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2016年06月05日

幸福療法本

第1006回浮浪雲より。

(死んでから人生を考えてみれば
 どうでもよかったのである)

街中、晴れた空のもと本を読む青田先生でスタート。

これは、ジョージ秋山氏の人生観らしきものがいかにもうかがえる回。
非常に良い内容なのでがんばって全体を文字に起こしてみる。


蝶を見よ。
あと一日しか命がないことをつゆとも思わず、
そのもろくて美しくささやかな羽は、
夜が冷たすぎることを憂うこともなく、
いきいきと飛び回っている。
(蝶のようであれ……か)と青田先生。
自分の人生において安全と経済安定を最優先する人は
信念を持つことができない。本当の意味で誰かを愛することができない。
愛するためには信念が必要だ…
この信念というものを持つには、どうしても勇気が必要になる。

この勇気は、あえて危険を冒す力だ。さらには苦難や痛み、失望を受けてもいいという覚悟だ。それを持つ人だけが愛することができる。

生真面目であるほど人と衝突せざるを得なくなる。
その場の感情を、思いを、相手にぶちまけていると同じだからだ。
生真面目は自分に誠実なだけあって、そこには思いやりや、状況判断や礼儀が悲しいほど欠落している。だから、ふつうの礼儀作法を身につける必要がある。
ふつうの礼儀作法で相手に接してさえいれば、自分の中にあるわだかまりや、思いの丈や、場にそぐわない考えや感情までも現実に消し去ってしまうことができるからだ。
そうすれば人間関係、状況はたちまち好転する。それは自分の運が良くなることと同じなのだ。

帰ってくるなり親しい人や身内に、外で体験したさまざまな嫌なことをしゃべってしまうのはグチだ。
過去の不幸を言うのも、体調や気分の悪さを言うのも、嫌悪や侮蔑の表情を見せるのも、またグチだ。そうゆうグチのひとつひとつが、この世を醜くし、冷えさせている。
だからあらゆるグチはもうやめよう。
グチをやめさえすれば不満やイライラは簡単に忘れられる。
そして自分が嬉しかったことを口にし、満足をはっきり表すだけにしよう。そうゆう態度こそ世の中を暖めるのである。

ほんのささいなことが人を慰める。なぜならほんのささいなことが、その人を悩ませているからだ。
いったん汚物の中にはまってしまったならば、とにかく前に向かって這い上がり、歩きだすことだ。
そのしんどさのあまり、倒れて死ぬかもしれない。けれども汚物につかったままわめき泣いてくたばっちまうよりはずっとましだ。

ある人にとって仕事はひどくつらいものであり、終業時間や休日や定年が待ち遠しいだけの苦役である。
必要なお金だけ欲しくて働いてるならば、仕事はいつだって苦しみになる。なぜなら本心は仕事をしたいのではなく、お金が欲しいだけだからだ。
仕事が喜びになっている人はお金は二の次で、仕事を通じて自分を活かすことができる人だ。
仕事の段取りを工夫し、知識や経験を応用し、前回の仕事の質以上のものを求める人にとって、仕事の困難や途中の失敗までもがやりがいのある楽しさになっている。
そして、一仕事終えたあとに感じるのは解放感ではなく、気力に満ちた充実感なのだ。
中盤の浜で(う〜〜〜ん、なるほど)と青田先生。本の内容はまだ続く。
*
何をするにしても全身全霊をこめてなすべきだ。
納得のできるいい結果を生みだすためにではなく、自分自身をないがしろにしないためだ。

ところどころ手を抜いたりいいかげんに行って、放置したりするのは、結果的に自分の行為をバカにすることだ。それでは自分のすることに価値も意味も持てなくなる。自分をゆるやかに殺していくことにひとしい。

過去のよき思い出を折りにふれて懐かしむ程度ならばまだいいだろう。
しかし、それを越えて過去をあまり愛しすぎてはならない。過去を愛しすぎ、過去への強い執着に縛られていると。これからの人生で次々に生まれてくるさまざまな新しい価値と新しい意味が、まるでわからなくなってしまうからだ。

