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2023年02月24日

黒板博士のプラハ滞在記2



承前


 プラーハは百塔の都とも称せられて居る。ゴチック式の尖塔高く林立したる盛観は他の欧州に於ける都府で多く見らるるものでない。夫が皆中古の面影を存して基督教の勢力を振った当時を追憶せしむるのである。大詩人ゲーテはプラーハを都市のディヤデムにある真珠なりと激称し、ウィレム・リッターは歴史と建築学の最も貴重な書籍であるといい、フムボルトは中欧に於ける最も美しい都なりと称揚した。


ディヤデム 王冠のことか。
フムボルト 有名なフンボルトというと、アレクサンダーとヴィルヘルムという二人のフンボルトがいるのだけど、ウィキペディアによると兄弟らしい。弟のアレクサンダーの方にゲーテとの交友について書かれているからこっちかな。兄ヴィルヘルムはフンボルト大学の創設者だという。



 カールスホーフ寺院、サンクト・ペテル及びサンクト・パウルの寺院、マリエン寺院、マリヤ・シュネー寺院と数え来るもいずれか皆壮麗ならぬはなく、モルダウ河の中流に架せる長さ五百五十ヤードのカール橋、また基督磔刑の像を安んじ、その前を過ぐるものが皆礼拝せる虔敬の様も嬉しきに、ヨハン・ネポミュクの奇蹟がこの橋上にあって今も順礼者の参拝絶えぬ床しさ。


カールスホーフ寺院 カールスホーフはプラハ新市街の一地区であるカルロフのドイツ語名。この地区にある大きな教会と言うと、アウグスティヌス派の修道院に付属していた教会の昇天せし聖母マリア・カール大帝教会であろうか。ウィキペディアによると修道院自体は18世紀に廃止されており、現在は警察博物館として使われている。
サンクト・ペテル及びサンクト・パウルの寺院 ビシェフラットにある聖ペトル・聖パベル教会。19世紀末から20世紀初頭にかけて現在のネオゴシック様式に改築された。
マリエン寺院 新市街の聖マリア教会か。14世紀創建。https://cs.wikipedia.org/wiki/Kostel_Panny_Marie_na_Slovanech#/media/Soubor:Emauzy_katedr%C3%A1la_PM.jpg
マリヤ・シュネー寺院 チェコ語を直訳すると雪をかぶりし聖母マリア教会。聖母マリアを記念した教会は数が多いせいか、区別のために形容詞がつけられることが多い。名前にどんないわれがあるのかまではキリスト教徒でもなし、調べようという気にはなれない。
カール橋 言わずとしれたカレル橋。ここまで並べられた名所を見ると、黒板氏は新市街に宿を取り、市庁舎のある旧市街広場には足を伸ばしていないように思われる。
基督磔刑の像 カレル橋上に設置されている全部で30ある像のうちの一つ。まん中あたりにあるのかな。
ヨハン・ネポミュク チェコ語ではヤン・ネポムツキーと呼ばれる。後に列聖され、チェコ各地に像が残っている。



 この橋を渡ってモルダウの左岸に出て、サンクト・ニコラス寺院から東北に折るれば、やがてワルレンスタインの広場に当って三十年戦争の猛将ワルレンスタインの旧邸が立って居る。今もその子孫の伯爵家に属し当時の観を改めぬ内部の室々、刺を通じて之を縦覧すれば、シラーの名著を読む心地せられ、徐ろにその雄風を偲ぶことが出来る。


サンクト・ニコラス寺院 マラー・ストラナの聖ミクラーシュ教会
ワルレンスタインの旧邸 ワレンシュタイン宮殿(チェコ語ではバルトシュテイン、もしくはバルチュテインと聞こえる)と呼ばれることが多い。現在はチェコの国会の上院の所在地となっている。この建物の正面にあるのがワレンシュタイン広場で、建物に沿うように走っているのがワレンシュタイン通りである。付属する庭園と厩舎も知られている。
シラーの名著 『ワレンシュタイン』と題された戯曲があって、これを読んで感動してドイツ語の勉強を始めたなんて人もいるらしい。



