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安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
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2021年12月26日

家族


玉置浩二『カリント工場の煙突の上に』七曲目、「家族」です。

そんな人はまずいないとは思うのですが、安全地帯や玉置浩二の音楽をこれからはじめて聴こうとする人はこの曲を最初にチョイスすることはお勧めしません。あまりのカオスぶりに驚いて安全地帯・玉置浩二の音楽から離れてしまい、今後の人生において安全地帯・玉置浩二の音楽を楽しめなくなる可能性があるのです。逆にいうと、この曲が心のどこかにヒットして大ハマりなさる方は、末永く安全地帯・玉置浩二の音楽をお楽しみになれる可能性があるわけですが、そういう方には他の曲が物足りなくなるんじゃないかなー、と思わなくもありません。まあ、そんなわけでして、危険な曲であるということができるでしょう。

小さくガットギターがつま弾かれ、シンバルが鳴り響き、「いーちばん(いーちばん)たーいせつなー(たーいせつなー)かぞくー(かぞくー)」と歌詞カードにないボーカルがヤマビコします。そして「あー」という深いリバーブの効いた高音のコーラスが重ねられます。

このコーラスですが、玉置さんの御両親がクレジットされています。え?これはプロでない?お母さんこんな美声なんです?い、いや……にわかには信じがたいです。極端に加工して作った?この生音溢れるアルバムで?それも不自然です。おそらく多くは星さんが入れたシンセのサンプリングによるものなんだと思いますが、玉置さん一族ならやりかねないと一瞬思ってしまう荘厳なコーラスです。裏に入る民謡調のウナリ、玉置さんのボーカルに重ねられた様々なセリフ(ほとんど玉置さんによるものだと思います)、こういったもののいずれかがお父様お母様によるものなのでしょう。もちろん本当のところは謎なんですが、これらはどれも音楽をやってない人にいきなり歌えと言われて簡単にできるものでないことは書いておこうと思います。

この時点で、「大切な家族」というセリフの重みがズドンと迫ってきます。この「家族」「大切」はもうエトスの域に達しています。ラップだのヒップホップだのでやたら親に感謝してると連呼しているキミたち、こんな、一気に数十年の時とその間の空間・感情の変化を数分に凝縮したような世界が作れるか?昭和中期の市営住宅団地、文化住宅、商店街、公園、ボロボロの服を着て遊びまわる少年たち、そういったものがみるみる間に姿を消し、昭和末期のバブル狂乱、平成初期のこぎれいな沈黙に達するまでの間に少年は大人になり、大人は老人になった、その重みがあってはじめて成り立つ「大切」なんだ。この凄みを出せるか?出せないだろう、でもこの曲は出せてしまっているんだよ!……と、ラップやヒップホップの若者にはとんだとばっちりなんですが(笑)、この曲の「大切」「家族」はそんじょそこらの凡庸な「大切」「家族」ではないのです。「大切」すぎて旋律が描けない、「家族」すぎて歌詞がまとまらない、ピカソの『ゲルニカ』のように、凄惨すぎて無念すぎて形にならない色にならないというのに似た、そんな凄みをもった曲です。

「遊びすぎた」のは少年時代の玉置さんであり、そして大人になって東京で活躍した玉置さんでもあります。家からはなれて活動しすぎたのは一緒なんですね。そんなときに奥さんと暮らす場所はきっと「部屋」という感覚であって、「家」「家族」は実家とそこに暮らす皆さんなんでしょう。実家大好き人間はしばしば離婚の原因になるのですが、好きなものはしょうがない、休まる場所はここしかないんだからしょうがないじゃんって感覚なんでしょうね。それが「家」「家族」を作れる人とそうでない人の違いなんですが、玉置さんには、すくなくともこの時、その力はなかったのです。だからこそ生まれたのがこの強烈な望郷ソング、家族へのラブソングであるわけです。「家」とは「家屋」ではなく、その家屋に刻み付けられた「家族」の生活履歴と今後の見通しのことなのだと、このアルバム全編を通じて玉置さんはビンビンと伝えようとしている、その核となる曲がこの「家族」と前曲「キラキラ ニコニコ」なのでしょう。

