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2017年10月16日

介護の経験の浅い人が、勝手に思い込む良識について

 友人に自閉症の子供を持つ人がいる。
 生まれてから10才までは、夫婦で必死に育ててきた。その心労で奥さんは鬱病になった。しかしどんなに努力しても、子供の病状に回復の兆しはなかった。
 現在は地方にある施設に子供を預け、年に数回面会に行くようになっている。

 こうした現状を傍目に見て、色々言う人がいる。
 自閉症児を育てる事が大変だと言うことを認めながら、「でも接し方で病状は良くも悪くもなるのだ」と言い張るのだ。「親が健常児に近づけようとして無理な教育をすることで、自閉症児はより悪い状況になり、病状が進み、結局は手に負えなくなる。でも親が子供の状況に合わせ、腹をくくって接すれば、相当な病状の子でも、ちゃんと親と一緒に家庭で育つことが出来る。」と主張するのだ。
 
 理屈ではそうだろう。
 そういう研究をしている学者もいるし、実際成功している親御さんもいるだろう。
 けれど誰にでも同じ事が出来るわけではない。
 それに施設に入れることが悪くて、家庭で育つことが良いとは必ずしも言えない。

 親は子供の一生を面倒みることはできないのが普通だ。
 親が死んだ後、子供は1人で生きていかなければならない。その場合、1人で暮らせないなら、施設に入るしかない。
 施設は集団生活で、家族ではない人たちと接し、生活しなければならない。家族とともに育った普通の人が、施設で集団生活するようになっても、慣れるまでには時間がかかる。一生慣れなくて、うまくいかないことも稀ではない。
 自閉症の障害があるなら、対人関係を円滑に進めるためには時間がかかるだろう。健常者でもなかなか難しい集団生活に慣れるためには、十分な時間が必要だろう。
 こうした生活に慣れるために、幼い頃から集団生活を経験させることは重要ではないだろうか。

 目に障害のある友人が、小学生の頃から盲学校(寄宿舎)に入ったという経験を話してくれたことがある。盲学校の生活は、健常者の寄宿舎生活とは少し異なる。それは障害故の様々な配慮に加えて、盲学校が置かれている状況も関係しているようだが、外部の人間から見ると、窮屈だったり、理不尽に感じたりすることがあるらしい。しかし幼い頃からその寄宿舎で育った私の友人達にとっては、それは、特段の違和感を感じないそうだ。いわゆる「当たり前なこと」なんだそうだ。

 おそらく、彼らは、自分達の障害と、盲学校で学ぶ事の意味(メリットとデメリット。そしてどうして自分がこの学校に入ったかという背景)をきちんと理解した上で、与えられた環境を如何に役立てるかと言うことを身につけているようにみえる。
 彼らから見て、中途失明によって、大人になってから寄宿舎生活を始める大人達は、無駄な不満が多いらしい。あるとき、中途失明の大人達が学校側に、「門限を無くして欲しい」と言ったことがあるそうだ。学校の門限は早く、確かに大人から見て、非常に窮屈に見えたのだろう。しかし子供の頃からいる学生達からすれば、そんな要求が通らないことは明らかだったし(実際学校側は、門限を変更しなかった)門限が早い事は、それなりの意味があるのだから、どうして無駄な要求をするのかと思ったそうだ。

 自閉症児を持った私の友人の行動は、傍目には、「子供の障害に対応出来なくなった親が、障害児を施設に預けた」という事になるだろう。そして、「子供は親と暮らすべき」と主張する多くの健常者達には、眉をひそめるような事と映るのかもしれない。
 しかし、見方を変えれば、「親が、自分の世間体や、子供を手元に置きたいという親自身の欲を封印して、子供の将来のために、自分達では与えきれない環境を与えた」とも言えるのではないか。
 施設の環境に慣れることで、障害児はそこを自分の家として、安定して生活できるようになるだろう。多くの専門家に接する機会があり、親では与えられなかった教育も与えられるかもしれない。
 それでも、施設に預けることは悪い事と言い切れるだろうか。
 逆に、親元でずっと育つ障害児は、自ずと外界との接触が限られる。ずっと親とその周辺の狭い世間しか知らずに過ごすことになる。そのことが、障害の治療に対して良いこととは言い切れない。親の子供に対する愛情が、常に100%子供にとって正しい答えを出すとは限らない。それは健常者でも同じ事だが、健常者なら、年齢と共に他人と接し、親離れするチャンスが巡ってくるが、障害児にはそのチャンスが乏しく、うっかりすると、初めての親離れが、親の死亡時という事になりかねない。
 しかしそうなってしまったとき、既に年齢も高くなっている障害者が、突然施設に入って生活するのは、とてもハードルが高いのではないか。それは本人にとっても、とてもつらいことなのではないか。

