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2020年08月21日
武漢風邪対策また大混乱(八月十八日)
八月も半ばになって、夏休みの終わりが近づいてきたこともあって、政府主導の武漢風邪感染対策にもまた大きな変化がみられるようになった。妥当だと思われるものもあれば、何で今さらと言いたくなるものもあるのだが、とりあえずは、喜ばしいほうから始めよう。
先日もサッカーのスラビアを例に、このままではリーグ戦がまともに開催できなくなるというようなことを書いたが、スポーツ界が動いた。その結果、リーグ運営マニュアルというか、各チームに対して、感染者が出た際にどのような対応を取るべきなのかをまとめたマニュアルが作成され、感染者が出たら、即時にチーム全体が隔離されて活動を停止するというルールは撤廃された。
現時点ではサッカーとアイスホッケーのプロリーグ、恐らくは一部と二部が対象となっているが、順次対象となるスポーツを広げ、最終的にはすべてのスポーツで、一番上から一番下までのリーグで適用されることを目標としていると国会議員になってしまった、アイスホッケーの元チェコ代表のゴールキーパーが語っていた。フリニチカだったっけ。スキーのジャンプのヤンダも国会議員になったけど、元スポーツ選手の国会議員ってのはどうなのかね。
それはともかく、このルールの改定のおかげで、新シーズンが無事に開幕し、最後まで開催される可能性が高くなった。ハンドボールも少しはテレビで見られそうだ。サッカーのような屋外競技とは違って屋内競技だから、観客を入れる際に制限は厳しくなるだろうけど、もともと何千人も客が入るスポーツではないから、そこまで気にしなくてもよかろう。
いいのか悪いのかよくわからないのが、義務教育レベルの授業に関して、登校ができなくなった場合に実施されるオンライン授業が義務付けられたことである。春から行われていたオンライン授業は緊急だったということもあって、義務ではなく希望者のみが出席すればいいことになっていて、学校の成績には反映されないことになっていた。それもどうかと思うけどさ。
それがこの九月から始まる学期からは、オンラインに授業が移行した場合には、出席が義務となり、成績にも反映されることになった。チェコはネットへの接続環境はそれほど悪くないのだが、すべての子供がいる家庭で問題なくオンラインで授業が受けられるとは限らないし、複数の子供がいる場合に、PCの数が足りなくて同時に授業が受けられないなんて事態も発生しそうだ。
チェコに国産のコンピューターメーカーがあれば、国費で大量に購入して子供がいる家庭に配布するなんて手も、国内企業の支援と雇用対策を兼ねて行えるのだろうけど、現状でそれをやると喜ぶのは外国企業だけということになるからなあ。ネット環境の更なる整備も、田舎の地方自治体が補助金もらってやってたりするけど、ただでさえ足元見られて割高の契約を結ばされているところが多いから現状でやるのはまずいよなあ。
一番いいのは、仮にマスクの着用の義務とか、制限が科されるにしても、例年通り九月一日から学校で普通に授業が行われることである。文部省と厚生省の話し合いで作成されたマニュアルも配布されて、当然とはいえ、感染者が出た場合の対応など、春の対策よりははるかにまとまっていてわかりやすいと好評である。武漢風邪対策としてうがい手洗いの励行とマスクの着用を徹底すれば、普通の風邪やインフルエンザ対策にもなって、怪我の功名なんてことになるかもしれない。
そうなのである。学校は通常通り授業が行われることになったが、教室外ではマスクの着用が義務付けられた。これは学校だけでのことではなく、自宅、職場以外の屋内と公共交通期間内では、9月1日からマスクの着用が再び義務化されることになった。昨日の政府の記者会見で発表されたのだが、突然の決定だったのと、これまでは、感染状況は特に問題のあるものではなく、国全体にかかわる規制は導入しないと説明されていたのとで、混乱と批判を呼んだ。
現時点でマスクの着用が義務化されているフリーデク・ミーステクでは、状況が改善に向かったことで明日、水曜日にマスク着用の義務が撤廃されることになっているのだが、義務の軽減は二週間弱で終わることになった。地方レベルでの感染対策と、国家レベルでの対策が、うまく連携していない印象を与える。いや、恐らく、規制の再強化はバビシュ首相の鶴の一声で決まったんじゃないかとまで考えてしまう。厚生大臣も辞任を批判をあびて辞任を求められることも多いが、辞任しても次の引き受け手がいなさそうである。そんな感想を、以前自らも医師である上院議員が述べていた。
