2018年05月09日
江戸時代 その8
江戸時代 その8
・江戸の一寸面白いウンチク話記事
・江戸時代の早駕籠(はやかご)は早馬よりも速かった?
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江戸時代の交通手段は限られて居ました。自分の足で歩くか、駕籠に乗るか、馬に乗るかしか選択肢がありませんでした。
この中で、移動手段としてどれが一番速いのかと聞かれたら、多くの人は馬と答えるのでは無いでしょうか?しかし、飽く迄も人を乗せる長距離の移動手段として考えた場合、単純に早駕籠(はやかご)よりも馬の方が速いとは言え無かった様です。何故そうなのかを、具体的に説明してみたいと思います。
忠臣蔵の早駕籠は620kmの距離を4日半で走破した
忠臣蔵で浅野内匠頭による殿中刃傷の発生を伝える使者は、早駕籠を使って江戸から赤穂までの620kmの道のりを僅か4日半で移動したと言われています。時間に直すと108時間と云う事に為り、早駕籠が昼夜走り続けたと為るとその時速は6km弱と云う事に為ります。単純にこの時速だけで見た場合には、それ程早いイメージはありません。
因みに、マラソンランナーの平均時速は20km程度と為ります。又、現代の競馬に使われるサラブレッドのトップスピードは時速60kmから70kmと言われます。この数字だけを単純にみたら、どう考えても早駕籠よりも馬の方が速そうです。しかし、実際にはそう単純な話では無いのです。
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早馬の場合は移動の為の様々な制約があった
先ず、江戸時代に使われて居た馬ですが、現代の競馬で活躍するサラブレッドの様な足の長いスラッとしたタイプの馬ではありませんした。
日本の在来馬は、サラブレッドと比べると体高が40cmほど低く、ズングリとした短足でした。勿論、サラブレッドの様に速く走る事は出来ません。又、サラブレッドのスピードが時速60km〜70kmで走ると言っても、それは飽く迄も競馬場で2400mから3600mの距離を走る場合の事です。
江戸時代の早馬達は、1頭当たり宿場から宿場までの20km〜30kmの距離を走破し無ければ為りませんでした。それだけの距離を走ると為ると、馬が人を乗せて走る事の出来るスピードは精々時速15kmと為ってしまいます。それでも、早駕籠の平均時速6km程度と比べればずっと速いのですが、馬の場合には早駕籠の様に昼夜走り続けると云う訳にはいきませんでした。
江戸時代の街道は月明りだけが頼りの真っ暗闇です。早駕籠であれば、先導の者に提灯を持たせて走り続ける事も可能ですが、馬の場合にはそうはいきません。真っ暗闇では馬は走る事が出来ません。そう為ると、馬が走る事の出来る時間と云うのは或る程度限られてしまう事に為ります。それともう一つ問題なのは、乗っている人間です。
駕籠を担ぐ人や馬は宿場毎に交代をするので問題はありませんが、それに乗って居る人間は交代が利きません。早駕籠であれば、移動中であっても駕籠の中で握り飯などの食事を採ったり、仮眠を取ったりする事は可能です。
勿論、何日間もブッ通しで駕籠に乗り続けると云うのは困難なので、或る程度は宿場で休息を取ったとは思いますが、駕籠であれば時間的にある程度無理をしてでも移動する事は出来た訳です。しかし、流石に走って居る馬の背中に乗ったまま食事をしたり仮眠をしたりすると云うのは不可能です。
又、馬が走っている間は体にも相当な衝撃を受け続けますし、場合によっては中腰に為ったりして、駕籠の場合に比べて乗っている人の体力の消耗もかなり激しいものと為ります。そう考えると、早馬を使った場合1日当たりの移動時間は精々10時間程度だったのではないかと思われます。
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情報を伝えるだけ為らば飛脚が最速だった
江戸時代には宿場の周辺には駕籠の人足が常に待機をして居ましたので、宿場毎のリレーは割とスムーズに行ったのでは無いかと思われます。それに対して、早馬に使われる様な優秀な馬が各宿場に常に用意されて居るとは限りません。馬が手配出来ずに、宿場で時間をロスしてしまうと云う事も十分に有り得る事です。
そう言った事をトータル的に判断した場合、長距離の移動手段と云う事で考えたら、早駕籠よりも早馬の方が速いとは単純に言え無い訳です。もしこれが、同じ人物を移動させるのでは無く、馬の上に乗る人物も宿場毎に交代すると云う事であれば、早馬の方が速く目的地に着く可能性は高く為ります。
又、人を移動させると云う目的では無く、只単に情報を伝達すると云う目的である為らば、当時の最速は飛脚でした。正三日限と云う最高ランクの飛脚を使うと、江戸と大坂間の570kmを何と丸二日で走破したと云うから驚きです。
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江戸から大坂までを丸二日で走る飛脚の料金は140万円
