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2019年11月25日
『笑顔の父親no.22』『エピローグ 私にとって偉大な父』
父は眠りについてからも栄養を投与され死んでは無いけど、目を決して開ける可能性は無い状態でしばらくは生かされて・・・
別れの挨拶に来る人に安らかに、少し微笑んでいるような顔で迎えいれていました。
生きてる父に会って別れの挨拶をしたい方が挨拶をしに次々とお見舞い(?)に来て、目をあけることのない父に挨拶をして…
段階を踏んで投与する栄養を減らしていって、肉体が腐敗しない最低限度の投薬量になって…
いつ逝ってもおかしくない状態でもしばらく生き続けて…
父の小さな身体に秘められた力を最後の最後までみせつけて、母の誕生日を前に父は旅立ちました。
父が旅立つ最後の最後まで、毎日父のお見舞いに行き、身体を拭いたり着替えをしたりと父と二人の時間を母は過ごして…
私達夫婦が病院にいくと、父との思い出話やら病院での出来事等を話してくれました。
父がまだ病院で起きて動けるときに、どっから持ってきたか不明なライターと煙草を持って、もう煙草も吸えない身体だったのに煙草を吸いに行こうとしたり…
とっくに閉めていた自分のお店の仕込みをしようとしたりと…
最後まで仕事人で…
最後まで格好を気にして…
周りの人間に常に気をつかって…
人当たりの良い笑顔だった父は、私の人生において最大の目標でどんな偉人よりも偉大な父です。
と言う事で『笑顔の父親』はひとまず終わりますが、もしかしたら今後『番外編』って形で父の事を書くかも知れません。
私のような文章力の無い人間の駄文にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
次回からはそんなに長くはならない短編シリーズも(今のところ)考えてますが・・・
今後も【あきひでのガラクタ箱】お付き合いいただけたら幸いです。
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2019年11月17日
『笑顔の父親no.21』『自らの意識で・・・』
父の身体の衰弱していく姿は…
『父はスーパーマン! 何でも出来る凄い人』
って子供の時と同じような気持ちのままだった私も、父も普通に死を迎える時が来るんだと認識しなくちゃ…
覚悟しなきゃならない事を意識するようになっていました。
私の方も、勤めていた会社から理不尽な言いかがりを突き付けられ退職に追い込まれて
(詳しくはこのブログの『フリートーク』で書いてますのでそちらも読んで欲しいです)
自身の先々の事も考えなくてはならない状態でしたが、とりあえず失業手当があるので父と母には退職した事をふせて、お見舞いに行っていました。
父と母の闘病によって医者から宣告された余命を越えて2ヶ月が過ぎた頃…
私が抗がん剤の副作用で調子の悪い妻に留守番をたのんで、一人お見舞いに行くと母に病室の外に連れ出され・・・
涙目で「お父さん、もうしんどいって、もう十分頑張ったもんね・・・寝かせてもらおう、お医者さんとは話がついているんだ、お前が来てくれてちょうどいいから」
・・・一瞬私の頭の中は???となってしまいました。
闘う父の姿は十分みせてもらった、生きるって事を考えさせてもらった、もう苦しまないようになる…
一番のタイミングなんだと自分に言い聞かせ…
「わかった…」と母に返事をして病室に行くと安眠処置の手配をしてる看護師さんに気を使ってる父の姿があった・・・
こんな時にも人に気を使ってる父に、改めて人間的にまだまだ越えられない偉大な父の壁があることを思い知らされました。
私に「後は頼んだよ、幸せに生きていけよ」と声は出せない父が私を抱きしめてそう伝えたように思った。
続いて父は母と長いあいだ抱き合いながら母の言葉を聞きながら身体で自分の伝えたい事を伝えていた…
