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2021年04月02日

判り易い日本の歴史  その12 明治時代




 判り易い日本の歴史  その12 明治時代


 明治時代(1868年〜1912年)

 江戸幕府は外国の圧力に負けて不平等な条約を結んでしまいました。その為「外国人を排斥しよう」と云う考えが各地に広まりって行きました。先ず動いたのが朝廷・幕府共に深い関係にあった薩摩藩でした。朝廷と幕府が一緒に為って国の政治を安定させ強い国を作る様に働き掛けました。
 しかし長州藩が、薩摩藩が留守のスキを突いて朝廷の実権を握り、京都で反対派を次々に暗殺。手段を選ばず天皇崇拝と外国人排斥の思想を実行しようとします。これを快く思わ無かった薩摩藩と孝明天皇は、武力によって長州藩を京都から追い出しました。

 薩摩藩と長州藩の敗北

 丁度その頃、薩摩藩はイギリスと戦争し敗北しました。これにより外国の武力を思い知った薩摩藩は、外国人を排斥出来ない事を悟りました。翌年、長州藩もイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合国と戦争して敗北。外国人排斥の運動が無意味だと悟り倒幕の考えに移りました。
 薩摩藩と長州藩・・・お互いに今のママでは日本が危ないと感じて居ましたが、京都での一件があり両者は険悪な関係が続いていました。そこに坂本龍馬が登場。龍馬は薩摩と長州の会談を実現させ、薩長同盟を結ばせる事に成功しました。こうして、強力な力を手に入れた薩摩藩と長州藩は、江戸幕府を倒し明治時代が始まりました。

 新政府による近代化

 新政府の中心は江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩・・・天皇中心の中央集権国家を作り、近代化を進め始めました。先ず取り掛かったのが、藩を解体して新しく県を定める廃藩置県。当時、政府の財政は苦しく、藩主が夫々兵力を持って居た為、何もし無ければ新政府が直ぐに崩壊する事が分かって居ました。
 そこで、新政府から各地を統治する為の地方官を派遣し県を統治させました。この時、藩の武士達が反発すると考えていた新政府ですが、予想外に反乱は起きずスムーズにことが進みました。理由として考えられるのは、主に以下の3つです。

  倒幕の時の戦いで各藩の財政が苦しかったこと
  廃藩置県の必要性を藩主が理解して居た事
  武士に優遇措置を捕った事

 その後、新政府は近代化の為の政策を徐々に打ち出して行きました。

 【四民平等】 国家の独立を守り、欧米諸国と肩を並べるには日本を近代化する必要がありました。そこで、古い身分制度を廃止して武士と農工商民を平等にしました。これにより、職業選択が自由になり身分間の結婚も出来る様に為りました。
 但し、建前上は平等でしたが、暫く差別が続き、特に「えた・ひにん」の流れを汲む人達は長い間、居住・教育・就職・結婚で不利な立場が続きました。

 【徴兵令】 今まで戦いは武士のものでしたが、新政府は身分に関係無く20歳以上の男子に兵役の義務を課すことにしました。銃を使った近代兵器メインの戦闘に為り、強い軍隊を作るにはこの方法にする必要があったのです。

 【地租改正】 様々な改革を進めるには、財政の安定が不可欠でした。そこで、今まで取れ高に応じてお米を徴収して居ましたが、土地の価値の3%を現金で納める形式に変えました。これにより、政府には毎年同じ額のお金が入って来る様に為り、土地所有者も明確に為りましたが、税が重過ぎた為一揆が何度も起こり2.5%に引き下げました。

 【官営工場】 政府は、経済力の差が国力の差を生んでいると考えました。そこで、幕府や藩が運営していた工場や造船所を国が運営することにし、多額の資金を投じて新たな工場を作り始めました。
 近年、世界遺産に登録された富岡製糸場もその一つです。政府はこれらの他に、貨幣制度改革・鉄道の設置・郵便事業の開始・小学校の設立等様々な改革を打ち出しました。しかし、明治新政府の近代化は余りにも急激で、国民の生活を無視したものも少なくありませんでした。

 巨額の経費を賄う為に農民から重い税を取り立てたり、兵役の義務や小学校の設置義務などを負わせたり。特に士族(元武士)は、次々と特権を奪われ経済的に行き詰まりました。そんな中、遂に士族の不満が爆発。 西南戦争が起こりました。
 明治政府は徴兵制で作った新たな軍隊を総動員し士族4万人と対決しました。この戦は8ヶ月にわたって九州で展開されましたが、結局政府軍が勝利しました。

 国会開設の要求が各地で高まる

 西南戦争が起こった頃、選挙で議員を選び政治を行う為、国会開設の要求が出されました。この要求は雑誌や新聞上で議論と為り、ヤガテ自由民権運動と云う大きな運動に発展して行きました。1870年代末に為ると、米や農作物の価格が上昇した為農民の生活にユトリが出来、政治活動の資金も豊かに為りました。
 これにより、自由民権運動は農民にも広がり、25万人もの人が関わる様に為りました。これに危機感を抱いた政府は、運動を弾圧する条例を出しました。

 しかし、運動は衰える事無く、政府は10年以内に国会を開くことを約束しました。国会開設に伴い、憲法案が次々と出される様に為りました。ドイツやイギリス・オーストリア・ベルギーなど、近代国家の憲法やその運用方法を研究し、1889年、遂に大日本帝国憲法が発表されました。この憲法により、天皇中心の国家体制が確立され、国民の権利と自由が認められる様に為りました。

 残る不平等条約と世界情勢の変化

 急激な改革を進めた結果、欧米による植民地化を切り抜けた日本。しかし、マダ、江戸幕府が結んだ不平等条約が残って居ました。そこで、日本は欧米諸国と条約改正の交渉をしますが、近代的制度を整えて居ない事を理由に断られてしまいました。
 その後、世界情勢は少しずつ変化して来ました。中でも、ロシアが勢力を拡張し東アジアに進行して行く様子は、植民地を持つイギリスに取って脅威でした。その為イギリスは、日本を使ってロシアの南下を防ごうと考え不平等条約の改正に応じました。

 ロシアに危機感を抱いていたのは日本も同じでした。ロシアの南下に備える為、先ずは朝鮮に中国から独立して貰い同盟を結べるだけの力を着けて貰おうと考えました。日本は朝鮮を開国させ、日本の商人や商社を進出させて行きました。しかし、コレにより朝鮮の経済は混乱。
 豊臣秀吉が行った朝鮮侵略による反日感情もあって、民衆は反乱を起こしました。この反乱を中国軍が鎮圧。こうして、日本は朝鮮での影響力を失ってしまいました。

