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2016年03月25日

川島芳子は生きていた(25)川島芳子の立ち往生

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

方おばあさんと生活していた期間に、張玉は方おばあさんがいくらか奇妙だと感じることがあった。彼女は嬉しい時には躍り上がってはしゃぎまわり、気に入らないことがあると泣き叫んだ。よく一人で座っている時には長い間ボーッとして、長時間にわたり口をきかないこともあった。張玉はまた時折方おばあさんが夜に泣いているのを見たが、こうして心の中の煩悶と悲しみを吐露していたのである。このことに留まらず、さらに奇妙なことがあった。ある時に張玉があちこち物を探していて、方おばあさんに怒られた。少し経つと方おばあさんは機嫌を直して、一碗のスープを作り、彼女を宥めるために、彼女を「波濤ちゃん」と呼んだ。「波濤ちゃん」はまだ怒っていたので、唇をとがらしてスープを飲もうとしなかった。「あなたは何が飲みたいの?」と方おばあさんが尋ねた。「おばあちゃんの血なら飲んでもいいよ・・・・」と張玉はすねて小声で言うと、方おばあさんは良く聞こえないともう一度彼女に言わせた。「波濤ちゃん」はこんどは大声で「おばあちゃんの血が飲みたいの!」と言うと、思いもかけず方おばあさんは声も出さず、立ち上がって机の傍に行くと、引き出しから果物ナイフを取り出し、本当に彼女の人差し指と中指を切りつけてた。血が指からあふれ出してきたが、なんと方おばあさんはその血をスープの中に注いだ。この短い間に出来事に、張玉は驚き入ってしまった。方おばあさんは人が変わったようになっていたが、張玉は飲もうとしなかった。
「さあ、このスープを飲みなさい!これは命令よ。」方おばあさんは厳しく言いつけた。
張玉は仕方なく、作戦を変えて引き伸ばすことにした。「水の中に落とした血なら飲む」。それを聞いた方おばあさんは部屋を出て行くと、井戸ポンプのある部屋にいくと一桶の水を持って帰り、それをお碗に注ぐとまた手を洗いにいった。手の指にはまだ血が流れており、方おばあさんは指の上にある血を再びお碗にたらすと、お碗を張玉の前に持ってきた。「波濤ちゃん」は愕然として方おばあさんを見て、再びその血がたらされた水を見て震え上がって一言も言葉が出てこなくなった。
方おばあさんの怒りに燃えた目に促されて、「波濤ちゃん」はやむを得ず彼女の地が入った水を飲んだ。方おばあさんは声を和らげていった。
「お前は私の一番大事なものよ。私の血が飲みたいなんて言わないで。お前には私の命をあげたっていいのよ・・・・。」
「私の小さな天使ちゃん。お前が一日一日と大きくなるのを見て、おばあちゃんはどんなに嬉しいか。・・・お前のこんなすねたところを見ると、おばあちゃんが小さかった頃にお前のようにお転婆だったのを思い出すわ。」
張玉はこのことを語ると、とても感情が高ぶったようで、目の周りを真っ赤にして、このことは一生忘れられないと言った。
歴史的記述によれば、若い頃に川島芳子は「恋愛感情」のこじれから、自分の左胸に向けてピストルを打って「自殺」しようとしたことがある。どうやら、川島芳子が幼い頃にとてもお転婆であったというのは事実で、張玉の身に自分の幼年時代を重ねたのであろう。

張玉の証言によれば、彼女が幼かったある朝に、方おばあさんの庭の生垣の隅で用を足していると、隣の家の犬が彼女に向かって走ってきて、当時張玉は驚いて恐怖の叫びを上げた。方おばあさんはちょうど部屋の中で朝ごはんを作っていたが、叫び声を聞くと手に火かき棒を持って、庭にすっ飛んできて張玉の目の前でその火かき棒で犬を叩き殺してしまった。このことで隣の家の人が訪ねてきたので、大家の逯家が顔を出して、賠償として二袋のトウモロコシを差し出して事なきを得た。今思い返してみると、方おばあさんが当時身のこなしが敏捷で、犬を殺すほど叩いたことは、張玉に普通の農村のおばあさんが出来ることではないという印象を与えた。この小さな事件からも、方おばあさん(川島芳子)が若かった頃の面影を見ることが出来る。
張玉の母親段霊雲の記憶によれば、一九六六年に于景泰が死んだ後に、方おばあさんはとても悲しんで感情を吐露するために、ある夜に方おばあさんは段霊雲を連れて新立城ダムに魚釣りに行こうと、彼女たちは自転車に乗って方おばあさんの家から十数キロ離れた新立城ダムに行った。ダムの傍で方おばあさんは魚釣りをするでもなく、なんとダムの傍にあった木に登り、両足を木の枝にかけて逆さづりになって、手を開いて段霊雲を手招きすると石をひろって手渡すように言った。方おばあさんは一つ一つ石を水に映る月に向かって投げ、心の中の悲しみを発散しているようであった。すでに六十歳を過ぎた老婦人がこのような身のこなしをすることに、当時の段霊雲は奇妙な感じがした。今から思い返せば、彼女が川島芳子だったとするならば、このような奇妙な行動も不思議ではない。
我々が後に知ったのは。一九二二年に川島芳子が十六歳の時に日本松本女子高等学校を退学したのち、養父川島浪速はその実父粛親王善耆の遺言に従って、王女としてまた女スパイとして任務を果たせるよう川島芳子を訓練し、彼女に騎馬・剣道・自衛・突発事件への応対など各種の危険を伴う技術を教え込んだ。それでこのような基礎があったために、方おばあさんの身のこなしは普通の人から見れば少し不思議な行動と見えることがあったのであろうと考えられる。

張玉の記憶によれば、方おばあさんは背丈は普通で、比較的やせており、皮膚は白く、大きな目が特別に光っており、耳がめだって大きくて突き出ており、髪の毛は少なく、頭の後ろに束ねて髷にしていた。来ていた服は普通だったが、いつも小奇麗にはしていた。話す言葉は北京なまりがあった。
張玉の感じでは、方おばあさんの性格は変化が激しかった。ある時には方おばあさんは張玉の目の前で、彼女を聞分けのよい子と褒めて次のような話をした。張玉が三歳の時(張玉には記憶がない)、あるとき方おばあさんが風邪で熱を出してオンドルの上で寝込んでしまったとき、張玉はそれを見て、タオルを洗面たらいでぬらして、方おばあさんの頭の上に置いた。それで方おばあさんはとても感動して、病気が少なからず軽くなったのであった。しかし、ある時に張玉が幼いため、学習に興味がもてないときには、方おばあさんが彼女に字を書かせようとしても書こうとせず、彼女に詩を覚えさせようとしても憶えようとしないと、方おばあさんはとても怒り、彼女の母親段霊雲に対するほど酷くはなかったものの、方おばあさんは手を出してビンタして教育しようとすることがあり、これは張玉に方おばあさんの厳しい一面を感じさせた。
張玉が今でも覚えているのは、彼女が幼い頃に方おばあさんの家で次のような情景を見たことがある。部屋に方おばあさんと祖父段連祥の二人しかいなかった時に、祖父の段連祥は満州族の儀礼方法で、片足をひざまづいて、方おばあさんに挨拶をしているようであった。さらに彼ら二人はよく日本語で話をしていた。祖父段連祥と方おばあさんがどうしてそうしているのか、彼らの間に何か他人に知られたくない秘密があったのかは、張玉にもわからない。
張玉がまだ覚えているのは、彼女が幼かった頃に方おばあさんと同じオンドルの上で寝て、ある時夜に起きてみると、月の光に照らされて方おばあさんが涙を拭っているのが見えた。彼女には方おばあさんが泣いたばかりのようであるように感じられた。方おばあさんが家族を思って泣いていたのか、はたまた昔のことを思い出して泣いていたのかは知る由もない。

一九七〇年代のある年の夏の夜に、新立城の家には方おばあさんと張玉の二人だけだった。方おばあさんはお碗と箸を片付けた後に、いつものようにレコードの箱の中から一枚のレコードを取り出し、手回し式の蓄音機の上に置いた。レコードから歌声が聞こえて来て、張玉は京劇であることが聞いてわかったのでこう尋ねた。
「おばあちゃん。この歌っている人は誰?教えて頂戴?」
方おばあさんは軽い感じで答えた。
「これは京劇の大役者馬連良が歌う淮河営の歌よ。」
彼女は張玉にさらに紹介して、彼女が最も好きなのは馬連良の歌う男役であると言った。
張玉は続けて尋ねた。
「おばあちゃん。この馬連良さんを知ってるの?」
この時、方おばあさんの顔色が突然に重く固まった。この時、彼女はつばを飲み込み、寂しそうにまた声を落として言った。
「話すと長くなるけどね、馬連良の歌声を聴くと、胸がいつも苦しくなるよ。波濤ちゃん、お前が大きくなって、もしいつか馬連良さんに会うことがあったら、私の代わりに『ごめんなさい』と言っといておくれ。」
こう言い終わると、涙が方おばあさんの二つの目から溢れ出していた。彼女は身をめぐらすと、すぐに部屋を出て行った。方おばあさんは張玉に自分が涙を流す姿を見せたくなかったのである。張玉は自分の質問の何かが悪くて方おばあさんの心の傷に触れたのかと後悔して、すぐに庭へ追いかけていき、稚拙な言葉で方おばあさんを慰めようとした。この時の方おばあさんは張玉に情緒不安定な様子を見せまいと、涙を服の袖で拭うと、張玉に笑いながら言った。
「波濤、もう二度と聞かないで。言ってもお前にはわからないことよ。全てはみな過ぎ去ったことよ。世の中は思いどうりにはならないの・・・・・。」
方おばあさんはむりに笑い顔を取り繕い、歌を口ずさみながら、張玉をあやして彼女の胸の中で寝かせた。
この生活の中の小さな一コマから、見て取れるのは方おばあさん(川島芳子)が「大役者」馬連良とかつて交流があったということである。我々が資料の中で見つけたのは、川島芳子が一九四〇年代初めに、以前の勢いを失って北京に戻った後、金を巻き上げるために馬連良を脅迫したことがあるということだ。それで、三十年を隔てた後も、方おばあさん(川島芳子)が馬連良の歌声を聴くと、昔のことを思い出して、内心苦しく感じたのであろう。
その後、一計を案じた張玉は、方おばあさんに内緒であの馬連良の京劇のレコードを祖父の段連祥に持って帰らせて、再び方おばあさんが心を痛めることがないようにした。


張玉は毎年早く夏が来るのを待ち遠しかったが、天気が温かくなれば、方おばあさんに会えるからであった。彼女は方おばあさんと家の前にある古い楡の木に登って本を読むのがとても好きだった。方おばあさんは彼女を先に木の枝の上にあげて、それから自分も上に登ってきた。彼女と方おばあさんはとてもこの古くて皮の厚い楡の木がお気に入りだった。この木は大して高くなく、とてもごつごつしていて、枝にはたくさんの葉が茂っていた。木の枝に座ると両足を前の木の枝にかけることができ、青空を見つめながら日光浴したり、吹いてくる清らかな風が周りの木の葉をサラサラと鳴らすのを聴くと、さながらリズムのある音楽を聴いているようだった。方おばあさんは彼女の真向かいに座り、体を木の幹に預けて手には悠然と本を持って、張玉にモンゴルや日本の昔話を聞かせてくれたり、彼女にシャーマン歌を覚えさせたり、手を伸ばしては楡の実を一つ一つ取っては、彼女の口に食べるように渡すのであった。あの香ばしくてすっきりした味は今でも彼女の心に甘い思い出となっており、彼女がそのことを思い出すたびに、口の中のつばを飲み込むのである。いまはもう張玉が時折、あの方おばあさんの家の楡の実を食べて、方おばあさんの話を話を聞き、一緒に歌を歌うことが出来るのは夢の中だけになってしまった・・・・・。

張玉が十二歳になる前には、毎年夏になるといつも方おばあさんに会うことができ、方おばあさんの家で一、二ヶ月住み、ある時には三ヶ月ともに過ごした。あの頃の日々は彼女にとって自分の家の中にいるのと同じだった。なぜなら彼女は幼い頃から人見知りのしない子供で、知らない環境でもすばやく適応できたからであった。方おばあさんと一緒にいると、いくらか寂しくはあったが、その寂しさのために却って話がしたければ幾らでも長く話し、話がなければ別に話さなくても気兼ねがなかった。おそらく彼女と方おばあさんは早くから気が合ったのであろう、互いの一挙手一挙足がすべて互いの目に止まり、いつも気にかかり、この一分を知れば後の一分がわかるという具合であった。
「私は方おばあさんの腹の中の虫でした」
張玉はこのように自分と方おばあさんの関係を形容している。
方おばあさんは彼女の周囲を見回してこれは何かと次々と尋ね、その折に人差し指と中指で張玉の鼻をつまんで、彼女の鼻は小さいなと言った。そこで張玉は方おばあさんに尋ねた。
「禅知内供(芥川龍之介の小説に出てくる鼻の長い和尚)の鼻が大きいと言うけれど、おばあちゃんは私の鼻をつまんであの禅智内供のような大きな鼻にするつもり?」。
方おばあさんはこれを聞くと意地悪そうな笑顔を浮かべて、彼女を「頭の良く回るガキだ」と言った。
また張玉が「私は斎天大聖だ。妖怪をやっつけるぞ。」といってオンドルの上に登って方おばあさんの大きな鼻をまじまじと眺めた。方おばあさんは怒らないだけでなく、面白がって張玉にどうして自分を「妖怪」と呼ぶのか尋ねた。張玉は答えて「おばあちゃんが年をとってもまだ化粧をするのは、妖怪じゃなかったらなんなの?」と言って、張玉は方おばあさんの体の上で空手の真似事をして、また土間に下りては木の棒を孫悟空のように回して遊び始めた。すると方おばあさんは急いで降りてきて、部屋の中で遊ぶと部屋の中のものを壊すといけないからと、張玉をせかして外の庭に連れて行って言った。「おばあさんの武道を見せてあげよう」。方おばあさんは朝の体操に使う木の棒をとると、雑技団のように木の棒を振り回し始めた。張玉は傍らで拍手をしながら「すごい、すごい!」と叫んだ。

時はあっという間に流れて、一九七九年正月十五日に、方おばあさんは四平に遊びに来て、張玉は方おばあさん臨時の住所である新立屯で方おばあさんと一緒に住んでいた。その日の夕暮れに、方おばあさんはちょうど李香蘭のレコードを聞いていたが、彼女は小銭を出して張玉に与え、街に行ってタバコを買ってくるように言いつけた。張玉は方おばあさんのくれたお金が五銭余っていたので、自分で爆竹と飴玉を買い、飴玉を食べてからようやく方おばあさんの家に戻ってきた。張玉が方おばあさんの家の近くまで来ると、部屋の中から仏教の菩薩を唱える声が聞こえてきたので、方おばあさんが念仏を唱えているのだろうと思った。そのとき道端では二人の友達が爆竹を鳴らしていたが、彼らは張玉を見ると一緒に遊ぼうと言ったので、彼らとしばらく遊んだ。張玉は少したつと遊び疲れたので方おばあさんの家に戻った。部屋の中に入ると驚くべき光景が目に飛び込んできた。方おばあさんが指揮棒をついて、大きな机に背もたれて、立ったまま動かなくなっていたのである。両目は目の前の仏像をじっと見つめて、仏壇の香炉に点けられた火はいまだ燃え尽きてはいなかった。
香の煙が部屋の中に立ち込めていたが、窓は何処もしまっていた。張玉は方おばあさんが吸うタバコのパイプが彼女の後ろにある大きな机に置かれているのを見たが、パイプの中のタバコはみな灰になっており、その灰が机の上に散らばっていた。彼女の傍らにはただ蓄音機がカラカラと回っていた。張玉はすぐに大変だと思って、叫んだ「方おばあちゃん!方おばあちゃん!・・・」。方おばあさんに駆け寄った。彼女が手で方おばあさんの顔に触れるとまだ暖かく、目もまだ湿り気があり、首も湿っていて、背中の上着も汗でびしょびしょになっていたが、もうすでに言葉を発することはなかった。
この時に屋外から急ぐような足音が聞こえ、張玉が戸を開けてみると、祖父がお米と小麦粉を担いで入ってきた。祖父は方おばあさんが立ったまま動かなくなっているのを見ると、お米と小麦粉を投げ捨て、前に向かって歩み寄ると、方おばあさんを抱きながらおお泣きに泣いて、方おばあさんを抱いてオンドルの上に載せると、上から白いシーツを全身にかぶせた。
方おばあさんは別人の名前で四平の火葬場で荼毘に付された。方おばあさんを荼毘にふすその日は、ただ張玉と祖父段連祥だけが方おばあさんを見送り、その他の数人はみな手伝いに雇った人だった。
四平の火葬場の庭で、祖父は方おばあさんの遺骨箱を持って来て、張玉に手渡した。すでに天候は寒くなっており道が凍っており、気持ちもそぞろであったので、張玉は誤って滑って転げてしまい、遺骨箱を地上の落として、遺骨を外に半分ほど散らしてしまった。祖父は怒って彼女を平手で打った。張玉は小さい時から祖父から打たれたことはなく、これが始めてであり、また唯一のビンタであったので、彼女は今でもはっきりと憶えている。彼女が忘れられないのは祖父の段連祥が方おばあさん(川島芳子)に忠義を尽くし、その死に至るまで忠実にお供したということである。

