新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2020年04月25日
内部留保多い日本企業 はコロナ恐慌に耐えるか
内部留保多い日本企業 はコロナ恐慌に耐えるか
〜東洋経済オンライン 岩崎 博充☟ 4/25(土) 16:01配信〜
〜キャッシュをどれだけ持って居るかが 不況に耐える力を左右する〜
新型コロナウイルス感染症の世界的な広がりが経済に暗い影を落として居る。今回のパンデミック・世界的な流行が与える経済へのインパクトを1930年代にアメリカで起きた「世界大恐慌」と重ね合わせる専門家が多く為って来て居る。
当時の失業率は30%程度迄拡大した。日本に当て嵌めれば1,800万人が失業する様な異常事態だ。リスクマネジメントとは、常に最悪のシナリオを想定して、それを乗り越えるシミュレーションをして準備する必要がある。
処が、日本では未だそうした緊張感や切迫感が希薄な様な気がして為ら無い。その背景には企業が抱える463兆1308億円(2018年度)とも言われる「内部留保」が有るのかも知れない。
「うちは従業員の給料の数年分の内部留保が有るから倒産しない」
大企業で有ればある程安心感が有る・・・そんなイメージを持って居る人も多いのではないか。しかし、この新型コロナウイルスとの戦いを、世界的な規模で人類とウイルスが戦う戦争と考えると、そう簡単に解決出来る様な代物では無い。
ソモソモ、日本人の多くは「内部留保」を間違った概念で考えている人が多い。内部留保とは、企業の「内部に蓄えた利益」では無く、現金や預金のみ為らず、国内外の債券や株式に投資した「自己資本」の1つと考えた方が好い。
日本企業の場合、通常2〜3カ月分の売り上げに匹敵する運転資金をキャッシュ・現預金で持って居れば比較的安全と云うのが一般的な認識だが、これから先もソレで持ち応えられるのか。昔と比較して、大きく様変わりしたと言われる日本企業の財務体質に付いて考えてみたい。
アベノミクスで増え続けた企業の現預金
ソモソモ内部留保とは何か。簡単に説明すると、1年間に稼いだ「純利益」から配当等を差し引いた言葉で、決算上は「利益剰余金」として処理されるのだが、実は法令で定められたものでは無い。
要するに企業が稼いだ利益から配当等社外に出て行ったものを除いて、内部留保と呼んで居るに過ぎ無い日本独特のものだ。大きく分けて、企業内にそのママ留保される「社内留保」そして貸借対照表上に計上して処理される「利益剰余金」と考えて好いだろう。
日本の上場企業の社内留保463兆円と云う数字は、この社内留保と利益剰余金を合計した金額と言って好い。更に、此処に「法人企業統計上の内部留保」と云うものもある。2016年度の数字では次の様な構成に為って居る。 (金融業・保険業を除く、財務省「法人企業統計調査」より大和総研調べ)
● 社内留保 損益計算上の企業に残る最終利益 30兆円
● 内部留保 貸借対照表上に計上される蓄積された利益剰余金 406兆円
● 法人企業統計上の内部留保 資金調達の内訳の中にある数値 48兆円
ソモソモ日本企業が内部留保を貯め込む切っ掛けと為ったのは、リーマンショックや安倍政権誕生と大きな関わりが有ると考えられて居る。何時の間にか「内部留保=企業の貯蓄」の様なイメージを持たれてしまって居るが、日本企業の内部留保が急速に増えたのもアベノミクスと大きな関係が有ると云う事だ。
内部留保=現預金では無いのだが、日本企業の現預金が此処10年以上増え続けて来たのは間違い無い。法人企業統計に依ると、企業の現預金が増え始めたのはリーマンショックの2008年前後からだ。
以前の企業は、現在の欧米の企業同様に現預金の積み上げを回避する傾向に在った。それが、2008年度のリーマンショックを機に、日本企業の現預金は加速度的に増して行く。実際に、2000〜2009年度迄の企業の現預金の伸びは年率1.2%だが、2009年度から2016年度には年率4.3%と伸びて居る。
現預金は150兆円⇒211兆円に
金額にして、2009年度には150兆円程度だったのが、2016年度には211兆円に迄増えて居る。この背景には、日本銀行に依る異次元緩和の影響が大きい。日銀が量的緩和で、市中の日本国債を大量に買い入れた為、その資金が巡り巡って家計や企業の現預金に回って行く。
しかも、企業はその現預金を従業員の賃金や株主への配当に回さずに、海外の企業買収・M&A資金等に回した。本業のビジネスでは稼げ無いから、海外の利益の高い企業に投資して利益を稼いで来た。それが、日本企業の現実と言って好い。
