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2017年09月20日

春から夏にかけて〜親の入退院、老人ホームの体験〜

春から夏にかけて、実の両親、義父の健康上で色々なことが起きた。義父の心筋梗塞、実父のボーエン病の手術、2人共入退院した。義父の心筋梗塞は幸いにして行きつけのクリニック内で発作を起こした為、即救急病院に搬送され手術に至った。その為後遺症も残らずに2週間少しで自分の足で歩いて退院できた。実父のボーエン病(皮膚の悪性腫瘍)は手と足の皮膚の腫瘍を切除する簡単な手術で、こちらも2週間で退院できた。両方の父の病は退院後も順調に回復し、無事乗り越えることができた。

しかし実父の入院に伴う実母のケアが大事であった。実母は心臓弁膜症を2度経験しているが、今年は幸いにして入院を経験せずにいるが、長年の心臓病の投薬の影響からか骨粗しょう症を患っている。そのせいか今年に入り腰痛で家事も辛くなり、通院以外は家の外には散歩にすら出て行けない状態だ。散歩だけではない。家の段差すら一人で昇り降りできない。一人で玄関に降りていくこともできない。要するに戸締りや来客の対応さえできないのだ。風呂も一人では入れず、実父がいつも介添えして入っている。

その為実父が入院中、父に代わり母の付き添いが必要となり、私は実家に約2週間寝泊まりした。だが最初の3日間は実家に泊まれない事情があり、やむを得ずケアマネさんに相談し母は近所の老人ホームに預かってもらった。母も快く承諾した。今後も同様のケースがいつ発生するかもしれない。これを機に老人ホーム、所謂老人介護施設とは一体どんな所か知っておくのも経験かとも思った。施設にとっては母は2泊3日のお客さんのような扱いであるが、しっかり面倒を見てもらえた。

他の老人ホームの中は見たことがないが、母がお世話になった老人ホームは大きくはないが外観も綺麗で施設の設備も整っており、綺麗で清潔であった。小高い丘の上にあり、周辺には緑が多く静かな良い環境だ。特に玄関ホールは木調で美しく広々としていた。
施設内の住人がいるのはその奥の建物であった。そちらは学校のような味気なさを少し感じた。一人部屋もあるが、主に2〜3人で一部屋になっていた。どの部屋も入口の扉は開けてあり、部屋内が見渡せるようになっていた。(その棟は何等かの介添えが必要な住人の棟であったようだ)
母は一人部屋を希望し、4畳半ほどの部屋に入った。トイレは廊下を歩いていかないといけない為、毎回母は手押し車を持ちながら歩き、その傍らでヘルパーさんが付き添ってくださった。食事はトレーに乗せてヘルパーさんが3食持ってきてくださった。部屋にはテレビは無く、部屋の前にある集会室でみんなで見る形だ。ヘルパーさんは母にみんなが集まる集会室での食事を薦めたが、母は全食事を自分の部屋で食べた。

母は家から持参したラジオをイヤホンで聴いてベッドで一日過ごしていたらしい。食事は細かく刻んだようなおかずとお粥などで、口に合わなかったようだ。私は2日間、母に雑誌やお菓子などの差し入れを持って部屋まで面会に行った。なんとも言えない独特の雰囲気であった。病院とはまた違う。住人は年配の方ばかり、対してヘルパーさんは若い20〜30代ばかりだ。大勢で過ごすのを好む人にはいい環境だとは思うが。中には寝たきりで24時間介添えが必要な人もいる。中には大きな声を上げる人もいる。耳の遠い人なのか、そんな気質の人なのか。そういえば病院にも必ずそんな患者がいたのを思い出した。色んな人が住んでいる。みんなそれぞれの事情があり、その施設内で暮らしておられる。

