2018年05月12日
モンゴル帝国の歴史 その2
モンゴル帝国 その2
中国侵攻
【一息ついた十字軍】
アッコンの十字軍要塞(イスラエルのアッコ)
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地中海沿岸の要塞には、未だ十字軍が身を潜めて居た。イスラム軍の崩壊で息を吹き返した十字軍は、モンゴルと組んでエルサレムに進軍すべきか迷っていた。しかし、ロシア、リトアニアの反乱鎮圧に向かったモンゴル軍の残虐行為を知ってモンゴルとの連携を断念した。ルブリンやクラクフの町は、前回以上に破壊されたのである。
【中国侵攻】
フビライは南宋攻略に手こずって居た。これを見てモンケは、自ら軍を率いて南宋に攻め入った。遠征は順調に進んで居たが、重慶を攻略後に突然モンケは病死した(1259年)。この時、フビライは揚子江北岸に布陣して居た。フビライは兄の訃報を聞いても引き上げず、揚子江を渡り南宋の奥深く進軍を続けた。
不敗神話の崩壊
戦うマムルーク戦士
フラグ゙はエルサレム攻撃の準備中だった。モンゴル軍が後一押しすればイスラム勢力は消滅する。
その時飛び込んで来たモンケの訃報、フラグ゙は一部の守備隊をダマスカスに残して撤退した。軍事情勢は一変した。先ず、シドンとベイルートの十字軍が反旗を翻した。反乱はアッサリ鎮圧されるが、モンゴル軍がガラ空きに為っている事が知れ渡った。
このチャンスに降伏寸前のマムルーク軍は北上を開始し、フラグの居ないモンゴル軍とパレスチナのアイン・ジャールート渓谷で激突した。ここはその昔、ダビデがゴリアテを倒した渓谷である。
一進一退の激闘の末、モンゴル軍は破れた。イスラム軍は、ダマスカス・アレッポを奪回しイスラム世界は窮地を脱した。
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この頃フラグはモンゴルに戻らずイランに留まって居た。そして、この地にイル・ハン国が建設される。シリアに残って居た十字軍の要塞は、マムルークに次々と攻略された。1291年にアッコンが陥落して十字軍基地は全て消滅した。
元
フビライは尚も宋と戦って居た。大軍を握って居たフビライは、1260年に自らクリルタイを開き強引にハンの座に就いた。このクリルタイにはモンゴル一門は誰も参加して居らず、オゴタイの孫ハイドゥが起こしたハイドゥの乱などハン位を巡る争いが続いた。実力者フビライに逆らう者はいなく為ったが、後の帝国分裂の火種が残った。
フビライ(台北・故宮博物館)
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フビライの治世の時がモンゴル帝国の絶頂期であった。彼の威令は中国を始め、中央アジア・西アジア・ロシア等帝国の全てに行き渡った。陸上・海上の貿易は盛んになり、東西の製品が流通した。首都はカラコルムから大都(北京)に移した。
1279年懸案の南宋を滅ぼし大元を建国した。続いてベトナムへ侵攻、ミャンマーのパガン朝、雲南のタイ人の国:大理国を滅ぼす。しかし、ベトナムの陳朝大越国(チャン朝ダイヴェト国)は、首都ハノイを明け渡し、その後町を包囲、補給路を断つと云う戦法で3度に渉って元の侵攻を撃退した。
元寇
博多湾に残る元寇防塁(生の松原)
東アジアでは、朝鮮半島の高麗は服属したが、日本は18歳の執権北条時宗が使者の首を撥ねて服従を拒否した。
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【文永の役】
1274年、3万の大軍が日本に押し寄せた。対馬・壱岐の日本軍を壊滅させた元軍は博多湾に上陸した。元軍は火薬を使い集団戦法で日本軍を苦しめた。しかし日本軍も激しく抵抗した為前進出来ず、博多市街に火を掛けて船に引き上げた。翌日、元の大船団は姿を消して居た。
【弘安の役】
1281年南宋を制圧した元は、元・高麗の東路軍4万と旧南宋の江南軍10万の二手に分かれて侵攻して来た。日本側は博多湾岸に防塁を築き、関東の武士も駆け着けて迎え討った。先ず、東路軍が上陸しようとするが激しい抵抗にあって海に追い落とされた。
1ヶ月遅れて江南軍が到着し総攻撃の準備に取り掛かった。しかし神風が発生し4000隻の軍船は壊滅した。
弘安の役後、フビライの人生は下り坂に向かった。この年に妻のチャブンが、数年後に息子のチンキムが死んだ。日本への3度目の遠征計画を放棄し、1294年に79歳で亡くなった。
