2018年05月17日
明治維新 関連その1 明治維新の今までの解説
明治維新 関連その1
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明治維新 それは多大な犠牲を払った近代日本の「革命」だった
「幕末」と云う15年間の内乱を経て
戊辰戦争の戦闘のひとつ「上野戦争」
西郷隆盛や大村益次郎の率いる新政府軍が、現在の上野公園を舞台に彰義隊を壊滅させた。国史画帖大和桜より
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明治維新 それは、明治政府によって新しい時代が築かれるに至った、一連の改革(革命)の事です。この革命は、日本が世界有数の大国へ成長を遂げる契機を作ったと言われています。
明治維新が起きたのは、約260年も続いて来た江戸時代(1603〜1867年)の末期、所謂幕末(徳川幕府の末期)に起きました。好く知られる「ペリー来航」(1853年)から「大政奉還」(1867年)迄の15年間の事です。
それ迄の日本は、平清盛や源頼朝が活躍した平安時代の後期から数えると700年以上も「将軍」が日本を支配した武家政権、所謂「武士の世」が続いていたのです。幕末には、この「武士の世」を終息させ様と云う流れが起きて居ました。
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江戸時代の終焉を象徴した事件が「大政奉還」です。これは、徳川幕府の最後の将軍(15代)徳川慶喜(よしのぶ)が、政権を朝廷に返上した政治事件のことです。とは言え、これは形式上の事で、その後も慶喜の独裁制は維持されました。それに不満を覚えた倒幕派の公家、岩倉具視(いわくら ともみ)等が明治天皇を擁して「王政復古(おうせいふっこ)の大号令」を発し、慶喜から実権を取り上げ、幕府の完全消滅を宣言しました。時に1868年1月、ここに「明治新政府」が樹立されたのです。これが「明治維新」の始まりでした。
しかし当時、国内には徳川慶喜を初め、旧幕府勢力が残存して居た為、「倒幕」の旗を掲げる明治新政府と、旧幕府勢力との間で「戊辰(ぼしん)戦争」が起こります。新政府軍は薩摩藩・長州藩・土佐藩など「倒幕派」を中心とした諸藩の連合軍。一方の旧幕府軍は会津藩・桑名藩に加え、それに同調した東北諸藩等の「佐幕(さばく=幕府を助ける)派」が中心でした。
この「戊辰戦争」は、明治新政府が勝利し、旧幕府勢力は滅びます。その途上、西郷隆盛が勝海舟の提案を受け、江戸総攻撃を中止した事で名高い「江戸無血開城」で、江戸の町だけは戦火を免れました。
しかし、戦線は上野から東北へ移り、会津や長岡等の東北諸藩は新政府軍の猛攻を受け多くの犠牲を払ったのです。戦乱は翌1869年6月の箱館戦争の終結迄1年半に渉って続きました。この内乱を制した明治政府が新時代の担い手となったのです。
天皇が京都から、新都「東京」へ移る
明治元年、東京城と名を改められた江戸城(現在の皇居・伏見櫓)
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明治時代を象徴する大きな出来事と言えば、天皇の東京奠都(とうきょうてんと)でしょう。1868年(明治元年)9月20日、明治天皇は京都御所を発し、10月13日に江戸城へ入りました。徳川幕府の本拠地だった江戸城は「東の京都」を意味する東京城と改められ、後に「皇居」と為ったのです。
古来、「千年の都」と言われた京都から東京へ完全に首都機能が移ったのもこの時でした。今から、ほんの150年前です。
先の「王政復古の大号令」により、政府は明治天皇を頂点とした中央集権の国作りを始めました。そして西洋技術・文化の輸入に努め、文明開化、殖産興業政策を進めて行きます。又「国民皆学」のスローガンの下、学校教育に力を入れました。教育を振興し、経済を発展させて国力を着け、軍備の整備を進める。所謂「富国強兵」です。これによって欧米に負け無い国作りを目指し、日本の近代化は進められて行きました。
中央集権化は社会システムも大きく変えます。未だ各地方には、江戸時代のままの制度である大名(藩主)が治める「藩」が存在し、独自に税を徴収する等の地方分権制が執られて居ました。これを新たに「中央政権」である東京に集約しようとしたのです。
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政府は藩を廃止して新たに県を置きます。藩主は東京へ集められ、罷免を申し渡されます。代わりに政府から県令が派遣され後に「知事」と為りました。これが1871年(明治4年)に行なわれた「廃藩置県」です。
