知りませんか?」と尋ねた。愛沢は首を振って「知らない」と答えた。倪征噢は反問して「当時外国の新聞の多くはこのことについて報道していたのに、あなたは関東軍特務機関の新聞課課長でありながらどうして知らないのですか。」愛沢誠は何も言えなくなった。

倪征噢はすぐに法廷に対して物証を提出した。それは1935年に日本関東軍が出版した『奉天特務機関報』で、そこには次のような記事があった。「華南の人々は土肥原賢二と板垣征四郎の名前を聞くとトラを見たときのように顔色を変えて恐れる」。倪征噢がこの記事を引用すると土肥原賢二のアメリカ人弁護士は直ちに発言を求め反対を表明した。倪征噢の記憶では「一人のアメリカ人弁護士が飛び出てきて、これは土肥原賢二の件とは無関係のトラの話であると反論した。そこで私は説明して、それはトラのことではなく、人々がトラを恐れるように土肥原を恐れたと形容しているのです。ある地方では人々が子供にほらトラが来たぞ、土肥原賢二が来たぞと脅して子供を寝かしつけるのです。トラを見たように顔色を変えるというのは中国の諺であり、人々が彼をいかに恐れていたかを形容したものです」。高文彬は「彼ら二人がトラのようだと説明すると、人々は意味が分かって笑い始めた。法廷の人たちはみな当初意味がわからなかったが、説明するとすぐに理解した」と述べている。

倪征噢は会場の笑い声がおさまると、さらに踏み込んで説明し「この証拠を提出した理由は、証人の愛沢誠が土肥原賢二の人柄がまじめだと証言したからで、これは彼の人格の証拠の一種であり、私は証人の陳述への反証として、被告がトラのように凶暴だという証拠を提出したのです。これは完全に反論証拠を提出する際の規則である反駁時に提出される証拠は直接的な反証でなければならないという規定にかなったものです」アメリカ人弁護士は何も言えず、そそくさと弁護士席にもどるほかなかった。倪征噢が提出したこの物証は法廷に採択された。

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2015年11月04日

中国と東京裁判(2):中国代表検事の向哲浚

向哲浚は1896年湖南寧郷に生まれ、1911年に北京精華大学に入学、6年後にアメリカ留学に派遣されイェール大学卒業後にジョージ・ワシントン大学法学部に転じ、帰国後は上海第一特区法院主席検察官や上海高等法院主席検察官を務めた。

向哲浚

1945年末に向哲浚は突然に電報を受けたが、その電報の内容は極東国際軍事法廷に参加するために準備せよとの指令であった。向哲浚は強烈な使命感に駆られて、少しの猶予もなく東京裁判に参加する任務を引き受けた。彼は裁判官と検察官のどちらかを選ぶことが許されたが、彼が選択したのは検察官だった。向哲浚が裁判官を選ばなかったのは戦犯を裁くにはまず戦犯の罪を暴露しなければならず、検察官の仕事の方が責任が重大であると感じられたからであった。1946年の新年に向哲浚は重慶に赴き司法部から正式に任命を受け、清華大学での後輩にあたる梅汝璈を極東国際軍事法廷の裁判官として推薦した。

連合軍本部からの催促に応えて、向哲浚は秘書の裘紹恒とともに東京へ急行した。彼らはこのたびの裁判にいかなる困難が待ち受けているかを知る由もなかった。準備の時間の不足により、裁判の証拠集めは困難を極めた。

東呉大学法学院の優秀な卒業生であった裘紹恒は司法業務に習熟しているのみならず、英語も流暢に操ることができ、上海のとある銀行お抱えの弁護士となっていた。彼も最初はこの仕事を引き受けるか躊躇したものの、東京裁判に参加することは人生の中でも得難い経験になると考えて、最終的に引き受けたのであった。彼らが米軍のC―47大型輸送機に乗り日本へ到着したときには東京厚木飛行場には大雪が舞っていた。裘紹恒はこのように回想している。「私は東京に到着したあの日、東京には雪が厚く降り積もっていたのを覚えています。時間が過ぎるのはとても速く、決定してから我々は何の準備もなく、どんな資料を携えていけばいいのかも知らされていませんでした。あの時の南京政府はこの裁判について何も知らされておらず、どう対応したらいいかもわからず、何の指示もなく、どんな資料を持って行けというような指示もありませんでした。だから我々二人はなにも知らないままに日本へ到着したのです。」