 結果として、施設に預けることを、悪く言う理由など、どこにもない。

 私も以前なら、障害児を施設に預ける親を、ちょっと色眼鏡で見ていた。
 しかし介護するべき家族(老人)を持つようになって、だいぶ考えが変わった。
 老人は最後まで自宅で暮らしたいと言う人が多い。しかし実際には、「自分の事が自分で出来る」状況でなければ、自宅での介護は難しい。
 掃除、洗濯、食事を作るなどの生活支援は、独居老人なら、介護保険でヘルパーに頼むことも出来る。
 しかし、食事、排便に介助が必要になってくると、途端に介護保険でのサポートでは生活が難しくなってくる。おむつを使うなどの我慢を強いられる可能性も出てくる。これは介護を受ける老人事態にとっても、色々つらい状況になる。
 それでもある程度までなら、本人希望とやる気があるなら、自宅介護を続ける人もいる。実際施設に入っても、おむつを使用するところは多いし、だったら自宅でと言う選択肢もあるだろう。
 しかし全身が衰えてきて、意識レベルが下がってくるようになると、なかなか1人で生活することが難しくなる。

 日本の介護保険制度の限界なのだが、介護保険制度で(介護度が高くても)24時間の人をつけておくことは出来ない。一部には、数時間おきにヘルパーや看護婦が様子を見に来てくれるサービスが出来る地域もあるが、すべての地域で出来るわけではない。そういうサービスをしている事業所のない地域では、一日に2回か3回のぞきに来てくれる可能性はあるが、大半の時間は老人1人で過ごす事になる。
 では、家族が同居すればいいのかというと、これもなかなか難しい。
 家族が同居すると、このヘルパーの生活支援が受けられなくなる可能性が高い。
 毎日、2回様子を見に来てくれるヘルパーがいるとすると、延べ人数では14人となる。つまり14人の人が1人の老人の1週間を支えている。この14人分の仕事を、家族だけが担うのである。
 多くは主婦1人が大半を担うことになる。一つ一つの仕事が30分程度の労作だとしても、ヘルパーなら人員をとっかえひっかえ出来るわけだが、家族だと1人で(もしくは2人とか3人で)同じ事をするのだから、負担は格段に大きくなる。
 しかも夜となく昼となく、老人の状況に備えることになる。(ヘルパーなら、交代制で出来るのに)
 ちょっと考えれば、負担が重すぎることがわかる。
 さらに、介護する家族が仕事を持って入れば、さらに疲弊が早まる。夜眠らずに日中の仕事に行くのである。
 家族が仕事をしているなら、日中はヘルパーが来る可能性もある。しかし夜の時間帯はそもそもヘルパーを雇うことが難しい時間帯なので、やはり同居の家族の負担は重くなる。
 介護離職したくなる理由はここにある。

 こうなってくると、やはり施設の存在が頭に浮かんで当然だ。
 プロに24時間任せて、週末や仕事帰りに顔を見に行くというのは、適正な介護のあり方ではないかと私も思う。

 そこでいわゆる世間の良識人からの風当たりを受けることになるだろうが、そういう人間のほとんどがまともに介護の経験が無い。頭だけで聞きかじりの知識で物を言っている人が本当に多い。

 介護はやってみないとわからないことが多い。
 それもちょこっと経験では駄目で、看取りまでの介護を経験したことがないような人でないと、まともな意見は言えないような気がしている。むしろちょこっとやった人は、まるで自分が全部経験したかのような意見を言い始めて、始末に負えなくなる。
 先にも言ったが、掃除、洗濯、食事を作る、買い物をする、金銭管理をする、程度までなら、同居していなくてもやれるし、この程度までだと、介護保険は絶大なる力を発揮するので、やろうと思えば出来るケースが多い。しかしこの段階を過ぎたところにボーダーラインがあって、この先は途端に難しくなってくる。
 さらに看取りまで考えると、ここで上げた介護以上の問題が出てくるの、さらにハードルが上がる。

