2018年05月06日
江戸時代を知ろう・・・その2
江戸時代を知ろう・・・その2
・江戸時代にはどの様な拷問が行われて居たのか?
江戸時代の犯罪捜査の時代劇では、屡々拷問の場面が登場します。岡っ引き(おかっぴき)と呼ばれる警官が容疑者に自白を迫る為に、縄で縛って木から吊り下げてムチで叩いたり、溺れそうに成程顔を水に漬けたりします。
実際に江戸時代にはそうした捜査方法が執られて居た事は確かですが、ドラマや映画で描かれる世界は、可成り大袈裟で事実と異なる演出が為されて居る様です。我が国における犯罪捜査は、江戸時代に於いても可成り高度な倫理観を持って行なわれて居り、岡っ引きが自己判断で拷問する等と云う事は出来ませんでした。
拷問をする条件や方法も限定されて居り、自白をミスリードし無い様な配慮も為されて居たのです。
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拷問の種類にはどの様なものがあった?
江戸時代以前からあった拷問方法としては、水責め・駿河問い・木馬責め・塩責め等があります。水責めは、その字の如く水を使うものですが、幾つかの種類があります。
江戸時代に行われたのは、「水牢」と呼ばれるもので、腰の高さ位に水の入ったお風呂の様な牢屋に閉じ込めるものです。余り厳しく無さそうに感じられるかも知れませんが、横に為れ無い為に眠る事が出来ません。体温が奪われる為夏でも寒く次第に皮膚がフヤケテ裂けてしまいます。
駿河問いは、両手と両足を背中側で縛り揚げてエビぞりにし、その上に石を載せてグルグル回転させます。背骨がひん曲がり大きな苦痛を与えられます。
木馬責めは、三角木馬と呼ばれる背の部分が尖った木馬に全裸で跨らせて股間に苦痛を与えるものです。石等で重しを着ける事もありました。塩責めは、肌に刃物で傷を着けそこに塩を塗り着けるもの。俗に「傷口に塩を塗る」と云う言い回しを使いますが、塩には痛みを強烈にする効果があります。気を失う程の痛みだそうです。
余りにヒドイ方法は制限されました
自白中心の捜査に問題がある事は江戸時代にも認識されて居り、又、強烈な拷問は人道的にも好ましく無いと考えられて居ました。そうした背景から、1742年に公事方御定書が制定され拷問方法が限定されます。
水責め等は禁止され、鞭打ち・石抱き・エビ責め・釣り責めの4種類に限定されました。
「鞭打ち」「石抱き」「エビ責め」よりも「釣り責め」がキツい
鞭打ちはその名の通り、鞭で打ち着けるものです。石抱きは1枚50kg程の石の板を正座した膝の上に何枚か重ねて乗せるものです。エビ責めは、縄でアゴと足首が密着する程に身体を縛り上げ苦痛を与えるものです。釣り責めは裸にされ縛り揚げられて吊り下げられるものでした。
拷問には許可が必要だった!?
拷問は死刑と為る程の重犯罪の疑いがある場合で、かつ、十分な証拠の裏付けが無ければ行う事は出来ませんでした。実施に当たっては老中の許可が必要で、オイソレト行われる事はありません。
時代劇などでは、岡っ引きが拷問する場面が登場したりもしますが、ソモソモ彼等にそんな権限はありません。岡っ引きと云うのは最下級の警官で、現代で言えばアルバイトです。同心が捜査に当たる際に帯同して手伝いをするだけの係でした。
因みに時代劇で「捕物」とか「捕物帖」と云う言葉が使われますが、捜査の報告書の事を「捕物帖」と呼んで居ました。江戸時代を含めて日本は識字率が高い社会だった為、拷問に関する記録もこの捕物帖を含む様々な文献に残されて居ます。
・江戸時代の貨幣に詳しく為るウンチク話
江戸時代には金貨と銀貨それに銅銭の3種種類の貨幣が使われて居ました。金貨と云うのは好く知られる「小判」の事で、これは主に江戸を中心とする東日本で使われ、銀貨は大阪を中心とする西日本で使われました。銅貨は全国各地で使われ日常生活で最も流通した貨幣です。貨幣の材料である金属そのものに価値があり、それによって信用が成り立って居たので現代の様な紙幣は存在しませんでした。
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265年間、物価は余り変わら無かった!?
江戸時代には、現代程には物価変動はありませんでした。武士の給料は基本的には江戸時代を通じて余り変わりませんでした。200年前の先祖が「200石」と家禄(かろく)を与えられて居れば、200年間ずっと同じ石高であるのが普通でした。
中核を為す人々の給与が変動しないので庶民の収入にも大きな変化はありません。その為、物価変動は小さく為ったそうです。しかし、全く変化が無かった訳ではありません。江戸時代初期に比べて末期の方が当然物価は上がって居り、賃金変動の無かった武士達は当然の事ながら困窮しました。
貨幣の価値は時代と共に変わって居た!?