更に、M&A等の資金を銀行から借り入れて行うのでは無く内部留保の現預金で行って来た。その背景には、借り入れの様なリスクを取りたく無いと云うのもある。又、内部留保が多いと銀行に対する信用度が増す為に、資金調達の1つの方法に為って居ると考えられる。
無借金経営の企業が多いのもそうした背景が有るからだ。その反面で、株主からは増配を求められ政府からは「内部留保課税」を課すプレッシャーを掛けられる。従業員からの賃上げ要求は、労働組合を形骸化する事で免れて来た。
実際に、実質無借金企業の割合は、2008年度には37.3%だったのが、2017年度には51.7%に達して居る。アメリカの18.3%(2017年)に比べれば大きな差だ。(財務省財務総合政策研究所調べ、TOPIX500から金融機関を除いた企業)
サテ、問題は内部留保の使われ方だが、貸借対照表上の統計では、内部留保は大きく分けて「有形固定資産」「投資有価証券」そして「現預金」に分けられる。これ等の2006年度から2016年度の推移を見ると、次の様に為る。 (財務省年次別法人企業統計)
● 投資有価証券(株式や債券等) 179兆円⇒304兆円 125兆億円増(+69.7%)
● 現預金(預金等のキャッシュ) 147兆円⇒211兆円 64兆円増(+43.4%)
● 有形固定資産(設備投資) 464兆円⇒455兆円 −9兆円(−2.0%)
ちなみに、同じ10年間で内部留保の殆どを占めて居る「利益剰余金」は252兆円から406兆円と153兆円増えて居る。プラス61.0%の伸びだ。この10年間の企業の「負債及び純資産合計」は1,390兆円から1,647兆円と、257兆円増えて 、伸び率+18.5%から考えても内部留保の伸びは顕著だ。
要するに、企業は内部留保の格好で資産を貯めて居たのだが、その蓄えた資金を設備投資に回したりせずに、主として国内外の株式や債券に投資して居ると考えて好い。又、現預金も総額で211兆円も貯め込んで居る。
只、言い換えれば内部留保とは云っても比較的自由に使える資金は、現預金の211兆円しか無いとも言える。今回の新型コロナウイルスによる経営危機で、従業員への支払いや固定費の支払い等で多額の資金が必要に為る訳だが、それで賄えるかどうかだ。
コロナで生き残れる企業と生き残れ無い企業?
そこで、注目されるのが新型コロナウイルスによる経営危機で、日本企業は生き残れるかどうかだ。今回のパンデミックは、世界中の企業が破綻の危機を迎える可能性が有ることを示して居る。企業が破綻する最も多い状況は、手持ちの資金が枯渇して破綻するケース。リーマンショック時のリーマンブラザーズの様に、潤沢な資産を持ちながら、目の前の決済に必要なが確保出来ずに経営破綻するケースだ。
そこで注目されるのが「ネットキャッシュ」と云う概念だ。手持ち資金が豊富な企業の財務体質は健全であり、パンデミックの様な状況でも強いと考えられる。ネットキャッシュと云うのは「現預金と短期保有の有価証券の合計額から、有利子負債と前受け金を差し引いた」金額のこと。
例えば、東洋経済オンライン編集部は、年に2回、ネットキャッシュに関わるランキングを公開して居る。そのベスト10を見ると、次の様に為って居る。
<手元流動性(ネットキャッシュ)が潤沢な企業ベスト10>
・1位 ソニー 1兆4,351億円
・2位 任天堂 1兆0829億円
・3位 信越化学工業 1兆0274億円
・4位 東芝 9,008億円
・5位 キーエンス 8,632億円
・6位 SUBARU 8,512億円
・7位 ファナック 6,221億円
・8位 京セラ 6,042億円
・9位 ファーストリテイリング 5,865億円
・10位 SMC 5,443億円
(出所 東洋経済オンライン「最新版! これが『金持ち企業トップ500社』だ」2019年12月4日配信)
例えば、1位ソニーの1兆4351億円のネットキャッシュの内訳は、現預金1兆4700億円・短期保有有価証券1兆3245億円・・・但し有利子負債1兆3594億円はマイナス材料に為る。健全性の高い企業と言われる有利子負債0円と云う企業も、任天堂やキーエンス・ファナック等がランクインされて居る。
但し、これ等のランキングは飽く迄も平時の企業財務の健全性を測る目安と言って好いのかも知れない。問題は「短期保有有価証券」の額だ。短期保有有価証券と云うのは、例えば債券の場合、決算日から満期迄の期間が1年以内で有れば「短期保有有価証券」と為り、1年超で有れば「投資有価証券」と為る。
短期保有有価証券を換金する動きも有り得る