チェコの厚生省では、チェコ国内の各旧オクレスを単位にして、信号機風に危険度に応じて色分けするというのを始めている。ほぼ問題がない地区は白で、多少問題があるのが緑、危険度が上がると、黄色、赤と変わっていく。その地図によれば、現在色がついているのはプラハと、フリーデク・ミーステクだけで、それも緑色。この状態で規制を強化するというのは、こんな地図を作成する意味がないじゃないかという当然の批判が出ている。
夏休みに入るころから、感染者の絶対数ではなく、人口十万人当たりの数で感染状況が紹介されることが増えているのだが、これも、大都市、とくにプラハの感染者が多いのを隠す目的があるようにも思われる。カルビナーで千人を越える大規模集団感染が発生してなお、感染者の絶対数ではプラハの方が倍近く多いのである。それが見えなくなる発表の仕方には、恣意を感じてしまう。カルビナーだけでなく、モラビアシレジア地方全体なら、プラハよりも多くはなるのだけどさ。
夏休みの間は、感染の危険性があって感染者の数が増える恐れがあっても、観光業を支援するために、あちこち出かけやすいようにしておいて、夏休みが終わったら観光業よりも感染の拡大防止を優先して規制を強化するというのなら、それはそれでかまわないと思うのだが、そんな説明は全くなく、突然の規制の強化には反発を感じる人も多くなりそうだ。
2020年8月19日10時。
具体的にどこでマスクの着用が義務化されるのかについて、二転三転していて、いったいどうなることやらである。最初はレストランは義務化しないと言っていたのに、翌日にはやっぱり義務化するとなって、今日になって、首相との会談でやっぱりしないことになった。8月20日追記。
https://onemocneni-aktualne.mzcr.cz/covid-19
https://www.krajpomaha.cz/
2020年08月20日
ハシェクの日本語訳その他(八月十七日)
ハシェクも、チャペクと同様、多くの短編作品を残しており、生前に刊行されたもの以外にも、没後になってまとめられたものなど多くの作品集が出ている。ただ、その全貌はチャペクの場合以上によくわからず、日本語訳だけを見て原典を同定するのはほぼ不可能である。そもそも代表作であるシュベイク自体が、日本語に翻訳されたもの以外にも、第一次世界大戦前、大戦中に出された二冊の本の題名にも登場するので、中身を知らないとどのシュベイクが翻訳されたか確定するのは難しいのである。
単行本として出版されたものもあるが、発表順にどんな翻訳があるのか見ていこう。
@辻恒彦訳「公爵夫人の真田虫」(『新興文学全集』第20巻、平凡社、1930)
最初の短編の翻訳は『シユベイクの冐険』の刊行と同年の1930年である。訳者は同じ辻恒彦訳。平凡社の『新興文学全集』第20巻は、「独逸編第3」ということでチャペクの「ロボツト」も収録されている。チェコスロバキアもオーストリアも独立させずに、ドイツ圏ということで一まとめにされたのだろう。
題名に登場する「公爵夫人」も「真田虫」もチェコ語で何というかは知っているけれども、こんな題名の作品は見つけることができなかった。サナダムシはチェコ語で「tasemnice」というが、この言葉を知っているのは、病院でお世話になったからではなく、作文の際にだらだらと長く続く文を使っていたら、師匠にサナダムシみたいな文だなんてことを言われたからである。ただし、無駄に長い文を形容するのにサナダムシを使うのがチェコで一般的なのかどうかはわからない。
A飯島周訳注『ハシェク風刺短篇集』(大学書林、1989)
二番目は一気に飛んで80年代の終わりである。語学教材の出版に力を入れている大学書林の出版だけあって、ただの短編集ではなく、チェコ語のテキストに語注もついた対訳版になっている。収録作品はオンライン目録には記載されていないので不明だが、チェコで出た短編集ではなく訳者が独自に選んで編集したものであろう。
この短編集は、チェコ語の勉強のために使用することが想定されたのだろうが、東京外大にチェコ語科ができる少し前の出版で、どのぐらいの需要があったのだろうか。大学書林の語学学校でチェコ語の授業がすでに行われていたのかな。それにしても第二次世界大戦前の作品を学習に使えるのは、結構な上級者だけではないかと思う。
その後、2002年に平凡社から、単行本として刊行されるが、チェコ語と語注の部分を取り去っただけななのか、内容に増補などの変更があるのかはわからない。そして、昨日気づいたのだが、今年の10月には、平凡社ライブラリー版が出版されるようである。
B飯島周訳「犯罪者たちのストライキ」(『文学の贈物 : 東中欧文学アンソロジー』未知谷、2000)
C平野清美訳「オーストリアの税関」(『チェコSF短編小説集』、平凡社、2018)