貨幣の価値が変わるのと合わせて、金・銀・銅の間の価値も変化します。その為、金貨と銀貨の両替比率などが変動しました。金と銀、銀と銅とを交換する場所が「両替商」です。今で言えば銀行です。
金貨ばかりを持って居ても普段の買い物が出来ません。そこで銅銭に崩して貰う必要があるので両替商を頼ったのです。その交換比率は時代によって変動しますが、幕府によって「相場」が決められて居ました。
江戸は「金づかい」大阪は「銀づかい」
江戸時代以前から、東日本では主に金貨が使われて居て、大阪などの西日本では銀貨が使われて居ました。江戸幕府はその習慣をそのまま生かしたので、我が国には金貨と銀貨の両方が出回る事に為りました。
金貨だけ、銀貨だけと云う国が多い中で、江戸時代の我が国の貨幣制度は特殊だった訳です。
1両小判1枚で1年食べられた!?
現代の価値に換算すると1両が幾らに為るのかは一概には言えません。当時の感覚としては、1両あれば「一石」(いっこく)の米が買えたと言われます。一石とはおよそ2.5俵、150kgで、一人の人が1年間に食べる米の量と言われて居ました。現代なら、1kg500円として、150kg×500円=7.5万円と云う事に為ります。
只、当時の米価はずっと低かったのでそれ程までの価値は無かったと考えられます。
銀貨は重さで決まって居た
金貨の場合「1両小判」をベースに、その4分の1の「一分金」、更にその4分の1の「1朱金」がありました。銀貨は目方(重量)をベースにした為、「一分銀」「五匁銀」など重さを表示した貨幣が幾種類かありました。
寛永通宝は400億枚!?
江戸時代の代表的な銭貨であった「寛永通宝」には、1枚1文の「一文銭」と4文の「四文銭」とがありました。4文銭1枚で串団子1本程度の価値だったと言われますので、現代なら数十円と言った処でしょうか。
時代劇の「銭形平次」で投げられて居た一文銭は、5円〜10円程度のコインだったのでしょう。最も好く流通した貨幣であり全国で400億枚もあったと言われて居ます。又、「天保通宝」は1両の500分の1程度の価値があり、明治時代の初期に為っても未だ流通して居たそうです。
・江戸時代に虫歯に為ったらどんな治療をしたのでしょうか?
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江戸時代の人達にも虫歯はありました。現代の様に甘味料が豊富な訳では無く、質素な食生活をして居たので、今程虫歯に為る人が多くは無かったと想像されます。しかし、十分なブラッシング法も無く自然に任せて居たので、歯の痛みに苦しむ人も少なくは無かったのです。
江戸時代にも歯医者が居ましたので、治療に通う人も居ましたが、それは一部の富裕層に限られます。治療費が高い為に、一般の町人はナカナカ行く事が出来ません。その為「神頼み」などの方法に頼ったりもして居た様です。
歯医者の仕事は歯を抜く事だった!?
現代の歯科医院での治療では、虫歯の元と為っている部分を削り取り、穴の開いた所に詰め物をしたり被せ物をしたりするのが普通です。その為には、歯を削る装置が必要ですが、そんなものは江戸時代にはありません。従って、虫歯の「患部を削る」と云う発想は無かったのです。どうしようも無い程痛むのを治す為には歯を抜くしかありません。
歯科医師の治療の基本は歯を抜く事だったのです。麻酔等ありませんので、激しい痛みを伴いました。お酒で感覚を鈍くさせた上で抜く事もあった様です。
痛み止めもありました
痛み止めによって一時的に虫歯を治療する方法も執られました。治療と言っても、痛みを小さくするだけですので根本的には治した事には為りません。薬としては、丁字油(ちょうじゆ:クローブ油とも云う)や木炭が使われて居ました。効果の程は兎も角、漢方薬も使われて居ました。
入れ歯もありました
江戸時代には入れ歯師と云う職業がありました。歯科医師とは異なり、入れ歯作りを専門に行う職人です。元々は木の仏像彫り師などが始めたと言われて居ますが、江戸時代に為って仏像彫刻の仕事が減り、歯を彫る仕事を請け負う様に為った様です。
材料は木ですが、歯茎(はぐき)の形に合わせて精巧に作られ、金属のバネを入れて隣の歯に引っ掛けて使う、現代の様な方法も既に発案されて居ます。歯の裏に穴を開けて糸を通して縛ると云う方法もありました。
庶民は歯医者に行け無い!?
