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2021年11月12日

江戸時代の遊廓で女性達が体現して居た「色好み」



 「床上手」とは如何云う意味か・・・

  江戸時代の遊廓で女性達が体現して居た「色好み」



   11-11-10.png 1/11(木) 15:16配信



 11-11-20.jpg

    豊国『浮絵新吉原夜遊之図』に見える吉原入り口の面番所  出典『遊廓と日本人』11-11-20


 過つて日本には「遊廓・ゆうかく」と云う場所が在った。ソコでは「遊女」と云う女性達が客を取り金銭を稼いだ。
 法政大学名誉教授の田中優子さん「遊女達は、日本文化の核心で在る『色好み』の体現者として、豪商や富裕な商人・大名・高位の武士達と教養の共有を果たして居た」と云う・・・


 本稿は、田中優子『遊廓と日本人』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。



        11-11-21.jpg

              法政大学 名誉教授 田中 優子 11-11-21


 ■京都の文化人で豪商の正妻に為った吉野太夫  

 一体、遊廓に暮らす遊女とはドンな人達だったのでしょうか? 江戸時代の遊廓は平安時代以来の日本文化の一つの表現でした。それは遊女の在り方に最も現れて居ました。一例を挙げます。  

 江戸時代の京都の島原遊廓に吉野太夫と云う人が居ました。太夫(たゆう・・・後に〔花魁・おいらん〕〔呼び出し〕とも言う)とは、遊廓で最高位の遊女の事です。吉野太夫は或る豪商から結婚を申し込まれました。しかしその豪商の親族に反対されましたので、諦めて郷里に帰る事にしました。そして最後だから、とその親族の女性達を集めて持て成したのです。  

 前掛けをして自ら立ち働き、女性達が集まると琴を弾き・笙(しょう)を吹き・和歌を詠み・茶を点(たて)て・花を生け・時計の調整をし・碁の相手をし・娘さん達の髪を結い・面白い話で人を引き込みました。  
 因みに「時計の調整」とは、江戸時代の大名家や大店にだけ在った和時計の歯車の調整の事です。和時計は太陽の動きに時計を合わせるので常に調整が必要でした。この技術を持つと云う事は、大名家や大店の夫人並みの見識が在ると云う事でした。  

 その様な吉野を見て遊女に偏見を持って居た親族の奥方達は、吉野の面白さ・優しさ・品格・教養にスッカリ引き込まれ、寧ろ結婚を勧める様に為りました。この吉野は実在の人物で、京都の文化人で豪商で在った佐野紹益(さのしょうえき)の正妻に為った人です。

 ■教養が在り人柄も好い「何もかも揃った人」  

 実際、多くの太夫は和歌を詠み、手紙を見事な筆跡で書きます。俳諧、狂歌も出来、漢詩を作る事も在りました。平安時代の貴族の様に髪や着物に伽羅(きゃら)(輸入された香木)を焚きしめ、着物のセンスが在り着(き)熟(こな)しが上手く人前で食事をしません。
 後に芸能は芸者達に任せられますが、それ迄は琴や三味線を弾き・唄を唄い・踊りや能の舞も披露して居ました。  

 太夫(たゆう)と云う呼称は、初期の遊女達が能の舞を見せる芸能者で或る「能太夫・のうだゆう」だったので、ソコに由来すると言われて居ます。太夫達の人柄も後世に伝えられて行きます。人に物を強請らず・欲張らず・鷹揚でユッタリして居るのが太夫の特徴でした。  
 それ程何もかも揃った人が本当に居たのだろうか?と思うかも知れませんネ。確かに、これは一種の理想像だと思われますが、実在の太夫に付いて語り伝えられ、それ等が集合した像で在る事は確かです。

 ■「色好み」の日本文化  

 此処に並べた遊女の能力や人柄は、和歌や文章や筆等平安時代の文学に関わる事、琴や舞等音曲や芸能に関わる事、中世の能や茶の湯や生け花・漢詩・俳諧等武家の教養に関わる事、着物や伽羅や立ち居振る舞い等生活に関わる事等、殆どが日本文化の真髄(しんずい)に関係して居ます。  

 そしてこれ等の、特に和歌や琴や舞等の風流・風雅を好む人を平安時代以来「色好み」と呼んで居ました。「色」には恋愛や性愛の意味も在りますが、元々は恋愛と文化的美意識が組み合わさったもので、その表現としての和歌や琴の音曲を含むものだったのです。  