 力を蓄え戦争へ

 暫くの間、日本は朝鮮に手を出せませんでしたが、その間に軍事力を強化しました。そして、中国にも勝てる位の軍事力を手に入れると、今度は中国と戦争する機会を窺う様になりました。1894年 様々な策略を巡らせ、朝鮮から中国軍を追い払うと云う大義名分を獲得すると、日清戦争が始まりました。
 日本軍は凄まじい速さで中国軍を打ち破り、朝鮮半島を北上。1895年4月に講和条約が結ばれ日本の勝利に終わりました。この戦争により、日本は1億5000万円以上の利益を獲得し、中国に朝鮮の独立を認めさせました。

  ロシア vs 日本白人 vs 有色人種

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 眠れる獅子として恐れられていた中国。しかし、日本に敗れたことで弱体振りを明らかにすると、各国はこぞって中国に進出し鉱山開発等の権益を獲得して行きました。そんな中、ロシアが満州を占領し朝鮮半島にも影響力を強めて来た為、日本はロシアと交渉。しかし、交渉は成立せず日露戦争が始まりました。
 白人大国ロシアとの戦争は、日本に取って国の命運を賭けた戦いでした。日本は、イギリスとの同盟を後ろ盾にして、17億円と云う巨額の経費を用意しました。これは、当時の数年分の国家予算にも上りました。

 日本が総力を挙げて日露戦争にあたる中、ロシアでは専制政治に対する反対運動が高まりました。これにより、戦局を有利に展開出来た日本ですが、両者とも経済的・軍事的理由で戦争継続が困難に為り、1905年にポーツマス条約を結びました。内容は日本に有利なものでしたが、賠償金は払われず戦争の損失に見合ったものと云えませんでした。
 20万人もの死者を出して苦しい生活を強いられた国民に、不満が溜まってしまったのです。その後、日本は欧米の植民地政策を真似て、韓国併合を行い、植民地支配を始めました。日露戦争から10年後の1914年時代は大正時代へ移り、第一次世界大戦が始まります。

 次は大正時代へ













2021年03月30日

判り易く面白い日本史 11 江戸時代の流れを解説!!



 判り易く面白い日本史 その11 江戸時代の流れを解説!!

 11 江戸時代の流れを解説!!

 江戸時代(1603年〜1868年)

 豊臣秀吉がこの世を去った後の1600年 天下分け目の戦いが始まりました。この戦いに勝ったのは徳川家康。関ヶ原で石田三成率いる西軍を見事に破りました。1603年 徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。
 幕府を開き全国を支配した家康は、先ず、豊臣家の力を削ぐ為に将軍職を徳川秀忠に譲りました。これにより、将軍は代々徳川家が受け継ぐと云う事を周りに知らしめたのです。

 将軍職を降りた家康ですが、その後も幕府の実権を握り制度を整えて行きました。各地の大名に“武家諸法度”を出して厳しく統制。支配地域を巧みに配置し、長年味方だった大名は江戸の近くに置き、天下分け目の戦いで味方に為った大名は江戸から離れた所にしました。
 又、朝廷や公家に対しても“禁中並公家諸法度”を制定して、天皇を政治から遠ざけました。こうして260年も続く幕府の基礎が作られて行きました。

 歴代将軍による政策 江戸幕府の基礎が固まる
 

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            r33 <徳川家光 出典 wikipedia>

 3代目・徳川家光の時代に為ると、参勤交代を制度化して幕府と大名の主従関係を明確に為りました!! 参勤交代で一年毎に江戸まで往復し無くては行けなく為った大名は、財力を蓄えることが出来無く為り反乱を起こせ無く為りました。又、家康の時代から進められていた鎖国政策を完成させました。
 鎖国の主な理由は、キリスト教の普及が幕府に取って都合が悪かったことと、キリスト教により密かに植民地化される事を恐れた為です。

 4代目、家綱の時代に為ると新たな問題が浮上。今までは武力で問題を解決して居ましたが、処罰により行き場を失った牢人が激増したのです。1651年7月、幕府政治への批判と牢人の救済を訴えて反乱が起きました。
 反乱は幕府が鎮圧しましたが、この事件を切っ掛けに統治方法が変わり始め、武力での支配から、儒教思想に基づいた文治政治に切り替わりました。やがて将軍の下に大名、その下に家臣と云う関係が定着し幕府の基礎が固まりました。

 5代目・綱吉武家諸法度を改定し、更に文治政治を進めて行きます。今まで武士は武芸が最も重要だと説いて居ましたが、武家諸法度を改定し忠孝と礼儀こそが重要だと説きました。
 また、1687年“生類憐みの令”を出して、犬を初めとする動物の殺生を禁止しました。

 この法令で庶民は混乱しましたが、戦国時代の殺伐とした雰囲気が一掃されました。綱吉がこの世を去ると、家宣が6代目将軍に着きました。家宣が将軍に為ると、直ちに生類憐みの令を撤廃。新井白石をサポート役にして政治を始めました。処が、家宣は将軍に為って僅か4年で亡く為ってしまいました。次の将軍は家継。この時、家継は5歳だった為新井白石らが政治を運営しました。

 新井白石は綱吉の時代に作られた粗悪通貨によるインフレを抑制しようとして、金の含有量が多い正徳小判を作り物価の安定を図りますが失敗してしまいました。新政権になって3年後、家継は僅か8歳でこの世を去りました。
 8代目将軍に選ばれたのは徳川吉宗でした。新井白石の政治に不満を持った人たちが吉宗を推薦したのです。

 吉宗は将軍に為ると、幕府や大名の贅沢な生活と赤字財政を問題視。自ら率先して質素な生活をして、大名達にも贅沢を控える様に指示しました。又、大名の財政負担を減らす為に参勤交代を減らし、年貢を増やす為に新田開発を推進する等の政策を行いました。

 再び財政悪化 止まらない幕府の衰退

 10代目 家治の時代に為ると再び幕府の財政が悪化。そこで、サポート役の田沼意次が政策を打ち出しました。田沼は市場経済の発展に目を着け、商業中心の経済を作ることで幕府の財政を再建しようとしました。
 商人の力を借りて国家事業に着手!!しかし、田沼の急進的な改革は保守派の反感を買ってしまいました。そこに、1782年の大飢饉・米の価格が急上昇し、農業軽視の政策に批判が集まり田沼は失脚してしまいました。

 11代目は家斉 家斉の元で政治の実権を握ったのが松平定信でした。定信は、田沼の政策を否定して、農業重視・質素倹約の政策を進めました。
 しかし、定信の改革は思想や言論を統制するものだったので民衆の反発を招き、僅か6年で失脚してしまいました。その後、政権を取り戻した徳川家斉は、1837年に将軍職を子供の家慶に譲り、大御所として実権を握りました。