詳細は省くが、ドチラも内部留保なのだが、問題はパンデミックの様な状況下で、市場で売買されている債券や株式を内部留保に組み入れて居る企業だ。子会社化した企業の株式と云う形で保有して居るケースも有るが、市場価格の有る有価証券で有れば、価格変動のリスクを受ける事に為る。
現預金で1兆4,700億円も有るソニーの様なケースでは、余り問題無いかも知れないが、現預金が余り多く無く、短期保有有価証券を沢山持って居る様な企業の場合、そして有利子負債も多い企業の場合、銀行等の緊急融資では間に合わずに短期保有有価証券を市場で換金しようと考える筈だ。今後、緊急事態宣言が長引いた場合には多数出て来る事が予想される。
そう為れば、債券市場や株式市場は再び「売り圧力」に晒される事に為る。銀行に潤沢な資金が日銀から提供されては居るものの、想定外に集中した場合、銀行からの融資がショートする様な事態は、経済的なショック時には好く有る事と言って好い。企業も取り敢えず有利子負債を増やすよりも、手持ちの短期保有有価証券を市場で処分しようと考える筈だ。
実際に、パンデミックに依る緊急事態宣言が出る前から、企業や家計で現金を確保して置く動きが有ると言われる。株式や債券を売却して、現金化して置く事で何時でも使えるマネーを手元に置いて置きたい、と云う動きだ。
今後、このママの状況が続けば、企業は一斉に内部留保を現金化して、賃金等の支払いに回す事が予想される。債券市場や株式市場でも大きく売られる事に為る。株式市場も、日本銀行がETFを買って市場の価格を支え続けて居るが、今後は支え切れ無い状況に為る事が予想される。市場は、再び2番底を試す局面に陥る可能性が高いと云う事だ。
債券市場も、売り圧力が高まると金利が徐々に上昇する事に為る。パンデミックの下では、人命に関わる事なので財政出動に躊躇して居る余裕は無いが、経済危機は何かのイベントが起きた後に遣って来る。
短期保有有価証券が多い企業は油断大敵かも
どんなに手元流動性が豊かでも、例えば現預金が少なく短期保有有価証券や有利子負債が多い様な企業は、盤石な財務状況とは言い難い。又、有利子負債ゼロの優良企業でも、現預金が少なく短期保有有価証券が多い様な企業は、パンデミックの様な状況では不透明だ。速やかに現預金を増やす動きに出る筈だ。
更に、企業の中には極端にネットキャッシュが少ない企業もある。同じく本サイトで発表されている「手元資金に対し借り入れが多い会社」のランキングを見ると、その実態が好く判る。列記して置くと・・・
<手元資金に対し借り入れが多い会社(10社)>
・1位 ソフトバンク −11兆8265億円
・2位 武田薬品工業 −5兆0488億円
・3位 東京電力ホールディングス −4兆8901億円
・4位 東海旅客鉄道 −4兆2062億円
・5位 三井物産 −3兆8708億円
・6位 三菱商事 −3兆7592億円
・7位 関西電力 −3兆6728億円
・8位 日本電信電話 −3兆3165億円
・9位 住友不動産 −3兆1705億円
・10位 東日本旅客鉄道 −3兆0107億円
(出所 東洋経済オンライン「最新版『借金が多い企業』ランキングTOP500社」2019年12月5日配信)
自動車ローンを扱っている自動車メーカーそして金融系企業を除いたランキングだが、どの企業も有利子負債が莫大な額に為って居る企業ばかりと言って好い。有利子負債が多い事自体はそれ程大きな問題では無いのだが、矢張り現預金の少ない企業は、現在の様な緊急事態ではヤヤ不安が残る。
好く言われる事だが、企業倒産には「黒字倒産」と云う言葉が有る様に、資金がショートしてしまえば倒産する事に為る。ソフトバンクの様に、15兆6000億円もの有利子負債が有るにも関わらず、3兆8,000億円の現預金しか無い状況は楽観出来無いのかも知れない。しかも、ソフトバンクは世界中のIT関連企業に投資して居る為、今後の資金調達方法には注目して置く必要が有るかも知れない。
又、心配なのはパンデミックで世界の貿易がストップして居る状況では、三井物産や三菱商事と云った総合商社、そして観光収入が大きい東日本旅客鉄道等も大きな影響を受け易い事だ。最も、こうした社会インフラの要素が強い企業は政府が支援するだろうが、問題はリーマン級の「大き過ぎて潰せ無い企業」が、今回は同時に複数出て来る可能性が有る事だ。
政府が躊躇せずに救済出来るかが大きな課題だが、安倍総理も黒田日銀総裁も日常的に「躊躇せずに行動する」と言って置きながら、イザと為ると躊躇し捲くって居る事が気に為る処だ。
「現預金を除く内部留保」が多い企業は要注意?
