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2021年04月12日

【敗戦に学ぶ】ミッドウェーで二兎追って大敗した 日本海軍の「慢心」


 

 【敗戦に学ぶ】ミッドウェーで二兎追って大敗した 日本海軍の「慢心」


  現代ビジネス  4/12(月) 11:01配信



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             4-12-15 写真 現代ビジネス 

 4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し「現代ビジネス」に寄稿・配信された記事の中から、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。
 そこに掲載された記事に関連するエピソードを紹介するシリーズの第4回は、第二章「ミッドウェーで大敗した海軍指揮官が着いた大嘘」に関連して、ミッドウェー攻略と併行して行われた、アリューシャン作戦に参加した搭乗員達のエピソードを紹介する。結果的に大した成果を得られ無かったばかりか、後の戦局に大きな悪影響を及ぼした作戦の実相とは・・・

 日本本土初空襲が流れを変えた


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      4-12-16 アリューシャン作戦で第二機動部隊の旗艦を務めた空母「龍驤」 

 昭和16(1941)年12月8日、日本陸軍のマレー半島コタバル上陸・海軍機動部隊の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、日本軍が破竹の進撃で東南アジア一帯の油田地帯や軍事拠点を占領下に収めた事で、当初、計画されて居た「第一段作戦」は順調に終わった。処が、次の作戦をどうするかに付いて海軍内部では・・・

 @ アメリカと連合軍の南からの反攻拠点に為り得るオーストラリアを分断する「米豪遮断」を主張する軍令部
 A 太平洋上の艦隊兵力が優勢な今、ミッドウェー島を攻略し米艦隊を誘き寄せて一気に撃滅を図ろうとする聯合艦隊の意見が真っ向から対立して居た。  

 事態が動く大きな切っ掛けと為ったのが、昭和17(1942)年4月18日 米空母「ホーネット」を発艦した16機の米陸軍爆撃機・ノースアメリカンB-25による本土空襲である。日本本土の太平洋岸からおよそ700浬(約1,300キロ)離れた哨戒線上の監視船から「敵空母二隻見ゆ」との報告が届いたにも関わらず、日本側は空母から発艦して來るのが、マサか陸軍の双発爆撃機であるとは想像もして居なかった。それは、日本人の発想には在り得無い戦法だった。

 警戒態勢の虚を衝かれたこの空襲による日本側の損害は、死者88名・重傷者154名・家屋全焼136・半焼59・全壊42・半壊40に達し、その他、空母へ改造中の潜水母艦「大鯨」が被弾する等、来襲した機数の割に大きなものだった。何より、敵味方に与えた精神的影響は極めて大きかった。これを機に、投機的とも云えるミッドウェー作戦に強く反対して居た海軍軍令部は作戦実施に舵を切る。陸軍もミッドウェー島攻略に陸軍部隊を派遣する事を決めた。

 この時、空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」を主力とする第一機動部隊・南雲忠一中将指揮によるミッドウェー島攻撃に始まる攻略作戦・MI作戦と同時に、アメリカの領土であるアリューシャン攻略作戦・AL作戦も併せて実施される事に為り、空母「龍驤(りゅうじょう)」「隼鷹(じゅんよう)」を主力とする第二機動部隊・角田覚治少将指揮がそちらに差し向けられる事に為った。  
 第二機動部隊は、アリューシャン東部・アラスカ州ウナラスカの米軍拠点のダッチハーバーを空襲、同時に陸海軍部隊がアリューシャン西部のアッツ・キスカ両島を占領する。  

 これは、ミッドウェーを攻略しても出て來るかどうか判ら無い米艦隊の出撃を二重に誘い出すと共に、北太平洋からの米軍の反攻を抑える目的があったと言われる。又、ミッドウェー島攻撃の前日にダッチハーバーを攻撃する事で米機動部隊の注意を引き、ミッドウェー島への上陸を容易にする陽動作戦と為る事も期待されて居た。  
 アリューシャン作戦に投入される「龍驤(りゅうじょう)」は、小型空母ながら歴戦の艦「隼鷹(じゅんよう)」は、日本郵船のサンフランシスコ航路に使われる予定であった大型客船「橿原丸」を、建造途中で海軍が買収し空母に改造した新造艦で、防御力と速力はやや劣るものの、正規空母に近い飛行機搭載能力を持って居た。出来たばかりの「隼鷹」は、処女航海がこの大作戦と云う、ブッツケ本番の作戦参加だった。

 搭乗員も驚いた壮大な作戦!?


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     4-12-17「隼鷹」飛行隊長・志賀淑雄大尉(終戦時少佐)〈右写真撮影 神立尚紀〉

 ミッドウェー島を攻略すれば、新たに編成された第六航空隊(六空)の零戦33機が同島に進駐する事に為って居た。六空零戦隊は、第一機動部隊の4隻の空母に計21機が搭載されたが「隼鷹」にも12機が搭載され、アリューシャン作戦終了後、南下してミッドウェー島に上陸する予定である。宮野善治郎大尉が率いる六空の零戦12機は、大分県の佐伯基地で「隼鷹」戦闘機隊と合流した。
 「隼鷹(じゅんよう)」の飛行隊長は志賀淑雄大尉。これ迄空母「加賀」零戦隊を率い、真珠湾攻撃以来第一段作戦の言わば表舞台で出撃を重ねて来た。しかし、志賀の回想によると「何と無く反りが合わ無かった」艦長・岡田次作大佐と事ある毎に衝突し「加賀」が内地に帰るや否や、左遷同然に「隼鷹」に転勤が発令されて居たのである。
 
 「隼鷹(じゅんよう)」戦闘機隊の定数は18機だが、当初の配備予定は旧式の九六戦だった。「今時九六戦で戦が出来るか!」と怒った志賀は、鈴鹿の航空廠へ飛行機の受領に赴いた際、旧知の監督官が「加賀」から受領に来たと思い込んで居るのを幸い、何食わぬ顔で全機零戦で揃えて佐伯に帰って来たと云う。  

 「飛行長の崎長中佐が『エッ、うちは九六戦だよ』とビックリして居ましたね。『持って来たんだから好いでしょ』と、そのままアリューシャン作戦に行きました」と、志賀は筆者のインタビューに語っている。  
 新造艦の「隼鷹」は、搭乗員も未だ揃え切れて居ない。固有の零戦搭乗員は志賀大尉を含め9名しか居らず、便乗して行く六空零戦隊も、12名の搭乗員のうち空母の発着艦経験がある者は宮野大尉以下4名のみで、後の8名はアリューシャン作戦には使え無い。

 空母から発艦するだけなら飛行場からの離陸とそれ程変わら無いが、高速で航行する空母の狭い飛行甲板への着艦は、訓練を重ねないと出来無いからだ。「隼鷹」は、5月20日、呉軍港を出港し関門海峡を通過、日本海を北上した。
 23日「搭乗員総員集合」が掛かり、右舷の艦橋前に整列した搭乗員達は、艦長・石井芸江大佐より作戦命令を伝えられる。それは、搭乗員達を驚かせるに十分の、壮大な作戦だった。  

 「今回の作戦はミッドウェー島攻撃の第一機動部隊の支援の為、第二機動部隊としてアリューシャンのウナラスカ島・ダッチハーバーの攻撃に向かう。我が隊は、アッツ島・キスカ島へ上陸する陸海軍の輸送船団も支援し、上陸完了後は陽動隊として敵機動部隊を引き着け、第一機動部隊の攻撃作戦を容易にする為の囮部隊と為る。  
 作戦終了後ミッドウェーに向かい、六空戦闘機隊をミッドウェーに上陸させる予定である。尚上陸日をN日、攻撃日はNマイナス3日とする」
 