 家斉は50年にわたり政治を行いますが、倹約から徐々に贅沢な生活を求める様に為り政治が腐敗してしまいました。
 ちなみに、この頃、欧米では産業革命に成功し、原料を確保する為植民地を求めてアジアに進出を開始しました。欧米の船は日本近海にも出没する様に為り、幕府に貿易を求めて来ました。幕府はこれを拒否し、1825年に外国船を打ち払うように命じました

 1833年 天保の大飢饉が全国に広がり、多くの餓死者が現れました。しかし幕府は有効な対策を打ち出せず反乱が起こりました。1841年に為ると、幕府の権威と財政を再建する為に水野忠邦が改革を行いました。
 しかし、この改革は前の改革を模倣したもので時代に合って居なかったので失敗し水野忠邦は失脚しました。

 幕府の政策が幾つも失敗する中、九州の薩摩藩長州藩改革に成功。薩摩は黒砂糖を専売して財政を立て直し長州は殖産興業を進めました。

 日本中に衝撃!! ペリーと黒船
 

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 1842年 日本に衝撃的なニュースが入って来ました。何とアジアの大国、清(中国)がイギリスとの戦争に敗れ開国したのです。これに危機感を抱いた幕府は、鎖国政策を和らげました。
 1853年に為ると、ペリーが軍艦4隻を率いて遣って来て、強大な軍事力を背景に開国を迫って来ました。この時は上手く交渉して、何とか一年後にもう一度話し合うと云う事に為りました。
 1854年 再びペリーが軍艦7隻を率いて遣って来ました。強大な軍事力を恐れた幕府は、ペリーの圧力に屈して鎖国体制を終えました。

 1858年に為ると、今度はハリスが来航。関税を自由に掛けられ無い、日本で起きた問題でも外国人を日本で裁け無い等、不利な条約を結ばされてしまいました。アメリカと不利な条約を結ぶと、同じ様にオランダ、ロシア、イギリス、フランスも圧力を掛けて来て、結局それらの国とも不平等条約を結ぶ事と為りました。
 武士達は幕府が不平等条約を結んだ事に納得出来ませんでした。すると当時の権力者、井伊直弼は反対勢力を次々と処罰し始めました。厳しい弾圧を実行した井伊直弼ですが、1860年に暗殺されてこの世を去りました。

 14代将軍徳川家茂の元で政権を握ったのは、安藤信正でした。安藤は天皇と協力して国難に立ち向かおうとしますが、又も暗殺されてしまいました。
 そんな情勢の中で、九州で力を着けて居た薩摩藩長州藩が動き出し、江戸幕府を倒す雰囲気が流れ始め、時代は明治へと向かって行きます。

    次は明治時代へ










2021年03月27日

判り易く面白い日本史 その10 戦国時代の流れと軍師・姫・戦い方を解説



 判り易く面白い日本史 その10

 10 戦国時代の流れと軍師・姫・戦い方を解説

 戦国時代(1467年〜1603年)

 室町時代に各地で勢力を着けた守護や領主は、応仁の乱以降、領土を拡大し法や制度を作って地域を支配し始めました。そして、各地で様々な支配体制が出来上がると室町幕府の支配は機能し無く為り、戦国時代へと移って行きました。

 戦国時代に求められたのは 武力と統治力

 室町幕府の元で荒れた世では、古い階級や権威では争いを止める事が出来ず、領主や国民は自分を守って呉れる支配者の元に集まる様に為りました。元々力を持って居た守護大名は多くの人に頼られた為、戦国大名に為って勢力を拡大して行きました。
 守護大名より階級の低かった守護代や領主も頼られる事が多く為り、次第に力を着けて行きました。これにより、下の身分の者が上の身分の者を倒す下剋上が各地で多発。身分が関係無く為り、夫々が領土拡大・天下統一を目指す様に為りました。

 大ニュース!織田信長が今川義元を破る!!

 各地で戦国大名が地盤を固め、隣国と争いが続くなか・・・1560年 当時最強と言われて居た今川義元が、小大名に過ぎ無かった織田信長に敗れました。ここから、時代の中心は織田信長に為りました。信長は徳川家康と同盟を結び、1567年に岐阜を制覇・天下統一に乗り出します。
 先ずは足利義昭が室町幕府の15代将軍に為るのに協力。これを理由に京都に上り、中央の実権を掌握しようとします。

 しかし、信長に利用されて居ると気付いた義昭は、浅井長政・武田信玄・毛利輝元・比叡山延暦寺等に挙兵を呼び掛け信長包囲網を作ります。信長はこれに苦戦。しかし、浅井長政を破る事に成功すると、浅井長政に味方した事を理由にして反対勢力を次々に倒して行きます。1572年10月 最強の騎馬軍団率いる武田信玄が、足利義昭の求めに応じて動きます。

 武田信玄に一方的にやられる信長・家康連合軍

 信玄の勢いは止められ無い!! 誰もがそう思いましたが、途中で信玄が病で倒れます。これにより最大の危機を脱した信長は、足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅亡させます。その後、朝倉義景・浅井長政を自害に追い込み、石山本願寺の勢力を叩き潰すと信長包囲網は完全に崩壊。信長は周辺地域を平定しました。その後も天下統一の為の戦が続き、信長は勢力を拡大して行きました。

 織田信長の富国強兵政策


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 信長の政策で、特に注目したいのが”楽市楽座””鉄砲”。戦をするには人を集め物資を調達する必要があります。そこで信長は、楽市楽座と云う政策を打ち出し、独占を禁止して誰でも自由に物を売れる様にし通行税も廃止しました。これにより、城下町の経済が大きく発展しました。
 また、新しいもの好きの信長は、外国から伝わった鉄砲をいち早く取り入れ、騎馬中心だった戦闘方法から大人数で鉄砲を使う戦闘方法に切り替えました。これらの政策で富国強兵に成功した為、信長は快進撃を続ける事が出来たのです。

 明智光秀の裏切りと豊臣秀吉の登場

 1582年に武田家を滅ぼした信長は、関東、北陸、畿内、四国、中国地方に夫々兵を送り、天下統一の仕上げに入りました。しかし、後一歩の処で、家臣の明智光秀に裏切られてこの世を去ります。この知らせを受けた信長の家臣、豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、直ぐに明智光秀を倒して仇を取りました。

 これにより信長の後継者候補に浮上した秀吉は、反対勢力を倒し天下統一を目指しました。1584年 秀吉にとって最も厄介だった徳川家康との戦いが始まりました。戦いは家康有利で進みますが、家康に助けを求めて居た織田信勝が途中で和睦を結んでしまい、家康は大義名分を失ってしまいました。
 その後、争う事が得策では無いと感じた家康は秀吉に忠臣を誓いました。懸念であった家康の問題を解決した秀吉は快進撃を続け、1590年に遂に天下統一を果たしました。