本来、日本企業の内部留保が多いのは国際的に見るとヤヤ異常だった。欧米系の投資ファンド等「モノ言う株主」は、再三に渉って内部留保は株主に還元すべきだと主張して居た。配当若しくは自社株買いに依って株主に還元する事で、利益を株主に還元するのが資本主義社会の考え方だ。
その点、日本企業の多くは従業員の低過ぎる賃金に充てるでも無く、株主への配当も怠って来た。では何をして来たかと言えば、海外の株式や債券に投資して来た。実際に、406兆円も有る利益剰余金は、現預金の211兆円を除いた資金は別の形に変えて居る。これ迄紹介して来た様に残りの200兆円弱の資金が「投資有価証券」や「設備投資」「不動産」に為って居る訳だ。
言い換えれば、今後は「現預金を除く内部留保」が多い企業と云うのは、世界的な景気後退局面の中で、損失を出して来るケースが増える筈だ。取り分け、短期保有有価証券等は既に大きく額面割れして居る筈であり、今後相場が急速に回復する事も望め無い。企業に依っては、意外と財務体質が弱い事が明らかに為るケースも増えて来る筈だ。
このパンデミックが何時終息するか判ら無い現状では、今後は様々なリスクに備える必要がある。歴史的に見ると、例えばペストが流行した14世紀のヨーロッパでは、それ迄最も人々に信頼され権力も握って居た教会が「信者を守れ無かった」と云う理由で急速にその権威を失ったと言われる。
現在、圧倒的多数で権力を握って居る自民党も、コロナショック後には消えて居るかも知れない。それだけの覚悟を持って企業も生き残りを図る必要が有ると云う事だ。
岩崎 博充 経済ジャーナリスト 雑誌編集者等を経て1982年に独立し 経済・金融等のジャンルに特化したフリーのライター集団「ライトルーム」を設立 雑誌・新聞・単行本等で執筆活動を行う他、テレビ・ラジオ等のコメンテーターとしても活動して居る
以上
【管理人のひとこと】
日本を代表する大手企業の財務内容の概略を教えて貰った。何と財務内容の優秀な企業のトップのワンツーがソニーと任天堂と云うゲーム関連の企業である。トヨタや金融企業を除いたランキングではあるが、コテコテの製造業では既に利益を上げられる時代では無かった訳で、情報・通信関連企業が世界中から利益を吸い上げて居るのが理解出来た。
その中で日本の大手企業は、自社での利益を設備投資にも株主にも従業員も配らず、只管、全てを内部留保として蓄え、その殆どを他国や自国の利益を上げる企業へ投資し、そこからの利潤で潤って居た訳だ。国内の従業員にも内外の株主にも一切の恩恵も無く、人・従業員への投資も無い設備投資も遅れに遅れ益々競争力を減退させ、他者の利益を「棚ぼた」の様に待つだけの企業・・・何と無く、タコが自分の脚を食う様な・・・将来を見通せない状況だった訳だ。
政府は政府で、遠い将来を見通した全ての社会的インフラ整備(教育・福祉・人材育成等も含めた)を怠り、全てを後回しにし続ける・・・安倍氏のお友達や仲間・応援団にのみ利益を終息させる・・・ソンな日本の大手企業が、如何にして世界的大不況の時代を乗り切れるのか・・・そして現在の心許無い安倍政権でこの難局を乗り切れるのか・・・ウットオシイ世の中である。
17世紀の人々は「ペスト」と云う大災厄をどう乗り越えたのか〈新型コロナとの共通点〉
17世紀の人々は「ペスト」と云う大災厄をどう乗り越えたのか
〈新型コロナとの共通点〉
〜婦人公論.jp 4/24(金) 12:00配信〜
『ペスト』著 ダニエル・デフォー(中公文庫)より
新型コロナウィルスによる感染が拡大する中で、17世紀に蔓延した「ペスト」に関する書籍が注目を集めている。その中の一冊、ダニエル・デフォーの小説『ペスト』には、現在の日本の状況とも、重なりが有る様で・・・
常に病原菌との攻防を続けて来た人類
新型コロナウィルスの感染者が増え続けて居る。私達が抱えて居るのは最早感染リスクだけでは無い。「仕事や生活はこの先どう為る?」「離れて暮らす家族や友人と次は何時会えるのか?」「感染症に依る孤独な最期をどうすれば避けられるのか?」と云った複雑な問題に直面して居る。
突然、何時終息するのか判らない疫病に全世界が巻き込まれたのは災難だが、歴史を簸も解けば似た様な状況は幾らでも有った。1918〜20年に流行したスペイン風邪・1980年にWHOから根絶宣言が出される迄の天然痘・今も度々各地で問題化して居るコレラ・チフス・赤痢・結核・梅毒・・・等、人類は常に病原菌との攻防を続けて居る。
