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2021年09月25日

日米開戦80年の真相 山本五十六が「真珠湾奇襲」に踏み切った本当のワケ 



 日米開戦80年の真相 

 山本五十六が「日本必敗論」のウラで

「真珠湾攻撃」に踏み切った本当のワケ



 9-25-1.png 9/25(土) 8:32配信



           9-25-6.jpg
       
         山本五十六は何に悩んだのか・・・ Photo/gettyimages 9-25-6


 大手不動産会社の積水ハウスの地面師事件を覚えて居るだろうか。同社は2017年6月、地主に成りすました詐欺師に約56億円を騙し取られると云う前代未聞の騒動を引き起こした。
 筆者はその過程で社内で何が起きて居たかを著書『保身 積水ハウス クーデターの深層』にまとめたが、そこからは経営トップ達が保身に走る姿と、そんなトップ達に忠実に為り過ぎるサラリーマン達の姿が浮かび上がって来た。

 一体何故、日本の組織はこうした特性を持ってしまうのか。そうした日本型組織の問題に付いて、今話題に為って居るのが 『「太平洋の巨鷲」山本五十六』だ。
 本書を上梓した現代史家の大木毅氏は、今から80年前のハワイ真珠湾を攻撃した連合艦隊司令長官・山本五十六の実像を〔戦略・作戦・戦術〕の3次元で再評価。名将論・凡将論が交錯する山本の真価に辿り着いた作品として話題に為って居る訳だ。 
 しかしそんな山本も又、海軍と云う日本の巨大組織の一員だった。無残な敗戦に突き進む組織に山本五十六は如何に対峙して居たのか・・・大木氏に聞いた。



 「名将」か「凡将」か・・・?


      9-25-7.jpg
     
    1941年12月8日真珠湾攻撃 今年、日米開戦から80年目を迎える  Photo/gettyimages 9-25-7


 ・・・凡将論・名将論が渦巻いて来た山本五十六ですが、ソモソモ如何云う人物だったのでしょうか?  

 先見性やカリスマ性を兼ね備えた卓越した力を持った人物だったと評価して好いでしょう。非常に優れた戦略家で在りました。戦艦が主力だった1930年代から航空兵力の力を見抜き、真珠湾作戦で見事に証明して見せた。  
 戦略的にも、当時、対米戦争の〔日本必敗論〕に到達した人物は僅かでした。不本意な戦いを強いられる中でも、緒戦で打撃を与え早期和平に持ち込むと云う最適解を導き出しました。山本は、戦いを生業(なりわい)とする軍人で在りながら、戦争の回避に努め、にも関わらず政治が対米戦を決めてしまったら、連合艦隊司令長官として僅かでも勝利の可能性を追求して行動したのです。  

 ・・・素人の見方で恐縮ですが、太平洋戦争の無残な敗戦を知る我々から見れば、何故必敗を確信しながら、戦争を止めて呉れ無かったのかと云う思いも在ります。  

 戦争の惨禍(さんか)を経験した人達のそうした思いが、戦後に現れた〔山本の凡将論〕に反映された面も在るでしょう。しかし、優れた軍人の山本でも、対米開戦当時はラインの一環に過ぎ無い連合艦隊司令長官です。  
 対米戦争を決めたのは政治で在り、彼の職能や権限を越える事は出来無かったと言うべきでしょう。連合艦隊司令長官の職域は山本の作戦立案を分析する上でも大事な事です。

 当時は東京に軍令部が在り戦略・作戦を策定して居るし、現場のトップの連合艦隊司令長官の山本も作戦を立案して居る。この二元性が司令長官としての山本の作戦の大きな足枷(あしかせ)と為る面が在りました。
 大国アメリカと戦うと云うのに、誰が作戦立案や遂行の総指揮を執って居るのか見え難い・・・詰まり、山本に与えられた権限は限定的だったのです。山本が真珠湾攻撃を中央に提案した文書からは、一撃でアメリカ国民の士気を喪失させ (時間を置かずに)講和に持ち込む事が念頭に在った事が伺えます。  

 又、ハワイを叩き、南方を押さえてインド洋・オーストラリアとの連絡を遮断する為にフィリピン・フィジー・サモアに出る・・・ミッドウェーを叩きアワ好くばハワイを占領してしまう事も構想に在ったのではないか。分析を通して観れば、当時の政治的な状況や国力から無理が有ると思う様な事も構想して居ました。  
 徹底的に遣ってアメリカの戦争継続意志を喪失させた後に、占領した土地を全部返す大幅譲歩で何とか戦争を短期間で終わらせる・・・例え成功の見込みが無きに等しくとも、この位し無いと何十倍もの国力差の在るアメリカとの戦争は勝てっこ無いと考えて居たのです。処が、軍令部の幹部の多くはソモソモの考え方が違う。