 5月25日「隼鷹」は、本州最北端の海軍基地・青森県大湊に入港した。ここで「臨時『隼鷹』乗組」の辞令を持って助っ人として乗組んで来た5名の零戦搭乗員達が居る。何れも5月7日から8日に掛けて戦われた史上初の空母対空母の戦い「珊瑚海(さんごかい)海戦」で被弾・損傷して内地に帰り修理中の空母「翔鶴」の搭乗員達であった。
 
 「『隼鷹』は、搭乗員が未だ揃って無かったんですネ。そこで『翔鶴』はどうせ暫くは出られ無いと云う事で貸し出されたんでしょう。今で云うアルバイトですよ」  

 と、その中の一員であった佐々木原正夫二飛曹は回想する。彼等はこの作戦が終了すると全員が再び「翔鶴」に復帰して居るので、臨時雇いであったことは間違い無い。だが、アルバイトだろうがパートタイマーだろうが、実戦経験を積んで来た若手搭乗員の加入は「隼鷹」に取って心強いものだった。  
 大湊の沖合いで一夜を過ごした「隼鷹」は、翌26日、角田覚治少将が座乗する旗艦「龍驤(りゅうじょう)」に続いて出港した。両空母を護衛するのは、重巡洋艦2隻と駆逐艦3隻。  

 出港後「隼鷹」では再び搭乗員総員が集められ「N日は6月7日なり」と伝えられた。即ち、ダッチハーバー攻撃はNマイナス3で6月4日と為ったのである。これは、前に述べた様に、第一機動部隊によるミッドウェー島空襲予定の前日に当たる。

 「この戦争、勝てると思いますか?」


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 4-12-18 ミッドウェー島に駐留予定で「隼鷹」に便乗した第六航空隊分隊長・宮野善治郎大尉(昭和18年戦死)

 北の海は霧が深く「霧中航行用意」の艦内放送が何度も流された。海上はミルク色のベールに遮られ、探照灯の灯りがボンヤリ明るく見える程度で、僚艦の姿も全く見え無い。先行する「龍驤」が、800メートルの長さで曳く浮標(ブイ)の立てる白波と、浮標に着けられたドラの音だけが頼りである。  
 視界が効かず衝突の危険があるが、電波を出せば敵に傍受されて位置が知れてしまう為、無線封止は大前提である。未だレーダーも装備されて居なかったから、濃霧の中での航海の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあった。  

 この季節、北に向かうに従い夜がドンドン短く為る。夜半に薄暗く為ったかと思うと午前2時にはもう夜が明け始める白夜に近かった。その為、1日の食事が4度に為った。元は一等船室に為る筈だった「隼鷹」の士官室で、志賀大尉と便乗する六空零戦隊の指揮官・宮野大尉は夜毎に遅く迄話し込んだ。
 2人は、過つて海軍兵学校で最上級生(志賀)と最下級生(宮野)の関係に在った。志賀は宮野に弟の様な親しみを感じて居たし、宮野も志賀には「先輩!」と、学生の様に話し掛けた。

 開戦後は、志賀は機動部隊、宮野は基地航空部隊で夫々最前線で戦って来て居る。そんなこれ迄の戦闘の話・クラスメートの近況・内地に残して来た女性の話・色々と話は尽き無かった。 志賀の回想によると、或る晩宮野は、雑談の合間にフト真顔に為って「先輩、この戦争、勝てると思いますか?」と訊いて来た。志賀は表情を一瞬強張らせた。宮野は続けた。

 「P-40・米陸軍戦闘機ナンか、何機来たって問題じゃ無いんです。でも敵は、墜としても墜としても新しい飛行機を持って來るのに、此方は、飛行機も搭乗員も補充が全く無いんですよ。台湾を出る時は45機揃えて行ったのに、新郷さんの隊(台南空)等最後は20何機。
 搭乗員に下痢やマラリアも出ますが、何しろ飛べる飛行機が間に合わんのです。それで内地に帰ったら飛行機の奪い合いで、今回の12機を揃えて來るのも大変でした。今に搭乗員だって足り無く為りますよ・・・先輩、こんなことで勝てますか」


 志賀は、思わず考え込んだ。志賀自身はこれ迄、機動部隊で連戦連勝を重ねて来て、戦局の行く末を深刻に考えたこ都が無かったのだ。嫌、アメリカの国力の強大さについては理解して居る積りだったから、考え無い様にして居た、と言った方が正しいのかも知れ無い。 少しの沈黙の後「嫌、勝た無きゃいかん、確りしようぜ」と答えて志賀は話を逸らせた。

 「如何してダッチハーバーみたいな田舎の所へ、貴様も不満だろうけど、問題はミッドウェーだよ。如何にして犠牲を出さずに向こう迄行くかと云う事だ」  

 戦後半世紀余りが経っても、この時の宮野の、戦場での経験に基づいた切実な言葉は志賀の心に鮮やかに残って居た。  

 「当時、搭乗員で戦争の見通しに付いてそこ迄ハッキリと悲観的な事を言う者は珍しかった。彼には先を見るセンスがあったんですね。私は思わず答えに窮してしまいましたが、内心、物事を冷静に見て居る偉い奴だと感心しました」  

 と、志賀は筆者にシミジミと述懐して居る。

 戦争の趨勢を左右した不時着機


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  4-12-19 「隼鷹」艦爆分隊長・阿部善次大尉(終戦時少佐)バックは九九式艦上爆撃機

 何とか無事に攻撃地点に着いた「隼鷹」と「龍驤」は、日本時間の6月3日午後10時25分「隼鷹」から志賀大尉の率いる零戦13機・阿部善次大尉の率いる九九艦爆14機をダッチハーバーに向け発艦させた。1時間後「龍驤」から零戦3機・九七艦攻14機が発進した。   
 白夜の黎明を突いて初進した隼鷹戦闘機隊は、艦爆隊を護衛して目標に向かうが、11時27分、米軍のPBY飛行艇1機と遭遇、北畑三郎飛曹長・佐々木原正夫二飛曹の零戦2機が本隊と分離してこれを攻撃する。佐々木原二飛曹の日記には、  

 〈母艦を出て、暁闇と霧の北洋を夜目にもしるく航空灯を点けて編隊を崩さず北へ北へと進む。進撃約十五分、右側方を通過する飛行機を発見、中隊より分離してこれに後方より攻撃に移る。近付くと明らかにコンソリデーテッドPBY5型飛行艇、雲高五百の海上を約四百の高度で味方(艦隊)方向に近接しつつある。  
 気付かれぬ様に後下方より一番機の後より撃ち上ぐ。照準器が明る過ぎて照準が出来ぬ。反転して第二撃、今度は二十粍を撃ちっ放す。(中略)敵機は黒煙を吐きつつ遂に雲中に遁入す。一番機これを追えども撃墜に至らずして取り逃せり。残念〉
 

 とあって、照準器の光枠が明る過ぎると感じる程の暗さの中での戦闘であったことが窺える。結局、この出撃では濃霧の為「隼鷹」を発艦した北畑・佐々木原機以外の全機が引き返し「龍驤」艦攻隊だけがダッチハーバーを爆撃した。  
 「龍驤」艦攻隊は、爆撃を終えての帰途、ダッチハーバー西方のマクシン湾に敵駆逐艦5隻を発見、司令部にその旨を打電する。角田司令官は空かさず、この敵艦に向けて第二次攻撃の出撃を命じた。  