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帝国の分裂
フビライの後継に孫のテムルが大ハンに就くが、各ハン国は独自の道を歩み始め、大ハンが世界に君臨する時代は終わった。モンゴル帝国は、元、オゴタイ・ハン国、イル・ハン国、キプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国に分裂した。
オゴタイ・ハン国は建国間も無い1301年に滅亡し、チャガタイ・ハン国と元に併合された。イル・ハン国とチャガタイ・ハン国はイスラム化し、その後ティムールに征服された。
元はモンゴル貴族間の内部抗争や相次ぐ天災の為各地で反乱が起った。そして反乱軍のリーダ朱元璋が建国した明に滅ぼされた。
キプチャク・ハン国は、バトゥの孫モンケの時が最盛期で、その後ロシアが独立し衰退して行った。
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プレスタージョンの伝説
マルコポーロが生まれたヴェネツィア
「東方にはプレスタージョンの教国がある。その国には黄金の河が流れている。東方の何処かにアトランティス大陸がある」
中世ヨーロッパで実際に信じられて居た話である。教会は絶大な力を持ち、エルサレム奪回の十字軍を起こした。敵イスラムを粉砕するチンギスハンを東方のキリスト教国の王プレスタージョンと思い込んだ。
一方で、黄金の国ジパングを発見する事が、莫大な富を得る道であった。それが冒険家達の情熱を掻き立て、マルコポーロを初め命懸けで未知の世界に飛び出して行った。それは一部の人間だけで無く、ヨーロッパ全体が狂気の如く動き出し略奪の大航海時代を迎えた。
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帝国のその後
【オゴタイ・ハン国 (〜1301) 】1301年にハイドゥが死去すると、チャガタイ・ハン国と元に吸収された。
【イル・ハン国 (1260〜1353)】フラグの死後、後継者争いで分裂の危機を迎えるが、第7代ガザン・ハンが自らイスラム教に改宗して国を立て直した。宰相のラシード・アッディーンはモンゴルの歴史書集史を著わした。その後、後継者争いが激化し、1353年にティムール帝国に吸収された。
【チャガタイ・ハン国 (〜1370) 】1321年、東西に分裂しパミール高原を挟んで互いに抗争した。1370年、西チャガタイ・ハン国のティムールが反旗を翻しティムール帝国を建国した。16世紀初頭には、チンギスハンの血を引くバーブルが北インドにムガール帝国を建国した。
【キプチャク・ハン国 (〜1419)】ヨーロッパ遠征を行ったバトゥが建国した。バトゥの血筋が途絶えると国は分裂し、モスクワ大公国を中心とするロシア軍にクリコボ平原で敗れた(1371年)。
しかし、ティムールの後ろ盾を得たモンゴル軍は反撃し、再びロシアを徹底的に破壊した。ロシアがキプチャク・ハン国から独立したのは、イヴァン3世(1462〜1505)の時である。彼は、ビサンツ帝国の娘と結婚し、その孫のイワン4世は、ツァーリ(皇帝:カエサルのロシア語)を名乗ってローマ帝国の後継である事を宣言した。
1441年にキプチャク・ハン国から独立したクリミア・ハン国は、オスマン帝国に従属しながら1783年まで存続した。1768年の露土戦争後、クリミア・ハン国は300年続いたオスマン帝国から切り離された。これ以降、クリミアに対するロシアの影響力は急速に深まり、1783年にロシアのエカテリーナは条約を破ってクリミアをロシアに併合した。
【元】 (1279〜1368)】フビライの死後、後継者争いが起き国は乱れた。モンゴルの支配に対する漢民族の不満が爆発し紅巾の乱が発生した。紅巾の乱は群集が頭に赤い布を巻いて居たことから付いた名前で、そのリーダ朱元璋は南京で明を建国した。明の北伐軍は大都を攻略し、元の順帝(トゴン・テムル)はモンゴル高原に去って行った(1368年)。
<参考資料> モンゴル帝国の戦い 東洋書林 詳説世界史 山川出版
http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu14.html
長々と引用させて頂きました、ありがとう御座いました。
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