2020年04月21日
コロナ禍で露わに為った「リーダーシップの欠如」決断出来無い人材を生む日本型教育の致命的な問題
コロナ禍で露わに為った 「リーダーシップの欠如」
決断出来無い人材を生む 日本型教育の致命的な問題
〜REAL SPORTS 4/21(火) 17:07配信〜
何故日本のリーダーは決断出来無いのだろうか? サッカー世界最高峰の舞台、UEFAチャンピオンズリーグに携わる初のアジア人、岡部恭英氏は、日本の教育に問題があると話す(撮影 野口学)
〜新型コロナウイルスの脅威は、未だ収束の目途が見えて来ない。この未曽有の危機に、日本社会における或る一つの問題が浮き彫りにされた。リーダーシップの欠如だ。何故日本のリーダーにはリーダーシップが足りないのか? どうすればリーダーシップを身に付ける事が出来るのか? そもそもリーダーシップはリーダーだけが身に付ければ好いものなのか?
サッカー世界最高峰の舞台、UEFA チャンピオンズリーグに携わる初のアジア人、岡部恭英氏に、大学卒業後に海外へと飛び出しスポーツビジネスの最前線で闘い続けて来た目線から「正解の無い時代」に於ける日本人・日本社会の問題点を考察して貰った 文 岡部恭英〜
変化を嫌う日本人 日本社会が変化する機会と為るか?
コロナショックのお陰と言うと、多くの人々が苦しむ中不謹慎かも知れませんが、今後の課題や機会がクリアに為ったと思います。特に「諸行無常」(万物は変化し続けて留まる事は無い)と云う世の常とは真逆に、「安全・安定・安心」を好み変化を嫌う日本人や日本社会に取って、大きな変革・躍進のチャンスだと思います。
政府が好い例かも知れませんが、残念ながら今回の騒動で浮き彫りに為った一つに「リーダーシップ不足」が有ると思います。歴史を紐解くと、伝染病が戦争や自然災害と並び、常に人類への脅威であったこと、そして人やモノの行き来が人類史上想像すら出来無かったレベルで実現されているグローバリゼーションが加速した今、コロナショックは一過性のものでは無いでしょう。
新型コロナウイルスや新たな伝染病に適応しながら生きて行かなくてはいけ無い今後、政財界だけで無く、個々人のリーダーシップが欠かせ無い筈です。
リーダーシップとは、3つの要素に分ける事が出来る
では「リーダーシップ」とは何か?リーダーシップ論に関しては、沢山本も出ていますので、学術論はさて置き、リーダーシップの定義として、今回のコロナ騒動で明らかに為ったのは「決断」ではないでしょうか。首相を例に取ります。各国の惨状を見ながら、万能薬やワクチンも無い中、限られた情報を基に、国に取って最善の選択を「決断」する必要があります。
正直「コロナがどう為るか?」ナンて、大臣や官僚は当然の事、疫学専門家ですら判りません。孤独な仕事です。そして、その正誤が定かでは無い「決断」を下した後は、国民と確りコミュニケーションを取って「伝え」実行に「導く」と、云う一連の流れか必要です。要するに
<Decide・決断 ⇒ Communicate・伝える ⇒ Lead・導く>
がリーダーの仕事と云えます。では「優れたリーダーの条件」とは何でしょうか?この記事を執筆しながら思い出したのが、ケンブリッジ大学MBA・経営学修士号留学中に、著名な経営者から受けた授業です。「リーダーシップ論」的な授業で、「リーダーに欠かせ無いものは何か?」と彼に問われ「ビジョン」「戦略」「遂行能力」「コミュニケーション能力」等、級友達が一通り発言して行きました。「全て大切だと思う」との前置きの後、彼は一言だけ「フォロワー」と放ちました。リーダーには「フォロワーが欠かせ無い」と言ったのです。
当時は只フムフムと聞いて居ましたが、コロナショック真っ只中の今、より強く心に響きます。前述の「リーダーシップとは何か?」で挙げた通り、リーダーは「決断」しなくてはいけません。しかし、どんなに良い「決断」をして、どんなに素晴らしいコミュニケーションを取って「伝え」ても、国や会社組織やチームで、皆が実行に至ら無ければ「導く」事には為って居ないのです。
現在、首相のリーダーシップ欠如が巷を騒がせ批判されたりもして居ますが、元々、国民では無く与党が選んだ首相であり「フォロワー」が余り居ないリーダーとも云えるので、或る意味当然の結果とも云えます。
何故日本人にはリーダーシップが不足しているのか?
