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2015年11月17日

中国と東京裁判(15):『梅汝璈日記』12

1946年4月30日火曜日
今日は裁判官の会議はない。天気は曇り雨である。私は午前裁判所に行かなかったが、方秘書と羅秘書を裁判所に様子を見に行かせた。何か臨時に起こっていないかどうか心配だったからである。私は自分の部屋でもう一度こまかに訴訟手続き細則を研究し、幾つかの裁判所の翻訳の問題に関する幾つかの仕事をして、それから日記を補足した。

昼に方秘書が中央社の記者宋徳和氏を連れて来た。ホテルで昼食を取る約束であった。宋氏は我国のたいへん有名な従軍記者で、かつて連合軍に従軍して太平洋の諸島と日本本土に上陸した事がある。彼は中央社の海外記者の支柱の一人で、私は国内で彼の通信を少なからず読んだ事がある。彼はまだ三十過ぎで、英語が流暢で、とても活発で創造性に富んでいる。彼によれば、中央社の東京での地位は高く、AP通信社やUP通信社にも引けをとらないが、人手が足りず彼の助手の曾氏が帰国してからは、彼がほとんど一人で切り盛りしているとのこと(彼も最近一度帰国して戻ってきたばかり)。彼は日本の内情をたいへんよく知っており、司令部とも日本政府とも連絡工作をよく行っている。彼はマッカーサー元帥が徐々に日本に加担していく政策の危険性を承知していたが、しかし一般的に国際的な大局の動きについては悲観していなかった。彼は米国は決して中国を放棄しないだろうと考えていた。彼は今日の新聞に国共の談判が決裂したとあったが、悲観するには及ばないと考えていた。

私たちは二時まで愉快に語り合った。彼が去った後、私は裁判所に行き裁判所の開廷演習に参加した。今日の演習では、検察官(中国は代表団の沈顧問が臨時代表)と裁判所の職員がみな参加した。しかし演習結果はとてもひどいものであった。もともと今日は英日と日英の通訳の効果や翻訳人員の速度と技能を試験する予定であったが、結果としてウェッブ氏が一貫して英語を用いて進め、秘書長も総指揮も彼を止めようとしなかったので、解散になるまでこの試験は行われる事がなかった。その後にウェッブ氏は大いに不満で、彼は明日一人だけで来て(他の裁判官は来る必要はない)再び一度試験することとした。

演習が終わって裁判官たちは集まって約三十分ほど話し合った。私は事務室に戻ると、沈顧問と方秘書と羅秘書が待っていた。私は数杯のコーヒーを持ってこさせ、みんなで三十分ほど話をして、沈氏を代表団まで送り、私たちも車から降りて建物に入り公亮将軍(朱世明将軍)としばらく話をした。

ホテルに戻って夕食を取り、みんなで大いに語り合った。みんなは今日の「演習」は意味がなかったと感じており、いくらか滑稽であった。八時四十分に淡如(王之将軍)と映画を見る約束をして、映画が終わらないうちに部屋に戻り私の部屋で話をした。ほとんどが中国代表団の機構と人事の問題についてであった。淡如(王之将軍)はとても興奮して騒いでいたが、少なからず特殊な意見を有していた。彼はフィリピンの頃からマッカーサー司令部の連絡官として任じられ、すでに五年あまり、米中の連絡の仕事をいかに進めるかについては深い認識がある。淡如(王之将軍)が去った後に、太極拳を練習して、日記をつけて、寝たのは一時近くであった。

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2015年11月16日

中国と東京裁判(14):『梅汝璈日記』11

1946年4月29日月曜日
今日の裁判所は正式に一つの大きな仕事を処理した。それは起訴書の法廷への提出儀式があったからだ。提出の儀式は十時半ころに挙行され、私は九時半に方秘書と法廷に赴き、幾つかの事務処理をしてマクドゥガル氏らと裁判官会議室へ行って話をした。

十時半、検察長のキーナンが一冊の起訴書を携えて会議室に来て、その後に各国の陪審検察官も到着した(我国の検察官向明思氏は帰国していて、今日は劉子健秘書が代理)。裁判官たちは会議テーブルを囲んで座り、検察長は裁判長に対面して座り、各国の検察官たちは四周の窓際の椅子に座った。

検察長が裁判官たちに発言し、起訴準備の経過を略述した後に起訴書の提出を許可するよう求めた。裁判長はその要求に答え、秘書長に領収証を渡すよう命じた。それから検察長に裁判会議に列席するよう求め、彼の裁判開廷の起訴受理日時に関する意見を陳述し、所謂手続きArrangementは、裁判が正式に開廷する時に起訴を受理し、さらに個別に各犯人に「有罪」(guilty)か「無罪」(not guilty)かを尋ねる。これは英米法の特別な手続きである。大陸法系の国家では起訴Indictmentと手続きArrangementは区別しない。

キーナン氏が発言し、起訴書の副本を検察書はすでに複数準備しているので、裁判所は今日にでも各犯人に配り、彼らに起訴を認める(plead guilty)かそれとも起訴を認めない(plead not guilty)かを決定させる。これは簡単なことなので、キーナン氏は三四日もあれば十分だろうとのこと。この意見に基づいて、裁判所は今週の金曜日午前十時半に第一回目の法廷を開庭し、その時に検察処が正式に公開で各犯人を起訴し、各犯人および弁護士は法廷で「無罪」か「有罪」か声明を出す。

この決議の後、検察長と各国検察官たちは裁判官会議室を退出した。これでいわゆる起訴書提出(Return of Indictment)が完成し、費やした時間は総じて一時間にも満たなかった。この儀式は「室内」で挙行され(Judges sitting in chamber)、所謂「法廷」(Judges sitting in open court)で挙行されるものとは異なる。

会議が終わると、数人の新聞記者とカメラマンが入ってきて、そのうちの一人は中央社東京特派員の張仁仲氏であった。彼は活発で有能な青年である。彼はカメラマンに我々二人を一緒に撮影してもらった。彼は私について事務室に来て、私に幾つかの質問を提出した。彼は私の席が二番目で、裁判長の左手に座っていることに満足を表明した。彼はすでに外部で裁判官の席順の問題で多くの噂が流れており、それで裏でいろいろな駆け引きや論争があったことを知っているとのことであった。彼は私が国家が占めるべき地位を守った事を祝福し、必ず電報を打って本国で宣伝すると言った。私はこれは我国八年の流血を伴う抗戦の結果で、私個人の功績と言うことはできない。我々の国家が平和的な建設を努力しさえすれば、国際的な地位は必ず保持されて低下することはない。もし国家に何か起こったら、我々の地位もいかなる国際的な場においてであろうとおそらく低下は免れない。

裁判所の情況に関してと最近数日の手続き進行について、私は方秘書に一通り彼に説明してもらった。彼は十二時に去ったので、私はバーに行きヒギンズ氏とレーリンク氏としばらく話をし、ザリャノフ氏も席にいた。みな法廷が動き始めたので嬉しそうであった。

ホテルに戻ると、一緒に食事をする約束をしていたツ震組長と李済之博士はすでに私の部屋で待っていた。
ツ震氏はあさってに米国に行き、ワシントンの極東委員会の賠償会議に出席する。李氏があさって帰国するのは、中央研究院と国立博物館のたくさんの仕事が彼を待っているからである。