歯医者で治療を受けられるのは、一部の上層階級に限られて居ました。豊かでは無い一般の町人達には受けられません。その為、歯痛を抑える為に、治療以外の方法に頼って居ました。
一つの方法は、神仏に祈願する事です。神社仏閣にお参りし、お祓いや願掛けをしたり、お札(お守り、護符(ごふ))を買ったりして治そうとしました。他にも、病封じの御まじないを唱える、針やお灸をすえる、民間療法の生薬を飲む、梅干しを患部に貼る、お地蔵さんの石で患部を撫でる、竹筒を痛む所に宛ててその先に炎をカザス、大根おろしの汁を歯茎に塗る等、様々な「治療」がありました。
歯ブラシ、歯磨き粉もありました
江戸時代にも虫歯予防の為の歯磨きはありました。房楊枝(ふさようじ)と云うもので、柳や杉、竹等で作られた12〜18cm程の棒の先を叩いてツブシ、ブラシ状にしたものです。そこにハッカやトウガラシ、丁子(ちょうじ)などを混ぜ合わせた薬味を着けて磨いて居ました。
・江戸時代には大火や天災も好く遭った
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明暦3年(1657年)には明暦の大火(めいれきのたいか)、天和2年(1682年)に江戸大火(八百屋お七の火事)が起こって居ますが、江戸時代には屡々大きな火災が発生して居ます。木造家屋ばかりで、しかも密集した長屋が多かった為に、一度火災が発生すると大きな被害が出たのです。
宝永4年(1707年)には富士山が噴火、天明3年(1783年)には浅間山が大噴火を起こし2000人が死亡すると云う大惨事と為りました。享保17年(1732年)頃には享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)が発生し、1万人以上が餓死したと言われます。天明3年にも天明の大飢饉が起こり、特に奥羽地方での死者が多かったとされます。天保4年(1833年)頃には天保の大飢饉が起こり米の価格が暴騰します。大塩平八郎の乱が起こったのは、その4年後の天保8年(1837年)です。
・江戸時代の名前に関するウンチク〜庶民にも苗字があった?
名付け方には、時代毎の風俗や流行、文化や宗教、仕(し)来(きた)り等が反映され、人の名前を見れば時代が判ります。江戸時代の「命名」の習慣を知る事は、江戸そのものを知る事にも繋がります。
庶民に苗字が無かったと云うのは正しく無い!?
江戸時代には、武士や公家以外の身分の者が苗字を名乗る事は禁止されて居ました。その為、明治維新に為るまでは一般の人は苗字を持って居なかったと一般的には信じられて居ますが、必ずしもそうではありません。
苗字があるのは、それがあると便利だからです。人を区別するのに「名」だけでは必ずしも上手く行きません。例えば、役人が何処に誰が住んで居るかを調べる時に、その地域に同じ名前の人が何人も居たのでは混乱してしまいます。その為、多くの人達がニックネーム的に苗字を持って居た様です。実際、江戸時代の住民台帳の様なものには、町人や農民の名前が苗字付きで数多く残されて居ます。
武士にはミドルネームがあった!?
「大岡越前」と云う時代劇ドラマがありましたが、主人公の正式な名前は「大岡越前守忠相」(おおおかえちぜんのかみただすけ)です。「大岡」が姓で「忠相」が名、真ん中の「越前守」は通称名です。江戸時代には「名」は「諱(いみな)」と言い、日常使われる事は無く、主君と親以外は呼んではいけ無いものでした。普通は、苗字と通称名で呼んで居たのです。
親子で同じ名前のことが多かった!?
江戸時代には身分の高い武士の場合、通称名には官位が使われるのが普通で、官位は親子で継承される為に親と子が同じものを名乗りました。その為、例えば「大岡越前守」の子も「大岡越前守」と言う様な事が屡々ありました。
混乱が起こりそうにも思われますが、書類に「大岡越前守」としか署名されて居なくても、どちらがその地位にあるのかを知って居る人達は容易に判別出来るので問題はありません。
尚、武家諸法度(ぶけしょはっと)と云う法律で、武家の官位は公家のものとは別と決められて居ましたので、官位の名前の通りの職に就いて居た訳ではありません。「越前守」が越前の領主に為る事は無かったのです。
苗字に地域名を使われる事があった!?
「水戸黄門」で有名な光圀の本当の姓は「徳川」です。徳川には御三家があり、将軍家と、水戸・一橋の徳川家を区別する為に、水戸の徳川は「水戸」と呼ばれる事がありました。「黄門」と云うのは官位としての通称名では無く、仇名(あだな)の様なものです。
光圀は「権中納言」でしたが、中納言は中国で「黄門」と云う官位に当たる事から、「水戸徳川家の中納言」と云う意味で「水戸黄門」と呼ばれて居たのです。
女性は皆「お〜」と云う名前だった!?
時代劇などでは、女性は「おまつ」「おたけ」「おうめ」など「お」の付く名前で呼ばれて居るのが普通ですが、江戸時代の女子には皆「お」を着けて居たのかと言えば、そうではありません。「まつ」「たけ」「うめ」等ひらがな2文字の名前が付けられて居ました。女性に呼び掛ける時には「お」を着けるのが習わしだっただけの事です。現代において、「ちゃん」や「さん」を着けて呼ぶのと似たものだったのでしょう。自分が名乗る時には、「うめと申します」と云う様に「お」を着けませんでした。
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・江戸時代の時間は夏と冬では長さが違った?