前述したように張玉が美術専攻の大学を受験するために絵を描いた際に、祖父段連祥の意思に従って、方おばあさんが世に残した唯一の一寸角の白黒写真をもとに、白黒の油彩画の肖像画を拡大して画いた。この方おばあさんの白黒画像を四寸角の写真に焼いたものが、現在でも残っている。
この方おばあさんつまり川島芳子晩年の油絵の写真を、我々は川島芳子の若いときの写真と比較したが、この写真と川島芳子本人とはとてもよく似ており、そうでなければ段連祥も今まで残すことはなかったであろう。
この写真は二〇〇七年末に、段霊雲と張連挙の夫婦が四平に父親段連祥の三周忌に行った際に、息子の張続宏の家から持って帰った段連祥の残した手提げ金庫の中から見つかったものだ。
それ以前に、我々の手には方おばあさん(晩年の川島芳子)の写真がなくて遺憾に感じていたので、張玉がかつて二〇〇七年十月、自分の記憶と方おばあさんへの深い印象を頼りに、とくに方おばあさんの人を見抜くような大きな目と、大きな「福耳」の特徴を捉えて、彼女の画家の技術を生かして六寸角の方おばあさんの彩色画を描いた。この方おばあさんの肖像画を、張玉は以前に公主嶺仏教協会釈正成会長に見せたことがある。正成法師は、画像にある老婦人はとても彼が写真で見た《方居士》に似ていると述べた。彼女の母親の段霊雲も張玉の描いた方おばあさんの彩色画を見て、とても方おばあさんに似ていると述べた。
張玉の二枚の白黒の油画と彩色画の方おばあさん(川島芳子)の肖像画が新立城に住んでいた方おばあさんと同一人物かどうか確かめるため、我々は特にこの写真を持って別々に方おばあさんにあったことのある逯興凱と陳良に見せると、二人とも写真の肖像画の人物は方おばあさんであると確認した。

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2016年03月24日

川島芳子は生きていた(24)張玉から見た川島芳子

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

張玉は段連祥の生前の遺言を唯一託された孫である。このことは、張玉は段連祥の最も可愛がっていた孫であることを物語っている。一九七〇年代初、張玉が物心がついたばかりの頃には、母親の段霊雲に代わって、祖父段連祥と方おばあさんの連絡のかなめとなり、母親段霊雲が毎年新立城で方おばあさんに付き添って寂しさを紛らわす役割を受け継いだ。さらに、張玉は気の利く子供で、親戚が語る家族や個人の経歴を注意深く聞いて理解するようにした。それゆえ、段連祥が臨終の際に告白して「方おばあさんは川島芳子だ」という驚天動地の秘密を打ち明けた後に、彼女は我々に秘密を溶くための証拠や手がかりを提供する責任を担うことが出来たのである。張玉が方おばあさんを知り始めてから、彼女と祖父の段連祥で病死した方おばあさんを四平の火葬場で荼毘にふすまで、十数年間のあいだ彼女は子供ではあったが、方おばあさんの言動を心の中に深く刻み付けたのである。

段霊雲と方おばあさんの養母子の関係により、段霊雲が結婚後には方おばあさんはいまだ生まれてないうちから孫に対して愛情を注いでいた。張玉が出生前に方おばあさんは段連祥に「雲子が男の子を生んでも女の子を産んでも、名前はトと呼びなさい」と言っていた。
なぜなら川島芳子には一人の妹がいた。この妹の満州族としての名前は「愛新覚羅・顕g」と呼び、粛親王善耆の第十七王女(一番末の王女)で、川島芳子とは母親が同じで、彼女の漢族としての名前は金黙玉である。現在すでに九十歳と言う高齢であるが、河北省廊坊市経済開発区に住み、幸福な晩年をすごしている。
方おばあさん(川島芳子)は長い間彼女の妹である金黙玉が懐かしく思い、その妹を思う気持ちを表すために、養女(段霊雲)のまだ生まれていない孫にト(宝玉の意味)と付けたのだろう。彼女の深い妹への愛情を良く表しているではないか!

しかし、段霊雲は子供を生む前に父親の段連祥と四平大劇場で波濤歌舞団の演技を見て、帰って間もなくして張玉が生まれたので、段霊雲はこの歌舞団の名前である波濤を取って、新生児に名前として与えたが、方おばあさんの意志には背くことになった。一九九四年、張玉は長春市青年美術家協会に加入し、プロの美術家として働くことになった。職業上の必要から、筆名を名づけることになったが、張玉は学問のある祖父に筆名を付けてもらうことにした。その時になって始めて段連祥は方おばあさんの生前の考えを伝えたのである。しかし、方おばあさんの妹が誰かは、段連祥は張玉に説明しなかった。なぜなら当時は方おばあさんが川島芳子であるという秘密は、まだ打ち明けられてなかったからである。二〇〇四年の段連祥臨終の前になって、ようやく張玉にこの名前の謎と由来を話し、張玉はようやく方おばあさん(川島芳子)が自分の名前に込めた気持ちを悟ったのであった。それで張玉はこの筆名を使用して美術創作をするだけでなく、いろいろな場合にこの名前を使用しているのである。すでにこの名前を使うようになって長くなるので、戸籍上の名前である張波濤を知る者の方が少なくなってしまった。

張玉が物心ついた時には、方おばあさんの家のあちこちに毛沢東のポスターがはってあり、ほとんどどの部屋にも数枚はってあるほどで、大変目立ったが、これもあのどこでも「毛沢東崇拝」の年代からすれば、理解できることではある。張玉がさらに覚えているのは、方おばあさんが沢山の毛沢東バッジを集めていたことで、一個一個フェルト布の上に別に置き、よく取り出しては眺めていた。さらに張玉が忘れられないのは、方おばあさんがしばしば小さな張玉を目の前に連れてきて、別の子供と同じように、張玉の胸の前に毛沢東バッジをつけて、とても嬉しそうな様子であった。このことから、我々は方おばあさん(川島芳子)の内心世界をうかがい知ることは出来ないが、少なくとも孫娘が歴史の流れから取り残されることを望んではいなかったことがわかる。

張玉が五歳(一九七二年)と八歳(一九七五年)の時に方おばあさんと一緒にいた際に、方おばあさん(川島芳子)がB5用紙にそれぞれ張玉のために版画と肖像画のスケッチを描いた。そのうちの版画は、まず木版の上に肖像画を書き、それを彫刻刀で削り、その上に紙を置いて拓本を取ったものである。その画の左隅にはうっすらと「姥留念」の三文字が書かれ、方おばあさん(川島芳子)が自ら書いたもので、この「姥留念」の三文字は川島芳子が一九四八年に北平監獄で養父川島浪速に宛てて書いた手紙の筆跡に良く似ている。

川島芳子
留念

我々はこの二枚の画は、方おばあさんが張玉に示した祖母と孫の愛情を表しているだけでなく、方おばあさんが生前に残した唯一の筆跡として重視している。この二枚の画を我々は特に省内の著名な画家である張成久と甘雨晨に鑑定をしてもらった。彼らの一致した見解は、この二枚の絵は簡単に見えるけれども、絵画に対する技術は高く、作者の絵画の水準がとても高いことを見て取れるということであった。川島芳子が十六歳の時かつて描いた一枚の日本人少女の背後から見たスケッチが残されているが、絵の技術は相当なものであったことがわかる。七十歳近くになった方おばあさん(川島芳子)がなんら画を描くのに適した条件がない情況で、このような技術のある画を描くほど習熟していたのは、当時の技術水準がすでに一定の程度に達していたことを示している。

張玉の証言では、新立城の方おばあさんは家の庭には、五十センチほどの高さの大きな石があり、上は平らであったので、夏は上に座って涼んだり休んだり出来た。ある時、方おばあさんは張玉を石の上に立たせて女役を演じさせ、彼女が男役を演じて、祖母と孫の二人で石の周りを回りながら社交ダンスを踊った。時には部屋の中で、方おばあさんが張玉をオンドルの上に立たせ、張玉の二つの小さな手を取って、オンドルのふちに沿って踊った。この時この瞬間には、すでに六十歳を過ぎた方おばあさんはまるで若いころに戻ったかのようであった。
踊る

我々が知っているのは一九三〇年代初頭に、川島芳子がかつて上海に来た際、当初彼女はダンサーの身分で注目を集めた。「東洋のパリ」と呼ばれた上海で、川島芳子は物柔らかで艶やかなダンスで上海の各地の高級ダンスホールを出入りし、職業ダンサーも顔負けの踊りを披露した。ダンスホールでは彼女は女性の役を演じることもあれば、しばしば男装をして男役として踊り、男役のほうが女役で踊るより得意であるようだった。一説によれば、上海で開かれた国際ダンス大会で男装をした川島芳子が男役の一等賞を取ったこともあるという。その他の優秀な男のダンサーも彼女に比べれば、拙いものであったという。

上述したように、段霊雲は方おばあさんの体の汗を拭く時、彼女の左胸に傷跡があり、さらに方おばあさんはよく《小雲子》に背中をたたかせていた。張玉が母親に代わって方おばあさんに付き添うようになってからも、同様であったことを覚えている。新立城は夏になるととても熱く、祖父段連祥は方おばあさんの為に水浴びの出来る水桶をつくり、土間の高いところに掛けて、上から井戸水を注いで涼めるようにしていた。方おばあさんが水浴びをする時には、上半身は裸であったが、張玉も彼女の左胸に褐色の傷跡を見て、母親と同じように感じた。さらに方おばあさんはよく張玉に背中を叩かせて、ある時には張玉の拳骨では力が足りないと感じたのか、方おばあさんはオンドルの上にうつ伏せになり、張玉に背中を踏ませると、方おばあさんはいくらか気持ちよさそうに感じているようだった。このことも上述したのと同様に、方おばあさんが脊髄炎をわずらっていたことを証明しているのではあるまいか。

方おばあさんは美人に見えたし、祖父よりも若いようにさえ見えたが、どんなに若く見えたところで、やはり彼女の目の細かい皺や厚ぼったくなったまぶたは化粧では隠すこともできなかった。しかし、方おばあさんは年をとっても、しばしば夜に化粧をした。晩御飯を食べた後に、方おばあさんは一人で鏡に向かい、入念に化粧をしていた。さらに張玉にも眉を描いたり、張玉に彼女の眉を描かせたり、ある時には張玉に眉を口紅を塗ったり、おしろいを塗ったりもした。化粧が終わると、張玉は方おばあさんのほうを見てこらえることができずに笑い出し、方おばあさんを「妖怪みたい」と腹が痛くなるまで笑って息ができないほどであった。すると、方おばあさんは指を上げて「シーッ」と大きな声を出さないように注意した。
方おばあさんは昼間は普通化粧しなかったが、祖父がいる時は方おばあさんが化粧をする時もあった。方おばあさんは自分の眉毛を描く時は輪郭を細かくなぞり、最後には彼女の顔は鏡の中で画のようになっており、身動き一つしなかった。この時に張玉は方おばあさんの後ろに立って一緒に鏡に映ったが、その時の様子は長い時間が経っても記憶の中に永遠に留められるだろう。
永遠という言葉についてとりあげると、張玉は方おばあさんとお茶を飲んだ時にこの「永遠」という言葉についての彼女の説明を聞いたことがある。方おばあさんは永遠とは一種の感覚で、生命の流れなのだと語っていた。

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2016年03月23日

川島芳子は生きていた(23)段霊雲の見た川島芳子

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

我々は調査中にかつて段霊雲に次のように尋ねたことがある。
「あなたは方おばあさんにこんなに長く付き添い、方おばあさんはほとんど毎日のように字を書いていたのに、どうして彼女の書いた筆跡が残っていない(張玉に書いた版画の隅に「姥留念」の三字が隠すように書いてあるのを除けば)のですか」。
段霊雲の証言によれば、方おばあさんの家にあった大きな机の上にはいつも褐色の彩陶の火鉢があり(現在は残っていない)、毎回字を書き終わると、方おばあさんはいつもマッチをこすって、書いたものを火鉢で焼き捨てるのが、いつも習慣のようになっていた。
段霊雲がさらに証言するには、方おばあさんは筆跡を残さないばかりでなく、写真も残そうとしなかった。ある年の中秋節に父親の段連祥が方おばあさんと彼と段霊雲の三人で写真を取ろうとした時や、家族の集合写真を取ろうとした時があった。段霊雲がどんなに方おばあさんに写真館に行こうと勧めても、写真を残すことに方おばあさんは理解を示したものの、いつも議論の余地なく拒否して、絶対に写真館には行こうとしなかった。
段霊雲はずっと、方おばあさんのこうした態度が理解できなかった。段霊雲が方おばあさんが川島芳子だと知らされてから、今になってようやく理解できたのである。方おばあさんは長年にわたり何の筆跡ものこさず、写真も取ろうとしなかった、唯一の理由は、自衛保護のために川島芳子生存の痕跡を残さないようにしていたのであった。

我々が段霊雲を聴取して、あなたの母親である庄桂賢は方おばあさんのことを知っていたかどうかと質問した時、段霊雲は肯定して「知っていました」と答えた。段霊雲は説明して、
「方おばあさんが長春新立城で三十年生活していた間、私の父親は毎年夏になると平均して毎月三回ほど新立城の方おばあさんの家に行き、私が小さい頃に毎年夏になると新立城に連れて行き方おばあさんに付き添わせ、後に張玉が生まれてからは、張玉が私の代わりに方おばあさんに付き添うようになりました。私たちは親子三代でこのような長い期間にわたり方おばあさんと付き合っていたので、私の母親の庄桂賢に隠そうとしても、隠せなかったでしょう。父親は最初は母親に方おばあさんは遠い親戚の一人で、親戚も世話する人もいないが、年をとったので世話が必要なのだと言っていました。母親は当初から方おばあさんは父親が外で囲っている《愛人》ではないかと疑っていたので、そのことで父親とよく喧嘩をしていました。私が新立城で方おばあさんと一緒に過ごすことにも心の中では不満だったようです。しかし父母はなんと言っても旧社会から生きてきた人間だったので、妻たるものは《三従四徳》といって、夫のなすことに逆らうことも出来ず、父親になすすべもありませんでした。こうした情況でしたから、母親は私に父親と方おばあさんの関係を監視する役目を果たさせ、またそれを母親に報告させようとしました。」
父親が段霊雲と方おばあさんの家に行く時にはいつも、母親が彼女に父親と方おばあさんが一緒に何をしているか注意するように言い聞かせた。段霊雲は母親の言いつけが気に入らなかったので、いつも隠して言おうとしなかった。そのため、母親が段霊雲の口から聞いたのは、彼女が本当に知りたいことではなかった。期間も長くなって、母親もとうとう父親の監視を諦めてしまった。方おばあさんの家につくと、方おばあさんは段霊雲にとてもよくしてくれはしたが、しつけがとても厳しかった。方おばあさんは彼女に日本語を教えようとして、よく憶えられないといつも「ビンタ」が飛んでくるのであった。母親は段霊雲が方おばあさんから日本語を習っているのを知ると、どうにか止めさせようとして、父親は日本語が出来たばっかりに労働教育所送りになったと例を挙げて日本語を習うとろくなことがないから止めるように勧めた。このことは段霊雲を板ばさみにして苦しめ、いつも彼女はこっそり涙を拭うのであった。

