2018年05月09日
江戸時代 その7 益々面白い江戸時代・・・
江戸時代 その7
信長の妹・おいち方の胡坐を掻いている肖像から
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・江戸幕府ではどんなバカ殿でも政治を行う事が出来たの!?
江戸幕府では5つのセリフが言えればバカ殿でも政治が出来たと言われる。好く「神輿(みこし)は軽い方が言い」と言われます。上に立つものが余りにも切れ者だったりすると周りに居る人間、詰り神輿を担ぐ人が苦労をする事に為るからです。
徳川歴代将軍の中にバカ殿が居たかどうかは兎も角、実際に江戸幕府の政治は、例えバカ殿が将軍職の座にあったとしても全く問題無く運営出来る様なシステムに為って居た様です。それは一体どの様なシステムだったのでしょうか?
将軍は足った5つの言葉だけで政治を行えた!?
江戸時幕府の政治における将軍の役割は殆ど儀式化して居り、実際に将軍の口から出る言葉は5つだけで済んだそうです。それは「それへ」「近う(ちこう)」「好きに計らえ」「そうせい」「大儀」の5つです。
家来が殿様に会う時には、最初から同じ部屋に入る事は許されて居ませんでした。そこで、先ず初めに隣の部屋から将軍に挨拶をする訳です。すると将軍は決まり文句である「それへ」「近う」と云うセリフを言う訳です。意味としては「隣の部屋からでは話が聞こえ難いから、もっと近くに来なさい」と云った処です。それに対して家来は、畏(かしこ)まって「ははぁ〜」とお辞儀をして、前に進む振りをするのです。
ここで注意をし無ければいけ無いのが「近う」を真に受けて、本当に将軍の近くに寄ってはいけません。飽く迄も前に進む振りだけをするのです。その事で「余りに恐れ多くて近くに進む事は出来ません」と云う態度を将軍に示す訳です。結局、隣の部屋から遠く離れた状態で家来は話をする訳ですが、距離が遠い為に殆ど話は聞こえません。しかし、それでも全く問題は無かったのです。
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実際には将軍は話を聞く必要は全く無かった
家来と将軍の間には側用人や老中と云った側近が控えて居り、家来から聞いた話を要約して将軍に伝えたのです。何でこんな面倒な事をするのかと言えば、将軍と一般の侍が直接話をしてはいけないと云う決まりに為って居たからです。
しかも、こうした家来の報告や相談事に対しては、事前に老中や御三家達の間で話をまとめてしまって居る事が殆どの為聞こえ無くても全く問題が無かった訳です。そして、話の内容がどんな内容であれ、将軍は重役達が相談して取り決めをした事に対して、形式的了承をすれば好かったのです。その了承の時のセリフが「好きに計らえ」「そうせい」だった訳です。そして、最後に家来に対して慰労の言葉である「大儀」で締め括る訳です。
詰り、この「それへ」「近う(ちこう)」「好きに計らえ」「そうせい」「大儀」と云う5つのセリフを、順番を間違えずに云う事さえ出来れば、どんなバカ殿でも幼少の将軍であっても政治を行えたと云う事に為ります。
直接将軍に会え無い家来達の滑稽な風習
因みに、江戸幕府では同じ家来の中でも直接会う事が出来る人は限られて居ました。会う事の出来る家来を「お目見え以上」と言い、会う事の出来無い家来は「お目見え以下」と呼ばれました。
所謂旗本より上の家来が「お目見え以上」であり御家人より下の位の家来は「お目見え以下」だった訳です。お目見え以下の家来がどうしても殿様に報告し無ければ為ら無いことがある時には、座敷に上げる事はせずに、庭から地面に膝を着いて報告をしました。これは、殿様がお目見え以下の家来と会ったと云う事実を認め無い為の儀式であり、飽く迄も家来が庭で独り言を言って居るのを偶々通り掛かった殿様が耳にしたと云う形にする訳です。何とも滑稽な仕来りであると言えます。
将軍の食事を作る人は毒見役も含めて総勢100人もいた!?
将軍の食事は毒見をする為に20食作られた・・・八代将軍吉宗の時代には、将軍に出す食事を台所役人と呼ばれる総勢100人の男達が作って居ました。その100人の男達で作られた食事を食べるのは、将軍とその正室の2人だけです。詰り、足った二人分の食事を作る為だけに100人もの人間が関わって居たと云う事に為ります。一体、何故将軍の食事を作る為に100人もの人間が必要とされたのでしょうか?
