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2024年07月22日

形容し難い行為、これを【私の抽象】って名付ける事にしようと思います。 だから、「私の抽象芸術入門」は、「【私の抽象】芸術入門」って事になります

偶然に、このブログに辿り着き、そして、この記事をご覧になっている事に、感謝致します。拙い文章ですが、真剣に書いていますので、どうかスルーせずに最後まで読んで頂けたら幸いです。

私は写真を撮ったり絵を描いています。しかし、それで生計を立てているわけではありません。かと言って、単なる趣味や道楽でしているわけでもありません。生きていく上で必要であるからしている、と言う言い方が今は一番しっくりきます。

私は先生でも評論家でもありません。語っている文言は経験や考えが基になっています。学歴や権威を気にしたり、それが無いヤツの言動など価値無しを思っているのであれば以下の記事は無価値に思うことでしょう。時間の無駄ですので早々に他に行かれる事をお勧めします。

「絵も人間と同じ 肩書きで判断してはいけない〜by赤瀬川原平」
肩書きで判断しない方であれば、是非、最後まで読んで頂けたら嬉しいです。ただ、無理にとは申しておりません。興味がある程度で構いません。

そう言っても、この場は、自分自身の思考の整理の為に書いている場であります。他の人が読んで何を感じるか全く考慮してません。ですので違和感があって当然だと思います。しかし、その違和感を含め思考を覗き見することに興味がある方であれば楽しめるのかなとも思います。

前置きが長くなりましたが、始めていきます。以前の記事もいろいろありますのでそちらもお時間ありましたら是非読んで頂けたら嬉しいです。

さて、私はこのブログで「私の抽象芸術入門」を行っています。以前も申し上げたようにこれは私自身の為の内容です。自分にとっての抽象とは何か、抽象ってそもそも何か、なぜそれが私にとって必要で私は何故それにこだわっているのか。体験や経験、一般的な意見から個人的見解も踏まえて全く自己流のある意味偏っているけど自分にっての本当のものに近づけるためにもがいている記録でもあります。ただただ忘れないように書き留めているだけのものです。しかし、私の作品を気に入ってくれた人が、作品を深く感じたり理解するのにこの文章は少し役に立つかも知れません。役に立って頂けたら嬉しいです。

『抽象』は、単なる言葉。
得体の知れないものが私の身体の中にうごめいています。何だか説明し難いです。それをとりあえず吐き出す行為、それによって視覚的に見えるようになったものをひっくるめて抽象って言ったりアートって言ったりしてます。抽象芸術は先人が定義したひとつの様式表現でしょう。だから、それとごちゃ混ぜにすると理解不能になるかも知れません。誤解を避けるため、よりよく私の作品や作品を制作するに至った想いや考えを知って欲しくて書いている。これも目的の一つです。

ひょっとして、同じように想い、活動している方がいるかも知れません。

観て感じる行為。
私の中の基本原則、なんて言うと大袈裟ですが、撮ったり描いたり観たり、この行為は、感じることが第一にあります。技巧的とか感動的とかではなく、言葉になる前のココロの動き、変化、揺らぎなどを大切にしていると言う意味です。何かを感じると立ち止まります。何だこのザワザワした感じは?何か気になる。立ち止まり全身で受け止める。
形容し難い行為、これを【私の抽象】って名付ける事にしようと思います。
だから、「私の抽象芸術入門」は、「【私の抽象】芸術入門」って事になります。
何か少しスッキリした感じがします。

写真を撮る、これも【私の抽象】的な行為なのかなぁ。
切り取る、という行為そのものは、既にアートの行為になります。そもそも現実の時間の流れで世界をある瞬間で切り取るのは撮る行為、つまり写真です。現実でありながら実際上決して体験のできない切り取り行為を結果として写真を媒体として体験するわけです。抽象芸術にしてもこの世に存在しない素材でなく身の回りの見慣れたモノ、見慣れた過ぎて気付かないモノに視点を向けることで生じると言ってもいいのかも、と私は考えています。

電柱に架かる電線は、もちろん目的があって架かっているわけです。一方の電柱からもう一方の電柱に。これは具体的な映像であり、抽象でも何でもないものです。でも、自分の視界のある部分で切り取ると本来の電柱電線という関係では無い得体の知れないオブジェに見えたりします。この現象は一体なんでしょう。私の頭が変になったのでしょうか。そもそも電柱を観てそれを純粋に電柱と見えない自分に自分自身違和感を感じたことはあります。何だこの感覚は。何が自分の中で起こっているのだろうか。そうなると、全ての対象についてオブジェ化する視点が芽生えます。あるものを見て、〇〇にみえるとか似ているとかそんな感覚の延長線上にこの変な感覚があるのでしょう。そう観たり感じる事で安心するのでしょうか。得体の知れない何かにこれは〇〇だと思い込むように、面白いカタチにみえる感覚を楽しんでいるのでしょう。癒しはこの安心感が必要なのだと思うのです。電柱の魔法のような不思議なチカラでしょう。
そもそも電柱は抽象か?それは撮る人、観る人の感性です。私は抽象的に観てしまう時があります。だから、そんな時は、違和感があり写真を撮るのだと思うのです。もちろん違う解釈もあり全く対立する意見もあるでしょう。否定しません。

最近は、専ら写真撮影に専念しています。そんなことで写真について知らず知らずに語っていますね。
IMG_4009.jpeg


本当に自分が「ハッと」したり、「これは、、」と感じて、思考的にまとまった判断も無く直感的にシャッターを押す場合、これがおそらく撮りたかった写真に最も近い写真ではないかと思っています。もちろん、じっと眺めているうちに妙に気になった場面もやはり撮りたい写真だと思っています。



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