1946年2月7日に向哲浚と裘紹恒が東京に到着すると、すぐに国際検察局に中国政府が認定した11人の戦犯リストを提出した。このリストは蒋介石総統自らがチェックして手渡したものであった。リストの一番目に挙げられていたのは特務活動で有名な土肥原賢二、第二番目が関東軍司令官などを勤めた本庄繁であったが、本庄繁はこの時にはすでに自決していた。三番目が南京大虐殺で悪名を馳せた谷寿夫である。その他には板垣征四郎、東条英機、梅津美治郎などがリストに挙げられていた。

向哲浚と裘紹恒が東京に到達した9日後に、極東国際軍事裁判国際検察局はキーナンの司会で第一回の検察会議を開催した。中国・英国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドの検察官がこの会議に出席した。国際検察局の日本の戦犯に対する予審と犯罪の証拠収集の作業は思ったようにはかどってはおらず、キーナンは焦りを感じていた。ところが、中国の検察官である向哲浚が持ってきたのは戦犯のリストだけで、それ以外の証拠となるものを何も持っていなかったのである。キーナンは「たったこれだけ?」と向哲浚と裘紹恒に問いかけた。キーナンは日本の中国侵略に対する犯罪が東京裁判の中で中心的地位を占めており、充分な証拠が提出できなければ戦犯を裁くことができないことを明確に知っていた。キーナンの問いに向哲浚と裘紹恒の二人は顔を見合わせて、ようやく事態の重大さに気づかされたのであった。

証拠収集が困難な理由は、先ず日本側が戦争資料の厳格な秘密保持を要求し違反者は罰せられる恐れがあったこと、第二に日本が敗戦後に大量に戦争中の文書を焼却したり廃棄したり隠匿したりしたことであった。さらに中国側も戦争期間中は証拠集めや保存どころではなかったことも原因であった。中国側から言わせれば侵略の証拠は収集せずとも目の前に明らかであった。

極東国際軍事法廷で証拠が重要視されたのは、裁判の採用した手続きが英米法に乗っ取ったもので、露仏のような大陸法系によるものではなかったためである。この二つの法体系では全く裁判の方式が異なっていた。大陸法系では裁判官を中心として進められ、被告はいったん起訴されると基本的にそれで有罪とみなされる。英米法系の裁判では、証拠の有無が中心として議論され、被告は最終的に有罪とされるまでは罪が確定されておらず、起訴側と弁護側が証拠を巡り弁論を進め、裁判官が証拠を採用するかどうかを決めることができる。簡単に言えば、大陸法系の裁判では被告は有罪とみなされているのに対し、英米法系では被告の罪はまだ確定しておらず証拠がなければ無罪とみなされるのである。

それで、英米法系の裁判では証拠があるかどうか、証拠が有力かどうか、弁護側に論駁されるかどうかが訴訟において非常に重要になってくる。1946年3月から4月、向哲浚と裘紹恒はしばしば中国に帰国し、過去に日本占領区であった場所や攻撃を受けた難民などを訪ねて証言や証拠を収集した。この時に、キーナンは連合軍本部の調査員を派遣して中国での証拠収集に協力させ、キーナン自身も向哲浚と共に自ら中国に赴いて調査を進めた。キーナンはさらに国際検察局から特別に資金を中国検察団に支出して、向哲浚に本国で法律に詳しくて英語に堪能な職員を探して東京での作業を増員するように求めた。向哲浚は上海に戻り、新聞で極東国際軍事法廷国際検察局の人員を募集した。東呉大学法学部の卒業生であった高文彬はこの新聞の募集を見てキャセイホテルでの面接にやってきた。

まだ若い高文彬は1945年7月に東呉大学を卒業後にまず上海の地方裁判所で刑事裁判の書記官を勤めた。しかし彼は職場になじめず、すぐに辞職してしまった。その後に人の紹介で、老閘区役所の戸籍管理の仕事に就いた。しかしここでも同様に役人の官僚主義に嫌気がさして辞職してしまった。ちょうど、この時に彼は新聞で東京裁判の翻訳助手を募集しているとの広告を目にしたのであった。