段霊雲の記憶では、方おばあさんは既に逝去して三十年ほどになるが、方おばあさんが彼女に残した印象はとても深い。方おばあさんは中老年の女性で、比較的やせており、皮膚はとても白く、大きな目で、話し言葉には北京訛りがあり、人に神秘的な感覚を与えた。彼女は時折タバコを吸ったが、しかしそれほど頻繁でもなかった。彼女は仏教を信じ、規律正しく屋内で線香を焚いて仏像を拝んでいた。彼女は新立城の家の中で、普通の状況下では自分でご飯を作って食べていた。彼女は綺麗好きで動きが早く、部屋の中はよく整理整頓されており、両開きのタンスがあり、タンスの上には置時計と旧型のラジオと花瓶が置いてあった。お茶を飲む茶碗には蓋がついていた。部屋の中には八人がけの大テーブル、オンドルの上には食事用の机があった。米、小麦粉、油などの生活用品はみな父親の段連祥が定期的に送っていた。方おばあさんの食事には特別な習慣があった。いつも自分でご飯を盛り付け、他の人には盛り付けさせなかった。ご飯を食べた後には自分で御わんを洗い、その後にお碗を伏せて箸を伏せたお碗の下に置き、普通の人のように箸をお碗の上に置かなかった。新立城では方おばあさんはさっぱりした生野菜などをよく食べ、特に大家の逯家の部屋の前後に植えてあった白菜や、ネギ、きゅうり、ピーマンなどの野菜を好み、方おばあさんはご飯のときに新鮮なものを選んで生で食べていた。方おばあさんのこの習慣は日本人が生野菜を好んで食べる習慣に似ている。
段霊雲の記憶では、方おばあさんは日本語が話せるだけでなく、嬉しい時には日本の唱歌を歌い、方おばあさんはさらに絵を描くことができ、段霊雲は彼女が山水画と美人画を画くのを見たことがある。現在方おばあさんが残したあの日本女性が風呂にいる画(日本女子風情浴嬉図)は、彼女は方おばあさんが自らの手で描いているところを見た(この画は現在張玉が保有)。段霊雲がいまだ記憶しているのは、《文革》以前に、方おばあさんはかつてこの画と内容の似た画を《七叔》に贈っていたことである。《七叔》が雲南に老母の面倒を見に行った際に、彼女は自らあの画を《七叔》のカバンの中に入れていた。そして残されたこの画は張玉が生まれる前に方おばあさんが描いたもので、幼い張玉に贈る記念の品と考えられる。
段霊雲と方おばあさんは、段連祥の関係があり、親しい一面もあったが、隔たりもあった。なぜなら方おばあさんは段霊雲の前ではとても厳しく、彼女が何かを学ぶ際でも、《小雲子》に何かをさせる場合でも、少しでも気に入らなければ手を挙げて打った。あるとき《小雲子》がオンドルの上で寝転んでいると、方おばあさんはしばしば足でオンドルから地上に蹴り落とした。方おばあさんが彼女を打つときには、時には《七叔》が残したあの指揮棒で彼女の手の上やお尻を打った。彼女を打つときには方おばあさんはしばしば日本語で彼女を罵りながら、あの指揮棒で叩くのであった。そのため、段霊雲は感情面で常に方おばあさんとは距離を感じ、また彼女を恐れて、心の中で何かあっても話したがらず、方おばあさんの性格と習慣を見ては不快に思うこともあった。何故だかはわからないが、段霊雲は今に至るまで、方おばあさんの身上に何か特別なものを感じるのであった。いつも方おばあさんの目を見ると、なにか彼女の目の背後に別の目があるような感じがして、なにか恐ろしく震えさせるものがあった。特に夜には灯りの下でも、《小雲子》は方おばあさんを正視することができなかった。そこで、段霊雲が幼い頃は感情的に不安定で、方おばあさんはとても怒りやすく、顔色が変わると、しばしば《小雲子》に対してあたりつけるのであった。
長年にわたり、段霊雲はずっと方おばあさんの心が理解できず、なおさら彼女が何を考えているのかわからなかった。方おばあさんのこのような心理は謎に満ちており、性格は変化しやすく、情緒が毎日テレビで放送する天気予報のように不安定であった。
以前は方おばあさんが機嫌が悪く、怒りが収まらないと、いつも心中の憤怒をぶちまけて、部屋の中のものがみな気に入らなくなり、手元にあるものをなんでも壊していたので、こういうことが重なると庭にいるニワトリまでもが彼女の顔色を伺った。ある時雄鶏と雌鶏が餌をつついていると、方おばあさんが怒りを爆発させながらやって来たので、鶏はさっさと生垣の隅にもぐりこんで、目を閉じて寝ているふりをしていた。
段霊雲は幼心にも、方おばあさんに恐れを抱いていた。方おばあさんはいつも自分の意思を《小雲子》に強制して、《小雲子》に自分の思うとおりに行動するよう要求した。《小雲子》はなるべく彼女を満足させようと努力したが、かえって方おばあさんの気に沿わないのであった。方おばあさんはよく《小雲子》を馬鹿と言い、ある時は《小雲子》に戯れにこう言った。
「猪八戒の姉はどうやって死んだか知ってる?馬鹿すぎて死んだのよ。」
前世紀の六〇年代初期には方おばあさんの性格はいくらか良くなった。于叔が死んでまた《七叔》も去り、方おばあさんは再び部屋のものに八つ当たりすることはなくなり、何か気分が悪いときも、座り込んで沈黙するようになった。
方おばあさんの内心にはいつも何か隠された苦痛があるようで、この持続する苦痛が彼女の神経を刺激し、常にその苦痛を捨て去る機会を探していたようであった。

一九五八年、段連祥が労働改造に遣られて、家に生活の資源が絶えたので、か弱いいまだ十五歳にも満たない子供の小雲子(段霊雲)も、学校をあきらめて仕事に参加し(大躍進の時期で、仕事は探しやすかった)、非常に若くして家族を養う責任を担うことを余儀なくされた。こうして、彼女は新立城で方おばあさんに付き添う時間は少なくなったが、彼女と方おばあさんの関係は中断したわけではなかった。この時期から段霊雲は、新立城の方おばあさんと輝南県杉松岡労働隊の父親段連祥の間の連絡役を果たすようになった。
一九六四年、段霊雲と張玉の父親―現役の軍人張連挙が結婚した。一九六七年初頭に、段連祥は段霊雲が妊娠したとの知らせを遠く浙江国清寺で冬を越す方おばあさんに知らせると、方おばあさん(川島芳子)はとても興奮した。彼女はすぐに予定を変えて、早めに遠い国清寺からまだ幾分寒い長春へ戻ってきた。新立城の家に帰ると、彼女はすぐに段連祥を遣って段霊雲の住む家に迎えさせ、彼女の買った胎教に関する本を使って、彼女の理解できる妊婦の保健と育成に関する知識を段霊雲に教え、段霊雲が健康で五体満足な孫を産むよう取り計らった。
方おばあさんの指示はいやでも聞かなければならない段霊雲は、新立城の方おばあさんの家に行った後は、完全に方おばあさんの指図に従ってお産に備えた。
毎日朝起きると段霊雲と方おばあさんはそれぞれまず御椀一杯の蜂蜜湯を飲み、レコードの音楽や楽曲を聴きながら、歌を覚えた。朝ごはんを食べ終わると、段霊雲と方おばあさんは一緒に庭の緑色野菜と花園の間を散歩し、方おばあさんは指でいろいろな色の花を娘に見せて「花を沢山見て、花の色を覚えなさい。もし夜の夢の中で花をみたら、それは吉兆よ。」と述べた。
散歩のときに疲れると、彼女たち二人は木陰の下の御影石の上に座り休憩して、ある時には庭の中にいるニワトリや鳩に餌をやった。
庭から部屋に戻ると、方おばあさんは幾冊かの本を選んで娘に見せた。部屋の中の壁には、日本美女のカレンダーが掛けてあり、方おばあさんは娘に毎日数回その十二枚の日本宮廷女官を見て、段霊雲にこの画の美女の様子をよく記憶するようにこう言った。
「こうやって続ければ、生まれてくる子供は賢いだけでなく、女の子なら、画の中の美女と同じように美しく綺麗な子になるのよ。」
方おばあさんの十二枚の日本美女のカレンダーは、一枚一枚が和服を着た日本宮廷女官であった。段霊雲は方おばあさんの言いつけを守って、毎日一枚一枚めくってカレンダーの美女を眺めた。その後に面倒くさくなったので、方おばあさんは部屋の壁に縄を張って、十二枚の美女のカレンダーを一枚一枚並べて掛けた。こうして段霊雲はいちいち一枚ずつめくらくても十二枚の美女画を一目瞭然にできる様になった。
段霊雲が出産する前に、方おばあさんは江蘇芽山乾元観の道士を連れてきて、まもなく生まれる女の子を占ってもらった。
一九六七年十月、孫娘の張玉が生まれると、方おばあさんはとても喜んで張玉を頭の上に掲げて、ひっきりなしに段連祥に「私にも孫ができた!私にも孫ができた!」と叫んでいた。彼女はさらに段連祥に張玉の名前を占わせて、孫娘がお金持ちになるように願った。また段連祥にこう言った。「うちの実家の姓は《金》で、私の妹は《玉》という名前だから、この女の子を《ト》と呼びなさい。」いつも方おばあさん(川島芳子)の言うことなら何でも聞く段連祥は、この時興奮してただ頭を縦に振ってうなずいていた。
そうして、方おばあさんは何かを思い出したかのように、すぐに段連祥を大家の逯家に使いに遣り、半年前に飼っていたウサギとウサギ小屋を持ってこさせた。
父親の段連祥が逯家に行った後に、段霊雲は方おばあさんに尋ねた。
「どうしてウサギを逯家に送ったの?」
方おばあさんは真面目に解説して言った。
「お前がまだ来る前に、私がウサギを逯家に送って、あそこで飼ってもらったのよ。なぜかと言うと、年寄りたちが妊婦はウサギを見てはいけない、ウサギの肉を絶対に食べてはいけない。もし妊婦がウサギの肉を食べると、生まれてくる子供がウサギのように三つ口になると聞いたからなの。だから私はウサギを逯家に送って代わりに飼ってもらったのよ。いまもうあなたは子供を生んだから、タブーも気にしなくてもよくなったから、ウサギをかえしてもらったのよ。ウサギの肉は血を増やす栄養のある食物だし、人体の血液の中にある有害な物質を除いてくれるから、美容に良いし、人に皮膚を白くて肌理細かく光沢のある肌にするのよ。」
方おばあさんは段霊雲にこう言うと、ちょうど庭から人々の話す声が聞こえてきた。ちょうど大家のロク長占と逯興凱の二人がウサギ小屋を担いで窓の前に来て、父親の段連祥が嬉しそうに生まれたばかりの白兎の子を抱いて、手には柳条の籠を持っていたが、なかには籠一杯に白くてふさふさした子ウサギが入っていた。もともと、方おばあさんはウサギを逯家に半年預けただけだったが、逯家の人たちが大切に育てたので、子ウサギを沢山産んだのであった。方おばあさんはうれしそうに言った。
「これはちょうどいい。子供が満一ヶ月を迎えるのを待って、一家でおいしくウサギの肉を食べましょう。」
張玉は三歳になった頃に、段霊雲は夫について軍事工場に行き、張玉は四平の祖父段連祥の家に預けられた。張玉は小さい頃から聡明で、人々から愛された。この時新立城に住んでいた方おばあさんも、待ちきれないかのように段連祥に幼い張玉を彼女のところに連れてこさせ、張玉に対しておばあさんとしての「責任」を果たし始めた。
張玉も期待に背かず、方おばあさんが妊婦の段霊雲に調教した方法は張玉の身上に確かに現れているようであった。張玉は美しく(父母や二人の弟と比べ、張玉は綺麗な女の子だった)育っただけでなく、物分りがよく聡明で、方おばあさんの調教の下、多才多芸を身につけることができた。現在、張玉は有名な女流画家となったばかりでなく、文学上でも一定の造詣がある。

段霊雲の記憶では、方おばあさんの左胸には傷跡があった。新立城の夏のある日のこと、天気がとても暑く、方おばあさんは汗をかいたので、下着のシャツを脱いで、段霊雲に彼女の汗を拭わせたときに見たのである。段霊雲は方おばあさん傷跡の原因が何であるかを知らなかった。彼女は鉄砲傷というのを知らなかったので、鉄砲で打たれたあとの傷がどんなであるか知る由もなかった。そこで、彼女は父親の段連祥に尋ねたことがある。段連祥は少しも隠し立てせずに言った。「たぶん鉄砲傷だろう!」その外にも、方おばあさんはしばしば段霊雲に背中を叩かせたが、段霊雲の感覚では方おばあさんには脊椎に炎症があるようであった。
我々が把握している資料によれば、川島芳子は確かに鉄砲傷を受けた過去がある。鉄砲傷を受けた原因としては三つの説がある。その一つは養父川島浪速が彼女にしばしば性交渉を迫ったため、彼女は羞恥心と欺瞞に駆られて拳銃自殺を図ったという説。二番目は養父川島浪速が初恋に対して粗暴な干渉をしたため、感情のもつれにより絶望して拳銃自殺を図ったという説。三番目は「安国軍」司令であったとき、洮南で張海鵬(後に漢奸)の部隊と戦闘した際に、銃撃を受けたときの傷という説。
鉄砲傷の具体的な原因については確認しようがないが、ピストルの弾が確かに彼女の左胸に入り、銃弾が彼女の左胸の肩甲骨に残ったことは確かである。一九三七年に彼女は北平の同仁医院で手術をし、彼女の兄の金璧東は自ら手術台の側で、飯島康徳院長が川島芳子の左胸肩甲骨上にあった銃弾を摘出したのを目撃している。
川島芳子が日本で学校に通っていた際に、養父の川島浪速は彼女の希望に応えて、日本が「バブチャップ将軍」に送る軍需物資の中から二匹の軍馬を取り、川島芳子に騎馬で登校させていた。川島芳子はまた満州国の「安国軍司令」であった時、行軍作戦にもいつも騎馬を主に用いた。それで、川島芳子は馬上から幾度か地面に落ちたことがあり、それが重なって、外傷性の脊椎炎を患っていた。
一九三五年から、脊椎の痛み止めの為に、川島芳子はアヘンから抽出したモルヒネを使う悪習に染まった。
一九三七年、川島芳子が天津で東興楼で食堂を経営していた際に、脊椎が痛むので、天津医院で身体検査をして、医者の初歩診断で早期脊椎炎と診断された。治療の為に川島芳子は日本へ戻り、東京同仁会医院で院長金子良太博士自らによる診断を受け、外傷性脊椎炎の治療を受けたが、完治せぬままに川島芳子は盧溝橋事件発生のために中国へ戻り、脊椎炎の病根は遺されたままだったのである。

段霊雲の回想では、方おばあさんは何度も彼女に自分の出身について、とてもお金持ちの家に生まれたと打ち明けていた。子供の頃の話として、方おばあさんは幼い頃はお姫様のような生活をしていたと語ったこともあった。
段霊雲が覚えているのは彼女が仕事に就く前の一九五八年ころ、十四歳の段霊雲が新立城へ方おばあさんに会いに行くと、どういうわけか、方おばあさんが突然に涙を流していた。段霊雲が方おばあさんどうしたのと聞くと、方おばあさんは「家が恋しくなった」と言った。段霊雲は怪訝そうに「家が恋しくなったのなら帰ってみれば。私がおばあちゃんに会いたくなるとこうして来るみたいに。」と言った。方おばあさんはため息をついて、「私はあなたみたいに幸せじゃないの。父母はとっくの昔に亡くなり、親戚もどこに行ったか判らず、妹が恋しいけど、何処へ行ったかわからなくなって、連絡も取れないの。」
我々が考えるに、これは方おばあさん(川島芳子)が彼女の子供時代を回想して、粛親王家の家族と同腹の妹である金黙玉が恋しくなったのであろう。段霊雲もこの点に同意を示した。
段霊雲は小さい頃から大きくなるまで、方おばあさんからいろんな知識を教わり、方おばあさんの学識にはとても敬服している。あるとき彼女が方おばあさんを思わず褒めて「おばあちゃん、こんなに良く知っているなら、きっと幹部になれる人材ね!」と言うと、方おばあさんは手を振って、「それは無理よ」と言った。
続けて方おばあさんは段霊雲の前で、自分の一生について概括して言った。
「私の一生は一首の悲壮な歌のようなものよ。結局なんにもならなかったわ。これも運命ね」
我々が思うに、これが方おばあさん(川島芳子)の自己の人生に対する総括であった。

