争いは源頼朝の死をきっかけに始まる。
2022年度の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】鎌倉幕府の御家人13人による合議制が ”鎌倉殿”こと鎌倉
幕府を開き初代征夷大将軍となった源頼朝の急逝が原因で誕生したといってよい。
建久9年(1198)12月27日相模川橋供養に赴いた帰りにわかに体調をくずした頼朝はよく建久10
年正月13日に逝去。享年53(数え年以下同じ)であった。
急ぎ、彼の嫡子・頼家が2代将軍となったものの19歳の若者に幕府経営能力は期待できない。
何しろ、この政権自体坂東【関東)の怒号達の集合体であり、頼朝ほどの大政治家をもってしてもその統制
は万全とはいかなかった。まして19歳の若年でなお気性の矯激な頼家が幕政を親裁できるはずもなかっ
た。 加えて生まれながらに2代将軍約束された頼家には父が経てきた御家人たちの苦労や配慮は知る由
もなかったろう。
さらに頼家の乳母を務めた比企氏は頼朝の代からの乳母であり、頼家は外祖父である北条時政を嫌う一方
で、乳母の夫=比企能員(よしかず)の娘を自らの妻とし甘やかされすでに一幡という男子を上げていた。
比企氏は武蔵7党の盟主でもあり頼家が将軍となるや急速に発言を増している。
(このままでは わがやはあぶない) 時政は北条家の前途に不安に感じるようになり頼家の将軍として
力を無力化する手立てを講ずる。 それが嫡子の義時(演小栗旬)とともに13人の宿老による合議制をしき
将軍の親裁権を停止させる処置であった。
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