 @ 南方の資源地帯を押さえて防備を固める
 A 連合軍が反抗して来たら撃破しつつ
 B ドイツが欧州で戦争に勝つのを待つ・・・


 と云う楽観論に支配されて居ました。兵員の輸送や資源運送の問題等物理的な問題が複雑に絡む中で、物量に勝るアメリカと戦うと云うのに戦争遂行の総司令官が居無い。山本は100%自分の考えた作戦を実行出来た訳では無いのです。  
 とは云え、山本も何もし無かった訳では在りません。そのカリスマ性や真珠湾攻撃の功績を誇示して、軍令部に対しても主導権を握ろうとした。或る意味で連合艦隊司令長官の軍令部化を図った側面も在る訳です。遣れる範囲で出来得る限りの努力はしたと思います。  

 ・・・当時、何故連合艦隊司令長官の職が必要だったのか不思議です。山本が陸に上がって軍令部から作戦を立案し、指示する方が合理的だったのでは無いでしょうか?  

 それは連合艦隊司令長官が特別な地位だった事も関係して居るでしょう。日清・日露戦争で日本は、列強にその存在を認められる地位を築きました。東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を日本海に破って以来、現場で決戦の指揮を執る連合艦隊司令長官は海軍の誉れ高き地位でした。それを廃止すると言ったら大変な事に為ったでしょう。

 山本五十六が対峙した「日本型組織」


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          太平洋戦争開戦時の地図 Photo/gettyimages 9-25-8


 日露戦争の時にも〔軍令部〕が在り〔連合艦隊司令長官〕が在った。通信技術が未発達の当時は、軍令部は〔戦争全体の方針を決める〕だけ。実際に戦うのは現場なので〔作戦立案〕の面で連合艦隊司令長官の裁量が大きかった。日露戦争当時は合理的な枠組みだったのです。  
 処が太平洋戦争に為ると通信技術も発達し、しかも南はフィリピン・北はアリューシャン諸島・太平洋のど真ん中のハワイ等・・・戦争が時空的に広大に為った。何処で戦闘が起こるか判ら無い。必ずしも現場の連合艦隊総司令官が〔作戦立案〕には必要では無く為って居ました。  

 アメリカ海軍の太平洋艦隊はハワイに司令部を置き、各方面で各司令官が戦闘を担って居ましたが、イギリス海軍もアドミラルティ(海軍本部)が戦略を立て、その下の第一海軍卿が軍令を司(つかさど)る・・・連合艦隊司令長官に相当する職は置かれて居ません。日本海軍はこうした形に脱皮出来て居無かったのです。  
 先駆的(せんくてき)な考えを持つ山本でサエ、その為の改革を提言したとの記録は在りません。彼も海軍に属する一軍人と云う則を超えては行け無かったし、それを組織人の山本に期待するのも又要求が過ぎると言わざるを得無いでしょう。  

 ・・・海軍には強固な不文律が在り、それを超えては何も出来無い難しさ。それは現代の官僚を初め組織人の方々は、痛い程感じて居る事だと思います。当時の海軍とはどの様な組織だったのでしょうか。  

 海軍の軍人にも政治的な動きをする人は居ましたが、一般的には自分に与えられた職能や権限に厳格です。私も海軍で佐官(大佐・中佐・少佐)クラスを務めた方々に何度も話を聞いた事が在りますが「他の職務に口を出さ無い、その代わり自分の仕事にも口を出させ無い」と云う特徴が在った様に思います。  
 山本も権限を拡大しようとしたとは言え、矢張り連合艦隊司令長官としてはその職域を超えて、軍令部や、増してや政治に迄口を出す気は無かったでしょう。

 政治は動いて呉れ無かった


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 航空戦隊に訓示する山本五十六 必敗を唱えながら僅かな勝利の可能性を探し求めた Photo/gettyimages 9-25-9


 そうした海軍の性質が端的に表れるのが、そもそもアメリカとの戦争に反対して居た山本が、何故全力で戦おうとしたのかと云う問いへの答えです。海軍出身の方々に言わせれば「勝てるから遣る。勝て無いから遣ら無いと云うものでも無い」「遣れと言われたら遣るのが海軍軍人の仕事なんだ」と云う事なんです。  