母と2泊3日のショートステイを終え、実家に戻ってきてから母との暮らしが始まった。数日遅れで旦那も実家で暮らしてくれた。私が実家と自宅を行き来する手間を省くためだ。本当に助かった。優しい人だ。母は自宅に戻り私達に囲まれた生活をとても喜んでくれた。
後で聞いた話だが、母は施設での生活がとても嫌だったようだ。拘束されている訳ではないが、部屋の扉も開いてるので四六時中人の目が気になる。父と2人の静かで自由な自宅での暮らしに比べたら当然だろう。私自身も老後にどこかの施設にお世話になるかもしれない。私も母と同様に大勢での暮らしというのは苦手なタイプだ。むしろ一人は全く苦にならず好むタイプだ。孤独を愛する人にとっては慣れるまで時間がかかることだろう。3日間母には可哀想なことをしたと思うが、母、私自身にとっても貴重な体験だった。

そんなこんなで両方の父の病気やそれに伴う母の世話と、親のケアで日々過ごした。これからもこんな出来事は多々あるのだろう。現在はこうしてブログを書くぐらい精神的、時間的にもゆとりがある。親も自分も今の状態が長く続くことを祈る。今年もあと3ヶ月と少しになった。歳を取ると、毎年恒例の年末年始の行事ができることが嬉しい。今年もできた・・と感慨深いものさえ感じる。少し早いが、今年の年末年始も、母と一緒にお節の準備ができますように。良い新年を迎えることができますように。


posted by 小町 at 13:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 親の老い

2016年08月31日

新たな病気

お盆に旦那と2人で義父に会いに行った。私は義父の家に到着すると、すぐに巨峰とおはぎのお供え物を義母の位牌に置いた。義父は既に自分で買ってきたおはぎを備えていた。家族はみんな同じような物を供えるものだな、と笑い合った。 昨年から義父は耳が遠くなり、電話での意思の疎通はかなり難しくなっている。なので最近は義父の家に行く少し前に手紙を書き、訪問する日など重要な事を書いて知らせる。訪問日の前日に電話で明日行くと念を押し、当日訪問することにしている。義父は頭はしっかりしているが、このところ一日中寝ていることも多く、訪問日を忘れていてはいけないからだ。 義父のお腹は昨年まではぽっこり出ていたが、すっきりとした体形になっていた。たまたま体調が良く、見た目には元気そうだったが、今年になり新しい病気が加わった。パーキンソン病だ。パーキンソン病は日本ではおよそ1000人に1人の発症率で、65歳以上でおよそ100人に1人になるという。50〜60代から発症することが多いらしい。脳内のドーパミンという神経伝達物質が減少が原因らしい。若年性なら別だが老いてから発症した場合、病気の進行はゆっくりなようだ。なので今すぐに動けなくなるというものではない。だが、今年に入り義父がよく躓いて転んだり、動きが前よりもギクシャクしているのはこの病気のせいだと感じる。義父の話によると、今年に入りトイレが間に合わない場合があるという。大、小便にかかわらず、もよおした時にトイレにすぐ行っても間に合わない時があるらしい。とうとう大人用の紙おむつを付けるようになったという。病気はゆっくりではあるが、少しずつ進行していくであろう。一人暮らしの義父は心細いに違いない。一週間に一度ほど私が訪問し、身の回りの世話をしようかと提案してみた。義父は感謝しつつも私の提案に「ギリギリまで一人で頑張って生活したい」と言った。義父はそういう人なのだ。いつも息子夫婦に迷惑をかけず生活したいと思っている。帰宅後に旦那と相談したが、今後も義父の意見を尊重しつつも今後は注意深く見守っていくことにした。 老いてからの病気は、大病でもゆっくり進行する場合が多い。老いると病気でさえ、うまくつきあっていけるようになるのだろうか。
posted by 小町 at 21:04 | 親の老い

2016年03月14日

母からもらった金のネックレス

先日実家に帰った時に母から金のネックレスをもらった。母がずっと前に父に大丸で買ってもらったものだ。母が嬉しそうに出かける時に付けていたのを覚えている。その金のネックレスは程よく重みがあり品の良いシンプルなデザインのものだ。母は心臓の手術後、ネックレスなどは身につけなくなった。入院、リハビリ中もだが、装飾品は治療の妨げになる。家で過ごすのにも重いネックレスは肩こりの原因にもなる。母は宝の持ち腐れの状態だと言う。また、母は「いざという時に金のネックレスなら売れるし」と笑って言った。父にも相談し、2人で私にそのネックレスをあげようとなったらしい。

