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2021年03月19日
判り易く面白い日本史 その5 飛鳥時代の流れと服装・食事を解説
判り易く面白い日本史 その5
5 飛鳥時代の流れと服装・食事を解説
飛鳥時代(7〜8世紀)
大和政権は次第に領地を広げ、九州から東北迄を統一。広大な土地を支配する為に、大王のサポート役が現れます。その中で特に力を着けたのが、財務担当の蘇我氏と軍事担当の物部氏でした。両者は政治運営のライバルとして争う様に為ります。
仏教が伝わって來る
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そんな中、大陸から仏教が伝わって来ます。元々大陸と積極的に交流していた蘇我氏は仏教の受け入れを強く勧めます。しかし、物部氏はこれに反発。両者は大きく争いますが、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして決着を迎えます。
物部氏を滅ぼした蘇我馬子は592年に崇峻天皇(すしゅんてんのう)も暗殺。次の推古天皇のサポート役を聖徳太子にします。聖徳太子は儒教や仏教の思想を取り入れ、冠位十二階や十七条の憲法を作って朝廷制度の礎を築きました。
蘇我氏の権力増大と中臣鎌足の改革
聖徳太子と蘇我馬子がこの世を去ると、馬子の子供である蝦夷(えみし)、更にその子供入鹿(いるか)が政権を独占しようとしました。これに反発したのが中臣鎌足。645年に中大兄皇子と共に、蝦夷・入鹿を倒しました。
中大兄皇子と中臣鎌足は中国の律令制度を基に、天皇中心の中央集権国家を目指しました。都を大阪の難波に移すと、改新の詔(かいしんのみことのり)と云う政令を出し、公地公民制や班田収授法等を定めました。
673年に為ると天武天皇が即位。天武天皇は一人の大臣も置かず、皇子達と共に政治を行い、豪族を支配しようとしました。次の持統天皇もこれを受け継ぎ政令を施行すると共に、藤原京を作り都を移しました。
続いて文武天皇は藤原不比等らと共に大宝律令を制定。これにより日本は刑法等を整えた律令国家に為りました。
飛鳥時代の服装
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<出典:彦左の正眼!>
【貴族の男性】身分によって衣服の色や持ち物なども決められていました。頭には黒い冠。上はコートの様に長くユッタリとした服を身に着け、腰のあたりで紐で結んでいました。下は、ズボンの様な袴を履いていました。
【貴族の女性】上は、ユッタリとした色の着いた服。下は縦じま模様の裾の広がったスカートの様なものを履いていました。
【庶民の服装】農民など、一般人の服装は弥生時代から余り変化しませんでした。シンプルで色の着いていない、白い布の服を着ていました。
飛鳥時代の食事
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飛鳥時代の食事は階級によって大きく違っていました。貴族は真鯛・アワビ・鮎・古代チーズなど様々なものを食べ、栄養の取り 成人病に為る事もありました。下級役人は玄米を主食とし、おかずに味噌汁・きゅうりの塩図家(しおづけ)かぶの酢の物・いわしの煮付け等。お酒も飲んで居ました。
庶民は玄米に塩・海草の味噌汁・ゆでた青菜や山菜などを食べていました。弥生時代から余り変わらず一汁一菜が基本で、栄養失調で倒れる人も多かったです。又、仏教の影響で肉が禁止されることもしばしばありました。
飛鳥時代のキーワードチェック
【冠位十二階】603年、聖徳太子によって定められた制度。徳・仁・礼・信・義・知の六つを夫々だい小に分けて、12個の位を作りました。これ迄の様に血統で位が受け継がれるのでは無く、個人の功労に応じて位が決まる様に為ったので、優秀な人材が昇進出来る様に為りました。只、皇族や蘇我氏は適用外でした。
【十七条の憲法】日本最初の成文法。天皇への服従や、不要な争いを避けること、仏法僧を敬うことなどを強調し、役人達への心構えを説いた。
【公地公民】皇族や豪族が個別に土地と人民を支配する事を辞めさせ、全て天皇のものとする制度。公民は戸籍によって管理され、租(米)・庸(布)・調(特産物)を税として納めました。
【班田収授法】6歳以上の男女に田んぼを支給し米を作らせる制度。男子には約23アール、女子には約16アールを与え税を納めさせました。
【遣隋使】当時の中国は隋と云う国が支配しており、隋に行って文化を学んで来た人達を遣隋使と呼びます。遣隋使により律令制度等の知識が入って来て、日本でも刑法や服務規程を定めた大宝律令が完成しました。
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