食事は部屋で取り、我々は食べながら愉快に話をし、別れた時にはすでに三時過ぎであった。昼寝をして起きると、中国連参処に中央社の電報を見に行き、淡如(王之将軍)を乗せてホテルに戻った。数日前にあった王さん(日本に来て初めて会った中国人のお嬢さん)は、何かのことで淡如(王之将軍)を尋ねてきた。淡如(王之将軍)は私を誘って食堂に夕食を食べに行った。食事の後映画を見たが、カラーでとてもにぎやかであったが、劇の感動は全くなかった。米国の映画はだいたいこんなものである。客人が去った後に、太極拳を練習し、シャワーを浴び、およそ十二時に寝た。

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2015年11月15日

中国と東京裁判(13):『梅汝璈日記』10

1946年4月24日水曜日
今日は午前に法官会議を開き、続けて訴訟手続き細則の草案と文書ファイルの翻訳の問題を討論した。草案にはわずかな修正があるだけで、全部あわせるとこれで第四次の草案となる。

ちょうど草案を討論している時に、秘書がマッカーサー元帥の回答状を持ってきて、中には極東国際軍事裁判憲章修正条文の草案が附されていた。修正案には私たちの質問状の問題に対し、その規定は被告の自己弁護あるいは弁護士を雇用しての弁護を許すが、二者のどちらか一つを選択できるとあった。そのほかに憲章はもう一つの修正として裁判官を二名増加し、インドとフィリピンが各一名代表を派遣するとあった。検察処にもインドとフィリピンは検察官を各一名派遣し、検察長に協力することになった。

会議が解散後に、ホテルに戻って昼食を取った。雨がひどかったので、外には出なかった。明日は中央社の曾思清氏が帰国するので、私は昼寝の後に手紙を書くことに没頭し、七時に晩餐を食べ、それからまた続けて手紙を書いた。十時に方秘書と劉秘書が取りに来た時には、私は六通の手紙を書き上げており、すべて彼らから曾氏に渡して明日に上海で投函してもらう。

十時から二時までは新聞を読んだ。混乱した世界には問題がほんとうに多すぎる。しかし日本の幣原内閣が倒れ(昨日総辞職)その後継人の人選問題と我国の東北情勢の発展が最も私の気になることである。我国の前途の多難さと国際地位の下落の危険を考えると私は夜も安心して眠れない。「当局者は迷っているが、そばで見ている人にははっきりしている」というが、この種の危険は国外にいる人間はおおかた国内の人よりはっきりと認識できるものだ。

1946年4月25日木曜日
今日の午前は裁判官の会議があり、第四次修正草案について討論し、少しの文字の修正だけで、この草案は大体脱稿したと見なしてよいだろう。

草案の討論が終わってから裁判官は誓約にサインしたが、誓約文は次のようなものであった。
「我々は極東国際軍事裁判裁判官として必ず法に基づいて正義を執行し、恐れやひいきや偏見によることなく、我々の良心に基づいて最善の理解により任務を執行する。我々は決して法廷の特定の成員の意見や投票を漏らしたり暴露したりすることなく、すべての成員の秘密を必ず守る」。

署名の順序は、米、中、ソ、カナダ、オーストラリア、フランス、オランダ、ニュージーランドであった。私は中国語で署名をしてから名前の後に英訳を附した。この署名の儀式はとても簡単なもので、ほとんど儀式と言うほどでもないようなものであった。署名が終わると解散になり、私はホテルに戻って昼食を取り、昼寝をした。

目が覚めてから、昨日の夜に淡如(王之将軍)が持って来てくれた数冊の図書と雑誌を閲覧した。六時に代表団と朱世明団長、沈顧問、ツ組長および銭秘書と約一時間ほど話をしたが、おおかた国内の情勢と代表団の日本の首相の継承人選への態度についてであった。朱世民将軍は組閣を期待する声が最も高い党の指導者鳩山についてすでに総司令部に反対の意見書を提出したと述べた。これにより、彼の組閣の幻想はまったく破滅に終わった。日本の首相の人選に中国人の同意が必要とは空前絶後のことだ。私は中国人が努力して自分を大切にし、団結して建国し、その国際的地位を保つよう願う。

ホテルに戻り晩餐後に小劇場で映画を見た。映画の題名はDetourというもので、主人公はあまり有名ではないが、情景と演技はなかなかのものであった。十一時に淡如(王之将軍)が尋ねてきて、シャワーを浴びて寝たのは一時近くであった。

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2015年11月14日

中国と東京裁判(12):『梅汝璈日記』9

1946年4月23日火曜日
今日の午前は再び法官会議で、討論したのは法廷、翻訳、記録官、記者などの宣誓の語句と方式についてであった。というのは翻訳と記者の宣誓の中に「神よ助けたまえ(So help me God)」というのがあるのだが、私は削除するか変更することを主張した。なぜなら彼らがキリスト教徒であるとは限らないからである(この主張は受け入れられ、非キリスト教徒は宣誓時にこの語句を使わなくてもよいことになった)。法官の宣誓はまた別のもので、これには全く「神よ助けたまえ」の語句はない。

そのほかにも、訴訟手続き細則上の幾つかの小さな文字修正などを討論した。なぜならマッカーサー元帥が昨日法廷に当てた照会状に対する回答状ができておらず、私たちは憲章の条文が抵触するかどうかの問題がまだ釈然としていなかったからである。

会議が解散した後に、ザリャノフ将軍が私の手を握って話をしたそうにしていたので十分ほど話した。私は彼に1929年2月の厳冬にモスクワを通った事があると告げた。彼は「そのころはあなたは子供だったでしょう。みたところあなたは三十歳前後のように見えるから」と述べた。私は彼の言葉がユーモアなのか、本気でそう信じているか分からない。しかし、中国人は髪が黒く背が低いので実際の年齢より若く見られるのは確かである。例えば、明思(向検事)は私より十歳も上で、実際には五十一、二歳である。しかし西洋人には彼が三十歳前後か三十歳台に見えるようだ。これは中国人が損をするところで、私がひげを生やしたことが対策になるかどうかわからない。

ザリャノフ氏と別れた後、私はバーでマクドゥガル氏、パトリック氏と三人でコーヒーを一杯飲んだ。法廷を出た後、私は代表団に行ったが朱将軍は不在で、ツ組長と銭主任と話をし、それから送られてきた中国の出版物を読んだ。

部屋に戻って昼寝した。四時から六時に詳細に最近数日のスター・アンド・ストライプ紙とジャパン・タイムス紙を読み、最近の数期のニューズウィーク誌とタイム誌を読んだ。外国の出版物の編集技術はとても高く、読者を飽きさせない。六時に朱公亮(朱世明)が来て話をし、私たちはともに夕食を取って、晩餐が終わってから向かいにあるパイル劇場で最近新たに上演されている名活劇Arsenic of Laceを見た。題材はある狂人の家庭で、二人の老人が十二人を毒殺し、一人のその狂人の姪も十二人を殺すというもので、中間にラブストーリがはさまっている。台詞はとてもよく、演技も悪くはない。しかしこの題材はあまりにも現実離れしているが、あるいは遊び飽きて満足しきった米国人には新しい刺激になるのかもしれない。