後に高文彬は次のように面接のときの情況を回想している。「初めてキャセイホテルで向哲浚先生に会った時の印象は、とても礼儀正しくて、学問があり、人に対してもとても温和な人であると感じた。その頃の国民党の役人の官僚主義はとてもひどかったが、彼にはそんな感じはまったくなく、完全に一人の学者風の態度であった。それで、私の彼に対する印象はとてもよく、後に私は採用されることになった。」

この時に高文彬と一緒に採用された人物にはほかにも31歳の周錫卿がいた。当時、中国では東京に行こうと願う人間はあまり多くはなかった。そこで、向哲浚は妻の親戚にあたる周錫卿に面接に来るよう伝えていたのである。周錫卿は1938年にアメリカのフィラデルフィア州ペンシルバニア大学の修士学位を取得したが、アメリカにとどまることを潔しとせず抗日戦争真っ最中に中国に戻っていた。

向哲浚がこの時に採用した国際軍事法廷の助手にはほかにも張培基、劉継盛、鄭魯達の三人がいる。数日後に彼らは向哲浚からの採用通知を受け取り、キャセイホテルに集合して、東京に行く準備をするよう告げられた。当時、キャセイホテルは米軍輸送司令部に徴用されていた。彼らはアメリカ人から飛行機に乗る前に映画を見るよう告げられ、飛行機に乗りに来たのに、どうして映画を見なければいけないのだろかと奇妙に思った。高文彬は次のように回想している。「彼らが映画を見るように告げたのは、飛行機の基礎知識を映画で見せるためでした。飛行機がどのように飛ぶのか、緊急事態が発生したときはどのようにパラシュートを装着するか、どうやってパラシュートを使うかなどです。映画を見おわるとアメリカの軍用のバスで私たちを江湾飛行場に連れていかれ、米軍の輸送機で東京まで送られました。」

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2015年11月03日

中国と東京裁判(1):中国代表判事の梅汝璈

1946年1月28日、連合軍本部が批准し公表された極東国際軍事裁判の裁判官11名の裁判官のリストに中国の裁判官梅汝璈の名前もあった。梅汝璈は中国司法界で大変に声望が高く、12歳で北京清華大学に入学し、その後にアメリカへ留学し、イェール大学で法律を学びスタンフォード大学やシカゴ大学で法律を研究して帰国した。帰国後は山西大学・南開大学・中央政治学校で教鞭を執り、主に英米法を教授した。また彼は相前後して国民政府立法院委員と立法院外交委員会主席に任官された。

梅汝

梅汝璈は1946年3月20日に上海から東京に飛行機で向い、当日の中国の新聞は中国代表裁判官が東京で任務についたことを報じた。梅汝璈の当日の日記の中から、重大な使命を背負って東京に来たこの中国代表裁判官の複雑な感情を見て取れる。22年前に梅汝璈はアメリカに行く途中に一度日本に立ち寄ったことがあった。その時の日本と戦後まもなくの荒れ果てた日本を比べて彼は次のように書いている。「私が注目したのは道路の両脇の景色と路上の日本人たちの表情である。私の全体の印象では横浜と東京の工場はほとんどすべて爆撃により焼き払われていた。人々も私が22年前に日本で見た感じとは大きく変わっていた。どうしてこんなに変わってしまったのか?これはまさに我々が裁こうとしている戦犯たちの責任である。彼らは世界を乱し、中国を害し、彼ら自身の国家の前途も葬ってしまった。もともとは立派だった国がこのような運命に陥ったのは、まったくもって自業自得としかいいようがない。」

各国の選んだ法律家たちはこの時ちょうど続々と東京に来ていた。極東国際軍事裁判は各国が派遣した裁判官たちを大変高い待遇で迎えた。彼らには当時東京で最も豪華なホテルであった「帝国ホテル」に事務室とバルコニー付の部屋があてがわれ、さらに連合軍本部からは高級自動車と運転手も与えられ、自動車の上には各国の国旗が付けられていた。米軍第八軍軍長アイケルバーガーと連合軍司令官マッカーサーはそれぞれ中国代表裁判官梅汝璈とその同僚を招いて歓迎の宴を催した。