自分の考え方や信念をしっかり持ち、自分が主体となって… さまざまな物事を推し進めていく人は、成功してもおごらず、失敗してもくよくよしない。こうゆう人はどこで暮らそうが何が起きようが悠然と構えていられる。

雨だれでも、長い時間同じところに落ちれば石に穴をうがつ。
人としての正しい道を学びたいと思えば、このように粘り強く努力を続けてなければならない。
また、水が流れればそこに自然に溝ができ、瓜が熟すと自然にへたが落ちる。
人としての正しい道を極めたいと思えば、このように自然と道が開けてくるのをじっくり待つべきである。

この世に生きているうちは、できるだけ広い心を持って生きることが大切だ。
寛大な心で他人に接すれば、相手に不平不満の気持ちを抱かせないことになる。

豪邸に住む権力者のご機嫌うかがいに行くより、あばら屋に住む人と親しくするほうがよい。
気候が温暖な春は植物も芽を出しすくすくと育つが、寒い冬にはたちどころに枯れてしまう。
人についても同じことが言える。心のあたたかい人には天からの恵みも豊かで末永く幸せに暮らせるが、心の冷たい人には天から受ける恵みも少なく、幸せも薄い。

人徳が一家の主人だとすれば、才能はその主人に仕える使用人のようなものだ。才能が豊かでも人徳が備わっていなければ、主人のいない家で使用人が好き勝手にふるまっているようなものだ。これでは家の中が混乱し崩壊してしまう。

世の中の悪い慣習やしきたりに染まらない人は高潔である。
しかし、世を捨てて高潔を気取るのは、単なるひねくれ者にすぎない。

物欲におぼれて自分の心を見失ってはいけないし、人の情を自分のために使い切らせてはならないし、物をむだに使ってはならない。
この三つを心がければ、天の意志にかなう生き方ができ、人々の生活を安定させ、子孫に幸福をもたらすことができる。


*
口は心の門である。
人はとにかく心の中で思っていることを何も考えずにそのまま口に出してしまうものだ。
だからこそ意識して口を慎まなければならない。言わなくてもいいことや秘密にしておくべきことまですっかり外にもれてしまう。

忙しい時に焦って動揺しないですむように、時間がある時にしっかりと精神を鍛錬しておかなければならない。
死に際になって取り乱さなくてすむように、常日ごろからの物事の本質や道理を見極めておかなければならない。

時間を長いと思ったり短いと思ったりするのは、その人の考え方によるものだ。
また、世間を広いと感じたり狭いと感じたりするのも、その人の気持ちの持ち方次第だ。心がゆったりとして穏やかな人にはたったの一日でも千年のような長さに感じられるし、心の広い人は狭い部屋でも宇宙のような広さを感じることができる。


学ぼうとする人は、自らを厳しく律する必要があるが、一方では物事にこだわらない、さっぱりした心持ちも必要だ。
あまり自分に厳しくするばかりならば、心にゆとりがなくなり、まわりの人も息が詰まってしまう。これでは結果的に、何もいいものは生まれない。
人に与えた恩は忘れてしまうのがよいが、かけた迷惑を忘れてはならない。人から受けた恩は忘れてはならないが、しかし受けた恨みは忘れてしまうべきだ。
ラス前のページ最後のコマで(まさに歩く幸福本…だ)と青田先生。
自分が生まれる前はどのような姿をしていたのか、また自らが死んだら、あとはどのような姿になるのか考えてみるといい。
名誉や地位、財産や功績にこだわる心は、すべて跡形もなく消え、残るのは自分本来の精神だけだ。
そのように考えることができれば、現実や世俗を離れた無心の境地を楽しむことができる。



はい、長かったですね。
ラストの大ゴマは雲の旦那(&ちっちゃくお姉ちゃんも)がわっはははははっと笑ってるのと、最後の引用文が青田先生のモノローグとして描かれています。
ラストページのハシラは「幸福な人生を送るために重んじるべきことは”生きる姿勢”。浮浪はその境地の体現者か? 青田は未だ道の途中…」。大体の人は途中ですて。
*つきの一節は、私が特に共感した部分。実感として理解が含まれる部分といいますか。

心でワカっちゃいても、実践するのは難しいもんですね。
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posted by mz at 01:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 浮浪雲