しかし、感染症に翻弄された先人達は、少しでも後世の人々の参考に為る様にと、その壮絶な体験を様々な形で記録に残した。中でも、17世紀のジャーナリストであり『ロビンソン・クルーソー』の作者としても著名な作家・ダニエル・デフォーの『ペスト』には、1665年ロンドンでペストが広まり始め、感染のピークを越える迄の一部始終が、驚く程リアルに描かれて居る。
殊の始まりは1664年の晩秋。ロンドンで突然、2人の男が疫病で死んだ。人々は上を下への大騒ぎと為ったが、その後数週間に渉って疫病死が報告され無かった為、平穏を取り戻す(実際には疫病死は増えて居たが、他の病気に依る死に紛れ込んで居た)その後、疫病死が在ったのと同じ界隈で死者が増え続け、人々は不安を募らせたものの、少し死亡者が減るとロンドンは未だ健全だと多寡を括った。
そうこうして居る内に、翌年5月の終わりには、手の着けられ無い程疫病が市中に蔓延し、夥しい数の人が亡く為り出した。深刻な事態を直視せざるを得なくなった人々は、色々な噂が飛び交う中で、何とか疫病から逃れ様とするが・・・
悪疫と云う巨大な不条理の前で
感染拡大初期に、動揺を抑えながら成り行きを見守って居る人々の様子は、少し前の私達と重なる。死者数の増減に一喜一憂し、出来る事なら大事に至ら無いで欲しいと願って居たのだろう。
『ペスト』は主人公のH.F.氏が、悪疫に見舞われたロンドンの様子を仔細に観察して記録する形式を執った小説である。デフォーは『死亡週報』等実在の記録を綿密に検討し、体験者から状況を委細に渉って聞いたと云う。その為、作中に描かれた内容は可能な限りの現実の資料に基づいて居ると考えられて居る。1973年に作家の大江健三郎氏はデフォーの『ペスト』に付いて次の様に記した。
「デフォーの日誌が記録するのは、悪疫と云う巨大な不条理の前に立たされる事に依って、人間として赤裸に一人ソコに実在して居る事実に直面せざるを得なかった人々の日常である。悪疫に閉ざされた大都市の人間達は大いなる監禁状態に在るが、その中では恐しい程に自由だった」(「悪疫年」より)
当時の「自由」とは、例えば、教会の前で神を愚弄するとか、死を予感して居乍ら神の摂理と恩寵を信じ続ける、と云った事を指す。信仰が生活の中心に在った中世ヨーロッパの人々と現代の日本に暮らす人々では、科学的な知識や社会背景、心の拠り処は大きく異なるだろう。
しかし、史実に基づく貴重な資料として読み継がれて来たこの本から、私達が今直面して居るのと好く似た困難に、数百年前の人々がどう向き合ったのかを知る事が出来る。
デマに翻弄される市民達
現代と重ね合わせて見ると興味深く思われる場面を、幾つか挙げてみよう。感染の危機を身近に感じたH.F.氏が一番初めに考えたのは「ロンドンに残留すべきか、逃げ出すべきか」「店を閉め無いで商売を続けて行くにはどうしたら好いか」「どう遣って無事に切り抜け生き通せるか」と云う悩みだった。ドレも今、日本中から漏れ聞こえて来る嘆き節ととても好く似て居る。
パニックに陥るとデマを信じてしまうのは、トイレットペーパーを買いに走った現代人だけでは無い。17世紀のロンドンでは、貴族等余裕の有る人々がアッと云う間に郊外へ逃げ出す様子を見て、疎開出来無かった貧しい人々は疑心暗鬼に為った。
そして疫病が流行る前、数ヶ月に渉ってロンドン上空に現れた彗星を思い出し、それが恐るべき異変の前兆だったと受け止め、恐怖に囚われた。その結果、予言・占い・巷間の俗説を信じた。政府当局は取り締まりを始めたが、人々の不安は解消されず、イカさま医者や香具師(やし)怪し気な薬を売って居る老婆の後を追っ掛け廻し、薬を山の様に買い込んで居たと云う。
封鎖に関しては、中世の方がズッと思い切ったものだった様だ。疫病の蔓延を防ぐ為感染者専用の病院へ移された病人も居たが、特に感染が急速に拡大した時期に感染拡大への抑止効果が在ったのは「家屋閉鎖」・・・発症して無い家人諸共患者の家を閉鎖する強引なもので、当時でも「残酷で非道な処置」と反感を買った。
こうした措置に付いてH.F.氏は「疫病の発生した数箇所の通りで、早速その感染家屋を厳重に監視し、患者が死んだと判るや否や、直ちにその死体を慎重に埋葬した処、その通りでは疫病はピタリと止んでしまったのである」「一旦猖獗(しょうけつ)を極めてしまうと、その終息の仕方も早い事が判った。早手廻しに家屋閉鎖と云った手段を執った事が、疫病を阻止するのに与って大きな力が在ったらしいのである」と、記録して居る。
