さて、繰り返し作業は人間にとってめんどくさい・・・やってられねー・・・と思うのが当たり前です。
そうでない人もいるかもしれませんが、私はやってられねー派です。
ソフトウェアエンジニアになったのは、めんどくさがり屋・・・だったからかも知れません。
中学生のころ・・・今から42〜43年前のころ、関数電卓とか言うのが文房具屋にありました。それは、単なる関数計算だけでなく、127ステップですが、プログラミングもできるものでした。
最初は、三角形の面積の公式や、二次方程式の解の公式によって、値を求める簡単なプログラムでした。
ただ、127ステップでは、大したこともできようはずがなく、一年ほどで飽きてしまいました
そうこうしているうちに受験も押し迫ってきた高校三年生、このころは気象大学校に入学すべく頑張っていました。(お天気おじさんになりたかったんです(笑))
しかし、そのころに日本初のパーソナルコンピューター NEC PC-9001が発売されました。
当時で16万8千円。今でも高いと思うような金額でしたが、当時の貨幣価値から考えると、今の30万円いじょうに相当するのではと思います。
それほど高かったのですが、値引きは一切ありませんでした。 それほど人気があってよく売れていました。
パーソナルとつくものの、まぎれもないコンピューターであり、プログラミングに没頭しました。
おかげで、高校三年の二学期最初の模擬試験では散々な目にあいましたが。
とりあえず、大学に入学し、アルバイトをしながら趣味のプログラミングをしていました。
実用的なものはあまりなく、あくまで趣味の範囲です。
例えば画面上にリサージュ図形を描いたりとか・・・
今の会社に入社したところ、約束通りシステム部門に配属され、以降、ずっとコンピュータープログラミングを生活の糧としてきました。
最初は、NEC PC-9801という、当時98万円のパーソナルコンピューターが会社にあって、それで報告書を印刷することをしていました。
この報告書印刷業務が私の仕事の一つとなりました。
この時から私のめんどくさがり病が功を奏しました。
報告書印刷プログラムを改良し、通常半日かかっていたのが、一時間以下で終えることができるようになりました。
なぜ半日かかっていたかというと、同じようなことを延々と繰り返す必要があったからです。
当時は、SQL-ServerやOracleなどのデータベースエンジンなどなく、データベースファイルの管理からなにからなにまで自分で作らなければなりませんでした。
このデータ管理方法を徹底的にチューニングしたため、時間短縮を実現することができました。
思えば、これがRPAの走りだったかもしれません。
2020年07月06日
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