この二つの短編が収録されたアンソロジーについてはすでにコメントしたので、繰り返さない。どちらもチェコ語の原典および原題は不明。日本語題をチェコ語に直訳しても、原題と同じものになるとは思えない。チェコ文学ではなかったけど、世界的に有名な作品の日本語題をチェコ語に直訳したら、わかってはもらえたけど、大笑いされたことが何度もある。
D栗栖継訳『プラハ冗談党レポート : 法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史』(トランスビュー、2012)
小説ではないと思っていたのだが、ホントで確認したら「ユーモア・ノンフィクション小説」と書かれていた。そんなジャンルあるのか? チェコ語の原題は『Politické a sociální dějiny strany mírného pokroku v mezích zákona』で執筆は第一次世界大戦前の1911年だが、出版されたのは、ハシェク没後の1963年。このころハシェクの再評価でもあったのだろうか。訳者の栗栖継は2009年に亡くなっているから、翻訳も没後の刊行になった。
出版社のトランスビューは、2001年に設立された、比較的新しい小規模の出版社で、ウィキペディアによれば、宗教、哲学、教育などを中心に出版活動をしているようだ。また取次を使わないで直接書店と取引をするという販売方法を取っているらしい。取次とか再販制とか、日本独自の書籍の販売方法が、日本の出版文化を支えた面はあるけれども、取次のせいで時代に取り残されつつあるのもまた事実である。ホントでは現在購入不能になっているが、取次が運営する販売サイトだからかな。
番外
グスタフ・ヤノーホ/土肥美夫『ハシェクの生涯 善良な兵士シュベイクの父』(みすず書房、1970)
『カフカとの対話』で知られる著者は、ハシェクについても一冊まとめている。「ヤノーホ」と書かれるが、チェコ語では「Janouch」で「ヤノウフ」と書きたくなる。20世紀初頭にプラハに生まれ、音楽家として活動する傍らで著作や翻訳の活動もしていた人のようだ。『カフカとの対話』はドイツ語で書かれ、後にチェコ語に翻訳されたが、『ハシェクの生涯』がチェコ語とドイツ語のどちらで書かれたのかは不明。翻訳はドイツ語版からなされたものだろうけど。ちなみに、チェコ語版のウィキペディアによれば、『アンネの日記』のチェコ語版の翻訳者として知られているらしい。
実はハシェクの作品は、読みかけて途中で挫折した栗栖訳の『シュベイク』も含めて、最後まで読んだことがあるものは一つもない。それでもハシェク=シュベイク=ルドルフ・フルシンスキーというイメージを持ってしまうのは、1950年代に制作されたシュベイク二部作で、フルシンスキーがこれ以上はないと思えるぐらい見事なシュベイクを演じているからである。原作のシュベイクのあの饒舌さは映画になっても変わらず、頭がくらくらしてきて最後まで見通したことはないのだけどさ。昔映画の宣伝文句に使われていたという「総天然色」というのを思わせる微妙な色合いも、ハシェクの盟友ヨゼフ・ラダの絵の色合いを思わせるし、フルシンスキーのシュベイクは、名作と呼んでいいのだろうと思う。チェコ映画はノバ―・ブルナの作品ばかりじゃないんだから、シュベイクも日本で上映すればいいのに。字幕にしても吹き替えにしても死ぬほど大変だろうけどさ。
2020年8月17日24時。
2020年08月19日
ハシェクのシュベイク(八月十六日)
以前、集中して紹介していたチェコ文学の日本語訳についての記事のコメントで、海山社の栗栖茜訳『カレル・チャペック戯曲集』IIの刊行が8月18日に決まったという情報をいただいた。購入するしないは別にして、ありがたいことである。
ということで海山社のHP を覗いたのだが、特にそれらしいことは書かれていなかった。ホントで探したら出てきたのだけど、気になるのは収録されている「白い病気」と「マクロプロスの秘密」のうち、前者の阿部賢一訳が「白い病」として9月に岩波文庫の一冊として刊行される予定になっていること。ネット上で公開されていたのか、すでに感想までついていた。
それはともかく、久しぶりに意識がチェコ文学の翻訳に戻ってきたので、久しぶりにその話をしよう。取り上げるのは、カレル・チャペクとほぼ同世代と言ってよさそうな、ヤロスラフ・ハシェクである。ハシェクは1883年に生まれ、1923年に39歳で亡くなっているから、早死にしたというイメージのあるチャペク以上に若くして亡くなったことになる。
ハシェクと言えば、シュベイクというぐらい、第一次世界大戦を舞台にシュベイクの活躍を描く『Osudy dobrého vojáka Švejka za světové války』(1921-23)は、世界的にも有名なのだが、日本語に最初に翻訳された作品もこれである。いや、このシュベイク以外の作品はほとんど翻訳されていないのが現状で、あらゆる作品が日本語に訳されつつある感のあるチャペクとは対照的である。