 秀吉の政策と朝鮮出兵

 豊臣秀吉は農地の権利者やその土地毎の米の生産量、土地保有者等を整理。今まで貴族や武士が土地を二重支配して居た状況を変えました。また、農民から武器を徴収することで反乱を抑え、武士と農民の役職を完全に分けました。
 秀吉は次第に独裁色を強め朝鮮にも出兵。15万の大軍で攻めますが、中国の援軍により苦戦しました。1598年に為ると秀吉がこの世を去り、兵は朝鮮から撤退しました。

 朝鮮戦争の間、秀吉の出兵依頼を断り着々と力を蓄えて居たのが徳川家康。秀吉が亡くなると、遂に天下取りに動き始め、時代は江戸時代へ移って行きます。

  次は江戸時代の流れへ



2021年03月25日

判り易く面白い日本史その9 室町時代の流れと文化・食事・生活を解説


 判り易く面白い日本史 その9 室町時代の流れと文化・食事・生活を解説

 室町時代(1336年〜1573年)

 14世紀初め、後醍醐天皇は、足利尊氏・新田義貞等の武士の力を借りて鎌倉幕府を滅亡させました。政権を取り戻した後醍醐天皇は、自身が理想とする天皇中心の政治を開始。摂政や関白・上皇等の制度を廃止し、全国の土地を天皇が管理する政策を勧めました。
 しかしこの制度は、鎌倉幕府時代に手に入れた領地を没収する制度でもありました。当然、武士が反発し社会が混乱しました。

 足利尊氏が室町幕府を開く

 ここで登場したのが足利尊氏。尊氏は1335年に反乱を起こし1336年に京都を制圧。室町幕府を開きました。僅か3年で崩れてしまった後醍醐天皇の政治ですが、彼は未だ諦めませんでした!!奈良に逃げ込むと、そこで政治を始めました。奈良の朝廷京都の室町幕府・・・2つの政府が争いながら日本を支配する南北朝時代と為り60年間続きました。

 政権統一!南北朝時代が終わる

 お互いに政権の正統性を主張する中、次第に朝廷の力が弱く為って来ました。1392年に為ると、室町幕府3代目将軍の義満によって政権が統一され、南北朝時代が終わりました。1394年 義満が太政大臣に就任すると、幕府の最盛期と為りました。京都に金閣寺を建てたことからもその権力と財力が窺えます。

 義満がこの世を去ると、幕府の支配体制に綻びが出始め、関東の実力者上杉氏が反乱。他の地方でも守護の力が増し手に負え無く為って来ました。守護の力を抑えようとした当時の将軍・義教は、独裁政治に傾き始めました。
 その後、社会は益々乱れ一揆も多発する様に為りました。そしてそんな状況に危機感を抱いた赤松満祐が、義教を暗殺してしまいました。

 1449年 足利義政が8代目将軍に就任。当時は疫病や飢饉が全国的に発生し各地で大規模な一揆が起こる等大変な世の中に為って居ました。そんな状態なのに、幕府では跡継ぎ争いが始まってしまいました。この争いは10年も続き、室町幕府の力と権威が弱まりました。
 また、争いにより幕府が管理出来無く為った地方では、守護や国人領主等が力を着け戦国大名に為って行きました。こうして、夫々の地を、戦国大名が統治する戦国時代へと移って行きました。

 政権争いの裏側で・・・

     
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 鎌倉時代に 比較的暖かな地域ではコメと麦の二毛作が行われる様に為りました。更に技術が発達すると、荏(え)胡麻(ごま)を栽培したり、絹布や麻布を織って副業する様に為りました。こうした発達により市が開かれる事も多く為って行きます。すると、地方の特産物を売り歩く行商人も現れる様に為り、商工業者が増えて来ます。
 その後、鉄製農具が発達し牛馬を利用出来る様に為ると、農業の生産性が更に向上。鍛冶や塗師、大工、鎧士等仕事の分業が進む様に為り、更に市場が活発に為りました。

 民衆の意識が進歩して來ると、荘園領主(貴族)や、地頭(武士)による税の徴収に反発する様に為って来ました。農民達は団結して訴訟を起こしたり、集団で逃亡したり、武力に訴えて年貢の納入を拒否しました。こうした流れに各地を管理する領主(貴族)や守護(武士)は苦悩しますが、一部の経済感覚の優れた人達は流れに乗り力を着けて行きました。

 守護が力を着けた為、幕府は各地をコントロール出来無く為りました。そこで、苦肉の策として守護の権限を強化して幕府に協力を促します。権限が強く為った守護は、貴族の土地である荘園の侵略を繰り返し、更に力を着け守護大名に為りました。こうして、各地に様々な勢力が現れ、時代は戦国時代へ突入します。

 室町時代の流れと文化・食事・生活を解説

 室町時代の文化

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 室町時代の代表的な文化は2つ。1400年頃に栄えた北山文化1400年代後半に栄えた東山文化です。
 北山文化の特徴は公家と武家の文化が交じり合った華やかさ。代表的なのが足利義満の別荘として建てられた金閣寺で、全面が金箔で覆われると云う豪華なものでした。他にも能や水墨画も発達しました。その後暫くして現れたのが東山文化。
 美的センスの優れた当時の将軍・足利義政の力もあり簡素で深みのある文化が発達しました。禅の精神から「わび・さび」が生まれ、狂言・水墨画が発達。連歌や茶の湯・生け花が広まりました。

 室町時代の食事

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                <出典:wikipedia>


 室町時代に 食事の回数が1日2回から1日3回に為り品数も豊富に為りました。只、武士達は鎌倉時代から引き続き質素で栄養のあるものを食べていました。玄米を硬めに煮たおかゆを主食とし、おかずにはアジや野菜の煮物・漬物梅干等を食べていました。又、この時期から味噌や醤油が広まり味噌汁も飲まれる様に為りました。

 室町時代の生活

 室町時代の武士たちの生活は、鎌倉時代から余り変わりませんでした。只、庶民の生活は大きく変わりました。二毛作を遣る様に為り、農具が発達した為生産性が向上し、農業以外の仕事に就く人が増えました。
 そこで生まれたのが”座”。朝廷や貴族、寺社に税金を納める事で、その地域で特権的にものを売って稼ぐ事が出来ました。農民は、藁の屋根と土壁で作られた家で生活を送って居ました。天井には槍が置いてあり、戦いに為ると武士として参加しました。又、荒れた世相を反映して、村全体で田んぼを守る”惣”(そう)と云う自治組織も出来ました。

 前 鎌倉時代の流れ 次 戦国時代の流れ




判り易く面白い日本史 その8 鎌倉時代の流れと文化・食事・服装を解説



 判り易く面白い日本史その8 鎌倉時代の流れと文化・食事・服装を解説


 鎌倉時代(1185年〜1333年)

 太政大臣に任命された平清盛は、朝廷内の重要な地位を独占。貴族や武士・僧侶は不満を持ちました。1180年 不満を持った武士が全国各地で挙兵すると、源頼朝が中心と為って 平氏軍を破りました。頼朝は平氏を倒した後、鎌倉に戻って地盤固めに専念しました。
 1184年正月 平氏は再び政権を奪おうとしましたが、後白河法皇は源頼朝に平氏追討の命令を出しました。そこで、頼朝の弟・義経が討伐に向かいました。そして義経は平氏を壇ノ浦に追い詰め、見事に平氏を滅ぼしました。

 源頼朝が全国を支配!鎌倉幕府を開く!!


