2020年01月12日
議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」〈2〉
議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」〈2〉
〜JBpress 1/12(日) 6:00配信〜
1996年3月 新進党党首時代の小沢一郎(写真 ロイター アフロ)
30代だった1970年代、只管裏方に徹し、雌伏の時代を過ごした小沢一郎だが、80年代に入ると、イヨイヨその剛腕が唸りを上げ始めた。
1982年11月、中曽根康弘内閣が発足する。キングメーカーとして君臨する政界最高実力者・田中角栄の影響が強かった事から「田中曽根内閣」と揶揄された。その言葉を象徴するかの様に、田中の秘蔵っ子である小沢が同年12月、自民党総務局長に40歳で就任する。史上最年少だった。
中曽根が絶賛「名医の手術を見て居る様」
総務局長は、選挙を現場で差配・指揮する要のポストである。当時は選対委員長が無い為、選挙の責任者である幹事長の下で、擁立作業から情勢分析迄、実務は全面的に総務局長が取り仕切って居た。
小沢は先ず、1983年4月の統一地方選で勝利し、更に同年6月の参院選で鮮やかな手腕を見せた。この参院選は比例代表制が初めて導入された選挙だった。そこでの最大の課題は候補者の「名簿順位」だった。
小沢は獲得党員数、他候補への応援回数等客観的な「数値」で候補者に順位を着け「現職を優先せよ」とする派閥領袖等の介入を最小限に抑えた。田中派偏重との批判も着いて回ったが、最終的に小沢の持ち込んだ基準に説得力があり、名簿は原案通りに落ち着いた。
幹事長の二階堂進が一切の実務を小沢に任せた点もプラスに働いた。参院選では改選議席を上回る68議席を獲得し、中曽根は勝利宣言する。小沢は国政選挙の指揮官として結果を出したのである。
更に、小沢の存在がクローズアップされる決定的瞬間が訪れる。1983年8月7日に投開票された衆院京都2区の補選である。2議席を巡って7人の候補が争う事に為ったこの補選に、自民党は谷垣禎一・野中広務の新人2人を公認・擁立した。
革新が強い京都での自民2人擁立は共倒れの危険があった。だが、此処で小沢が凄腕を見せた。小沢が谷垣・野中両陣営に働き掛け、自民党の組織票を2等分する作戦を展開し見事に成功したのだ。谷垣は12万5209票・野中は12万1890票で、その差は3319票。「神業」と呼ぶに相応しい票割りだった。
中曽根は小沢の手腕を絶賛し「マルで名医の手術を見て居る様だ」と語った。小沢は2019年11月29日に死去した中曽根に対するコメントで、この時のエピソードに触れ「偉く褒めて頂いた事を覚えて居ます」と言及して居る。小沢に取っても、非常に嬉しい出来事だったのだろう。
落選の危機
総務局長として大仕事を次々に成し遂げた小沢でも、結果を出せ無かったのは1983年12月の「ロッキード判決選挙」「田中判決選挙」と言われた衆院選だ。
同年10月12日、東京地裁でロッキード事件の丸紅ルートの判決公判が開かれ、田中は懲役4年・追徴金5億円の実刑判決を言い渡された。メディアは田中を批判し、国会は田中の議員辞職勧告決議案を巡って紛糾・空転した。中曽根は事態打開の為、衆院解散に打って出る。結果は矢張り惨敗で、追加公認で要約過半数を確保した。
選挙期間中、小沢は司令塔として自民党本部に詰めた。本来は、幹事長の二階堂が党本部に詰めるべきであるが、田中側近の二階堂自身が苦しい選挙戦を強いられて居り、地元の鹿児島3区に張り付いて居た。小沢が実質的に東京で衆院選を指揮したのだ。
だが、党本部詰めの代償は大きかった。1976年・1979年・1980年の直近3回の衆院選を全てトップ当選して来たこともあり油断も在った。総務局長としての仕事を優先する為、当初地元入りし無い予定だったが、終盤、地元情勢が厳しい事を知らされ、選挙区に戻らざるを得なかった。
結果は、定数4の岩手2区で最下位当選。しかも、次点に2711票差と云う僅差だった。選挙戦で政治の師である田中を擁護する発言をして居た事もマイナスに働いた。辛うじて議席を死守したものの、小沢に取って、最大の危機だったと言える。
国会運営