チェコ語の原題の「osudy」は、運命という意味の言葉だが、複数では「経験したできごと」という意味でも使われることがある。書かれた時代を感じるのは、「za světové války」の部分で、これが第一次世界大戦をさすのは当然なのだが、当時はまだ二つ目の世界大戦は起こっていなかったので、現在ならつけられるはずの「první」がないのである。
最初に『シュベイク』を日本語に訳したのは辻恒彦で、恐らくはドイツ語からの翻訳だと思われる。辻訳は出版社を変えて何度か刊行されるがそのたびに題名が微妙に変わっている。
➀辻恒彦訳『シユベイクの冐険』上下(衆人社、1930)
国会図書館のオンライン目録では、副題のように「勇敢なる兵卒」が後ろにつけられているが、『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』を書名とする記述も見かけられる。オンライ目録では上巻だけしか確認できず、下巻がいつ刊行されたのかはわからない。著者名表記は「ハシエーク」。版元の衆人社は詳しいことはわからないが、ソビエト、ロシアの文学作品の刊行を中心に活動した左翼系の出版社のようである。
戦後すぐの1946年には版元を京都の三一書房に移して、『愚直兵士シュベイクの奇行』として三巻に分けて刊行。1950-51年に新版が出た後、同じ三一書房から1956年に『二等兵シュベイク』と改題して上下二巻で刊行。その10年以上後の1968年には題名はそのままで、一巻本として刊行されているようだから、なかなかややこしい。国会図書館のオンライン目録では把握できない版もある可能性は高い。1968年の久しぶりの再刊は、「プラハの春」事件でチェコスロバキアが話題になることが増えた影響だろうか。
A栗栖継訳「兵士シュベイクの冒険」上下(『世界ユーモア文学全集』第14、15巻、筑摩書房、1962)
チェコ文学をチェコ語から翻訳し始めた先達の栗栖継の翻訳は、チャペクの短編も収録された『世界ユーモア文学全集』に二巻を割いて納められた。その後、1968年には上下巻で独立した単行本として刊行される。これも「プラハの春」とかかわるのかもしれない。
栗栖訳は、版元を岩波書店に移して、1972年から74年にかけて四分冊の文庫本で刊行される。一括刊行でなかったのは、著者による修正や注釈の追加があったからだろうか。1996年には文庫版の新版が刊行され、昔買ったのはこの版じゃないかと思うのだが、改版のたびに修正したり追加したりする事項が多くて作業が大変だと書かれていたのを読んだ記憶がある。
また、1978年に学習研究社が刊行していた『世界文学全集』の第34巻に、チャペクの短編などと共に、栗栖訳の抄訳が収録されている。この文学全集には作品の前に文学アルバムというのがついていて文学者が「〜〜と私」という文章を寄せているのだが、ハシェクとチャペクに関しては、尾崎秀樹が書いている。どういう事情での人選だったのだろうか。
番外
「勇敢なる兵卒シュベイクの冒険」(『築地小劇場検閲上演台本集』第12巻、ゆまに書房、1991)
チャペクの戯曲を積極的に取り上げていた築地小劇場は、シュベイクにまで手を出していたのである。国会図書館ではなく、「CiNii」の情報によれば、戯曲化したのはエルマー・グリンで、日本語訳は映画の脚本家として知られる八住利雄。念のために書いておくと刊行は1991年だが、築地小劇場が活動していたのは戦前なので、翻訳も戦前のものである。検閲という時点でわかるか。
長くなったのでハシェクの他の作品についてはまた今度。
2020年8月17日16時。
2020年08月18日
チェコの貴族4フロズナタ(八月十五日)
前回、チェコの貴族家について書いたのは、一年半以上も前のことで、あのときは、次こそジェロティーン家だとか書いたのだが、このモラビアを代表する大貴族家について書く前に、参考にする『貴族家事典』の前のほう、つまり時代が古いほうに登場する貴族家から続けよう。チェコの国家の黎明期にプシェミスル家と勢力争いをしていたとも言われる、族滅を受けたスラブニーク家やブルシュ家が出てくるかと思っていたのだが、史料で確認できることが少ないのか取り上げられていない。
それで、中世前期に成立したとされるいくつかの貴族家の中で、貴族家としてだけでなく、名前としても名字としても聞いたことのなかったフロズナタを取り上げることにした。この家は12世紀の初めに記録に登場し13世紀前半には、本家が断絶するという短い歴史しか持たないが、その歴史はなかなかに劇的である。