二〇〇九年二月十一日の午前、日本のテレビ朝日の招待を受けて日本へ向かう出国手続きをするため、我々は段霊雲親子を事務室に呼んだ。我々がおしゃべりをするうちに方おばあさん(川島芳子)にも話が及んだ。
我々が方おばあさんの段霊雲に対する感情を述べると、段霊雲は一九五〇年代に彼女が大病を患った際に、方おばあさんが二度にわたり一万元の治療費を立て替えてくれてことを一生忘れないと述べた。
我々がまた、方おばあさんがそんなにお金を持っているのなら、その後の生活であなたを援助したことはないのかと尋ねた。
この過去に触れたことのない話題に、段霊雲は答えて、
「方おばあさんは一九六六年于景泰が亡くなり、七叔が去ると生活の糧を失いました。だから父親と私が彼女を援助していたのです。しかし私には二人の弟がおり、母親は仕事についておらず、父親は臨時の仕事で家計を支えて、生活はとても困難でした。私は毎月に給料から二十元を方おばあさんにあげていましたが、農村での出費は少なく、彼女の一ヶ月の生活費には十分でした。当時、方おばあさんがあんなに沢山のお金を出して救ってくれたので、私がこうするのは一種の《恩返し》だったのです。」
それでは方おばあさんが半年ほど国清寺に行っていた間はどうしていたのか?
段霊雲は答えて、
「彼女が出発する際には私が汽車のチケットを買いました。国清寺についた後は、毎月やはり二十元を送っていました。方おばあさんは、お寺では住むにも食べるにもお金は要らないといっていました。文化大革命以後、方おばあさんは国清寺で住む時間が長くなり、毎年四、五ヶ月、長い時には半年に及びました。」
これにより、我々は方おばあさん(川島芳子)は晩年に世間と隔絶し、生活も大変質素で、すべて段連祥と娘の段霊雲の援助に頼っていたと考えた。
しかし、じつは内情はこれが全てでもなかったようである。二〇〇九年三月一日から八日、我々と張玉と段霊雲が日本に滞在中に、李剛は張玉に方おばあさんの晩年の生活が質素であったと語ると、張玉は以外にも、方おばあさんはお金持ちだったと答えたのである。
「ある時、私が彼女の座る《タタミ》の下にたくさんの手紙を見つけて、その中身にはお金がたくさん入っていました。」
それなら、方おばあさんはお金があるのに、段連祥と娘の段霊雲はどうして毎月お金を届けていたのだろうか。これは一種の「愛情」の表現と見るべきだろう。段霊雲に言わせれば、それは一種の「恩返し」だったのだ。

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2016年03月22日

川島芳子は生きていた(22)残留孤児の段霊雲

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載


段霊雲は張玉の母親で、一九四四年の生まれで申年、段連祥の唯一の娘である。彼女の出自についてはかつて謎であった。一九九七年に彼女の母親の庄桂賢が逝去後に、父親段連祥がようやく段霊雲を前にこう告白した。
「雲子、お前の出自だが、今日は本当のことを言おう。お前は確かに日本人の残留孤児だ。以前はお前の母親(庄桂賢)が私が告白するのを止めていたのだ。お前が本当の親を探し出して、お前を失うことを恐れたからだ。今お前の母親は亡くなったから、私ももう遠慮することもなくなった。」
こうして、段霊雲の心に数十年もわだかまっていた疑問がついに晴れたのである。それから、段連祥は日本語で段霊雲のために一枚の日本残留孤児証明を書き残した。
証明書の大意は次のようなものである。段連祥の同級生の一人が、彼に元日本語教師の四人の子供(三女一男)のうちの一人が産んだ赤子を養子とするよう託した。一九四五年に日本が投降した後、教師一家六人は帰国の準備をしていたが、教師の妻は半身不随の寝たきりの病に罹り、幼い娘を世話する余裕がなかった。同級生は教師の経歴を紹介し、教師一家の日本の連絡住所を残した。証人の徐桂芝が証明書にサインと押印をした。段連祥もその上に印鑑を押した。
一九九九年六月六日、段連祥は段霊雲の日本人の伯父に当たる三ツ矢敏夫に一通の手紙を書き、日本人の友人松井氏に託した。手紙の中には、現在中国国内の政策は比較的良好で、中日両国間の友好往来はとても便利である。もしあなたが奉天(瀋陽)に来る機会があれば、飛行場まで私が迎に行くと書かれてあった。
段霊雲は父親の段連祥から聞かされたのは、段霊雲が一歳を過ぎた頃に段家に来て、段連祥は彼女の為に段臨雲と名づけた。現在思い返してみると、段霊雲には思い当たるところがあった。
「父親が私に臨雲と名づけたのは、私が養子の娘だったからで、親が何時やって来て認知して連れ去るかもしれないというので、臨時の娘と言う意味だったのでしょう。」
段霊雲の幼名である雲子というのもやはり段臨雲というこの名前に由来している。その後に段連祥は彼の子供の名前に家系図に従ってすべて「続」という字を入れていたので、段臨雲にも段霊雲という名前を与えた。段連祥が一九四一年に長男段続余を設けた後、その後に生まれた二人の子供は夭折してしまい、幼い臨雲を養子に迎えた後、彼女にはずっと命があるようにとつけた名前が「続敬」であったが、ただその後あまり使うことがなかった。《文革》中に段臨雲という名前を再び段凌雲と改名したからだが、その名は雲を凌ぐほどの志を持てという意味であった。

段霊雲が方おばあさんと接触を開始したのは、およそ一九四九年の新中国成立前後で、そのころ彼女は五、六歳ですでに物心がついていた。彼女は父親の段連祥が彼女を連れて、四平から汽車で長春へ行き、さらに馬車に乗って新立城の方おばあさんが住んでいる地方に行った。方おばあさんという呼び名は父親が彼女に教えたもので、ある時は四十歳過ぎのこの女性を《方ママ》と呼ばせることもあった。しかし、すでに物事が理解できた段霊雲から言えば、新立城のこの中年女性は彼女にとってもう一人の母親を意味した。それからと言うもの、ほとんど毎年夏になると、段連祥は彼女を新立城の方おばあさんの家に連れて行った。ただ父親の段連祥は毎回数日も住まずに、自分だけ四平に仕事に戻り、彼女を方おばあさんのお供においていくのであった。
川島芳子の新立城での歳月は、段連祥など世話する人間がいたとはいえ、生活はやはり孤独で寂しいものであった。女の子の小雲子が定期的に付き添うようになってから、川島芳子の心は計り知れない慰めを得たであろう。外部の人の目からは、小雲子は方おばあさんの娘で、川島芳子からすれば、小雲子は段連祥が自分にくれた養女であった。さらに小雲子は日本人の残留孤児で、感情からいって、この臨時の母子は同病相憐れむ境遇にあったのである。
段霊雲は幼年時代に続けて二回大病を患って、ほとんど命を失うところであった。この二回の病気の期間には、父親段連祥も力を尽くし、労をいとわず、金も惜しまず、彼女の病を治すために尽力したが、方おばあさんも段霊雲が病気の期間に母親の責任を果たした。段霊雲は今でも思い起こすと、感激のあまり言葉に表せないほどである。
第一回目は一九五三年の春、段霊雲が九歳の年に水疱瘡に罹り、伝染病であったので入院できなかった。当時彼女の母親の庄桂賢は弟の段続平を生んだばかりで、彼女を世話することができなかった。父親の段連祥は彼女を新立城の方おばあさんの家に預け、さらに二人の老年の婦人を雇って交代で彼女を看護させた。水疱瘡で全身が痒くなり、段霊雲は痒いのでいつも寝返りをうって、両手でかきむしった。方おばあさんは彼女が顔の上の水痘を引っ掻いて、娘の顔の上があばただらけになるのを恐れた。そこで、老婦人と看護して、段霊雲をむりやりオンドルの上に縛りつけ、手をタオルで包んで、彼女が痒くても動けないようにした。その後、水痘が出終わると段霊雲の病気も好転し、顔にもあばたは残らなかったが、これは方おばあさんの一生懸命の介護のおかげであった。
第二回目は一九五五年の春節の除夜の晩に、段霊雲は遊んで遅くなって家に帰った。二日目の正月の朝から突然に高熱が出て、児童医院で熱さましの注射をしたが、二日目になっても熱が下がらなかった。父親の段連祥は四平鉄路局車輌場の職工だったので、彼女を四平鉄路医院に入院させて治療した。およそ一ヶ月入院したが、化学検査の結果白血球に異常があり、血小板が減少し、臨床診断では容血性連鎖球菌による敗血病と診断された。この時主治医は彼女に長春鉄路中心医院で治療するよう勧めた。この時に、段霊雲が病気になったという情報を知った方おばあさん(川島芳子)も特別に浙江の国清寺から四平に戻り、父親の段連祥と共に段霊雲を長春鉄路中心医院に送った。しかし長春鉄路中心医院でも段霊雲の病状は一進一退であった。このような情況で、父親の段連祥は彼女を瀋陽鉄路総医院と遼寧湯岡療養院に連れて行き、そこで一ヶ月余り療養して、さらについでに大連の海浜療養院に行き、幼い段霊雲のために療養と気晴らしをさせたのである。最後にはやはり天津医院から中国の最も権威ある医院である北京協和医院に移り、三ヵ月半の入院治療により、段霊雲はようやく病魔に打ち勝ち、健康を回復することができた。段霊雲の第二回目の大病では、前後合わせて半年余りの時間をかけて治療し、父親段連祥の全ての心血を注ぎ込み、また家にあった貯蓄を使い果たしたが、方おばあさん(川島芳子)も彼女の養女としての責任を果たし、ようやく娘の段霊雲の貴重な生命を救うことができた。ここに特に挙げておかなければならないのは、段霊雲がこのたびの大病の期間、方おばあさんは天津の医院に彼女を見舞いに来て、彼女の治療費として多額のお金を残していったということである。
方おばあさんと一緒に生活した日々の中で、方おばあさん(川島芳子)は小雲子に対し母親としての責任を尽くし、彼女に日本語、唱歌、舞踊、吟詩などを教えた。段霊雲は余り勉強が好きではなかったので、方おばあさんに少なからず殴られた。唯一段霊雲が学んだと感じているのは、彼女の字がとても綺麗なことで、これも方おばあさん(川島芳子)の彼女への厳しい教育と切り離すことができない。

一九四八年年末に、川島芳子は《老七》・于景泰・段連祥の護送と手配の下、長春市郊外の新立城鎮斉家村に来て、長期にわたり隠居する住所を選択した。その次の年(一九四九年)、五歳の小雲子(段霊雲の幼名)は父親の段連祥の手配で、毎年夏になると新立城に行き方おばあさん(川島芳子)と共に生活し始め、その後十年余りの長期間、小雲子が一九五八年に仕事に参加するようになるまで続いた。
小雲子は幼いときからお喋りが好きで、男の子のようによく動く性格であった。新立城方おばあさんの家で、彼女は方おばあさんの教える日本語や詩歌や絵画などの種類の学業を学ぼうとせず、女の子のような針仕事や家事もしたがらなかった。ただ近所の子供たちと戸外で遊ぶのが好きで方おばあさんの意に沿わなかった。
川島芳子は自身の隠れ住む安全を考慮して、小雲子のお転婆を変えるために、小雲子を叱ることが少なからずあった。普段は方おばあさんのそばで、小雲子は方おばあさんが厳しいのを恐れて、打たれないように家の中でじっとして、あえて危険を冒すことはなかった。方おばあさんには昼寝の習慣があり、小雲子が睡眠中に外へ出て近所の子供と遊ぶのを防ぐために、毎日昼ごはんを食べた後は、家の門の鎖を閉じて、小雲子を呼んで一緒に昼寝をしていた。だんだん、小雲子は長時間にわたり「軟禁」されている状態に耐えられなくなり、彼女は鍵をこっそり盗んで門を開けようと思いついた。
毎回方おばあさんが門の鎖を閉じると、小雲子はこっそり方おばあさんが鍵をどこに置いたかを見ていた。数日観察した後、小雲子は方おばあさんが門を開ける鍵を、いつも仏壇棚の引き出しに置いていることに気づいた。鍵がどこにあるかを知ると、小雲子は方おばあさんの昼寝の習慣を推し量り、万が一の情況に備えた。彼女は方おばあさんが昼寝するころを見計らって、こっそり鍵を引き出しから取り出し、家の門を開けて近所の子供たちと遊びに行った。少し時間が経つと、小雲子は《方ママ》がとても怖かったので、いつも方おばあさんが目覚めて彼女が鍵を盗んで遊んでいる秘密に気づいて、しかられるのではないかと気になって恐れていた。そこで、小雲子は方おばあさんが目覚めないうちに、早めに部屋に帰って、方おばあさんのそばに寝て、寝ているふりをしていた。
しかし、何回も重ねているうちに馬脚を現すもので、ある日の午後に、近所の子供と遊んでいて時間を忘れ、小雲子が遊び疲れて部屋に戻ってみると、ちょうど方おばあさんが仏壇の棚の引き出しを見ているに気づいて、小雲子は恐れおののいて方おばあさんにきっとひどく叱られると思った。自分が間違っていることを知っていたので、小雲子は観念して手を垂れて部屋と地面の間に立ち、方おばあさんの顔を正視できず、頭を垂れて、《方ママ》に叱られるのを覚悟した。
この時、《方ママ》は血相を変えて怒り、大きな目で小雲子を見つめると、何も言わずに《七叔》の持って来た指揮棒を持ってきて、小雲子の右手の手のひらを引っぱると、ビシバシと叩き始め、小雲子の右の手のひらが腫上った。この時満面怒っていた方おばあさんは怒りのあまり涙を流した。それだけでは終わらず、方おばあさんは小雲子に罰として手伝いをさせ、小雲子に庭にいるニワトリの食料を削り、ウサギを食べさせ、窓を拭き、部屋を片付けさせ、仕事が終わると小雲子に垣根を前にして反省のため立たせ、晩御飯の時間になるまで、罰は終わらなかった。
このたびの方おばあさんの小雲子への教訓は、小雲子が幼年の記憶の中で最も深刻なものの一つである。これより、小雲子は心を入れ変えて、方おばあさんが首を縦に振るまで、絶対に彼女の意思に反するようなことは再びしなかった。
方おばあさんは半日にも渡る小雲子への罰を終えると、晩御飯の後に、小雲子をそばに呼ぶと、小雲子の腫上った右の手を擦りながら、小雲子を諭すように述べた。
「雲子!私がどうしてあなたを打ったかわかる?どうしてこんなにひどく打ったか!」
小雲子は答えていった。
「うん。おばあちゃんは私が近所の子供と遊ばないようにでしょ。」
方おばあさんはまた尋ねた。
「じゃあ、どうして外へ遊びに行ってはだめと言うかわかる?」
小雲子は答えた。
「わかんない!」
この時、方おばあさんはため息をつき、その後、小雲子に言い聞かせるように言った。
「ここから遠くないあの池ではね、ここ数ヶ月に二人も溺れて死んだのよ。そのうちの一人は九歳になったばかりの男の子の亮亮ちゃんでね、あそこの池の側でカエル取りをしていて、うっかり池に滑り落ちてあがれずに溺れ死んだのよ。大家の逯家の人がいうにはね、亮亮ちゃんの父母は楡樹市の人で、亮亮はお母さんが新立城のお姉さんから養子にもらって育てていた一番下の息子で、その上には四人のお姉さんがいたけど、男の子はいなかったから一人貰って来たのよ。この間、亮亮は父母と一緒に楡樹からいとこのお兄さんの結婚式に来て、結婚式が酣で、大人たちが酒を飲んで盛り上がっていたときに、亮亮は何人かの子供と席を離れて、池の側でカエルを捕まえていたの。すぐに亮亮が溺れ死んだという悪い知らせが伝えられて、おめでたい結婚式の場が一瞬で滅茶苦茶になったのよ。亮亮はとてもいい子で聞分けのよい子だったから、みんなが死んだことを悲しんだの。亮亮の尾と父母は楡樹に戻った後、毎日死んだ子供のことが忘れられず、父親は悲しさのあまり気が狂い、母親は世間を見限って、娘たちをみんな新立城のお姉さんに預けて、頭を丸めて出家して比丘尼になったのよ。」
小雲子は話に聞き入っていたが、疑問に思って尋ねた。
「方ママ。比丘尼って何?」
方おばあさんは小雲子に続けて言った。
「女の人が出家すると尼さんで、尊敬して言うと比丘尼よ。男の人が出家すると和尚で、尊敬して言うと比丘僧よ。あなたもこれからは出家した人にあったら、尊敬して比丘僧とか比丘尼と呼ばなければだめよ。わかった。女の出家した人を直接尼さんと呼んではだめよ。こう呼ぶのは出家した女の人に無礼なことよ。」
方おばあさんはまたも続けて小雲子を諭して言った。
「あなたを外に出して近所の子供と遊ばせないのは、あなたが池に行ってカエル取りをしないか心配だったからよ。もし水の中に落ちて溺れなくても、あそこの汚い水で遊んだら、あなたの手の疥癬(段霊雲は幼い頃に手に疥癬を患っていた)がよくならずにもっとひどくなるでしょ。」
方おばあさんは再び例を挙げて述べた。
「あなたのような子供はもちろん、この村には、たんこぶ喬爺さんという四十歳の農民がいたのだけど、去年の夏に池の側で数人の農民と土地を耕していたときに、タバコが吸いたくなって、池の側に行ってタバコを出して一服しに行ったの。足が泥だらけで汚れていたので、池の水で足を洗おうとして、池の方に足をのばしたら、思いがけず足がすべって池にはまってしまったの。土地を耕していたほかの農民がいつまで経っても戻ってこないのでおかしいと思ったけど、あいつはいつも仕事をせずに怠けているから、どこかに行って怠けているに違いない、なんでもないだろうと話していたの。そうしてみんなが耕作を終わって家に帰る途中に池の側を通ると、たんこぶ喬爺さんの死体が池の上に浮いていて、みんなびっくりして持っていた鋤を池の周りに放り出して、すぐに派出所に池で人が死んでいると伝えに言ったのよ。ここの池ではここ数年で何人か溺れ死んでいて、何か祟りがあるのかもしれないわ。きっと河童が出てきて言うことを聞かない子供を引きずり込むのよ。小雲子、あなたは河童に捕まえられるのが怖くないの?」
方おばあさんはこう怖がらせるように話をしたので、小雲子はよく記憶しており、そのため二度と近所の子供と遊びに外へ出なくなった。
この二つの例から我々が見て取れるのは、川島芳子が新立城で隠れ住む安全の為に、つねに慎重に行動していたということである。彼女が厳しく小雲子に外へ出て遊ばないようにしていたのは、小雲子が顔を出せば他の人がこの外から来た子供に気づいて、さらに大人を連想させて、方おばあさんが外界からの注目を浴びることを恐れたからであろう。その他にも、もし万が一にも小雲子が新立城でなにか事件を起こしたり、或いは池に溺れでもしたら、当地の人は必ず警察に報告するだろうし、派出所がこのことを調査すれば、家に閉じこもって外出しない方おばあさんの真相が暴露される危険があった。こうして考えると、川島芳子が自分を保護するために新立城という人のあまり知らない辺鄙な田舎町に長期にわたり隠れ住んでいたのは、やはり彼女が熟慮のすえ、あらかじめ発生しそうな危険を予測してそれを避けるためであったろう。
段霊雲の紹介でも、方おばあさんはいつも熱心に仏像に向かい、修行していただけでなく、道家の迷信やタブーなども研究して、何か事が起こると掛をして、吉凶を占っていたのも、一種の迷信とはいえやはり彼女の慎重さの一面を反映しており、無事に余生を送るための苦肉の策であったとも思えるのである。