劇場から出た後に朱将軍は私の部屋に戻って大いに話したが、ほとんどは連合国の対日理事会の近況とアチソンがマーカットに交代した意味についてであった。公亮の目はとても鋭く、アチソンともよい関係があるので、私は彼がこの情況をうまく利用できると信じている。

公亮が去った後に、私は太極拳を練習し、日記をつけて、眠った時にはすでに一時を過ぎていた。今日の午後四時には太極拳を練習したが、眠る前にももう一度太極拳を練習した。私は東京に来て一ヶ月ほどの間に二回も太極拳をしたのは始めてである。私は今後毎日二回太極拳をしたいと思っている。もし一度ならば早めに昼間にしたい。寝る前に太極拳をするのはあまり衛生的ではない。

おとといに撮影した写真をACME新聞撮影公司が二枚の見本を送ってきた。これは九人の裁判官が法廷前の門で撮影したものである。太陽の光が強烈過ぎて、みなとても不自然である。公亮(朱世明)は私の姿勢にとても満足げであったが、彼は私とフランスの法官以外はみなあまりにも老人くさいと述べた。私は彼らこそ西洋の裁判官の典型だと答えた。

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2015年11月13日

中国と東京裁判(11):『梅汝璈日記』8

1946年4月15日月曜日
今日は私と婉如の結婚一周年記念である。私は現在は彼女がどこにいるのかすら知らない。あるいは彼女はすでに重慶から離れて上海に向かう途中かもしれないし、あるいは彼女はすでに上海に到着したかもしれない。中国の交通はとても困難な状態なので、私は彼女が心配で去年の今日の情景を絶えず回憶させた。私は彼女の健康を祈り、彼女の揚子江上の旅程が順調である事を祈った。

天気は特に温かくて、桜の花がいたるところで満開になり、帝国ホテルの情景は私に北温泉の数帆楼に登った今日の事を思い出させた。月初めに私は一樵(顧毓e)氏にちょっとしたプレゼントを婉如にあてた手紙と一緒に渡してもらい、そこで彼女には4月15日にはかならず客を呼んで記念すると告げたのである。朝起きると、私はどんな人々を食事に呼ぼうか、中国料理がいいか日本料理あるいは西洋料理をご馳走するのがいいかと考えていた。突然に淡如(王之)が私の部屋に一枚の紙を持って来た。これは中国旅日華僑連合会の招待状で、主に朱将軍と私を歓迎するものであったが、実は朱将軍を招待するもので、私はそのついでに過ぎない。朱将軍は彼らを主管する長官だからである。それに夜には中国代表団の大勢の人々が到着し、公亮(朱世明)も淡如(王之)もみな代表団で招待することになっていた。私はこの状況を見て、ただ計画をあきらめるしかなく、華僑がこのような大きなパーティを開くのなら、私が三人から五人の友達を呼んで祝うのより盛大でいいだろうと考えた。これは人に借りた花を仏に捧げるようなものだが、実際状況からして止むを得ずそうせざるを得なくなったのである。

午前は私は方秘書と共に法院に出向き、幾つかの公文書を見てから、マクドゥガル氏とレーリンク氏としばらく話をした。彼らはソ連の同僚であるザリャノフ将軍がすでに到着し、昨晩彼らと一緒に食事をしたと述べた。ザリャノフ氏はすこしも英語を理解せず、彼の通訳をしている青年将校の英語もあまり上手ではないので、将来に会議を開き審理をする際に問題になるだろうとのことであった。

法院で、公亮(朱世明)から電話があり、華僑の招待は茶会で、人数がとても多く、私に三時半に彼のところへ行って一緒に会に出席するように告げた。昼食後にすこし寝てから、三時半になったので公亮(朱世明)のところに行くと、三人の華僑代表がそこで待っており、送迎のために派遣されたとのことであった。参加する人は七、八人で、我々は四台の車に分乗して出発し、私と朱将軍と方秘書が同じ車に乗り込み、約四時に上野公園の中華料理店で、東京最大の中華料理店に到着した。我々が到着した時、待ちわびた華僑たちがすでに数百人いた。あとで私が説明を聞くと明日は華僑連合会の年会で、今日は東京で特に人が多く、彼らはその機会を借りて朱将軍の歓迎会を開いたとのことであった。

数人の華僑の主だったひとが我々を客間に招待して挨拶すると、続けて皆で会議を開催するために講堂に行った。講堂はさほど小さくなかったが、人がいっぱいで、タバコや酒や菓子もみな日本産で、これはまた別の風味があり、私は幾つか干し魚を食べた。日本のタバコはまったく駄目で、最もいい物でも重慶のいちばん劣等なのに及ばない。会長の周某が開会の言葉を述べ、続けて公亮(朱世明)の訓話があり、謝南光氏が閩南語に訳していた。朱将軍の演説は相当に長く、言葉使いも相当に厳粛であった。後で聞いたところによれば、在日華僑は玉石混交で、分を守り清らかに生活しているものもいるが、騒ぎを起こす不良なものも少なくなく、そのうちには戦争期間中の行動が怪しいものもおり、現在でも大陸の浪人と手を結んでブラックマーケットで物資を売ったり其の他の不名誉な事をしている者もいる。それで朱将軍は彼らを激励するだけでなく、さらに時には彼らを訓戒や警告する意味もあるという。

公亮(朱世明)の訓話が終わると、会長は私にも何か話せという。これは全く私の予想外のことで、しばらく躊躇したが、断るわけにもいかないので、しかたなく十数分間話して、やはり謝南光氏が少しづつ閩南語に翻訳した。私はただ二点の事を希望として述べた。第一は、華僑同胞は言行を特に注意し、どこにおいても大国の国民としての風格を保ち、我々がすでに得た高い国際的な地位にふさわしい態度を取るように。第二は華僑同胞が団結を保持し、分裂することなく、事に当たる際には民主的なやり方を採用するよう希望する。事前に十分に討論して自由を発揮し、しかしひとたび公に決定されたら、必ず多数に従い、みなが絶対にそれを遵守して、別の意見に固執して、勝手な行動を取る事がないように。この点は私が約二十年前に米国で、またその後にヨーロッパの各地の華僑の最も普遍的な弊害で(団結せず分裂しやすい)ある。私はこの場を借りて一言述べてもいいだろう、特に明日は旅日華僑同胞連合会の年会だからと考えた。

私は講話を終え、みなでしばらく座談をして、私と朱将軍は退席を告げたので、主席が散会を宣言した。唐上校と方秘書が車に乗って私のホテルにやってきた。私は部屋に茶と菓子を持ってこさせ、彼らと一時間ほど話しをし、彼らは第一賓館に帰った。六時過ぎにバーに行くとソ連以外の各国の裁判官がみなそろって、酒を飲んだり談笑したりしていた。裁判長のウェッブ氏はすでにオーストラリアから戻ってきていた。紹介の後、私たちは初対面であったので懇切に話し合った。彼は背が高く太って大柄の体格で、大体六十歳前後の人である。彼は最近にオーストラリアの最高法院裁判官になったばかりで(元はクィーンスランド州高等法院主席判事)、私が彼に祝福の言葉をかけると、彼はうれしそうにしていた。