江戸時代に限りませんが、昔の人々は、明るく為ると起きて働き暗く為れば寝ると云う生活をして居ました。現代の様な電気の明かりは無く、提灯などでは広く家中を明るくする事は出来ません。道に街灯も無く夜道を歩くのは危険です。前が見え無い真っ暗闇ですし、盗賊等に襲われる恐れもありました。
そうした環境から、時間に付いても日の出や日の入りの時刻をベースに決められて居ました。言わば、生活に密着した時間制度を持って居たのです。只、日の出や日の入りの時刻は季節によって変わります。夏は日が長く、冬は短く為ります。その為、夏と冬とでは「一刻」の長さが異なって居ました。一日が夏は長く冬は短かったのです。
朝は太鼓の音で目覚め、夜は太鼓の音で始まる!?
江戸時代の時刻は、夜が明け出した頃を「明け六つ」と呼び、空が暗く為り始めた頃を「暮れ六つ」と呼んで居ました。現代と違い、暮らしに合った時間の決め方でしたが、明け六つと暮れ六つには江戸城内で太鼓を鳴らして知らせて居ました。後に、正午には鐘を鳴らす様に為りました。
鐘の音は重要な「時計」だった!?
江戸城内で使われて居た鐘は、後に下げ渡されて日本橋本石町に「時の鐘」として設置されます。これを機に、浅草寺や上野山等に時を告げる鐘が作られ、各地で明け方・正午・夕暮れに鐘の音が響く様に為りました。江戸時代には時計を持って居る人など殆ど居らず、鐘の音は時刻を知る上で重要なものだったのです。
1刻の長さが毎日変わった!?
江戸時代には正午を境に一日を半分に分け、それを六等分して時間表示を行いました。正午を「昼九つ」とし、深夜迄を「昼八つ」「昼七つ」「暮れ六つ」「夜五つ」「夜四つ」とカウントダウンします。1、2、3はなく、「四つ」までです。深夜を「暁九つ」と言い、正午迄を六分割して「暁八つ」「暁七つ」「明け六つ」「朝五つ」「朝四つ」と為って居ました。
江戸時代には「明け六つ」から「暮れ六つ」迄が明るい時間帯で、季節によって時間が長く為ったり短く為ったりします。一刻の長さは季節と共に変わったのです。一年で一番昼の長い夏至の頃であれば、日中の一刻はおよそ2時間半、昼の一番短い冬至の頃なら一刻は1時間40分程と為ります。一刻に付き実に50分も差があるのです。
鐘の音は最初に3回!?
突然鐘が鳴り出すと、途中で気付いた人は「何回鳴ったのか」が判ら無く為る事があります。その為、江戸時代には時間を知らせる時には、先ず最初に3回鳴らして「これから知らせるよ」と云う合図にしました。
3回の鐘の音の後に、「朝5つ」なら5回、「暮れ六つ」なら6回鳴らして居たのです。
十二支で表す方法もありました
屡々時代劇などでは、「うしみつ時」と云う様な時間の表し方が使われます。十二支を使って一日を12分割して時刻を決めたのです。
夜中の11時〜1時を「子(ね)」として、以降を「丑」(うし)・「寅」(とら)・「卯」(う)・「辰」(たつ)・「巳」(み)・「午」(うま)・「未」(ひつじ)・「申」(さる)・「酉」(とり)・「戌」(いぬ)・「亥」(い)としました。更にこの刻を4等分して、「子ひとつ」「子ふたつ」等としました。従って、「丑三つ時(うしみつどき)」とは、夜中の2時頃と云う事に為ります。
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・江戸時代の人の平均身長はどれ位だったのでしょうか?
かつて欧米諸国の人々からは、日本人と言えば「チビ」と思われて居ました。現在では、我が国の男女の体格は随分立派に為り、ヨーロッパの人々と殆ど変わら無く為って来て居ます。実は60年程前と比べると、日本人の身長は男女共10センチ程伸びて居るのです。では、江戸時代には日本人の身長は一体どれ程だったのでしょうか?又、歴史上の偉人達はどの程度の身長だったのでしょうか?
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男性は157cm、女性は145cm
過去に遡って身体検査をする事は出来ませんので、江戸時代の身長の平均値を正確に知る事は出来ません。しかし、身分の高い人達は身長を測る習慣を持って居た為、ある程度の資料が残されて居ます。又、科学的な方法を用いて推定する事も出来ます。埋葬された人骨を採取し、その長さから身長が推定出来るのです。一つ二つのサンプルでは平均を知る事は出来ませんが、何十体も調べると、おおよその値を推定出来ます。
調査した学者によって異なりますが、大体男性は155cm〜157cm、女性は143cm〜145cm程であったと考えられています。決して高くはありませんが、昭和初期と比べるとそれ程大きな差はありません。
古墳時代の人の方が背が高かった?