 遊女が貴族や大名の娘の様に多くの教養を積んで居たのは、日本文化の核心で在る〔色好みの体現者〕と為り、豪商や富裕な商人・大名・高位の武士達と教養の共有・・・詰まり色好みの共有を果たす事が求められて居たからでしょう。これ等の伝統的文化に遊ぶ事コソが、彼等に取っての〔遊び〕だったのです。  
 しかし遊廓にはもう一つの側面が在ります。それが売色です。色を好み趣味を共有する、その「色」の中には恋愛・性愛が含まれました。  

 性愛そのものは、人類の存続を支えるもので人の愛情の根幹を為すものです。恋愛は人間の精神に取って大切な感情です。だからコソ人権に価値を置く時代に為れば、恋愛や性愛は力の不均衡・不平等の基では成り立た無いのです。独立した人格を認め合い、尊敬し合う関係の中で初めて価値を持つのです。  

 遊女の物語の中には、客との間に正に友情と言えるものを作り上げる話も在ります。しかし遊廓の制度そのものは既に述べた様に、女性を、借金の抵当や担保として位置付ける制度でした。  
 借金をするのは大抵の場合家族で、遊女達の多くは家族の為に借金を返し終わる迄、又は最初に交わした契約の中に在る年季の終わる迄遊廓で客を取り続けます。稀に女性が芸能を楽しむ為に客として来る例外も在りますが、殆どは男性で、茶屋を介して遊女の抱え主に金銭を支払います。
 遊女の抱え主は、借金のカタが逃げ無い様管理を怠りません。そしてコノ制度は、幕府に公式に認定されて居た「公娼制度・こうしょうせいど」でした。

 ■女性が遊女に為るのはドンな時か  

 これは女性の人生に取っては、一時的な拘束ですので決して奴隷制度では在りません。大いに稼げば早く辞める事が出来ますし、誰かが借金を全額払って呉れれば直ぐにでも遊廓を出られます。その後、吉野太夫の様に結婚する人も居ます。しかし一時的にせよ、自由を拘束されます。  

 では、そう云う遊女達を抱える遊廓は何故存在出来たのか? その根本を考えると、女性が単独で働く場所が限られて居る事に気付きます。
 江戸時代の農漁山村では、家族全員で働きましたし商家でも夫婦で働きました。都会でも殆どの女性が何等かの仕事を持って居ました。専業主婦と云う存在は在りませんでした。質素でもコツコツと生活の為に働く道は女性にも開かれて居たのです。  

 それでも遊女に為る選択をし無ければ為ら無い場合が在るとしたら、それは一度に大きなお金が必要な時です。そう云う時、自分が遊女に為る事で両親や兄弟が安心して暮らせるとしたら、情と思い遣りが在る程、その道を選ぶ女性は居たでしょう。  
 例え結婚したとしても、経済的貧困で家庭生活が成り立た無く為る事も在り、そう云う時は既婚者でも遊女に為りました。

 身分に関わり無くそう云う事態は起こり得て、江戸時代の初期の遊女には、お家取り潰し等で職を失った武家の娘が多かったと言われます。  
 今は家を購入したり家族が病気に為る等、手元に在るお金で足り無い時、正規の会社員で在れば女性で在っても銀行はお金を貸して呉れます。借りたお金は給与から返して行けば好い訳です。ソコには企業の給与に対する「信用」が在ります。

 しかし江戸時代では、女性が大きなお金を借りる時、最も信用が在るのが遊廓での働きだったのかも知れません。ソコでは毎日大きなお金が動くからです。貧困に立ち向かう時、女性は如何生きたら好いのか?どの様な道が在るのか?  
 江戸時代だけで無く、その多くが非正規雇用者で在る現代日本の女性達も依然として同じ問題を抱えて居るのは驚くべき事です。