 「隼鷹」からは、先程の第一次攻撃で引き返したものの内、零戦6機・九九艦爆15機「龍驤」からも零戦9機・九七艦攻17機。それに加えて重巡「高雄」「摩耶」の九五式水偵各2機も、30キロ爆弾2発ずつを積んで発進した。  
 処が、この時も、攻撃隊は厚い雲と霧に阻まれ引き返さざるを得無かった。天候の為とは云え締まら無い結果に、角田司令官は痛く不満の様子であったと云う。  

 6月5日 第二機動部隊は再度ダッチハーバーを攻撃する事と為った。「龍驤」から零戦6機・九七艦攻9機「隼鷹」から零戦5機・九九艦爆11機である。攻撃隊の発艦直前、第二機動部隊は「速やかに南下、第一機動部隊に合流すべし」との命令を聯合艦隊から受けている。  
 これは、ミッドウェーで空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾した為だった。しかし、そんな事情迄は知らされて居ない角田司令官は命令を一時無視し、攻撃隊が帰還した後、南下する事にしたのである。  

 阿部大尉の率いる「隼鷹」艦爆隊は、陸上目標と在泊艦艇に急降下爆撃を敢行、米本土から運ばれたばかりの油の入った重油タンクや格納庫・倉庫等を破壊・炎上させ、港内に係留されて居た宿泊艦「ノースウエスタン」に損傷を与えた。  
 この攻撃による米軍の戦死者は43名・負傷者50名と云う。アリューシャン作戦で「隼鷹」が挙げた初の戦果らしい戦果であった。だが、攻撃終了後、米軍戦闘機P-40の攻撃を受けた艦爆隊は3機が撃墜され、又、編隊から逸れた1機は機位を見失い未帰還に為っている。

 「隼鷹」と六空の零戦隊は2度に渉ってP-40と遭遇、空戦に入りその6機を撃墜した。「龍驤」の九七艦攻は弾薬庫を目標に爆弾を投下したが、悉く目標を外してしまい、辛うじて目標を逸れた爆弾が対空機銃の銃座に損害を与え、4人の米兵を死傷させただけに留まった。  
 「龍驤」零戦隊は海軍基地に機銃掃射を行ったが、対空砲火は意外に強烈で、1機が燃料タンクを撃ち抜かれて、予てからの打ち合わせ通りダッチハーバー東方の無人島(アクタン島)に不時着した。しかし、この零戦は、湿地帯である事に気付かずに脚を出して着陸しようとした為に、ツンドラに脚を取られて転覆、19歳の搭乗員・古賀忠義一飛曹は戦死してしまう。  

 後に米軍が、殆ど無傷のこの零戦・二一型・DT-108号機を発見、飛行可能な状態に迄修復し様々なテストを通じて、それ迄知り得無かった神秘のベールを剝がして行く事に為る。 これによって、零戦の弱点が白日の下に晒され、米軍はそれに対して有効な対抗策を打ち出して來るのだが、この1機の不時着がマサかそんな大事に繋がるとは、その時の参加搭乗員や第二機動部隊司令部の誰もが予想さえして居なかった。  

 アメリカの領土を攻撃されて米軍も黙っては居なかった。「龍驤」「隼鷹」の攻撃隊が発進して間も無く、アラスカ半島のコールド・ベイを発した2機のボーイングB-17が低空で艦隊上空に飛来する。1機は「龍驤」を狙って5発の爆弾を投下したが命中せず、もう1機は高度が低過ぎて爆撃出来ずにそのママ艦隊上空を飛び抜け様とした処を、重巡「高雄」の対空砲火に撃墜された。

 〈本艦舷側スレスレにその残骸、海中に両脚浮遊しをり、海面にガソリン浮かぶを見たり〉と、佐々木原二飛曹は日記に記して居る。B-17に続いて、魚雷を搭載した5機の双発爆撃機・マーチンB-26も日本艦隊を攻撃したが、1発も命中しなかった。

 無駄足処かマイナスに為った作戦

 予定の作戦を終えた第二機動部隊は、イヨイヨ最終目的地のミッドウェーへ、六空零戦隊を進出させる為に南下を開始した。暫くして、着艦経験が無い為に補助暗号員に回されて居た若い搭乗員達は、説明も無いママ電信室への立ち入りが禁止された。
 彼等の間から不満の声が上がった。志賀大尉や宮野大尉等、分隊長以上の士官にのみ電信室で傍受した戦況が知らされた。中部太平洋で、飛んでも無い事態が発生して居たのである。

 「ミッドウェー海戦」と呼ばれるこの日の戦いで、日本側は第一機動部隊の主力空母4隻と重巡洋艦「三隈」が沈没、空母搭載の全機285機(「戦史叢書」による推定)と水上偵察機2機を失った。対して米側の損害は、大破して漂流中の空母「ヨークタウン」が日本の伊号第百六十八潜水艦の雷撃に止めを刺されて、駆逐艦1隻と共に沈没・飛行機喪失150機だった。


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               写真 現代ビジネス 4-12-20

 第二機動部隊が南下を開始した時点では、未だ空母「飛龍」が健在で、これと合流してアワヨクバ敵機動部隊に反撃を掛ける積りだったが、アリューシャンからミッドウェー迄、高速で航行しても3日は掛かる。戦機を失うのは明らかであった。
 その上、残る「飛龍」も被弾するに及んで、第二機動部隊の南下はその意味を失った。聯合艦隊はミッドウェー作戦の中止を決定し、6月6日夕刻、再び第二機動部隊に北上を命じた。  

 一方、アリューシャン攻略部隊は6月7日、アッツ島・キスカ島を占領して居る。何れも、敵の守備隊が居ない島への無血上陸だった。両島の占領を受け、それを迎え撃ちに來るかも知れない敵艦隊に備えて、第二機動部隊は又も南下を始めた。佐々木原二飛曹の日記には、
 
 〈六月八日 ジグザグ進撃  六月九日 反転南下 ジグザグ進撃  六月九日 毎日、南下したり北上したり、西進東漸を繰り返す〉
 
 とある。6月14日第二機動部隊は、ミッドウェーで第一機動部隊の生存者を収容した駆逐艦と洋上で合流した。〈一、二航戦の生き残り搭乗員駆逐艦より移乗し来る。状況書くに及ばず〉  と、佐々木原二飛曹は日記に記して居る。佐々木原の回想・・・
 
 「初めは皆口が重かったですね。ヤガテ気持ちが解れて来たのか、実はコッ酷く遣られたんだと。予科練で2期先輩の岩城一飛曹が『赤城』の艦橋に居て退艦する直前、伝声管から機関科員の歌う『君が代』が聴こえて来たと言って居ました。機関室は艦の底にあるから脱出出来ないんですが、従容として。今も思い出すと涙が出るんですよ、可哀想で。岩城兵曹も泣きながら話して呉れました‥‥‥」  

 「隼鷹」に収容された生存者の中には「赤城」や「蒼龍」の零戦搭乗員も居た。「隼鷹」戦闘機隊と彼等第一機動部隊の零戦搭乗員が、艦橋脇の飛行甲板で並んで撮った写真が残されている。一見、普通の記念写真だが、写って居るメンバーを見ると、この戦いの一端が窺えて興味深い。
 下士官兵の搭乗員は「隼鷹」に収容された時点で「仮入隊」と云う扱いに為り、一時的に「隼鷹」戦闘機隊の隊員と為って一緒に写真に収まったのだ。  