「遊びすぎた」くせに「そろそろ信じていいよ」などとどの口が言うのか!(笑)でも、それが偽らざる気持ちであり、甘えなのです。少年時代からずっとずっと、その年齢なりの誠実さをもって「僕のこと信じて」というメッセージを繰り返していたのでしょう。親からすればとてもとても全面的に信じるなんてリスキーなことはできませんけども、きっと無自覚に少しずつ、段階的に信じるようになっていくのだと思います。『幸せになるために生まれてきたんだから』には、玉置さんのお父様が語る玉置さんの人物像がいくつか収められています。ほしいおもちゃを自分でできるところまで途中まで作り、これ以上できなくなってからお金の援助を願い出る玉置さん、十円玉を飲み込み病院に運ばれながらお父さんの背中で一生懸命謝る玉置さん、こんないい子を死なせてなるかと頑張るお父さん、当時は必死なんですけど、後からきくとなんと美しい話かとため息が出ますね。こうしたエピソードが数百数千と織り込まれてできてゆく家族生活の履歴、誠実さと甘えと成長と、歓喜や悲しみ、失望、風呂や時計、柱や屋根、笑い声やためいきを受け止めてきた壁のようなものまでが混然一体となって作られてゆくのが、この曲で歌われる、いや歌にならないもの・ことであるところの「家」なのだと、わかっていたはずなのにさらに思い知らされるかのようなとんでもない曲です。その重厚さ・秩序と無秩序が入り混じる混沌を表現するのに、渾身の音や声を用いたのでしょう。ちょうどピカソが形、色を用いてそうしたように。音でいうとドラム、ベース、ガットギター数本、コーラスだけなんですが……このアルバムは最初にギターを弾いて歌い、あとからドラムを入れたと『幸せになるために生まれてきたんだから』に記されていますが、つまり、メトロノーム的にはグラグラなんだと思います。玉置さんの肉体、精神のリズム・スピードがダイレクトに録音されているわけで、これはおよそ他人がシンクロできるものではありません。これがこの曲のもつカオス感、家や家族の融通無碍さをいやがうえにも感じさせます。

「オフロに入ろう」「ゴハンにしよう」「丸く座って」と、なんでもない日常が、おどろおどろしく歌われます。僕は「はじで笑ってる」そうですが、笑ってなどいません。泣いています。号泣です。いや、当時は笑っていたのでしょう、でも号泣せざるを得ません。当時笑っていて、反抗期にちょっとふてくされて、青年期におすましさんになり、大人になってまた笑えるようになって、昔のことを思いだして泣く、こういったものを一気に表現しているわけです。何と凄まじい!「食べよう」と歌詞カードにないつぶやきがまた凄みを感じさせます。続けてさらに「一生〜一生〜」「いついつまでーもー」とバックの叫び、岩に打ちつける波のような音を伴いながら「神の居る場所で」「花は換えた」「好物は必ずあげる」などと脈絡のないことを次々と絞り出すように歌います。「神の居る場所」はもちろん神居のことなんでしょうけども、家族が暮らす場所のことでもあるのでしょう。神棚や社殿に供えるものを家族や地域住民の役割として果たした、それと同じように家の花瓶を手入れすることや菓子入れに菓子や果物を補充しておくことを果たす、つまり家の一員であることを引き受け、自覚するという意味でもあるわけです。そうでないと脈絡がなさ過ぎていよいよ意味が分かりません。

余談ですが、「カムイ」とはアイヌ語で神のことです。北海道には難読地名が多いのですが、それはアイヌ語をムリヤリ漢字にしたからです。当時北海道は伊達藩の信託統治領みたいになっていましたから、伊達藩のお侍さんが一生懸命にリスニングして、どうにか知っている漢字に当てはめていったのでしょう。トマコマイとかクッチャンとか、もうメチャクチャといっていい当て字です。とはいえ、日本の多くの地名ももともとは土着のことばや侵入者侵略者のことばをムリヤリ万葉仮名にしたモノがかなり残っていますから、どっこいどっこいです。そんな中で、「神」を意味するカムイに「神居」という漢字を当てたお侍さん、超ファインプレーといえるでしょう。なんといっても意味が通ります。「道路」と「ロード」なみのミラクルといえるかもしれません。