ウェッブ氏はとても和気藹々としており、真摯で誠実そうであり、あまり言葉は多くはないが言葉ははっきりしており、態度はとても公正で、事務処理も要領を得ている様子であった。これが私の彼に対する初歩的な印象である。彼は確かに紳士の雰囲気がある君子らしい態度である。私たちは共にご飯を食べて、食事をしてから再びホールで語り合った。ノースクラフト氏らはウェッブ氏に「サー」を付けなくてもよいだろうといい、またウェッブ氏も私に「ドクター」を付けなくてもいいだろうといい、互いに「ミスター・ウェッブ」「ミスター・メイ」あるいは「ウェッブ」「メイ」と呼び合う事にした。

私は急いで中国代表団の知らせを聞きたかったので、九時になると上の階に上がった。淡如(王之将軍)の部屋にはすでに国内から到着した二名がシャワーを浴びていたので、私は飛行機が本当に到着した事を知った。それから明思(向検事)が四通の手紙を渡してくれた。一通は三番目の弟汝璇が綿州から宛てたもの、二通目は五番目の妹である蘊珍が白沙より宛てたもの、三通目は羅秘書が上海より当てたもの、四通目は妻の婉如が重慶より宛てたものであった。父親からの手紙がなかったのには、少しがっかりした。しかし、妻と弟や妹の手紙から両親は故郷に帰る準備をしており、とても健康であるとわかった。妻の手紙はとても長く、私が顧一樵(顧毓e)および白顧問に託した中国の切手がついた手紙も届いたとのことであった。彼女は私にいろいろな重慶の家の情景を知らせてくれ、私はとても嬉しかった。ただ妻の兄に当たる静軒氏がまだ長春から退去していないことが、私は心配になった。婉如は12日に郵政総局の鴻逵専船で河南を離れて、月末に上海に到着予定だとあった。今日は出発して四日目だから、おそらく彼女は沙市に停泊しているだろう。私たちは離れ離れで、彼女に苦労をさせていると思うと、とても気持ちが不安になる。私は心の中で彼女の旅が愉快で平穏である事を祈った。

今日の事はとてもよい時に合って、私をとても興奮させた。4月15日のこの記念日には、私は婉如が特に懐かしい。ちょうどこの日に、私は彼女が中国から送った手紙を受け取ることができた。これは不思議な事で、もともと私は小さな記念パーティをしようと思っていたのだが、華僑全体がこの日に盛大な歓迎会を開いてくれたので、情況の熱烈さは去年のこの日の数帆楼にも負けず劣らずとなった。本当に偶然が重なって、私は特に嬉しくなった。私が今日来ているのは去年のこの日に来ていたあの白いシャツで、身に付けているのは去年のこの日に付けていた赤いネクタイである。この種の小さなことまでこだわるのは、あまりにも子供ぽいことではあるが。孟子も「大人はその赤子の心を失わず」といっているので、私も大げさになってもいいだろう。

部屋に戻り、手紙と送ってきた中国の新聞の私に関する報道をもう一度見て、日記をつけて、太極拳を練習して眠る時にはまた一時間が過ぎていた。

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2015年11月12日

中国と東京裁判(10):『梅汝璈日記』7

1946年4月12日
今日はマッカーサー元帥と昼食を共にする約束で、私は早めに方秘書を連れて裁判所に行き、早めにホテルに戻ってキーナン検察長が迎えに来るのを待った。

裁判所では、我々は「訴訟規定細則」の第二校を逐条詳細に研究し、それからオリベッティ氏の意見書を再び詳細に考慮した。私は草案にメモをして、次回の会議の時に討論できるよう準備した。この仕事が終わると、マクドゥガル氏がバーに誘ったので、ヒギンズ氏、ベルナール氏、レーリンク氏らとお喋りをした。みなはウェッブがなかなか帰ってこないこととソ連の判事が遅れていること、また起訴の日時が決まったと思ったらまた延び、とても不愉快でいらいらしているようだった。

ホテルに戻って休んでいると、キーナン氏が来た。彼は私とフランス判事ベルナール氏を彼の車に乗せ、もう一台に向検事、フランス、オランダ、フィリピンの検事を乗せていた。私は私の運転手に空車を伴走させた。私たちが直接アメリカ大使館のマッカーサー官邸に入り、到着したのはおおむね午後一時ころであった。

マッカーサー元帥はまだ仕事から戻っておらず、彼の夫人と若い副官が我々を接待した。マッカーサー夫人は体は細身で小さいが、よく口が回り、お世辞や受け答えがよくできた。彼女は中国文化の古代遺跡に興味があるようであった。おそらく彼女は会話が中国の話に集中したのに気づいたのか、あわててパリの美しさや、ハーグの状況、フィリピンの思い出などを語り、賛嘆したり質問したりした。ともかく、彼女の話はとても多く、しかもとても耳障りがよく、すこしも飽きさせない。パーティーに一人こういう人間がいると、だれも寂しく思う事はないだろう。

私たちが三十分ほど談笑したところで、マッカーサーが本部から帰ってきた。彼が部屋に入ると、マッカーサー夫人が走っていって、抱きついてキスをした。これは西洋人の挨拶であるので驚くことはない。続いてキーナンが我々を一人一人紹介し、握手をした。私たちが席に就くと、マッカーサー元帥は遅れたことを詫び、その後に食堂に行って食べながら話しましょうと述べた。

マッカーサーはとてもがっちりした体格だが、太っているわけではなく、標準的な米国式の軍人の体格で、背が高くて太っておらず、壮健であるが粗野ではない。彼の最も魅力的なところはキラキラとした目で、握手をする時や話をする際に我々に無限の誠実さと魅力を感じさせる。私は今日はマッカーサーのすぐ右隣に座り、西洋の礼節から言えばメインゲストの位置に座った。私たちは距離が比較的近かったので、話す機会も比較的多かった。彼は外交的に中国への深い興味と敬意を表明し、我国の最高指導者を尊敬していると語った。彼は今日気分がとても良いらしく、よどみなくさまざまな話をしていた。

彼は現在の国際間に充満する猜疑と衝突に不満を表明した。第一次世界大戦が終了した後は、みなが和気藹々と平和会議を開き平和条約を締結して、戦勝国間では平和な関係が数年継続した。しかし、このたびの戦争が終わるとすぐに国際関係は緊張し、すこしも休む暇なく続けて第三次世界大戦が始まりそうな気配があると述べた。

第三次世界大戦の可能性について語るときに、彼は表情豊かに大げさにジャスチャーを交えて語った。彼は第三次世界大戦は起こしてはならない、なぜならそれは人類の滅亡を意味するからだと語った。今後の戦争はどちらが勝った負けたの問題ではなく、人々が絶滅を望むのか否かという問題となる。

彼は、原子爆弾の発明はすべての戦略と戦術、ひいては戦争の意義さえも変えてしまったと言った。原子爆弾を持たない国家は戦争に参加できず、戦争に参加した国家は敵国を滅亡させ、同時に敵国からも滅亡させられるとすれば、結果は相互の完全な破壊である。彼は原子爆弾の威力についてよく研究していた。現在は広島と長崎を爆撃したものよりさらに強力な物が製造でき、小さな一個の爆弾で二千のB29で空爆したのと同じ威力がある。彼が言うにはたった六十個の原爆があれば大きな米国ですら麻痺させ壊滅させることができ、小国ならひとたまりもない。しかも原爆は新型武器の始まりでしかなく、将来は必ず原爆よりもさらに威力の大きな物が出現する、あるいは現在すでに出現しているかもしれないと述べた。