 その後も暫く敵艦隊に備えて北太平洋を遊弋(ゆうよく)して居た「隼鷹」が大湊に入港したのは6月24日のことである。出港してから丁度1ヵ月に及ぶ長い航海だった。「隼鷹」は、被弾・故障した零戦9機を大湊基地に運び、修理・機銃の軸線整合・コンパスの自差修正をした後、29日に飛行機を収容、日本海から関門海峡を通過して呉に向かった。その間、6月27日には、アリューシャン作戦戦没者の告別式が艦内で行われて居る。
 7月1日、飛行機隊は「隼鷹」を発艦して岩国基地へ。「隼鷹」の搭乗員にはそのママ8日迄の休暇が与えられたが、撃沈された第一機動部隊の搭乗員は敗戦を秘匿する為、鹿児島県の鹿屋・笠之原基地に送られ、次の配置が決まる迄、軟禁生活を送らされる事に為った。

 こうして、アリューシャン作戦は、ミッドウェー島攻略の陽動の目的を果たせず、僅かな戦果と引き換えに1機の零戦を米軍に鹵獲される、結果論を承知で言えば無駄足処かマイナスとも云える結果に終わった。 アメリカ領土であるアッツ島・キスカ島を占領してみたのは好いが、これも、戦局全般に寄与する事の無いママ、後にアッツ島玉砕(昭和18〈1943〉年5月29日)の悲劇を生む基に為る。
 
 「結局ネ、当時は我々も上層部が何を考えて居るか判ら無かったけど、艦隊決戦で一気に雌雄を決しようとする聯合艦隊と、段階を踏んで着実に遣って行こうとする軍令部との考えの溝を、両方の顔を立てて埋めようとしたからアア為ったんじゃないか。  
 ダッチハーバー攻撃など遣らずに『龍驤』『隼鷹』を直接ミッドウェーに持って行くことは出来なかったか。増してや『隼鷹』は、アリューシャン作戦の後、ミッドウェー島に六空の零戦を届ける事に為って居たんですから・・・」
 

 と、志賀大尉(終戦時少佐)は筆者に語って居る。日本側の暗号を解読し、劣勢な戦力を集中してミッドウェーで待ち構えて居た米軍と、敵の動きが読め無いママ、圧倒的に優勢な筈の戦力を分散し、二兎を追おうとして大敗した日本海軍・・・その日本海軍が、足った半年前の真珠湾攻撃の際には、機密保持にも情報収集にも細心の注意を払って居た事を思えば「慢心」コソが最大の敵、本当の敵は自らの中に在る、と言っても好さそうである。

 神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家  以上












松山英樹の快挙V 争った40歳ローズが賛辞「君と母国に見事な偉業」「祝福楽しんで」



 松山英樹の快挙V 争った40歳ローズが賛辞「君と母国に見事な偉業」「祝福楽しんで」

 松山英樹の快挙V 争った40歳ローズが賛辞「君と母国に見事な偉業」「祝福楽しんで」.png 4/12(月) 10:03配信


 マスターズ最終日 松山が日本男子初の海外メジャー制覇


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      4-12-12 悲願のマスターズ初優勝を果たした松山英樹【写真 AP】

 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード・パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。

 日本男子初の海外メジャー優勝・アジア人初のマスターズ制覇を成し遂げた。2日目まで単独首位だったジャスティン・ローズ(英国)はSNSで「ヒデキ、素晴らしいマスターズ優勝おめでとう」等と祝福している。
 松山は8・9番で連続バーディーを奪う等、2位との差を5打に広げて前半を終える。後半15番パー5で2打目がグリーンをオーバーし池に入れてしまいボギー。16番もボギーとしたが、正念場の17番はパーセーブ。最終18番はボギーだったがリードを守り切った。

 優勝セレモニーでのスピーチでは「Thank You!」等と高らかに感謝を述べ笑いを誘っていた。松山には、7位だった40歳ローズも祝福を送って居る。初日に2位の松山等に4打差を着けて単独首位に立ち2日目もトップをキープしたが、3日目に首位陥落 最終日は4バーディー・6ボギーとスコアを落としたが、最終18番はバーディーで締めた。  
 試合後にローズはツイッターを更新「良い形で終えられた!自分の調子に満足してる」と大会を振り返った。松山に対しては「ヒデキ、素晴らしいマスターズ優勝おめでとう。君と母国に取って見事な偉業達成だ。祝福を楽しんで」と祝福。最後は「メッセージやサポートをして呉れたチームローズ、ありがとう」と感謝を綴って居た。

 THE ANSWER編集部



 松山英樹 マスターズ初V Vセレモニーでは「サンキュー」絶叫 現地の笑い誘う

 著者 THE ANSWER編集部 2021.04.12
                 
 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード・パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。日本男子初の海外メジャー優勝、そしてアジア人初のマスターズ制覇の快挙を成し遂げた。


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        マスターズで優勝した松山英樹【写真 AP】4-12-13


 マスターズ最終日 松山が日本男子初の海外メジャー制覇
 
 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード、パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。日本男子初の海外メジャー優勝そしてアジア人初のマスターズ制覇の快挙を成し遂げた。

 2位に5打差を着けて迎えた勝負のバックナイン。12番パー3でボギーを打ったが、13番パー5ではアプローチでピン側50センチに寄せバーディー。直ぐにスコアを戻す。15番パー5では2打目でグリーンオーバーし池に入れてしまった。このホールボギーでリードは2打に縮まった。
 16番でも連続ボギー。正念場を迎えたが17番はパーセーブ。18番はボギーだったがリードを守り切った。ウィニングパットを決め、パトロンからのスタンディングオベーションを送られた松山。感極まった表情を浮かべた。

 ディフェンディングチャンピオンのダスティン・ジョンソン(米国)らと出席した優勝セレモニーでのスピーチでは「この素晴らしいオーガスタナショナルで此処に立てることを嬉しく思っている。ファンの皆様ありがとうございました。Thank You!オーガスタナショナルのメンバーの皆さまありがとうございました。Thank You!」と高らかに感謝を述べ笑いを誘っていた。
 松山は2011年にマスターズ初出場。通算1アンダーで27位に入り日本人初のローアマに輝いた。以来、毎年の様にオーガスタの大舞台に挑んだが、15年の5位が最高成績だった。

 THE ANSWER編集部




 松山英樹 優勝インタビュー 一問一答「黄色ならグリーンジャケットに似合うかなと」


 著者 THE ANSWER編集部 2021.04.12

 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード、パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。日本男子初の海外メジャー優勝そしてアジア人初のマスターズ制覇の快挙を成し遂げた。


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      マスターズで優勝した松山英樹【写真 Getty Images】 4-12-14


 マスターズ最終日 松山が日本男子初の海外メジャー制覇


 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード、パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。日本男子初の海外メジャー優勝、そしてアジア人初のマスターズ制覇の快挙を成し遂げた。