さて、「一番大切な家族だから」と「時々頼むよ僕を助けて」という、相反する感情を一緒に歌うくだり、この曲の一番の聴かせどころに突入します。最初はかわるがわる歌っていくのですが、最後の「だから」と「助けて」は重なっており、歌詞カードがなければ「助けて」は聴き取りも困難になっています。

健気に家族の一員としての役割を果たしているのは家族が大切だから、そんな大切な家族だから、僕を助けてほしいと、相反してはいるんですが筋は通っています。助けるから助けて的な、自己都合による一方的なギブアンドテイクですら仕方ないなー浩二はーもうーと受け容れてくれるのが家族だからこそ筋が通るのです。もちろんこのときは精神病院から抜け出して静養していた時期の直後でしょうから、かなりリアルな「助けて」なんですけども、この事情と切実さを知らなかった当時のわたくし、わけがわからなかったというのが本当のところです。玉置さんって家族に助けてとかいうひとなんだ、と驚くくらいわかってませんでした。この曲も単なるカオス、またBananaとやってた頃の悪い癖が始まったかと思うくらい無理解でした。

そして鳴り響くシンバル、そして篠笛……篠笛?いや能笛かもわかりませんが……ここで和笛の何かが吹かれていますよね。尺八かとも思ったのですが、尺八を「自分のレコードでも使ってみようかな」(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)とおっしゃってますので、この時点ではまだ使っていなかったか、忘れているのでしょう。この和笛がまた土着の神って感じで効いてますよね。幼少期の記憶を呼び覚ますにはこんなに格好の音もありません。そして江戸時代以前からの伝統がほとんどない北海道人にとっては神社で行われる神事を思わせますから、「神の居る場所」に似つかわしい音色でもあるのです。

このあと、無音にも似た静寂の時間があります。ベースの残響、玉置さんの「んー」、ポロポロと断続的に鳴るガットギターと音は鳴っているのですが、そのどれもが混沌としており、音楽として像を結んでいないため、無音に近い静寂感を覚えます。その静寂の中、「神の居る場所で」「花は換えた」とリプライズがはじまり、どこからが始まったのかわからないタイミングで歌詞カード上のコーダが始まります。

「感謝を忘れず」「死んでもはなれず」「僕がいまでも泳げないわけは」「じいちゃんばあちゃん」「信じる愛は」「街を抜けだした」「空よ僕を忘れないで思いだしてくれ」「カリント工場の煙突の上に(上に……上に……)」……と、さまざまな歌が滝のように降り注ぎ、歌詞最後の『ここ』がどこにあるのかわからない、隠された演出でこの曲は終わります。ベースもギターも、思いつくままに音色を試してみましたといった出音で、曲を奏でる意図はあまり感じられません。当時、聴いているわたくしの不安も不満もピークになったこと請け合いです(笑)。ほとんど詞も詞の体を成していませんし、演奏も演奏になっていません。これこそ、わたくしが弊ブログ開設当初に「「なんだろうコレ……何のつもりでこんな曲を入れたんだろう……」と思うことがないではなかった」と書いたよくわからない曲の、ほとんど最初の例でした。正直このアルバムは当時数曲しか理解できず、ただ漫然と流して聴く以外には耳にしないようにスキップしていた曲がいくつもあったのですが、このへんは思い切りスキップでした。だって気分良くないもん!(笑)。気分良くなるために音楽を「利用」するだけなら、この辺は一生スキップだったことでしょう。ですが、理解できるときが来るんですね……正直今でも気分はよくありませんが、わかるのです。そして、泣けてくるのです。かなりエネルギーが必要なのですが、玉置さんの心境を受信できるようになってからはこの曲をスキップなどしなくなり、しばしのドロドロした望郷と家族への思いに身を浸すようになったのでした。今回はこの記事を書くために何度もリピートして聴きましたからかなり消耗しました(笑)。消耗しすぎて更新間隔があいてしまったほどです。

