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2021年11月11日

〔出女〕だけで無く〔入り女〕もダメ 江戸時代の関所が女性には異様に厳しかった本当の理由

 

〔出女〕だけで無く〔入り女〕もダメ

 江戸時代の関所が女性には異様に厳しかった本当の理由


 
 11-11-10.png 11/11(木) 12:16配信 11-11-10


  11-11-11.jpg

       ※写真はイメージです   写真=iStock.com RichLegg 11-11-11


 江戸時代、日本各地には「関所」が在った。関所には、江戸に居る大名の妻子や母が逃亡するのを防ぐと云う機能が在ったが、実はそうした「出女」だけで無く、江戸に向かう「入り女」も厳しく調べられて居た。歴史作家の河合敦さんは「ソコには幕府の意外な思惑があった」と云う・・・

 本稿は、河合敦『関所で読み解く日本史』(KAWADE夢新書)の一部を再編集したものです。


     11-11-12.jpg



 ■男性に「関所手形」は必須では無かった  

 江戸時代、関所に入った旅人達はどの様に通過して行ったのだろうか。女性は特殊なので、先ずは男性の場合に付いて述べて行こう。  
 関所内は結構混雑して居て、入ってからも暫く待たされる事が多かった。イヨイヨ呼び出しを受けると、取り調べの場で在る面番所の前へ向かう。関所の役人達が縁側奥の部屋にズラリと並んで居るのがハッキリ見えて来ると、笠や被りものを脱ぎ手前で下座する。

 サテ、関所を通過する時には「関所手形」を見せる必要が在ると思って居る方も少なく無いと思うが、実は、男性には関所手形(証文・切手とも)は必須では無かった。とは云え、江戸時代の人々が旅行や出張する場合「往来手形」の方は原則必要だった。

 ■必ず持って居る必要が在った「往来手形」


 そう、関所手形と往来手形は違うものなのである。往来手形の方は、今で言う免許証や保険証・パスポート等、所謂身分証明書に当たるものと云える。往来手形には、名前と住所と年齢・檀那寺・旅行の目的・「横死した場合、何処に連絡し、ドンな葬り方をするか」と云った事が記載されて居た。
 往来手形の発行元は、農民や町人の場合、村の名主(庄屋)や町の家主・檀那寺・或いは奉公先や勤め先の主だった。藩士は藩庁から発行して貰った。  

 往来手形は身分証で在ると共に、旅の途中に万一の事が起こった時保護を受ける為のもので在ったのだ。何れにせよ、関所手形と往来手形は別物なのである。

 ■幕府が暗に関所近くの旅籠屋に〔特権〕を付与  

 この関所手形に付いて、研究者の渡辺和敏氏は次の様な指摘して居る。  

 男性は、制度的には関所手形は不要で在った。しかし通過する際に関所役人から厳しく取り調べられる事も在るので、居住地の名主や旦那寺、時には関所近くの旅籠屋等で関所手形を書いて貰ったり、自分で書いたりする事も在った。(『東海道交通施設と幕藩制社会』愛知大学綜合郷土研究所) 何と、関所手形を関所近くの旅籠屋に作成して貰ったり、時には自分で勝手に書いたりしたと云うのだ。  

 特に、関所近くの旅籠屋や茶屋が関所手形を発行して居た事に関して、渡辺氏は「関所では男性の通行に関所手形が不要で在るが、関所近在の旅籠屋等が故意に誤った情報を流して旅行者から金銭を集めて居たのかも知れ無いし、実際に購入した関所手形を見せる事に依り関所の取調べが簡単に済んだ可能性が在る」(前掲書)と記して居る。  

 コレも凄い話で在る。捉え方に依っては、関所の役人が近隣住民と結託して行った詐欺紛(まが)いの商法ではないか。 コレに付いて渡辺氏は「関所側が既に慣例化しつつ在った近在の人々に依る旅人への関所破りの斡旋を止めさせる為、暗に関所手形の販売と云う特権を付与して居た可能性も否定し切れ無い」(前掲書)と推測して居る。

 ■女性には「女手形」が必要だった  

 一方女性が関所を通過する場合はそう簡単では無かった。江戸方面から関所を通って西へ向かう女性の事を「出女」と呼ぶが、江戸幕府は出女を非常に厳しく臨検した。謀反を企む大名の妻子等が密かに逃亡して来る可能性が在るからだ。  
 その為女性の場合は、往来手形の他に関所手形が必要だった。この女性の関所手形を「女手形」と呼ぶ。女手形は、江戸時代の元和期(1615〜24年)には既に存在して居た事が判って居る。

 ■日本最古の「女手形」に書かれて居た事  

 渡辺和敏氏に依れば、元和元(1615)年9月のものが最古だとする。以下、それを紹介しよう。  

 女六人、厩橋(うまやばし)より三州迄参候、是ハ西尾丹波御理候間(にしおたんばおりこうあいだ)、無相違可通候、以上 彦九兵衛  (『東海道交通施設と幕藩制社会』)  

 この女手形は、六人の女性が上野国厩橋から三河国へ向かう際、幕府の代官で在る彦坂九兵衛光正が、新居関所に対して発行した女手形で在る。
 渡辺氏は、上野国群馬郡(うえのこくぐんまぐん)に知行地を持って居た西尾丹波守忠永(にしおたんばのかみただなが)が、自らの出生地で在る三河国西尾(みかわこくにしお)に女達を赴かせる為、幕府に依頼したのではないかと推察して居る。

