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2021年03月17日

判り易く面白い日本史 その4 4 古墳時代のくらし・服装・食べ物を解説



 判り易く面白い日本史 その4

  4 古墳時代のくらし・服装・食べ物を解説

 動画 https://youtu.be/GCp4Z_Vr2s0

 古墳時代(4〜6世紀頃)

 紀元前1世紀頃。日本には小さな国が約100個ありました。夫々の国は独自に中国と交流し、文化や技術を取り入れていました。2世紀後半に為ると国同士の争いが激しく為ります。何年も争いを続けましたが、卑弥呼と云う女性を連合国の王様にする事で争いが収まり、卑弥呼中心の連合国家“邪馬台国”が出来ます。3世紀に為ると、各地の権力者が力を示す為大きなお墓“古墳”を作るように為ります。この文化は7世紀頃まで続き、全国各地に200個以上作られて古墳時代の名前の由来にも為りました。

 大和政権の誕生

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 4世紀に為ると、大和政権が現れます。大和政権は大王(おおきみ)をトップとした連合国家で、各地にある小国を統一して行きます。しかし、国が大きく為ると大王だけでは全てを管理し切れません。
 そこで、外交・軍備・会計・土地管理など様々な役職が生まれ、統治体系の基礎が出来て来ます。ちなみに、この頃は飽く迄も連合国家。小さな国が大和政権の管理下に置かれて居ただけで、夫々の国が独自に地域をまとめて居ました。

 朝鮮の戦乱と日本技術

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 5世紀に為ると、飢餓や戦乱で苦しんだ朝鮮の人々が日本に逃れて来ます。彼等は政治運営・鍛冶・武器製造・土木・建築・製陶・動物の飼育など様々な技術を持って居た為、大和政権は積極的に受け入れます。これにより大和政権の文化は大きく発展し、次第に国としての基礎が出来て来ます。

 古墳時代のくらし   

 古墳時代に為ると支配者である豪族と、その他の民衆で生活に違いが表れます。民衆は集落に竪穴住居や平地住居、高床式倉庫を作って住んでいました。それに対し豪族は、集落から離れた場所に柵や壕を張り巡らせた居館を作って生活をしていました。居館は祭りを行ったり、余剰生産物を蓄える役割もありました。
 民衆の住居の壁にはカマドが出来、少ない燃料で料理出来る様に為りました。また、鉄製の農具も普及し生産性が上がりました。

 古墳時代の服装

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 男性 衣と乗馬ズボン風の袴 女性 衣とスカート風の裳 どちらも、上下に分かれた服を着て居ました。

 古墳時代の食べ物 弥生時代に広まった稲作が、より大規模で行われる様に為ります。お米をカマドの強い火で炊く様に為り、美味しく炊ける様に為りました。木の実も相変わらず重要な栄養源。

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 アク抜きしてクッキーの様に焼いて食べます。大きく変わったのが加工食品の生産。日本は高温多湿で食べ物が腐り易い為、塩漬けにして長持ちさせる様に為ります。この文化が、のちに味噌や醤油、漬物、塩辛に繋がります。干物や燻製と云った工夫もありました。  

 古墳時代のキーワードをチェック

 【邪馬台国】約30ヶ国から為る連合国家。呪術的な力を持つ卑弥呼が国をまとめ、中国とも交流。身分制度や税制、市などもありました。

 【古墳】3世紀後半〜7世紀に作られた権力者のお墓。3〜4世紀の古墳には鏡や玉、剣等呪術的なものが埋葬されて居た為、天候を占う司祭者が力を持つ様になったと考えられています。しかし、5世紀頃の古墳には馬具や鉄製の武器が一緒に埋葬されて居る事から、軍事的指導者が力を持ったと考えられて居ます。
 古墳には、前が四角形で後ろが丸の前方後円墳、両方とも四角形の前方後方墳があり、大きいものは486メートルにも為ります。
 【大和政権】大和政権は元々邪馬台国だったと云う説があるが、ハッキリしたことは分かっていません。大和政権のトップ“大王”が、後に天皇と呼ばれる様に為って行きます。

 次は 5 飛鳥時代の流れと服装・食事を解説









   その 3



 3 弥生時代の暮らし・遺跡・食事を解説

 動画 https://youtu.be/Id1v-7L40FI

 弥生時代(紀元前4世紀〜)

 紀元前4世紀頃、大陸から稲作が伝わって来ました。初めは九州地方に伝わり、100年程掛けて近畿地方迄。紀元前後には関東地方、紀元2世紀には東北地方に伝わって行きます。稲作がこれ程広まった理由は、食料の保存が効く為でした。
 今までは木の実や動物が取れ無いと飢えで苦しむ心配がありましたが、お米を作れば保存出来るので飢え死にする心配が無く為ります。只、稲作には水路の確保や田んぼを耕す作業、お米を保存する場所や、調理する道具等、様々なものが必要に為ります。その為、人々の生活にも大きな変化が現れました。

 暮らしの変化

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 稲作が広まったことで生活人数が変化しました。縄文時代は4〜6軒がまとまって生活して居ましたが、排水設備などを管理する為に10〜30軒が集まって暮らす様に為ったのです。道具にも変化が表れます。稲作と同時期に伝わって来た金属を使うことで、効率的に田んぼを耕せる様に為りました。
 お米の保存の為に、建物も変わりました。今までは地面に直接屋根を乗せた竪穴式住居で暮らして居ましたが、これでは湿気でお米がダメに為ったり、ネズミに食い荒らされたりしてしまいます。そこで、地面から離れた高い場所に倉庫を作って湿気を防ぎ、ネズミ返しでネズミが侵入出来無い様にしました。

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              <出典:やちくりけんブログ>


 土器にも変化が表れました。大陸の技術と今までの文化が融合して弥生土器が生まれます。弥生土器は縄文土器に比べ薄くて丈夫。お米や野菜を煮るのに役立ちます。煮炊き用以外にも、お水を溜めて置いたりお皿として使ったりもしました。

 集落の統合

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 これ等の変化で生活が安定して来ると、今度はお米を溜め込む人が現れ貧富の差が生まれます。貧富の差はそのママ力関係に繋がり、集落内で上下関係が発生。又、集落間でも貧富の差が生まれた為、他の集落から食料を奪おうとして争いが増えて来ます。
 争いの後には集落が統合されて、徐々に小さな国が誕生して行きました。ちなみに稲作には天候も大切なので、占いや雨乞いで天気を操る人も力を持つ様になりました。

 弥生時代の食事

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 弥生時代に入ると食事の内容が大きく変化しました。米や小麦、粟、ヒエなどを栽培する様になり、穀物が主食に為りました。穀物は水を加え炊いたり、蒸したりしてスプーンで食べていました。穀物の他にもスイカやカボチャ、桃、梅、あんず、柿など、様々なものが栽培され食べられていました。また、縄文時代から食べられていたクルミやドングリ、イノシシやシカ、果物や魚などは、弥生時代にも重要な食料のひとつでした。

 弥生時代の遺跡

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                  <出典:wikipedia>

 弥生時代の遺跡は全国各地に100以上!! 中でも有名なのは吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)でしょう。吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の吉野ヶ里丘陵にある遺跡で、大規模な環濠集落として知られています。その広さはなんと50ヘクタール。
 二重に作られた壕(ほり)や物見やぐらが特徴で、外からの攻撃を防ぐことに長けていました。遺跡からは勾玉や銅鏡、銅剣、石棺、土坑墓、布製品などが発見されて居ます。

  次は4 古墳時代へ



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