当時の玉置さんの年齢をとうに超えたわたくし、すでに自分が「父さん」です。ですから、子どもがこうなったら助けるに決まってるじゃんという心構えになっています。ですが、そんなわたくしにもやっぱり「父さん」「母さん」は札幌の「家」にいてくれて、そこに「家族」が暮らしてきた履歴をまだ織りつづけてくれているという事実に、どこか甘えている息子の側面を、まだわずかながらに自覚してもいるのです。こんな歳になってもまだまだ効く!いや、若いと効かないというべきでしょうか、ともあれ、若いときにこの曲を聴いて若かったわたくしと同じようにスキップしている方、十年後にもう一度聴いてみてください、それでもスキップなら二十年後にまた!とおススメしたくなる超絶名曲だといえるでしょう。

余談ですが、玉置さんのお祖母さまは民謡の先生で、そのけいこ場によく出入りしていた玉置さん、三味線、尺八、和太鼓の音には親近感があるそうですから、やっぱり忘れているだけでさきほどの和笛は尺八だったんじゃないかなとふと思わせられるのです。「じいちゃんばあちゃん」と歌詞カードにないことばを歌った玉置さんですから、ばあちゃんを思い起こす音色をここに入れたとしても不思議ではないでしょう。

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2021年12月11日

キラキラ ニコニコ


玉置浩二『カリント工場の煙突の上に』六曲目、「キラキラ ニコニコ」です。

キラキラは青春で、ニコニコは純情。歌詞カードに掲載された詩のタイトルが「青春」「純情」で、それにふられていたルビがそれぞれキラキラ、ニコニコなのです。

詩は短く、切なく、美しいです。夜明けの海に僕の涙が輝き、暮れゆく空に君の涙が落ちていきます。ぼくは君を思って泣くのに、君の涙は僕に対するものではないのです。それでも、キラキラニコニコ笑うのです。

低めのシンバルの音が重なり響き、重層なストリングスが入ります。きたきたきた!これぞ玉置浩二!と当時のわたくし大喜びしました。このまま片思いとか失恋とかの悲しみに胸を焦がされ涙を絞り出されるような超絶悲恋ソングになってゆくに違いない!という予感はあっさり裏切られます。玉置さんの節回しとなにやらポコポコとしたコンガらしき打楽器に、ガットギターの音がシャリンシャリン、ジャインジャイン、ポロンポロンと重ねられ、ベースがウウン!と唸って「ハイ元気ですか」と何やら呑気なセリフが聴こえてきて、期待を裏切られた感いっぱいのわたくし、オーディオの前でひっくり返ります。このアルバムでそんなのを期待するほうが間違っていた!

気を取り直して歌詞カード片手に、曲に聞き入ります。深刻なストリングスに比較して緊張感のない呑気な歌だとばかり思っていたのですが、聴いているうちに何やら異変に気がつきます。「山は高いんですか」って高いに決まってるでしょう、「防人の詩」みたいに死にますかとかちょっと変わったこと訊きなさいよ。「大切なことをすぐ忘れる」って健忘症かい、それだから僕が君の星になるって意味がよくわからないよ、それに星になるって言っているのにこの不吉なコード進行はなんだ、ぜんぜん輝いている気がしないよ、「もし疲れたら 僕がおぶってあげるよ」ってやさしいことばをどうしてこんなに辛そうに叫ぶんだ、背景に「キラ…キラ…ニコ…ニコ…」ってゼイゼイハアハアいいながらやっとの思いで顔だけニコニコしているのがまるわかりだよ!どうなっているんだこの曲は……