交通手段の発達した現代においては、東京都から大阪まで郵便物を送る場合、午前中に速達便で出せば翌日には到着します。しかも普通の手紙であれば、料金は速達であっても82円+280円(速達料金)=362円です。処が江戸時代に、江戸から大坂まで一番早い便で飛脚を走らせたら、その料金は大変な事に為ります。
仕立(今で云うチャーター便)の正三日限と云う実質丸二日で届く便を使うと、何と料金は銀700匁(約140万円)も掛かりました。 今なら、ファーストクラスでニューヨークまで行ける金額です。料金もビックリですが、江戸と大坂間の570kmと云う距離を人間の足だけで丸二日で走り切った飛脚の走力にも只々驚くばかりです。
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幕府の公文書を運んだのが飛脚の始まりです
飛脚は元々、江戸幕府が開かれた時に、京都と江戸の間で公文書の遣り取りが必要に為った為に誕生しました。問屋と問屋の間を、公文書を持ってリレー形式で走った訳です。これが所謂「継ぎ飛脚」と呼ばれるものです。
やがて諸国の大名達も自前で飛脚を使う様に為り、これが大名飛脚と為りました。そして、幕府や大名だけでは無く、一般の人の手紙や小包を運ぶ為に誕生したのが、民営による「町飛脚」と云う事に為ります。
町飛脚は、江戸、大坂、京都の商人達が幕府の許可を得て運営をして居ました。
上方と江戸の間を月に3回定期的に往復して居た事から「三度飛脚」や「定飛脚」等と呼ばれた様です。暫くすると、江戸界隈の狭い範囲だけを営業拠点とする町飛脚も現れ、担ぎ棒に鈴を着けて音を鳴らしながら走って居た為、町人からは「チリンチリンの町飛脚」と云う愛称で呼ばれて居た様です。
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飛脚には細かな料金設定がありました
冒頭に紹介した、江戸〜大坂間の銀700匁(約140万円)と云うのは、飛脚の中でも一番早い仕立の正三日限の料金でした。並便と呼ばれる一番安い飛脚であれば、江戸〜大坂間の料金は僅か30文(約600円)でした。並便は十日限と為っており、江戸と大坂間をおよそ丸九日掛けて運びました。質し、並便の場合は詳細な出発日が決められて居ないと云うデメリットがありました。
定期的に出発日が決められて居たのは幸便と呼ばれるものです。幸便の場合は、並便と同じく江戸と大坂間をおよそ九日掛けて運ぶ十日限の料金が60文(約1200円)で、並便の2倍と為りました。幸便の場合は、配達日数によって細かに値段設定がされて居りました。
江戸と大坂間をおよそ七日で運ぶ八日限りの場合は銀一匁(約2000円)、七日限りの場合が銀一匁五分(約3000円)と、掛かる日数の短さに応じて料金がアップして行きました。幸便の一番早い便は正六日限と云うほぼ確実に丸五日で江戸〜大坂間を運ぶ便で、料金は金一朱(約3万2000円)でした。
仕立と云うのは、運ぶ荷物が1つでもあれば、その荷物の為だけに配達をする所謂チャーター便です。依頼があれば、即時に出発をして料金毎に決められた日数でほぼ確実に届けられました。仕立は当然料金も別格で、一番安い正六日限(ほぼ確実に丸5日で届く)の場合でも金3両(38万4000円)と為っています。そして、正五日限が金3両2分(44万8000円)、正四日半限が金4両(51万2000円)、正四日限が金4両2分(約57万6000円)と上がって行き正三日半限では金7両2分(約96万円)に為ります。
そして、江戸と大坂をほぼ確実に二日で走り切る仕立の正三日限の料金が銀700匁(約140万円)と云う事に為るわけです。
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どうやって江戸と大坂を丸二日で走り切ったのか?
現代の価値に換算して140万円と云う料金も衝撃的ですが、江戸と大坂を僅か丸二日で走り切ったと云う仕立の正三日限のスピードも驚異的です。
勿論リレー方式で問屋場に待機して居る飛脚が、昼も夜も関係無しに走り続けたに違いありませんが、約570kmを丸二日で走り切ったと為ると、平均時速は12kmと為ります。マラソンのトップランナーが時速20km程ですから、その3分の2程度のスピードと云う事に為ります。しかし、現代のマラソンランナーが舗装されたほぼ平坦な道路を走るのとは違い、デコボコの峠道を走る続けた訳です。
当然ながらマラソンシューズなどと云うものはありませんから、履物は草鞋(わらじ)です。更に夜とも為れば、当時は灯り等全く無く真っ暗闇ですから、提灯を持った伴走が着く事もあった様です。勿論雨が降ろうが風が吹こうが関係無しに走り続けます。そう言った様々な悪条件にも掛からず、平均時速12kmで走り切ったと云うのは驚くべき事です。飛脚の中でも、特別に健脚な者ばかりが選ばれて居たのでしょう。
当時、中継所と為る問屋場は江戸〜大坂間に52カ所あったと言われて居ますので、一人の飛脚が走る距離はおよそ2里から3里(8km〜12km)程であったと思われます。詰り、足った1通の手紙を運ぶ為に、提灯の伴走も含めると殆どの人間が関わって居た70人と云う事に為ります。