 フェルステンベルク侯爵邸を過ぎ、爪先き上りの路を辿れば、プラーハのキャピトルたるフラッヂンは巍然として一部をなし全市に臨んで居る。古王宮は嘗て皇帝カール四世以来マリヤ・テレサに至つて完成せられたるところで、ゴチック式の大寺院と共に華麗と荘厳とに打たれつつ北の方ベルベドルに出づれば、ルネイスサンス風の広壮なる別荘には神話を浮彫りにしたる廻廊を廻らして居る。ここから全市を瞰下すれば、モルダウ河は迂曲してプラーハの市を囲めるところ、所謂百塔の尖頂が林の如く立てる間に緑りの森が之を縫うて居るのに、見渡す限り平和なる空気が全部を蔽うて居る。そしてその下には人種的軋轢も、言語的反抗も包まれておるとは思われぬ。


フェルステンベルク侯爵邸 これはワレンシュタイン宮殿とワレンシュタイン通りを挟んで隣接するフュルステンベルク宮殿のことであろう。現在はポーランドの大使館になっているようだ。近くには小のつくフュルステンベルク宮殿もあって、こちらは上院の建物の一部として使われている。
フラッヂン プラハ城を中心とする地区、チェコ語でフラッチャニのことであろう。この地名も日本語での表記がばらついていて解読に苦労することがある。
ベルベドル 一般にはベルベデールと呼ばれる夏の離宮のこと。ワレンシュタイン宮殿から見るとプラハ城の裏側に広がる庭園の中の建物である。


 こうしてあれこれ比定してみると、黒板博士のプラハ散歩の経路が見えてくる。新市街にある教会をいくつか訪ねた後、カレル橋を渡ってまっすぐ行ったところにある聖ミクラーシュ教会の前で、右に折れて、最初の交差点を直進して、ワレンシュタイン広場に出て、右手にワレンシュタイン宮殿を見ながら宮殿沿いに進む。今度は左手にフュルステンベルク宮殿が見えてくる。ワレンシュタイン宮殿の厩舎を越えたところで、左に曲がって、道なりに坂を上って、プラハ城の裏手に出て庭園に入ってベルベデールを望む。といったところである。
 聖ビート教会などのあるプラハ城と言われたときに最初に思い浮かべる建物が並んでいる部分には入らなかったのか、入れなかったのか。旧市街広場にかんする言及がないのも含めて、気になる所ではある。これ以上は調べようがないけどさ。




一度失った習慣というものは、なかなか取り戻せないものである。

2023年02月15日

黒板博士のプラハ滞在記1



 諸戸博士のモラビア・シレジア紀行に続いて、歴史学者の黒板勝美氏が世界周遊旅行の途中でプラハに立ち寄った際の記録を紹介する。『西遊二年欧米文明記』(1911年刊)については、すでにここで簡単に紹介したが、今回は記事を引用しながら、解説を加えてみる。黒板博士がこの世界旅行に旅立たれたのは1908年で、翌年に帰国しているから、諸戸博士のモラビア旅行よりも早いのだが、活字になったのは同年だし、モラビア在住の日本人としてはプラハを後回しにするのは当然なので、この順番となった。例によって表記は読みやすく新かなに改めてある。



 ドレスデンから南の方索遜瑞西(ゼツクスシユワイツ)の勝景を過ぎて墺国の境に入り、やがてボヘミヤの首都プラーハに到れば、まず物寂びた古建築が目につく。その過去の湿っぽい空気に何となく床しい心地がする。しかも清きモルダウ河は絵の如き川中島を横えてプラーハの全市を紆余索回して居るのに、余は京都に遊んで鴨川のあたりにあるのではないかと夢のように疑わるる。


索遜瑞西(ゼツクスシユワイツ) チェコ語のサスケー・シュビツァルスコ、つまりザクセンのスイスと呼ばれる地域のこと。国境を越えてチェコ側のチェコのスイスと呼ばれる地域に続いている。エルベ(ラベ)川の右岸で、チェコ側にもドイツ側にも奇岩のそびえる景勝地が多いらしい。昨年の夏この辺りで森林火災が起こった際に、外国のメディアの中には、チェコとドイツとスイスで火事が起こったと報道したところもあったらしい。
川中島 ブルタバ川右岸の新市街と、左岸のマラー・ストラナとその南のスミーホフ地区の間に浮かぶ三つの島であろうか。