意外にも質素だった将軍の食事内容
将軍の食事がどんなに豪勢であったとしても、常識的に足った2人分の食事を作るのに100人の人間は必要ありません。ソモソモ、私達が想像する程に江戸の将軍は贅沢な食事をして居た訳ではありません。将軍の食事は二汁五菜が基本だったと言われて居ます。詰り、汁物が2種類とその他のオカズが5種類と云う事に為ります。
現代の我々の食事と比べても決して豪勢と云う事は無く、将軍と云う地位を考えた場合寧ろ質素であったと言えるでしょう。現代の一般家庭であれば、奥さんが一人で十分に作れる品数です。足ったこれだけの食事を作る為に、何故100人ものマンパワーが必要だったのでしょうか?
将軍の食事は何と一度に20人も前作られました
食事そのものは将軍と正室2人の為に作られて居ますが、実際に作られる食事の数は20膳にも為りました。詰り、将軍と正室夫々に10人前ずつの料理を作ったと云う事に為ります。一体何故それ程の食事を作る必要があったのでしょうか?一番の理由は、将軍の毒殺を防止する為です。
10人前作った食事の中から、何人かの毒見役がランダムに選んだお膳を食します。又、同様に将軍に献上する食事も、10人前の中からランダムに選んだのです。台所役人達は、その様な石橋を叩く様な体制で将軍に出す3度の食事を作って居た訳です。しかし、将軍の食事を一度に20人前作るとしても、それだけの為に100人もの人間が必要に為るでしょうか?
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食事の中に異物が入って居たりしたら切腹もの
20人前の食事を大勢の人間で作ると為ると、逆にナカナカ目が行き届か無く為り、何処で何が行われて居るのかが分から無く為ってしまいます。ドサクサに紛れて、何か悪さをする人物が居るかも知れません。その為、料理を作って居る人を監視する人間が必要に為って来る訳です。
料理を作る人が沢山居れば、当然ながらそれを監視する人も大勢必要に為る訳です。又、料理も食材をそのまま使って簡単に作ると云う訳にはいきません。万が一、将軍に出す料理の中にゴミや虫等の異物が入っていたら、それこそ切腹ものです。その為、実際に料理を作る前には、米粒一つまで丹念にチェックをしたと言われて居ます。
この様に、将軍の食事を作る為には想像を絶する程の手間暇が掛かって居り、その結果として100人もの人間が関わる事に為ってしまった訳です。
実際に食事に毒が盛られた事はあるのか?
将軍の食事に毒が盛られ無い様に、100人もの人間によって20人前もの料理が作られて来た訳ですが、実際に食事に毒が盛られて毒見役が亡く為ったと云う事例はあるのでしょうか?
少なくとも、徳川将軍家においてはその様な事例は文献として残って居ない様です。仮にその様な事があったとしても、表沙汰に為ると大変なので食中毒などの理由で揉み消されてしまった可能性はあります。
何れにしても、将軍家においてその様な記録は残っては居ませんが、4代将軍家綱の時代に仙台の伊達家に於いて事件が起こって居ます。伊達騒動の時に、伊達兵部が藩の世子である亀千代の毒殺を図った事件です。結局、毒殺は成功しませんでしたが、毒見役である塩沢丹三郎ら3人が死亡して居ます。亀千代の毒殺は避けられましたが、この事を幕府に知られる事を恐れた藩では、この事件を食中毒と云う事で処理をして揉み消してしまいました。
江戸時代のお殿様達は、食事をするだけでも相当に大変だった様ですね。ちなみに、現代の皇室においても、侍医長が同じメニューを別室で食べると云う毒見の風習が残って居る様ですが、主に栄養管理が目的だと言われて居ます。
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・江戸時代には本当は正座をする人なんて居なかった!?
江戸時代では正座と云うのは行儀の悪い座り方だった・・・現代では、洋間や洋式の家具などが普及した事もあり正座をする機会と云うのは殆ど無く為ってしまいました。
板の間に直接座る事の多かった江戸時代の人達は、日常的に正座をして居たのだろうと思い勝ちですが、実は江戸時代には正座をする習慣は無かったのです。時代劇などで好く見掛ける、女性が正座をして恭しく襖を開けるシーンは実際には無かった様です。それでは、江戸時代の人達はどんな座り方をして居たのでしょうか?