そう言ったことを冷静に考えてみると、140万円と云う料金も驚く程高いと云う訳では無さそうですね。
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・伊勢参りは江戸の庶民に取って一生に一度の楽しみでした
庶民の楽しみ旅行で大人気だったのは伊勢参り。江戸時代の中期以降の庶民の楽しみの一つに、旅行がありました。しかし、当時は只の観光目的の旅には許可が下り無かった為に、飽く迄も表向きは寺社への参拝と云う事に為って居ました。
その中でも特に人気だったのが、伊勢参りです。火付け役と為ったのは、十返舎一九の書いた「東海道中膝栗毛」だと言われて居ます。弥次さんと喜多さんが、厄落としの為に江戸から伊勢神宮に向かう様子を、面白可笑しく書いた書物です。伊勢参りと云うのは、飽く迄も表向きは伊勢神宮への参拝ですが、実態は殆ど観光目的の旅行だった様です。
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驚異的な江戸時代の人達の脚力
江戸時代の人が伊勢参りをするには、移動だけで往復25日前後の日数が掛かった様です。大井川の川止めや伊勢での滞在日数を考慮して、1ヵ月程度の日程で計画する事多かった様です。江戸から伊勢神宮までの距離は126里ですから、往復で252里と云う事に為ります。1里は4kmですから、252里と云うと1,008kmと云う事に為ります。勿論、当時は現代の様な乗り物などありませんから、全て徒歩です。
約1,000kmの距離を約25日間で歩き切ったと云う事ですから、1日当たり40kmを歩いた訳です。マラソンランナーが走る距離とほぼ同じ距離を、毎日歩き続ける訳です。現代人であれば、恐らく初日でギブアップしかねない距離です。それを25日間ずっと歩き続ける訳ですから、江戸時代の人の脚力には、改めて驚かされます。
伊勢参りの費用はおよそ大工さんの給料1か月分
江戸時代の旅と云うのは、基本的に自分の足で只管歩く事に為る訳ですから、現代の旅行の様に乗り物代は掛かりません。しかし、宿泊したり食べたりする分のお金は掛かります。現代であれば新幹線を使って、東京から伊勢神宮の参拝を日帰りで済ませる事も可能ですが、当時の伊勢参りは1ヵ月近くの長旅だった訳です。
乗り物代が掛から無い分、旅の途中における1ヵ月分の宿泊費と飲食代は、可成りの金額に為ったに違いありません。平均的な伊勢参りの場合で、1日当たり1万円程度掛かったと言われて居ますので、トータルで30万円程度掛った事に為ります。現代ならば、一寸した海外旅行に行ける程のお金が、伊勢参りには必要だった訳です。
30万円と云うと、当時の大工さんの給料がその程度であったと言われています。詰り、伊勢参りには大工さんの給料1ヵ月分程度の費用が掛かった訳です。
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伊勢参りの費用をどうやって捻出したのか?
江
戸時代の人が伊勢参りに行くと、およそ当時の大工さんの1ヵ月分の給料程度の旅費がかかると云う事が分かりました。一生に一度の楽しみとは言え、旅行にそれだけのお金を使う事が出来た江戸時代の人は、結構な蓄えを持って居た様に感じるかも知れません。
しかし、江戸の庶民達の暮らしは、それ程余裕のあるものでは無く、実際には殆ど蓄えなどありませんでした。「江戸っ子は宵越しの金は持た無い」と言われますが、貯蓄をすると云う習慣が余り無かった様です。
江戸の町は非常に火事が多かったので、折角貯め込んだ金を灰にしてしまうのもバカらしいので、今あるお金は全部使ってしまった方が好いと云う考え方が定着して居たのでしょう。それでは、伊勢参りに幾お金は何処から捻出したのでしょうか?実は、伊勢講と呼ばれる仲間内で作る組織があって、そのグループで伊勢参りの貯めの旅費を積み立てて居たのです。
そして、積み立てた旅費を使って、代表者が持ち回りで伊勢参りをする事に為って居ました。実際に自分に順番が回って来る迄には何十年も罹る事がある貯め、伊勢参りは一生に一度の楽しみと云うことに為って居た訳です。
伊勢の帰りには善光寺に寄る事も多かった様です
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伊勢参りは一生に一度の楽しみではありますが、伊勢神宮に参拝しただけでとんぼ返りをしてしまったのでは、勿体無いと考える人も少無く無かった様です。その為、伊勢神宮に向かう時には東海道を歩いて行きますが、帰りは中山道を通って、信州にある善光寺に寄ってから江戸に戻るのが一般的だった様です。
江戸時代には「一生に一度は善光寺参り」等と言われましたが、実は伊勢参りと善光寺参りを同時に行われる事が多かった様です。金銭的な負担を考えたら、一度に回ってしまった方が合理的だと考えた訳ですね。
江戸時代には観光目的の旅行は許可され無くても、こうした寺社参拝が目的と云う大義名分があれば、複数の神社やお寺を回って旅をする事が出来た訳です。
・江戸時代のレンタル業である損料屋はふんどしをリースして居た?
