2020年05月02日
「緊急事態宣言」延長は国民の所為か 経済的補償無く進んだ政権の責任は
「緊急事態宣言」延長は国民の所為か
経済的補償無く進んだ政権の責任は
〜47NEWS 尾中香尚里 5/2(土) 6:02配信〜
新型コロナウイルスへの対応を巡り安倍政権が発令した緊急事態宣言は、当初の目標だった「5月6日解除」を断念せざるを得無く為った。1日の政府専門家会議では「全国で1カ月の延長が必要」との方針で意見が一致したと報じられて居る。
最初に東京等7都府県に宣言を発令した際に安倍晋三首相が自ら掲げた「2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせる」と云う目標を十分に達成出来ず、結果として宣言延長に追い込まれたのだ。結果を出せ無かった政権自身の責任を、彼等はどう考えて居るのだろうか。
ジャーナリスト 尾中香尚里
安倍政権は、国民に対して一方的に義務を課し痛みを与え責任を果たす様求めて置きながら、自らが果たすべき責任を果たしたかに付いての評価が極めて甘い。自らの施策が効果を上げられ無かった為に、国民は更に私権を制限され、大きな痛みを背負う事に為るのに、その事への痛切な感情が全く感じられ無いのだ。
筆者は4月2日付の小欄(法的根拠無き「緊急事態宣言」が脅かす民主主義国家 安倍政権が国民の為に今直ぐ遣るべき事)で、緊急事態宣言に付いて「もうイッソのこと(宣言を)出した方が、未だ『まし』なのではないか」と書いた。
私権制限を伴う宣言の発令を積極的に求めたい訳では無かった。だが、当時は政府や一部の地方自治体のトップが、外出や大規模イベント開催の自粛の要請を次々と勝手に発出して居た。法律の裏付けも無く議会のチェックも受けずに、行政による恣意(しい)的な「私権制限」が既成事実化して居た。
こうした事態に筆者は強い危機感を抱いた。思い付きの様に国民の私権を制限して置きながら、政治はその事への責任を誰も取ろうとしないのではないか。それ為らば、政府が新型インフルエンザ等対策措置法(新型コロナウイルス対策にも使える様、3月に法改正が行われた)に基づく緊急事態宣言を出し、私権制限に対する「国の責任」を明確にした方が未だ「まし」なのでは無いかと考えたのだ。
ここで言う「国の責任」とは、私権制限で大きな打撃を受ける国民への経済的な補償である。補償に依って将来への安心感が得られれば、外出や店舗の営業等を自粛し易い環境が生まれ感染の拡大を早期に止めることが出来る。自粛要請の期間を短く抑える事が出来、長い目で見れば経済を守る事にも繋がった筈だ。
処が、安倍首相は「民間事業者や個人の個別の損失を直接補償する事は現実的では無い」と発言し、寧ろ「補償は行わ無い」と云う正反対のメッセージを強く打ち出してしまった。溜り兼ねた一部の地方自治体は、独自に休業補償の施策を用意したが当然財源が足り無い。
自治体側は、政府が緊急経済対策で自治体向けに創設した総額1兆円の臨時交付金に期待した。すると、今度は西村康稔経済再生担当相が4月13日の参院決算委員会で「休業補償には使え無い」と答弁し、更に追い打ちを掛けた。後に方針転換したが、兎に角「補償」を嫌がる制限の姿勢だけは伝わった。
一方、コロナ関連予算を盛り込んだ初の予算となる2020年度補正予算案は、政権が目玉に掲げた「減収世帯限定の30万円給付」への世論の反発が高まり「閣議決定後の予算案組み替え」と云う前代未聞の事態に追い込まれた。「給付対象が余りに狭過ぎる」と云うのが反発の理由だった。
政権は、野党等が主張して居た「全国民への一律10万円給付」を盛り込んで予算案を組み替えた。しかし、麻生太郎財務相は4月17日の記者会見で「手を上げた方に1人10万円」と発言。自己申告制で「受け取るも受け取ら無いも自己責任」と云う姿勢を打ち出し「必要な人に届くのか」と云う不安を抱かせた。
住民票の世帯主の銀行口座に世帯全員分をまとめて振り込む、と云う方法も「ネットカフェ難民やDV被害者等は確実に受け取れるのか」と云う疑念を呼んだ。