胡坐(あぐら)こそが江戸時代の礼儀正しい座り方です
現代では、和室で畳に座る際には正座が一番礼儀正しい座り方で、胡坐や立て膝は行儀が悪いとされて居ます。しかし、現代人に比べて遥かに礼儀作法に厳しかったと思われる江戸時代の人達は、胡坐や立て膝が当たり前だったのです。
胡坐と言っても、私達が普段して居る様な足を組んだ座り方では無く、両膝を大きく開いて目の前で足の裏を合わせる座り方です。歴代将軍の肖像画などを見てみると、実際にその様な座り方に為って居る事がお分かりに為るかと思います。しかも、この座り方は男性だけでは無く、女性も同じ様に座った様です。
巻頭の図は信長の妹であるお市の方の肖像画ですが、どう見ても胡坐を掻いて居ますね。実際に、明治維新前の武士たちや女性の肖像画の中で正座をして居るものは殆ど無い様です。
江戸時代には正座をする習慣が無く、当然ながら「正座」と云う呼び名も無かった訳ですが、実際にそう云った座り方をするのは寧ろ行儀が悪いとされて居た様です。又、江戸時代において、正座は罪人の座り方でもありました。時代劇などでも、奉行所でのお裁きの場面で罪人が正座をさせられて居ますが、あれは時代考証的に正しいと言えるでしょう。
吉田松陰の肖像図
座布団を使うのは病人か老人だけ
正座が礼儀正しい座り方だとされて居る現代では、畳敷きの和室でお客様を持て成す時には、当然ながら座布団の上に座って貰います。しかし、江戸時代の中期頃までは、座布団を使うと云う習慣そのものがありませんでした。
お客様にウッカリ座布団など出そうものなら「人を年寄り扱いするのか」と相手を怒らせてしまう事もあった様です。何故なら、その当時に座布団を使用するのは病人か老人だけだったからです。座布団も敷かずに、板の間に直接座る事を考えたら、確かに正座をするのは厳しかったに違いありません。
こちらの吉田松陰の肖像画も、右側の自宅に残されて伊太オリジナルのものは胡坐を掻いて居ますが、その後に書かれたものは左の様に全て正座に書き換えられて居ます。この様に、正座が礼儀正しい座り方であると云う考え方は、江戸の末期から明治に掛けて作られて行ったものと思われます。
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三つ指を突いた挨拶は吉原の遊女が始めたもの
男性であれば兎も角、和服を着た江戸時代の女性が正座を殆どせずに、胡坐や立て膝で過ごしたと云うのは、何ともイメージし難いものですが、当時の肖像画を見る限りでは事実である様です。しかし、プライベートな場面やリラックスした状態の時などには、所謂「横座り」もして居た様です。現代の女性も好くやる正座を崩した様な座り方ですね。
又、時代劇などで好く見掛ける、正座をした女性が襖を開けるシーンですが、こう言った場面でも実際には正座では無く立て膝で行って居たものと思われます。それでは、こちらも時代劇などで時々見掛ける女性が正座をして三つ指を突いて挨拶をする場面と云うのは実際にはどうだったのでしょうか?
実は、武家の子女が主人や来客に対して三つ指を着いて挨拶をする等という習慣は無く、三つ指を突いた挨拶は吉原の遊女が始めたとされて居ます。頭を深々と下げて挨拶をしたのでは髷の形が崩れてしまうので、仕方無く頭を上げたまま手だけ畳に着けて挨拶をした当のが、三つ指を着いた挨拶の真相の様です。
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・赤穂浪士が討ち入り前に蕎麦屋に集合した当のは本当はウソ?
有名な赤穂浪士の「討ち入りそば」は後世の人の作り話赤穂浪士は元禄15年の12月14日に、両国にあるそば屋の2階に集合して、ソバを肴に酒を飲み交わした後、吉良邸に討ち入りに向かったとされて居ます。
しかし、どうやらこれは真実では無さそうです。何故なら、元禄時代には所謂「そば屋」と云うものが無かったからです。仮にソバ屋があったとしても、その2階に47人もの大人数が深夜に集合する等とは考え難い事です。一体何故赤穂浪士はそば屋に集合した後に討ち入りに行った事に為ってしまったのでしょうか?
