2019年12月04日
〜現代日本人が見過ごし勝ちな真実〜 その1 江戸幕府は何故「鎖国」したのか
〜現代日本人が見過ごし勝ちな真実〜
その1 江戸幕府は何故「鎖国」したのか
それは一つの宗教戦争だった
〜コラムニスト 堀井 憲一郎〜
諸悪の根源は「鎖国」にアリ!?
「鎖国」と云う言葉が日本史の教科書から消えるかも知れ無い、と云うニュースがあった。新学習指導要領で、聖徳太子と鎖国等の歴史用語を「厩戸王」「幕府の対外政策」とする改訂案が出されて少し話題に為って居た。
只、3月末に出た文部科学大臣の告示によれば、聖徳太子も鎖国も、取り敢えず消え無い様に決まった様だ。
確かに「幕府の対外政策」と云う言葉では何だか弱々しい。当時の徳川政府が維持した政策は可なりの力伎だったと思うのだけれど、そう云うニュアンスが落ちて居る。より正確に記そうとして、今時らしい決断し無い姿勢が出てしまって居る。
改めて「鎖国」と云う言葉は、実際に国が鎖ざされて居た時代では無く、鎖国の後、開国してから意味を持って居た言葉なのだなと思い至る。
哲学者・和辻哲郎はその著書『鎖国−日本の悲劇−』の中で、鎖国政策を批判して、17世紀初頭の日本に付いて、この様に記して居る。
「侵略の意図等恐れずに、ヨーロッパ文明を全面的に受け入れれば好かったのである。・・・未だ左程酷く後れて居なかった当時としては、近世の世界の仲間入りは困難では無かったのである。それを成し得無かったのは、スペイン人程の冒険的精神が無かった故であろう。そうしてその欠如は視界の狭小に基づくであろう」
和辻は、とても悔しがって居る。これが書かれたのは昭和25年(1950年)日本は世界戦争に大敗北して5年、未だ占領下に在った。明治22年生まれの和辻は当時61歳である。鎖国した事に依って、16世紀の日本は世界のトップレベルから落ちて行った、アノ時に道を間違え無ければ、かくの如き惨めな敗戦国に至る事は無かったのでは無いか・・・そう悔しがって居るのだ。
第二次世界大戦に於ける敗北は、そして日本史上初めて他国に依って全土が支配されると云う惨状は、秀吉・家康ラインから始まった「鎖国」に原因があると憤って居るのだ。
鎖国さえして居なければ、当時の為政者にもっと広い視野さえあれば、日本史にもう一度ヤリ直しが効く為らば、人生が二度あれば・・・高名なる知識人が本気で悔しがって居る。敗戦後の昭和日本では、鎖国がとても憎まれて居た。「鎖国」と云う言葉は、そう云う歴史用語である。
徳川時代の歴史を表した言葉ではあるが、その言葉が意味を持って使われて居たのは、開国された後なのだ。明治・大正・昭和の時代の言葉である。「西洋列強と争わ無ければいけ無い時に、出遅れてしまった原因」として「鎖国」と云う否定的な言葉が使われた。
明治政府によるネガティブ・キャンペーン
明治政権は、異様な程に前政権の施政を否定的に喧伝して居た。徳川政権の遣って居た事は全て前近代的で、封建的で、全くダメなもので、それを明治政権がキチンと近代化した、と云う物語を広めて居た。昭和の後半に為っても、皆それを信じて居た。徳川時代もそんなに悪く無かったのではないか、と言われ出すのは、それコソ平成に入ってからである。鎖国は、そう云う明治政府による前政権の否定の一材料として、頻りに使われて居た。
徳川時代の次に位置付けられる一区切りとして「明治・大正・昭和時代1868-1989」と云う歴史区分があって好いなと今おもい付いたのだが、明大昭時代、乃至はMTS時代との表記は如何でしょう。
その「明大昭時代」の用語として「鎖国」と云う言葉に意味があったのだ。明大昭時代の思想を考える時に「鎖国」と云う言葉はキーワードの一つなのである。確かに、徳川時代を通して、隙間無くピッタリと国を鎖ざして居た訳では無い。長崎と薩摩と対馬と蝦夷の四つの口は開けて居た。しかし逆に言うとその四つしか開けて居なかった訳で、その前の時代や、後の時代と比べて、随分と狭いのも確かである。
その口の狭さが、又徳川時代を形作って居たのだから「幕府の対外政策」と云う助詞の入った言葉では無く、何かしらの一言で表して貰った方が便利である。
「海禁」なら「海禁」で好いと思う。その辺は一般人の常識的な日常用語なのだから、余り真剣に学者の意見を聞いても仕方が無い。プロの野球戦法を、アマチュア草野球で取り入れた処で、殆ど意味を為さないのと同じだからだ。
「西洋文化に対する強いコンプレックスを持って居た時代」の空気として「鎖国」と云う言葉には強い存在感があった。逆に言えば、鎖国と云う言葉を使わ無くても好いんじゃないかと云う考えは、私達の西洋コンプレックスが可なり薄まって来たからだと云う事に為る。和辻哲郎が書いた様な、焼ける程の西洋コンプレックスは、確かに今の日本人には無い。