私は礼を言ってもらった。なんだか形見を貰うような気持ちになり、嬉しいより寂しい気持ちがした。私は装飾品を付けるほうではないが、母の大切なネックレスだから有難くいただいた。私自身の金製品は、2年前に身に付けなくなった亀甲のブレスレットを売ったことがある。20年前に購入したものだが購入時よりも高く売れた。若い頃、常に身に付け楽しんだ後不要になり購入時より高く売れるのだから申し分ない。それからは家の使わなくなった金のアクセサリーを売りに出し、いいお小遣いになったと両親に話をしたことがあった。

しかし父から母へプレゼントした品を、そんな簡単に売れないし売れるはずがない。このネックレスを売る時は、明日の食事にも困る時だろう。母から”安心保険”を貰ったようなものだ。それでも母の気持ちは嬉しい。私に色んな気持ちを込めてプレゼントしてくれたのだと思う。母から譲り受けたものはその他に真珠の指輪がある。今では冠婚葬祭に活躍する必須アイテムになっている。真珠は流行が無く、丁寧に扱えば一生ものになる。それに対し金は流行がある。今は金よりプラチナのほうが流行っているし、私自身の好みも付けるとすればプラチナだ。だがこの譲り受けた金のネックレスにも、母の生きているうちから身に付けて活躍させてやりたいと思う。
タグ:金製品
posted by 小町 at 09:28 | Comment(2) | TrackBack(0) | 親の老い

2016年01月20日

大人の母とオオカミ少年のような父

一週間ぶりに母の見舞いに行った。行きたかったが、父に時間を取られて行けなかった。久しぶりに母の元気な様子を見て安心した。母は毎日病院で歩行器を使って歩くように努めていた。洗濯も自分でしている。昨日はシャワーに入ったらしく、顔色も良く嬉しそうだった。ベッドから立ち上がる時も入院時と比べ、ずっと力強く立ち上がれるようになっていた。前向きに根気強く頑張る母を見て、私のほうが勇気づけられた気がする。母は休憩室から父に電話をし、父の話を優しく聞いてやっていた。どちらが病人かわからない。母は大人だ。

一方、父はまた新たな病気を疑い出した。就寝中に数分間首が少しつったようになり、胸が押さえつけられるような気がしたのだとか。父は翌日近所の行きつけの医者へ行き、心電図を取ってもらったが異常は無かったようだ。
心電図を記録する機械を一日装着し、今日その機械を返却しに病院へ行ったが診察してもらえなかったと怒っていた。
もし父のデータに異常であれば、病院側からすぐに連絡があるはずだ。連絡も診察も無いということは、急ぐ必要がないということだ。

父は先日の腸閉塞に続いて今度は狭心症を疑っている。以前にも同じような事があり、母や私はストレスから来るものだと疑っているが。皮膚に何かができれば皮膚がんを疑い、胸が少し苦しくなると狭心症を疑う。下痢が続いた時は大腸癌を疑っていた。いつも大きな病気にかかったと心配をする。心配性の父は血液検査を頻繁にする。結果はいつも異常値が一つも無く健康体そのものなのにだ。やれやれ・・。本人にとっては真剣だが、家族にとってはオオカミ少年的な感じである。
かと言って、病気だと騒ぐ父をまたかと放っておくわけにはいかない。本当に病気である可能性も絶対無いとはいえないからだ。放っておいて本当に倒れた時に後悔しても遅い。

母と反比例するように、年々父は子供っぽくなってきている気がする。重い心臓病の母よりも、ストレスで少し病んだ父のほうが手がかかる。老うにつれ、ますますこの傾向はきつくなるだろう。これから心して付き合わないといけないのかもしれない。
posted by 小町 at 19:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 親の老い

2016年01月18日

今度は父が入院か?

