2021年01月16日
高千穂ノ峯の傳説地 その5
霧島山説批評
此の外にも霧島山説を主張するもの、其の説明頗る委曲に渉るものあれども、要は~代の~蹟此の地方に多しとの思想に基づけるものにして、其の説の主とする所は、右の中日向風土記の文と、襲の地名と、槵日又は槵觸の名と、二上峰の形勢と、天ノ逆鉾の存在となりとす。
此の説頗る有力にして、新井白石以下、徳川時代の學者等多く之を信じ、前記の如く本居、平田の兩人すらも、之を捨てかねて、臼杵、霧島の兩説を保存せる程なりき。
斯くて明治の學界に至りては、霧島山説を採るもの殊に多く、故飯田武ク氏の日本書紀通釋を始めとして、今もなほ此の説を主張する者少なからず。
かくて坊間行はるる歴史地圖はもとより、現代地圖にまで、霧島山に標するに高千穂ノ峯の名を以てするものすらあるに至れり。
然れども是のみによりて、古傳説言ふ所の高千穂山の問題を決すべきか。
此の外にも霧島山説を主張するもの、其の説明頗る委曲に渉るものあれども、要は~代の~蹟此の地方に多しとの思想に基づけるものにして、其の説の主とする所は、右の中日向風土記の文と、襲の地名と、槵日又は槵觸の名と、二上峰の形勢と、天ノ逆鉾の存在となりとす。
此の説頗る有力にして、新井白石以下、徳川時代の學者等多く之を信じ、前記の如く本居、平田の兩人すらも、之を捨てかねて、臼杵、霧島の兩説を保存せる程なりき。
斯くて明治の學界に至りては、霧島山説を採るもの殊に多く、故飯田武ク氏の日本書紀通釋を始めとして、今もなほ此の説を主張する者少なからず。
かくて坊間行はるる歴史地圖はもとより、現代地圖にまで、霧島山に標するに高千穂ノ峯の名を以てするものすらあるに至れり。
然れども是のみによりて、古傳説言ふ所の高千穂山の問題を決すべきか。
タグ:二上峰
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