エンターテインメントも禁止に・・・
外出自粛を徹底し、ウィルスとの接触を阻止した人も居た。
「病気の蔓延を見越した者の中には、家中の者全部の食糧を充分に貯えて、家の中に引っ込んでしまい、マルで生きて居るのか死んで居るのか判ら無い位、全然世の中から姿を晦まして、疫病がスッカリ収まった頃、ヒョッコリと元気な姿を現した人間も多かった」
結果としては「この方法が、色々な事情で避難する事も出来ず、田舎に適当な疎開先も持た無いと云った人々に取っては、一番有効かつ確実な手段であった事は疑う余地が無い」と高く評価している。
これはマルで、長引く外出自粛で私達のストレスが溜まって来た時にStay at homeの意義を再認識させて呉れる助言の様にも思える。他にも、芝居や歌舞音曲・剣術試合等の「雑踏を招くような催物」はいっさい禁止、宴会禁止、酒楼の取り締まりといった決まりごとがあった。人々の心を和ませる筈のエンターテインメントや歓楽街を避け無ければ為ら無いと云う悲しみは、数百年前の人達とも解り合えるものの様だ。
医師や看護者達の献身に対する感謝の気持ち等、本書には他にも興味深いエピソードが数え切れ無い程描かれて居る。新型コロナウィルスとの戦いが終息するには、未だ暫く時間が掛かりそうだ。先人達の経験を手掛かりにして、今を生き抜く手立てをジックリ考えてみては如何だろうか。
中公文庫 編集部 以上
コロナ危機で露呈 日本政治は「家族」への想像力が貧し過ぎる
コロナ危機で露呈
日本政治は「家族」への想像力が貧し過ぎる
〜現代ビジネス 森山 至貴☟ 4/24(金) 7:01配信〜
家族はコロナ対策の「ハブ」
この処、ジョギングする人だけで無く、手を繋いで歩く男女のカップルも街中に増えたと感じる事は無いだろうか。若年層だけで無く、中高年の男女カップルも手を繋いで仲睦まじく歩道を歩いて居る。新型コロナウィルスの流行が収束の気配を見せ無い現在、繁華街に出掛ける事が出来無いのだから近所を散歩でも、と云う人が多いのは十分に理解出来る。
人と人の物理的な接触に現在の私達が可成り注意を払って居るからコソ、手を繋ぐと云う行為が何時も以上に目に着くと云う事も有るだろう。
「三密」を避けるとか、他人と距離を空けてジョギングするとか、人と人が物理的に遠ざかる様私達の多くは結構な努力をして居る。そう遣って努力をして居る私達の中には、他人が自分と同じ様に努力をして居ないのを見ると遂非難したく為ってしまう人も居るかも知れない。
しかし、手を繋ぐ男女のカップルを目撃して「私はこんなにシンドイ思いで努力をして居るのに、他人と密着する等怪しからん」と憤ったりするだろうか。恐らく殆どの人はし無い。多くの場合は「アノ二人は夫婦」と即座に判断し、目撃した事すら忘れてしまうだろう。本当は二人の関係性等判りはしないのだが、だからと云って手を繋ぐことを問題視したりはしない。大人と子供が密着して歩いて居てもそうだ。「他人の子に感染させたらどうするのだ、怪しからん」ナンて思わ無い。「親子連れなんだな」以上である。
回り諄いのでマトメてしまおう。そもそも「家族」が密着するのは好く有る事だし、問題無い。様々な活動を控える様要請される現在に於いても「家族」での活動は例外であって、且つ後ろ指をさされ無い「普通」のことなのだ。
勿論「家族」での活動に対してこうした態度を取るのは、人々が自分達に都合好くものを考えて居るからでは無い。国や専門家もそれに「お墨付き」を与えて居る。厚生労働省HP上の「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」にも「家族以外の多人数での会食を避けること」と、家族を例外とする記述があるし、公衆衛生の専門家が「家族で散歩するのは好い」と述べて居る。
但し、好く考えれば、同居して居る家族は元々濃厚接触して居るから互いに感染させても仕方無い、と云う事には為ら無い。職場等で感染者と濃厚接触した人が家で経過観察する場合も、同居の家族とは室内でも物理的距離を保つ様保健所から指導される。
遠方に離れて暮らして居る家族為らば尚の事、移動を伴う物理的接触は避ける様求められる。里帰り出産も、実家を離れて大学進学した途端オンライン授業に切り替わって心細く為った大学生の帰省も、自粛を余儀無くされて居るではないか。逆に、ルームシェアして居る同居人と連れ立って散歩する事は公衆衛生学上問題無い(し、勿論自粛を要請されては居ない)筈だが、行政文書にも専門家のアドバイスにも当然その様な居住形態への言及は無い。
