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2021年03月25日

判り易く面白い日本史その9 室町時代の流れと文化・食事・生活を解説


 判り易く面白い日本史 その9 室町時代の流れと文化・食事・生活を解説

 室町時代(1336年〜1573年)

 14世紀初め、後醍醐天皇は、足利尊氏・新田義貞等の武士の力を借りて鎌倉幕府を滅亡させました。政権を取り戻した後醍醐天皇は、自身が理想とする天皇中心の政治を開始。摂政や関白・上皇等の制度を廃止し、全国の土地を天皇が管理する政策を勧めました。
 しかしこの制度は、鎌倉幕府時代に手に入れた領地を没収する制度でもありました。当然、武士が反発し社会が混乱しました。

 足利尊氏が室町幕府を開く

 ここで登場したのが足利尊氏。尊氏は1335年に反乱を起こし1336年に京都を制圧。室町幕府を開きました。僅か3年で崩れてしまった後醍醐天皇の政治ですが、彼は未だ諦めませんでした!!奈良に逃げ込むと、そこで政治を始めました。奈良の朝廷京都の室町幕府・・・2つの政府が争いながら日本を支配する南北朝時代と為り60年間続きました。

 政権統一!南北朝時代が終わる

 お互いに政権の正統性を主張する中、次第に朝廷の力が弱く為って来ました。1392年に為ると、室町幕府3代目将軍の義満によって政権が統一され、南北朝時代が終わりました。1394年 義満が太政大臣に就任すると、幕府の最盛期と為りました。京都に金閣寺を建てたことからもその権力と財力が窺えます。

 義満がこの世を去ると、幕府の支配体制に綻びが出始め、関東の実力者上杉氏が反乱。他の地方でも守護の力が増し手に負え無く為って来ました。守護の力を抑えようとした当時の将軍・義教は、独裁政治に傾き始めました。
 その後、社会は益々乱れ一揆も多発する様に為りました。そしてそんな状況に危機感を抱いた赤松満祐が、義教を暗殺してしまいました。

 1449年 足利義政が8代目将軍に就任。当時は疫病や飢饉が全国的に発生し各地で大規模な一揆が起こる等大変な世の中に為って居ました。そんな状態なのに、幕府では跡継ぎ争いが始まってしまいました。この争いは10年も続き、室町幕府の力と権威が弱まりました。
 また、争いにより幕府が管理出来無く為った地方では、守護や国人領主等が力を着け戦国大名に為って行きました。こうして、夫々の地を、戦国大名が統治する戦国時代へと移って行きました。

 政権争いの裏側で・・・

     
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 鎌倉時代に 比較的暖かな地域ではコメと麦の二毛作が行われる様に為りました。更に技術が発達すると、荏(え)胡麻(ごま)を栽培したり、絹布や麻布を織って副業する様に為りました。こうした発達により市が開かれる事も多く為って行きます。すると、地方の特産物を売り歩く行商人も現れる様に為り、商工業者が増えて来ます。
 その後、鉄製農具が発達し牛馬を利用出来る様に為ると、農業の生産性が更に向上。鍛冶や塗師、大工、鎧士等仕事の分業が進む様に為り、更に市場が活発に為りました。

 民衆の意識が進歩して來ると、荘園領主(貴族)や、地頭(武士)による税の徴収に反発する様に為って来ました。農民達は団結して訴訟を起こしたり、集団で逃亡したり、武力に訴えて年貢の納入を拒否しました。こうした流れに各地を管理する領主(貴族)や守護(武士)は苦悩しますが、一部の経済感覚の優れた人達は流れに乗り力を着けて行きました。

 守護が力を着けた為、幕府は各地をコントロール出来無く為りました。そこで、苦肉の策として守護の権限を強化して幕府に協力を促します。権限が強く為った守護は、貴族の土地である荘園の侵略を繰り返し、更に力を着け守護大名に為りました。こうして、各地に様々な勢力が現れ、時代は戦国時代へ突入します。

 室町時代の流れと文化・食事・生活を解説

 室町時代の文化

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 室町時代の代表的な文化は2つ。1400年頃に栄えた北山文化1400年代後半に栄えた東山文化です。
 北山文化の特徴は公家と武家の文化が交じり合った華やかさ。代表的なのが足利義満の別荘として建てられた金閣寺で、全面が金箔で覆われると云う豪華なものでした。他にも能や水墨画も発達しました。その後暫くして現れたのが東山文化。
 美的センスの優れた当時の将軍・足利義政の力もあり簡素で深みのある文化が発達しました。禅の精神から「わび・さび」が生まれ、狂言・水墨画が発達。連歌や茶の湯・生け花が広まりました。

 室町時代の食事

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                <出典:wikipedia>


 室町時代に 食事の回数が1日2回から1日3回に為り品数も豊富に為りました。只、武士達は鎌倉時代から引き続き質素で栄養のあるものを食べていました。玄米を硬めに煮たおかゆを主食とし、おかずにはアジや野菜の煮物・漬物梅干等を食べていました。又、この時期から味噌や醤油が広まり味噌汁も飲まれる様に為りました。