2016年05月08日

春のあらし

浮浪雲 第1,004回、春のあらし。

何度かメインを張った、2つ意味で頭のでかい男、長十郎。おねえちゃんと無理やりやっちゃって牢にぶちこまれたこともありました。今回も彼の話。

以前は至って普通だったはずの長十郎宅、今では立派なゴミ屋敷になっておった。
「わたしにとっては必要な物だわい」
「ゴミなどと失礼なことをぬかすな」
などとぬかしよる。
「みんなわしの家族のようなもんじゃわい」

これは、孤独をこじらせちゃったやつでしょうか。

隣の住人女性に
「その仕出し弁当、黴が生えたやつだろうさ」
と言われてなお意に介さずもりもり食べる長十郎。しまいには
「コラッ茶ぐらいいれんかい」である。おとなりさんに。

夜、布団で簀巻状態になり眠る長十郎。
(寒い)

朝、視点は上司のごろ寝奉行に移る。
やり手っぽい部下に、長十郎を警察として採用したほうがいいか悪いか問うお奉行。対して「アレは頭悪いし覇気が感じられない」との内容をやんわり伝える部下。
オレが捨てると誰も拾ってくれない、とお奉行は心配するも、
「お奉行の人情味のあるところは敬服いたしますが、しかし……警察の人間の扱いは人情など無用にございます」
スパッと切り伏せる。仕事を優先できる人ね。

ゴミまみれの中、今日も今日とて布団簀巻で眠る長十郎のもとへガサガサとゴミ山をかき分け駆けつける犬、三郎太。
「よしよし、わたしと一緒じゃないと眠れないのかの」
と、ともに眠りにつく。

日は変わり、少しばかり片付いた家の中、ヒザに三郎太をのっけてきせるを吸う長十郎。
(あれっ)
(わたしは今なにを考えてたんだっけなあ…)
(……? はてな? なにか大事な事を考えてたような気がするけどなあ…?)

なんだかわからないけどとにかく出掛けてみる長十郎。
(あれっ、わたしはどこへ行くのかな)
(こっちへ行くと海辺だが、海辺になんかなにしに?)
(奉行所へ行くんじゃなかったかな)
この世界の人々は海好きだなしかし。うちの親父も異常な海好きですが。

海へやってきた長十郎の頭に"ビシッ"と痛み走る。
そして"ぴゅっ"と吹いてくる風
"ぴゅっ"
"ぴゅっ" "ドン"
長十郎のでかいどたまが分離してさかさまに地面へ落ちる。大変シュール。
三郎太がゴミ屋敷から駆け出し、さらにぴゅっぴゅっと風が吹く。

やり手の部下がお奉行に、長十郎が倒れたと報告。卒中だそうにございます。
三郎太が長十郎を発見して、まあ発見したのはわかるんだが、どうにかして助けを呼んだらしい。えらいこっちゃで。
長十郎は目黒療養所へ移送されたというわけで、
「三郎太のことが気がかりでございます」と部下。意外にも犬を心配しております。
「春のあらし… であるか」タイトル回収するお奉行。

その後2ページばかり町と海辺を走る三郎太。最後のコマにちっさく雲の旦那らしきシルエットが。

療養所にて
(わたしが死のうが生きようが世間ではどうでもいいことか。悲しむ奴などひとりもいまいな。たぶんな……………………………)
(ひとりぼっちで生きてきて、ひとりぼっちで死んでゆくのか……………)
世をはかなむ(?)長十郎のもとへ、バリッと障子をブチ破り飛び込む三郎太。
「おおっ三郎太」
「おおっきてくれたのか」

「おっお――――っ」
大興奮である。
「生きる希望が湧いてきたぞ」
と、片膝ついた『命!(コピーライトマークゴルゴ松本)』みたいな変なポーズ。ブチ破った障子のおかげで長十郎宅のごとき荒れようです。

「三郎太、ここからはひとりで帰れよ」
「三郎太、ひとりで生きていくんだよ。わたしも頑張るからな」
「ありがとう。良く来てくれたな」
「三郎太また来ておくれよ」
ちゃんと帰っていく三郎太を見送る長十郎。
(三郎太、さびしいだろうなあ……)
静かに涙する。
コマ外からワオオオオオオと鳴き吠える三郎太と、
(啼くんじゃねえよ…)
「おおおおおおお」
自身も号泣する長十郎、