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              <出典:wikipedia>


 平氏が滅亡すると、後白河法皇に取って次の脅威は源頼朝。そこで、義経に対して頼朝討伐の命令を出しました。しかし武士の多くが、頼朝こそが武士のリーダーに相応しいと考え集結した為、義経は敗北。
 天皇に力を見せ着けた頼朝は、義経追討を名目にして各地を管理する“守護”“地頭”の設置を認めさせました。こうして、源頼朝は全国の支配権を獲得したのです。

 後白河法皇の死後、源頼朝は朝廷から征夷大将軍の任命を受け、鎌倉幕府を開きました。これにより、日本初の武士政権・鎌倉幕府が誕生しました。
 鎌倉幕府の大きな特徴は、御恩と奉公による封建制度。武士は天皇や幕府を警護したり、戦の時には命懸けで戦って幕府の為に尽くすことを約束。武士の奉公に対して、幕府は御恩で応えます。地頭に任命して収入を増やして挙げたり、先祖伝来の土地所有権を認めて挙げたり、手柄に応じて新たな領地を与えたりしました。

 北条氏が政権を握る

 源頼朝がこの世を去ると、長男の頼家が将軍に就任。しかし、未だ18歳の頼家に幕府をまとめる力は無く、政治が乱れ幕府の武士他ちは主導権争いを始めました。頭角を表したのは、頼家の祖父・北条氏でした。北条氏は、頼家が病で倒れると弟の源実朝を3代目将軍にしました。この時実朝は12歳。
 実朝の補佐を名目に北条氏が政治の実権を握りました。その後も、代々、北条氏が政治の実権を掌握する様になりました。

 次第に独裁色を強める北条氏。これに不満を持つ武士が多いと感じた後鳥羽上皇は北条義時討伐の命令を下しました。しかし、上皇の期待とは裏腹に、大多数の武士が幕府側につき敗北。
 幕府側はこの戦いに勝ち、朝廷を監視する為に六波羅探題を設置しました。こうして、幕府の勢力は西国に迄及び、朝廷に対して優位に為りました。

 元軍の侵攻と武士の不満
     
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 1274年 朝鮮半島から約3万の元軍(中国軍)が九州に攻めて来ました。迎え撃つ武士たちは、集団戦法と火薬を使った飛び道具に大苦戦。戦の初日は敗北を喫してしまいました。
 その日の夕方、元軍は夜襲を恐れ船に撤退。しかし、ここで突然の暴風雨が吹き荒れました。これにより、元軍は壊滅。 幕府は勝利しました。

1281年 日本制圧を諦め無い元軍は、14万の大軍を率いて再び日本を襲いました。
しかし、今度は幕府も確りと守りを固めて居た為、海岸の制圧に手こずります。そんな中またも暴風雨発生。元軍は壊滅状態に陥り、幕府が勝利しました。

 さて、元軍侵略の危機を脱した幕府。しかし、この戦で新たな土地を獲得出来ませんでした。その為、武士に十分な恩賞を与えられませんでした。多額の戦争費用を出し、命懸けで戦った武士は当然不満に思いました。
 やがて、幕府に反抗する武士が登場し、打倒幕府の雰囲気が流れ始めました。この流れを察知した後醍醐天皇は、足利尊氏や新田義貞等の武士の力を借りて鎌倉幕府を滅亡させました。

 次は室町時代へ




2021年03月22日

判り易く面白い日本史 その7 平安時代の流れと食事・服装・生活を解説



 判り易く面白い日本史 その7

 7 平安時代の流れと食事・服装・生活を解説

 平安時代(794年〜1185年)

 道鏡に主導権を握られて居る事が気に食わ無かった藤原氏。称徳天皇の後に光仁天皇を擁立する事で、道鏡の力を排除する事に成功しました。光仁天皇は律令国家を取り戻そうとして、政治と宗教を分け、僧侶の監督を強化し行政の簡素化を進めました。
 光仁天皇の死後は、桓武天皇が即位しました。光仁天皇が幾ら律令国家を取り戻す政策を進めても、奈良にはマダマダ寺院や貴族の力が残って居ました。

 そこで、桓武天皇は784年に都を長岡京に移しますが、長岡京の責任者“藤原種継”が暗殺されてしまいます。事件に関与したのは大友氏や佐伯氏等の旧豪族。それに加え、早良親王にも事件関与の疑いが掛けられました。早良親王は無罪を主張し続けましたが聞き入れて貰えず、淡路島に流される途中で亡く為ってしまいました。

 相次ぐ不吉な事件

 早良親王の死を機に、桓武天皇の周辺では不吉な事件が相次ぎました。

 788年 妻の藤原旅子が病死
 789年 実母の高野新笠が死去
 790年 皇后の藤原乙牟漏と夫人の坂上春子が死去 天然痘と云う疫病の流行。天候不順による飢饉

 「これ等の事件は、早良親王が怨霊と為って災いを起こして居るのだ!!」そう考えた桓武天皇は、怨霊を鎮める為、794年に都を平安京に移しました。

 平安時代の幕開け

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 8世紀後半、農村では重い税金から逃れる為に農民の逃亡が相次ぎました。戸籍を偽って税負担を軽くしようとする農民も急増しました。その所為で土地は荒れ財源が不足。そこで桓武天皇は、792年に軍事の得意な少数精鋭部隊を作って農民から兵役の義務を無くしました
 又、805年には平安京の建築を途中でストップして農民の負担を軽くしました。823年に為ると税の徴収方法を変え、土地単位で税を徴収し始めました。しかし財政は益々苦しく為って行った為、天皇や皇族、官人は直接土地を持って収入を得る様に為りました。こうして、天皇中心の律令制度は財政面でも崩れて行きました。

 再び藤原氏の台頭

 9世紀初め迄は桓武天皇やその次の嵯峨天皇が権力を握り、天皇中心の律令国家を取り戻そうとしましたが徐々に藤原氏が台頭藤原冬嗣は天皇の機密を扱う責任者に為り力を手に入れました。
 藤原冬嗣の仕事を引き継いだ藤原良房は、政治を自分の思う様に動かし始めました。良房は対立する貴族を排除し朝廷での高官職を藤原氏が独占。天皇と親戚関係に為り、自分の所有する土地も広げて行きました。更に良房は、子供の基経を天皇サポート役“関白”と云う役職にして力を手に入れました。