 一千四百二十四年のフッシット戦争にも、有名なる三十年戦争にも、墺太利王位継承戦争にも、第二シレシヤ戦争にも、はた一千八百六十六年の普墺戦争にも、このプラーハは包囲せられ、陥落せられた修羅場となった。北独逸と南独逸の政治的兵略的要衝に当って、いつも戦陣の衢となって居る。そして嘗ては皇帝カール四世の下に最も繁華を極めたこの市も何時となく、古色蒼然たる都府となって仕舞ったが、その政治的兵略的の要地たるに至っては、今も昔とかわらぬ。のみならず、その市民が主としてスラーブ人の一派チェヒ族たるがために、墺国に於ける反独逸思想の最も盛なるところで、社会的運動の中堅たる観がある。


フッシット戦争 フス戦争。普通は宗教改革者ヤン・フスの処刑(1415)を契機に起こったフス派の反乱全体(1419〜1436)のことを言うが、黒板博士が、なぜ1424年という年号を使ったのかは不明。
三十年戦争 この戦争のきっかけとなったのが、1618年にプラハの王宮で起こった窓外投擲事件で、最初の大きな軍事的衝突が、1620年のビーラー・ホラの戦いだと言われる。
墺太利王位継承戦争 オーストリア継承戦争中にプラハが包囲され陥落したのは一回目が1741年のことで、二回目がオーストリア継承戦争の一部をなす第二次シレジア戦争中の1744年のことである。どちらも、オーストリア軍によって、短期間で解放されている。継承戦争自体はその後も1748まで継続した。
皇帝カール四世 言わずと知れたルクセンブルク家の神聖ローマ帝国皇帝のカレル4世。ボヘミア王としてはカレル1世なのだが、チェコでもチェコの君主として取り上げる場合でも、慣例的にカレル4世と呼ばれている。ちなみに最近即位した英国王は、即位までは、チェコ語でも「チャールズ」皇太子と呼ばれていたが、即位したとたんに「カレル」三世と名前の呼び方が変わってしまった。



 人種の軋轢なるものは長い歴史といえどまた如何ともすることが出来ぬ例証をこの都に示して居る。宗教の力も猶お之を和ぐることが六ヶしい事実を証明して居るのはこのプラーハである。しかもその歴史はますます軋轢の度を増さしむることがある。その宗教は更にその反目を劇しくすることがある。プラーハの現状は之を説明して居るのではあるまいか。
 人種の相違は従って言語の相違である。言語の相違が、もし根底に於て国民の親密一致を阻害するものならば、その間に起る誤解から延ひて反目、軋轢となりて現今のプラーハを二分したのである。全市人口の五分一を有する独逸人がその四倍の人口を有するチェヒ人と対抗し得るは政治的関係と商業的勢力に存する。一方は多数を以て他を圧せんとし、一方は勢力を以て他に対して居る。プラーハには到るところ言語人種の相異れるより生じた結果を見ることが出来るのである。
 彼等はただ社交上に軋轢して交通するも好まぬという有様ばかりでなく、互に他の言語を了解しながら、自ら語ることを欲せぬ。独逸人の開けるカフェーにはチェヒ人の遊ぶものなく、チェヒ人の商店には独逸人の顧客を有することは出来ぬ。独逸語の大学とチェヒ語の大学と相対する。劇場も同様相分れて、一方に独逸の歌劇を興行すれば、一方にはボヘミヤの国民劇で喝采を博するのである。チェヒ人が毎年独逸人を諷したお祭り騒ぎをやるなどということを聞いたが、そんなデモンストレーションは必ずしもお祭り騒ぎばかりではないように思う。これは人種や言語が容易に同化し難い最も有力な一例として、余は非常に興味を感じぜざるを得なかつた。それに国民の自覚というものがこの問題と結合すれば、その解決がますます困難なるを想わしめたのである。プラーハの博物館や美術館では予想通りの結果を得なかったけれど、この現状を観て余はプラーハに遊んだ甲斐があったと思った。そしてその風光の明媚なるに於て、はた歴史的の都府たるに於て、宗教的の市たるに於て、このプラーハに遊んだことを更に喜ぶのであった。