 2位に5打差を着けて迎えた勝負のバックナイン。12番パー3でボギーを打ったが、13番パー5ではアプローチでピンそば50センチに寄せバーディー。直ぐにスコアを戻す。15番パー5では2打目でグリーンオーバーし池に入れてしまった。このホールボギーでリードは2打に縮まった。
 16番でも連続ボギー。正念場を迎えたが17番はパーセーブ。18番はボギーだったが、リードを守り切った。ウィニングパットを決め、パトロンからのスタンディングオベーションを送られた松山。感極まった表情を浮かべた。

 優勝後テレビインタビューで喜びを口にした 一問一答は以下の通り

 ・・・表彰式でグリーンジャケットを羽織って感情を爆発させて居た。どんな気持ちだったか。
 「本当は18番で遣りたかったんですけど、表彰式で出来て良かったと思います」
 ・・・最終日どんな気持ちでスタートして行こうと考えていたか。
 「本当に自分のベストを尽くすことだけ考えて、14アンダーから15まで行けば追いつかれ無いと思って遣って居ました」
 ・・・1番でボギー、2番でバウンスバック・・・どんな心境だった。
 「正直、1番のティーグランド行くまでは全然普通に行けたのかと思うのですが、ティーグランドに立って緊張した。2番で好いティーショット打ててそこから落ち着いて遣れました」
 ・・・3番・4番、そして5番は素晴らしいパーセーブ。
 「ミスパットなんですけど、そう云うのも今週多かった。でも良かったと思います」
 ・・・一時は2位と5打差あった。
 「ズッとチェックして居たが、後半難しく為って來ると思って居た。緊張してナカナカ簡単にバーディー獲れる様な状態じゃ無かったので、1つずつミスし無い様、しない様遣って居た。最後ミスしましたが、マァ良かったと思います」
 ・・・15番は2オンに挑戦。
 「距離的に4アイアンだったので、3アイアンだったら刻もうと思って居た。シャウフェレも3連続バーディーだったので、ここでバーディー獲れば引き離せるかなと思ってましたが、裏目に出ましたね」
 ・・・18番、上がって來る時はスタンディングオベーションだった。
 「そうですね。2打差あって好かったなと思って上がって居ました」
 ・・・ウェアの黄色
 「アンマリ、特に意味は無いんですけど、黄色だったらグリーンジャケットに合うかなと思って。終わってみてそう云う風に為ったんで良かったと思います」
 ・・・子供達へメッセージ
 「ヤッと日本人でも出来る事が判ったと思う。僕もマダマダ頑張るのでメジャーを目指して頑張って貰いたいと思っています」            

              THE ANSWER編集部  以上













【戦争秘話】開戦前 真珠湾を偵察した5人の海軍士官は何を見たのか 神立 尚紀



 【戦争秘話】開戦前 真珠湾を偵察した5人の海軍士官は 何を見たのか 神立 尚紀  


   現代ビジネス 4/11(日) 11:02


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              写真 現代ビジネス 4-11-1

 4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し「現代ビジネス」に寄稿・配信された記事の中から、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。そこに掲載された記事に関連するエピソードを」として紹介する。
 第3回は、本書第一章「真珠湾攻撃に参加した隊員達がコッソリ明かした『本音』」に関連して、丁度80年前の昭和16(1941)年、攻撃に先立って真珠湾を偵察した海軍士官達の、余り語られる事の無かったエピソードを紹介する。

 目的は潜行して居るスパイとの連絡


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      ホノルル総領事館で「森村正」の変名で諜報活動を行った吉川猛夫予備役海軍少尉


 日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾攻撃・昭和16年1941年12月8日で、太平洋戦争の火蓋が切られる直前の10月15日、日本郵船の貨客船「龍田丸」は、盛大な見送りを受け、舷側に無数の紙テープをナビカセながら横浜港を出港した。行き先はハワイ経由サンフランシスコである。  
 「龍田丸」は総トン数16,955トン・全長178メートル・航海速力19ノット(時速約35キロ)・旅客定員839名(一等239名・二等96名・三等504名) 昭和5(1930)年、北太平洋航路に就役して以降、姉妹艦「浅間丸」「秩父丸」(後「鎌倉丸」と改名)と共に「太平洋の女王」と呼ばれた豪華客船だった。  

 当時アメリカは、日本の南部仏印(現・ベトナム)進駐を機に、在米日本資産の凍結・対日石油禁輸・通商拒否権(言対日強硬策を打ち出した(6月21日)が、日米の協議の結果、人道上の見地から人と郵便物の往来は続けられる事に為り、その交換船の一隻目として「龍田丸」が選ばれたのだ。  
 日米関係は緊迫の度を増していたが普段と変わら無い出港風景。只、日本郵船所有を示す黒地に赤線2本の煙突のファンネルマークが黒一色に塗り潰されて居るのが異様だった。これは、万一のアメリカ政府による接収を避ける為、日本郵船の船としてでは無く、日本政府が徴用した交換船と云う名目を立てる為の措置である。  

 この船にはもう一つ表に出さざる任務があった。アメリカ太平洋艦隊が本拠を置くハワイ・真珠湾の隠密偵察と現地諜報員(スパイ)との連絡である。その為に、3人の海軍士官が船員に化けて密かに乗り組んで居たのだ。  
 既に昭和15(1940)年5月、アメリカ太平洋艦隊の主力がアメリカ西海岸・サンディエゴから、より日本に近いハワイに拠点を移した事を脅威と捉えた日本海軍は、様々な手段で情報収集に当たって居た。 情報収集(諜報活動)は極秘裏に行われ、今日その全貌を把握する事は難しい。
 だがその一端として、過つて日本海軍に空母の運用を指導、その後三菱に迎えられ日本のスパイと為って活動して居たイギリス空軍元大尉、フレデリック・ジョゼフ・ラトランドをハワイに派遣し諜報活動をさせて居た事が、近年公開された英機密文書から明らかに為っている。

 ラトランドは小舟をチャーターし真珠湾の米艦隊の動静を16ミリフィルムに撮影、情報を日本に送って居た。FBI・米連邦捜査局が彼の動きに疑念を抱き、泳がせて拘束するタイミングを測って居たが、その事はMI6・英秘密情報部も察知する処と為り、ラトランドは1941年10月、イギリスに帰国した処を「敵対的行為」の容疑で逮捕、2年にわたり拘留される。  
 また、日本海軍は、健康を害して予備役に編入され軍令部嘱託として英国に関する情報収集の仕事をして居た吉川猛夫少尉(海軍兵学校61期出身・クラスメートは既に大尉に進級している)を外務省に入省させ「森村正」の偽名でホノルル総領事館の三等書記官として送り込んで居た。  

 出発に先立ち、情報を担当する軍令部第三部は、彼に当座の活動資金として6万ドル(当時のレートで25万6,200円 少尉の俸給月額の3,660倍)もの機密費を手渡したとされる。「森村」こと吉川は、昭和16(1941)年3月27日「新田丸」でホノルルに到着。以後、様々な手段を用いて諜報活動を続けて居る。  
 怪しまれ無い様、日本料亭の仲居や芸者とドライブを楽しむ振りをして港内を観察したり、芸者を連れて遊覧飛行を装い上空から偵察したりする内、地元の日系一世・二世の間では「かなりの遊び人」と噂が立ったりもした。かと思えば、一晩中、1人で砂糖黍畑(さとうきびばたけ)に身を潜めて港内を監視したこともあった。

 真珠湾作戦の最後の詰め


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       4-12-1 「龍田丸」に乗船して真珠湾を偵察した松尾敬宇中尉