 ■井原西鶴は女性を如何見て居たか  

 処で『世間胸算用』で井原西鶴は、遊女では無い普通の女性(地女・ちおんな)を辛辣に書いて居ます。気持ちが鈍感で物言いがクドクて、卑しい所が在って文章が可笑しく、酒の飲み方が下手で唄も唄え無くて、着物の着方が野暮で立ち居振る舞いが不安定で歩けばフラフラして、一緒に寝ると味噌や塩の話をして、ケチで鼻紙を一枚ずつ使うし、伽羅は飲み薬だと思い込んで居る、と。詰まりこれをヒックリ返したのが遊女でした。  
 香水の無かった当時、髪や着物に伽羅を焚き締めた遊女はとても良い香りがして、それだけで天女の様な存在だったのですが、それだけで無く、人の気持ちに敏感で物欲が無く、余計な事を言わずにサッパリとした物言いをし、酒を適度に飲み、唄が上手く、着物のセンスが抜群で、素晴らしい手紙を書き、腰が座って背筋の伸びた美しい歩き方をしたのです。実際に遊女は客の前でものを食べる事と、金銭に触れる事、又金銭の話をする事等を禁じられて居ました。

 ■「遊廓言葉」の一部は後に上流階級の山の手言葉に  

 初期の遊女は三味線、唄、踊りも得意でしたが、既に述べた様に、次第に芸能の分野は芸者に任せる様に為りました。その結果、吉原芸者は他の何処の芸者より優れた芸人に為ったのです。  
 しかし芸能を行わ無く為った後も、遊女は和歌、俳諧、漢文等の文学的な能力が在り、文人達とそう云う話も出来ましたし、着物の上に武家の女性の様な打ち掛けを着けました。詰まり正装をして居たのです。又独特の語尾を持つ人工の遊廓言葉を話しましたが、その中で「ざんす」「ざいます」等は後に上流階級の山の手言葉に為ります。教養高く優れた人柄の遊女が沢山居て文学にも書かれました。

 ■「床上手」が意味して居た事  

 〔床上手〕と云う事も遊女の大事な要素でした。此処では、井原西鶴『好色一代男』と『諸艶大鑑・しょつやたいかん・好色二代男』に登場する遊女を何人か見てみましょう。  

 野秋と云う遊女に付いては「一緒に床に入ら無ければ判ら無い処が在る」と書いて居ます。肌が麗(うるわ)しく暖かく、その最中は鼻息高く、髪が乱れても構わ無い位夢中に為るので、枕が何時の間にか外れてしまう程で、目は青み掛かり脇の下は汗ばみ、腰が畳を離れて宙に浮き足の指は屈(かが)み、それが決してワザとらしく無い、と。  

 もう一つは、度々声を挙げ乍ら、男が達しようとする処を九度も押さえ着け、ドンな精力強靱な男でも乱れに乱れてしまう処だ、と。更に、その後で灯を灯して見るその美しさ。別れる時に「さらばや」と言うその落ち着いた優しい声。これが遊女の〔床上手〕の意味でした。  

 初音と云う遊女は、席がしめやかに為ると笑わせ、通ぶった客は丸め込み、初心な客は涙を流さんばかりに喜んだそうです。床に入る前には、丁寧に何度もうがいをしてユックリ髪を解かし香炉で袖や裾を焚き締め、横顔迄鏡に映して気を付けました。  
 世之介(『好色一代男』の主人公です)が眠って居ると「アレ蜘蛛が、蜘蛛が」と言ったので世之介は起きてしまいました。すると「女郎蜘蛛が取り付きます」と抱き着いて来て肌を合わせ背中をさすり、ふんどしの所迄手を遣って「今迄は何処の女がこの辺りを触ったのかしら」と言います。西鶴は、駆引きが類まれな床振りだと書いて居ます。

 ■被差別民の客が来れば、衣装に「非人の印」を縫い着けた  

 「床上手にして名誉の好きにて」と言われた夕霧は、化粧もせず素顔で素足、肉付きは好いのにホッソリと淑(しと)やかに見え、眼差しに抜かりが無く、声が好く、肌が雪の様だったそうです。
 実は初期の遊女は髪に簪(かんざし)も殆ど着けず多くの人が化粧もしませんでした。飾りが一切要ら無い位の本来の美しさを目指して居たのです。夕霧は更に琴、三味線の名手で、座の捌(さば)きに卒(そつ)が無く、手紙文が素晴らしく、人に物を強請らず、自分の物を惜しみ無く人に遣り、情が深かったそうです。

 また三笠と云う名の遊女は、情が在って大気(大らかで小さな事に拘ら無い事)、衣装を素晴らしく着熟し、座は賑やかにしたかと思うと床ではシメヤカナ雰囲気を作ります。誰にでも思いを残させ、又会いたいと思わせる人でした。  
 名妓達の良さとして特に強調されるのは、下の者に対する優しさでした。夕霧は八百屋や魚屋が遣って来ても決して馬鹿にする事無く喜ばせました。