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2016年03月21日

川島芳子は生きていた(21)川島芳子と澍培法師

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段霊雲の記憶によれば、彼女が初めて釈澍培法師に出会ったのは、方おばあさんについて長春般若寺に行った時のことであった。段霊雲は幼い頃に皮膚に過敏症を煩い、夏になって熱くなると、ことさらひどくなり、手の上には沢山の水ぶくれができ、とても痒く、父親は病院に連れて行き皮膚科に見てもらったが、ついによくならなかった。仕方がないので、父親の段連祥は彼女を連れて新立城の方おばあさんに会いに行った。方おばあさんは段霊雲の手を見たあとで、治す方法があるといい、ただ寺院の中に行き「吉祥樹」にお願いして、何本か線香をあげればよくなると言った。二日目に方おばあさんは早々に段霊雲を連れて長春般若寺にやって来た。それはちょうど農暦七月十五日で、お盆であったので、寺院の両側には沢山の屋台が出ており、数珠玉器、蝋燭絵馬、線香食品など様々なものが売られて、大変にぎわっていた。
釈樹培
お寺の門を入ると、段霊雲は方おばあさんについて沢山の参拝客の人だかりの中で、四大天王殿と大雄宝殿を過ぎ、三聖殿と観音殿を迂回して、方丈禅堂にやってくると、一人の小和尚が彼女に、澍培法師は用事でさきほど出かけたが、すぐに戻ると伝えた。段霊雲と方おばあさんが待っている間に見たのは、広い禅堂内に、正面には一座の法台があり、台上には払子や禅杖が並べてあり、台の下には客用のイスが並べてあった。四方の壁にはさまざまな書画がかけてあり、そのうちの幾つかは「石蘭朴訥」「竹葉図」「妙菩提」など、すべて澍培法師の手によるものであった。この時、僧が客があるのに気づいて二人に呼びかけ、申し訳なさそうに「お茶をどうぞ、私が大師を探してきます」と言った。小和尚が二碗の茶と四皿の果物を運んできた。方おばあさんと段霊雲はお茶を飲んでいると、澍培法師が帰ってきた。大師と方おばあさんはよく知っていたので、遠慮なく来たわけを尋ねると、法師は方おばあさんと段霊雲に彼について大殿に来させ、法師が大木魚をたたきながら法事を始めた。

災いを消し病を治すように「吉祥樹」に願いをかけて、方おばあさんと段霊雲は手におのおの二本の「吉祥樹」を持ち、木床の上に敷かれた座布団の上に跪き、近くにあった火鉢の中で「吉祥樹」を燃やした。段霊雲は方おばあさんが仏像の前に土下座して祈る敬虔な姿を見ると、家の中でのいつもの荒っぽい態度と結び付けがたく、まったく別人のように感じた。段霊雲は心の中で、もし方おばあさんがいつもこのようであったらいいのにと思った。

仏事が終わると、澍培法師は方おばあさんと段霊雲を食堂に招き、精進料理を食べると、彼女たちは再び澍培法師について禅堂に行った。法師は机の上に積んである経書の中から一冊の『瑶池金母の秘法と料理』という本を取り出した。澍培法師は方おばあさんに、家に帰ったらこの書にある秘法の薬と食事を食べさせるように言った。法師は特に段霊雲に諭して、これは疥癬だから、汚い水で遊ばないように。毎日手をよく洗って、辛い食物を避けるように。感染と風邪に気をつけて、傷をつけないように気をつけるように。これらはみな疥癬の発生と再発の原因になると述べた。またあまり緊張しないように、緊張すると皮膚の細胞の成長に影響して疥癬が出やすくなると言った。

その日の午後、方おばあさんと段霊雲は澍培法師に感謝して、『瑶池金母の秘法と料理』と言う本を大事に包んでカバンの中に入れて、すぐに般若寺を離れて新立城の家に戻った。般若寺から帰った後、方おばあさんは毎日経書にある秘法によって、段霊雲に薬と食事を作り、半月もすると段霊雲の疥癬は基本的に好くなった。方おばあさんが言ったように寺院で「吉祥樹」に願いをかけて線香をあげたから治ったのではなくて、実際には寺院にあった医学書を読んで、科学的な方法によって段霊雲の疥癬は治ったのである。

一九六六年于叔(于景泰)死後のある日に、方おばあさんは再び段霊雲と父親段連祥に長春般若寺へ向かわせて、法師に于叔の亡霊を調伏させた。方おばあさんはまた一通の手紙を書いて、父親の段連祥に澍培法師に手渡せさせた。段霊雲と父親は方おばあさんのいいつけに従って、般若寺に行き澍培法師に会い、自ら方おばあさんの手紙を手渡した。段霊雲が二回目に澍培法師にあったときには、もう知った人であったので、詳細に法師の姿形を眺めた。法師の赤く透き通った頬に、広い額、炯炯と輝く両目を見ると、彼女は方おばあさんが澍培法師は道を会得した高僧で、長春般若寺の主任住持であるだけでなく、民国二十八年には遼寧省朝陽県の故郷雲培山に興福寺を創建したと言っていたのを思い出した。澍培法師は方おばあさんの手紙を見終えると、また段連祥と段霊雲を見つめて、微笑しながらこう述べた。「あまり悲嘆することはない。『往生浄土地蔵経』を念じさえすれば、死者は浄土に行くことができる」と慰めた。
段霊雲はこの時にあどけなく法師に尋ねた。
「叔父さまのように死んだ人は再び人間に転生しますか?」
澍培法師は答えた。
「来世で人に転生することもあるが、もし極楽浄土に行きたいと願ったときはそうではない。極楽浄土に行きたいと願えば、必ず仏になれるんだよ。往生した後に、もし続けて修行修練すれば、極楽浄土の世界にいけるんだよ。」
段霊雲は澍培法師の説明を聞いて、興奮してまた尋ねた。
「西方極楽浄土の世界はどんな所ですか?それはどこにあるのですか?」
澍培法師は立ち上がると、書棚の中から『地蔵菩薩本願経』を取り出し、ページを開いて、その書には彩画が描いており、その中には亭、台、楼閣、仙鶴、雲霧、山石、樹木の画があり、澍培法師は書の中の画を段霊雲に指さして言った。
「この本の中の景色が極楽世界の図だよ。佛母摩耶夫人は釈迦牟尼仏を生んだ後、すぐに極楽世界に行ったんだよ。釈迦牟尼が成仏した後に、母の恩に報いるために、この『地蔵菩薩本願経』を口述したんだよ。」

段霊雲がその後三回目に澍培法師に出会ったとき、澍培法師はまた段霊雲に沢山の道理を説いて聞かせた。彼女が気に入らないことに直面しても我慢して、焦らないように。失敗を恐れないように。人生で最も重要なのは失敗から立ち上がって、自己に打ち勝つことができる人間が最も成功した人だよ。澍培法師がこう述べるのを聞くと、段霊雲は砂漠の中でオアシスを見つけたように、旱魃の時に待ち望んでいた甘露が降りてきたように、彼女の中の心の焦りや憂慮が突然軽くなったように感じた。以前は彼女は自分の家だけが困難や逆境にあるように思っていたが、この世界の生きとし生きるものは、どの人もそれぞれ苦難があり、苦難こそ人生の教師なのだと気づかされた。そこで段霊雲は恥じ入るように感じ、仏に向かって大悟した人間に成る決心をした。

澍培法師は段霊雲の悟性がとても高いのを見て、彼女が成仏したいと思えば必ず見性が必要で、自分の本心を認識し、自分の本性を見て、自分の心を悟らねば、法を学んでも無益で、心を明らかに悟ってこそ、大きく目が開くのだと教えた。

 当時方居士が澍培法師に送った彩粉画の『蒙古の娘』の行方を調査し、また仏寺の知識を得るために我々は二〇〇九年一月十八日午前に元長春市民族事務委員会宗教所所長候暁光の紹介で長春般若寺で釈成剛を訪ねた。候暁光所長の紹介によれば、長春般若寺は一九三二年に建立され、「文革」の始まった一九六七年に「休寺」となり工場(紙箱工場)となった。「四人組」が打倒された一九七九年後に、ケ小平の正常化の指示により回復した。釈成剛は一九八一年に仏門に入り、一九八六年に澍培大師が逝去した後に方丈となり、吉林省仏教協会会長となった。成剛方丈は我々の取材に関する内容に、以下のような回答を寄せてくれた。
(一)帰依書は仏教信者の身分証明書である。寺で大きな法事活動がある時に、寺に参観した新しい信者が仏堂で登録をして集中的に手続きをして、寺には「記録」は残さない。成剛方丈が強調したのは、帰依書はただ信者の身分を証明するだけで、証明を持った人は居士と呼ばれるが、その他の世俗とは一切何の関係もない。ただ毎月農歴初一、十五と仏教のお祭りの際に、男女の居士は帰依書を持参すれば寺で記帳して、無料で寝泊まりできる。
(二)澍培法師の字画。我々が成剛方丈に澍培法師が方居士本人に贈った写真、経典、墨竹図、偈語書などの物証を見せると、成剛方丈は一つ一つ確認して次のように説明した。写真は澍培法師の御遺影である。書もすべて澍培法師の真筆である。成剛方丈はさらに我々にこう説明した。「澍培法師はとても学問があり、書道にも絵画にも造詣が深かった」。我々は成剛方丈に、方居士が澍培法師に贈った「蒙古の娘」画を見たことがあるかないか尋ねた。成剛方丈は「見たことがない」と答えた。成剛方丈によれば、澍培法師の遺品はとても貴重であり、法師が寂滅後には遺物はすべて弟子たちが争うように持って行った。今では南方のある寺に澍培法師の記念室があるが、長春般若寺には今のところ設けてないということであった。

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2016年03月20日

川島芳子は生きていた(20)長春般若寺と川島芳子

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

大家の逯興凱の証言によると、方おばあさんは新立城の日常生活において、普段はほとんど部屋から出ず、よく方おばあさんの部屋から線香の匂いが漂っていたという。
段霊雲と張玉母子の証言でも、方おばあさんは新立城の家の中で、仏壇に供え物をして、暇なときには線香を焚いて、念仏を唱えるのが方おばあさんの日常生活の主要な内容であったという。
張玉の紹介では、祖父の段連祥も仏門の在家の弟子であり、居士と呼ばれていた。彼女は祖父の帰依証(居士証)も見たことがある。

帰依証は居士証とも呼ばれ、中国の仏教寺院が発行する仏教信徒(居士)のための身分証明書である。昔は帰依書は比較的簡単なもので、一枚の紙の上に、居士の名前と法名と本人の写真が貼り付けてあり、証明書を発行した寺院の印章が押されてある。現在の帰依証はビニールのカバーがあり、折りたたんで携帯と保管により便利になっている。
帰依証は仏教信徒の身分を証明するほかにも、これがあれば国内のどんな仏教寺院でも登録して宿泊でき、食事をして仏事に参加できる。中国でまだ住民身分証が発行される以前は、帰依書が実際的に身分証名書の役割を果たしていた。
我々の考証によれば、方おばあさん(川島芳子)と段連祥の帰依書は、ともに長春般若寺が発行したものであった。

ちょうど都合のよいことに、九年前(一九九九年)に張玉はある「居士」の家で、公主嶺市仏教協会会長釈正成法師と知り合った。張玉が祖父の段連祥が仏門の在家の弟子であると告げると、正成法師は張玉に、段連祥居士を知っていること、また段居士には《方居士》(方おばあさん)という妻がいると聞いたことがあると語った。それで張玉は正成法師に一種の親近感を抱いて、連絡を取るようになった。六年前(二〇〇二年)に、正成法師は彼の故郷―伊通満州族自治県靠山鎮向陽村西朝陽濠屯に、般若念仏堂という寺院を建設した。二〇〇七年、正成法師は女流画家の張玉に電話をかけてきて、彼女に般若念仏堂に数幅の仏教風の画を描いて、仏堂の装飾をしてほしいと依頼があった。張玉は電話を受けた後で、我々が画を贈る機会を借りて正成法師と話をし、彼が段連祥と《方居士》について何か知っているか尋ねてみれば、我々の調査の手がかりを提供してくれるかもしれないと提案した。李剛は直ちにそれに同意を表明した。
張玉は数年前に韓国の某仏教団体と提携して、仏教風の一連の画を描いたことがあり、その中から二組を選んで二〇〇七年十二月上旬に、何景方と一緒に般若念仏堂に向かった。
伊通県東遼河畔に位置し、大恒山麓の般若念仏堂は山並みに囲まれ、我々は冬季にあっってすばらしい景色を見たわけではなかったが、しかし紅色と黄色に塗られた質素な寺院で、この都市の喧騒から遠く離れた寒村で、一種耳目を清めるような感覚を与える、修行に適したよい場所である。
正成法師と仏堂の居士たちは熱心に我々をもてなしてくれ、その夜何景方と張玉は寺院に泊まることにした。何景方は正成法師と夜を徹して語り合い、以下の点を聞きだした。正成法師は当地の俗家の生まれで姓を趙、名を光成といい、一九六二年の生まれである。一九八二年彼が二十歳のときに仏縁を結び、長春般若寺の歴史では主任住持(方丈)となり、八十五歳の澍培法師に付き添い、大師の生活起居と仏事活動の手配を世話し、澍培法師が一九八六年末に長春般若寺で円寂するまで五年の長きにわたり身辺に仕えた。これも正成法師が建設した寺院を般若念仏堂と名づけた由縁である。
正成法師が紹介していうには、彼は澍培法師の晩年五年間生活を世話する中で段連祥と出会った。段連祥は澍培法師の在家の弟子で、法名を「成章」と呼ぶ。毎回長春般若寺で会う際には、段連祥が必ず四平から長春に駆けつけていた。しかし彼が澍培法師に会うときには、必ず正成法師を通じて知らせて、接見時間を取り決めていたので、それが重なり正成法師と段連祥もよく知る仲となった。
段連祥はどのように澍培法師の在家の弟子とななったかについては、澍培法師は生前にかつて正成法師にこう話したことがあった。段連祥居士の妻である《方居士》が、昔から澍培法師の在家の弟子で法名を「成静」と呼んだ。《方居士》の紹介により、段連祥も自然と澍培法師の在家の弟子となった。