 基経が死ぬと、藤原氏と外戚関係が無く為った宇田天皇は、摂政や関白の役職を無くし菅原道真を重用する様に為りました。道真は後世に学問の神様と呼ばれる程賢い人物で、宇田天皇や次の醍醐天皇の元で活躍しましたが、901年、藤原時平の策略で左遷されてしまいました。

 道真を左遷し再び権力を握った藤原氏。藤原時平の弟、忠平が摂政・関白の地位に着き政治の実権を握りました。その後、敵対勢力を排除し、摂政・関白の地位を藤原氏が独占する様に為りました。道長の時代に為ると、藤原氏は全盛期に突入します!!
 道長は4人の娘に天皇の子供を産ませ、天皇の祖父として50年間も政治を支配しました。ちなみに、天皇家と藤原氏の政権争いの元で、各地の統治方法も大きく変わって行きました。

 貴族の圧力と私有地の増加

 8世紀〜9世紀 墾田永年私財法によって、力のある貴族や寺院が次々に土地を開拓し更に力を着けて行きました。また、開拓した土地には税金が課されますから、政府の財政も少しはマシに為って来ました。
 貴族や寺院が強大に為ると「税を免除しろ」と云う圧力を掛ける様に為りました。この時、政権は藤原氏が握って居ましたから、自分の利益を拡大する為に税を免除する制度を作りました。

 税を免除して貰える寺院や貴族が現れると、農民や領主はそこに土地を譲ってしまいました。それにより農民は少額の税を貴族や寺院に払うだけで好く為り、国には税を納め無く為ったのです。こうして、国家が介入出来ない土地がドンドン増えて行きました。そして、政府の力が弱く為り社会が荒廃して行きました。
 社会が荒れると、自分の土地を自分で守ろうとした豪族や有力農民は、武装して弓矢を持ち馬に乗って戦う武士に為りました。やがて、武士同士が手を組んで大きな集団に為り、地方武士の力が強力に為って行きます。

 そして武士は“承平・天慶の乱”を鎮圧する程力を着けました。この事件により、武士の力を知った朝廷や貴族達は、武士を警護や治安維持に用いる様に為りました。

 強力な仏教勢力

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 さて、貴族だけで無く武士の力も強く為った9〜10世紀 貴族、武士の勢力に加えて、もう一つ厄介な勢力がありました。それが墾田永年私財法で力を着けた寺院の僧侶達。僧侶は武装して国司と争ったり朝廷に大勢で押し掛けて自分達の主張を通そうとしました。僧侶達の力と勢いは凄まじく、当時権力を握って居た藤原氏でさえ迂闊に手を出せませんでした。

 時は流れ天皇中心の政治に!!

 天皇、貴族、武士、僧侶・・・ 様々な勢力が入り乱れたママ時代が流れて行きます。1068年!!後三条天皇が即位すると、血縁関係が無い藤原氏の力は弱く為って行きました。後三条天皇は即位した時、既に34歳でした。政治に対して熱い情熱を持ち、貴族に遠慮すること無く堂々と政治を実行しました。
 自分の遣りたい様に政治をするには、僧侶の脅威から身を守ら無くてはいけないので、武士の力を借りる様に為りました。

 次の代は白河天皇 白河天皇は後三条天皇の意志を引き継ぎ天皇中心の政治を行いますが、途中で天皇の位を8歳の子供に譲りました。当然、未だ幼かった子供には政治を運営する能力が無い為、白河天皇は白河上皇と為って政治を支配。
 上皇は天皇による任命の手続きを必要としなかった為、法と慣例に拘らず政治が出来、他の貴族の力を抑えるのに有効だったのです。その後、白河上皇は孫、ひ孫が天皇に為った40年間もの上皇として政権を支配することに為りました。上皇の制度は100年程続きましたが、後に大きな争いを生みます。

 源氏と平氏 強力な武士の登場

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 1156年 鳥羽上皇崇徳天皇は、新たな天皇の座を巡って争います。この争いは貴族や武士を巻き込み大きな戦に。ここで活躍した源氏と平氏と 武士は、大きな力を身に着けることに為ります。
 1159年 源氏と平氏が対立し争いを始めました。これに勝利した平氏のトップ“平清盛”は娘に天皇の子供を産ませる事で政権を握り、清盛の子供達で高官の位を独占しました。

 しかし、平氏の独裁政治が進むと利権を奪われた貴族や寺院、地方武士が反発。平氏は滅ぼされ、時代は鎌倉時代へと移って行きます。

    次 鎌倉時代




2021年03月19日

判り易く面白い日本史 その5  飛鳥時代の流れと服装・食事を解説



 判り易く面白い日本史 その5


 5 飛鳥時代の流れと服装・食事を解説

 飛鳥時代(7〜8世紀)

 大和政権は次第に領地を広げ、九州から東北迄を統一。広大な土地を支配する為に、大王のサポート役が現れます。その中で特に力を着けたのが、財務担当の蘇我氏と軍事担当の物部氏でした。両者は政治運営のライバルとして争う様に為ります。

 仏教が伝わって來る

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 そんな中、大陸から仏教が伝わって来ます。元々大陸と積極的に交流していた蘇我氏は仏教の受け入れを強く勧めます。しかし、物部氏はこれに反発。両者は大きく争いますが、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして決着を迎えます。
 物部氏を滅ぼした蘇我馬子は592年に崇峻天皇(すしゅんてんのう)も暗殺。次の推古天皇のサポート役を聖徳太子にします。聖徳太子は儒教や仏教の思想を取り入れ、冠位十二階や十七条の憲法を作って朝廷制度の礎を築きました。

 蘇我氏の権力増大と中臣鎌足の改革

 聖徳太子と蘇我馬子がこの世を去ると、馬子の子供である蝦夷(えみし)、更にその子供入鹿(いるか)が政権を独占しようとしました。これに反発したのが中臣鎌足。645年に中大兄皇子と共に、蝦夷・入鹿を倒しました。
 中大兄皇子と中臣鎌足は中国の律令制度を基に、天皇中心の中央集権国家を目指しました。都を大阪の難波に移すと、改新の詔(かいしんのみことのり)と云う政令を出し、公地公民制や班田収授法等を定めました。

 673年に為ると天武天皇が即位。天武天皇は一人の大臣も置かず、皇子達と共に政治を行い、豪族を支配しようとしました。次の持統天皇もこれを受け継ぎ政令を施行すると共に、藤原京を作り都を移しました。
 続いて文武天皇は藤原不比等らと共に大宝律令を制定。これにより日本は刑法等を整えた律令国家に為りました。