江戸時代の人は現代よりも身長が低かったと云う事は、それよりも前の時代には更に低かったと想像されます。所が、科学的な調査によると、古墳時代の方が背が高かったのです。奈良時代の頃の男性の平均は163cm程、女性は152cm程と推定されて居ます。
食生活が日本人の背丈を低くした
どうして、江戸時代の人達よりも奈良時代の人達の方が身長が高かったのでしょうか?それは食生活の変化によるものと云う説があります。
縄文時代から弥生時代に掛けて、狩猟生活から農耕生活へと変化しました。それに伴い、獣肉中心の食事から米中心へと変わります。更に、鎌倉時代前後から宗教的な影響によって肉食を避ける様に為り、肉類を執ら無く為りました。又戦国時代、江戸時代に為り武士中心の世の中と為りますが、贅沢な暮らしをして居た貴族と違って、武士達は米と魚を採る質素な食生活をしました。こうした食生活の変化に伴って、動物性たんぱくの摂取量が減り、身長が低く為ったと言われて居ます。
徳川家康は159cmだった!?
江戸時代の将軍達はどの程度の身長だったのでしょうか?様々な研究から初代将軍の徳川家康は159cm、2代の秀忠は160cm、3代家光は157cmと推定されて居ます。驚くべきは5代将軍の徳川綱吉、何と124cmと小柄だったと言われて居ます。
徳川の将軍達は大体150cm〜160cmと日本人の平均並みの身長で、特別高い人は居なかった様です。尚、坂本龍馬は173cm、西郷隆盛は179cmだったと云う推定値もあります。因みに、背が低い事にコンプレックスを抱いて居たと言われるナポレオンは167cmと推定されて居ます。もしナポレオンが日本人だったなら、コンプレックスを持たずに済んだ事でしょう。
体重に関しては好く判ら無い
身長に付いては測る習慣を持つ人も居ましたが、体重に付いては余り資料がありません。「養生訓」で有名な貝原益権は自分の体重を好く管理して居た事が知られて居ますが、そういう人は稀でした。人骨を調べれば身長は判りますが、体重まで正確に推定するのは難しく、余り好く判って居ません。
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・江戸時代の生活はとても質素で慎ましいものでした
江戸時代の生活に付いては、様々な史料が残されて居ます。各地の博物館や郷土資料館には江戸時代の衣装が展示されて居ますし、錦絵や浮世絵などにも当時の艶(あで)やかな生活振りが描かれて居ますので、そうしたものからある程度知る事が出来ます。
しかし、残されている史料から判るのは、飽く迄も上流階級の生活であり、他所(よそ)行(ゆ)きの服装やご馳走である事に注意すべきでしょう。江戸時代の生活者の大半は庶民(町人)であり、決して豊かに暮らして居た訳ではありません。日常は、質素な衣類を身に的井、貧しい食生活をして居た筈です。しかし、そうした貧しい人々が使っていた物は余り残って居ませんので、各種の資料から想像するしか無いのが実態です。
衣類はリサイクルが基本でした
江戸時代には大型の機械を使って衣類を製造する工場などありません。身に着ける衣類は全て機織(はたお)り機などで作った手作りのものです。沢山作る事は出来ませんので、当然ながら高価でした。その為、一般の庶民(町人)が新品の衣類を購入すると云う事は殆どありませんでした。
大名や豪商、名主階級などは豪華な新品の衣装を買って居たのでしょうけれど、普通の家庭では、古着屋で買うのが一般的だった様です。古着を継(つ)ぎ接(は)ぎして大事に扱い、毎日同じものを着て居た場合が多かった様です。
擦り切れて穴が開けば当て布をして補い、それを何度も繰り返して着られ無く為れば、赤ん坊のおしめや雑巾にし、それが擦り減って糸くずだけに為る程まで使い切ったと考えられます。それ故、こうした庶民の着て居た衣類は現物が残って居ないのでしょう。勿論、庶民の衣服は派手な錦絵や浮世絵に描かれる訳ではありませんので、僅かな資料から推測するしかありませんが、実態はトコトンリサイクル、と云うスタイルだった様です。
食事は真に質素でした
江戸時代の食生活に付いて、多彩なものを食べて居たとか、ナカナカのグルメだったと言う様な事が言われる事がありますが、それは飽く迄も、お金持ちの人達の食事と云う事です。
我が国には古くから素晴らしい食文化がありますし、和食は世界に誇れる世界遺産でもあります。しかし、実際にそれを食して居たのは一部の富裕層だった事は知っておくべきでしょう。食卓に「おかず」が並ぶ事は珍しく、下級武士の場合で魚を食べるのは月に数回程度でした。朝ご飯はみそ汁だけ、昼は豆腐だけ、夜は油揚げだけと云う様な食事が普通です。
貧しい農家の場合には、米を食べる事は滅多に無く、いもや麦、ひえ等を主食にして居ました。可成り貧しい食生活だった様です。
裏長屋暮らしが一般的でした
江戸時代の庶民は長屋暮らしが当たり前でした。長屋以外に暮らす人は殆ど居なかったと考えて良いでしょう。長屋と言っても、現代のアパートの様なものを想像してはいけません。隣の部屋とは薄い板張りの壁があるだけですので、防音など全くありません。隣家で食事をする音も、性生活をする音も筒抜けでした。