フロズナタ家の歴史は、モラビアのオロモウツに置かれていたプシェミスル家の分家から出てボヘミアの侯爵の地位を手に入れたものの短命に終わったスバトプルクの治世下で起こったある事件に縛り付けられている印象である。その事件は、1107年に即位したスバトプルクが翌年に実行したブルシュ家の族滅である。このとき子供も含めて、全部で300人ものブルシュ家の男女が殺されたという。スバトプルクはブルシュ家の生き残りが放ったとされる殺し屋によって1109年に亡くなっているから因果応報というべきか。
とまれ、このブルシュ家の虐殺の実行犯の一人にヘジュマンという名前の人物がおり、この人が実質的なフロズナタ家の始祖とされる。ヘジュマンは報酬として、プラハの北方のラベ川沿いのリトムニェジツェに所領を得るのだが、贖罪の気持ちがあったのか、弟のビレームとともに中央ボヘミアのチャースラフの近くのビレーモフに修道院を設立する。以後、ヘジュマンだけでなく、その妻のプシビシラバと息子のフロズナタも、十字軍でキリスト教徒の手に一時的に戻っていたエルサレム巡礼を果たすなど、フロズナタ家はキリスト教に深く帰依することになる。
ヘジュマンが1130年以前になくなった後、後を継いだのは息子のフロズナタ@だった。ボヘミア王ブラディスラフ1世の下で、現在ではポーランド領となっているクラツコの城代を務めており、その間にポーランドの貴族たちとの関係を深めたようである。二人の息子のうち一人は、ムニェシュコとポーランド王の名前をもらっている。
後を継いだ息子のフロズナタAは、巻き毛のというあだ名で知られるが、弟とともに後継者に恵まれず、フロズナタ家は、フロズナタ@の弟セゼマの子、フロズナタBが継承することになる。このフロズナタがこの家で最も有名であると同時に、最後の当主となった人物である。セゼマのほかの子供たちを祖としていくつかの貴族家が誕生しているので、フロズナタ家の本家は断絶するが、家系は後世に続いているらしい。
さて、そのフロズナタBだが、ポーランド貴族との関係を生かしてクラコフで教育を受けている。姉がポーランドの貴族に嫁ぐのに同行したという伝説もある。しばしはテペルスキーという形容詞をつけて呼ばれる。それは、所領の一つであった西ボヘミアのテプラーに修道院を創設して、後に自らも修道師として出家したからである。テプラーの修道院は、十字軍に参加すると誓ったのに参加できなかったことに対する贖罪として1197年に建てられたと言われる。そのためにローマ教皇から許可を得るためにローマまで出向いたというから、敬虔なキリスト教徒だったのである。さらに1200年ごろにはホテショフに女子修道院まで設立している。
伝説によれば、1217年、病で死を目前にしたフロズナタは、ドイツの盗賊騎士団によって身代金目当てに誘拐され、監禁されていたホヘンブルクの城で亡くなる。遺体はテプラーの修道院に運ばれ、ホテショフの修道院で修道女として亡くなった姉のユディタとともに葬られたという。これで終わっていれば、伝説は伝説のままだったのだが、第二次世界大戦後の共産党政権によって、テプラーの修道院は廃止され、建物も接収され、軍の施設として利用された。
その際、フロズナタの遺骨などもゴミとして処分されそうになったのを、元修道士が機転を利かせて、司令官にお酒と交換してもらい、テプラーにある教会にひそかに持ち込んで保管したのだという。共産党政権も、修道院は廃止し、教会の活動にも制約をかけたが、教会そのものを廃止することはできなかった。そのおかげでフロズナタの遺骨は現在まで残っているのである。
さて、北ボヘミアから西ボヘミアにかけて大きな所領を有していたとはいえ、たかだか地方貴族でしかないフロズナタ家が、4代、百年弱の間に領内に3つも修道院を設立したのは、普通のことではあるまい。その動機のひとつに、家が興るきっかけとなったブルシュ家の虐殺があるようにも思われる。最後の当主であるフロズナタBの場合には、それに加えて、生まれたときに死産と誤解される状態から蘇生したり、ポーランドで教育を受けている間にビスワ川でおぼれたのに死ななかったりと、聖母マリアの加護があったから生き続けられていると信じていたらしい。考えてみるとフロズナタ家が断絶した後、親戚縁者が継承権を主張して家を都合としなかったようなのも過度のキリスト教への傾倒が嫌われたのかもしれない。
フロズナタBは、キリスト教への貢献を讃えられて、19世紀末に当時のローマ教皇によって列福され、2004年にはプルゼニュの司教の手で列聖への手続きが始まったという。
2020年8月16日14時30分。
2020年08月17日
久しぶりに暑い(八月十四日)
夏は暑いものと決まっているとはいえ、日本と違って夏の過ごしやすさを規準に家が建てられていない上に、クーラーも普及していないチェコでは、日本の夏であれば涼しいといわれるような気温でも暑さに苦しむことになる。本来のチェコの夏は、北海道以外の日本では夏ともいえないような涼しいものなのだが、最近は日本の東京レベルでも猛暑が続いた2015年を初めとして、夏が暑い年が続いていた。
