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2021年11月08日

明治維新の身分制解体後も 「遊郭」が残り続けた理由



 明治維新の身分制解体後も

「遊郭」が残り続けた理由


 11-8-2.png 1/7(日) 21:34配信 11-8-2

 解放令後も残った遊女と遊郭


 11-8-1.jpg

             遊女のイメージ(画像 写真AC) 11-8-1


 明治維新に依って江戸時代の身分制は解体され、四民平等の世の中と為りました。現在からすれば当たり前の変化かも知れませんが、身分在りきの社会で生きて居た当時の人に取って、コレは劇的な変化で在った筈です。
今回紹介する横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波書店)は、江戸が東京に変化して行く中で、その劇的な変化を生き抜いた市井(しせい)の人々の姿を紹介した本に為ります。

  仕事を失った旧幕臣の不動産を巡るサバイバル
  地主の代理人として土地や家屋を管理しつつ、捨て子や行き倒れの世話・道普請(みちぶしん 道路を直したり建設したりする事)等様々な公的役割も担って居た家守(やもり)達の地位の行方
 廃止令に依って賤民身分から解放された人々のその後

 など、本書は様々な人々の動きを追って居ますが、その中で1章を割いて取り上げられて居るのが、遊郭とそこで働く遊女達です。明治維新後、1872(明治5)年の芸娼妓(しょうぎ)解放令に依って遊女の人身売買は禁止されましたが、遊郭は結局残る事と為ります。
 人気漫画『鬼滅の刃』では大正時代の遊郭が描かれて居ましたが、芸娼妓解放令が在ったにも関わらず、遊郭と云うシステムは残り続けて居たのです。何故それが可能だったのか? 遊女達は芸娼妓解放令をどう受け止め、どの様に行動したのか? そう云った事を本書は教えて呉れます。

 人足役を負って居た遊郭


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     現在の吉原大門交差点(台東区千束) 右に「見返り柳」(画像 写真AC)11-8-3


 「身分」と云うと、私達は如何しても上下関係を考えてしまい勝ちですが、近年の近世史研究では 「同じ職分の人々の集団が、何等かの公的役割を担う事に依って社会的に認められ身分が成立する」(50ページ) と云う県方が生まれて居ます。
 例えば、農民達が集団で水利や入会地を管理しつつ年貢等の役を負う事で「百姓」と云う身分が形成されるのです。又江戸時代は、江戸の街に武家地と町人地が在った様に、身分毎に住む場所が決められて居たのです。

 実は吉原の遊郭もこうした身分集団に近いものが在りました。五つの町から為って居た新吉原遊郭は、幕府から遊女の公認を得る事と引き換えに、
  江戸城の畳替え
 すす払いの人足
  山王・神田両祭礼の傘鉾(かさぼこ)等の作り物
 と云った町人足役を負って居ました。更に吉原五町は、吉原以外での非合法売春の摘発の役目を担って居ました。

 こうした非合法の娼婦は「売女」と呼ばれて居り、17世紀にはこの摘発の中で武器を持ち出して戦ったと云う記録も残って居ます。この摘発で捉えた売女は各町が籤引(くじび)きで引き取り、町内の遊女屋が預かって使役する事が許されて居ました。遊女屋に取っては身代金無しで遊女を獲得出来るチャンスでも在ったのです。

 借金の担保にされた遊女


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 現在と明治初期の吉原周辺の地図(画像 時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)11-8-4


 しかし、その遊郭も18世紀後半から衰退して行きます。大名や豪商の遊興が減少し、大尽(だいじん)遊びの対象だった太夫(たゆう)・格子(こうし)と云った高級遊女は姿を消して行きます。遊女もその客も全体的に中・下層化して行くのです。  
 そんな中、19世紀の新吉原で続出したのが遊女達に依る放火でした。厳しい待遇に耐え兼ねた遊女達が抗議の放火を行ったのです。  

 遊女屋が遊女を調達するには30両程のお金が必要で、遊女屋の経営にはそれ為りの資金が必要でした。多くの遊女屋はその為に資金を借り入れたのですが、その担保と為ったのが遊女達でした。遊女達は財として扱われ時に換金・転売されました。  
 近世社会一般では人身売買は禁止されて居ましたが、遊女を扱う身分集団の中ではソレが黙認されて居たのです。