 普段、この程度のスパイ合戦はどの国でも行われて居た事で「駐在武官」「語学将校」の肩書きで派遣される軍人がスパイ活動を行うことは、両国政府共に承知の上で受け入れて居る。只、その行動を常に監視して居て、尻尾を出した時には国外追放処分にする。
 昭和15(1940)年、語学将校としてアメリカに駐在した岡田貞外茂(さだとも)海軍少佐(岡田啓介元総理の長男・後フィリピンで戦死)が、スパイ行為を働いたとして、翌1941年国外追放された例がある。アメリカも日本に対し、諜報活動をもっと要領好くかつ大掛かりに行って居たと云う。  

 「森村正」こと吉川猛夫をハワイに送り込んだ時点で、日本はアメリカと戦端を開くことを決めて居た訳では無い。しかし、アメリカがイギリス・オランダも引き込み、主要産油地からの対日輸出を全面的に禁止するに及んで、開戦止む無しの機運が急速に高まった。石油が無く為れば、戦わずして日本は干上がってしまうと考えられたからである。  
 その際、海軍の作戦の柱として考えられたのが、基地航空隊によるフィリピンの米軍基地空襲と、機動部隊の空母に搭載された艦上機によるハワイ・真珠湾の米太平洋艦隊への奇襲攻撃だった。

 「龍田丸」に乗船した海軍士官は、攻撃目標である真珠湾をその目で見ると同時に「森村正」(吉川)と連絡し、真珠湾攻撃作戦の最後の詰めを行う為に派遣されたのだ。乗船者に選ばれたのは、軍令部第三部勤務の中島湊中佐、そして「甲標的」と呼ばれる特殊潜航艇の艇長として訓練を受けていた松尾敬宇中尉・神田晃中尉の3名。
 特殊潜航艇の艇長が選ばれたのは、真珠湾を攻撃する際には飛行機の攻撃に呼応して、海中からも特殊潜航艇で敵艦を攻撃するプランが浮上して居たからである。  

 特殊潜航艇の訓練母艦として使われて居た水上機母艦「千代田」艦長・原田覚大佐の回想によると、呉で訓練中の昭和16年10月9日、聯合艦隊参謀長より「真珠湾視察の為商船に船員として化けこませるから、(顔が)ノッペリしたのを2人出せ」と指示されたのだと云う。
 松尾・神田両中尉は一時的に「軍令部出仕」の肩書きと為り「航空便で軍令部に着任せよ。服装は平服・荷物はカバン一個・中身は全部夏物・軍装・軍用品の持参は許さず」との指令を受け、東京・霞が関の軍令部に向かった。この時、特殊潜航艇仲間が大送別会を開き、総員が帽を振って見送る中、松尾・神田両名は万歳三唱をして悲壮な覚悟で10日「千代田」を発ったと云う。  

 「龍田丸」に乗船した中島中佐は「日本郵船の中島元重役の親戚で、ハワイとサンフランシスコを見たいと言うので特に本社で臨時事務員として便宜を図った」と云う名目で、船員の制服の金筋に白い識別線を着けた事務員の姿。松尾・神田両中尉は両袖に金ボタンを3つづつ着けた商船学校の制服を着て、アプレンティス(実習生)として乗り込む事に為る。
 「龍田丸」には、航海科と機関科のアプレンティスが乗って居たが、学校が東京と神戸に分かれて居て、尚且つ当直時間が違って他の実習生と接する機会は少なく、ニセモノである事が露見する心配は少ないと思われて居た。

 だが、思わぬ処でヒヤリとする場面があった。熊本中学で松尾の1年先輩である「龍田丸」の木下国資三等機関士が、航海中に船橋から降りて来た松尾の姿を認め「ア、松尾、松尾じゃないか」と、他のアプレンティスの居る前で声を掛けてしまったのだ。
 松尾は「しまった」という素振りで、他の者を船室に押し込みドアを閉めてから、唇に指を立てて「黙って居て呉れ」と云う合図をし、挙手の敬礼をして船室に消えた。木下は、後に松尾の戦死が報じられる迄、この事を誰にも話さ無かった。  

 松尾に付いては〈運転士生徒 松尾又雄 運転士生徒として龍田丸乗組を命ス〉と云う、出港2日前、10月13日付の辞令がある。下の名前だけを変えて居るが、もし苗字まで偽名にしていたら、木下が「松尾」と呼んだことで周囲から怪しまれたかも知れない。

 こよりに書き込まれた極秘文書


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 真珠湾攻撃機密書類に記された、ハワイの人口内訳 諜報員の活動は軍事に留まらず、気象・産業・人口など多岐にわたっていた 4-12-2

 「龍田丸」は通常の航路とは違い、一旦北上して択捉(えとろふ)島に接近し、北太平洋からハワイに向けて針路を変えた。これは、真珠湾攻撃に向かう機動部隊の予定コースに近い。中島中佐は、途中の天候やどの位外国商船や軍艦に行き交うかを具(つぶさ)に調べて居たと言われている。  
 只、何時もと違うコースを航行して居る事は一般船客には知らされていない。船内では、特に一等船客は、毎日のダンスパーティーやゲームなどの催しや、タキシード・イブニングドレスの正装でテーブルに着く豪華なディナーを楽しんでいた。  

 ハワイ・オアフ島に近付いた航海8日目の10月23日、突然、米海軍のパトロール船2隻が「龍田丸」に接舷し、武装した水兵2人が乗り込んで来て「これからは、海にものを一切捨てるな」と厳命した。船客には、時限爆雷の投下を恐れての措置と説明されたが、情報の入ったカプセル等の連絡手段を封じて置く意図があったのかも知れない。  
 すると突然、頭上に爆音が響き数機の米艦上爆撃機が「龍田丸」を目標に急降下爆撃の示威を繰り返し、続いて戦闘機・魚雷艇が襲撃訓練を重ねた。国際儀礼に反し不愉快なことではあるが、これは、3人の将校に取っては、アメリカ側の戦術や練度を知る願っても無い機会と為った。

 ホノルルの岸壁では、大勢の在留邦人が「龍田丸」を出迎えた。当時、日本側諜報員が残した記録によると、昭和16(1941)年7月1日現在のハワイの人口は、現地人(原文では「土人」)14,246人・現地人と他民族とのハーフ(原文では「半土人」)52,445人・プエルトリコ人8,460人・白人141,627人・中国人29,237人・日本人159,534人・朝鮮人6,681人・フィリピン人52,060人・その他849人・・・計465,139人とあって、人数で言えば、ホボ3分の1を占める日本人が最も多かったのだ。
 
 岸壁の在留邦人達は、これ迄の入港風景で見た事の無かった米軍の襲撃訓練、そして「龍田丸」の煙突が真っ黒に塗られて居る事に驚いたと云う。ハワイ邦字紙に〈煙突も 黒うして(苦労して)来た「龍田丸」〉と云う投稿川柳が載った。
 ホノルル入港後、アメリカ側の警戒はイヨイヨ厳重に為り、乗組員全員が強制的に指紋を採られたり、数十名の武装したコーストガード(沿岸警備隊)が乗り込んで来て、船内の要所・要所を見張る様に為った。 
 中島中佐は「森村正三等書記官」こと吉川猛夫宛の機密文書を入れたカプセルを、水なしで飲み込む訓練も一生懸命遣った。