梅汝璈が東京に到着して間もなく、教育部次長兼中央大学校長の顧毓秀が来日した。顧毓秀は表向き戦後の日本教育の現状を視察するための来日というふれこみであったが、実際には広島と長崎に落とされた原子爆弾の情報を探るという秘密の任務を蒋介石から命じられていた。二人が面会した時に顧毓秀は梅汝璈に一振りの宝剣を送った。梅汝璈の日記には次のようにその宝剣のことが書かれている。梅汝璈は「“口紅は美人に送り、宝剣は壮士に送る”というが、私は美人でもないし、壮士でもない。こんな立派な剣を頂くのは気が引ける。」と言った。顧毓秀は重々しく「あなたは四億五千万の中国人と千百万の戦死した同胞を代表して侵略国の首都に来て元凶を裁くのだから、天下にこれより壮観なものがあるだろうか。君が壮士でなければ、ほかに誰を壮士と言えばいいのかね?」梅汝璈はその言葉に納得してこの宝剣を受け取り、剣をさやから抜き放つと、その光を放つ剣身を見ながら言った。「中国の劇の中ではよくこのような場面がある。もし手に宝剣を持っていれば、先に斬って後から報告してもよいというくだりだ。しかし今は法により裁かなければ刑罰を与えることもできない。私がもしまず彼らを数人斬ることができれば、心の中の恨みもすこしははらすことができるというものだ」

極東国際軍事裁判の開廷一日前の1946年5月2日、法廷は厳粛な開廷の予行練習を行った。予行練習には各国の記者が呼ばれて、裁判官たちの写真を撮ることが許された。この予行練習で裁判官たちの間に鋭い衝突が引き起こされ、あやうく開廷そのものまで危ぶまれるほどであった。

この衝突の原因は極東国際軍事裁判の裁判官たちの席次の問題で、中国代表裁判官梅汝璈が主席裁判官の隣の席を主張して譲らなかったためである。裁判憲章にはもとより裁判官の席次に関して規則はなかったが、席次の順序を巡って裁判官たちの会議でも一度ならず議論が引き起こされていた。中国代表は極東国際軍事裁判の裁判官は日本の降伏文書にサインした各国が派遣したものであるので、裁判官の席次もこの降伏文書のサインした順序であるべきだと主張した。降伏文書のサインの順番は米国、中国、英国、ソ連、カナダ、オーストラリア、フランス、オランダ、インド、ニュージーランド、フィリピンであった。この順番に従えば裁判長ウェッブの左右は米国と中国になるはずであった。しかし、裁判長のウェッブはこの順番を不満として、彼と親しい英米の裁判官を左右に置きたいと考えていた。

会議では裁判官たちの議論がまとまらないため、梅汝璈はジョークを述べて「もし裁判長と皆さんがこの順番が気に入らないのならば、いっそのこと体重計を持ってきて体重を計り、重たい順番に並べばどうですか。こうすれば、最も公平で最も客観的な並び方になりますよ。」裁判官たちはどっと笑った。ウェッブは笑いながら「あなたの方法は、ボクシングの試合には使えるかもしれないが、国際法廷はボクシングの試合ではないからね」と言った。梅汝璈は「もし降伏文書のサインの順番でないとすれば、私は体重を計るのが唯一の基準だと思いますけどね」と答えたが、ウェッブは取り合おうとはしなかった。

開廷の一日前についにこの席次の問題に決着をつけるときが来た。それは最も裁判官の間の意見の衝突が激しくなったときでもあった。梅汝璈の言葉でいえば「それは決定的な意義を有する一日」となった。

1946年5月2日の午前、裁判書記官が緊急に各国の裁判官たちに通知を出し、午後四時に開廷儀式の予行演習を挙行し、その場で記者たちの撮影を行うので、正式な法服を着て準備するようにとの指示であった。11か国の裁判官たちが法廷内の裁判官のための休憩室に集まった時に裁判長ウェッブは宣言していった。「席順は米国、英国、中国、ソ連、カナダ、フランス、オーストラリア、オランダ、インド、ニュージーランド、フィリピンとする」ウェッブはさらに「これには連合軍最高司令部も同意している」と付け加えた。

梅汝璈は突然の発表に「この席順はおかしいではないか。いったいどういう意味だ。私はこの席順を受け入れることはできない。今日の予行練習への参加は見合わせる」と述べると休憩室を離れて自分の事務室に戻り法服を脱ぎ捨てた。