 室町時代の生活

 室町時代の武士たちの生活は、鎌倉時代から余り変わりませんでした。只、庶民の生活は大きく変わりました。二毛作を遣る様に為り、農具が発達した為生産性が向上し、農業以外の仕事に就く人が増えました。
 そこで生まれたのが”座”。朝廷や貴族、寺社に税金を納める事で、その地域で特権的にものを売って稼ぐ事が出来ました。農民は、藁の屋根と土壁で作られた家で生活を送って居ました。天井には槍が置いてあり、戦いに為ると武士として参加しました。又、荒れた世相を反映して、村全体で田んぼを守る”惣”(そう)と云う自治組織も出来ました。

 前 鎌倉時代の流れ 次 戦国時代の流れ




判り易く面白い日本史 その8 鎌倉時代の流れと文化・食事・服装を解説



 判り易く面白い日本史その8 鎌倉時代の流れと文化・食事・服装を解説


 鎌倉時代(1185年〜1333年)

 太政大臣に任命された平清盛は、朝廷内の重要な地位を独占。貴族や武士・僧侶は不満を持ちました。1180年 不満を持った武士が全国各地で挙兵すると、源頼朝が中心と為って 平氏軍を破りました。頼朝は平氏を倒した後、鎌倉に戻って地盤固めに専念しました。
 1184年正月 平氏は再び政権を奪おうとしましたが、後白河法皇は源頼朝に平氏追討の命令を出しました。そこで、頼朝の弟・義経が討伐に向かいました。そして義経は平氏を壇ノ浦に追い詰め、見事に平氏を滅ぼしました。

 源頼朝が全国を支配!鎌倉幕府を開く!!


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              <出典:wikipedia>


 平氏が滅亡すると、後白河法皇に取って次の脅威は源頼朝。そこで、義経に対して頼朝討伐の命令を出しました。しかし武士の多くが、頼朝こそが武士のリーダーに相応しいと考え集結した為、義経は敗北。
 天皇に力を見せ着けた頼朝は、義経追討を名目にして各地を管理する“守護”“地頭”の設置を認めさせました。こうして、源頼朝は全国の支配権を獲得したのです。

 後白河法皇の死後、源頼朝は朝廷から征夷大将軍の任命を受け、鎌倉幕府を開きました。これにより、日本初の武士政権・鎌倉幕府が誕生しました。
 鎌倉幕府の大きな特徴は、御恩と奉公による封建制度。武士は天皇や幕府を警護したり、戦の時には命懸けで戦って幕府の為に尽くすことを約束。武士の奉公に対して、幕府は御恩で応えます。地頭に任命して収入を増やして挙げたり、先祖伝来の土地所有権を認めて挙げたり、手柄に応じて新たな領地を与えたりしました。

 北条氏が政権を握る

 源頼朝がこの世を去ると、長男の頼家が将軍に就任。しかし、未だ18歳の頼家に幕府をまとめる力は無く、政治が乱れ幕府の武士他ちは主導権争いを始めました。頭角を表したのは、頼家の祖父・北条氏でした。北条氏は、頼家が病で倒れると弟の源実朝を3代目将軍にしました。この時実朝は12歳。
 実朝の補佐を名目に北条氏が政治の実権を握りました。その後も、代々、北条氏が政治の実権を掌握する様になりました。

 次第に独裁色を強める北条氏。これに不満を持つ武士が多いと感じた後鳥羽上皇は北条義時討伐の命令を下しました。しかし、上皇の期待とは裏腹に、大多数の武士が幕府側につき敗北。
 幕府側はこの戦いに勝ち、朝廷を監視する為に六波羅探題を設置しました。こうして、幕府の勢力は西国に迄及び、朝廷に対して優位に為りました。

 元軍の侵攻と武士の不満
     
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 1274年 朝鮮半島から約3万の元軍(中国軍)が九州に攻めて来ました。迎え撃つ武士たちは、集団戦法と火薬を使った飛び道具に大苦戦。戦の初日は敗北を喫してしまいました。
 その日の夕方、元軍は夜襲を恐れ船に撤退。しかし、ここで突然の暴風雨が吹き荒れました。これにより、元軍は壊滅。 幕府は勝利しました。

1281年 日本制圧を諦め無い元軍は、14万の大軍を率いて再び日本を襲いました。
しかし、今度は幕府も確りと守りを固めて居た為、海岸の制圧に手こずります。そんな中またも暴風雨発生。元軍は壊滅状態に陥り、幕府が勝利しました。

 さて、元軍侵略の危機を脱した幕府。しかし、この戦で新たな土地を獲得出来ませんでした。その為、武士に十分な恩賞を与えられませんでした。多額の戦争費用を出し、命懸けで戦った武士は当然不満に思いました。
 やがて、幕府に反抗する武士が登場し、打倒幕府の雰囲気が流れ始めました。この流れを察知した後醍醐天皇は、足利尊氏や新田義貞等の武士の力を借りて鎌倉幕府を滅亡させました。

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