先週の土曜日は久しぶりに旦那の仕事のアルバイトをした。朝10時から休憩を1時間挟んで午後5時まで、立ちっぱなしで中国観光客向けの冊子を配布する。勉強中の覚えたての中国語を試す場でもあるので、結構楽しい。寒かったが作業を無事終え、帰宅後旦那とお酒を飲みながら晩ご飯を食べて寛いだ。後片付けを終え、ふとスマホを見るとメールのサインが出ている。母からだった。

内容は父のことだった。午後になり父が母にお腹が痛いと電話で言っていたらしく、父が心配です。という内容だった。
すぐ父の携帯に電話をしたら、はぁはぁと息を上げながらお腹が痛いと言う。さらに辛くなったら自分で救急車を呼ぶと言い出した。恐らく最悪でも腸閉塞だ。父はすぐに救急車を呼ぶと大袈裟に言い出す困った人だ。電話で私が行くから救急車は呼ばないようになだめた。
旦那は既に寝ていたが起こして事情を話し、すぐに支度をして家を出た。時間は午後8時を回っていた。実家へは電車、タクシーで9時前には到着した。私が到着すると父の腹痛は少し和らいだようだ。ベッドで寝ていたが、さらにホットカイロをお腹に追加し、慰めた。次第に父も落ち着いてきた。

私はお風呂に入ることにした。実家のお風呂はもう何年も入ってなかったので使い方がわからずにいたら、父はベットから出て説明をしてくれた。もう父は立ち上がれるほど元気になっていたのだ。その姿を見て、私は心配ないと判断した。
母の携帯に電話し、父は大丈夫そうだし、私が実家に泊まるので心配しないようにと伝えた。母は心臓病で入院中であるのに、父の心配をずっとしていたのだ。就寝時間を過ぎているのに私と話をするため、4人部屋から歩行器具を使い談話室まで移動し携帯で電話をしているのだ。母の姿を想像すると、母が父より不憫になった。

以前にも同じような状況があった。母が長期入院中に父が腸閉塞だと騒ぎだし、私が家に急いで出向いた。
すると父は暫くすると落ち着き、治ったのだ。消化の悪い食べ物を食べたせいではない。恐らく精神的な所からきているのではないかと推測した。今回も同じパターンだ。かと言って父が腹が痛いと言っているのに、放っておくわけにはいかない。父は腸閉塞で入院し、手術した経験もあるからだ。腸閉塞も痛い病気であるが、父の状態からして適切に処置すれば命にかかわる病気ではない。母の状態とは比べものにならない。それでも父は、自分の状態がいかに辛いかを常に訴えてるのだ。精神的には、父は歳を取るにつれ脆くなり、逆に母は強靭になっている。逆に体は父は健康そのもので、母は脆く危うい状態なのに。いかに母が強い人であるかがわかる。

私はお風呂の後、父の隣の母のベッドに入った。時間はもう12時前だ。父は小さな寝息を立てていた。
寝れるということは痛みは大したことないと悟り、私は疲れでうとうとした。
しばらくすると急に父が寝室の照明を付けたので起きた。父がガスが出たと喜んでいる。ガスが出たら腸が通った証拠であり、腸閉塞の心配は無くなるのだ。父は一気に元気になり、お風呂に入ると言い出した。
私は母に父はもう大丈夫だから安心するようにとメールした。私は安心したのとアルバイトの疲れからすぐ眠りにつき、父が風呂からあがってきたのも知らない。

翌朝、父は元気そのものだった。私は茶粥を作り、鯵の一夜干しを焼いた。父は重湯のような粥と梅干をしっかり食べた。父はいつものように朝から洗濯物を干す元気な様子を見届け、私は自宅へ帰った。
父には体調が悪くなったら入院中の母に連絡せず、まず私に連絡するよう強く言っておいた。入院中の母がどれほど父を心配するか。どれほど母が歯がゆい思いをするのか、父は全くわかっていない。

母が入院すると、母よりも父のほうが手がかかり気にしてやらねばならない。
母が入院中、父には兎に角元気でいてもらわないといけない。2人共入院となれば大変だ。仮に母が先に逝くようなことになったら、この父は一体どうなってしまうのか想像だけでも怖い。いつも母に、父よりも一日も長く生きてくれるようにと、半分冗談、半分本気で話をしている。
人の寿命は神のみぞ知る。だからこそ毎日希望を持ち、元気に生きていけるのかもしれない。
posted by 小町 at 12:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 親の老い
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