 三笠は、客の召し使いや駕籠掻きに迄気を遣い、禿(遊廓で修行中の少女達)が居眠りをすると庇って遣りました。金山と云う遊女は、或る被差別民の客が身分を隠して遣って来てそれが噂に為ると、衣装に敢えて欠け碗(わん)、めんつう(器)、竹(たけ)箸(はし)、と云う非人の印を縫い着け「世間晴れて我が恋人を知らすべし。人間に何れか違い在るべし」と言い放ったと云うから見事です。
 人権派の遊女、と云う処です。吉野の話は既に冒頭で紹介しましたネ。遊女の魅力は第一に人間的魅力だったのです。

 ■客と別れる為の作戦  

 遊女は、馬鹿にされたら引っ込ま無いと云う強さも必要でした。客が他の遊女に惹かれた時は、チャンと理由を言って遊女の名誉を傷着ける事無く綺麗に別れる必要が在りました。しかし時にはその遊女の欠点を探し(ナカナカ見付かりませんが) それを理由に別れる客が居ます。それを〔口舌・こうぜつ〕と言い卑怯な遣り方です。遊女は自力で自分の名誉を守ら無くては為りません。  

 吉田と云う遊女は、或る客が口舌で別れようとして居る事を見抜き方法を考えました。吉田が座敷を出た処でオナラの音がしたので「これぞ好い機会!」と客は喜びます。別れる理由にしようとしたのです。しかし彼女が同じ廊下を歩いて帰って来た時、フト立ち止まって迂回して座敷を回りました。客は「アレ?」と思います。サッキのは廊下の軋みだったのだろうか?
 吉田は判断に困って居る客に「今日限り愛想が尽きました」と自分から別れ話を切り出します。その噂は遊廓中に広まって客の方が面目を失ったのです。決着が着いた後、吉田は「いかにも(おならの)扱き手はこの太夫じゃ」と言い放ったのでした。
 
 遊女は、誰にでも惚れて居る振りをする訳では在りません。小太夫と云う遊女は客から「惚れて居ると云う誓紙を書け」と言われましたが言う通りにしませんでした。
 「貴方は大変良くして下さるのですが、どう云う訳か私は左程に思え無いのです。噓を着く訳に行きません。惚れて居無いと云う誓紙なら書きましょう」と言ったそうです。その後も二人はとても好い関係が続きました。  
 やがてその客が遊廓通いはもう辞めにすると云う時、小太夫はその男性の紋を付けた着物を10枚作らせて贈り、遊女に為った時から今日迄の事を書き綴った「我が身の上」と云う文章を彼に捧げたのです。

 男として好きに為れ無くとも、噓を着かず世話に為った恩は忘れず、長い間別れの時の準備を怠ら無かったのです。遊女と客の関係でも男女の友情は可能だったのです。



        
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             法政大学 名誉教授 田中 優子 11-11-22 

 田中 優子(たなか・ゆうこ) 法政大学 名誉教授  1952年神奈川県横浜市生まれ 法政大学社会学部教授 社会学部長 法政大学総長等を歴任 専門は日本近世文学 江戸文化 アジア比較文化 2005年紫綬褒章受章 著書に『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫/芸術選奨文部大臣新人賞受賞) 『江戸百夢 近世図像学の楽しみ』(ちくま文庫/芸術選奨文部科学大臣賞 サントリー学芸賞受賞)等多数 近著に『日本問答』『江戸問答』(岩波新書/松岡正剛との対談)など



 〜管理人のひとこと〜

 若い女学生に、遊郭の遊女の嗜(たしな)みを教える・・・人に褒められ尊敬され愛される女性に為って欲しいとの思いで、男性に愛され尊敬される素晴らしい遊女の話をしたのでしょう。心を込めて相手に接する事で、相手からそれ以上の愛情を込めた気持ちを貰えるのです。
 何か、非近代的な道徳観に溢れた物語の様に思いますが、敢えて不遇な遊女の中にも考え方一つで素晴らしい人格と愛嬌を備えた女性に為れるのだよと。そして、その様な女性こそが男性心から愛される幸せを掴めるのだよと・・・教えたいのでしょう。それはそのまま、田中教授が考える望ましい「女性の鏡」なのでしょう。














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