元禄時代には蕎麦屋と云う名称の店は無かった
勿論、赤穂浪士が討ち入りを行った元禄時代にもソバと云う食べ物そのものはありました。江戸時代以前からありましたし、メニューとしてそばを出すお店もありました。しかし、所謂「そば屋」と云う名称の看板を掲げて居るお店は無かったのです。
「そば屋」と云う看板を掲げたお店が登場したのは、厳密には享保年間以降とされて居ます。元禄時代の江戸の町にはそば屋では無く「けんどん屋」と云う「うどん」を出す店が沢山ありました。「けんどん」と云うのは、欲張りでケチと云う意味に為るのですが、うどんを1人前ずつに盛って売って居たので「けんどん屋」と言われる様に為ったそうです。
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集合したのはそば屋で無く同士の家だった?
赤穂浪士のメンバーで、吉良邸に討ち入った後引き上げ途中で姿を消した寺坂吉衛門が残した文章の中に「集合場所は同士である堀部安兵衛宅、杉野十平次宅、前原伊助宅の三ヵ所で、堀部邸では宴会が催され、その後時間を持て余した数人だけが蕎麦を啜(すす)った」と書かれて居ます。
又、同じく寺坂吉衛門が残した文章の中には「両国にある亀田屋と云う茶屋に立ち寄った」と云う事も書かれて居ます。ソバ屋では無く茶屋で、しかも集合したのでは無く立ち寄ったと云う事です。どうやらこれが真実の様です。後世の人によって書かれた幾つかの書物に、討ち入り前にそば屋に立ち寄ったとの記述がある為に、そちらの方の話が有名に為ってしまったのでしょう。
蕎麦に関連する言葉に「手打ちそば」とか「そば切り」「そばを打つ」と言ったものがあります。「手打ち」とか「切り」とか「打つ」等と、如何にも討ち入り前にピッタリの言葉と結び着きます。後世の人が、この討ち入り事件を語る時に如何にも語呂が好いので、蕎麦屋に集合をして蕎麦を食べた後に討ち入りに向かったと云う事に為ってしまったのでしょう。これが赤穂浪士に纏(まつ)わる有名な「討ち入りそば」の真相と言って好いでしょう。
江戸時代の「手打ちそば」の本当の意味とは?
「手打ち蕎麦」と云う言葉が、討ち入り前に食べる食べ物として語呂が好いのは判りますが、そもそも江戸時代においては、蕎麦は手で打つのが当たり前なのに何故「手打ち蕎麦」と云う言葉が存在したのでしょうか?
現代で「手打ち蕎麦」と言えば機械を使わ無い手作りの蕎麦と云う意味に使われます。しかし、江戸時代にはそもそも「蕎麦を作る機械」等と云うものがありませんから、基本的には全て「手打ちそば」に為ってしまう筈です。
一説によると、「つなぎ」を使わずに蕎麦粉のみで作られた品質の高い蕎麦を「手打ちそば」と呼んで居たとの事です。江戸の町と言えば「二八そば」が有名ですが、これはそば粉が8割に対してつなぎとしての小麦粉が2割混ざって居るので二八蕎麦と呼ばれたと言われて居ます。そうした、小麦粉の混ざった品質の低い二八蕎麦と差別化する為に、そば粉のみで作られた品質の高いものを「手打ちそば」と呼んで居た様です。同じ「手打ち蕎麦」でも、江戸時代と現代とでは全く意味が違うと云う事ですね。
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・江戸時代の人の主な死因は何だったのでしょうか?
江戸時代の人の死因は感染症によるものが多かった。現代において最も多い死因と言えば、がん・心疾患・脳卒中・肺炎等ですが、江戸時代にはどの様な病気が主な死因に為って居たのでしょうか?抗生物質などが無い時代の江戸時代においては、死因の上位を感染症が占めて居たのではないかと思われます。具体的には、どう云った病気によって江戸時代の人は命を落として居たのでしょうか?