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損料屋で大人気レンタル商品はふんどしだった。現代ではレンタル業が非常に盛んですが、実は江戸時代にも「損料屋」と呼ばれるレンタル業者が存在しました。
現代人は、レンタルをする商品と云うとクルマや成人式の着物など高価なものをイメージすると思いますが、江戸時代の損料屋の主力商品は、何と「ふんどし」でした。現代ではレンタル業が非常に盛んですが、実は江戸時代にも「損料屋」と呼ばれるレンタル業者が存在しました。そもそも下着をレンタルすると云う感覚は、今の人には理解不能だと思います。他人の履いたパンツをレンタルしても、誰も借りる人等居無い筈です。
江戸時代のふんどしは高額商品でした
今時パンツなんて、スーパーのセールなどで購入すれば、3枚セットで980円程の値段で買えてしまいます。余程ブランドに拘っている人でも無ければ、パンツが高いと云うイメージを持つ人は余り居ないでしょう。処が江戸時代のふんどしは、想像以上に高価だったのです。当時は、極一般的な6尺ふんどしが250文もしたのです。これは、現代の貨幣価値に直すと、5,000円程に為ります。
もし普通のパンツが1枚5,000円だと言われたら、結構身構えてしまう人もいるに違いありません。それ程、江戸時代のふんどしと云うのは高級品だったのです。損料屋にふんどしを借りに来る主なお客は、足軽などの下級武士が多かった様です。身分の低い武士達に取って、1枚5,000円もする6尺ふんどしと云うのは、気軽に買える様な代物では無かった訳です。
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大の男がふんどしを洗濯をすると云うは屈辱だった?
損料屋のふんどしレンタルビスネスが繁盛したのは、確かにふんどしの値段が高かったと云う事もありますが、実はそればかりでは無かった様です。実は、江戸の長屋の住民には、独身の男性が多かったのです。
江戸の町では男女の比率が、男性100に対して女性は55程度だった様です。江戸と云う町が各地からの労働力を集めて人工的に作られた都市であった為、多くの男性労働者が流れて来ました。
又、参勤交代などで地方から来た独身の武士達も多く居ましたし、丁稚奉公として商家に修行に来る若い男性も沢山居ました。そうした諸々の事情により、江戸の町には独身男性が溢れて居た訳です。独身であれば、炊事や洗濯を自分でやら無ければなりません。しかし、武士に取って自分のふんどしを自分で洗うと云うのは、相当の屈辱だったに違いありません。
しかも江戸の長屋では、洗濯は外にある共同の井戸脇で行われるのが一般的です。洗濯をする長屋の女性達に交じって、大の男が自分のふんどしを洗う等と云うのは、武士として耐え難き事だったと思われます。
損料屋に使用済みの汚れたふんどしを持って行くと、代わりに綺麗に洗濯をして「火のし(現代のアイロン)」を掛けたふんどしを貸し出して呉れた訳ですから、繁盛したのも頷けます。
決して安くは無い損料屋のふんどしレンタル代
この様に、様々な事情によりビジネスとして繁盛をして居たふんどしレンタル業ですが、実はそのレンタル料金は決して安くはありませんでした。汚れたふんどしを返して、新しいふんどしを借りる時に支払う料金は、60文程度であったと言われて居ます。現代の貨幣価値に直すと、1,200円にも為ります。ふんどしのレンタル料が1,200円と云うのは、ちょっと驚きですね。 4〜5回レンタルしたら、新品のふんどしが買える金額です。 そう言った事を考えてみますと、ふんどしそのものの値段が高かった事よりも、自分で洗濯をし無くて済むと云う事の方に、多くのメリットを感じて居たのかも知れません。
しかし、ここでカンの良い方は気が着いたと思います。ふんどしの1回のレンタル料が1,200円もしたと云う事は、毎日借りて居たら1ヵ月当たり36,000円にも為ってしまいます。幾ら自分で洗濯するのが嫌だったとしても、流石に毎月ふんどしにこれだけのお金を出せる程、江戸の下級武士達は裕福では無かった筈です。
カンの良い方は、マタマタ気が着いたかも知れませんが、実は江戸時代の男性は普段はふんどし等身に着けて居ない事が多かったのです。当時の女性が着物の下に下着を着けて居なかった事は広く知られて居る処ですが、実は男性も普段は下着を着けて居無かったのです。祭りの時等は、着物の裾をたくし上げる事が多かった為に、流石にふんどしをして居ないと拙いと云う事で損料屋に行って借りて来た訳です。
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損料屋で借りる事が出来た様々な物
損料屋で借りる事が出来たのは、6尺ふんどしばかりではありません。他にも布団や衣服、手拭いと云ったものも貸し出しをして居た様です。特に祭りの時に為ると、ふんどしと同様に借りに来る人が多かったのが浴衣です。
普段はヨレヨレの古着を身に着けて居た江戸の町人達も、祭りの時だけは少し見栄を張って綺麗な浴衣を着たかったのでしょう。又冠婚葬祭や旅行の時に使う様々な用品なども、損料屋から借りて使って居ました。実は、江戸の住民たちは余り物を持って居なかったのです。
勿論、それには経済的な理由もありましたが、それ以外にも長屋の部屋の狭さや火事の多さ等も、物を持た無い事の大きな理由に為って居ました。江戸の町は本当に火事が多かった貯め、家財道具を買い揃えても灰にしてしまっては馬鹿らしいと考える人も少なくありませんでした。
更に、住んでいる長屋の狭さは想像以上で、炊事場を兼ねた僅かばかりの土間と、4畳半の部屋に家族全員が生活をして居ました。押し入れ等も無かった為に、物を買い込んでも置いて置く場所が無かったのです。
「江戸っ子は宵越しの金は持た無い」と云う言葉は好く耳にしますが、実はお金だけでは無く「宵越しの物」も持た無かったのです。こうした物を持た無いと云う江戸長屋の住民達のライフスタイルが、損料屋を繁盛させる事に為ったのでしょう。
因みに、この損料屋は明治時代以降に為っても生き延び、やがて貸衣装屋と呼ばれる様に為りました。成人式には多くの女性が着物を借りに行く貸衣装屋ですが、江戸時代にはふんどしを貸し出して居たと知ったら一寸ショックでしょうね。
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・「くの一」と呼ばれた女忍者は本当に居たのか?