それが、今年は、冷夏、ではなくて、昔の普通のチェコの夏で過ごしやすいどころか、日によっては肌寒さを感じるような日もあって、暑さが、否、暑さも苦手で、夏はチェコで冬は日本で過ごしたいなどと喚いていた人間にとっては、理想的な夏になっていた。暑い日があっても単発で地面や建物が熱を溜め込んでいないから、それほど暑さを感じずに済んでいた、ような気がする。雨が多かったのも、地表の温度を下げたのではないかと思う。
そんな幸せな夏も、八月に入って終わってしまった。最初の二、三日は涼しかったのだが、ここ十日ほどは連日30度を越える日が続いている。セズナムの天気のところだと29度ぐらいでとまっていることも多いのだが、olomouc.czの気温のところをみると、30度を越えていてうんざりする。うんざりしたくないから、あまり見ないようにしているほどである。それでも去年までの異常な夏に比べればはるかに過ごしやすいのだからいやになる。
日本と違ってクーラーが普及していないおかげか、夜、いや朝になると気温が下がるからまだましなのだが、午後の気温の下がり方が遅いのが辛い。少学校だったか、中学校だったかの理科の授業で、日中の気温の変化について勉強して、実際に気温を測ったような記憶もあるけど、特別な事情がない限り、午後二時ごろが一番気温が高くなるということを知った。太陽の熱が伝わる効率は、南中する時間、つまり正午ごろが一番高いけれども。熱の蓄積の関係で二時ごろのほうが気温が高くなるということだったかな。
日本でも都市部ではクーラーの廃熱の関係で、必ずしも二時ごろから気温が下がるということもなくなっているようだが、チェコでは二時ごろに気温が下がり始めるのは夕立が来たときぐらいである。日が出ている間は気温が上がり続けているんじゃないかといいたくもなるのだが、気温が一番高いのは三時か四時ごろと言うことが多いだろうか。これが意外に辛いのである。
朝は弱いので午前中の涼しい時間に運動なんてことはしたくない。だからといって夕方涼しくなるのを待っているとすぐに夕食の時間になって日が暮れていく。かくて我が運動不足は解消されることなく、体調不良とも言い切れない、すっきりしない気分が続く。考えてみれば、夏時間がなければ、一時間ずれるわけだから、夕方が同じ時間でも涼しくなるはずだ。夏時間が廃止される際には、冬時間と夏時間のどちらかに統一されることになるらしいが、できれば冬時間にしてほしいと思う。
そしてもう一つ、最近悩まされているのが、蚊の多さである。雨が多かったのもよくないのだろう。寝ている間だけでなく、あちこち食われて痒くて仕方がない。ニュースではどこかの池の多い地方で蚊が大量発生していて、サイクリング中に停止すると大変なことになるから、一定以上のスピードで走り抜けなければならないなんてことを言っていた。
今日は、久しぶりに夕立が来て、外はわりと早い時間に気温が下がって多少すごしやすくなった。屋根裏部屋のうちは、雨が降っていると窓が開けられないから痛し痒しではあるのだけど、天気予報では明日は気温が例年並み、つまりは涼しい一日になると言っているから、涼しい夏がもどってくることを、いやとっとと秋が来ることを願っておこう。
2020年8月15日14時。
昨日の雨は、オロモウツではそれほどでもなかったのだが、近くの村では大雨になって、ホップの畑に大きな被害が出たという。実はオロモウツ地方は、北ボヘミアのジャテツ周辺と並ぶ、チェコ国内のホップ産地なのである。ただし、この辺のホップがチェコのビール生産に使われているかどうかはよくわからない。ジャテツのいわゆるザーツホップはほとんど日本に輸出されているという話もあるしね。8月15日追記。
2020年08月16日
スラビア・プラハ間に合うか(八月十三日)
気がつけば八月も半ば、例年より一ヶ月遅いサッカーリーグの開幕まで、あと二週間をきったところで、ちょっとばかり衝撃的なニュースが入ってきた。オーストリアでシーズン前のキャンプを行い、練習試合もこなしていたスラビアが、キャンプを打ち切ってチェコに帰国したというのだ。その原因は言うまでもなく武漢風邪で、一人の選手が検査で陽性が確認されたらしい。
これで、スラビアはAチーム全体が、隔離状態におかれることになり、活動を停止している。隔離が解除されるのは、現在のルールに基づけば、リーグの開幕の後、スラビアの試合が予定されている日の翌日24日ということになっている。月曜日に試合をすることもあるとはいえ、この日から活動を再開できるのか、この日まで活動できないのかはよくわからないし、選手たちが自宅でできる練習には限りがある以上、即日試合というのは現実的ではなかろう。