 間も無く、喜多長雄ホノルル総領事が来船した為、中島中佐はカプセルを飲み込む事無く、船長室で、こよりの中に書き込んだ極秘文書を総領事に手渡した。
 吉川猛夫の著書『東の風、雨――真珠湾スパイの回想』(講談社・1963年)によると、総領事が中島中佐から受け取った一本のこよりを解(ほぐ)してみると、そこには97項目に及ぶ質問が鉛筆でビッシリと書かれて居たと云う。  
 中島中佐は、事務長のカバン持ちと云う名目で上陸し、総領事館でも喜多総領事と面会したが、ここでの話は全て盗聴される恐れがある。声に出すのは他愛も無い世間話だけにして重要な会話は筆談で行われた。  

 松尾・神田両中尉は、入港前に真珠湾の湾口を遠望し、特殊潜航艇での侵入方法に考えを巡らしたに違い無いが、彼等の活動の詳細については判然としない。森村(吉川)からの返書を中島が受け取り「龍田丸」がホノルルを出港したのは10月25日。最終目的地であるサンフランシスコに到着したのは30日早朝のことである。  
 処が丁度その頃、日本の大船団が仏印(ベトナム)沖を南下中との情報がアメリカ側に齎(もたら)され、統合参謀本部が対日姿勢を更に硬化「龍田丸」も抑留される恐れが出て来た。そこで、木村庄平船長は、乗客の乗船を急がせると郵便物の受け取りを待たずに出港、日本への最短コースである荒天の北太平洋を航行し11月14日横浜港に帰港した。  
 中島中佐・松尾・神田両中尉の3人の偽船員達は、接岸を待たず検疫錨地に迎えに来た海軍の内火艇で上陸した。松尾・神田の両名は、直ちに飛行機で呉に戻って居る。  

 「龍田丸」はその後、もう一度ロサンゼルス・バルボア(パナマ運河口)に向け出港(12月2日)したが、これは開戦の意図を偽装する為の航海で、戦争が始まれば直ちに帰国する事に為って居た。

 一週間後、第二陣の士官を乗せた船も出航


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    「龍田丸」に続き、海軍士官2名を乗せてホノルルに向かった「大洋丸」 4-12-3 

 「龍田丸」が3人の海軍士官を乗せて出港した1週間後の10月22日、横浜からはもう1隻「大洋丸」がハワイに向け出港した。「大洋丸」は14,457トン・速力14ノット(時速約26キロ) 第一次世界大戦で戦勝国と為った日本が、ドイツから戦時賠償として譲渡された船で、老朽船ではあったが豪華客船だった。  
 「大洋丸」には、潜水学校教官の前島寿英中佐が船医に、海軍省人事局の鈴木英少佐が事務員に、夫々化けて乗船して居る。

 鈴木少佐はベテランの水上機パイロットで、航海の直前まで第三艦隊航空参謀を務めて居たが、この航海の為に人事局付に為って居た。鈴木は「出発の約1ヵ月前から真珠湾のあらゆる情報に目を通したが、軍令部の指示等も含めメモに残さず一切を頭の中に入れた。携行品には、軍人の身分を窺わせるものは何ひとつ入れ無かった」 と、回想している。  
 「大洋丸」も横浜出港後北上し択捉島付近で東に変針、アリューシャン諸島とミッドウェー島を結ぶ線の中間辺りから南下すると云う、真珠湾攻撃に出撃する機動部隊の予定コースを航海してハワイに向かった。船客の殆どはハワイに帰る外国人だったと云う。  

 北太平洋は波浪・暴風が凄まじく「大洋丸」は一時、2ノットに迄減速を余儀無くされたが、飛行機乗りである鈴木少佐は「水上偵察機の発艦・収容は可能」「機動部隊が外国船に遭遇する可能性は低い」と判断した。オアフ島北方200浬(カイリ/約370キロ)の所で米軍の哨戒機に発見され、100浬の所で米軍機の編隊が擬装襲撃(攻撃訓練)に飛来した。これで、米軍の哨戒圏と攻撃圏のアラマシが判明した。  

 11月1日「大洋丸」は真珠湾に近い8号岸壁に接岸。此処からは米艦艇の錨泊状況や施設が一望に出来た。港外には、潜水艦の侵入を防ぐ為の防潜網が用意され、その端には警備艇が待機して居て、命令一下速やかに展張する訓練を行って居るのが見える。  
 防潜網を張られてしまえば、特殊潜航艇による港内への侵入は困難であると思えた。米軍の警戒は厳しく、上陸しても所要の連絡先以外への立ち入りは禁止された。  

 前島中佐・鈴木少佐は米側の尋問を避ける為上陸はせず、来船する喜多総領事や領事館員を通じて吉川猛夫と連絡を取った。米側からマークされて居る吉川も大洋丸には来ない。  連絡事項や質問は「龍田丸」の時と同様、薄い紙に鉛筆で書いてこよりにして領事館員に託し、それに対する吉川の報告は、領事館から船に届ける新聞の束の奥に隠したりして受け渡しをした。  
 スパイの鉄則は、末端のスパイ同士が接触しない事である。前島・鈴木の身分や乗船目的は、喜多総領事以外の誰にも明かされ無かった。ハワイ在住のオットー・キューンと云うドイツ人を、軍令部がスパイとして使って居るとされて居たが彼とも連絡は取ら無かった。

 領事館では、吉川が中心に為って諜報活動を続けて居るが、重要な情報の中には米軍人からの売り込みもあったと云う。軍令部が知りたかったのは、オアフ島の警戒態勢・米軍は果たして瞬時に反撃体勢に入れるか・哨戒機の機種や機数・出発時刻等で・・・最も大切なのは哨戒の範囲である。
 予備役海軍少尉でもある吉川の報告は、要点を押さえて居て満足すべきものだった。11月2日は日曜日である。既に、真珠湾攻撃は日曜日の朝に実行することとされて居た。

 この日、米海軍の艦船は訓練も無く静かな休日を過ごして居た。前島・鈴木は、日曜日の奇襲成功に望みを抱いた。11月5日「大洋丸」はホノルルを出港し米本土迄は行かずにハワイで折り返し日本に向かった。帰りは、矢張り真珠湾攻撃の機動部隊が帰途に着く予定の、やや南寄りの航路である。  
 鈴木少佐は尚も慎重だった。万一、公海上で米英の軍艦に臨検された場合に備えて、ホノルル在泊中の資料の全てを頭に叩き込み、どうしても書類にしないといけ無いものは細いこよりにし、更にそれを数本より合わせて紐にして直ぐに燃やせる所に置いた。  

 帰路の「大洋丸」には、ハワイから日本に帰る日本人一世・二世が447人乗船して居て、米軍基地で働いて居た者も多く彼等も又重要な情報源に為った。「大洋丸」は11月17日、横浜港に入港した。先にハワイ経由サンフランシスコ迄行った「龍田丸」が帰国した3日後のことである。
 前島中佐と鈴木少佐はその足で軍令部に赴き、軍令部総長・永野修身大将、次長・伊藤整一中将等主要幹部にハワイ偵察の報告をした。

 作戦参加搭乗員たちに直接敵情説明


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 4-12-4 真珠湾攻撃の攻撃隊指揮官に配布された機密書類には、諜報活動の成果が詰まって居る。写真は空母「赤城」戦闘機分隊長・進藤三郎大尉が遺した真珠湾攻撃の軍機書類(以下同じ)