「このような状況ではどうやって戦争するのか、だれが戦争に勝つというのか?」とマッカーサーは笑いながら尋ねた。続けて感嘆しながら「世界には六百万の常備軍を用意している野心のある国があるので、我々は戦争に準備しないでいることができるだろうか」「私は戦争が危険である事がわかるが、それでもいつも警戒は必要である」と述べた。

フランスの判事は彼にド・ゴール将軍を知っているかどうかと尋ねた。彼はまだ面会したことはないが、とても尊敬しており、それは彼が私と同じで外交的ではないひとであるからだと述べた。みなが承知のようにマッカーサー将軍は外交だけでなく政治手腕も極めて長けた人である。もしそうでなければ、彼はどうして現在の地位で何事も思い通りに処置するようなことができるだろうか。

彼は日本の最近の選挙の結果と憲法の作成に満足を表明し、これを以って民主化の第一歩とみなしていた。この点については私は批評できない。マッカーサー元帥の日本統治が良いか悪いか、我々にとり有利か不利かは、現在のところまだ答える事ができない。

マッカーサー元帥は中国の戦争への貢献を忘れてはおらず(英米人は中国が現在内乱で混乱しているのを見て八年間の苦戦の功績を忘れてしまった人が多い)特に我国の遠東委員会と対日理事会が米国と協力していることに深く感謝を表明し、暗に朱将軍の着かず離れずの態度に満足をしていることをほのめかした。我国政府と人民が日本に対し報復せずに寛大な態度を取っている方針について、マッカーサーは賞賛を加えて「中国は哲学的な民族で、とても理知的であり、どうあっても最後は日本とうまくやっていかなければならないことを知っている」と述べた。

正直なところ、マッカーサー元帥の立場からすれば、中国の寛大な立場は最も適切で最も必要なところである。しかし寛大のほかにも、我々は警戒を怠ってはならない。我々は私たちの日本への警戒を引き上げるべきである。これはいやおうなく私に3月29日のラティモア氏の論文を思い起こさせた。私たちはすぐに二時間ほど話をしたが、話題はとても多く、私は完全には覚えていない。私は一番目の席に座っているので、まず最初に退席を言い出さなくてはいけない。マッカーサー氏と夫人が門まで送ってくれ、別れの握手をする時には合ったときと同じエネルギーを感じた。

私の印象ではマッカーサー氏は軍事的天才であるだけでなく、一人の大政治家でもある。しかし私が最も関心があるのは彼の統治する日本の政策が我祖国に利益となるかあるいは我祖国の発展を妨げるかということである。この問題は今までずっと私の頭の中で懸案となっている。ホテルに戻るとすでに三時を過ぎていた。昼寝から起きると、三通の手紙を書いて、明日上海に飛ぶ国際検察処に届けてもらう準備をした。夕食前にパトリック、ヒギンズ、マクドゥガル、レーリンクらと話し、明日ウェッブ氏とソ連の判事がおそらく到着するということで、みんな嬉しそうであった。もしそうなれば、ようやく仕事が軌道に乗る。九時半に部屋に戻り、日記をつけ、王将軍と向検事の二人が来て話をして、十二時に就寝した。

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2015年11月11日

中国と東京裁判(9):『梅汝璈日記』6

1946年4月11日
今日は午前外に出ず、部屋で新聞を読んだり日記を書いたりした。スター・アンド・ストライプ紙を見ると、やはり『起訴延期』のニュースが載っていた。理由はソ連の判事がまだ来ていないということだったが、実はそのほかにも原因がある。私は昨日「ハッタリ」だろうと予想していたが、やはり予想どうりであった。

国内のニュースは依然として劣悪で、東北の争奪戦はますます白熱しており、私は長春にいる静軒と璇の兄弟のことが気がかりであったが、おそらく彼らはもう脱出しただろう。三人の調停処の工作は進められているが、おそらく効果はあるまい。マーシャル将軍は今週内に中国に戻るそうである。自分たちのことなのに他人が干渉しなければいけないとは、なんとも説明の仕様がない。同時に経済崩壊がさらに恐ろしい。上海の石炭はすでに一トン四十五万元の高値になっており、方秘書によれば鶏卵一個が一個一千元もするそうだ。これはいったいどういうことであろうか。

ジャパン・タイムスには一遍の短文で「中国人は仇を返さず」とあり、日本が投降後に中国人が日本人にどれだけ寛大な処置をして「敵を友のように見ている」ことを報じていた。寛大はたしかに美徳であるが、しかし姑息と恐れは卑怯である。私はこの文章を読んで、「全てが間違っていて可笑しい」という感じがした。

キーナン氏から電話があり、マッカーサー元帥が明日私を食事に誘っているが、時間があるかどうかと尋ねてきた。これはとても遠慮した言い方で、我々判事は何もすることがなくて暇で仕方ないのに、マッカーサー元帥から食事に誘われて時間がないことがあるだろうか。彼はまた自分も一緒に行った方がいいかどうかと尋ね、もし一緒に行くなら帝国ホテルで待っていてほしい、午後一時に迎えに行くからということであった。私は同意した。ヒゲが長くなったが、私自身もそれを切る習慣がないので、階下の理髪室に行ってヒゲをきれいにしてもらった。

理髪室から戻ると、オランダのレーリンク氏に出くわした。彼は私をホテル内の池の傍の草地に座るよう誘い、二杯のコーヒーを注文した。彼は中国の哲学文化にとても興味があり尊敬していると語った。彼はとても勉強好きで、人格がとてもオシャレで、誠実で、青年紳士のような雰囲気があるので、彼の言葉は嘘ではあるまい。私たちは将来の法廷の判決の是非は英米と同じく、判事が賛成か反対か人数と名前を明記して、反対者にも反対意見を発表するのかどうか討論した。彼は一貫してそのやり方に反対し、いろいろな理由を挙げていた。私は彼の主張にかなり賛成ではあるが、私はこの問題についてはまだあまり精密に考慮していないと答えた。私は彼にこれは相当に重要な問題であるので、細則中に規定があるべきで、少なくとも判事会議で十分に討論すべきであると答えた。私がレーリンク氏と大いに話していると、カナダのマクドゥガル氏がやってきて、彼の部屋でカクテルパーティをするので、私たちはすぐに来て参加するようにと言った。来たのは八、九人で判事以外にも一、二人の裁判所職員もいた。私と米国のヒギンズ氏は酒が飲めないので、しばらく座っていたが退席して一緒に食堂に夕食を食べに行った。

昼寝した後、三時に私は旧農林大臣官邸に朱世明将軍を訪問に行った。朱将軍と張鳳挙の二人が銭秘書とともにいたが、彼らは私に各部屋とその配置を見せてまわった。ここは完全に日本の貴族式の部屋で、明るくて清潔で、たいへん風格がある。窓の外の庭には花草があり、とても清潔で可愛らしい。私たちは地面に座って、お茶を飲んでお喋りしたが、とても東洋風な味わいであった。