 飛鳥時代の服装

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                 <出典:彦左の正眼!>

 【貴族の男性】身分によって衣服の色や持ち物なども決められていました。頭には黒い冠。上はコートの様に長くユッタリとした服を身に着け、腰のあたりで紐で結んでいました。下は、ズボンの様な袴を履いていました。
 【貴族の女性】上は、ユッタリとした色の着いた服。下は縦じま模様の裾の広がったスカートの様なものを履いていました。
 【庶民の服装】農民など、一般人の服装は弥生時代から余り変化しませんでした。シンプルで色の着いていない、白い布の服を着ていました。

 飛鳥時代の食事

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 飛鳥時代の食事は階級によって大きく違っていました。貴族は真鯛・アワビ・鮎・古代チーズなど様々なものを食べ、栄養の取り 成人病に為る事もありました。下級役人は玄米を主食とし、おかずに味噌汁・きゅうりの塩図家(しおづけ)かぶの酢の物・いわしの煮付け等。お酒も飲んで居ました。
 庶民は玄米に塩・海草の味噌汁・ゆでた青菜や山菜などを食べていました。弥生時代から余り変わらず一汁一菜が基本で、栄養失調で倒れる人も多かったです。又、仏教の影響で肉が禁止されることもしばしばありました。

 飛鳥時代のキーワードチェック

 【冠位十二階】603年、聖徳太子によって定められた制度。徳・仁・礼・信・義・知の六つを夫々だい小に分けて、12個の位を作りました。これ迄の様に血統で位が受け継がれるのでは無く、個人の功労に応じて位が決まる様に為ったので、優秀な人材が昇進出来る様に為りました。只、皇族や蘇我氏は適用外でした。
 【十七条の憲法】日本最初の成文法。天皇への服従や、不要な争いを避けること、仏法僧を敬うことなどを強調し、役人達への心構えを説いた。
 【公地公民】皇族や豪族が個別に土地と人民を支配する事を辞めさせ、全て天皇のものとする制度。公民は戸籍によって管理され、租(米)・庸(布)・調(特産物)を税として納めました。
 【班田収授法】6歳以上の男女に田んぼを支給し米を作らせる制度。男子には約23アール、女子には約16アールを与え税を納めさせました。
 【遣隋使】当時の中国は隋と云う国が支配しており、隋に行って文化を学んで来た人達を遣隋使と呼びます。遣隋使により律令制度等の知識が入って来て、日本でも刑法や服務規程を定めた大宝律令が完成しました。

 次は 6 奈良時代の流れと文化・服装・食事を解説 に為ります







2021年03月17日

判り易く面白い日本史 その4 4 古墳時代のくらし・服装・食べ物を解説



 判り易く面白い日本史 その4

  4 古墳時代のくらし・服装・食べ物を解説

 動画 https://youtu.be/GCp4Z_Vr2s0

 古墳時代(4〜6世紀頃)

 紀元前1世紀頃。日本には小さな国が約100個ありました。夫々の国は独自に中国と交流し、文化や技術を取り入れていました。2世紀後半に為ると国同士の争いが激しく為ります。何年も争いを続けましたが、卑弥呼と云う女性を連合国の王様にする事で争いが収まり、卑弥呼中心の連合国家“邪馬台国”が出来ます。3世紀に為ると、各地の権力者が力を示す為大きなお墓“古墳”を作るように為ります。この文化は7世紀頃まで続き、全国各地に200個以上作られて古墳時代の名前の由来にも為りました。

 大和政権の誕生

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 4世紀に為ると、大和政権が現れます。大和政権は大王(おおきみ)をトップとした連合国家で、各地にある小国を統一して行きます。しかし、国が大きく為ると大王だけでは全てを管理し切れません。
 そこで、外交・軍備・会計・土地管理など様々な役職が生まれ、統治体系の基礎が出来て来ます。ちなみに、この頃は飽く迄も連合国家。小さな国が大和政権の管理下に置かれて居ただけで、夫々の国が独自に地域をまとめて居ました。

 朝鮮の戦乱と日本技術

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 5世紀に為ると、飢餓や戦乱で苦しんだ朝鮮の人々が日本に逃れて来ます。彼等は政治運営・鍛冶・武器製造・土木・建築・製陶・動物の飼育など様々な技術を持って居た為、大和政権は積極的に受け入れます。これにより大和政権の文化は大きく発展し、次第に国としての基礎が出来て来ます。

 古墳時代のくらし   

 古墳時代に為ると支配者である豪族と、その他の民衆で生活に違いが表れます。民衆は集落に竪穴住居や平地住居、高床式倉庫を作って住んでいました。それに対し豪族は、集落から離れた場所に柵や壕を張り巡らせた居館を作って生活をしていました。居館は祭りを行ったり、余剰生産物を蓄える役割もありました。
 民衆の住居の壁にはカマドが出来、少ない燃料で料理出来る様に為りました。また、鉄製の農具も普及し生産性が上がりました。

 古墳時代の服装

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 男性 衣と乗馬ズボン風の袴 女性 衣とスカート風の裳 どちらも、上下に分かれた服を着て居ました。

 古墳時代の食べ物 弥生時代に広まった稲作が、より大規模で行われる様に為ります。お米をカマドの強い火で炊く様に為り、美味しく炊ける様に為りました。木の実も相変わらず重要な栄養源。

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 アク抜きしてクッキーの様に焼いて食べます。大きく変わったのが加工食品の生産。日本は高温多湿で食べ物が腐り易い為、塩漬けにして長持ちさせる様に為ります。この文化が、のちに味噌や醤油、漬物、塩辛に繋がります。干物や燻製と云った工夫もありました。  

 古墳時代のキーワードをチェック

 【邪馬台国】約30ヶ国から為る連合国家。呪術的な力を持つ卑弥呼が国をまとめ、中国とも交流。身分制度や税制、市などもありました。

 【古墳】3世紀後半〜7世紀に作られた権力者のお墓。3〜4世紀の古墳には鏡や玉、剣等呪術的なものが埋葬されて居た為、天候を占う司祭者が力を持つ様になったと考えられています。しかし、5世紀頃の古墳には馬具や鉄製の武器が一緒に埋葬されて居る事から、軍事的指導者が力を持ったと考えられて居ます。
 古墳には、前が四角形で後ろが丸の前方後円墳、両方とも四角形の前方後方墳があり、大きいものは486メートルにも為ります。
 【大和政権】大和政権は元々邪馬台国だったと云う説があるが、ハッキリしたことは分かっていません。大和政権のトップ“大王”が、後に天皇と呼ばれる様に為って行きます。