現代では、女性のスパイが活躍してマスコミを賑わす様なことがあります。中でも「ロシアの驚く帆ど美しい女スパイ」と話題に為ったアンナ・チャップマンは、記憶に新しい事でしょう。忍者の世界においても「くの一」と呼ばれる女忍者が居たとされて居ますが、実際には如何だったのでしょうか?
結論から言ってしまいますと、「くの一」と呼ばれる様な女性の忍者が存在した事が書かれて居る歴史的な資料と云うのは、残念ながら残されて居ない様です。詰り、存在し無かった可能性が高いと云う事です。恐らく、後世の人々によって物語の中で作られて行った偶像であると思われます。
唯一実在した「くの一」では無いかと言われて居るのが、望月千代女と云う女性です。望月千代女は、甲賀流忍者の上忍の娘で、竹田信玄の甥と結婚して居ました。この甥が川中島の戦いで亡く為ってしまって未亡人と為ってしまった事により、信玄は彼女を「巫女道修練道場」と云う道場の頭を任せる事に為りました。
「巫女道修練道場」と云うのは、「歩き巫女」と呼ばれる各地を旅しながら歌や舞などを披露しつつ、祈祷等をする女性を育成して居た所です。この「歩き巫女」達が、各地を旅しながらスパイ活動も同時に行って居たのでは無いかとされて居ます。望月千代女が甲賀流忍者の上忍の娘である事と、「歩き巫女」達を育成して居たと云う事実から、彼女が唯一の「くの一」と呼べる存在なのではないかと言われて居る訳です。
ご存知の方も多いと思いますが「くの一」とイウのは、「く・ノ・一」を組み合わせる事で「女」と云う字に為る事から、そう呼ばれる様に為ったと言われて居ます。
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大根役者は何故そう呼ばれたのか?
演技の上手な千両役者に対して、演技の下手な役者の事を「大根役者」などと言います。そもそもこの大根役者と云うのは、どう云う理由でそう呼ばれる様に為ったのでしょうか?
実は演技の下手な役者が何故大根役者と呼ばれる様に為ったのかに付いては、ハッキリとした理由は好く判って居ない様です。演技の上手い人は玄人、それに対して下手な人は素人と云う事で、「しろうと」と大根の色である白を掛け合わせて大根役者と為ったと云う説があります。又、余りにも演技が下手なので人間の役を遣らせて貰えずに、何時も馬の役ばかり遣らされて居る事から、馬の脚で大根を連想させたと云う説もあります。
更に、演技の下手な役者が余りにも使え無い時に「舞台から下す」等と云う表現を使いますが、この「舞台から下す」と云う言葉から「大根下し」を連想させる事でそう呼ばれたと云う説もあります。その他にも様々な説がある様ですが、どれが本当だかは分かりません。
何れにしても、江戸時代の人のダジャレのセンスが生かされて生まれた言葉が「大根役者」と云う事に為るのでしょうか。
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・越すに越されぬ大井川には何故橋や渡し船が無かったのか?