"どうせ死ぬ時ゃひとりだ。ひとりぽっちが悲しいんじゃない。ふたりぽっちがひとりぽっちになるのが、悲しい。"

のハシラで締め。

私もわりとひとりで生きてる身ですんで、このハシラは身にしみてわかります。
うん。教訓とかより、ただただ共感するだけの回でした。
posted by mz at 22:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 浮浪雲

ごめんね街道

毎度の忘れた頃更新。相変わらず古いお話を起こさせていただきます。

1,000回記念の興奮も落ち着いた1,003回目タイトルがごめんね街道。
夜中、女房不在の布団の横、男が星座している。

(いままでにこんな事はなかった)

女房・雪江の不在をいぶかしみ、酒をグッといった次のページは朝日が差し込み、雪江が布団に寝ている。
いわく、京ちゃんに誘われて飲みに行き、飲み過ぎて長寿庵先生のところに担ぎ込まれた。
「たまにはそんな事もあるわな。気をつけろい」

などと言ってはみても気が気じゃないらしく、例の浜辺のまるっと1ページ大ゴマで

「信じるんだよ、五郎八
 女房を信じるっ」
「雪江が俺を裏切るわけねえだろう」


と、カッコいいのか悪いのかよくわからん雄叫びをあげてます。
自分に原因があるのか、と振り返る。しかし酒も煙草もひかえ博打もやらずの五郎八、思い当たるフシなし。気にかかるのは雪江が時たま見せる寂しげな顔。

その物憂げな表情に感じるものがあったのか、一発やってしまう五郎八。
(いいなあ… やっぱり雪江は最高だなあ…)
(やっぱり俺にはおめえが必要だ。おめえなしじゃあ生きられねえ)

町人仲間とゲスいトークに花が咲くも、その後雪江は家を出ていってしまう。
長寿庵先生の話すところ、雪江は余命いくばくもなく、自らの死にゆく様を亭主に見せたくないから出てったのだという。猫みたいだな。

「わっ
 俺にだまって死出の旅路なんて…
 俺は雪江の亭主ですよ!!」


感極まり、長寿庵先生の静止むなしく飛び出す五郎八。

「俺も行くぜえ
 死出の旅」


「わあ―――――――っ」

と、浜を走りまくる五郎八。"ドドッ"と激しい波の描写があるが身を投げてはいない、と思う。
一方雪江は傘をつけ杖をついた旅姿で
(ごめんねあんた。ごめんね)
(ごめんね)
滂沱の涙を流し、松の植わった海沿いを歩く。

「わっはっはっはっはっ 馬鹿ぬかせよ。
 かかあが死んで泣く奴なんかいるかよ」
「喜ぶ奴はいるだろうけどな」
などと町人がくっちゃべってると、突然首の後ろを刃物で斬られる気の毒な出っ歯の町人。
調査兵団、いや五郎八の所業である。
次のページが3コマ構成で

ザザーッ
ザザッ
ザザッ

すべて波の描写。
さらにページをめくるとラストページ大ゴマ、

(きゃっ 春の顔だ)
と花を見つけてカメさん。カメさんではないかもしれないがおそらくカメさん。さらに
"もしも俺が今日死んでも、明日にはお天道様は昇るだろう。花は美しく咲くだろう。だけど俺の太陽は沈んだままだ。"
とハシラの文章。

私のような若輩者には雰囲気ついていくことしかできない世界です。

しかしなんだな。
「俺も行くぜえ」って言えるほどの相手がいるのは、幸せなことですよ。
でもやけっぱちになってはいけない。あれくらいで出っ歯さんを死出の旅に巻き込んじゃよろしくない。
死に際だからといって、よそさまに莫大な迷惑をかけるのはやめましょう。飛ぶ鳥あとを濁さず。

おっかけて雪江さん看取ってやってほしいけど、ジョージ秋山時空においてはそうもいかんのだろうね。
posted by mz at 22:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 浮浪雲
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