釈澍培法師は、俗家の姓を包、名を鴻運と呼び、蒙古族で、清光緒二十三年(公元一八九七年)三月二十四日遼寧省朝陽県二十家子村黄士坎屯に生まれた。
澍培法師は幼くして私塾に学び、努力してよく勉強して、十六歳(一九一三年)遼寧錦州眦盧寺で剃髪して出家し、法号を深根といい、二十三歳(一九二三年)瀋陽万寿寺で具足戒を受けた。一九二一年瀋陽万寿佛学院で三年学び、倓虚法師の学生となり、一九二五年倓虚法師二従って北京の「弥勒佛学院」で二度目の学習をして、三年で卒業した後に北京普済佛学院の教務主任となった。
一九二二年、倓虚法師が長春に般若寺を創建した。一九三二年、倓虚法師が澍培法師を長春に招き、般若寺の建設と管理を任せた。長春般若寺が建立した後に主任住持(方丈)となり、一九三二年十月十三日に昇座典礼を挙行した。長春般若寺は澍培法師の指導の下、東北で一大名刹となった。満州国時代には、澍培法師は三度日本に渡り仏法を宣揚した。
一九三九年澍培法師は退座し、長春般若寺の住職の職を善果法師に引き渡した。その後、彼は専心仏典を学び、後学の僧を育成した。
一九五六年澍培法師は長春般若寺の住持(方丈)に再び任じられた。一九八〇年、八十三歳で高齢となった澍培法師は《文革》後に長春般若寺の第一住持に任じられ、吉林省仏教協会会長となった。一九八六年十二月八日澍培法師は涅槃に円寂し、八十九年の生涯を終えた。
澍培法師は詩を作るのを好み、蘭花や墨竹の絵を描くのに優れていた。彼は一生のうちに三百余首の詩を作り、蘭・竹の書画を多く描いたが、《文革》の無常な時期にほとんど捨てられてしまった。
正成法師の証言では、澍培法師は書道や絵画に優れ、特に彼の墨竹画は造詣が深いということであった。澍培法師は生前に正成法師に、彼は嘗て《方居士》に一組の「墨竹四季折頁図」を送ったことがあると語っていた。《方居士》も嘗て大師に一幅の「蒙古の娘」のクレヨン画を贈ったことがあった。その画には一人の蒙古の娘がモンゴルの自分のパオの前に立ち、遠くを見つめている姿が描かれていた。正成法師の印象が深かったのは、嘗て彼が澍培法師の居室でその画を見たことがあったからである。しかも、正成法師が現在でも覚えているのは、澍培法師が《方居士》の「蒙古の娘」の画の中に四句の仏教の偈を描いていたことで、「忙しいさなかでも修行し、弥陀を唱えるのが最適だ。念仏を唱えて対応すれば、すぐに七宝の炎に至る。」とあった。
この《方居士》が澍培法師に贈った「蒙古の娘」の寓意について、正成法師は次のように解釈した。澍培法師はモンゴル族であり、《方居士》は澍培法師の出身を知り、それで「蒙古の娘」を描いた。澍培法師は彼女に「墨竹図」を贈って返答とし、また蒙古民族の感情を表現した。
正成法師がまだはっきり記憶しているのは、澍培法師が生前彼に《方居士》のことを話した際に、特に述べていたのは浙江天台山国清寺と長春般若寺はともに天台宗の仏門に属し、《方居士》は毎年国清寺で冬を越していたので、毎年夏に長春に戻ると、必ず般若寺に来て澍培法師に国清寺での感想を報告していた。ある夏に、澍培法師が《方居士》はもう年齢が高くなったので、国清寺は長春からあまりにも遠いので、もう行かなくてもいいのではと彼女に勧めた。そして筆を取って《方居士》に四句からなる寓意の深い偈を書いた。
「青山踏破して往時休す。仏に帰依して心に印す。人生八万四千の夢、無声一念に収む。」
ちょうどうまい具合に、澍培法師のこの四句の偈の墨蹟を、我々は段連祥の遺品の中から探し出すことができた。澍培法師のこの墨蹟は、一九七五年夏に《方居士》(川島芳子)のために書いたものである。およそ十年後に、澍培法師はまたこの四句の偈を一字も誤りなく正成法師に話して聞かせ、正成法師もまた二十年後に一字も誤りなく我々に暗証して伝えたのである。これは正成法師の記憶力のすばらしさを証明するだけでなく、《方居士》(川島芳子)が澍培法師の心に占めていた重みをも充分説明しているだろう。樹倍法師は一生をかけ長年にわたり仏法を説き、仏縁の弟子(在家弟子も含め)は大勢いたが、ただ《方居士》(川島芳子)だけには、多数の書画・私人の写真・経典などを贈り、さらに書いて与えたことのある墨蹟の内容を十年後も忘れていないというのは、法師と《方居士》(川島芳子)の関係の深さを物語っているといえよう。
澍培法師のこの四句の偈は、正成法師が先に述べた「蒙古の娘」の画に書かれた四句偈と異曲同工の妙がある。我々の理解では、澍培法師は《方居士》(川島芳子)にこう諭したものと考える。
「あなたは祖国の名山宝刹を巡り、過去の一切の往時をすべて忘れて、再び考えないようにしなさい。振り返って、仏陀を心に置くのが人生の真諦である。人生(八万四千の法門)は夢のごとく、すべて仏陀の掌の上にある。」
わかりやすくいえば、澍培法師は《方居士》(川島芳子)を諭して、一切の雑念を忘れて、昔のことを再び懐かしんだりするのではなく、敬虔に仏門に帰依するのが、人生の最後の寄宿であると言いたかったのであろう。
我々は川島芳子の資料を読む中で知ることのできたのは、川島芳子が小さい頃から粛王府で仏教の薫陶を受け、彼女の養父母の川島浪速夫妻もまた仏教信者であり、日本もまた仏教を厚く信奉する国であるということであった。川島芳子は七歳にして日本へ渡り、自然と影響を受けて成人するまでに仏縁を結んだのであろう。満州国が一九三二年に新京(長春)で「建国」された時に、川島芳子は皇后婉容を天津静園から東北に連れ出した功績により、日本関東軍の賞賛を得たばかりでなく、満州国執政溥儀と皇后婉容の好感をも得た。後に、彼女はまた満州国軍政部最高顧問多田駿の権力を背景に、満州国の「安国軍司令」となり、満州国で有名な大人物となった(一九三二年から一九三五年の期間)。この時期に澍培法師はちょうど新京(長春)の護国般若寺で最初の住職に任じられ(一九三二年から一九三九年)、また満州仏教総会の代表人物の一人であった。澍培法師と川島芳子は共に満州国時代の上層社会にいた人物であり、面識がなかったわけではあるまい。そこで、澍培法師は後に正成法師にこう述べたのである。「方居士は早くから私の在家の弟子だった。」そのうちに含まれている意味は推して知るべしである。

歴史感動物語 10[本/雑誌] / 川島芳子/他 犬養毅/他

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2016年03月19日

川島芳子は生きていた(19)川島芳子と方居士

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

仏教は東漢明帝の時期に、天竺(インド)より中国に伝わってきた。中国南北朝時代の陳の時代または隋の時代に、高僧智が中国南北の仏教を統一し、体系が完備しており独特な教理を持つ宗派を打ち立て、南北諸師の公認と尊敬を集めた。大師は天台山に住んでいたので、その一派は「天台宗」と名づけられた。天台宗の創立により、中国仏教史の新紀元が開かれ、仏教の中国化の過程が初歩的に完成し、真の意味での中国仏教が誕生した。

西暦六世紀に、仏教は中国は朝鮮半島を経て日本へ伝わり、日本における仏教史が始まった。その後に天台宗の主要な経典である『法華経』が相次いで日本に伝わり、日本僧侶が必読の経典とされただけでなく、護国の聖典としても崇められた。

天台宗の日本伝播は、日本が送った遣唐使と密接な関係がある。中国の唐の時代二百八十九年間のうちに、日本は遣唐使を十八回組織して送り、留学僧は合計九十人に及び、その四分の一の僧は天台山国清寺へ来て、仏縁を取り結んだのである。

これに続き、中国唐代の僧鑑真大師が日本弘法の要請を受けて、様々な困難と危険を経験しながらも、十二年の間に六度渡航を試みてついに成功した。第四回目に渡航した際には、自ら弟子三十余人を率いて、寧波(明宗)阿育王寺から徒歩で旅程を開始し、一路山を越えて水を渡り、ある日の大雪が降る黄昏に、有名な天台山国清寺に到着した。彼らは天台宗を研究し、天台宗を日本に広める決意を固めた。西暦七五三年、鑑真大師は日本の鹿児島に上陸し、日本の朝野は彼を大和尚と呼んで称えた。鑑真は天台宗の教義を広め、日本の僧である最澄を啓発して唐に行き仏法を求めたいとの強烈な願望を抱かせた。

西暦八〇四年最澄大師は弟子兼通訳の義真を連れて遣唐使船に乗り込み、寧波から上陸して、台州を経てそこから直接に長いこと望んでいた天台山国清寺へ登った。最澄の唐での遊学は八ヶ月であったが、持ち帰った経典は合計二百三十部四百六十巻に及び、日本の天皇から賞賛を受けた。このときより日本の天台宗が始まり、平安時代の日本仏教が創立され、今日に至るまでずっと誉れ高い。日本の仏教はずっと中国仏教の影響下で発展してきた。天台宗を中心とする大乗仏教はずっと日本仏教の主流となっている。

長い歴史の営みの中で、日中間の仏教における関係は非常に密接であり、深い友誼を取り結んできた。しかし二〇世紀に入って後、日本軍国主義の中国侵略と《文革》による損害を受け、両国の仏教の正常な関係は破壊された。しかし時代の変遷と日中国交正常化に伴い、両国仏教界の友好活動は日増しに正常化され、ますます密接にますます発展する春の時期を迎えた。このことについて一例を挙げて説明しよう。
一九八〇年四月十四日から十五日、鑑真大師像が日本より中国に帰国して故郷を訪問した。中里徳海を団長とする日本の「天台宗中国天台山参拝訪中団」一行十七人が天台山国清寺を参拝した。中里徳海団長はこう述べた。
「中国天台宗は日本天台宗の祖先で、天台山と日本比叡山は父子のようなものです。我々が今回参拝したのは、祖先の恩に報いるため、また祖先の故郷を参拝するためです。我々両国は一衣帯水で、その友好的な往来は歴史が古く、必ず世々代々伝えていかなければなりません。」
仏教訪中団
中国仏教協会会長であった故趙朴初は、一九七五年十月二十六日に日本天台宗座主山田恵諦長老に付き添って国清寺を参拝したとき、山田長老に一種の五言律詩を贈った。

喜迎
昔日霊山会、同聴法華経
喜今嘗宿願、振錫自蓬瀛
珠耀垢衣解、花飛宝座分
叡台承相照、万古弟兄情

 国清寺と日本仏教の繋がりは長い歴史があり、川島芳子が日本で生活した二十年近くの間に、知らず知らずに感化されて、彼女も大勢の日本仏教徒と同じく、国清寺を日本仏教天台宗の源流とみなして、深い感情を抱いたかもしれない。国清寺に到ったことは、仏門の弟子たちにとって「根」あるいは「家」に到着したのと同じである。国清寺はあたかも巨大な磁石のように、深く川島芳子を引き付け、たとえどんなに困難でも、あるいは旅程がどんなに遠くても、やはり彼女の心は国清寺に始終あったのではないか。

浙江省は中国の亜熱帯地域に属し、気候が温暖で湿潤である。国清寺は浙江東南天台の南麓にあり、四周を五つの峰に取り囲まれ、国清寺は八桂峰の日の当たる側面に建てられている。寺の西北にある映霞峰が最も高く、加えて寺の西には霊芝峰があり、さながら天然の障壁に囲まれて、寺院のために冬季の寒冷な風を遮っている。寺の東にある霊禽峰と寺の南にある祥雲峰の間には、比較的広い峡谷があり、そこが寺院の入り口となり、また夏期には東南からの風の通り道となり、これにより国清寺は冬暖かく夏涼しく、冬は寒さを避け、夏は暑さをやわらげている。つまり国清寺は寒さを避けて冬を越すには絶好の土地であると言うことだ。

その外にも、国清寺は悠久の歴史を有し仏法が厚く信奉され、国内外の仏教界でもとても高い知名度があり、そのため香の煙は絶えることなく、長く衰退することがなかった。国清寺は歴史上「知客」という接待係の職を設置し、専門に僧侶や民衆の出入りを管理し、巡礼の僧侶の参拝を接待したり、山に登ってくる参拝客や、在家の弟子たちが登記して宿を取る管理をしている。この伝統のため、日々に心地よく、客に至れり尽くせりで安らぎの感覚を与える。

何景方と張玉が泊まったのは万字楼の旅館で、寺院内の東部生活区に建設されており、二階建てで円形の建築で、宿泊客二百数人を接待できる。二階の食堂には大食堂と小食堂があり、同時に数百人の食事を寺院内に用意できる。

寺院の北側には、山の形勢によって比較的高級なホテル式の宿泊施設が建築されている。一つの建物は迎塔楼で一九三二年に建築され、五丈部屋二層建築で、二階のバルコニーからは、祥雲峰の上に高く聳え立つ緑影上の隋塔を眺めることができるので迎塔楼と名づけられており。賓客接待用に用いられる。聞いたところによれば、蒋介石の元妻であった毛福梅たしばしば浙江奉化渓口より国清寺へ参拝に訪れ、その宿舎の便として、毛福梅の出資でこの建物が建築されたという。迎塔楼にかかる額の題字は民国の学者である蔡元培の筆であった。

もう一つの建物は吉祥楼で、迎塔楼の東側に隣接している。一九八九年に新築され、三丈部屋の二層建築で、中には宿泊部屋、会議室。小食堂など設備が整っており、古い樹木が鬱蒼と茂り、静かな環境で、賓客用に用いられる。この建物が最初に接待した賓客が故中国仏教協会会長趙朴初と日本天台宗座主山田恵諦長老一行であった。

このことが説明するのは、国清寺の冬の気候は北方に住む方おばあさん(川島芳子)が冬を越すのに適しており、同時に国清寺の宿舎や食事などの条件が比較的完備しているということである。なおのこと、川島芳子の類まれな聡明さと、仏門在家の弟子の身分からして、このように国清寺が家と同じように便利ならば、我々の考えでは、彼女にはありうることである。しかし、詩や画に秀でた川島芳子であるので、国清寺でそれらの寺でどの僧侶と交友があったのか、国清寺になにか書画や筆跡が残されていないか調査したが、それらを見つけることができなかったのは甚だ遺憾であった。

方おばあさん(川島芳子)が毎年国清寺で冬を越したことは、彼女が国清寺をよく知っていたことを説明するだけでなく、なにか知られていない縁があるのかもしれない。方おばあさんの一九七八年死後における遺骨の問題は、段連祥が生前に打ち明けなかったため行方が不明となっていた。張玉がこの問題を母親の段霊雲に尋ねたときにも、段霊雲もはっきり記憶していなかった。しかし、偶然にも手がかりを示す情況が出現した。

 張玉の父親張連挙は彼女ら母子の話を聞いた後、話を引き継いでこう述べた。一九八〇年に彼が軍事工場から四平に戻って親族を訪ねたときに、ちょうど岳父の段連祥が日本の友人を接待しており、同時に国清寺から一人の老齢の僧が来ており、方おばあさん(方居士)の命日のために来たと言っていた。張連挙はまず車を借りて岳父のために日本の客人を送り、二日目に国清寺の僧を送った。老僧は去る時に方おばあさんの遺骨を持ち去った。張連挙の記憶が比較的はっきりしているのは次のような原因である。岳父段連祥が彼にバンを借りて国清寺へ僧を駅まで送るように言ったが、バンは借りることができず、ただ一台のサイドカー付きのバイクを借りることができるだけであった。バイクで送る途中に、うっかり通行人の一人と接触してしまい、通行人には怪我がなかったが、相手が賠償金を要求してきたので、岳父の段連祥が十元をだしたが、相手が少ないといったので、張連挙がいざこざを避けるために、ふたたびポケットから十元を取り出し、示談にした。それで張連挙は、国清寺の僧侶が方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去ったことをはっきり記憶していたのである。

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2016年03月18日

川島芳子は生きていた(18)国清寺での調査

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

大家であった逯興凱が我々に方おばあさんの情況を紹介する時に特に指摘していたのは、彼女は毎年冬になると新立城にはいなかったことで、毎年冬になると方おばあさんの家の中から人影がなくなることであった。この現象は段霊雲と張玉母子はあまり気にしていなかったが、彼女たちが一点だけ肯定したのは、前世紀五、六〇年代に段霊雲が方おばあさんに付き添っていた頃にせよ、七〇年代に張玉が方おばあさんと一緒に生活していた頃にせよ、彼女たちが記憶にあるのはいつも夏の時期であった。冬は彼女たちは新立城に行ったことがなかったのである。

新立城の冬は三四十年前は確かに非常に寒かった。当地の一般の農家は、部屋の中のオンドルと火鉢(釜を焚いた薪木の燃えカスを入れる鉄の鉢)の外に、その他の暖房設備というものがなかった。それでは、毎年長い冬季に、方おばあさんはどこに寒さを避けて行っていたのであろうか?