 このあたりは特に解説することもないのだが、黒板博士の観察眼が優れているだけではなく、案内人に人を得たのであろう。言葉の違いは、ある程度耳で聞いてわかるにしても、見ただけで人種の違い宗教の違いが見て取れるとわけではない。名前や名字もそれだけでは、チェコ系か、ドイツ系なのか判別できないことも多いし、この20世紀初頭はよくわからないが、以前は必要に応じてチェコ名とドイツ名を使い分けている人もいたらしいし、本来ドイツ語話者として育った人がチェコ人意識に目覚めて、チェコ語を使い始めるなんてこともあったようだ。
 むしろ興味を引くのは、黒板博士は、なぜ人種問題、言語問題、宗教問題と、「国民の自覚」(言い換えれば国民意識とか民族意識となるだろうか)の結びつきに興味を抱いていたかで、当時の日本が日清、日露戦争の勝利に浮かれて、海外進出を進めていたのと関係するなどと妄想してしまう。恐らく、多くの日本人が海外領土を手に入れることを単純に喜んでいた時代に、黒板博士は現実に多民族、多言語、多宗教の雑居するプラハの現実を見て、日本の今後に思いを馳せていたのだろうか。
 もう一つ気になるのは、プラハの博物館や美術館にどんなことを期待していたのかだけど、流石にこれまでは憶測のしようもない。現在ではあちこちにいろいろな博物館、美術館が存在するプラハだけど、当時どのぐらいあったのかも、わからない。全くなかったということはないと思うけど、展示内容がいまいちだったのかな。




本来一年ほど前に準備してあったものだが、すっかり忘れていた。今回多少手を入れて掲載。


2023年02月03日

フクロウ考



 これまで、猛禽類のうちの昼行性のもの、タカ、ワシの仲間について、日本語での名称とチェコ語での名称を検討してきたのだが、毒を食らわば皿までで、夜行性の猛禽類、つまりはフクロウ、ミミズクの仲間についても取り上げることにする。
 昔話、それをモチーフにした映画なんかにもよく登場するから、チェコ語でフクロウのことを、一般的にはsovaと呼ぶということは知っている人も多いだろう。ただし、今回知ったのだが、フクロウというフクロウの仲間の個別の種も存在していて、そちらはチェコ語では、sovaではなく、puštík bělavý(bělavý=白っぽい)と呼ばれるようである。チェコ語でpuštíkと呼ばれるフクロウの仲間には、puštík obecný(モリフクロウ、obecný=普通の)、puštík vousatý(カラフトフクロウ、vousatý=髭を生やした)も存在する。

 フクロウの仲間として、名前を知っていたものとしては、光瀬龍の『ロン先生の虫眼鏡』に登場したコキンメフクロウがある。最初にこの名前を見たときには、カタカナで書かれた「コキンメ」が理解できずに、どんなフクロウだろうと頭をひねったのだが、考えてみれば「小金目」で、小さな金色の目をしたフクロウなのだろうと思い至った。そそて、コキンメフクロウがいれば、キンメフクロウもいるはずである。チェコ語だと、どちらも同じ名前でコキンメの方に、「malý」か「menší」つくのではないかと予想しておく。
 しかし、調べてみると、日本語の「コ」を示すのは、後ろにつく形容詞ではなくて、名詞の方だった。つまりキンメフクロウ(sýc rousný)の指小形がコキンメフクロウ(sýček obecný)になっているのである。
 他にも、スズメフクロウに使われるkulíšek、シロフクロウなどのsovice(sovaの指小形か)もフクロウの種名に使われるようである。一般的なsovaを使うものには。メンフクロウがあるのだが、ウィキペディアの写真を見ると、フクロウと聞いて普通にイメージするものとはちょっと違う。

  フクロウ  puštík bělavý
  モリフクロウ puštík obecný
  カラフトフクロウ puštík vousatý
  キンメフクロウ sýc rousný
  コキンメフクロウ sýček obecný
  スズメフクロウ kulíšek nejmenší
  シロフクロウ sovice sněžní
  オナガフクロウ sovice krahujová
  メンフクロウ sova pálená


 続いて、ミミズクだが、こちらは一般的に使われるチェコ語はvýr。個別の種名として使われる名詞としては、その指小形だと思われるvýrečekとkalousがあるようだ。オオコノハズクは日本に典型的なミミズクだとみなされているのか、「japonský」という形容詞がついている。残念ながら、以前から名前だけは知っていたアオバズクのチェコ語名は確認できなかった。

 ワシミミズク výr velký
 コミミズク kalous pustovka
 トラフズク kalous ušatý
 オオコノハズク výreček japonský
 コノハズク výreček malý




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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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