2015年10月30日
くるくる寿司
昭和四五年春。昭和二六年生まれは、高校を卒業する。公立高校は当時、アルバイト禁止であった。大学受験後は許されていたと思う。三学期つまり、正月休みからはそれが解禁されていたようにおもう。土方のアルバイトもした。三日も持たなかった。一日八百円であったと思う。一日八時間あの肉体労働に耐えられないのである。五十、六十のおばあさんがやっていることを、十八の俺等が根を上げる。いずれにしても四日目からは行かない。そのアルバイトを紹介してくれたのは、県の土木お偉いさんの息子の紹介で、その息子と行った土方のアルバイト。結局使い物にならない。
その息子と起死回生、次のアルバイトは、その息子は高校時代に美術部ということで、看板を製作取付をする会社、作業所、まあ、そんなところ。
当時の看板は、今とほとんど変わらない「タキロン」という樹脂板を加工して立方体の中に蛍光灯を設置し、鉄枠を付けて建物に設置する作業だった。土方のアルバイトと異なり,何日か、三十日くらいは続けた。そのとき、「オルファ」のナイフを使って、そのタキロンの板を切り、そこに貼り付ける文字を切り取っていた。そして、セメダインで貼り付けて、あの看板ができるのである。そのオルファ,セメンダインが健在である。
イガグリ頭の高校生に、依頼の「ファンデンションショー」の看板の意味も分からず、作業していると、そこのオヤジ(まだ市会議員に立候補するくらい野心家で四十位)が、今度、鹿児島市の天文館で一号館となる廻寿司点の看板の製作と依頼があり、取付に行く。オヤジの指示に従いその看板ができあがると、トラックの荷台に載せ、国道十号線をいく。国分から鹿児島までは、錦江湾を左にみて約30キロ走る。
設置後、その寿司店で食すなどと言うことはない。当然工事中であり、高校生には金がない。それから、10年くらい経つと、国道十号線沿いにも廻る寿司屋が出店しはじめ、鹿児島に勤めることとなったときは,その帰りに食することがあった。