トイレは共同便所ですし、井戸や洗い場も皆で一緒に使って居ました。夏には蚊が来襲し、隙間風を防げ無い建物では真冬は相当な寒さだった事でしょう。現代であれば如何に質素なアパートでも電化製品の恩恵を受ける事が出来るので、当時と比べれば大分快適に暮らせるのではないでしょうか。
歌舞伎や能などの娯楽も、一般の町民に取っては贅沢な行事です。生涯に一度も見た事が無いと云う人も少なく無かった事でしょう。惨めで厳しい生活の様にも思われますが、それが「当たり前」に為っている世界で暮らして居れば、それ程酷くは感じられ無かった筈です。
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・江戸時代の火事と消火方法に関する豆知識
江戸時代の家屋は殆ど木造です。現代では防火壁などの材質が使われて居る為に、ボヤが起きても大きな火事にまで発展しない事もありますが、当時の建物は木と紙で出来て居た為とても燃え易いものでした。
しかも、長屋作りで、狭い土地に密集して町が出来て居た為に、一度火災が発生するとアッと言う間に近隣にまで燃え広がってしまいます。「火事とケンカは江戸の花」と言われますが、江戸時代には火事が頻発して居たのです。
建物の燃え易さと云う意味では江戸時代以前と変わりませんが、それ迄に無かった程に江戸の街は人口が集中し、建物が密集して居た為に、火事が多く、しかも規模も大きく為りました。その為、消防組織も大掛かりなものが作られ、大名が務めた「大名火消」、旗本が務めた「定火消(じょうびけし)」、町人が務めた「町火消」などタイプの異なる組織がありました。
火消しの主役は町火消
火事が起きた時に、最も活躍するのは町火消です。地域の消防団と言えるもので、消防そのものが職業ではありません。町奉行の配下の与力や同心が指揮する町人達による消防隊で、町内で活動費用を負担し合う民活組織です。火消しに携わる人達のお手当てや半纏(はんてん)、股引(ももひき)等の衣装が支給されて居ました。消防団員として活躍するのは主に建設作業に携わる町人達でした。建物の構造や道具の使い方を熟知した人たちです。
消すのが仕事では無かった!?
「火消」と云う名前ではあるものの、実際に火を消す事は滅多にありませんでした。江戸時代には人口が密集して居るのに対して水道設備が追い付かず、江戸の街は慢性的な水不足に悩まされて居ました。消そうにも水が無い、と云うのが現実です。現代の様なポンプもホースもありません。精々桶で汲んだ水を掛けるだけです。実際の所、大火に対しては焼け石に水に過ぎませんでした。その為、火消の主な仕事は、延焼を最小限に食い止める事です。その為の破壊活動を行いました。
その為、長鳶(ながとび)口(ぐち)と呼ばれる、草刈りの鎌を大きくした様な道具や、大鋸(だいのこぎり)などを使い熟せる鳶(とび)職(しょく)などの専門家が火消の中心メンバーと為って居ました。火を消すのでは無く、火元を破壊したり、隣の家を潰したりして、火事の広がりを抑えたのです。
火消しの組織は?
江戸時代の町火消の組織はトップが頭取(頭とも言います)で、以下、小頭、纏持ち(まといもち)、梯子持ち(はしごもち)、平人足と階級が分かれて居り、夫々半纏(はんてん)の柄で階級が判る様に為って居ました。
頭取と小頭は、皮の羽織を着る事が許されて居ました
一番危無いのは纏持ち(まといもち)。纏(まとい)と云うのは、長い棒の先に丸い玉の着いた飾りです。消火活動そのものに使うのでは無く、屋根の上で、場所を知らせるものです。それを持つ纏持ち(まといもち)はとても危険な仕事です。頭取の指示で屋根に上り、消火活動が終わる迄ずっと棒を振って見届けて居るのです。自分の立っている家が燃えれば命の危険に晒されてしまいます。頭取、小頭に次ぐ、No3の役職なのは、火事に対する勘が冴えて居るのと同時に、危険を顧み無い勇気の持ち主である必要があったからなのかも知れません。
鐘の音で火事の近さを知らせて居た!?
江戸時代には火事が起こると半鐘を鳴らして知らせましたが、半鐘が1回だけだと現場は遠いと云う合図でした。2打の場合には、大火に為る恐れがあると云う知らせで、連打の時には火元が近い事を知らせて居ました。
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・江戸時代の身分制度である「士農工商」の序列は嘘だった!?
江戸時代には身分制度があり、大きな格差が存在した事は好く知られて居ます。一定の年齢以上の方は、社会科や日本史の授業で、「士農工商」と云う序列があり、士(武士)を頂点に、農(農業従事者)、工(工業従事者)、商(商業従事者)の順で身分が固定されて居たと習った筈です。
又、農民を卑屈にさせ無い為に、「士」の次に「農」を置いたと教えられた人も多い事でしょう。しかし、現在では「士農工商と云う身分制度があった」と云う説は否定されて居り、教科書にも載せられて居ません。
身分による格差があった事自体は事実ですが、「士農工商」と云う序列は無かったのです。
「士農工商」の意味は単なる職業分類のこと!?