四時過ぎになって、米国空輸隊の司令官の某大佐が朱将軍を訪問してきた。朱将軍はみなを招いてとても優雅なゲストルームで酒宴を開いた。その司令官はとても中国に同情的で、状況もよく知っており、北京や上海に行ったことがあり、知り合った中国の友人も少なくないとのことであった。彼の妻の弟は現在重慶の米国大使館で海軍武官をしているとのことであった。彼は日本人がとても嫌いで、憤りながら彼らはとても狡猾で嘘つきだと言った。これは彼の作戦と日本に住んだ経験である。彼は日本人は何でも盗み、ますます大胆になっていると言った。彼は中国占領軍の到来を待って、彼は中国の占領区に住みたいくらいだと言った。彼は米軍の寛容政策に大変に不満で、占領の初期には、日本人は驚いて茫然自失の態であったが、しばらくするとペコペコして従順になり可哀想だったが、今では我が物顔で少し傲慢になってきたと言った。この主張には、朱将軍はとても同感であるようだった。

六時に一人で退席して、英国のパトリック氏の酒宴に出席した。到着すると、マクドゥガル氏、レーリンク氏、ヒギンズ氏、パル氏も来ていた。これらは一日で少なくとも三回あった人たちで、話し始めるととても愉快であった。しかし私とヒギンズ氏は酒に興味がないので、また我々だけで先に退出して夕食を食べに行った。

夕食後に王将軍と向かいのパイル劇場にショーと映画を見に行った。劇場は軍人で一杯で、このショーはとても面白く、とても客が多いということであった。しかし「将官ボックス席」は今晩もやはり我々二人だけで座った。気温が高く熱かったので、見終わらずに帰った。シャワーを浴びて就寝したのは十二時近くになっていた。

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2015年11月10日

中国と東京裁判(8):『梅汝璈日記』5

1946年4月10日水曜日
午前九時に方秘書が来て、我々は一緒に自動車に乗って法廷に向かった。道すがら私は一般市民の投票の動きと熱意を観察したが、それは本日が日本有史以来の初の普通選挙だからである。しかし私がとても失望したのは、どこも極めて無関心なほど冷静で、二十年前に私が米国で見たような熱狂がまったくなかったからである。長期間にわたりファシズムの薫陶を受けてきた日本の民衆にとっては、選挙に何の意味があるのかどんなよい点があるのかおそらくよく理解していないのであろう。

十時に裁判官の談話会が開催され、代理裁判長のノースクラフト氏が主席に座った。彼は検察長キーナンからの手紙を報告した。4月15日に起訴書を提出する予定で、法廷が正式な日時を指定して受理してほしいとのことであった。これはとても意外でキーナンがこんな手を打ってくるとは思いもよらなかった。しかし私の内心ではこれはハッタリではないかと疑っていた。なぜなら私は検察処が忙しくて猫の手も借りたいほどで、起訴書が15日に正式に提出できるかどうか怪しいと言う事を知っていたからである。

しかしキーナンがこうして通告をしてきたからには、我々も彼の挑戦を受けて立たなければならない。私たちは議決で、15日にキーナンを法廷に呼んで起訴書を提出させ、この日にその副本を各被告戦犯に渡すということに決めた。同時にその時に提出から三日目か四日目を指定して開廷して起訴儀式を挙行し、検察官に起訴書を朗読させ、各被告に法廷に出席させ「有罪」か「無罪」かを確認する。この儀式を挙行した後に、被告と弁護士が十分に答弁を準備する時間を与えるため、およそ一ヶ月を隔てて審判を開始する。私は15日に起訴書を受理し、その副本は法廷から各被告に渡すべきで、検察処から渡すべきではないと意見を述べた。みんなが私の主張に同意した。

私たちはこのように決定してから、ノースクラフト氏を推薦して午後にキーナンと詳細な点を話し合うよう勧めた。みんながようやくことが動き始めたと感じて、心中で大いにほっとした。マクドゥガル氏とレーリンク氏はとても熱心で、彼らは「訴訟手続き細則」の第二次草案の提出を討論したいようであったが、しかしノースクラフト氏はウェッブ氏がまだ戻っていないことを理由に、それに断固反対であった。会議が終了してから、私は法廷の事務主任であるヘンリー大佐に会ったので、ついでに秘書処に私の名前の綴りがよく間違って書かれてあることについて抗議した。彼は謝罪してすぐに修正することを約束し、以後はこのような間違いが起こらないようにすると言った。これは大した問題ではないが、彼らは何でも真面目に処理して、決していい加減にしようとはしない。

ヒギンズ氏と一緒にバーでコーヒーを飲んだ。私たちはとても気が合い、それに酒も飲めないので、話し始めるととても親切で話が弾む。これは中国と米国の一貫した友好関係を象徴しているようだ。彼は私よりおよそ十五歳くらい年上なので、兄を自任しており、ときに私やレーリンク氏を弟のように呼ぶ事がある。バーを出てから私たちは一緒に自動車に乗ってレストランで食事をした。

昼寝から起きるとすでに三時になっており、私は約束しておいた方秘書が来たので、自動車に乗って上野公園に皇居博物館を参観しに出かけた。これは元々は皇居の一部であったが、投降後に連合軍が日本人に公共の博物館に改造させ、人々の観覧のために公開したのである。中に陳列されているのは日本の歴代の衣服文物や陶器の模型などである。展示物はあまり多くなく、なにやら「装飾だけ豪華で、内容は空虚」という感じであった。すでによい物のの多くは別の場所に運ばれてしまったそうである。

参観して博物館から出てくると、我々は中国連絡参謀事務所へ行きここ最近数日の中央者の電報を見た。いろいろと見たがどれも国共の東北争奪戦のことと物価が飛ぶように高騰しているというニュースであった。

五時から七時まで、私と方秘書は遠東国際軍事裁判の「訴訟手続き細則」(ウェッブ氏起草)の第二次草案を読んだ。私たちは逐条朗読し、逐条研究し、オリベッティ大佐(第8軍で裁判と戦犯を主管している法律実務家)が提出した個人意見書と対照し、私たちは多くの部分でまだ修正の余地があることを発見した。さらに細かく一、二度研究した後、私は「判事会議」で書面のメモランダムを提出するかもしれないし、少なくとも会議で討論する時に私は十分な準備と理解をもって臨むことができる。各国が派遣してきた同僚はみな経験があり、地位のある裁判官ばかりなので、私は十分慎重に丁寧に事を行い、決していい加減にする事はできない。八時に王将軍が彼の日本語教師を招いて食事し、私もそれに付き合った。私たちは食べて、話をしてとても愉快であった。しばらくすると、向検事が来て、我々は十一時まで語り合って別れた。部屋に戻り太極拳を練習して、シャワーを浴びて、十二時に就寝した。

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2015年11月09日

中国と東京裁判(7):『梅汝璈日記』4

1946年4月4日木曜日
今日の午前は王将軍と向検事の二人と共に朱世明将軍に会いに行った。我々が話したのは部屋の問題で、裁判官と検察官が同じホテルに住むのは都合が悪いので、向検事は帝国ホテルから出なければならないということだ。しかし、私は八カ国の裁判官はみな帝国ホテルに住み、特殊な集団を形成しているので引続き帝国ホテルに住むことになった。朱将軍はこの方法に同意を表明し、もし私が帝国ホテルに住むのが不便ならば私が彼の住所に来て一緒に暮らすのを歓迎する。もし私が家族を連れてきたいのならば、彼が私のために部屋を徴用することができると述べた。私は彼の親切な提案に感謝を表明した。