江戸時代には多くの子供が病気で亡く為った
江戸時代の平均寿命は30代〜40代と言われます。江戸時代の平均寿命を低くして居る原因は、乳幼児の死亡率の高さにあります。当時は「7歳までは神のうち」と言われ、おおよそ7歳を超える位の年齢に為るまでに多くの子供が呆気無く死んでしまって居た様です。実際に生後1年に為る前に20%から25%の子供が死亡してしまったと言われて居ます。
10歳に為るまでの間に4割近くの子供が亡く為り、それ以降に為ると死亡率も徐々に下がって行った様です。具体的な統計データが無いので、正確な数字は分かりませんが、恐らくイメージ的にはこの様な感じだったと思われます。江戸時代においては、病気で死なずに無事に大人に為ると云うだけでも大変な事だった様です。
江戸時代に13回も大流行したと言われる麻疹(はしか)
江戸時代には、小さな子供達が病気で亡く為るのは日常茶飯事だった訳ですが、実際にはどの様な病気が死因と為って子供達は命を落として居たのでしょうか。
当時は抗生物質などと云った医薬品も無く、衛生状態や栄養状態の悪さから一度流行すると大勢の人が亡く為った様です。江戸時代に大勢の人の命を奪った病気の代表的なものが麻疹(はしか)です。麻疹は感染力が非常に強く、当時は生死に関わる重大な病気だった為に、別名「命定め」等と呼ばれて居た様です。
江戸時代ではこの麻疹が13回も大流行したと言われ、その度に多くの人の命が奪われてしまった様です。「生類憐みの令」で有名な5代将軍綱吉の死因も、実は麻疹だったと言われて居ます。麻疹はウイルスが原因の為抗生物質が効かず、現代に於いても根本的な治療法はありませんが、衛生状態や栄養状態が江戸時代に比べて格段に良く為っている現代においては、それ程怖い病気では無く為って居ます。
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「見目定め」と言われた死亡率の高い病気
江戸時代には麻疹で亡くなる人が多かった為に「命定め」等と呼ばれて居ましたが、実は「見目定め」等と呼ばれて恐れられて居た死亡率の高い病気もありました。それが天然痘です。江戸時代には疱瘡(ほうそう)と呼ばれて居た様ですが、天然痘は麻疹に比べて遥かに死亡率が高く、仮に生き残ったとしても全身に醜い「あばた」の様なものが残ってしまった為に「見目定め」等と呼ばれる様に為ったのでしょう。
天然痘は、江戸時代において数十年置きに大流行をして多くの人の命を奪った様です。天然痘の予防接種とも言える種痘(しゅとう)が普及したのは、江戸時代の末期に為っての事です。1849年に、佐賀藩の医師であった楢林宗健(ならばやしむねたけ)と云う人と長崎に居たオランダ人の医師であるオットー・モーニッケが種痘を実施してから、やっと日本でも天然痘の予防出来る様に為ったのです。
江戸時代の後期に大流行したコレラ
江戸時代後期に大流行をして、多くの人の命を奪ったのがコレラです。安政5年の大流行の時には、江戸の町だけで24万人もの人が亡く為ったと言われています。江戸の町の大通りや路地に、コレラで死んだ人の棺が列を為して並べられて居たと言いますから、想像を絶する大流行だったに違いありません。
抗生物質の無かった江戸時代においては、コレラに対する治療方法が無く、2〜3日で呆気無く死んでしまう事が多かった為に「三日コロリ」等と呼ばれて恐れられていた様です。
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江戸時代では「がん」で死ぬ人は少なかった?
江戸時代の死因の多くは感染症によるもので、現代の様に悪性腫瘍や心疾患はそれ程多く無かったと言われて居ます。
特にガン等の悪性腫瘍は年齢が高く成程免疫力の低下と共に罹り易く為ると云う特徴がありますので、江戸時代には現代の様に多くの高齢者が居た訳では無いので、相対的にガンに罹る人の数が少なかったのだと思います。又、当時は現代の様にレントゲンなどの様な検査機器がありませんでしたので、実際にはガンに罹って居たにも関わらず、それと気がつかずに亡く為って行った人も多かったに違いありません。
或いは、ガンに罹る事によって体力が低下し、結果的にはガンでは無く感染症に罹って死んでしまうと云うケースもあったと思われます。江戸時代には、現代の様に死因に関する統計データと云うものがありませんので、飽く迄も推測に為ってしまいますが、死因のトップが感染症であった事は間違いの無い処だと思われます。
・江戸時代に髭を生やしている人が居なかったのは何故?