私には父が母に「ありがとう、ありがとう」って伝えてるように感じた。
そして看護師さんに「お願いします」と一礼して看護師さんが泣きながら安眠する処置をして「後はこの薬を入れると眠りにつきます」と、投薬を初めていった・・・
10分もしないうちに父はやすらかな顔で眠りについていった。
看護師さんも泣いてる中、母は眠ってる父の側にいきずっと泣いていました。
次回『エピローグ 私にとって偉大な父』
2019年11月11日
『笑顔の父親no.20』『迫りくる・・・』
父のお見舞いに行った時に父の笑顔を勝ち取った頭(^^)…
父が肉体的にも衰弱して、痴呆も徐々に進行してくると、毎日看病に行ってた母の負担も増えていったのですが…
母はある意味“父を独占”出来るようになった事が、嬉しそうにも見えました。
しかし、肉体的の負担はつらそうでした。
ただ、過去と現実の狭間を漂っている父と思い出を振り返りながら過ごす時間は、私達にも入りこめない空間を作り上げていました。
このセットなら着てるだけで全身トレーニング出来るな…
ある意味母にとって幸せな時間も、父の肉体的な衰弱が進んでくると辛いモノになっていったのですが…
宣告された余命は、とっくに越えていました。
父の生命力は想像を越えたモノでした。
病院の先生とのカンファレンスでは、父の身体が辛くなってきたら永眠する処置をとるって話だったのですが、そのタイミングをどうするかが判断の難しい状態が続いてました。
次回『自らの意識で・・・』
2019年11月07日
『笑顔の父親no.19』『辛い闘いを・・・』
ノンフィクション著者.林田 力先生がTwitterで少しやり取りして下さって私のブログを書く意識が高まりました。
正直、これからの話は思いだすと辛い事が多くなるのでモチベーションが落ちてしまってまして、少し鬱が出てきそうになってました。
まだ上手く自分の鬱と付き合い方が出来てなくて・・・
林田先生、ありがとうございます。
それでは父が笑顔で闘い続けていた姿を思い出しながら書いていきます。
誕生日を無事?に向かえられた父ですが、その時既に咽頭癌の放射線治療の影響で喉が腫れ呼吸をするのも難しい状況の為、気道を確保する手術をして“声”も奪われていた。
それでも生きる決意をした父は私達夫婦がお見舞いに行く度に笑顔で向かえてくれて、ジェスチャーと筆談で会話を楽しんでくれて…
それでも父が伝えたい事が上手く伝わらない時は母にあたる事もあったけど…
私達には笑顔で接してくれました。
週に一度はお見舞いに行っていたのですが、行く度に父の伝えたい事がわからない事が増えてきて…
母が言うに痴呆が始まってきてしまったらしく、現実と過去が混じりあうようになってきたそうでした。
それでも私達夫婦がお見舞いにきた時は、見失いそうな現実を必死に捕まえて笑顔で向かえてくれていました。
父は、肉体的にだけでなく現実の「自分を見失いそうな自分」とも必死で闘い続けていました。
その事を考えると胸が締め付けられる思いでしたが、笑顔で向かえてくれる父に答えるように私達夫婦もなるべく笑顔でお見舞いに顔を出すようにしていました。
次回『迫りくる・・・』
2019年10月29日
『笑顔の父親no.18』『誕生日』
父の精神力.母の頑張りもあって、病状は
悪くもならず・・・
(あれ以上悪くなったらいよいよかって状況でしたが)
当初お医者さんが言っていた「お誕生日までもつか…」
誕生日を生きて向かえられた父にお見舞いがてらに病院で履く“すててこ”を二人であれこれ考えながら買ってお見舞いに行きました。
(父は身なりを気にする人でラフな格好でも清潔感とセンスを大事にするので気に入ってもらえるか、けっこう二人で考えました(^^;)
病院に着くと“いつも通り”に父と母が居て、二人で父に買ってきた“すててこ”を渡すと満面の笑顔で父が喜んでくれて…
(私は…なるほど若い頃はモテたワケだ、その笑顔はある意味反則技だよ…って改めて思い知らされました(妻も同じような気持ちだったようです))