そんなわけで、ひとことで言えば不気味な曲です。これだけ不気味な曲もそうそうないでしょう。その不気味さは、玉置さん自身が人に対してどんなときでも全力で楽しませようとする、やさしくするという性格の持ち主であるのに、心身が言うことをきかない、思ったように感じられない、思えない、動けない状況であることによって醸し出されているように思えます。そしてこのとびきりの音楽的才能の持ち主であるがゆえに、そんな感情と意志と身体性とをそのまま表現できてしまったという、まさに玉置さんでなければ、そしてこの状況で、このタイミングでなければ生まれ得ない、ハッキリいって怪作であり、大傑作であると思います。不気味だなんだとわたくし言っておりますが、このアルバムで最高の曲を挙げろといわれたら、この曲もしくは次の「家族」を挙げます。おそらく賛同者は少ないでしょうけれども……これほどの奇跡的な音楽表現はおそらくは玉置さん自身にさえ二度と為しえないのではないかと思われるのです。

なお、このコントロール不能期のことは、玉置さん自身が「〈田園〉の詞は、まさに俺が一番グチャグチャになっていたときのことをまとめた詞」とおっしゃっていたように(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)、数年後に「田園」というヒット曲に「まとめた」形で世に出されます。ですから、「生きていくんだ それでいいんだ」って思えるようになった前の段階がまとまらない形でこの「キラキラ ニコニコ」において表現されているのだと、わたくしは考えています。つまり、「田園」序曲なのだという位置づけです。

O Freunde, nicht diese Töne! 
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
ああ友よ、この音楽ではないんだ!
これではなくて、気持ちよく歌おう、よろこびに満ちた歌を(「歓喜の歌/合唱」より)

わたくしは「この音楽」が気になるわけですが(笑)、「よろこびに満ちた歌」が「田園」であるのに対して、「この音楽」が「キラキラ ニコニコ」にあたると思っております。「diese Töne」は正確には「この音楽」というより「これらの音たち」という複数形であるわけなのですが、「音楽」として「まとめた」ものが「田園」であって、「音楽」としてまとめられる前の段階、まだ「音たち」と呼ぶべき段階の状態が「キラキラ ニコニコ」であるように思えてならないのです。ですから数年後、「田園」を聴いたとき、「田園」って第六交響曲じゃん、うまくできてんなーと思いました。もちろん偶然でしょうけども、ここに符号を感じずにはいられませんでした。

あのグチャグチャだった日々は、「キラキラ」だった「青春」の日々であり、「純情」の涙を流し合い、その涙もすれ違ってゆくような日々だったのです。山の高い、遠いふるさとを思い「元気ですか」「まだ休めませんか」と気遣う自分がもっとも広い海、広い世界で荒波にもまれ傷つき……それでも「君」の輝く星であろうとした、ゼイゼイハアハアいいながらキラキラニコニコと笑顔で「君」を助けて共に歩んでいこうとしていたのです。なんというまとまらなさ!まとめる暇も余力もない、壮絶で過酷な青春を送ってきた玉置さんにしか出せない凄みがビンビンと伝わってきます。

エレキギターでピヨピヨと、丸っこいきれいな音が響くなか、一番の聴かせどころである「おはよう」の一節が流れます。玉置さん自身が叩いたドラムが「ドッシン!ズシン!」と重く響きます。この曲でムリヤリに「AメロBメロサビ」という区分を当てはめようとしたらここがサビなのでしょう。ただ一度の、繰り返されることのないサビです。展開まで直感的でグチャグチャですから、あれ、あのメロディーどの曲だっけ?と曲目リストをみても思いだせません。「キラキラ ニコニコ」という曲名から思いだせるのは「キラキラ ニコニコだね」という最後の一節であって、そこだけ取り出すとこの「おはよう」とはまるで別の曲なのです。

そんなわけで、一回聴いて覚えられるようなキャッチーさは皆無に近く、それでいて魂にこびりついて離れないような強力なアピール力をもつサビがあり、まとめようという気の感じられない、もっというと売る気の感じられない芸術品のような風格さえ漂わせる傑作であると、わたくしは信じております。「最近玉置さんの歌を聴き始めたんですけど、どのアルバムがいいでしょうか」って人には特におススメしませんねえ(笑)。これをリアルタイムで通過した人、ここでリスナーを辞めなかった人、数年後の「田園」での快進撃を知っている人と、しみじみと語り合いたい、そんな曲なのです。なあ、「あったかでまんまるに生まれた」君って誰だと思う?なんてギター片手に酒でも飲みながら。