 鈴木少佐は11月19日、機動部隊の護衛で真珠湾作戦に参加する戦艦「比叡」に木更津沖で乗艦し、23日、択捉島単冠湾に入泊して居た機動部隊の旗艦・空母「赤城」艦上で、南雲忠一司令長官を初めとする司令部での最後の作戦会議に参加、翌24日には「赤城」に参集した飛行機搭乗員達にオアフ島の模型を前に現地の情報を詳細に説明した。  
 真珠湾攻撃に参加した搭乗員の回想に必ず出て來る「『赤城』でのオアフ島模型を前にした作戦説明」は、ハワイから帰ったばかりの鈴木少佐による最新の情報だったのだ。  

 25日、山本五十六聯合艦隊司令長官より、26日朝、機動部隊出撃の命令が届く。南雲中将は26日午前2時頃、眠って居た鈴木少佐を起こし「米艦隊はラハイナ泊地では無くて真珠湾に居るのだね?」と、念を押した。南雲中将は眠れぬ夜を過ごして居たらしかった。26日、機動部隊の各艦が出港して行くのを、鈴木は「赤城」から移乗した海防艦「国後」の艦上で見送った。  

 機動部隊の出航に合わせて、北海道の美幌基地に進出して居た木更津海軍航空隊の九六式陸上攻撃機が前路哨戒に当たって居る。当時、機長として前路哨戒の任務に就いた畠山金太一飛曹(後少尉)は、筆者のインタビューに「真珠湾攻撃の事迄は知らされて居ませんでしたが、これだけの大艦隊が隠密裏に出て行くと云うのは尋常な事では無い。潜水艦は勿論、漁船一隻も見逃す訳には行きませんから、緊張感を以て、航続時間ギリギリ迄哨戒しました」 と回想している。  

 真珠湾では無いが「龍田丸」と「大洋丸」の間にはもう1隻、日本郵船の「氷川丸」が、軍令部第三部の福島栄吉少佐を乗せて、10月20日シアトルに向け横浜を出港して居る。情報を担当する第三部の少佐が、この時期にアメリカまで直接出向くのは、開戦に関する用件の為としか考えられ無いが、福島少佐の目的に付いてはハッキリしない。
 駐在武官か補佐官をシアトルに呼んで、開戦の方針を伝えたのだろうとの推察が、最も正鵠(せいこく)を射たものだと思われる。

 ・・・長期にわたる何重もの諜報活動そして緻密な作戦、それに向けた訓練が功を奏して、12月8日、真珠湾攻撃は成功を収め、一時的にせよ米艦隊の脅威を太平洋から一掃した。 只、潜水艦から発進した5隻の特殊潜航艇が悉く未帰還と為り、9名が戦死1名が捕虜と為る結果に終わったことは当事者達にとって無念であったに違いない。だがこれは、3年9ヵ月に及ぶ長く苦しい戦争の序章に過ぎ無い。

 5人の偵察士官のその後

 真珠湾攻撃前にハワイを偵察した5人の海軍士官の内「龍田丸」の中島湊中佐は、昭和17(1942)年2月21日、南西方面艦隊参謀として蘭印・セレベス島(現・インドネシア・スラウェシ島)で戦死。
 神田晃中尉は、同年3月8日、特殊潜航艇の訓練中に瀬戸内海で殉職した。松尾敬宇中尉は、真珠湾への出撃を熱望したが帰国した時には既に真珠湾攻撃に参加する特殊潜航艇の搭乗員が決まって居た為第一陣の選に漏れ、大尉に進級した直後の昭和17年5月31日・オーストラリア・シドニー湾の敵艦船攻撃に出撃。他の2艇と共に目的を果たせ無いまま戦死した。


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      4-12-5 昭和17年 日英交換船の際 米潜水艦の潜望鏡が捉えた「龍田丸」

 松尾艇は、岸壁に衝突して魚雷発射管を損傷し敵艦に体当りを試みるも失敗、松尾大尉は同乗の都竹正雄二等兵曹と共に拳銃で自決したと伝えられる。戦死後二階級特進し、海軍中佐に任じられた。  
 オーストラリア海軍は、松尾艇を含む2艇を海底から引き上げ、4名の搭乗員の遺体を海軍葬を以て丁重に弔った。遺骨は、戦時交換船「鎌倉丸」で帰国した。  

 「大洋丸」前島俊英中佐は、昭和19年3月1日、第二十二潜水隊司令としてニューギニアで戦死。終戦時の総理大臣・鈴木貫太郎大将の甥でもある鈴木英少佐は戦争を生き抜き、軍令部部員として終戦を迎え(中佐)、昭和60(1985)年9月18日死去した。  
 「龍田丸」は海軍に徴用され、日英外交官交換船としてポルトガル領東アフリカまで往復した後、輸送任務に従事する。昭和18(1943)年2月8日、横浜から中部太平洋のトラックに向かう途中、深夜に御蔵島沖でアメリカ潜水艦の雷撃を受け瞬時に沈没、木村船長以下乗組員198名・乗船者1283名の全員が死亡した。  

 「大洋丸」は陸軍に徴用され、昭和17(1942)年5月8日、宇品港からシンガポールへ向かう途中、アメリカ潜水艦の雷撃で沈没、乗船して居た1,360名の内、817名が命を落とした。この時犠牲に為った乗船客の中には、南方占領地のインフラ整備に派遣される商社マンや、台湾烏山頭ダムの建設で名を馳せた水利技術者・八田與一ら民間人も多く含まれて居た。
 2018年、屋久島の西約250キロの海底で、ホボ原形を保ったママ沈んでいる「大洋丸」の船体が発見されたニュースは記憶に新しい。

 開戦直前、シアトルに向かった「氷川丸」は戦時中、海軍特設病院船と為り、3度にわたって触雷するも生還。戦後は外地からの引揚船を経てシアトル航路に復帰し、昭和35(1960)年に引退する迄第一線の花形客船として活躍した。
 その後、長く横浜・山下公園に係留・保存され、2016年には国の重要文化財に指定、横浜のシンボル的存在として今日に至る。  

 真珠湾攻撃の際、米空母が真珠湾に居らず、しかも対空砲火の反撃が予想以上に早かった事から、攻撃に参加した飛行機搭乗員でさえ「アメリカは知って居て待ち構えて居たんじゃないか」と述懐する人は少なく無かった。
 日本側が重油タンクや港湾設備を攻撃目標にし無かった事等も含め、今も尚釈然としない部分は残されて居るが、それは本稿とは別の主題に為ろう。  

 しかし、真珠湾攻撃がこれ程の手間暇を掛けて情報を収集し準備を重ねた末に決行されたにも関わらず、それでも尚不完全な面が残った事を顧みれば、その後の、希望的観測をもとにした場当たり的な日本軍の作戦が悉く失敗に終わったのも無理は無いと思われる。


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 神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家 1963年大阪府生まれ 日本大学藝術学部写真学科卒業 1986年より講談社「FRIDAY」専属カメラマンを務め主に事件・政治・経済・スポーツ等の取材に従事する 1997年からフリーランスに 1995年日本の大空を零戦が飛ぶと云うイベントの取材を切っ掛けに 零戦搭乗員150人以上 家族等関係者500人以上の貴重な証言を記録している 
 著書に『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』『証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』『証言 零戦 真珠湾攻撃、激戦地ラバウル、そして特攻の真実』(いずれも講談社+α文庫)『祖父たちの零戦』(講談社文庫)『零戦 最後の証言彜T/U』『撮るライカT/U』『零戦隊長 ニ〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(いずれも潮書房光人新社) 『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)などがある NPO法人「零戦の会」会長

                     以上