朱将軍は我国が連合国の対日管理理事会に派遣した総代表で、我国駐日の最高長官である。国府主席が与えた任命書によれば、遠東国際軍事法廷判事以外の駐日の文官武官はみな彼の管理下にある。同時に彼は我国を代表してマッカーサー本部と交渉できる唯一の相手であり、我国の在日のすべての軍事、政治、経済、文化などなどの工作の展開は全て彼の采配によらなければならない。この仕事はとても重要で、この任務は偉大である。彼が先日連れてきた職員は二十人にも満たず、聞いたところでは第二陣、第三陣が一ヶ月以内に到着するという。私の日本語通訳秘書羅集誼氏もそろそろ日本に来るはずだが、法廷の作業は遅々として始まらず、今のところ彼には仕事がなさそうである。そこで私は彼を暫時対日管理理事会の作業に就いてもらうことを申し出ると、朱将軍は喜んで快諾した。

明日は第一回の連合国対日管理理事会の会議が開かれるので、朱将軍は準備に従事しなければならず、我々は三十分ほど話してから退出した。

向検事は私に国際法廷検察処はあさってに飛行機で上海に行くと告げた。私はすぐにホテルに戻り四、五通の家族と友人に宛てた手紙を書き、その中の一通は孫院長宛で、中にはラティモア氏のあの論文を附した。孫院長は最も読書が好きでまた国際時事に関心を持っている人である。この数年重慶で、彼はよい文章を読むと何時も秘書に数部のコピーを打たせ、友人や同僚に配るのであった。これは文章を共有する習慣で、私が重慶にいた時は一ヶ月にいつも彼からこの種の文章を一、二編受け取っていた。私はラティモア氏のこの論文も、彼が読めばきっと数部コピーさせて配ったり、翻訳させて発表させたりする事と思う。こうして見ると、事実上私はこれを彼一人が見るために送るのではない。私は国内の有識の士が、日本とその潜在的な脅威に対して早く気づいてほしいと願っている。

午後に、モリス経理が私を訪ねてきて、私がホテルに相当長期に滞在する事になりそうで、しかも夏がだんだん近づいているので、部屋が空いているときに(米国文化教育調査団が帰国したばかりで二十数間空き部屋があった)もっと広くてもっと静かで涼しそうな部屋に移るよう勧めてくれた。

私は288号室に特に不満があるわけではなかったが、彼の勧めで移ることに決心した。そこで、彼と一緒に幾つかの部屋を見て、最後に私は東南向きの花園に面した256号スイートを選んだ。このスイートも三間で、一つは大ゲストルーム、一つは寝室、もう一つは浴室である。用意されてある用具は二セットで、電話も二つ、客室と寝室に一つづつ、ゲストルームには二つの大きな鏡と屏風でさえぎられた水道と洗面槽、これは客人が臨時に美容するために設けられている。

このようなスイートルームは、もし私が上海のホテルで住むとすると、その部屋代は毎日おそらく法幣二万元はくだらないだろう。簡任官の給料なら一週間の部屋代でなくなってしまい、その他は何も残らないだろう。この事を考えるとまた感慨に堪えなかった。我々の政治は本当に間もなく破産するのだろうか?政府は本当に中国の全ての教員と知識人を餓死させるつもりだろうか?日本は敗戦国にもかかわらず方法があり、すくなくとも方法を考えようとしている。我々は戦勝国で四強国の一つを唱えている戦勝国なのだが、まったく発展がなく本当に慙愧の念に堪えない。

四時に中国連絡官事務室に行きここ数日の電報を見た(東京中央社が集配しているもので、これが二種の英字新聞以外に我々が得られる国内の唯一の情報源)。共産党軍がどこどこを攻撃して、どこどこを占領したとか、某が某庁に異動になったとかの外は、一つとして人を喜ばせるようなニュースがない。期待を膨らませて行ったが、期待はずれでがっかりして帰って来た。これは私が早くから予測していた通りである。

夕方になってバーで判事たちのお喋りに加わり、夕食後には王将軍と共にホテルの隣の劇場に行き演劇と映画を鑑賞した。「将官特別ボックス席」は二階の左隅にあり、私たち二人以外には誰もいなかったので、私たちがボックス席を借り切ったかのようであった。聞いたところでは米国の現在の日本にいる将官は十数人に過ぎず、彼らの士官の階級はとても厳格で、少将や准将の地位でも相当に高く、中将や上将に至っては数十人に過ぎない。本物の陸軍上将は三人だけで、マッカーサーはそのうちの一人である。そのほかの二人はヨーロッパ大陸を疾駆しドイツを打ち負かしたアイゼンハウアーと、我国に駐在し国民党軍と共産党軍の紛争調停をしているマーシャルである。

「将官ボックス席」に座っていたのは我々二人だけだったが、劇場全体の観客はとても多く(みな米国の兵士で、日本人は立ち入り禁止だった)空気も悪いので我々は最後まで鑑賞せずに劇場を出た。
部屋に戻って日記を書き、太極拳を練習して、シャワーを浴びて寝た。

1946年4月5日
今日の午前に方秘書がやってきた。我々は憲章の訳文の名詞の問題を討論した後に、天気がとてもよかったので、一緒に自動車に乗って神田町に書店をのぞきに行って、街をぶらぶらして太陽にあたった。今日の自動車はすでに黒色のプレートに換えられていた。車の前には我国の徽章がついた銅のプレートが付けられ、運転手のワレス氏も新車を運転できて嬉しそうだった。

我々が神田の街をあるいていると一件の規模のかなり大きな中華料理屋に行き当たった。私たちはそこに入って一休みする事にしたが、主人は寧波人で年齢は三十前後であった。彼は我々に得々と戦時中の日本の様子と東京の爆撃の惨状を語ってくれた。彼によれば戦時中は日本人が華僑を侮辱する事は甚だしかったが、戦争が終わるとかなりましになったそうである。彼はさらに日本が投降して間もなく、街で彼を以前に虐めた日本人に出逢ったので、彼はその男を中華料理屋に連れてきて殴って報復したそうである。我々の華僑を保護する仕事はまだ始まっておらず、華僑は依然としていまだ不便な事がいろいろあるだろう。このことは我々が朱将軍に詳しく話しておかなければならない。

神田の街を過ぎて、我々は銀座へ向かった。松屋や三越などの百貨店をぶらぶらしたが、品物は少なく値段は高い。規模がもとよりさほど大きくなく、上海の先施、永安、新新、大新などの百貨店と比べると見劣りする。敗戦後はさらに狭くなったようだが、店をうろつく人は確かに込んでいた。街道上は人の海であった。日本人の身体はみな健康そうで、特に青年女子が健康そうであった。彼らと米国の兵士とはもしこのことがなければ、誰が誰を征服したのかわからないほどである。これはマッカーサーの政策が成功したためかあるいは失敗したためなのか?それは歴史に判断させるしかないだろう。

ホテルに戻って昼食を食べて、しばらくうたた寝をしていると、向検事と王将軍が李済之、張鳳挙、謝南光の三人を連れてきたので討論となったが、話題は米国の日本の管理政策の得失と我国の取るべき態度についてである。彼ら三人は今日の午前に朱世民将軍と共に連合国の対日管理理事会の第一回会議に出席したので、特別に深い感慨を抱いていた。彼らによればマッカーサーの態度はとても厳粛で誇らしく、挨拶では寛大な政策を取ることの正当性を力説し、外部の無理解な批評を退けた。挨拶が終わると席を離れ、会議は米国の副代表が司会し、ソ連代表が準備した提案を一つ一つ攻撃した。これもまたソ連と米国の世界の各種の矛盾と衝突の一例であるのみ。