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2021年12月05日

大きな"いちょう"の木の下に


玉置浩二『カリント工場の煙突の上に』五曲目、「大きな"いちょう"の木の下に」です。

なんじゃこのほっこりソングは?と誰もが思います。何しろありさんが迷子になって歩くだけの歌詞なのです。

遠くから口笛、高音のシンセ、アコギが聴こえてきます。この高音のシンセ、曲のところどころで薬師丸さんの声に聴こえるんですよ、わたしには。わたくし一時的に耳おかしいのかと思ってたんですが、30年近くたってもやっぱり聴こえます。これはもう、周波数なりなんなりがかなり似通っているか、もしくは本当に薬師丸さんの声を混ぜているか、あるいは本当にわたくしの耳がずっとおかしいかだと思います。

歌詞カードには、薄字で歌われなかった物語が書かれています。「誰かさん」がすべり台を滑るという話と、もうワンコーラス、赤い目の「やぎさん」がのびのび暮らしている話です。これは謎です。歌詞は須藤さんとの共作でなくすべて玉置さんですから、玉置さんの精神世界なのだと思いますが……

むりに解釈を試みますと「働き続けの誰かさん」は玉置さんをはじめとするワーカホリックの都会人でしょう。仕事仕事で、年から年中オトナとしての働きをしています。そこにはさまざまな葛藤なり冷徹な判断なりが求められるのですが、オトナですからそれはサラッとこなしてしれっとやり過ごすしかありません。でも、心の中の「泣き虫ぼうや」は情感たっぷりのままですから、そんな判断を迫られたら泣いてしまいます。そんなつらい働きをしなくてもよかった少年時代の、楽しい遊びの世界から鬼さんこちらと手を鳴らし誘う音が聴こえます。「こちら」から「あちら」へと、えいっと渡ればいいのです。少年時代への憧憬があふれて「あちら」側へとつづく虹色のすべり台をすべれば「あちら」側です。

そこには「やぎさん」がいて、日がな一日草を食んで暮らしています。ここでは夜が明けていても、遠くの国では日が暮れたころだなあと思うことのできるくらい余裕のある生活をしています。わたしたちの日常においても、いま北米大陸南米大陸では日本と昼夜が逆転しているわけなんですが、そんなこと意識して暮らしていません。株とか先物とかやっているのでなければ。だからこそ私たちは谷川俊太郎の「カムチャッカの若者〜」(「朝のリレー」より)にハッとさせられるのでしょう。そしてまた、日の出や日没を意識できるような広々とした大地にあるような解放感・開放感を思わせます。

さてやっと歌です。働き者で正直者の「ありさん」です。

曲は、低音のギター、高音のギターが重ねられ、そこに玉置さんの低音と高音がさらに重ねられ、曲の基本が編まれています。これに高音のシンセが絡んで色を付けています。

ギターの音ですが、どうやって録ったのこんな生々しい音ってくらい、目の前で鳴っているかのような……いや、それは言い過ぎか(笑)、ともあれリアルないい音です。

「気が付いたらチューニングしてないギターで音を録っちゃってた」「全部生ギター弾いて歌うところから録って」(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)と玉置さんはおっしゃっています。う、うーん!業務用のコンデンサマイク立てただけで録っちゃったんじゃないでしょうか、もしかしたら……ふつうの、ホールにダイナミック近づけてとる方法じゃこんな音にならない気がしますよ。ピエゾピックアップなんてなおさらムリです。「ペペペペペペ」と高速で弾くところの空気感というか……反響のいいホールで、目の前で弾いてもらっているときに聴こえる音に近いように思います。