 ・・・戦況を厳しく理解しながらも勝てる方法を必死に模索する山本と、楽観的に構える東条英機首相等政府の姿勢とのギャップが開戦後ドンドン開いて行くのは絶望的に感じてしまいます。例えば真珠湾・マレー沖海戦の初戦で華々しく勝利した後シンガポールを陥落させた。山本はソレを切っ掛けに一気に和平を持ち込もうと考えて居たが、政治は全く動きませんでした。  

 山本は、シンガポールが陥落するとビルマやインドに動揺が広がり、インドを支配して居るイギリスは危機感を抱くだろうと考えて居ました。コレを和平交渉の切り札にしようと考えたのですが、1942年2月15日、詰まり海戦から3ヵ月後にシンガポールが陥落しても、政府も国民も勝利に沸き立つばかりで、何も手は打たれ無かった。こう為る事を危惧して居た山本は開戦の3ヵ月前に笹川良一にコウ吐露して居ました。

 「(筆者注・シンガポール陥落後に)確りした手を打って呉れる政治家が果たして居るかね?」(阿川弘之『山本五十六』文庫版・下巻)  

 政治をコノ様に悲観しながら、一方で山本は対米交渉を有利に導く様開戦前に行動して居ました。
ドイツを対米英戦に集中させる為に、ドイツとソ連の和平を仲介しようとして居たのです。

 対米戦終結への布石


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          『太平洋の巨鷲 山本五十六』の著者 大木毅氏 9-25-10


 1941年10月、軍令部第七課長(欧州情報担当)の前田精大佐は、駐日ドイツ海軍武官パウル・ヴェネカー少将と会談し「ドイツはソ連との講和に関心を抱くか? もしそうで在れば、日本の仲介を歓迎するか?」と打診し、可能性が無い訳では無いと云う良好な返事を貰います。  
 日米開戦後の42年2月、軍令部第八課長中堂観恵大佐を伴って再びヴェネカーと会談した前田は「本日の会談内容は連合艦隊司令長官にも通知されて居り、影響力の在る陸軍将校達も完全に了解して居る」と強調した。
 その上で、ソ連打倒とインド洋での日独連絡を同時に行うのは不可能で在るから交渉に依る〔独ソの和平〕を考えるべきだとして、日本には講和を仲介する用意が在ると切り出したのです。  

 結果、この交渉は失敗するのですが、当時の史料からは独ソ仲介工作には山本のイニシアチブが在った事が伺い知れるのです。連合艦隊司令長官ですから職掌上は公に動け無い山本は、密かに軍令部を通じて政治を動かそうとして居た訳です。  
 対米戦を最も憂慮して居た山本は、開戦に当たって和平交渉迄の見通しを描きながら戦略的に行動して居たと言えるでしょう。

                  ※ ※ ※ ※ ※



 アメリカとの戦争に反対して居た山本が、何故全力で戦おうとしたのか。その真相に付いて、後編『真珠湾攻撃80年の真相・・・日本政府と日本軍が「必ず負ける戦争」に突き進んだ本当のワケ』では、更に日本と日本軍が直面して居た現実について詳述して行く。

 聞き手 週刊現代記者 藤岡 雅  回答者 著述家 大木 毅



 〜管理人のひとこと〜

 連合艦隊司令長官・・・この職責が旧日本海軍の特有なものだったとは知ら無かった。〔提督〕との呼称も海軍固有なもので陸軍の将軍には使われ無いのでは無かろうか(判ら無無い)。越後・長岡の人山本五十六は、余りにも多く書籍化・映画化された人物の一人だろう。彼を悪く描く人は居ないのは当然で、彼の業績を広く知らせたい故の書籍化・映画化なのだから。
 その反対に位置するのが東条英機で在る。彼を〔偉い人だ好い人〕だと持ち上げる著者は余り存在しない。彼の身内の人の何冊かの書籍が存在はするだろうが、恐らく多くの人は見向きもしないだろう。彼の演説・・・雨の降り注ぐ神宮外苑での〔学徒出陣〕の風景が戦後以来の彼の印象を残して居る。そして、GHQからの逮捕に怯えピストル自殺・・・これに失敗する卑怯者の烙印。彼を、嫌戦中の首相を指名する元老達がその黒幕なのだが (彼等の内の一人か二人が巣鴨に拘留されたが) 云わば明治維新の功労者の子孫達だ。
 詰まり多くは山口県・長州人なのである。明治維新が太平洋戦争の敗北の幕開け・序章・・・始まりだった訳だ。誰が指導者に為った処で、我が民族が明治維新を受け入れた事が全ての始まり・幕開けだったのである。














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