2015年12月24日
秀吉とねねの出世の陰にはある仏像との出会いがあったのです。それが三面大黒天なのです。
豊臣秀吉は尾張の国中村(現、名古屋市中村区)の百姓の子として生を受け、7歳になると父と死別し、母の再婚相手からの虐待、預かられた寺から追い出され、それから撒き刈りや木綿張りの行商、果ては最初に仕えた先での陰湿な苛めといった悲惨な少年時代を過ごし、そのどん底から天下人まで登り詰めるという日本のみならず世界史的にみても稀に見る大出世を遂げた歴史的英雄でした。
そんな秀吉の出世の陰にはある仏像との出会いがあったのです。それが三面大黒天なのです。
仏像ワールドでは秀吉の菩提寺に今も伝わる三面大黒天を日本人仏師の技と木彫彩色師 篁千礼の技の競演によって見事に再現しました。
仏像それぞれの特徴を表現した高い技術の彫刻と木地を生かしたセンスのある彩色が光ります。
黒塗りの小振りな木調像の持つ穏やかな表情からは、そこに強大なご利益が秘められているとは窺い知ることは出来ませんが、三面大黒天の持つ開運パワーはこの不安な時代を切り拓く大きな助けとなることでしょう。秀吉の出世栄達にあやかり、現代の一国一城の主として次代の天下取りを睨む企業経営者にこそお薦めの逸品です。
秀吉が辛く苦しい挫折の日々を送る中、偶然出会ったのが三面大黒天でした。秀吉はその像を見るなり、発せられる巨大な力をたちどころに感じたといいます。そして「私がもし出世して、名声を天下に轟かせることができるなら粉々になれ。そうでなければそのままの姿であってほしい」と念じ三面大黒天を投げたところ像は粉々になりました。大いに喜んだ秀吉は仏工に命じて2体目の像を彫刻させ、身近に置き崇拝したといいます。
この小さな像との出会いが秀吉の運命を変えました。そう、あの織田信長との出会いです。この出会いこそが秀吉が天下人になるための第一歩となったのです。秀吉は三面大黒天を自らの守護神とし、常に身近に置くようになったといいます。それからの秀吉は正しく三面大黒天のご加護と三種のご利益に恵まれていといえます。
三面大黒天とは大黒天、毘沙門天、弁財天という強力な天部が三位一体となった合体神です。
大黒天はインドではマハーカーラという戦闘神でしたが、財宝をもたらす力が強大なことから次第に各地の豪商達の信奉の対象となっていきました。そのことから金運の神となったのです。日本に伝来された際、「だいこく」と通じるところから五穀豊穣の神様である大国主命(おおくにぬしのみこと)と結びつき穏やかな容貌の福の神となりました。
弁財天弁は元々インドで信仰されていたサラスヴァティーという女神で、川を神格化した神であったとされます。水が流れるせせらぎの音から、音楽の神となり、そこから広く技芸・文芸などの才能をもたらす神となりました。現在では「才」が「財」に変わり福徳財宝を授ける神としても信仰されています。
毘沙門天は別名、多聞天と呼ばれ四天王の内の一尊として北方を守る守護神です。邪鬼を踏みつけた勇ましい姿からから勝運、必勝祈願や財産を守る財運の神様とされます。聖徳太子、坂上田村麻呂、楠木正成が篤く信仰しました。毘沙門天といえば上杉謙信が有名ですが、実は武田信玄もまた金色の毘沙門天像を兜の中に入れて出陣していたのです。こうした戦国の名将も毘沙門天への信仰によって多くの戦いで勝利を収めたのです。
これら単独でも強力な三神が一体になったとき、大金運と強力な勝負運とありがたい良縁を同時に叶える出世栄達の最強守護神となり、天下をも取らせる凄まじい力を発揮するのです。
有名な信長の草履の件もそうです。履くと温かくなっていた草履を不信に思った信長は「草履を尻に敷いたのか」と烈火の如く怒りましたが、秀吉は「御足が冷えていらっしゃるだろうと思い、懐に入れて温めておりました」と機転を利かすと信長は感心し、秀吉を草履取りの頭としました。手討ちにされる寸前から、一転して出世の足がかりにしてしまったのです。
また、元亀元年(1570年)の朝倉攻めの際、盟友浅井長政の裏切りから窮地に陥った信長を、敢然と殿を引き受けることで、見事な撤退戦によって信長を救うと共に、自らも九死に一生を得ました。この功績は一際高く評価され、大きな出世につながりました。
そして、天正10年の本能寺の変で主君信長が謀反で斃れ、その報を受けて激しく泣き叫んだものの、黒田官兵衛の助言によって動揺から立ち直り、遂には謀反人明智光秀を討つことで天下を大きく手許に引き寄せ、天正13年(1585年)に関白となり、北条氏を下し天下統一を果たします。
不遇の少年時代を過ごした秀吉が、三面大黒天と出会って僅か30年で天下人となったのは三面大黒天の授けた勝負運の強さの賜物だったのです。
秀吉が天下人になれたきっかけは信長との縁が結ばれたことにあります。しかし、秀吉が授かった良縁はそれだけに留まりません。秀吉が周囲から「猿」などと呼ばれ軽んじられる貧乏足軽だったころ、周囲の猛反対をよそに自分より身分が上の家系に生まれたねねを妻に迎え入れることに成功します。ねねは、主君の信長をして「どこを探してもあのハゲネズミ(秀吉)があなたほどの女性を得られるはずがない」と評したほどの女性でした。ねねはその内助の功で秀吉の出世を支えた日本一の良妻だったのです。
秀吉は三面大黒天のご加護によって何度も危機から救われ、世界史上類例を見ない程の大出世を遂げました。秀吉は200万石の所領を持ち、更に全国から上納される莫大な金銀財宝によって史上空前の大金持ちとなったのです。
秀吉が亡くなると、ねねは京都東山に高台寺を建立し秀吉が大切にした三面大黒天像とともに移り住みます。高台寺にはねねを慕い多くの大名が訪れ、その中には徳川家康の顔さへあったのです。ねねは三面大黒天を祀り、秀吉の菩提を弔いながら余生を過ごし寛永元年(1624年)その生涯を終えます。
秀吉の三面大黒天は現在もこの地で安置され、企業経営者を中心に篤い信仰を集めています。
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