あんまり忙しすぎたんで、帰り道に迷った……これは玉置さん自身のさまよいを寓話化したもののように聴こえますね。絶頂にあった安全地帯の音楽と、それとは対照的に盛り下がってゆくバブル崩壊後の日本、その狭間の歪みを直撃でくらってしまい、傷つき、すりつぶされて、それでもいつか潮目は変わると信じ歩き続け、とうとう倒れたのです。何時間も雨に打たれた、季節が変わって冬の風の中も雪の中も歩き続けたのです。だれだよ、「違う道」を教えたやつは!と傍から腹が立つくらいの気の毒な行程でした。

「雨に打たれたって………」の「………」に、裏で玉置さんが「〜ても〜」と歌っていますよね。ちゃんとは聴きとれないんですが、「雨が降っても」とか「雪が降っても」とか「足が傷ついても」とかそういう内容であることは想像がつきます。おそらくですが、別な歌詞の歌が入っていたんだと思います。それをここの部分だけあえて消さなかったか、どうしても残ってしまったかして入ったのでしょう。偶然か必然かわかりませんが、これが不屈の精神で辛い道を歩んだことをより一層強く表現しているように聴こえます。さしあたりここでは、もしかして冒頭の歌われていない歌詞、これの続きがあったんじゃないかな、だって高音の玉置さんと低音の玉置さん、ちょっとタイミングズレてるじゃん、これはあえて直さなかったとして、それで「前を向いて〜」に続いていた……と妄想をたくましくしておきます。

「風の中も 冷たい雪の中も」と歌う玉置さん、「つめーたーい……ゆきーのなー……か…も……」と、「氷点」のときよりさらに冷たそうに歌っています。ど、どんだけ寒かったんだ!とちょっとゾッとするくらいの表現力です。ここに高音のシンセ(薬師丸ボイス的)を入れて曲をこれでもかと冷たくします。

そろそろ間奏かなと思いきや、曲は一気に終わりに向かいます。「ここまで「ほら がんばれ」」このセリフを言ったのは……「なかよしこよしの風」なのでしょう。さっきはその冷たさで玉置さんを芯まで冷やした風ですが、少なくとも「違う道」を教えたのではありません。「なかよしこよし」ですから(笑)。「大きないちょうの木の下」へと玉置さんを導きます。「きっときっといけるよ」と励まします。

そして「ポロロポロロポロロ」と高速のギターアルペジオに乗せて、ガットギターのソロでこの曲は終わっていきます。

いちょうの木というのは、わたくしの少年時代ですと神社とか学校の前に植えられていた印象があります。秋になるとくっさいアレです(笑)。大人になると、近所にそんなものがあるところは限られてきますから、通過しないか、通過してもほんの一瞬ですから、そんなにその存在を意識しないのですが、子どもの頃はそうはいきません。何しろ学校の前ですから、いきおいその存在を意識しないではいられません。あんた学校より昔からここに生えてたでしょってくらいの巨木が、毎日毎日目に入ります。秋には鼻にも入ります(笑)。だからなのでしょうか、いちょうの木はわたくしにとって少年時代、とりわけ小学校を思い出させるのです。

歌詞カードには、この詞のとなりは玉置さんがもらった賞状や通知表の類が埋め尽くされた写真です。神居小学校、神居中学校、教育文化協会、その手の非常に地元チックなものです。こんな歌詞カードでは小学校を思いださざるを得ません。このアルバムをデータで買ってしまうとこういう演出は見ないで終わってしまいますからぜひCDをお買いになるとよろしいかと思いますが、そもそもCDを再生する機械がない方もおいででしょうし、だいいちこの歌詞カードは私が持ってる初回限定盤に限られているのかもわかりませんので、あんまり無責任なススメはできませんね。

小学校、中学校……ああ、寝込みたくなってきました(笑)。玉置さんはお勉強はイヤだったみたいですが、それ以外のことでとても充実した学校生活を送ったようです。途中から武沢さんも転校してきますし。いいなあ!小学校とか中学校の、あの独特の世界を玉置さんもやはり通過したのですが、オトナになって傷つき倒れた玉置さんがその「独特の世界」を正面からみつめ、なつかしい「いちょうの木の下」と位置付ける、そんな原点を求める旅のような心のさまよいを歌になさったのだと、わたくしは思うのです。

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