それでは「何故、日本人にリーダーシップが足り無い様に見えるのか」?ズバリ「教育」の所為かと・・・要するに「家庭教育」と「学校教育」です。
先ず「家庭教育」を例に取ります。私は、大学卒業と同時に日本を離れ人生の半分を海外で過ごす和僑(※)なので、日本に帰る旅に、日本の親御さんと子供達の遣り取りを見てビックリします。「〇〇しなさい」「××しちゃダメ」のオンパレードです。勿論、周りの目を気にして生きる日本人からすると、親や先生の事を好く聞いて真面目でお行儀の善い子を育てるシツケなのでしょうが、そこに「Think on your own・自ら考える力」を育てる余地は有りません。
※和僑 インターナショナル・ジャパニーズ・・・岡部氏が提言する「海外に飛び出して国際舞台で活躍し、日本の将来に貢献出来る人材」を指す。
学校も同様です。受験勉強が日本の学校教育の中心に位置する本末転倒な形に為って居るので「学校教育」も「正解が存在する与えられた課題」を「早く、正確に、解く」が中心と為って居ます。此処にも「自ら考える力」を育てる余地は余り有りません。「正解が存在する課題を与えられ」て、その正解に「早く、正確に、辿り着く」と云う「訓練」を受けて居るに過ぎないのですから。日本では当然のこの学校教育ですが、欧米に於いては可成り異なります。
私の子供達が生まれ育ったスイスや、妻が育ったアメリカ等を見ても顕著ですが「自ら考える力」を伸ばす教育です。大ザッパに言うと
<課題自体を自ら調べ考えて決定 ⇒ 課題のリサーチ方法(本、ウェブサイト・社会見学等)も自ら決定 ⇒ 課題を調べ考えて構築した議論のクラス内に於けるプレゼン方法(パワポ資料・ホワイトボード・ビデオ・道具使用等)も自ら決定>
と云った感じで、唯一と押し付けられて教え込まれる正解等、ソコには在りません。
Educationの日本語訳は「教育」で、文字通り「教えて育てる」と云う意味ですが、元々のラテン語語源を辿ると全く異なる意味なのです。Educeとは「潜在して居るものを、引き出す」と云う意味であり、まさに上記の欧米に於ける学校教育は、語源通り生徒一人ひとりの「潜在して居るものを、引き出す」遣り方なのです。
前述した「リーダーの仕事の流れ」を再度見ると、欧米の学校教育の遣り方が、リーダー養成に適した遣り方である事が判ります。
<自ら考える ⇒ Decide・決断 ⇒ Communicate・伝える ⇒ Lead・導く>
コロナに突き付けられた「正解の無い」時代 リーダーシップは誰もが身に付けるべき
それでは、「Withコロナ」で混迷する社会の中、「どの様にリーダーシップを身に付けるか」? 「教育」を変えるしか無いと思います。「寺子屋時代」から殆ど変わって居ない「学校教育」を変えるには時間が掛かりますが「学校教育」と同等に、若しくはそれ以上に人間形成に大きな役割を果たす「家庭教育」は、親御さん次第で今直ぐにでも変えられる筈です。
具体的に、どうすれば好いのか? 上記にも挙げた「〇〇しなさい」「××しちゃダメ」を辞めて「質問する」事だと思います。親御さんの信じる正解を押し付ける事無く「どうしたら好いと思う?」「どうしたい?」と聞いて「自ら考える」習慣を子供達に着けさせる。日本の「学校教育」と「家庭教育」に於いては、世の中には、常に唯一の正解(The answer)が存在するかの様に教育します。
しかし、今回のコロナショックでも明らかですが、唯一無二の正解(The answer)ナンてものは、世に出ると余り存在し無いのです。大事なのは「The answer」では無くて「Your answer」をケースバイケースで「自ら考える」力です。