ウェッブがあわてて梅汝璈の事務室に追いかけてきて説明した。「英米の裁判官が私の両脇にいた方が、英米法に詳しくて仕事にも便利だ。べつに中国を蔑視するわけではない」。しかし梅汝璈は「これは国際法廷で、英米の法廷ではない。私には英米が真ん中の席を占める必要があるとは思わない。」と答えた。ウェッブは「この席順ならば、あなたは米国とフランスの裁判官の隣で、ソ連の将軍裁判官の隣ではない。そのほうがあなたも気が楽ではないか。」

梅汝璈は苦笑して「裁判長殿、私はべつに楽をするために東京まで来たのではない。私の祖国は50年にもわたり日本の戦犯たちから侵略されて苦しんできたのだ。中国人の立場から言えば、日本の戦犯を裁くのは非常に厳粛な任務であり、まったく気楽な仕事などではない。」するとウェブが威嚇するように言った。「この席順は連合軍最高司令部も了解済みだ。もしあなたが席順を拒絶して中米関係が不愉快な関係になれば、とても残念なことだとは思わないか。中国政府もあなたの行為に同意はしないだろう。」

梅汝璈は一字一字含ませるように言った。「私には絶対にこのような不合理な提案は受け入れられない。中国は最も激しく日本に侵略され、戦争期間も最も長く、戦争での犠牲も最も多い。それなのに日本を裁く法廷で席次が英国より下になるとは考えられない。私には中国政府がこの提案に同意するとは思えない。また私はこの席次を本当に連合軍総司令部が了承したのか疑わしいと思っている」。

こういい終わると梅汝璈はコートを着て帽子をかぶり、帝国ホテルへ戻る準備をし始めた。梅汝璈の最後の言葉はウェッブ裁判長の人格と誠実さに対する批判であった。ウェッブは顔を真っ赤にして筋を浮き上がらせていたが、梅汝璈が帰ろうとしているのを見ると梅汝璈を遮って言った「わかった。同僚たちともう一度話し合って意見を聞いてみよう。帰らないで、10分だけ待ってほしい。すぐに戻ってくるから。」

10分もたたないうちに、笑顔をたたえたウェッブが戻ってきて言った。「同僚たちと話し合ってきたよ。彼らが言うには今日の予行練習の席次は臨時のもので正式のものではないから、私たちはもとの席次でいいではないか。明日正式に改定する際に席次をどうするかは、今晩会議を開いて討論しよう。」

梅汝璈は答えた。「カメラマンと記者たちはみな裁判所で待っている。彼らは必ず写真を撮るでしょう。この写真が中国国内で報道されれば、人々は私を軟弱で無能だと非難するでしょう。だから私は絶対にこの予行練習には出席できません。私自身については、慎重に考えたいと思います。私が政府に指示を仰ぎ、政府が私を支持するかどうかを見ましょう。もし政府が支持しないのならば、私は辞職して、ほかの人を派遣してもらうつもりです。」言い終わると梅汝璈はドアに向かって歩き始めた。

ウェッブは焦ったような面持ちで梅汝璈を遮って言った。「ちょっ待ってくれ!もう一度同僚たちと話し合ってみるから。」この時、すでに裁判官の予行演習は予定より30分近くも遅れており、ホールに待つ記者たちも待ちきれない様子であった。すでに全世界に明日開廷のニュースが発せられた今となっては、明日正式に裁判が開廷できないことになれば、重大な責任を負うことになるだろう。それは息を詰まらせるような10分間であった。

ウェッブが三回目に梅汝璈のところへ来たとき、ウェッブは梅汝璈を見つめて言った。「みんなは君の意見に同意したよ。予行練習の席次は降伏文書のサインの順番で行おう。」裁判官の最初の席次ははたして本当に連合軍最高司令部のマッカーサーの意志だったのか、あるいは単にウェッブの考えだったのかは今も謎である。だが我々は梅汝璈の当日の日記から、その後のウェッブと彼との関係が依然として友好的であったことを見て取れる。「ホテルのバーでウェッブ裁判長に合うと、彼は明日は喜ばしい開廷の日だ。今日は早く寝よう。と言った。我々は互いに笑顔で別れた」と日記には書かれている。

『梅汝璈日記』には開廷の朝のことがこう描写されている。「5月3日、金曜日、今日は極東国際軍事裁判が正式に改定する第一日目である。そしてまた私が歴史的な劇の第一幕に参加する日でもある。」
裁判所の門に掲げられたには英語で INTERNATIONAL MILITARY TRIBNAL, FAR EAST と書かれてあった。

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