 只、この時期には未だ女手形の形式が確り定まって居ない。後に女手形には、通過する人数・乗物の有無・出発地と目的地に加え「禅尼・尼・比丘尼・小女・髪切の区別を明記し無ければ為ら無い (『館蔵図録T 関所手形』新居関所史料館 と云う事に為った。と云っても、今述べた女性の区別が判り難いので簡単に捕捉説明しよう。
 
 先ず禅尼(ぜんあま)だが、これは夫を亡くした後家や姉妹等で髪を剃り落とした女性を云う。尼(あま)は、普通に剃髪した女性の事。比丘尼(びくに)とは、伊勢上人(いせしょうにん・伊勢国宇治山田の尼寺の慶光院の住職)や長野善光寺の弟子、或いは身分の高い人物の後家の使用人、その他熊野比丘尼等の女僧。
 髪切とは、髪の長短に依らず髪の先を切り揃えて居る女性。小女とは15・6歳迄の振袖を着て居る女子を指す。  

 只、当初は女性の個人的な事を書き込む事は少なく、もし書き入れたとしても、怪しい者では無いとか人身売買の対象では無いと云った程度で在った。しかし、寛政八(1796)年からは、貴賤関係無く全ての女手形に、通過する者の身分を書き入れる事に為ったのである。

 「出女」のみ為らず「入り女」にも厳しいチェックをするワケ  

 では、地方から江戸へ向かう女性(入り女)に付いてはどの様に対処したのだろうか。女性の通行を許して居る関所は、この「入り女」に付いても女手形の提示を求め、確り検閲する事が多かった。だが、ここで疑問が生じる。江戸に居る大名の妻子や母が逃亡するのを防ぐ為「出女」を厳しくチェックしたのは好く理解出来る。が、大名の統制策とは無縁なのに、如何して「入り女」の通過まで幕府は規制したのだろうか?  

 更に言えば、新居関所では「関所周辺の女性が一旦関所以東へ旅立ち、期限内に再び帰って居る事が明らかな場合に限って、関所奉行が手形を発行して居た。こうした手形を『通手形』と云った」(『館蔵図録T 関所手形』) と在る様に、関所の近隣に住む女性に付いても関所を越えるには女手形を必要とした。素姓や身元はハッキリ判って居るのに、だ。  
 この為「関所所在地の新居宿では、関所を隔てた浜名湖(今切渡船路・いまきりとせんろ) 対岸の村々との縁組は殆ど皆無で在った」(『東海道箱根関所と箱根宿』岩田書店) 事が判明して居る。

 ■何故幕府は、女性の移動に目を光らせたのか  

 この様に江戸幕府は、江戸から出て行く女を関所に監視させるだけで無く、女性一般の移動を関所に依って強く制限して居た訳だ。一体何故か。その理由の一つは、各地域の人口を維持する為で在った。地域の女性が他所へ移動してしまえば如何為るか。子供を生むのは女性故、当然、結果として人口は減ってしまう。
 それが農村で在れば、農業生産力にも影響を及ぼすだろう。だから幕府や諸藩は、女性を土地に縛り付け様としたのである。  

 これに加えて渡辺和敏氏は、幕府が元和年間に人身売買を禁止したにも関わらず、17世紀後半迄の借金証文に、借主が貸主に対して自分の女子を取られ売っても構わ無いと云う「人身売買に関連する様な文言が書かれた」ものが「各地に多く残って居る」こと、更に女手形の文中に「売買もの」では無いと云う記述が散見される事から「逆に社会的に『売買もの』も存在して居た可能性」を指摘し、関所が大名の妻子(人質)の逃亡の防止や人口減少の防止に加え〔女性の人身売買を検閲する機能が在った〕のでは無いかと論じて居る。  

 女手形には、発行者の印を押す事に為って居た。だから各関所には、幕府の留守居役や京都所司代等の発行者の印影(判鑑)が全て保管されて在り、通過時に女手形の印形との照らし合わせが確り為された。印の擦れ等も含めて入念なチェックだったと云う。  

 「敵の侵入を防ぎ、怪しい者を通さ無い」

 これが関所の第一の役割だが、時代に依って、又為政者の思惑に依って、関所は多様な役目・機能を持たされて居たのである。



        11-11-13.jpg


 歴史家 河合 敦(かわい・あつし) 1965年東京都生まれ 早稲田大学大学院卒業 高校教師として27年間教壇に立つ 著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など


 〜管理人のひとこと〜

 この文章を読み管理人は、江戸幕府の政治・行政のキメの細やかな政策を思い知らされた。詰まり行政が行う社会情勢のサンプリング・統計的な数値の適切な管理で在る。旧安倍政権下で日常的に行われた〔公文書の偽造〕とは異なり、実直な武士が管理する統計的数字は、これ以上も無く正確に計上された事で在ろう。
 この数字に依り行政官は、最小限必要で適切な政策を立案し上司に言上した事だろう。幕府の金庫は空っぽで原資は無かったかも知れ無いが、裕福な商人から税をフンダクリ困窮する庶民への救済に励んだ事だろう。女性の移動から現在・将来の社会情勢を読み解く・・・実に堅実なものである。























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