中国で古くから使われて居た言葉で、江戸時代に我が国で作られたものではありません。元々身分制度を表して居た訳では無いのです。職業は4つに分類される、と言う様な意味から出来た言葉で、江戸時代にも使われた事は確かですが、身分制度を表すものと解釈されたのは後年に為ってからの事です。
「農」は農民の事では無かった!?
身分制度の2番目と言われて居た「農」は、実は百姓だけを指すものではありません。都会(江戸)に住む者に対し、地方に住む者を「農」と呼び、農業従事者以外にも職人や漁師、海運業者等様々な職業の人が含まれて居ました。
「工」と云う概念そのものが無かった!?
現代では「工業」と云う言葉が当たり前の様に使われて居ますが、家内制手工業しか無かった江戸時代には「工業」と云う概念がありませんでした。都会でモノヅクリをする職人は「町人」と呼ばれて居り、「農」と「工」との間に身分差はありませんでした。
「商」が「士」の上に立つ事も!?
商人はビジネスが上手く行けば、大きな財産を築く事が出来ます。江戸時代の半ばに為ると「富豪」と為る商人も現れ、逆に財政的に困窮する大名や武士も出て来ました。その結果、武士が商人から金を借りる様に為り、上下の関係が崩れる様な事もあったのです。豊かな商人の中には、「扶持(ふち)米(まい)」と呼ばれる給料を大名から貰う様に為る者、士分(武士の身分)を与えられる者等も居ました。
医者はやっぱり身分が高い!?
現代でも社会的身分の高い医者は、江戸時代においても矢張り高収入の職業でした。身分制度により職業選択の自由が制限されて居た時代ですが、医師に付いては自由に為る事が出来、優秀であれば藩主に召し抱えられて職人の子が医者に為る事もありました。又、上級の武士以外は乗る事を許されて居なかったカゴに付いても、医者は乗る事が出来ました。
武士の貧富の差は一番激しかった!?
身分制度上、一番上にあったのが武士です。しかし、武士と言っても大名から下級武士までランクは大きな開きがあります。下級武士の場合、町人と同じレベルの生活水準しか無く、幕府や藩の財政が厳しく給料が低く抑えられた時代には、内職をせざるを得ない者も居ました。
一方、上級の武士の場合、厠(トイレ)が畳敷きの広い部屋で、漆塗りの蓋をしてある様な豪勢な家に住む者も居たのです。江戸時代は現代よりも遥かに大きな格差社会でしたが、一般に信じられて居る様なものとは少し異なって居ました。
・切腹なのに自分で腹を切ら無い武士も多かった様です
外国人に日本の武士に付いて何を連想するかと聞くと「ハラキリ」と答える人が多いそうです。切腹と云うのは、それ程衝撃的で印象に残る行いであると言えるでしょう。切腹は死刑の中でも武士だけに許された方法であり、武士らしく潔く死ぬ為の作法であったとされます。
しかし、戦国時代ならばいざ知らず、天下泰平の江戸の世においては、武士と言えども実際に自分の腹に短刀を突き立てて切腹を行う程の、胆力のある者は少なかった様です。それでは、実際の切腹はどの様に行われたのでしょうか?
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切腹は何時頃から行われて居たのか?
切腹が最初に行われたのは平安時代(988年)だと言われて居ます。藤原保輔が事件を起こした時に、自分の腹を切って死んだとの記録が残って居る様です。しかし、これは刑罰としての切腹と云うよりも、自殺を図って自分の腹を切り裂いたと云うのが真相の様です。
その後、室町時代などにも切腹を行った武士の記録が残って居ますが、この当時の切腹は武士の不手際に対する責任の取り方としてでは無く、主君が亡く為った時の殉死の形で切腹を行うものが殆どだった様です。
その後、武士の責任の取り方が切腹であると云う考え方が一般的に為ったのは、戦国時代です。戦国時代の武将たちは、不始末があった時には最大の痛みを伴って死ぬ事こそが武士としての最後の誇りと考え、実際に腹に短刀を突き立てて切腹を行って居た様です。又、この時代においては豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた話が有名です。
只の作法と為ってしまった江戸の武士の切腹
戦国時代の武将たちが、最大の痛みを伴って死ぬ事こそが武士の誇りと考えた様に、切腹で死ぬのは大変な苦痛が伴いました。腹を切ってもナカナカ死ぬ事が出来ずに、一晩中苦しみ抜いた挙句絶命する事も多かった様です。
そう言った過度の苦痛から解放させて揚げる為に、介錯人が首を切り落とした訳です。この解釈人が首を切り落とすと云うやり方は、戦国時代には既に行われて居た様です。その後江戸時代に為って、切腹は只の儀式的なものに為って行きました。