 私が介護した老人の中に末期癌の人がいたが、これについて「癌という病気は死期が前もってわかるから、一番良い死に方だ」などと、まことしやかに言い立てる人間が割と多いので驚かされたことがある。
 こういう人たちは、老人は死期を悟り、それまでに身辺整理をして、自らの最後に備えるものだという、根拠のない幻想がまかり通っているようだ。
 だがそれは大いに間違っている。

 まず、現代では、癌患者に余命を言う医者は少なくなっている。なぜなら、余命が正確に当てられることがほとんどないからだ。また、老人介護の現場にいる医師ならば、老人が予想通りに行かないことを知っている。予想に反して長生きしたり、逆に予想よりずっと早く死んだりすることがよくあるのだ。
 現場の医師や看護婦はそういうことを知っているから、余命も言わないし、常にどうなるかわからないと言う姿勢で、注意深く接してくれる。
 私自身、既に複数人の老人を送っているが、それぞれに死因も違うし、生活の環境も、病歴も、性格も違うので、そのたびに驚かされること、予想通りに行かなかったこと、後悔すること、様々にある。1人として「似たような死」は存在しない。毎回が驚きの連続だ。
 そのせいか、聞きかじりの知識で、経験も無く、利いた風なことを言ってくる相手には、正直むらっとする。

 だが、千差万別の老人の死期について、なんとなく共通項を感じることもある。
 それは、老人の死に瀕してみせる、驚くほどの生への執着心だ。
 老人が死に瀕すると、周りにそうは見せないが、皆覚悟を決めて、生きている間にやっておきたいことをするような、きれいな死に様を信じている人が以外と多いが、それは違うと思う。
 例えば若い人間が「癌になった、半年後に死ぬ」と言われて、焦らない人はいないだろう。心は千々に乱れ、焦りと後悔と恐怖におののき、人知れず泣き崩れる日々を送るだろう。でもそれは、老人でも同じなのだ。人前でするか、人のいないところでするかの違いだけで、老人だって、死を経験した人はいないのだから、驚くし、迷うし、心は乱れるし、焦るし、泣き崩れたりもするのだ。

 私自身経験したのは、本人に、病状について告知する必要があって、医師に頼み、きちんとわかりやすく伝えてもらったのだが、次の瞬間には、その老人はすべてを聞かなかったことにしてしまった。その後も、全く何事もなかったように、余命宣告よりずっと先の予定を立てるのだ。
 死にたくないし、死ぬなんて思いたくない。
 どうしてもまだ生きたい、まだ生きていけると信じたい。病状も直ると信じている。ということらしい。

 以前、看取りについて担当の看護婦と話したとき、「そのときが来たら、「もうがんばらなくていいのだよ」と言ってあげて欲しい」といわれたことがある。だが、私が知る限り、どの老人も、死の瞬間まで自分は生きると信じ、死んでいいなんて言われたくないと思っている。老人が頑張っているのは、何も世間体でも、家族のためでもない。自分のために頑張っているのだ。

 老人が死期を悟り、人知れず覚悟しているなどという話は、きっと介護する側の方便だと思う。そう考えた方が介護する側が精神的に楽だからだ。死に怯え、七転八倒している老人を目の当たりにするのは、介護する人間としてはやりきれないほどつらい。だから、たまたま感情を表さない老人に対して、「覚悟を決めているんだ」と持ち上げて、介護する側の精神的な重さを忘れているに過ぎない。

 介護する側が、ストレスを回避したいと思うことは当然で、それは許されると思う。方便でもいいし、目をつぶるでもいいし、自分の心の平安を保つために、少々ずるい事をしてもいいと思う。そのくらい介護は大変だ。
 だけど、そういうことを心の片隅に起きながら介護することと、「老人は覚悟を決めている」事が事実だと信じて、まるで自分はそういう真実を知っていて、それに合わせて正しい介護をしているなんて言う人間との間には、天と地ほどの違いがある。
 ろくな経験もなくご託を並べる人間を見ると、そういう話は他所でしてくれと思う。

 世間の経験も無く知ったかぶりをまき散らす人は、まずは経験してほしいものだと思う。
 現実の経験を嫌と言うほどすれば、自分が聞いた風なことを言っていた過去が恥ずかしくなるはずだ。
 
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