2021年03月17日
その 3
3 弥生時代の暮らし・遺跡・食事を解説
動画 https://youtu.be/Id1v-7L40FI
弥生時代(紀元前4世紀〜)
紀元前4世紀頃、大陸から稲作が伝わって来ました。初めは九州地方に伝わり、100年程掛けて近畿地方迄。紀元前後には関東地方、紀元2世紀には東北地方に伝わって行きます。稲作がこれ程広まった理由は、食料の保存が効く為でした。
今までは木の実や動物が取れ無いと飢えで苦しむ心配がありましたが、お米を作れば保存出来るので飢え死にする心配が無く為ります。只、稲作には水路の確保や田んぼを耕す作業、お米を保存する場所や、調理する道具等、様々なものが必要に為ります。その為、人々の生活にも大きな変化が現れました。
暮らしの変化
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稲作が広まったことで生活人数が変化しました。縄文時代は4〜6軒がまとまって生活して居ましたが、排水設備などを管理する為に10〜30軒が集まって暮らす様に為ったのです。道具にも変化が表れます。稲作と同時期に伝わって来た金属を使うことで、効率的に田んぼを耕せる様に為りました。
お米の保存の為に、建物も変わりました。今までは地面に直接屋根を乗せた竪穴式住居で暮らして居ましたが、これでは湿気でお米がダメに為ったり、ネズミに食い荒らされたりしてしまいます。そこで、地面から離れた高い場所に倉庫を作って湿気を防ぎ、ネズミ返しでネズミが侵入出来無い様にしました。
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<出典:やちくりけんブログ>
土器にも変化が表れました。大陸の技術と今までの文化が融合して弥生土器が生まれます。弥生土器は縄文土器に比べ薄くて丈夫。お米や野菜を煮るのに役立ちます。煮炊き用以外にも、お水を溜めて置いたりお皿として使ったりもしました。
集落の統合
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これ等の変化で生活が安定して来ると、今度はお米を溜め込む人が現れ貧富の差が生まれます。貧富の差はそのママ力関係に繋がり、集落内で上下関係が発生。又、集落間でも貧富の差が生まれた為、他の集落から食料を奪おうとして争いが増えて来ます。
争いの後には集落が統合されて、徐々に小さな国が誕生して行きました。ちなみに稲作には天候も大切なので、占いや雨乞いで天気を操る人も力を持つ様になりました。
弥生時代の食事
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弥生時代に入ると食事の内容が大きく変化しました。米や小麦、粟、ヒエなどを栽培する様になり、穀物が主食に為りました。穀物は水を加え炊いたり、蒸したりしてスプーンで食べていました。穀物の他にもスイカやカボチャ、桃、梅、あんず、柿など、様々なものが栽培され食べられていました。また、縄文時代から食べられていたクルミやドングリ、イノシシやシカ、果物や魚などは、弥生時代にも重要な食料のひとつでした。
弥生時代の遺跡
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<出典:wikipedia>
弥生時代の遺跡は全国各地に100以上!! 中でも有名なのは吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)でしょう。吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の吉野ヶ里丘陵にある遺跡で、大規模な環濠集落として知られています。その広さはなんと50ヘクタール。
二重に作られた壕(ほり)や物見やぐらが特徴で、外からの攻撃を防ぐことに長けていました。遺跡からは勾玉や銅鏡、銅剣、石棺、土坑墓、布製品などが発見されて居ます。
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