この危機を乗り越え当選6回と為った小沢に、再び出番が回って来る。1983年12月、議院運営委員会委員長に就任したのだ。議院運営委員会は通称「議運」と呼ばれ、与野党が本会議の進め方や内容を協議する。議運委員長は、閣僚経験者が務める事が多く、国会の常任委員長の中で最上位に位置するポストだ。
当選同期の渡部恒三や奥田敬和が一足早く入閣する中、小沢は議運委員長として「縁の下の力持ち」に徹する。元々根回しや調整は小沢が得意とする処だった。1985年12月迄丸2年間も務め、国会の動かし方のコツを習得した。ただ、小沢としては、議運委員長は1年の積りだった様だ。
元衆院事務局職員で、小沢と一貫して政治活動を共にする元参院議員・平野貞夫の『小沢一郎との二十年』(プレジデント社)には「1984年11月1日に内閣改造が行われた。小沢さんは議運委員長を1年務めた後だから入閣と思って居た。だが、議運委員長をもう1年と云う事に為った。この時、小沢さんは固辞するが『大事な時だから、此処で議運委員長を続ければ、後で何か役立つ筈だ』と私達事務局職員もお願いして、議運委員長を1985年12月、自治相に為る迄続ける事に為る」とある。
正に平野の言う通りで、此処で議運委員長を2年務めた経験は後に有利に働く。現役のベテラン秘書は「小沢は国会対策委員長の経験は無いのに、異常な迄に国会運営に詳しい。議運委員長時代に平野から相当学んだ様だ。政治家が熟すべき『科目』は、政局や政策等幾つもあるが、国会運営と選挙対策の両方を極めた政治家は小沢位ではないか」と語る。
この経験により、小沢の政治家としての実力は格段に高まった。
紀尾井 啓孟 続く
【関連報道】枝野氏、合流先送りの可能性に言及 玉木氏「拙速避けたい」
〜毎日新聞 1/12(日) 17:17配信〜
党首会談後、立憲民主党の枝野幸男代表(右)と国民民主党の玉木雄一郎代表 国会内で2020年1月10日午後1時58分 川田雅浩撮影
立憲民主党の枝野幸男代表は、12日のNHKの番組で、国民民主党との合流の先送りの可能性に言及した。「共同会派の連携を深め、或いは選挙に向けた連携協力を深める、様々な選択肢の中で、何を選択するのかと云う最終判断を夫々の党でして行く状況だ」と話した。枝野氏は今年に入り、党合流に向けて国民の玉木雄一郎代表と会談を重ねて居るが、合意に達して居ない。
枝野氏は番組で「必ずしもそれ(合流)に限定して(国民側に)呼び掛けた訳では無い。どう云う遣り方が一番、有権者の皆さんの声に応える事が出来るのかと云う事で議論して居る」と述べた。
一方、玉木氏は「無理して、納得が得られ無い中で合流を強行して、野党の連携が崩れる事が有っては為ら無い。皆が納得出来る様な形の合流の環境作りを整える故とが大事だ」と語り「拙速は避けたい」と強調した。
東久保逸夫 以上
【管理人のひとこと】
管理人は、以前の民主党政権の際、野党の自民党が「鳩山由紀夫首相」に対する個人的な・・・鳩山家の財産やその管理・母の躾や教育等・・・所謂、最も鳩山代表の個人的な問題の中傷に値する批判を繰り返し、殆どのメディアがそれに乗り連日「お金持ちのボンボン・・・宇宙人」と揶揄する攻撃を行って居たのを思い出す。
その際、殆どの民主党議員は殊更擁護もせず「知らぬ顔」を通し、次に小沢氏が党首と為り総理へと進む状況と為ると、果然「田中角栄の腰巾着・ヒゾッコ・・・金権体質の本丸」だと、仲間であり民社党に政権を取らせた立役者の小沢氏を口汚く攻撃し始めた。そして、検察がそれに乗り秘書を逮捕する状況へと・・・その先鋭が次の党内選挙で総理に選ばれた菅氏だった。
この様に、旧民主党は野党の自民党以上に身内の攻撃に現を抜かす体質が在った。思想も心情も前歴もマチマチな世帯だったのだが・・・この経験を踏むと、無理な野党合同は何一つもの利点は無いと考えても好いのかも知れない。イケイケの時には好いのだが、一旦マイナスの事態を迎えると簡単に自壊して行き、身内から身内の足を引っ張ってしまうのだ。
小沢一郎氏や中村喜四郎氏は「野党合同」を主張するが、果たして彼等に、自分の我を捨て大義に尽くす覚悟が在るのかどうかは疑わしい。政策協定⇒選挙協力の範囲で、民社・共産・無所属・れいわ・・・の提携で遣って行くしか無い様だ。但し、立憲が消費税5%を飲むのかは、枝野氏の胸の内に懸かって居る。何せ「消費増税」は旧民主党(野田氏が代表)の政権を賭けた「悲願」だったのだ。
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