大家の逯興凱の記憶では、段連祥は毎回「新立城」に到着すると、彼らの家に来て顔を出し、逯興凱の父親逯長站と世間話をしていた。おりには、冬越えのことについて話していることもあった。段連祥が言うには、通常の場合は方おばあさんは浙江省の国清寺で冬を越しているとのことであった。

方おばあさんのこの普通の人の生活と異なる点は、彼女の神秘性を増しただけでなく、我々が今までよく知らなかった国清寺という仏教寺院への関心を引くこととなった。我々はネットで調べた結果、以下の点を知った。国清寺は中国浙江省天台山麓の天台県に位置し、中国仏教天台宗の発祥地で、また日本仏教天台宗の発祥地でもある。我々は国清寺が我国の仏教界でこのような重要な地位を占め、さらに東洋日本仏教にもこのような歴史的に深い関係があるとは予想すらしていなかったので、我々は国清寺への興味をさらに深めたのである。特に、方おばあさんがどうしてこの国清寺を選んで、冬季の隠遁先にしていたのか?国清寺の魅力はどこにあるのか?熟考の末、李剛は決断を下し、何景方と張玉を一緒に国清寺へ向かわせて、方おばあさんが国清寺で生活した記録があるかどうか探し、方おばあさん(川島芳子)の新立城以外の土地での生活の軌跡を探ることとした。

十一月初めの北国長春は、早くも風が落葉を吹きつけ地上には霜が降りる季節である。何景方と張玉は一緒に南方行きの汽車に乗り込み、汽車の中で二泊の旅程を経て、まだ暖かく緑が茂る杭州にやって来た。杭州から長距離バスに乗り天台県に向かい、蕭山、紹興、上虞、嵊州、新昌などの市県を通り過ぎた。特に新昌から天台の区間は高速道路ではなく、険しい山の間を走る山道で、バスはくねくねと起伏する山の周囲を縫うように走り、何景方と張玉の二人はこう考えざるを得なかった。三四十年前には浙江の山地の道路はまだ整備されておらず、交通機関もいまだ発達していなかったのに、すでに高年齢になっていた方おばあさんが、毎年寒い冬の季節に、東北の長春から、千里はるばる天台山の国清寺のような逼塞した地方に来るには、十日から八日かかるはずで、どう考えてもたどり着けないだろうと考えたことからも、その苦労の程度が想像できるだろう。しかし、大きな山を越えて天台県に来ると、まるで別天地のようであった。天台県はとても美しく、天台山の霊気に満たされているようであった。天台県から国清寺へは専用のバス路線がある。多くの観光客がいることからわかるように、国清寺は今でもやはり旅行のホットスポットであった。
国清寺
何景方と張玉は天台山の麓に来ると、当時方おばあさんが国清寺に行くのに通ったであろう路線に沿って、山に入る道路から木魚山を経て、雲の上の峰に高くそびえる千年隋塔を見ながら、寒拾亭、七佛塔を経て、豊幹橋を渡り、国内外に広くなを知られる千年の歴史を持つ古刹―国清寺へ到着した。
七仏塔
二日間をかけて、何景方と張玉は敬虔な面持ちで、国清寺の殿内にある仏像を参観し、寺院周囲の景観を遊覧し、さらに真慧法師、延如小師弟、接待室の梅吉異居士と九十四歳になる高齢の以前は食事係だった林若水老居士らと会い、国清寺の歴史や現状などを尋ね、方おばあさんがかつて国清寺で冬を越し、仏事に参加していた足跡が見つからないか話を聞いた。しかし、既にかなりの年月が経っており、方おばあさんのように普通の在家の仏門弟子の身分では、寺の中には何も記録はないだろうとのことであった。たとえ当時方おばあさんが川島芳子であると寺の住職やそのたの僧が知っていたとしても、他人には決してそのことを口外しないだろうというのである。しかし、何景方と張玉は二日間の国清寺でのおぼろげな理解を通じて、方おばあさん(川島芳子)がどうして毎年国清寺へ来ていたのか、寒さを避けて冬をすごすという客観的な原因の外に、国清寺という千年の歴史を持つ古刹に実際に身をおいて深く考えることができただけでも、今回の旅行は無駄でなかったといえよう。

『国清寺志』の記載によれば、中国南北朝のとき陳国の太建七年(西暦五七五年)、一人の高僧定光が天台山で修行していた智大師に言った。「山の下の皇太子が基礎を据えて、寺院が造成されるだろう」さらにつぎのように予言した。「寺を造成できれば、国すなわち清まる」(国清寺の名前はここに由来する)。こうして高僧智は寺院建設の志を立てた。隋の時代の陳国の後、智は晋王楊広と深い仏縁を取り結んだ。隋の開皇十七年十月、智は遺書を晋王に贈り、寺院建設を求めた。

「天台山のふもとの土地で、非常によい土地があり、伽藍を建設したい。最初は木材を切って基礎をすえ、弟子に建設するよう命じた。寺が完成されなければ、死んでも気がかりだ。」

晋王は書を受け取ると感動して、隋開皇十八年(西暦五九八年)司馬王弘を天台に派遣し、智の遺言に従って寺院を建設した。隋の文帝仁寿元年(西暦六〇一年)に、寺院が完成して、天台寺と呼んだ。大業元年(西暦六〇五年)に隋の煬帝が即位すると、天台寺に「五百段の贈り物」を寄進して、「国清寺」の名を賜った。
国清寺は長い年月の間、皇帝や王からの寄進を受けて、教勢が盛んとなったが、やはり戦乱による災難や皇帝による仏教迫害などにより衰退したこともある。盛衰を繰り返したが、衰退よりも盛んであった時代の方が長く、これが国清寺千年の発展史の特徴でもある。

国清寺に現在残っている建築物は清代の雍正年間に再建されたもので、近代国清寺の建築風格を規定した。一九七三年中国人民政府が全面的に修復し、現在ある寺院は合計一四座、部屋は六百間余り、総建築面積は二万平方米、占地面積は三万平方米近く、中国漢族地区の著名な古刹の一つとなっている。一九八三年、国務院は国清寺を漢族地区百四十二座の仏教重点寺院の一つに認定した。

国清寺は千年に及ぶ悠久の歴史を持ち、仏教中国化の長い年月の中で重要な伝承作用を果たしてきた。歴代の高僧の苦心の研修を経て、仏法は厚く広く深く極められ仏教が東アジアに広まるさいに大きな貢献を果たした。このような寺院であればこそ仏門に入り在家の弟子となった川島芳子が、どうして千里はるばる国清寺へ来て、しかも毎年参観していたのか理解するのはそう難しいことではない。

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2016年03月17日

川島芳子は生きていた(17)逯興凱の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

幾らかの準備をした後、二〇〇七年十月四日の国慶節ゴールデンウィークに、何景方ならびに段霊雲と張玉母子は自動車に乗り新立城の斉家村があったところを探しに向かった。車が長春市を出ると、何景方は運転手に新立城鎮政府の所在地に向かわせた。なぜなら彼はそこの地名が斉家村と言うことを知っていたので、それが当時の斉家屯であるかどうか、聞けばすぐにわかるからである。
車をドライブして長春市区から新立城鎮へ向かう片道あるいは二車道の一級道路上で、改革開放後の長春市近辺の変化がとても大きいことに感慨を禁じえなかった。
百年前、すなわち一九〇七年(光緒三三年)四月二十日、清光緒皇帝は命令を発布して、東北地方に奉天、吉林、黒龍江三省を設立し、「吉林省印」を鋳造させた。それにより、吉林省が正式に現在の中国の歴史的版図に出現した、しかし長春の歴史は吉林省の歴史よりさらに百年ほど早い。
清嘉慶五年五月戊戍(西暦一八〇〇年七月八日)清王朝は吉林将軍秀林の求めにより、まず蒙古の境界内に「借地統治」を決め、長春庁が成立し、理事通判衙門を設置した。
たいへん優雅で美しい名前―長春がここに伊通河畔に誕生した。長春庁の名称は長春から東に五キロ離れたところにあった長春堡に由来する。長春という名前の意味はこの吉祥を象徴する二字で、四季のなかでも春が長くあるように、生命が溢れ、万物が復興する春を待望する気持ちが詩的に表されている。
長春庁は最初は長春堡の伊通河東岸に建設された小さな町にあり、その名を新立城と呼んだ。長春庁の行政長官は理事通判で、巡検衙門はここで所属民の戸籍や訴訟や治安などの事務を扱った。
当時の長春庁の人口は一万人にも足らず、管轄範囲は、南は伊通河、北は吉家屯で南北の長さ百八十里、東は沐石河、西は彦吉魯山で、東西二十里、行政区分は懐恵、沐徳、撫安、恒裕の四郷であった。
長春庁遺跡は新立城(屯)小街南側に位置する。現在もとの位置に「長春庁衙門」が復元建設され、観光客の訪れる旅行スポットとなっている。
一八二五年、長春庁は開墾地区の不断の拡大に伴い、元の新立城の土地が交通不便で、行政区が南に偏って、地勢が比較的低地だったため、長春庁は衙署を寛城子に移動した。すなわち現在の長春市南関区一帯が、昔の都市の廃墟上の比較的住民が多かった地点で、人々が集中して住んでいた場所であった。長春庁が移動した場所は、現在の南関区四道街一帯であるが、そこに庁衙が修築され、周りにも街道、商店、作業場などが出現し、現在の長春市都市区の歴史的雛形となった。
それゆえ、新立城の成立の方が先で、長春市の成立の方が後なのであり、ただ歴史的な大きな変化により、今日の都市と農村の配置が形成されたのである。
我々の自動車は新立城鎮政府の所在地の道路西側の、新立城鎮斉家村民委員会の額が掛けられた建物の前に停車したが、ちょうど二人の農民がそこでお喋りしていた。段霊雲は車を降りなかったが、何景方と張玉の二人がそこへ近寄って尋ねた。
「すみません。お聞きしたいのですが、斉家村はむかし斉家屯と呼ばれていた場所ですか。」
土地の村民はとても親切で、我々が遠くから自動車で来たのを見て、詳しく我々に説明した。
「斉家屯は上斉家屯と下斉家屯に分かれておって、上斉家屯はこの道路の東側で、今の斉家村民委員会の所在地が下斉家屯じゃ。あんたら誰を探しに来なすったんじゃ?それとも何か他の用事かの?」
「ちょっとお尋ねしたいのですが、誰か三十年ほど前に、ここに住んでいた老夫婦を知りませんか。男の方は段連祥と言い、女の方は《方おばさん》と言うのですが。」
張玉はすぐに我々がここに来た来意を二人の村民に喋ってしまった。
ちょうどそこ西側の小道から一人の背の低い、三十過ぎの中年の男がやって来た。少し年長のほうの村民が彼を指差して我々に言った。
「あそこの逯家の次男に親爺のところに連れて行ってもらうがよかろう。あそこの親爺はここでも古くからおる村民で、解放前からここにおるから何でも知っとるよ。」
我々はこう聞いて、「ありがとう」と言って、すぐに振り向いて、逯家の次男を迎えた。逯家の次男も親切な人で、彼は自信たっぷりに我々に言った。
「おいらに出会えたのは丁度良かった。おいらの親爺はここらの生き字引じゃからの。おいらが連れてってやろう。」
そこで、何景方と張玉の二人は逯家の次男の来た方向に、彼に付いて行き、二回角を曲がると、一軒の普通の民家にたどり着いた。
「親爺!人が来たぞ。」
逯家の次男は家の戸を開けると、中に向かって一声かけた。
中に入って、左の方に曲がると、東向きの部屋から一人の六十歳過ぎの老人が出てきた。体はとても痩せ細っているが、大きな二つの目ははっきりしていた。老人は客人を部屋に招きいれると、逯家の次男が我々に代わって我々の訪問の目的を説明した。
老人はしばらく躊躇してから、こう説明した。
「わしは逯興凱、今年六十四歳で、この村に昔から住んでおる。この村は昔は斉家屯と呼ばれておった。公路の東側の集落が上斉家屯じゃ。二つの屯の三十年前の旧家はみなわしが知っておる。じゃが、あんたらの探しておる段連祥と方おばあさんというのは知らんの。」
逯興凱は一つ一つの家を数えるかのように、二つの村の旧家を説明した。当時、何景方と張玉の二人は互いに目線を交わし、二人とも心の中で、陳良の言った地名が間違っているのではないかと思っているようであった。この時に張玉はさらに逯興凱に、付近に十里堡という屯がないかどうか尋ねた。逯興凱はうなずいて答えた。
「ここから西に五、六里離れたところに、十里堡という屯があるが、やはり新立城鎮の管轄じゃ。」
これほど土地勘がある逯興凱が段連祥と方おばあさんの二人を知らないと言うからには、何景方と張玉は当時こう考えた。きっと陳良の勘違いだ、帰ってからもう一度陳良によく聞いてみよう。こうして、我々は逯興凱に別れを告げてから、成果を挙げることなく戻ってきた。
新立城から帰ってきた後に、何景方は方おばあさん(川島芳子)調査の結果を李剛に報告し、二人は調査中に何が間違っていたのかを分析した。まさか陳良が嘘をついて、段霊雲と張玉母子に話しを合わせて、故意にでっち上げているのでは?しかし我々は再び思い直した。陳良には嘘をつく必要が何もないと。もし彼が段連祥と方おばあさんと会ったことがないのなら、どうして段霊雲が説明した段連祥と方おばあさんが新立城にいた時期の経歴とこんなに符合するのか。そこで、二人は張玉に再び陳良に会ってよく確かめさせることに決定した。
張玉は疑惑を抱いて陳良の家に二回目の訪問をした。陳良は張玉が方おばあさんの旧宅を訪ねた結果を聞き、少し考えていった。
「わしは今年でもうすぐ七十歳になるが、まだ親爺の住んでおった土地を間違えるほど耄碌はしておらん。斉家村には逯という姓の家があるはずじゃ。お前さんたち、もう一度行って段連祥と方おばあさんの住んでいたところがわからなければ、わしの所に戻ってきなさい。わしが案内してやろう。」
張玉は陳良が確信を込めて話すので、それ以上何も尋ねなかった。張玉は帰ってきた後に、我々に説明して、陳良は我々がもう一度新立城へ行って、もし祖父と方おばあさんの住んでいた土地を探し出せなければ、また自分のところへ来るようにと言ったと報告した。
もう一度新立城に行くかどうかで、我々の間では当初意見の相違があった。何景方は言った。「逯さんはもう高齢だから、知っていて言わないなんてことはないだろう。それに彼は解放前から《文革》期間もずっとあそこに住んでいて、家を一つ一つ挙げることができるのに、段という姓の人間も方おばあさんという老婦人のことも言わなかった。もう一度行っても無駄だろう。」
李剛は話を続けて言った。
「逯興凱が事情を知っていて我々に言わない可能性もあるのではないか。我々と彼とは初対面でもあることだ。これには逯興凱に言えない事情があるのかもしれない。」
最後に、張玉が発言した。
「陳良さんがせっかく言ってくれたのだから、もう一度斉家村に行ってみて、無駄足でも確認してみましょう。」
我々は三人ともこのことについて心の中では確信が持てなかったが、ともかくもう一度新立城に行くほかはなさそうであった。
二日目に、張玉は朝早くに李剛の事務室を訪れて、部屋に入るなりこう尋ねた。
「誰か財布に三枚の五角コインを持ってないかしら。私、まず今日の出発がうまくいくかどうか占ってみたいの。」
何景方が財布から三枚の五角コインを取り出して張玉に手渡した。張玉はコインを両手で握って振り、繰り返して三回投げた。出たコインの裏表を記録して占ってみた結論は
「上上、大吉、今日は必ず成功する。」
李剛と何景方の二人は互いに見合わせて笑った。なぜなら二人はコイン占いなどというものを理解できなかったからで、ただ調子を合わせて
「そうなることを願うよ。順調に行けばいいな。」と言っただけだった。
今回は何景方と張玉の二人で行く二回目の新立城であった。
一〇三路線の公共バスに乗り斉家村のバス停で降り、何景方と張玉の二人は逯興凱の家に真っ直ぐ向かった。
逯興凱はどうやら我々が再び来ることを予想していたようで、我々に席を勧めると、疑惑の目線を向けて、我々を見ながら尋ねた。
「あんたらは何がしたいんだ?どうして段連祥と方おばあさんを探してるんだ。」
逯興凱の言葉に含みがあるのを聞いて、張玉はすぐに答えた。
「私は段連祥の孫娘です。私の祖父と方おばあさんが三十年前に昔新立城の斉家屯に住んでいたので、私たちは斉家村が当時の斉家屯かどうか知りたくて来たのです。もしそうなら、この二人をご存じないですか?」
逯興凱はこの時目が輝いて、張玉に向かってすぐに尋ねた。
「そういうと、あんたは段連祥があのころいつも連れてきていた孫娘の小波叨かい?」
張玉はこれを聞いて、逯興凱がすでに三十年も呼ぶ人がいなくなった自分の子供の頃の呼び名を口にしたのを見て、我々が事情を知る人を捜し当てたことを確信した。この逯興凱こそ祖父段連祥と方おばあさんがここに住んでいたことを知っている人のはずだ。
逯興凱はこの時に本当の事情を告白した。
「そういうことなら、本当のことを話そう。前に来たときに、段連祥と方おばあさんの二人がいるかどうか尋ねられたとき、わしは知っておったが、言わなかったのじゃ。わしはあんたらが何しに来たのか知らんかったし、知らない人に突然来られても、知ってることをなんでも話せるもんじゃないからの。わかってくれ。わしのとこの逯家はここの大地主じゃったが、土地改革のときに富農分子にされて、過去に何度も政治運動でひどくやられての。それじゃから、責任を問われるのを恐れて用心しておったのじゃ。もちろん今はもう前とは違って、罪を問われるようなことはないがの。じゃが、あんたらはこの二人のことを何の目的で聞くのじゃ。うちの家族に何か悪い影響がありやせんか。」
逯興凱のこの内心からの言葉は、我々が理解できるだけでなく興奮もさせた。興奮したのは、「あちこち探していたときは見つからないのに、探すのをやめたら見つかった」からである。意外にも段連祥と方おばあさんの新立城での生活の痕跡を、この逯興凱の所で答えを得ることができた。我々は張玉が祖父の段連祥と方おばあさんを回顧して本を書く準備していること、彼らが新立城で暮らしていたかどうかを確かめたいという思いを伝え、逯興凱に説明した。さらに彼に安心するように、絶対に家族に累を及ぼすようなことはないことを言い含めた。
そこで、逯興凱は彼の記憶を語り始めた。
「わしは段連祥をしっておるぞ。彼とわしの伯父于景泰は満州国警察学校の同窓生だった。」
段連祥と方おばあさんについて、逯興凱は言った。
「父の逯長站(一九八七年逝去)がこう話すのを聞いたことがある。解放前夜、だいたい一九四八年末から一九四九年初ごろ、わしはまだ幼い頃じゃった。ある日、わしの伯父の于景泰が段連祥と方おばあさんを連れてきて、もう一人男がおったが、名前は知らぬ、全部で三人の男が連れてきた。伯父の于景泰が、この三人が家に住みたいといっているが、どこか空いている部屋はないかと言った。当時、わしの親爺は伯父の面子を立てて、わしの大伯父(当時すでに逝去して、妻はほかに嫁いだ)が残した部屋に住ませる事にして、少し整理してそこに住まわせた。この家は部屋が三間あり、その他にも東西の小部屋と門に番小屋があり、門を閉じれば一戸の家になった。そのとき相談して、彼ら三人はこの家を借りることにした。しかし段連祥はわしの伯父の同窓生で、もう一人来たあの男は(背は高くなく、少し太っていて、金縁めがねで、少し威張っていた)、やはり伯父と段連祥の昔の警察学校の教官で、わしの父親もいくら長く住んでも金を幾らくれと要求するのも気が遅れていたようであった。」
「住居が決まったあと、方おばあさんは臨時にこのわしの家の小部屋に数日泊まり、あの教官が去って、残った段連祥と伯父の于景泰が部屋を片付けているうちに、天気が寒くなった。二年目の春になると、やはりあの四人、方おばあさん、于景泰、段連祥、それからあの教官が、馬車で大きな荷物や小さな荷物を車一杯運んできて、正式に修理したわしの大伯父の部屋に住むことになった。わしの親爺は二人の姉を連れて行き、彼らが住んでいる家の庭に各種の野菜やトウモロコシの種をまいた。」
逯興凱の印象では、段連祥は大柄で、少しやせており、白髪まざりであったが、意志が固そうな顔つきであった。方おばあさんは背丈は普通で、目が大きく、皮膚が白く、体型は普通で、とても綺麗好きでテキパキしており、北京なまりがあった。
逯興凱はこう紹介した。段連祥と方おばあさんが食していた米と小麦粉は、みな彼らが自分で買い、食べていた野菜は逯家の人間が手伝って家の前後の庭に植えた物で、火を焚くマキは逯家のものを使っていた。
解放初期、前世紀の五〇年代に段連祥はしばしば娘の段霊雲をここに残して方おばあさんのお供をさせていたが、段連祥の娘である段霊雲と逯興凱の年齢は近かったので、幼いとき二人はよく遊んでいた。
およそ一九五八年ころ農村に人民公社が成立する頃になると、段連祥は来なくなったが、逯興凱が伯父の于景泰から、段連祥は経歴の問題と「右派言論」で労働教育に送られたと説明するのを聞いた。それから《文革》前になると、逯家の者は再び段連祥が方おばあさんを探しに来るのを見た。この六、七年の期間は、ずっと于景泰が方おばあさんの生活の面倒を見ていた。当時、于景泰は逯家の小部屋に住んでいた。
一九六六年《文革》が始まったばかりの頃に、どういう原因か不明だが于景泰は捕まって連行され、旧満州国皇宮近くにあった長春監獄か収監所(長春市郊区公安分局の逮捕と聞いた)に入れられた。取調べが終わらないうちに、于景泰は収監先で死んでしまった。
前世紀の七〇年代初頭、段連祥はほとんど毎月のように方おばあさんのいるここへ二回ほど訪れ、外孫娘の「小波叨」を連れてきて「小波叨」を残して方おばあさんの供をさせた。およそ「四人組」が打倒された後の一九七八年のある日に、段連祥は陳連福という名の老人(新立城鎮十里堡住人)を連れて逯家に来て、逯興凱の父親に方おばあさんの住んでいた家を売買したいと言った。その時、逯家ははじめて方おばあさんが既に死んだということを知った。段連祥の仲介で、逯興凱の父親は方おばあさんが住んでいた家を陳連福に売り、当初部屋の値段は二百元と話していたが、陳連福は百五十元しか払わなかった。陳連福は数年も住まない内に、また部屋を同じ村の張某に売った。前世紀の八〇年代に新立鎮の道路拡張に伴い、方おばあさんが住んでいた部屋はちょうど道路に当たっていたので、政府の補償を受けて立ち退きになり、現在はもう跡形も残っていない。
逯興凱の証言は陳良の証言と基本的に一致している。我々は段連祥の臨終の遺言の真実性に確信を深めた。方おばあさんは新立城に来た時期は、解放前後の一九四八年末で、川島芳子が北平第一監獄から脱走した時期とも符合している。さらに段連祥と于景泰ならびに彼らの教官《老七》が一緒に付き添っていたことも、当時川島芳子と関係のあった者が北平から東北に逃げるのを助けたという伝聞を検証することになった。