次に、政府は古い身分制度を廃止します。皇族以外は全て平等と云う方針の下、公家と大名を「華族」、大名以外の武士を「士族」に、農民と町人等を「平民」に改めました。
この時、平民も初めて「鈴木」や「田中」等、名字を名乗る事が許され、又華族や士族と結婚する事も認められたのです。所謂「四民平等」政策です。一方で、政府は士族に与えて居た秩禄(ちつろく)と云う給与を廃止し、「廃刀令」の公布によって、刀を取り上げました。
「維新の十傑」も半数以上が犠牲に為った
政府は更に政策を進めます。「国民皆兵」と云う概念の下、天皇直属の軍隊を作る為の「徴兵令」が導入され、士族・平民の区別無く、20歳に達した男子に3年の兵役を強いました。こうした改革は、士族(旧武士)への弾圧であり、彼等の存在意義を否定するものでした。次々と既得権益を奪われた士族達は反発し、各地で暴動を起こしましたが、政府はこれを武力で鎮圧しました。
一連の近代化・四民平等政策を推し進めて居たのは岩倉具視・木戸孝允・大久保利通達です。しかし、一方で急速に過ぎる改革への反発や彼等と意見を違えた者達からの不満が噴出して居ました。その反体制側の代表が西郷隆盛・江藤新平・板垣退助等です。彼等は1873年(明治6年)に起きた征韓論に端を発する政争により辞表を出して国許へ帰ってしまったのです。
結果、各地で新政府に反発する自由民権運動や士族反乱が起き、それは1877年(明治10年)の「西南戦争」終結まで続きました。殊に西郷隆盛が指導者として決起した「西南戦争」は、政府軍と薩摩軍の両軍で動員数が10万人にも膨れ上がった「最後の内戦」とされる大規模なものでした。
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明治維新で活躍した人物たちの内、「維新の十傑」と呼ばれた人々が居ます。それは、西郷隆盛(薩摩)・大久保利通(薩摩)・小松帯刀(薩摩)・大村益次郎(長州)・木戸孝允(長州)・前原一誠(長州)・広沢真臣(長州)・江藤新平(肥前)・横井小楠(肥後)・岩倉具視(公家)の10名(『維新元勲十傑論』より)です。
しかし、革命児であった筈の彼等の内7名は明治11年までに暗殺又は刑死・戦死と云う無惨な最期を遂げて居ます。明治政府は内乱に次ぐ内乱により、最初の10年間は混乱を極めたのでした。
何故、革命は急がれたのか?
何故、それ程までに急速な改革が必要だったのでしょうか。それは、やはり「ペリー来航」から続いた欧米諸国の帝国主義による外圧の脅威を、当時の政治家達が痛感したからに他なら無いでしょう。又、ペリー来航以前には「アヘン戦争」(1840年〜)もありました。アジアの大国であった清(中国)が、イギリスの軍事力に屈し、香港を植民化されて賠償金の支払い等を認めた事が、日本にも大きな脅威と為ったのです。
西南戦争で戦死した西郷隆盛
死後10年程を経て明治天皇により名誉を回復され、明治31年に東京上野に銅像が、昭和12年には地元・鹿児島に銅像が建った。
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幕末に盛んに唱えられた攘夷運動も失敗し、欧米との圧倒的な軍事力の差を見せ着けられたのも大きな原因だったでしょう。独立した強い国家として、新たな体制で列強諸国と渡り合って行か無ければいけない……その危機感の表れが、あの期間に集約されたのです。
明治維新は、僅か四半世紀で大きな成功を収めた近代化革命として世界にも注目されました。しかし、それは多くの犠牲の下に成り立ったと云う事を忘れては為ら無いでしょう。
文:上永 哲矢(うえなが てつや)
歴史文筆家。日本史及び『三国志』を生業とする他、旅と温泉を愛する紀行家としても活動。著書に「三国志 その終わりと始まり」(三栄書房)、「密教の聖地 高野山」(三栄書房)、「ひなびた温泉パラダイス」(山と溪谷社)。
上記引用させて頂きました、有難うございます・・・この時代の境目には色々な事件が起きました、次回は坂本龍馬は何故誰に殺されたのか?を推測します・・・
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今回は、ちょっとお洒落な雑貨・文房具のご紹介 趣味の一助に・・・
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