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2021年09月29日

太田道灌(おおたどうかん)と江戸の関係?



 太田道灌(おおたどうかん)と江戸の関係?


 一体何者? 東京にヤタラと

「太田道灌(おおたどうかん)」の伝説が残って居るワケ



 9-28-20.png 9/28(火) 21:31配信 9-28-20


 江戸城を築いた太田道灌


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            太田道灌(画像 千代田区観光協会)9-28-21


 日本各地には様々な伝説や伝承が残されて居ます。東京にもその様な土地が色々在りますが、ヤタラと目にするのが「太田道灌」の名前です。如何(どう)して東京はコンナにも太田道灌だらけなのでしょうか? その理由を探ります。

                  ◇ ◇ ◇ ◇



 太田道灌は、室町時代後期に関東で活躍した武将(1432〜1486年)です。軍法師範と称された一方で、歌人としても知られた文武両道の人物でした。何より知られて居るのは江戸城を築いた事。水利が好く広大な平野が広がる江戸には、後に徳川家康が幕府を開いて都市を作りますが、道灌は江戸が発展する可能性を見い出して居ました。
 太田道灌に纏(まつ)わる伝説と云えば、一番好く知られて居るのは「山吹の里」の伝説です。「山吹の里」の伝説は次の様な内容です。  

 〜或る日鷹狩(たかが)りに出た太田道灌。処が俄か雨に遭ってしまい、近くに在った農家に立ち寄り、その家の娘に蓑(みの)を所望します。処が娘は、蓑では無く和歌と共に山吹を一枝だけ差し出しました。道灌は理由も判らずソコを後にしますが、後に和歌の意味を知り、蓑の一つも貸す事が出来無い娘の苦しい心の内を知ったと云います。
 和歌は 「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき」 と云うもの。実の為ら無い山吹と「蓑(実の)一つだに無い」と云う意味を掛けて居ます。これは娘の作ったものでは無く『後拾遺和歌集(あとしゅういわかしゅう)』に収録されて居る兼明親王(914〜987年)の作品〜


 道灌はコレを知ら無かった事を恥じ、後に武芸だけでは無く和歌の勉強にも努めたと云います。このエピソードは昭和の戦後は未だ有名だった様で長谷川町子の『サザエさん』にも「みのひとつだになきぞかなしき」と云うフレーズが登場するシーンが在ります。因みに落語の演目にも為って居ます。

 関東一円で多くの伝説を残す道灌


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         荒川区西日暮里に或る山吹の花一枝像(画像 荒川区)9-28-22


 「山吹の里」は何処なのか・・・と云うのが知りたい処ですが、都内の複数の場所が手を挙げて居ます。下記は都内の候補地です。

  山吹の花一枝像(荒川区西日暮里)
  山吹の里公園(豊島区高田)
  太田道灌の史跡(同)
  大聖院(新宿区新宿)
  新宿中央公園(同区西新宿)
 

 この他、

  埼玉県越生町(おごせまち)も有力な地で在り、山吹の里歴史公園が作られて居ます。太田道灌に纏わる言い伝えとして他にも、
  川崎市幸区に在る丘陵地帯 夢見ヶ崎(ゆめみがさき)の地名は、道灌が見た夢に由来する話
  さいたま市北区奈良町の「三貫清水」は道灌が「とても旨い」と云って三貫文(50万円)の褒美を授けた事に由来する話が在ります。  

 都内だけでは無く、関東一円で多くの伝説を残して居る太田道灌。最期の地と為った神奈川県伊勢原市では毎年10月に「道灌まつり」が行われて居ます(新型コロナウイルスの感染拡大の影響で2021年は中止)

 太田道灌が遣って来る迄の東京


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           新宿中央公園に在る太田道灌の像(画像 写真AC)9-28-23


 ソモソモ、太田道灌は何故コンナにも関東のアチコチに出没して居るのでしょうか。 「太田道灌は何をした人?」と聞かれた時、多くの人は前述の様に

  江戸城を作った人
  江戸の街を作った人


 と答えるでしょう。そこに大きなヒントが在ります。都内や近郊で博物館に行ってその街の歴史を辿る常設展を見ると或る共通点に気付きます。
 それは、縄文時代の遺跡の説明や土器等の遺物の展示には力が入って居るにも関わらず、江戸時代の展示迄の間の古代や中世には殆ど触れられて居無いケースが多い事です。詰まり、太田道灌が遣って来る迄の東京は 「何も無いと云っても差し支え無い場所」 だった訳です。

 道灌の生い立ち


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              江戸城・皇居(画像 写真AC)9-28-24


 太田道灌は、室町時代(1432年)に鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐する関東管領(かんれい)上杉氏の一族・扇谷上杉家の家宰(かさい・家長に代わって家の仕事を取り仕切る人)だった太田資清(すけきよ)の子として生まれました。  
 鎌倉公方とは、室町幕府が関東を支配する為に作った出先機関です。その後、家督を継ぎますが、将軍家や公方家・管領家の争いの中に在り穏やかでは無い人生でした。  

 古河公方(茨城県古河市に在った幕府の出先機関)との争いで、道灌は父と共に河越城(埼玉県川越市)や岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を築いたとされます(岩槻城は別の説も在り)その後、房総の千葉氏を抑える為に、利根川下流域に城を築く必要が生じます。
 そこで築城する場所として決めたのが、江戸氏の領地で在った武蔵国豊嶋郡・・・後に江戸城と呼ばれる城です。

 この地に定めた事に付いても 「霊夢のお告げが在った」 「品川沖を行く道灌の舟にコノシロと云う魚が踊り入り、吉兆と喜び江戸に城を築く事を思い立った」 等の言い伝えが在りますが定かでは在りません。
 兎も角城は無事に築かれ、周辺には日枝神社や平河天満宮等が造られました。又、皇居には現在も「道灌堀」と云う名前の堀が残されて居ます。