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2016年03月16日

川島芳子は生きていた(16)陳良の証言

https://fanblogs.jp/kawasimayoshiko/よりの転載

段連祥は臨終での遺言の中で、川島芳子は一九四八年三月二十五日に北平で死刑から逃れ、《七哥》と于景泰による護送のもと、瀋陽を過ぎる途上で段連祥を探し出したと語った。彼ら三男一女は長春市郊外の新立城の農村にやって来た。川島芳子は対外的には方おばあさんと呼ばれていた。段霊雲は彼女を《方おばさん》(或いは《方ママ》)と呼んでいた。我々の調査は新立城に方おばあさんが実在したかどうかを確かめるところから始まった。
段霊雲の記憶の中の新立城は、張玉が一九六七年に生まれる前のことで、すでに四十年も過ぎていたので、彼女はただ次のことを覚えているだけであった。方おばあさんの家に行くには、バスに乗りまず胡家店という地点に行き、バスを降りて、さらに農家の馬車に乗り方おばあさんの家に行く。張玉が方おばあさんと別れたのは、まだ十一歳に満たないときで、すでに三十年が過ぎていたため、方おばあさんが新立城にいたころの記憶はかなり薄れていた。新立城(鎮)はさほど大きくはないが、数十平方キロの農村の範囲の中で、何の手がかりもない状況下では三十年前の方おばあさんの住んでいたところを探すのは、海で一本の針を探すくらい難しいことである。どうしたらいい?張玉は最初は自信たっぷりに言った。
「新立城(鎮)の範囲内で、あちこち聞きまわれば方おばあさんの手がかりが得られないとは思わない。」
段霊雲と張玉母子はかつて新立城で方おばあさんと一緒に暮らしたことがあるので、我々は必ず探し出せると自分たちを励ました。
我々は相談の結果、何の目的地なく新立城の区域を村から村へ探し回っても、苦労多くして効果少なしで、無駄が多いだけだ。段霊雲が新立城の方おばあさんの家に行くには胡家店を経由したと証言しているからには、先にそこをあたってまず胡家店で手がかりを探して見ようということになった。
調べてみると、長春市区から新立城(鎮)に向かう道沿いに胡家店と言う名前の地点は二箇所あり、一つは長春市区からさほど遠くないところにある胡家店で、十数年前には浄月潭公路の料金所の名前であった。もう一つの胡家店で新立城ダムを過ぎて、長春市から二十五キロほど離れた場所であった。段霊雲が言うには、記憶している方おばあさんの家はさほど離れてはおらず、長春市区からさほど遠くないということであった。そこで、我々は長春市区から出たばかりの所にある胡家店を訪ねてみることにした。
八月のある日、何景方ならびに段霊雲と張玉の母子は自動車で「胡家店」へ真っ直ぐ向かった。改革開放後に、長春市の都市区には大きな変化が起こっていた。長春市経済開発区が長春市の東南郊外に新しい町並みとして建設されていた。三十年前の以前の様子はもはや見る影もなくなっていた。窓から目に入るのは全て真っ直ぐな大きな道と両側に並び立つように立つ高層ビルであった。我々はあちこちと走り回った後に、もともと胡家店公路の料金所跡地で、かつて胡家店村民であった一人の清掃員から聞くと、かつての胡家店(屯)は、現在既に市経済開発区の新世紀広場にほとんどを占められ、残りの土地はすでに道路か高層ビルに占められているとのことであった。胡家店(屯)の以前の住民も計画された住宅地区に引越し、もともとの農家はみな無くなってしまっていた。それでも我々はあきらめられず、胡家店がもとあった地点を歩き回って見たが、ちょうど先ほどの五十歳くらいの清掃員が述べたように、家を探すどころか、手がかりを与えてくれそうな人までいなくなっていた。
数日してから、おそらく記憶がはっきりしていなかったか急いでいたためか、段霊雲は突然ある人物のことを思い出した。それは前世紀の五〇年代初めに、彼女が方おばあさんの家に住んでいた頃、陳連福という名の老人が、毎年息子の陳良と方おばあさんの家に鴨卵を持って来ていたというのである。現在、陳連福はとっくに世を去っていたが、その息子の陳良はまだ生存していた。陳良は数年前によく段霊雲が住んでいた団地に野菜を売りに来ており、段霊雲に家の住所を書き残していた。陳良という証人が見つかれば、我々の調査もなにか手がかりが見つかるかもしれない。何景方と張玉は陳良が段霊雲に書き残した住所をたよりに、陳良を訪ねることにした。

初秋、農村ではちょうど農産品の収穫の季節であった。長春市朝陽区永春鎮平安村窩瓜屯に住む陳良夫婦は、親切にも農家で取れた野菜で客人をもてなし、トウモロコシ、ジャガイモ、ナス、ネギの味噌漬け、新鮮なトマトなどで何景方と張玉の二人に農村風味の料理を振舞った。
陳良はいまだ七十歳に達していないが、歯は全て抜けて総入れ歯になっており、耳も遠くなっており補聴器を使って人と話をしなければならず、顔中に深く刻まれた皺が多年の苦労と風雪を物語っていた。しかし往時のことを話し出すと、彼は楽しそうに話し始め、声も弾んできた。段連祥と方おばあさんのことは彼の記憶に深く残っており、さっそく我々に証言を提供してくれた。
もともと、陳良の父親陳連福の祖先は山東省昌邑県で、幼いときに陳良の祖父に従って関東地方に移住し、長春市郊外の新立城の十里堡(屯)に落ち着いた。村の中で、陳連福も故郷の山東の習慣である鴨の養殖を学び、十里堡周辺の十里八村では鴨の養殖家で有名だった。
中華人民共和国になって初期のころ、陳連福から鴨卵を買う人が少なからずおり、その中に張玉の祖父である段連祥もいた。段連祥と方おばあさんは十里堡から五、六里はなれた斉家村に住んでいた。段連祥は鴨卵を買うときにはいつも一籠ごと買い、甕の中に塩漬けにして、方おばあさんに少しづつ食べさせていた。さらに陳連福と息子陳良は毎年端午の節句の前にいつも鴨卵を籠一杯にして方おばあさんの家に届けていた。長年そうしていたので、段連祥と陳連福は顔見知りになった。
今でも陳良がよく覚えているのは次のようなことである。段連祥は背が高く、少し白髪があり、体がやせており、なかなか男前で、話を聞くと学問があるようであった。陳良も父親の陳連福が段連祥は満州国時代に日本語通訳をしていたと話していたのを聞いたことがある。
毎回鴨卵を部屋に届けていたので、陳良は《方おばさん》の家と本人のこと良く覚えていた。方おばあさんと段連祥は独立した家に住み、部屋は三部屋あり、東西両側には小部屋があった。庭の門は黒漆の木の門で、門の両側には番小屋があった。庭には野菜が植えてあり、さらに鳩を飼っており、ウサギと小鳩のような鳥がいた。方おばあさんはとてもやせており、とても色白で、大きな目が炯炯と光っていた。格好をきめて小奇麗にしており、てきぱきしており、頭の上に曲げを結い、少しモダンな感じで、一目見て農村のおばあさんのようではなかった。部屋の中は比較的きれいにしており、屋内の配置も整っていた。大きなタンスがあり、タンスの上には大きなラジオと置時計が並べてあり、部屋の中には壁沿いに大きなテーブルと幾つかイスがあり、赤ペンキを塗った床板が敷いてあった。
前世紀の五〇年代後半には、農村では人民公社化が始まり、鴨の養殖も個人ではできなくなったので、陳連福と陳良親子は段連祥と《方おばさん》に鴨卵を届けることはしなくなった。しかし段連祥と陳良の父親の陳連福はその後も連絡を取り合っていた。文化大革命が終了してまもなく、方おばあさんが病気の期間には、陳良と父親の陳連福は見舞いにも行ったことがある。
方おばあさんが逝去した後に、段連祥が紹介人となって、大家に方おばあさんと彼が住んでいた部屋を陳連福に売った。陳良は当時の価格二百元で話をつけたが、父親の陳連福は大家に百五十元しか払わなかったことを覚えていた。陳連福が部屋を買い取った後に、家族は十里堡から斉家村に引っ越した。そのときは陳良も既に結婚しており、妻は実家で一人っ子であったので、陳良は妻方の実家に引っ越して落ち着き、それが現在彼が住んでいる場所―長春市朝陽区永春鎮平安村窩瓜屯である。
前世紀の八〇年代初め、新立城鎮は道路拡張計画により、陳連福の家はちょうどその立ち退き範囲に入っていた。陳連福はそれを聞いた後、前もって家を四百元で同じ村の張さんに売り、彼も陳良の現在住む家に引っ越してきた。一九九五年に陳連福は享年九十二歳で病逝した。
陳良家から帰って、我々はとてもほっとしたが、それは方おばあさんを知っており見たことのある人が段霊雲と張玉母子のほかに、陳良という第三者の証人として現れたからである。さらに陳良の証言を通じて方おばあさん(川島芳子)が新立城に住んでいたころの村の名前は斉家村(屯)であることがわかった。

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