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渡し船が無かった本当の理由
江戸時代に東海道を抜けるには、難所と呼ばれる所が2か所ありました。1か所は箱根の峠越え、そしてもう1か所が大井川です。中でも大井川は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われた様に、箱根以上の難所として認識されて居た様です。しかし、そんな大変な大井川を渡るのに、何故橋や渡し船が無かったのでしょうか?そんな素朴な疑問に付いて、その理由を考えてみたいと思います。
増水により川止めが2〜3日も続く事があった
江戸時代に於いて、大井川を渡る貯めには川越人足と呼ばれる人達に肩車をして貰うか、蓮台と呼ばれる梯子の様なものに乗せて貰う以外に方法はありませんでした。その貯め、雨等に依って川の水嵩が増すと、川止めと為って渡る事が出来無く為りました。運が悪いと川止めが2〜3日が続く事もあり、旅に慣れた人の間では「川を越してから宿を取れ、川の手前で宿を取るな」と云うのが常識と為って居た様です。
旅人がそんな不便な思いをして居るにも関わらず、江戸幕府はどうして大井川に橋を掛け無かったのでしょうか?又、何故大井川には渡し船が無かったのでしょうか?一般的には、江戸を守る貯めの軍事的な理由から、幕府によって大井川には橋を掛ける事が許されて居無かったと言われて居ます。しかし、これはどうやら真実とは異なる様です。
大井川に橋が掛けられて居なかった理由は、幾つか考えられます。先ず、川の勾配や川幅と云った地形的な問題や水量等を考えると、当時の架橋技術では橋を架ける事が困難であったと云う事です。
確かに明治12年に為って大井川に橋が架けられましたが、その長さは900mにも及び、世界一長い木造橋と言われました。江戸時代の架橋技術でそれだけの橋を作る事は、実際に難しかったのだと思います。しかし、それだけが理由為らば、何故渡し船が無かったのかと云う疑問が湧いて来ます。実は、ここに大井川に何故橋が架けられ無かったのかと云う本当の理由が隠れて居るのです。
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本当の理由は川越人足の既得権益者を守る為?
大井川に橋を作る事が技術的に困難であったにしても、実際に渡し船を使って渡る事は可能でした。渡し船があれば、難所と言われた大井川も随分と渡り易い川に為った筈です。
その為、渡し船を認めて欲しいと云う請願が幕府に対して何度も出されて居る様です。しかし、幕府はそれを頑なに認めようとしませんでした。それは何故でしょうか?
江戸時代の前期の頃に島田と金谷の両方の宿で、川越人足を束ねる組織が作られ、その業務を独占的に行う事を幕府から認められて居ました。川越人足は、最盛期には1000人程度も居たと言われて居ますから、当時においては巨大産業です。現代の日本においても、従業員が1000人規模と為ると可成りの大きな企業です。もし、幕府が渡し船を認めてしまうと、これ等の川越人足達が職を失ってしまう事に為ります。
これだけの規模に為ってしまうと、幕府もその既得権益を保護せざる負え無く為ってしまったと考えらえます。
多くの旅人達が望んだ渡し船を出す為の請願を、幕府が何度も握り潰してしまった背景には、巨大産業としての川越人足制度を無くす訳にはいか無いと云う本音があったのだと思われます。
実際、決められた川渡し場以外の場所を、自ら歩いたり泳いで川を渡ったりした場合には、「間通(かんどう)越し」とか「廻し越し」等と言われ、幕府より厳罰に処せられた様です。この事から、如何に幕府がこの川越人足のビジネスを守りたかったのかが理解出来るかと思います。
川の水深によって決められて居た川越人足の料金
大井川の川越が巨大産業である事は分かりましたが、それでは川越人足を使って実際に大井川を渡るには、どれ位の料金が掛かったのでしょうか?実は、大井川を渡る時の料金は川の水深によって細かく分けられて居たのです。大井川を渡るには、川渡し場の両岸に設置された川会所に行って「川札」を購入する必要がありました。
この川札は、川越人足の肩車で渡る場合には1枚、大きな荷物等があってもう一人人足が必要な場合には2枚買う必要がありました。又、4人で担ぐ蓮台渡しの場合には4枚必要でした。要するに、川越人足の人数分だけ「川札」が必要に為った訳です。
この「川札」1枚を購入する為の料金は、川越人足の体のどの部分まで水深があるかで決まります。
・水深が川越人足の股の下までだと「股通」と為り48文(960円)
・褌(ふんどし)の帯の下までだと「帯下通」で52文(1040円)
・帯の上だと「帯上通」で68文(1360円)
・乳首より下の位置だと「乳通」で78文(1560円)
・脇の下までだと「脇通」で94文(1880円)と為って居ました。そして脇よりも水深が深く為ると川止めと云う事に為りました。
水深が脇の下までの「脇通」の時に蓮台を使って大井川を渡ると94文の川札が4枚必要に為りますので、合計7520円と云う事に為ります。「脇通」の日に肩車で渡ると為るとお客自身も可成り濡れる事に為ってしまうので、お金のある人は蓮台を使って優雅に優越感を感じながら渡ったのでしょう。
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・江戸の町では家に居たまま棒手振りから何でも買い物が出来た?