補正予算は4月30日に成立した。しかし、組み替えも有り成立が大幅に遅れた事で「この規模ではとても間に合わ無い」と云う声が公然と出て居る。 「支援策」に付いて、安倍首相は、事有る毎に「これ迄に無い規模」を繰り返す。だが、その言葉とは裏腹に、政権から聞こえて来たのは「出来るだけ給付を抑えたい」と云うメッセージばかりだった。
こうした政権の姿勢は、国民が安心して外出自粛や休業要請に応じる事を難しくした。その結果が「既に医療崩壊では」と専門家に言わしめる現在の状況である。
緊急事態宣言の延長とは、即ち感染拡大防止に向けた政権の取り組みが失敗した結果だと云う事に他なら無い。確かに今回の新型コロナウイルスの感染拡大は過つて無い規模の世界的な危機だ。全てを政治の力で制御するのが無理な事は誰にでも分かる。安倍首相が「ババを引いた」と云う思いを密かに抱いて居たとしても、そう云う思いを持つ事を否定はしないし或る意味同情もする。
だが、それを言い出せば、例えば東日本大震災と東京電力福島第1原発事故も、政治の力だけでは背負い切れ無い大きな危機だった。明らかに自らの手に余る「国難」級の危機で在っても、逃げずに立ち向かい、結果を出せず理不尽な批判を受けても、それを受け止め耐えるのが国民に選ばれた政治家の責務だと考える。
増して今回の危機に於いて、安倍政権が国民の生命と暮らしを守る為に、遣るべき事を遣り尽くしたと信じられる人は一体どれだけ居るのだろう。これ迄の国内政治と違い、今私達は、世界の為政者達が新型コロナウイルスと云う同じ課題にどう対応して居るかを目の当たりにして居る。比較対象が幾らでも有るのだ。
政治は結果責任を伴う。緊急事態宣言の発令と云う大きな政治判断に依って、全国民の私権を此処迄強く制限した以上「国民に痛みを強いる分、私自身も結果を出す」と宣言し汗を掻くべきだった。自らが定めた「5月6日まで」と云う期間内に、何らかの目に見える結果を出すべきだった。結果を出せ無かったのは「要請を守ら無い国民の所為」では無い。国民が要請を守れる様な施策を準備出来無かった政権の側により大きな責任が有るのだ。
処がこの政権は、自らの失敗を省みる処か、その責任を平気で国民に転嫁する。湘南の海に集まる人々や、営業を続けるパチンコ店に焦点を当てて「自粛に応じ無い」と嘆いてみせる。自省的では無く常に他罰的なのだ。
為る程、パチンコ店が現在の状況で営業を続ける事に疑問を抱く人は少なからず居るだろう。だが、繰り返すが、この問題は「営業を続けるパチンコ店」以上に「パチンコ店が安心して休業出来る環境を作れ無かった政権」の側が責任を負うべきものだ。そうした自省の心は、この政権の誰からも全く感じられ無い。
安倍首相は4月30日「或る程度の持久戦は覚悟し無ければ為ら無い」と記者団に語ったが敢えて問いたい。誰の所為で持久戦に為ってしまったのか。自ら決めた「6日迄」を守れず、国民に更なる痛みを与える事へのお詫びの言葉はないのか。
緊急事態宣言は安倍政権に取って、鼻から「国民を統制する手段」でしか無かった節がある。だから「医療崩壊を防ぐ為にPCR検査の件数を増やす」等の「政権が遣るべき事」で無く「外出自粛要請」等の「国民が遣るべき事」ばかりが矢鱈と強調された。
ろくな「見返り」も用意せず、一方的に国民に義務と負担を求め、目標が達成出来無ければ「国民の所為」と言わんばかり。営業を自粛しないパチンコ店の店名公表(公表の権限は知事に有るが、各知事は政権と緊密に連携を取って居る)等は、その最も分かり易い例だろう。実際、西村経済再生担当相が4月27日の記者会見で、休業に応じ無いパチンコ店の事例に触れて「罰則を伴う強制力の有る仕組みの導入」を検討する考えを示している。
対応の稚拙さ以上に、この政権の「心根」が遣る瀬無い。国民の側が感染の恐怖や将来の生活への不安に怯えて居るのに、その国民の生命に責任を持つべき政権の側が、自ら掲げた目標を守れ無くてもその総括すらせず、自分達は無傷のママ、国民には引き続き痛みを強いる。それが「緊急事態宣言延長」にみる政権の本質だ。この政権が今後も「緊急事態」の名の基に国民の生殺与奪を握り続けるのかと思うと、只暗澹(あんたん)たる思いしか無い。
以上
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