何故江戸時代の男たちは髭を生やさなかったのか?最近では、髭を生やす男性が多く為って居ます。過去の歴史を振り返ってみますと、髭は権力の象徴的な意味合いや、男らしさを誇示する目的で生やして居たと思われますが、最近の髭ブームは単純にオシャレが目的に為って居る様です。
中東の国では髭を生やして居ない男は「おかま」だと思われるそうですから、髭の薄い男性の悩みはさぞかし深いに違いありません。そんな様々な意味合いを持つ男性の髭ですが、江戸時代には初期の頃を除いて髭を生やしている人が殆ど居なかったと云う事をご存知でしょうか?
浮世絵などを観ても、髭を生やしている男性を殆ど見掛けません。それは一体何故なのでしょうか?
江戸時代初期に巻き起こった髭ブーム
江戸時代に髭を生やしている人が殆ど居なかった一番の理由は、髭を生やす事を禁止されて居たからです。元々、戦国武将達は皆髭を生やして居たのですが、天下を取って江戸幕府を開くと同時に、大名達は自慢の髭を剃ってしまいました。
戦国武将達に取って髭は、ライオンのタテガミの様なもので、或る意味強さのシンボルだった訳です。しかし、家康によって天下統一と為ったにも関わらず髭を生やし続ける事で、「幕府への反逆心」と取られる事を恐れた訳です。
しかし、そう云った話は一般庶民には余り関係の無い話だった様で、江戸時代初期の頃の屏風絵等を見てみると、武士も大工も町人も立派な髭を生やして居ました。その後、江戸の町に髭ブームが巻き起こる様に為ります。しかも目立つ髭程粋でカッコイイと思われた様で、「鎌髭」と呼ばれる、鼻の下から横に大きく広がった髭が大人気だった様です。好く「奴だこ」に書かれて居る大きな髭が、将に当時大ブームと為った「鎌髭」です。
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徳川家綱による「大髭禁止令」とは?
そんな髭ブームを苦々しく思って居た徳川幕府は、4代将軍家綱の時に「大髭禁止令」を出します。余りにも堂々とした髭を皆が生やす事によって、荒っぽい男気を煽る事に為り、戦国の時代を想定させかね無いと云う訳です。
この「大髭禁止令」があってから暫くの間は、髭ブームが収まる事に為るのですが、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまうのが人間の性です。最初の「大髭禁止令」から10年程経つと、再び江戸の町に髭ブームが巻き起こってしまうのです。流石に幕府も黙っては居ません。それ迄は「大髭禁止令」と言え特に罰則の規定が無 かったのですが、今度は罰金付きの「大髭禁止令」を出す事に為ったのです。
流石に罰金を支払ってまで髭を生やす続ける男気のある人は居なかった様で、江戸の町で髭を生やす人はスッカリ見かけ無く為りました。
但し、医者や山伏・神官・人相見、更に還暦を過ぎた長老と呼ばれる様な隠居老人等が髭を生やす事に関しては、或る程度大目に見て呉れた様です。確かに、時代劇に出て来る江戸時代のお医者さんは髭を生やして居るイメージがありますね。
又、時々時代劇などで立派な髭を生やしたお侍さんが登場したりしますが、実際には在り得無い話で、明らかな時代考証の間違いと言えます。
水戸黄門も本当は髭等無かった!?
江戸時代の人物で髭を生やした人として真っ先に頭に思い浮かぶのが、水戸黄門こと徳川光圀ではないでしょうか。ドラマの中の光圀に取ってはある意味トレードマーク的な存在で、石坂浩二が演じた黄門様以外は、皆立派な髭を生やして居ます。しかし、実際の徳川光圀はどうだったのでしょうか?
残されて居る徳川光圀の肖像画を見る限りにおいては、髭は生えて居ない様です。
ソモソモ水戸光圀が諸国を漫遊したと云う事実はありませんので、ドラマの中の水戸黄門と実際の徳川光圀を同一視して考えるのはナンセンスですが、晩年に隠居生活を送って居た光圀が実際に髭を生やして居た可能性までは否定出来ません。
ここまで・・・
色々と後から物事をコジツケて創作する人がいるものです、政治であったり商売であったり・・・その理由は何れにしろ自分の何らかの利益なのですが、後からしたらメグジラを立てずに納得出来るものと出来ないものがある様です。
作られた物語により何らかの犠牲が生まれなければ好いのですが・・・葬儀の席で正座する苦痛を知る人は、最近の椅子式のものにどれ程有難く思うか・・・正座が正式だと決めた明治に憤りを覚える次第です・・・
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