筆者の母校ケンブリッジ大学は、オックスフォードと並ぶ世界の名門大学ですが、オックス・ブリッジ共に「少数精鋭チュートリアル」教授法が有名です。マンツーマン、若しくは他の生徒数人と教授に囲まれ、課題に付いて「質問」されて「自ら考える」と「伝える」を繰り返し、徹底的に議論を深める学習方法です。大学時代の数年間で、
<自ら考える ⇒ Decide・決断 ⇒ Communicate・伝える ⇒ 級友や教授さえもLead・導く>
と云う訓練を徹底的に積んだ卒業生が、似たり寄ったりの唯一無二の正解(The answer)を教え込まれた日本の受験勉強マシン大学卒業生より、リーダーシップを備えて居ても何の不思議もありません。
Withコロナで大変革期の今こそ、日本社会、そして日本のスポーツ界も、国民一人ひとりがリーダーシップを発揮するべき時です! 前述しましたが、世の中には、特に今の様な大混乱期は、単純な唯一無二の正解(The answer)ナンてものは殆ど存在しません。大変革時代に対応出来無い、日本の同調同意社会に蔓延る「かくあるべき」や「こうで無くては為ら無い」等には囚われず「Your answer」を追い求めましょう。
米国シリコンバレーで一時期はやった、
<Fail fast・早く失敗しろ ⇒ Learn fast・早く失敗から学べ ⇒ Fix fast・早く直せ>
では無いですが、一連の
<自ら考える ⇒ Decide・決断 ⇒ Communicate・伝える ⇒ Lead・導く>
に何度もトライして、リーダーシップ力を向上させ、この大変な時期を一緒に乗り越えましょう!
文 岡部恭英(おかべ・やすひで) 1972年生まれ サッカー世界最高峰のUEFAチャンピオンズリーグに携わる初のアジア人 UEFA(欧州サッカー連盟)専属マーケティング代理店「TEAMマーケティング」のテレビ放映権・スポンサーシップ営業 アジア・パシフィック地域統括責任者 慶應義塾体育会ソッカー部出身 ケンブリッジ大学MBA取得 スイス在住 夢は「日本でワールドカップを再開催して日本代表が優勝!」
【管理人のひとこと】
目の前に困難な壁が立ちはだかると、人はどうしても愚痴を溢し不運な己の環境を呪わずには居られない。更には「誰かが悪い」「アイツの所為だ」と他人の所為にするのが私達凡人がし勝ちな事です。ご多分に漏れず管理人も同じ。
しかし、最早他人の所為にしても始まら無く為った時には、腹に力を込めて何とか生き残る道を必死に為って探し始める様に為り、死ぬ以外の道を探すしか無いと悟るのです。確かに子供の頃から親には「しつけ」として注意され続けて来た嫌いは有りますが、それ程の強制力は使われ無かった思いも有り、親からは「好きな様にしろ」とサジを投げられたものです。
果たして、江戸時代以前の教育と明治以降の教育が同じ軌道の上を走って居るのか・・・との疑問は残りますが、明治以降の国家が上からの視線で「アア・コウ」全てを指図したのは考え物だった筈。ソレこそ箸の上げ下ろしから指図する教育って「何物にも替え難い邪道」な面が強かった筈。明治以降の学校教育は、少しの資本投下で最大の効果を挙げるべく「徹底した合理主義で貫かれた効率一辺の詰め込み教育」だったと感じます。50人以上の生徒を一つの枠に嵌め、個人の個性を殺し「等しく同じレベル」へ持って行く・・・究極は、兵隊として優秀な共同訓練を受け入れられる人間を育てる事に在ったのでしょう。
戦後も官僚組織は温存され、お上が支配した教育にそれ程期待する人間を求める方が無理の様です・・・
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