ここから見えて来るのは、新型コロナウィルスへの対策に於いて「家族」は科学的にも政策的にも重要な要素の一つで有る事、そして、文脈に応じて異なる定義を与えられる事に依って様々な「ずれ」を含みながら使われて居ると云う事だ。雑駁に言ってしまえば、家族は曖昧な形のママ新型コロナウィルスを巡る政治の要(かなめ)ハブ(結節点)に為って居るのである。
本稿では、新型コロナウィルス対策に於いて家族と云う関係性にどの様な役割が負わされ期待されて居るかを、幾つかの関連する言葉や事例に着目して考えてみたい。更に、そこで想定され利用される曖昧な家族像は「平時」に於いて政治が家族を様々な仕方で宛てにする事態と地続きで有る点に付いても考えてみたい。
「マスク配布」から見えること
家族は新型コロナウィルスを巡る政治の要である。その事を最も好く示すのが、関連して用いられる「世帯」と云う言葉である。ここで問題。「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」(4月7日閣議決定)の決定に依り、どの様な世帯にマスクが2枚ずつ配布される事に為ったか、知って居るだろうか?
「どの様なも何も全世帯だろ」と思った読者の皆さん、申し訳無い。これはそもそも問題が悪いのだ。私も指摘されて気付いたのだが、国の方針に依れば、マスクは「世帯」に配られるのでは無い。一つの「住所」に付き2枚配られるのだ。厚生労働省の行政文書の何処を見ても、書いて有るのは「全戸配布」と云う表現ばかりである。
だから、2世帯以上が一つの住所に住んで居る場合でも、マスクは2枚しか届か無い。配布枚数決定と送付のコストを考えての判断では有ろうが、必要な人にマスクが届か無い事態が頻発する事は間違い無いだろう。そもそも人々が必要として居るのはマスクなのか、と云う疑問もあるが。
しかし此処で考えたいのは別の問題だ。この政策、本当に「住所」だけに関係して居て「世帯」や「家族」の有り方は関係無い、と言えるものなのだろうか。実は、配布されたマスクの裏面にはQRコードを使って「好く有る質問と回答」のHPに誘導する文面があり「2世帯同居の方など」もソコに誘導される。しかし実際にHPを見てみると、書いて有るのは「家族の人数が多く、2枚で足り無い場合」の「不足する世帯への対応」に付いてだ。「戸(住所)」の話が「世帯」や「家族」へと横滑りして居るのがお判りだろうか。
「1世帯2枚に為って居ないではないか」と云う意見を交わせる様厳密さを期しながらも「住所」を用いた政策は、緩やかに「世帯」や「家族」に軟着陸させられ、人々の暮らしとの接点を形成する。矢張り家族は此処でも政治の要に為って居るのだ。だからコソ、この政策が想定して居ない家族を生きる人に取っては、マスクを配ると云う取るに足り無い・・・ものでしか無いだろう、矢張り・・・政策ですら傷をもたらすものに為る。
例えば同居している同性カップルで有る。散々「そんなものは正しい家族の有り方では無い」と非難され、同性婚すら認められ無いにも関わらず、かと云って配られるマスクは4枚では無く2枚で「こんな時だけ1世帯扱いかよ」と憤れば「嫌、一つの住所に2枚配って居るだけですから」と梯子を外される。
脇を見れば「家族の人数が多い」「2世帯同居」の家族等への対応は予告され、自分達も2世帯だが、2人暮らしなら人数が少な過ぎて対象とは為ら無いだろうと嘆息する。
家賃負担を減らす為にルームシェアしている学生やフリーター・非正規労働者の中にも同じ落胆や失望を抱える人が居るだろう。想定されて居る家族の形から零れる者に取っては、そう云ったひとつひとつの経験は、新型コロナウィルスそのものに対する恐怖や不安と同じ様に精神に堪えるのである。
この様に、今回の新型コロナウィルス対策は、政治がどの様な家族・世帯を典型的なものとして想定して居るのか、その裏面として、そこから零れ落ちる人達への想像力を如何に欠いて居るかを明らかにするものでもある。
「10万円給付」政策のヤバさ
象徴的なもうひとつの事例が、1人当たり10万円が給付される特別定額給付金(仮称)制度だ。4月21日現在発表されて居る概要に依ると、1人当たり定額の給付で有るにも関わらずこの制度に於いては「世帯」が極めて重要な役割を果たして居る。何故なら、この制度の「受給権者」は世帯主だからだ。