現状ではチェスケー・ブデヨビツェで行われる試合は延期ということになりそうだが、現在の感染状況、感染者が急速に増え続ける一方で、重症化する人がほとんどいない状況で、今回のスラビアの場合のように、感染者が出た時点でチーム全体を二週間も隔離すると、リーグ戦がまともに開催できなくなる可能性も高い。それで、スポーツとは直接関係のないところだけれども、すでにヨーロッパの国の中には、入国の際に求められる隔離期間を二週間から十日間に短縮するところも出てきているから、隔離期間を短縮することも可能じゃないかという意見も出てきている。
隔離する、しないに関しては、結構政治的な判断が働いていて、EU内で国境の開放が進んだ後、初めてチェコからの観光客に対して検査陰性か、隔離を導入しようとしたスロベニアも、政治的な交渉で基準を緩めていたし、最近もギリシャの保健所がチェコからの観光客に規制をかけようとしたのを、バビシュ首相がギリシャの首相と直接交渉して、撤回させたなんてことがあった。これも、現在の武漢風邪が重症化しにくいという認識の下に行われていることだろう。日本みたいに感染者をゼロにしろと大騒ぎする人たちは、まともに相手にされていないしさ。
それはともかく、現状のシステムではリーグがまともに開催できないのは、サッカーだけではない。ということで、チェコのスポーツ紙では、ある疫学者の意見を紹介している。それによれば、清潔な生活をしていれば、仮にウィルスと接触しても体内に入る量が少ないため、軽症、もしくは無症状で終わる可能性が高いことが判明しつつあるのだから、一人でも陽性の選手がいたら、チーム全体が隔離されるというのは無駄で、陽性判定がでた選手だけ隔離して、他の選手はそのまま活動を続けるという、イングランドでも導入されている制度の方がいいだろうという。
また隔離期間が二週間で、その終わりに確認のための検査をすることについても長すぎると主張し、これまでわかっている感染症の特徴からいえば、隔離は五日で十分だと言っている。隔離五日目で陰性だった人が、十四日目で要請になる可能性は限りなく低いのだとか。最初に安全を重視して長めに期間を取っておいて、そこから、五日というのが十分なのかどうかはともかく、状況に応じて短縮していくのはやり方としては正しいと思う。
この人の提言が、すぐに政府に取り入れられて制度が変わるとは思えないが、試合を開催して観客をいれ放映料を獲得しないと、リーグだけでなくそれぞれのチームの経営も破綻してしまう。チェコでは恵まれているサッカーやアイスホッケーでもそうなのだから、マイナースポーツでは倒産するチームが続出しかねない。下部リーグで活動するアマチュアチームならまだいいのだ。必要とする資金の規模が小さいから自治体が公費で支援することで活動を継続できるのだから。
この武漢風邪陽性者が出た場合にどうするかという問題は、国内リーグだけではなく、チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグの出場にもかかわってくる。現状では国によって隔離などの対応が違うはずだが、出場できないチームは、没収試合扱いで自動的に負けたことになるというルールは、どこの国のチームであるかにかかわらず一律で適用されるはずである。UEFA管轄下で行われる試合が、すべて無観客で行われるというのも、個々の国における対策には左右されない。
個人的には、キャンプに入る前の休暇の期間に、選手たちが全員感染してしまえばよかったのにと思う。各地の老人ホームや病院などで集団感染が発生してなお、重症化する患者はきわめてまれで、入院が必要な患者も、亡くなる人も、ほとんど増えないという現状では、健康な人が感染することが予防接種の代用になるという、以前橋下氏が主張していたことを検討してもいいと思うのだけど。
それはともかく、スラビアの試合が予定通りに行なわれるかどうかが、スポーツの種類を問わず、今年のリーグ戦が最後まで行われるかどうかの、ある意味での試金石になりそうだ。
2020年8月14日11時30分。
2020年08月15日
有難う、アメリカ!(八月十二日)
アメリカの国務長官のマイク・ポンペオ氏がチェコを訪問している。この人の名前、チェコ語では当然格変化されるのだが、2格は「Mikea Pompea」になる。名字は英語もローマ字読みに近いようなので「ポンペア」と読めばいいのだろうが、名前の読み方に悩む。チェコ語風の読み方の「ミケア」にはならないだろうから、「マイカ」かな。名前の1格の読み方が「ミケ」だったら、2格は「Mikea」ではなく、「Mikeho」になるような気もするし。
