「なんてのろまな娘なんでしょう!」と女王は叫んだ。「さあ。ここではね、同じところに止まっているためには、できる限りの力で走っていなければならないのよ。もしどこか他の所に行きたかったら、少なくとも、その二倍の速さで走らなくてはならないのよ」(ルイス・キャロル)
それは平日のラッシュ時を避けて電車に乗ったときのことだった。車内はがらがら。僕と妻は中央の座席に座った。梅の花は咲いているだろうか、と考えながら通り過ぎる風景をぼんやり眺めていた。ふと、僕の向かい側にいる男の視線が気になった。電車に乗ったとき、お互いの視線は気になる。なるべく乗客と視線が合わないようにして、外を眺めたり妻と話をする。だが、このとき、向かいの男が僕を睨んでいるように感じたので視線を合わせてみた。しかし、男の視線は僕と合わず、僕の後ろの風景を見ているようだった。
しばらく僕は男を観察した。どうもその男に違和感を感じる。なにがどうおかしいのかよくわからない。普通の人間と違うところがある。それは耳が異様にでかいとか、鼻が少し右に傾いているとかじゃなくて、なにかおかしい。そして僕は気づいた。ミステリー小説でいえば意外な伏線。男は瞬きをしないのだ。目を開けたまま瞬きをしないで何かをみつめている。車窓の景色を見ているようでもない。ただ、瞬きをしないで何を一心に考えているようにも思える。
もしかして超能力者か。未来の映像が目に映っているとか。それとも殺人犯。乗客はみんな善人ばかりじゃない。人を殺して、行く末を考え呆然としているのかも。梅の花も忘れて、僕は空想に浸った。男の目は赤く充血していた。僕たちが電車を降りる20分間、とうとう一度も瞬きをしなかった。
梅林公園のベンチに座って、梅の白い花を眺めながら、あの男について妻に訊いてみた。
「あの男、瞬きしなかったよね」
「え、後から乗ってきた人?」
「いや、そうじゃなくて僕たちが乗ったとき、真向かいの席に座ってたじゃん」
「うーん、どうだったかな」
妻は首をかしげて、「そんな人いたかな」と言った。
「ほら、なんか耳がでかくて、白髪まじりの髪の短い人」
「えー、だって電車に乗ったとき、前の座席にいなかったと思うよ」
妻と僕のズレはなにが原因なのか。妻は外の風景ばかり見てたし、きっと勘違いしている。後から乗車してきた人がたくさんいたから見当がつかないんだ。そうに決まっている。僕はそう思うことにした。
梅の花は満開を過ぎたのと、これからもっと大きく花を咲かせる藤牡丹枝垂があった。持参したおにぎりを頬ばりながら梅の花を堪能した。
この記事へのコメント