私の個人的な風景から思い出すと、1989年頃、日本企業がニューヨークのロックフェラーセンターやコロンビア映画会社を買収した頃に、ヤッと鎖国の出遅れから(第二次大戦の敗戦コンプレックスから)抜け出せた様に思う。
それからもう30年である。確かに可なり薄まって来て居ると思う。それは悪い事では無いだろう。余りに国粋的な動きに為るのは(反っくり返り過ぎなので)どうかと思うが。
キリスト教布教の異常な熱情
ソモソモ、鎖国と言える状態に為った理由を、皆余り真剣に捉えて無い。17世紀に、江戸の中央政府は「国を鎖ざす」と云う宣言はして居ない。世界と没交渉に為ってこの国だけに閉じ籠もりたいと云う政策を打ち出した訳でも無い。只只管、キリスト教を日本国内から排除しただけである。
日本にキリスト教徒を存在させ無い為だけに国を鎖じた。その辺の宗教的な事情が余り理解されて居ないとも思う。恐らく、現在のフランス・ドイツ・イギリス人・スペイン人等を思い浮かべ、彼等の多くはキリスト教徒だと思われるが、何等かの脅威を感じる事は無く、他宗教教徒だと強く意識させられる事も余り無い。
その感覚を基に、16世紀から17世紀を眺めて居るからだろう。そこからは何も判ら無い。16世紀の宗教にまつわる熱情は、今から見れば只管に異常である。ルターによる宗教改革が16世紀の前半に始まり、新教と旧教の対立が先鋭化して行くのが16世紀の風景である。その対立が、遠い彼方の日本国迄遣って来た。フラシスコ・ザビエルは命を捨てる覚悟で遣って来た。
和辻哲郎も、彼等イエズス会士の事を「中世的戒律を守り、自己及び同胞の魂を救う為に身命を捧げて戦う軍隊であった。従ってそれは内面化された十字軍であると云う事も出来る」と記して居る。
彼等は、日本人達を神の国へ導くのだと云う強い決意と共に遣って来て居る。キチンと命を賭けて居る。その熱意は、当時の日本人に伝わったのだろう。日本人のキリスト信徒はドンドン増えて行った。
それは或る種の「宗教戦争」だった
羽柴秀吉や徳川家康は、キリスト教が広まる未来を想像して、敢然、排除へと向かった。恐らく、キリスト教が広まる事によって、彼等の考える日本の平和は成し遂げられ無いと思ったからだろう。暴力的な時代は、その対処も暴力的に為らざるを得ない。しかし時間は掛かった。
1587年の秀吉の伴天連追放令から、1639年の所謂鎖国令の完成迄50年掛かって居る。50年の年月を掛けて、キリスト教徒を完全に排除して行った。これ又凄い作業である。一時、数十万人居たとされるキリスト教徒を、日本国内から一人残らず排除したのだ。
私はこれを「キリスト布教しようとする勢力と日本国の或る種の宗教戦争であった」、と見て好いと思って居る。その緒戦と云うか、戦いが始まる前に、秀吉・家康ラインが敵を徹底的に叩いた迄である。詰まり、鎖国は宗教戦争の結末である。実際に戦端を開か無い為の知恵だったのだ。
秀吉の時代にはフランスでユグノー戦争が起こり、その少し後(三代将軍徳川家光が鎖国を完成させる時代)にドイツでは三十年戦争が展開して居る。宗教戦争である。
キリスト教徒同士でも、信じるものが違って居れば敵と見なして、殺し続けて居る時代であった。偶々、その軍隊の本拠地が日本から遠かった為に、本格的な戦争に至ら無かっただけ、と考えた方が好いのではないか。
昭和25年に、和辻哲郎は「侵略の意図等恐れずに、ヨーロッパ文明を全面的に受け入れれば好かったのである」と書いたが、これも又暴論である。侵略の意図は恐れた方が好いに決まって居る。
ポルトガル軍やスペイン軍と誰も戦いたく等無い。勝った処で、こちらは何かを得る訳では無い。戦国の武将は、恐らく専守防衛を余り好きでは無かった筈だ。
しかし昭和25年の日本人が住んで居たのは、独立国の日本では無い。アメリカに占領された場所に住んで居た。戦争に負けた後、日本の力で西洋文明に対抗しようとするのは、ソモソモ無理だったんだよ、と云う気分が国中を覆って居た。
20世紀にアメリカ占領エリアに為る位なら、16世紀に少し位危険を犯しても、西洋国と一緒に近代を歩むべきだったと言いたく為る気持ちは判る。そう云う思潮は、昭和の後半をズッと覆って居た。
鎖国と云う否定的なニュアンスを持つ言葉は、明治・大正・昭和時代にとても力を持って居たのである。その事は、頭のドッか片隅に置いて置いて居た方が好い。今現在も又、そう云う流れと同じ処に我々は立ち続けて居るのだから。
以上
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