その時は無事?に父の誕生日を向かえられたことを皆で喜びました・・・
心の奥の不安をしまいこんで・・・
先生が言った「誕生日まで…」と言った言葉を乗り越えて、微かな希望が見えたような…
微かな希望にしがみつかなきゃ崩れてしまいそうで…
ギリギリの状態だった事には代わりなかったのですが、父の笑顔はそんなギリギリの状態であることを一時でも忘れさせ、その場を和ませるのに十分な力があった・・・
一番ギリギリで辛い父親にみんなが元気をもらっていたんだなぁ〜と今になって改めてて思い知らされました。
次回『辛い闘いを・・・』
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2019年10月27日
『笑顔の父親no.17』『父親の力』
父親の入院した病院が、実家から自転車で10分ぐらいの所だったのが、母にとっては救いだった
それでも毎日毎日と病院に行って、父の身体を拭いたり話相手になったり洗濯物をしたりと…
妻の入院の時私がした事を考えると大変だったろうなと思いますが、父のいない実家に一人で居るのも寂しかったんだろな・・・
入院当初「お誕生日まではもつか…」なんて言われてましたが、私の休みの日に妻と一緒にお見舞いに行く度に、
笑顔で私達を向かえてくれてくれて・・・
私の他愛の無い馬鹿話にも付き合ってくれて・・・
体力も少し回復してるんじゃないかと期待してしまう状態でした。
母には「お父さんが心配しちゃってるから、抗がん剤治療も終わったばっかりで抵抗力が弱ってるから〇〇ちゃん(妻)を連れてきちゃダメだよ」と言われてしまったが
「妻の運動がてらにちょうどいいから」と、妻を連れてお見舞いに行っていました。
実は病院の帰りに私達の住んでいるところには無いお店に行ったり、毎回家電量販店のマッサージチェアのコーナーでマッサージチェアのお試しをすると言うお楽しみもありました。
ともあれ、妻の身体の心配をして笑顔で向かえてくれた父に私達が癒された事も大きかった。
次回『誕生日』
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2019年10月21日
『笑顔の父親no.16』『無理は長くは続かない』
父親が帰宅して一週間たたずに、夜に父親の身体に不具合が発生、呼吸が困難になり救急に先生にきてもらい、大事に至らなかったのですが、自宅での介護が難しいと判断され、近所の最新の病院に…
なんとか空きが出来て受け入れてもらえる事になり入院が決まった。
入院の日、私も実家に行きました。
荷物持ちくらいしか出来ることは無かったけど・・・
母は「たぶんお父さんが帰宅出来ることはない…」と、覚悟して辛そうに私に耳打ちしてきた。
私も父親本人も覚悟していたうえで、私は父親に「綺麗な病院で居心地が良いからってあまり長居しないで家に帰るようにね」と言うと父親は笑顔で
「わかってるって、家が一番良いからな」と答えてくれた。
父は私に「大丈夫、まだ諦めちゃいないからしっかりと見とけよ!」と口には出さないけどそう伝えてきてるように私は感じました。
最新設備の病院で、入院してから父の体調も安定して(とは言っても夜中何度かナースコールのお世話になったそうですが…)
春〜梅雨の間頃の入院だったのですが、病院の先生からは父親の状態を…
「父の誕生日(7月)までもつかもたないか…お誕生日向かえられるように頑張っていきます」と、母と私に伝えてきました。
それから父と母の癌との戦い…
特に母の執念にも思えるほどの献身的な看病がはじまりました。
次回『父親の力』
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2019年10月14日
『笑顔の父親no.15』『帰宅…』
父親が帰宅したのは秋口の頃になりました。私の姉が遠方から車を出してくれて (私は車どころか免許取消されていたので…その話は“若気のいたり”ってヤツで、後日『フリートーク』の話のネタにします)