「世帯主がマトメて受け取ると、仮に世帯主がDV夫(妻でも構わない)だった場合、自分で使い込むと云う新たな経済的DVが発生してしまうから」と云う懸念が真っ先に思い浮かぶが、それだけでは無い。ソモソモ、世帯主以外の人間、多くの場合は妻や子供が、自分に給付される金額を自分で請求する権利すら無い(か、少なくとも想定されて居ない)のだ。
世帯主は圧倒的に男性が多い現在「妻や子供の所有物は夫の所有物」と云わんばかりの、イエ制度も真っ青の制度が運用されようとして居る事自体驚愕であるが、現政権がこれ迄どの様に家族を捉えて来たかと云う点から考えれば、残念ながらその極めて保守的な家族観の延長線上に有るからコソ、この様な形の制度に為ったことは明らかであろう。
とは云え、政権の家族観が今困って居る人を十分に支える事より優先されて好い筈が無い。制度が滑り出す際には、より平等で有効なものへと練り上げられて居る事を強く願わずには居られない。
こうした給付の方法を見て居ると、現在の政治に取って、家族とは、当然の様にお互いを助け合う様な存在で有るとイメージされて居るのかも知れない。しかし、実態がその通りであるとは勿論限ら無い。先程DVの可能性に付いて取り挙げたが、実はこれは可能性では無く現実の問題である。
外出自粛の影響でDV被害の相談が増加して居り、対策として内閣府がDV相談+(プラス)と云う窓口を4月20日に立ち上げた。「共に一つの住居に暮らす」事は、常に安全を意味するとは限ら無い。
家族が負わされて居るもの
又、家族関係が良好なものであったとしても、新型コロナウィルスへの対抗の拠点として盤石で有るとは決して言え無い。何故なら、平時に於いて家族が負わされて来た負担の過重さが、今回の危機を契機にしても具体的な問題を引き起こして居るからだ。
アナウンサーの赤江珠緒さんが、夫のPCR検査に際して「親が共倒れに為った場合の子供の面倒は誰が見るのか」「未だ解決策も思い付いて居ません」とお書きに為った手紙が記憶に新しい人も多いだろう。その後、赤江さんご自身も検査結果が陽性で有る事が判明し、夫の入院中に自宅隔離しつつ検査結果陰性のお子さんを一人でケアして居ると云う事が明らかに為った。
元々私は赤江さん出演のラジオ番組の熱心なリスナーだが、それを割り引いたとしても矢張り、この話を聞くと、本当に胸が潰れる様な思いがする。
日本は子育てへのサポートが貧しいとは頻繁に指摘される事だが、そうした平常時に於ける家族を巡る歪みが、こうした形で既に噴出して居るのである。平時から人的・物的なリソースが潤沢で有れば避けられたであろうリスクの有るケア労働を、家族が抱え無ければ為ら無いこの状況は、何としてでも改善させ無ければ為ら無い。
家族に何が課され、負わされるのか
新型コロナウィルスを巡る政治の要、ハブとしての家族に付いて、幾つかの事例を取り上げながら考えて来た。ウィルス対策は、医学や疫学の領分でもあるが、人々の行動やライフスタイルの変容や制限に掛かわざるを得ない点に於いて、極めて政治的なものでもある。そして、その政治の要に、私達に取って極めて馴染み深い現象としての家族が存在する。
従って、私達は、曖昧さがあり重荷を負わされて居て、歪や歪みが有ると云う事を知った上で、家族と云う制度を何とか乗り熟しながら新型ウィルス対策を成功させ無ければ為ら無い地点に今立って居る。しかし忘れては為ら無いのは、この曖昧さ・重荷・歪は、新型コロナウィルスに依って引き起こされたものでは無いと云う事だ。それは、新型コロナウィルス以前の私達の「普通」の日常に、既に潜んで居たものに過ぎない。
だから私達は、新型コロナウィルス対策の名の下に、家族に何が課され負わされるのかを注意深く見詰め、時に正し、そして忘れずに居なければ為ら無い。家族と云う一つの政治的制度が、収束後の私達の生を苦しく、ミスボラシクするものに為ってしまうか否かは、他の誰でも無い今の私達の、家族を巡る一つ一つの政治的決断に懸かって居るのだ。
森山 至貴 早稲田大学准教授 早稲田大学文学学術院准教授 1982年神奈川県生まれ 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(相関社会科学コース)博士課程単位取得退学 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻助教を経て 現在、早稲田大学文学学術院准教授 専門は、社会学 クィア・スタディーズ 著書に『「ゲイコミュニティ」の社会学』『LGBTを読みとくークィア・スタディーズ入門』
以上