 遊女の自由を奪った抱え主


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 吉原遊郭で亡く為った遊女の遺体が捨てられた荒川区南千住の浄閑寺の新吉原総霊塔 「生まれては苦海、死しては浄閑寺」の文字が在る(画像 写真AC)11-8-6


 この状況は明治維新後も暫く続きますが、それが一変するのが前述の芸娼妓解放令です。この命令では人身売買を禁止して居り、本人の「真意」に依る売春以外は出来無く為りました。政府は芸娼妓に身代金等の返済等を求める事は出来無いとの指示も出して居り、遊郭の仕組みは大きく揺さぶられる事に為ります。  

 本書では7歳の時に売られ、芸娼妓解放令の時には新吉原の最下層の遊女屋で働いて居た「かしく」と云う女性が取り上げられて居ます。かしくは解放令に依って遊女屋から解放され、前の抱え主の政五郎の元に戻る事と為ったのですが、ソコで再び奉公に出よと迫られます。  
 これに対して、竹次郎と云う奉公人と結婚する事を考えて居たかしくは、遊女を辞めたいと云う嘆願書を竹次郎と共に東京府に提出しました。

 「どのよニ相成候共(どのように為っても)、遊女嫌だ申候」 と云う一節を含む嘆願書が本書の121〜122ページに掛けて紹介されて居ますが、稚拙な文章が返ってかしくの強い意志を感じさせます。  
 しかし政五郎はかしくを養女とした上で借金の証文を作成し、かしくを遊女屋に送り込みました。政五郎はかしく戸主権に依って囲い込み、更に解放令以降の新たな借金は帳消しに為ら無いと云う条項を利用する事でかしくの自由を奪ったのです。  
 その後も、かしくは別の男性(髪結渡世の菊次郎)との結婚を願い出ますが、コレも戸主権と新たに出来た借財の壁に依って阻まれてしまいました。

 明治以降に醸成された遊女への偏見


         11-8-7.jpg
         
        横山百合子『江戸東京の明治維新』(画像 岩波書店)11-8-7


 この様にかしくの願いは敵わ無かった訳ですが(但し、菊次郎との1件以後は史料が無いので、その後に遊女を辞める事が出来た可能性は在る)著者はこのかしくを巡る騒動を追いながら、ソコに遊女や遊女の仕事に対する偏見が無い事にも注意を向けて居ます。

 竹次郎や菊次郎、或いは菊次郎の結婚の為に力を尽くした菊次郎の親方には遊女への偏見と云ったものは在りませんでしたし、かしくも遊女の仕事に強い嫌悪感も持ちつつも、それを他人に語る事の出来無い恥ずべき経験とは思って居ません。
 しかし、明治以降、遊女への共感や同情・或いは憧れと云ったものは消えて行き、蔑視の眼差しが前面に出て来る事に為ります。売春が本人の「真意」に依るものとされた事で、遊女への偏見は強く為って行くのです。

 此処では遊郭と遊女の話を中心に紹介しましたが、最初にも述べた様に、本書にはこれ以外にも、旧幕臣や賤民身分の人々など、維新の大きな変化を経験し、その変化の波を乗り切ろうとした人々の姿が描かれて居ます。
 そして、そうした個人の奮闘を通じて、改めて明治維新と云う社会変革がどの様なものだったのかを教えて呉れる内容に為って居ます。


 山下ゆ ブログ「山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期」管理人



 〜管理人のひとこと〜

 都内の顧客を担当して居た事も在り、過去には東京の繁華街を毎日の様に車で回って居ました。浅草もその一つですが、地図や住所表示には昔由来の懐かしい文字が特徴でした。池袋・新宿・渋谷・銀座・・・とは一味異なって浅草は昔の匂いがしたものです。
 当時の法律は全てに抜け道が在り、それを利用する事で利益を捻り出す・・・それは誰もが認める「お上への反逆・ズル賢さ」だったのでしょう。明治に為ってもその習慣は抜けきら無い庶民の抵抗でも在ったのでしよう。何ん何と無くホッコリした温かいレポートでした。管理人はこの様なお話が大好きです。




















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