病院から自宅に向かうのに軽くドライブしながら帰宅したそうです・・・姉は父親を乗せてドライブするために急いで一生懸命頑張って免許をとった(本当は元気な父親を乗せたかったけど…) 私は病院から次の日仕事もあったし、妻も手術.退院してまだ日も浅く、家族から「こっちは大丈夫だから帰ってあげて」と言われ帰宅しました。
後日、帰宅後の父の介護体制の話を聞くのに母が「私一人だと不安だから来て」と言われたのもあり、また妻が介護職なので、妻からも話を聞いて来て、と言われたので在宅介護のスタッフの話を聞きに実家にいきました。スタッフからの説明後「久しぶりに実際にお風呂に入りましょう」と父に入浴介護をどのように行うかを実演?することになったのだが…家族以外の人間(しかも女性)に裸体を見せることもさることながら、自尊心の高い父がお風呂に入るのに、人の手を借りることに抵抗を示したけど、スタッフさんを困らせるのもいけないのと、しぶしぶ言う事を聞いて入浴したのを見た、母と私は父の“やるせない思いやら悔しい思い”などを感じとり、泣きそうになる自分達を押さえるのに必死でした(母は半泣きしてました)、(お風呂好きの)お風呂上がりの父は、さっぱり心地良さげだけど(あえて言いますと)余計な人間が居ないと風呂にも入れないってことに苛立ちを隠してるのが、母と私には見えてました。
次回『無理は長くは続かない』
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2019年10月08日
『笑顔の父親no.14』『カンファレンス後半』
弱々しいが父親の瞳は私の知っている力強さを宿していて“まだまだ大丈夫”って気持ちにしてくれた。
そして私の耳元で「腎臓癌が見つかって手術するって決めてた時から、こうなる事は覚悟してた、じゃなきゃあの時すでに手術する選択肢は無かった。最後まできっちり戦ってやるからな!」と弱々しいが力強くささやいてくれた。
泣きそうな私でしたが泣かずにすんだ…
そしてなるべく明るく冗談まじりに
「電車でかようにゃしんどいもんね、とりあえず訪問介護なら楽でええね♪」と少しでも前向きな発言をするように心がけた。
正直それ以外の会話はほとんど覚えていないのですが、父はいったん家に帰宅して受け入れ先の病院が見つかるまでは、訪問介護にきてもらって様子をみるってことになりました。
どんな状況だろうが家に帰れるってことをそこにいた皆で、必要以上に喜ぶことにしてた。
まだまだ可能性はある!
絶対なんとかなる!
親父は絶対死なない!
って全開でいつまでたっても、いくつになっても子供は子供って気持ちになっていた。・・・
次回『帰宅・・・』
2019年10月04日
『笑顔の父親no.13』『カンファレンス』
正直このカンファレンスの話は思い出すのがしんどくて、なかなか書き上げられそうに無かったので更新が遅くなってm(._.)m
父の放射線治療も、出来る限りの放射線をつかい、これ以上放射線は(人体への悪影響が強すぎるため)使えないと言うところまで使ってから、家族一同集められて『カンファレンス』をすることになった。
簡潔に言うと、担当医の説明は「父の身体の事を考えると抗がん剤も使えない
当院で出来る限りの治療は行ったけど、ガン細胞を根治させる事は出来ませんでした。
今後は他の病院でペインクリニックをして、再度体力の回復を待って抗がん剤治療出来るかどうかを検討していきます」と・・・
再度〜の方は私達に気を使ってくれた優しい希望(と言うか嘘…)だったようにしか思えなかった。
「このままだと余命は半年…」
母は「お父さん大丈夫だから・・・」と父に半場泣きながら言い続けて・・・
それを父は弱々しい笑顔で「わかってるからまだ諦めちゃいないよ、体力回復させて治療再開してもらうから」と母を説得していた・・・
次回『カンファレンス後半』