 歴史的事実は古文書や古記録、或いは発掘の成果から明らかにされますが、道灌の事を逐一追ったものや当時の江戸(未だ江戸では無い場所)を記したものは残されて居らず、道灌は江戸の祖として「伝説の存在」だと云えるのです。そして、道灌の伝説が至る所に広まったと云う訳なのです。

 北区赤羽にも城を築いた道灌


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           木造太田道灌坐像附厨子(画像 北区飛鳥山博物館)9-28-25


 他にも道灌は今の北区赤羽に稲付城(いなつけしろ)を築いて居ます。此処は鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点と為って居た場所。街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継する為の山城として築かれたものです。  
 当時の城は天守閣等は無い所謂「山城」で、太田道灌が造った幾つかの城も一般にイメージされる「城」とは異なります。  

 但し、この稲付城の跡は現在静勝寺(せいしょうじ)と云う曹洞(そうとう)宗の寺院に為って居り「木造太田道灌坐像(ざぞう)附厨子(ずし)」を所蔵。像は道灌の命日で在る7月26日に因んで、毎月26日に開扉(かいひ)されます。  
 道灌堂は道灌の250回忌に当たる1735(享保20)年に建立、厨子は350回忌に当たる1835(天保6)年に製作されました。この像の複製品と関連資料が北区飛鳥山博物館に展示されて居ます。1486(文明18)年、伊勢原に居た道灌は風呂場を出た所で暗殺され、55年の生涯を閉じました。

 太田道灌は江戸の「大本」?


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         千代田区外神田に在る現在の神田明神(画像 写真AC)9-28-26


 此処迄見て来た様に、東京の土地と伝説は太田道灌に始まり開かれたものだと云えます。しかし、太田道灌よりも前に一つだけ好く知られて居る伝説の土地が在るのです。そのヒントが神田明神です。神田明神は現在の場所(千代田区外神田)に移る前、現在の大手町に在りました。しかし、その場所の付近で天変地異が多発した為に現在の場所に移転されたと云います。

 天変地異が起きたのは、平将門の首が京都から持ち帰られ、此処に祭られた為と云われて居ます。そして平将門の祟(たた)りなのか疫病(えきびょう)が流行ったそうです。元々神田明神が在った場所は現在「平将門の首塚」として大手町のオフィス街の一角に存在して居ます。
 これ迄、土地・建物の再開発で何度も移転させようとしては、その度に「悪い事」が起こり、今は禁忌の地としてオカルトマニア以外にも知られる様な有名な場所に為りました。

 その平将門の起こした乱から数百年して、江戸の基礎を築いた太田道灌。一介の武将で在り確かに存在した人物ですが、江戸の祖として背負う逸話の数は伝説級。動物や植物の起源を負うと辿り着く一つの種の様に、太田道灌は江戸の大本に為って居ると云えるかも知れません。



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                 春日ルナ(ライター)9-28-27




 太田道灌「山吹の里・・・」を扱った落語 ウィキより参照

 江戸発祥の落語であり、初代林家正蔵の咄本『笑富林』(1833年刊)に原型が見られる。若手が鍛錬の為に演じる、所謂「前座噺」のひとつ。3代目三遊亭金馬・5代目柳家小さんらは、晩年迄長く同演目を得意ネタとした。

 「岩田のご隠居」宅に遊びに来た八五郎は、隠居に、張りまぜ(複数の絵を貼った)の屏風を見せて貰う。八五郎は絵の一つに付いて「シイタケの親方みてェな帽子被って、虎の皮のモモヒキ履いて突っ立ってるアレは誰です?」と尋ねる。それは太田道灌の「山吹の里」の伝説を描いたものであった。隠居は以下の様な道灌の逸話を語る。

 〜室町時代中期の武人・道灌は、狩りをして居る最中に村雨に遭い、雨具を借り様と1軒のアバラ家に立ち寄った。15歳位の少女が出て来て「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ山吹の枝を盆に乗せて差し出し頭を下げた。道灌が意味を掴み兼ねて居ると、家来のひとりが「『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』と云う古歌がございます(後拾遺和歌集・兼明親王作。これは『実の』と『蓑(みの)』を掛け『お出しできる雨具はございません』と云う断りでございましょう」と進言した。
 コレを聞いた道灌は「アア、余は未だ歌道(かどう)に暗い(詳しく知ら無い)のう」と嘆き、それ以来和歌に励み歌人として知られる様に為った〜

 コレを聞いた八五郎は「うちにも好く傘を借りに来る男が居る。ひとつその歌で追っ払ってやろう」と思い着き、歌を仮名で隠居に写して貰って帰宅する。程無くして雨が降り出し、その男が飛び込んで来る。
 からかうチャンスが遣って来たと感じた八五郎は内心で喜ぶが、男は既に傘を持って居て「提灯を貸して欲しい」と八五郎に頼む。雨具で無ければ「蓑ひとつだに・・・」が出来無い為、八五郎は困り「『雨具を貸してください』と言やァ(言えば)、提灯を貸してやらァ」と男に告げる。
 男が仕方無く「雨具を貸して呉れ」と言うと、八五郎は少女を演じ「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ、歌が書かれた紙を差し出した。男はそれを「ナナヘヤヘ、ハナハサケドモ、ヤマブシノ、ミソヒトダルト、ナベトカマシキ」とつかえながら読み「短(みじ)けェ都々逸だな」と感想を漏らす。
 八五郎が「都々逸う? オメエ、よっぽど歌道が暗(くれ)ェなァ」とからかうと男は「カド(角)が暗ェから、提灯借りに来た」 お後が宜しい様で・・・













 
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