現代ではネット通販の普及により、家に居ながらにして欲しいものを何でも手に入れる事が可能に為って居ます。何とも便利な時代に為ったものだと思いますが、実は今から数百年も前の江戸時代に於いても、自宅に居ながらにして殆どのものを手に入れる事が出来たのです。
棒手振り(ぼてふり)と呼ばれる行商人が、毎日の様に江戸の町を歩き回って様々なものを売り歩いて居たのです。棒手振りは、食料品に限らず生活に必要なアリトアラユルものを売り歩いて居た様です。
誰でも簡単に始められた棒手振りと云う商売
棒手振りと云うのは、元々は日本橋の河岸から仕入れた魚を、天秤棒の両側にブラ下げて売り歩いた行商人の事です。しかし、百万都市であった江戸の町では、魚などの食料品ばかりでは無く、行商をする事でアリトアラユルものが売れた為に、町には棒手振り等の行商人が溢れて居ました。
棒手振りは居酒屋等の様に店を構える訳では無いので、その日の仕入れ資金さえあれば誰でも簡単に日銭を稼ぐ事が出来ました。中には、一文無しであっても「百一文」や「烏金」と言った町金から仕入れ資金を借りて行商をして居る様な者も居た様です。
因みに「百一文」と云うのは、朝に百文借りたら夕方には利息を着けて百一文を返済する事からそう呼ばれた様です。1日当たり1%の利息を払う訳ですから、年利に直すと360%と云う事に為ります。今では想像も出来無い様な飛んでも無い高利に為りますが、その日に商品が売れれば1%程度の利息は問題無く支払う事が出来たのでしょう。
それでは実際に棒手振り等の行商はどんなものを売り歩いて居たのでしょうか?鮮魚から野菜、納豆や豆腐など、日常的に口にする食べ物はほぼ全て棒手振りから買う事が出来ました。お得意先の家には定期的に御用聞きに来て呉れますから、ワザワザ呼び止めて買う必要も無かったのです。
勿論、行商人達が売って居たのはそう言った食料品だけでは無く、様々な生活必需品が売られており、その数は100種類を優に超えたと言われて居ます。それでは、食料品以外ではどんなものを売りに来て居たのでしょうか?
好く知られて居るのが金魚売りですですが、これが登場したのは江戸の後期に為ってからの様です。夏に為ると生きた金魚を桶の中に入れて「金魚え〜金魚〜」と声を張り上げながら売り歩きました。環魂紙売りと呼ばれる、再生紙を売り歩く行商人も居た様です。拾い集めた紙を原料にして再生紙を作り、便所紙や鼻紙として売り歩いて居た様です。因みに値段は100枚100文(2000円)程度でした。1枚当たり20円ですから、今のティッシュペーパーの値段と比べると、紙が当時如何に貴重品であったかが想像出来るかと思います。
羅宇屋と呼ばれる、タバコを吸うキセルの胴体部分を売りに来る行商人も居ました。キセルのタバコの葉を入れる雁首の部分と吸い口の部分は金属なので余り傷みませんが、羅宇と呼ばれる本体の部分は竹管で出来て居た為に、使って居る内に傷んでしまいます。そこで羅宇屋からその竹管の部分だけを買う訳です。因みにこの羅宇の値段は、標準的な長さのもので8文(160円)、長いものだと12文(240円)が相場だった様です。
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江戸の町では売るだけでは無く訪問買取りもありました
江戸の町では、ワザワザ買い物に行か無くても、あらゆるものを自宅に居ながらにして手に入れる事が出来た訳ですが、実は売る人だけでは無く様々なものを買い取る人も沢山居ました。一寸変わった処では「蝋燭の流れ買い(ろうそくのながれがい)」と云うものがありました。
実は江戸時代には蝋燭は高級品でした。百目蝋燭と呼ばれる重さが100匁(375g)もある大型の蝋燭は、一本当たり200文(4000円)もした様です。そんな貴重な蝋燭ですから、火を点けた時に流れ落ちたロウを捨ててしまうのは非常に勿体無いと言えます。そこで、その流れ落ちたロウを再生用として「蝋燭の流れ買い」に売る訳です。
更に変わった処では「おちゃない」と呼ばれる、女性の抜けた髪の毛を買取りに来る人も居ました。これを買い集めて「かもじ」と呼ばれる部分かつらの材料にして居た様です。又、竈や火鉢を使った時に出る灰を買い取る「灰買い」も江戸の町では好く見られました。灰は肥料にする事も出来ますし、繊維の脱色や皮革の脱脂等用途が広い為ニーズは高かった様です。「灰買い」で巨万の富を築いた人も居る様ですので、多寡が灰等と侮ってはいけません。将に究極のリサイクル社会と言われた江戸時代ならではのビジネスですね。
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・島流しに為った罪人達は意外にも島で自由に生活をして居た?
島流しに為った罪人達の島での意外な暮らし振り。江戸時代において、死刑に次ぐ重い刑罰が「流罪」、即ち島流しの刑です。御定書百箇条に「遠島」と記載されて居る刑罰に為ります。
「島流しの刑」と云う言葉自体は殆どの人が知って居ると思いますが、実際に島流しに遭った人達がどの様な生活をして居たのかを知って居る人は少ないでしょう。ここでは、実際に江戸時代に於いて流罪に為った人達の、島における生活振りを解説してみたいと思います。
流人達の生活は意外にも自由だった
刑罰として島に流されると云うと、無人島に送られてしまう様なイメージがあるかも知れませんが、そうではありません。島流しの刑で連れて行かれる所は、佐渡島や伊豆七島等普通に人が住んで居る所でした。そして、意外かも知れませんが、島の人達と共に普通に生活をして居たのです。
罪人達は、村内における囚人の数が、村全体の10%以下に為る様に、夫々の村に分けて配属されました。そして、5人組と呼ばれる犯罪防止の為に連帯責任組織に帰属させられ、監視を受けて生活をする事に為りました。夫々の村には囚人達の為の粗末な小屋も用意されて居り、僅かながらも畑等も与えられた様です。基本的には自由な生活をする事が出来たのですが、飽く迄罪人ですので幾つかの制約は受けました。
制約と云っても「島から抜け出さ無い」「他の村に行か無い」「流人同士で交際をし無い事」と云った程度のもので、特に生活に支障の出る様なものはありません。私達が考える、死刑に次ぐ厳しい刑罰と云うイメージとは程遠いものです。
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島流しに遭った人はどう遣って食い繋いで居たのか?
