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2022年05月16日

比企能員、源頼朝と薩摩・島津家のつながり19代当主が建てた別定の家系図に何と!頼朝の名前が?

 鹿児島市に庭の堀後氏に錦江湾と桜島が見える絶好の撮影スポットがある。島津家19代当主・光久が
 1658年に立てた別定【仙厳園(せんがんえん)】である。
 隣の建物は【尚古(証拠)集成館】といい、島津家の歴史や文化を知るうえで貴重な品々がたくさん展示
 されている。
 その尚古集成館の入り口に入ったらすぐ振り向いていただきたい。そこには島津家の大きい家系図が展示され
 ている。 「ああ、家系図だあ」と思ったら、その最初の部分をよく見ていただきたい。
 島津家の初代党首、つまり始祖・忠久(忠久)の名がある。そしてその父の欄には何と!源頼朝の名前があ
 る。母は丹後局(丹後局)「鎌倉殿の13人」の一人比企能員(ひきよしかず)の妹で頼朝の乳母比企尼
(ひきのあま)の娘である。 より詳しく知りたければ下記をチェックしてご覧になってください。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/423eb1fcdb5bb00c6c75a35c95100258f4996079

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頼朝と義経を決裂させた義経の政治的感覚の鈍さともう一つの理由

兄弟の情・絆は、持ち合わせていなかったのか?
 平家を打ち滅ぼすという宿題を果たした源頼朝と義経は直後に決裂してしまいます。
 なぜ兄弟は決裂してしまったのでしょうか。
 もともとこの二人は兄弟とはいえ母が違い年も離れています。平治の乱で父の義朝が良知が敗北したときは、
 義経はまだ乳吞み児ですぐに鞍馬寺に預けられましたし、頼朝は伊豆に流されました。
 別々な環境で育ち、顔を合わせたこともなかった二人は我々がイメージするような「兄弟の情・絆」は持ち
 あわせていなかったと考えられませんでしょうか。また、頼朝は地方武士たちの社会でもまれながら政治家と 
 して成長しましたが、身寄りのない環境で育った義経はどうも自己承認欲求が強かったようです。
  そんな義経が軍事の天才でありましたが政治的には無頓着だったようです。とくにドラマで描かれていた
 無断任官問題は鎌倉政権に根幹に関する重大案件であったのにも関わらず勝利に浮かれて義経は問題に気が 
 付きません。
 なぜかというと、御家人たちの主従関係で成り立っていたからです。
 頼朝の命で動いていたのに頼朝に許可なく官位をもらってしまったからです。
 更に詳しく知りたい方は下記をチェックしてご覧になってください。

 https://news.yahoo.co.jp/articles/1fbf34f448f8974b6a8e05cf2442d29b79fd4a08

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73歳の現役で働いている髪が薄い爺さんです。 仕事は、マンションの清掃と一部管理業務をこなしています。 できるだけ健康で動ける体を保ちながら、笑顔で接するようにしています。
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