戦で何時命を取られても可笑しく無い時代を生き抜いて居た戦国武将たちとは違い、天下泰平の江戸の世において、自分の腹に短刀を突き立てる事の出来る武士は少なかった様です。その為、実際には腹を切らず、三方(神事に使われる台)に乗せられた短刀に手を伸ばした瞬間に、介錯として首を切り落としてしまう方法に変わって行きました。更に、目の前に短刀を置いて置くと如何しても恐怖心が湧き、取り乱してしまう武士も居た様で、三方の上に短刀で無く紙で包んだ木刀や白い扇子を代わりに置く事もあった様です。そして、三方の上の木刀や扇子を取りに行く仕草をする瞬間に介錯として首を撥ねた訳です。
扇子で切腹した事が世間に知られると「奴は扇子腹だったそうだ」等と陰で臆病者扱いされる事もあった様です。木刀や扇子でさえも怖くて実行出来無かった者には、「一服」解いて毒を渡されてそれで命を絶つ方法も用意されて居た様です。最早これでは切腹とは呼べませんね。
切腹に纏(まつ)わる様々な言葉
切腹に纏わる言葉には様々な言葉があります。それらは、切腹に因んでそれも「腹」と云う文字が組み合わされて居ます。
先程紹介した「扇子腹」と云うのは、扇子を使って行った切腹の事を言います。「十文字腹」と云うのは、戦国の武将が行ったと言われる切腹方法です。腹を左から右に切った後に短刀を抜いて、今度は鳩尾の辺りに突き刺してへその辺り迄切り下げると云うもので、文字通り十文字に腹を切った訳です。
主君の後を追って、所謂殉職の形でする切腹を「追腹」と言いました。近年では、明治天皇が亡く為った時に追腹の形で切腹をした乃木将軍が有名です。その他、責任を取ったり義理の為に行う切腹を「詰腹」と呼んだり、理不尽な理由で納得が行か無いまま切腹を命じられた時には「無念腹」等と云いました。
・武士達は外泊禁止の為お出掛けは何時も日帰り
現代でも未成年であれば、門限や外泊禁止のルールを設けて居る家庭も多いと思いますが、江戸時代の武士達は、例え大人であっても外泊が禁止されて居たのです。外泊が禁止なだけでは無く、暮れ六つ(午後6時)迄に帰宅をし無ければ為ら無いと云う門限迄あったのです。午後6時が門限なんて現代なら高校生でも怒る事でしょう。門限があって外泊が出来無いと云う事は、当然ながら自由に旅行も出来無いと云う事に為ります。
江戸時代の庶民の間では、旅行がブームに為って居ました。弥次さん喜多さんでお馴染みの東海道中膝栗毛には、お伊勢参りに向かう旅の楽しさが思う存分書かれて居ます。武士にはそう言った楽しみが許され無かった訳ですから、意外にも武士と云うのは大変な職業だったのかも知れません。
武士達の行動範囲は非常に限られて居た
武士に門限があったり外泊が禁止された理由として、24時間体制で非常時に備え無ければ為ら無いと云う役目があったからです。戦国時代ならイザ知らず、天下泰平の江戸時代にそこ迄の臨戦態勢を取る必要があったのか如何かは疑問ですが、武士と云うのは建前上はそう言った気持ちで日頃から生活をし無ければ為ら無かった訳です。
大名などは、上屋敷・中屋敷・下屋敷と言った様に幾つかの住まいを構えて居る者も少なくありませんしたが、例え側室が住んで居る下屋敷であっても外泊が出来無かったと言いますから可成り厳しいルールと言えるでしょう。
その為、一寸遠出をする用事がある時等には、夜明けと共に出発をし無ければ、日帰りで帰って来るのは困難に為ってしまいます。日帰りと言っても現代の様に車や電車がある訳ではありませんので行動範囲は限られます。「偶には家族サービスの為に1泊旅行に出掛ける」等と云う息抜き的な事も武士達は出来無かった訳です。そう言った意味では、武士と云うのは可成り不自由な生活を強いられて居たと云う事が分かるかと思います。
武士が旅に出る事が許された例外とは?
武士が堂々と旅に出る事が出来るのは、主君の参勤交代の時や、京都の二条城へ行ったり自分の藩に用事で出掛ける等の「御用道中」の時だけでした。又、例外として親戚に祝い事や不幸があった時に限り旅に出る事が許された様です。しかし、そう言った理由があれば簡単に旅に出る事が出来たのかと云うとそうでも無く、面倒な手続きをして初めて許可されたのです。
先ず、自分が所属する支配頭に対して旅に出る理由やお供の人数、所要日数などを申し出て、道中奉行に許可の切手を発行して貰わ無ければ為りませんでした。更に、関所を通過する必要がある旅の場合には関所手形も必要でした。
祝い事が理由の旅であれば兎も角、不幸があった時等はとても旅を楽しむ様な心境には為れ無かった事でしょう。又、禄高のある武士の場合、一人で気楽に旅をすると云う訳にも行かず、必ずお供を連れて行く事に為りましたのでそれ為りに出費も嵩んだに違いありません。
江戸時代においては、武士と云う特権階級に憧れる人は少無く無かったと思いますが、意外にも一般庶民の方が自由気ままでストレスが無くて生き生きと生活が出来たのかも知れません。
まだまだある、知らないこと・・・つぎ きたいしてね
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