 次は 5 飛鳥時代の流れと服装・食事を解説









   その 3



 3 弥生時代の暮らし・遺跡・食事を解説

 動画 https://youtu.be/Id1v-7L40FI

 弥生時代(紀元前4世紀〜)

 紀元前4世紀頃、大陸から稲作が伝わって来ました。初めは九州地方に伝わり、100年程掛けて近畿地方迄。紀元前後には関東地方、紀元2世紀には東北地方に伝わって行きます。稲作がこれ程広まった理由は、食料の保存が効く為でした。
 今までは木の実や動物が取れ無いと飢えで苦しむ心配がありましたが、お米を作れば保存出来るので飢え死にする心配が無く為ります。只、稲作には水路の確保や田んぼを耕す作業、お米を保存する場所や、調理する道具等、様々なものが必要に為ります。その為、人々の生活にも大きな変化が現れました。

 暮らしの変化

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 稲作が広まったことで生活人数が変化しました。縄文時代は4〜6軒がまとまって生活して居ましたが、排水設備などを管理する為に10〜30軒が集まって暮らす様に為ったのです。道具にも変化が表れます。稲作と同時期に伝わって来た金属を使うことで、効率的に田んぼを耕せる様に為りました。
 お米の保存の為に、建物も変わりました。今までは地面に直接屋根を乗せた竪穴式住居で暮らして居ましたが、これでは湿気でお米がダメに為ったり、ネズミに食い荒らされたりしてしまいます。そこで、地面から離れた高い場所に倉庫を作って湿気を防ぎ、ネズミ返しでネズミが侵入出来無い様にしました。

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              <出典:やちくりけんブログ>


 土器にも変化が表れました。大陸の技術と今までの文化が融合して弥生土器が生まれます。弥生土器は縄文土器に比べ薄くて丈夫。お米や野菜を煮るのに役立ちます。煮炊き用以外にも、お水を溜めて置いたりお皿として使ったりもしました。

 集落の統合

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 これ等の変化で生活が安定して来ると、今度はお米を溜め込む人が現れ貧富の差が生まれます。貧富の差はそのママ力関係に繋がり、集落内で上下関係が発生。又、集落間でも貧富の差が生まれた為、他の集落から食料を奪おうとして争いが増えて来ます。
 争いの後には集落が統合されて、徐々に小さな国が誕生して行きました。ちなみに稲作には天候も大切なので、占いや雨乞いで天気を操る人も力を持つ様になりました。

 弥生時代の食事

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 弥生時代に入ると食事の内容が大きく変化しました。米や小麦、粟、ヒエなどを栽培する様になり、穀物が主食に為りました。穀物は水を加え炊いたり、蒸したりしてスプーンで食べていました。穀物の他にもスイカやカボチャ、桃、梅、あんず、柿など、様々なものが栽培され食べられていました。また、縄文時代から食べられていたクルミやドングリ、イノシシやシカ、果物や魚などは、弥生時代にも重要な食料のひとつでした。

 弥生時代の遺跡

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                  <出典:wikipedia>

 弥生時代の遺跡は全国各地に100以上!! 中でも有名なのは吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)でしょう。吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の吉野ヶ里丘陵にある遺跡で、大規模な環濠集落として知られています。その広さはなんと50ヘクタール。
 二重に作られた壕(ほり)や物見やぐらが特徴で、外からの攻撃を防ぐことに長けていました。遺跡からは勾玉や銅鏡、銅剣、石棺、土坑墓、布製品などが発見されて居ます。

  次は4 古墳時代へ



2021年03月15日

判り易く面白い日本史 その2 縄文時代の生活・食べ物・遺跡を解説



 2  縄文時代の生活・食べ物・遺跡を解説

 縄文時代(1万2千年前〜)


 動画 https://youtu.be/1vItdjDH2gk

 約1万2千年前に為ると、気温が暖かく為り氷河が溶け海水面が上がり日本は島国に為りました。その結果、マンモス等の大型動物が大陸から来無くなり、シカ・イノシシ・うさぎ等の小型の動物を狩って生活する様に為ります。又、木の実なども捕れる様に為り、食が豊かに為ります。
 旧石器時代は大型の動物を追い掛けて生活して居ましたが、食が豊かに為ったことで家を作って同じ所で暮らす様に為ります。竪穴式住居と云う簡単な家が一つの集落に4〜6軒、一つの家に4〜5人。縄文時代は食料を保存することが出来無かった為、貧富の差が少なく皆で食料を分け合って居たと考えられています。

 縄文時代の道具

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                <出典:wikipedia>

【縄文土器】 縄文時代最大の特徴は土器を使うこと。発見された土器には、縄目の模様が着いて居たことから縄文土器と呼ばれる様に為り、この時期を縄文時代と呼ぶ様に為りました。縄文土器は低温で焼かれた厚手の土器で、食料を保存したり煮たりするのに使いました。

【石器】 小型の素早い動物が増えたことから、弓矢が使われる様に為ります。又、動物の骨や角を加工して釣り針やモリなども作られる様に為りました。

 縄文時代の生活

 【竪穴式住居】 地面を深さ50〜60cm程掘って、周りを木や草で囲った建物。中央の炉を囲んで食事したり寝起きしたりして居ました。

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                <出典:wikipedia>

 【宗教】 女性を象(かたど)った土の人形「土偶」を作ったり、成人に為ると歯を抜いたり、死者を丁寧に折り曲げて葬ったりする習慣がありました。自然環境に大きく左右される生活だったので、自然現象に霊威を感じて恐れ、呪術によって災いを避けようとした為生まれた行為だと考えられます。

 縄文時代の食事

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 地方によって若干の違いはありますが、多くは栗やクルミ、ドングリなどを主食としていました。これら木の実をスリ潰して水で練ってクッキーの様に焼いて食べて居た様です。また、木の実の多くはアクが強かった為、熱湯でアクを取る等の調理もされていました。
 動物も狩って食べており、シカやイノシシ、ツキノワグマ、オカミ,タヌキ,ノウサギ,ムササビなど現代以上に様々なお肉を食べていました。他にも魚や貝、きのこ、果物など、現代食べているものの多くが当時から食べられて居た様です。

 縄文時代の遺跡

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           <出典:wikipedia> 青森 三内丸山遺跡(復元)

 縄文時代の遺跡は全国に200以上も見付かっています。(遺跡一覧へ)遺跡には当時のゴミ捨て場だった貝塚だけの小さなものから、集落を形成している大きなものまであります。特に、1992年から始まった三内丸山遺跡の発掘は従来の縄文時代のイメージを大きく変えました。
 縄文時代中期の三内丸山遺跡は、巨大な集落で大きな建造物も建っていました。
ヒスイを加工したり漆器を作ったりする技術もあり、お酒も作って飲んで居た形跡もあります。

 次は 3 弥生時代の暮らし・遺跡・食事を解説へつづく




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