身柄を拘束される事も無く、自由な生活をして居た流人達ですが、自由であるとは云っても彼等に食料等の援助があった訳ではありませんので、生活の為には何か仕事をして稼が無ければ為りませんでした。一体彼等はどう遣って生活をして居たのでしょうか?
元々裕福であった者が島流しに為った場合には、米やお金などを島に持ち込む事も可能でした。米で20俵、お金で20両迄の差し入れが認められて居たからです。又、親戚からの仕送りなども認められて居た様です。
しかし、決められた差し入れを全て島に持ち込む事が出来たとしても、それだけで一生食べて行ける訳ではありませんしずっと仕送りに頼る訳にもいきません。
その為、与えられた僅かな畑を耕したり、村の農家や漁師、大工などの手伝いをして何とか食料を手に入れて食い凌いで居た様です。しかし、そう云った肉体労働に慣れて居る者はそれで問題が無かったのですが、政治犯や武士等の知識階級の者が島流しに為ると、そう云った生活に耐え切れずに餓死する様な人も少なく無かった様です。
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村人達は流人が送られて来るのは迷惑だった?
離島は刑務所ではありませんから、死罪に次ぐ重大な犯罪を犯した者を次々に送り込まれるのは、正直言って迷惑だったに違いありません。実際に八丈島と大島の連名で、島に罪人を送り込ま無い様に何度も上訴した事があった様です。
しかし、それが認められる事はありませんでした。島の村人達は、同じ流人でも殺人等犯した凶悪犯等を引き受けるのを嫌がり、島役人に賄賂を渡す事もあった様です。そう云った不正が横行した為に、或る時期からは籤引きによって罪人の送り先を決める様に為りました。
どの様な罪を犯すと島流しに為ったのか?
島流しの刑、所謂遠島は死刑について重い刑罰と為りますが、実際にどの様な罪を犯した者が対象に為ったのでしょうか?御定書百箇条によると、遠島に為るのは以下の様な罪を犯した者が対象に為る様です。
● 江戸十里以内で許可無く鉄砲を所持する者
● 幼女を強姦した者
● 博打の胴元
● 女を犯した寺持ちの僧
● 指図を受けて人を殺した者
● 人殺しの手伝いをした者
● 不当な言い掛かりを着けられ刃傷沙汰に及び、相手を殺した者
● 口論の上で人を傷着け、重度の後遺症を負わせた者
● 車を引っ掛けて人に怪我をさせた者
● 十五歳以上で殺人や放火を企てた者
因みに、島流しより重い罪である死刑には、その罪によって「下手人(げしゅにん)」から「鋸引き」まで6つのランクがありましたが、その中でも一番軽い「下手人」が適用されるのは、情状酌量余地のある殺人と為って居ます。
こうしてみると、島流しの刑が適用される上記10項目の7番目に書かれた「不当な言い掛かりを着けられ刃傷沙汰に及び、相手を殺した者」と、下手人として死刑に為る「情状酌量余地のある殺人」は微妙な処である事が分かります。4項目目の「指図を受けて人を殺した者」も、「情状酌量余地のある殺人」に比べて本当に罪が軽いのかどうかも疑問が残る処ではあります。
島流しは重罪とは云え、場合には恩赦に依って島から出られる事もありましたから、同じ殺人であっても、少しのニュアンス違いで受ける刑罰には天と地ほどの差があったと言えるでしょう。
そういった微妙な事例に関しては、一律に刑を言い渡すのでは無く、奉行所が確りと判断をして刑を言い渡したのだと思います。
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幕府から出される気紛れの恩赦を待ち詫びて居た?
罪人が島流しに為った場合は、稀に2年程度の刑期が適用される場合があった様ですが、多くは無期刑と為り囚人達の殆どは島でその後の人生を終えた様です。中には、島の女性と結婚をして子供が出来てしまった為に、刑期を終えても島に残る様な人も居た様です。
基本的には無期刑であった島流しの囚人達ですが、時々恩赦によって島から出る事を許される事もあった様です。しかし、それが何時に為るのかは全く予測が出来ず、幕府の気紛れで出される恩赦を囚人達は只管待ち詫びて居た様です。
島流しに為る人は、罪を犯した所謂前科者ですから、島に渡ったからと云ってその気質が簡単に変わるものではありません。島でも更に罪を重ねる様な者も居た様です。そう云った者に対しては、更に条件の悪い島に移送したり、場合に依っては死刑が適用されたりした様です。やはりそこは厳罰で対処しないと、囚人を受け入れて呉れて居る島に住む村人達が安心して生活が出来ない事に為ってしまいます。
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