客人が去ってから、私はバーに行って同僚と酒を飲み、検察長キーナン氏の宴会に行く準備をした。七時半に我々は宴会に向かったが、宴会は帝国ホテルの中で開催されたので、我々にはとても便利であった。招待された各国の判事と検察官のほかに、数名の記者とカメラマンがいた。

キーナン氏は政客のような気質の人で、我々を見ると滔滔と中国旅行がいかに楽しかったか、蒋介石夫人との面会は光栄であったと述べた。彼はマッカーサーに私を連れて食事に来るよう伝言するよう言われたそうで、彼は適当な日時を考慮中であるとのことであった。

宴席では、彼が杯を挙げて各国の指導者に敬意と祝福を捧げ、座席にいる各国の判事と検察官を紹介し、至れり尽くせりのもてなしで、我国の代表にも十分に敬意を払っていた。カメラマンが何枚か写真を撮影していたが、当然に宣伝のために用いるためである。彼は笑顔を絶やさず、気をあちこちに配っていたが、判事たちが最も関心を寄せている問題である起訴書を何時に正式に提出するのか(数人の判事はすでに待ちくたびれていた)については一言も述べることがなかった。これが判事たちが最も不満な点であった。

今晩の宴会にはフィリピンから来た検察官が一人出席していたが、法廷憲章がすでに修正されフィリピンとインドからも判事と検察官を一人参加させることになったからである。以前の判事9人はただ日本の投降書に署名をした九ヶ国の代表を含むだけであったが、現在は十一人となりワシントンの遠東委員会に参加したすべての国家を含む事となった。

ソ連の判事はまだ消息を聞かないが、現在またさらに二人の到着を待たなければならなくなり、これは東京にすでに到着しているのに何もする事が出来ない私たちの焦燥感を増した。

宴会が終了してから王将軍が来て話をしたが、ほとんどが我国の在日の工作と人事と機構の調整の問題についてであった。私は明日に朱世明将軍に意見を具申する事を約束した。最後に私たちは明日に熱海に行って週末を過ごす計画について話した。王将軍が去ってから、日記を書いて十二時過ぎに就寝した。

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2015年11月08日

中国と東京裁判(6):『梅汝璈日記』3

1946年4月2日火曜日
今日の午前十時、遠東国際軍事法廷は裁判官の談話会を開いた。私はこれは方秘書を連れて法廷を見て、彼を他の判事や職員に合わせるよい機会だと思った。彼は九時半に来たので、私たちは一緒に車に乗り陸軍省に行き、先に彼を私の事務室の脇の個人秘書の事務室に案内した。この時はもう十時で、私は会議ホールに談話会に参加しに向かった。

今日の報告と討論とはさほどに重要な事ではなかった。報告ではマッカーサー元帥が人を派遣してニュンルンベルク裁判国際法廷を視察に行かせる予定とのことであったが、おそらくこれは間に合わず実際的ではないだろう。招聘した三人の翻訳仲裁人(英日文書の翻訳の正誤を判定する)と被告にはそれぞれアメリカの弁護士を(約二十人)つけることとし、現在は積極的に人材を物色中とのことであった。法廷が書記長を一人派遣してほしいとの要請に対し、マッカーサー元帥は同意してアメリカのデトロイト地方裁判所の某判事を推薦した。しかし、同僚判事たちは彼は資格が足りないと考え、マッカーサー元帥に他の人選をしてくれるよう頼み、法廷のほうでも人材を物色することとした。

討論は夏の天気の問題で、これはたしかに重大な問題で、もし現在のような進度でゆくと公開審判は5月のうちに開始できたとしても、私たちはここで夏を過ごさざるを得なくなるからである。彼らはみな熱いのがいやらしく、特にカナダのマクドゥガル氏がいやがっていた。たしかに華氏90度ほどの気候で、裁判官の服を着て、撮影機の光線にさらされて、部屋の中に冷房施設もなく、毎日数時間座っているのは耐えられないことだろう。

討論ではさらに連合軍本部の医療専門家が列席して説明し質問を受けていた。それから、いろいろと話しあったが具体的な結論は出なかった。しかし、みなマクドゥガル氏の主張する七、八月の二ヶ月を休暇にするという主張は不合理だと思っているようだった。最後に本部に早く冷房設備を設置する事と、撮影のための光の照射を制限することが提案された。同時にみなは朝早めに開廷して、週末には比較的長い休暇旅行を取ることが必要だと感じた。

談話が終わって、私は方秘書を各国の判事と法廷の重要な事務員に引き合わせ、握手をして挨拶をした。彼らはみな方秘書に歓迎を表明し、特にヒギンス氏は態度が最も丁寧であった。

ホテルに戻って昼食になると、食堂で余俊吉氏に会ったが、彼はアメリカを経て欧州に駐イタリア大使として赴任する途中の事であった。彼は重慶から来たばかりで、談笑したが異国であったのでとりわけうれしく感じた。食事後に彼は急いで厚木に向かいアメリカに行く飛行機に乗るとのことで、早々にしてお互いの無事を祈って別れた。

昼寝から起きて三時間ほど新聞を読んだり読書し、それからキーナン氏と電話で挨拶をした。六時にバーで同僚たちと話し、彼らと明日の午後六時に私の部屋で小さなカクテルパーティーを開く約束をし、また彼らに王将軍の許しを得て、仇十洲の「会仙図」と其の他の芸術作品を展覧すると話すと、彼らはこれを聞いてとても喜んだ。私たちは一緒に夕食を食べ、食後にロビーで話をしていたが、突然にある人がフランスの判事ベルナール氏が到着したと告げた。我々は代理裁判長を推挙して歓迎にいってもらい、階下で会う約束をした。しかししばらくしてノースクラフト氏はいそいそと戻って来て、ベルナール氏はすでに浴衣を着てシャワーを浴びて寝るところで、少し話せただけだとのことであった。彼によればベルナール氏の英語はほとんど理解できず、会議の時に問題になるのではないかとのことであった。ソ連の判事の英語はどうなのかもわからないが、法廷が開催されればいろんな言語が飛び交って、きっと騒がしくなる事だろう。

談笑して九時近くになると、パトリック氏は少し風邪気味だというので、我々は散会することとした。私はマクドゥガル氏と二人で小劇場に行ったが、放映していた映画がつまらないので、座って十分も経たないうちに出てきてしまった。部屋に戻って日記をつけて、太極拳を練習して、シャワーを浴びて寝た。

日本について二日目から私が太極拳を続けていることは慰めとなることである。しかし練習する時間は決まっておらず、たいていは朝方にするのだが、時には深夜にすることもある。就寝前に運動するのはもしかするとあまり衛生的でないかもしれないが、私はこれを必ず続けたいと思う。安全の問題もあるので、あちらこちらに遊びに出るわけにも行かず、外出は自動車で道を歩く機会がほとんどないからである。こうした状況の下では、私は毎日最低限度の運動を努力して保持しなければいけない。それに私はすでに二年間太極拳の習慣を保持しているのだから。

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