そのポンペオ氏が武漢風邪の流行は収束しないものの、当初のお祭り騒ぎが終わって最初の欧州訪問でチェコに来ることを選んだのは、NATO加盟国の中で、アメリカが求めるのに近いレベルで予算を軍事費、もしくは国防費に費やしている数少ない国だからとか、中国に対して警戒を強めるトランプ政権が、ヨーロッパで中国の拠点の一つになりつつあるチェコの、中国派の大統領を初めとする政治家に警告を与えるためだとか、あれこれ理由を考えたりもしたのだが、もともとチェコに来る予定だったのが、武漢風邪で延期されただけだったかもしれない。
ということで、ポンペオ氏がチェコで最初に向かったのはプルゼニュである。第二次世界大戦末期に西からドイツ軍を掃討しながらチェコ国内まで侵攻してきたアメリカ軍が最後に開放した都市プルゼニュで行われる戦勝記念式典に出席したのである。本来は5月に、戦後75年ということで例年より盛大に行われる予定だった式典は、延期を余儀なくされ、規模も縮小されることになったが、アメリカから賓客を迎えることができた。
式典が行われたのは、プルゼニュのアメリカ通りの一番端のちょっと広くなって広場のようになっているところに設置された、アメリカ軍によるプルゼニュ解放記念碑の前である。この記念碑の名称が、正式かどうかはしらんけど、「Díky, Ameriko!」というもので、最初に聞いたときには、あまりの直接的な命名に耳を疑ってしまった。共産党政権下では公式にはアメリカ軍による解放はなかったことにされていたというから、その抑圧が爆発しての命名ということだろうか。いつ作られたものかは知らないけど。
その儀式の翌日にポンペオ氏はプラハに移動して、大統領や首相などと会談を行ったらしい。チェコテレビではその移動の様子を中継して、これからチェコの政治家たちとどんな話をするのかなんて番組をやっていたのだが、解説者として呼ばれたのが元外務大臣のツィリル・スボボダ氏。かつてキリスト教民主同盟の党首も務めたこの政治家は忘れられた存在になったものと思っていたのだが、チェコテレビに売り込んだのかね。
1990年代の政治的風潮がまだ幅を利かせていた、別な言い方をするとクライアント主義が全盛期だった2000年代の初めに外務大臣を務めていたのだが、言葉はきれいなものの、考え方は典型的な旧来の政治家で政治家の特権意識を持つ人だった。政治家なんて選挙に落ちたらただの人にもどるのが正しい民主主義のあり方のはずなのに、外務大臣をやめて議席を失ってからも、特別待遇を求めるような発言を繰り返していた。ただし、この人が特別なのではなく、当時の政治家は皆、今も既存の政党の政治家の多くは同じような意識を持っている。
外務大臣を務めた自分を外務省の顧問として雇わないのは、国にとって損失だとかこいていたのかな。当時は二大政党で、同時に汚職に関しても二大政党だった市民民主党、社会民主党以外ということで少しはましかと思っていたのだけど、結局は同じ穴の狢だったわけだ。バビシュ氏とANOがあれだけの批判にさらされながらも、一定の支持率を保っているのは、一部は今でも現役のあのころの政治家たちよりはましというイメージが定着しているからで、スボボダ氏もそのあのころの政治家の典型の一人なのである。
実際に、ポンペオ氏とチェコの政治家たちの間でどんなことが話されたのかについては、あまり興味はない。それよりもアメリカの国務長官がこの時期チェコを訪れたという事実のほうがはるかに重要である。外交官の追放でロシアとちょっともめているだけでなく、ベラルーシでも大統領選挙後の暴動にかんしてチェコが裏から煽っているとルカシェンコ大統領に批判されるなど東側からちょっと不穏な空気が漂ってきているところだしさ。
2020年8月13日14時。
2020年08月14日
ツィムルマンの夏4(八月十一日)
9.Hospoda na mýtince
題名の「mýtinka」は、恐らく「mýtina」の指小形で、森の中を切り開いた土地を指すと考えておこう。森の中のホスポダ、つまりは飲み屋ということになる。ホスポダ文化の国の生んだ天才ツィムルマンもまたホスポダにこだわるのである。
研究発表の部分でテーマになるのは、ツィムルマンがはじめて書いたとされる「zpěvohra」というから、直訳すると歌劇、オペラなのかオペレッタなのかわからないけれども、「Proso」という作品についてである。この7時間にも及ぶという作品は、ウィーンの歌劇場が開設記念に募集したコンテストに応募したもので、ちょっとけちなところのあったツィムルマンが書留で送らなかったために、審査員達によってなかったことにされたらしい。審査員達が決定稿である郵送された楽譜を私物化して自作に取り入れたと言うのだけどね。
結果として、残された未定稿から復元されたのが、「Hospoda na mýtince」らしい。しかし、本来の題名の「Proso」は「黍」を意味する名詞である。それがどうして、森の中の飲み屋の話になってしまうのだろう。まあツィムルマンだから、何が出てきても不思議はない。
初演は正常化が始まったばかりの1969年。こんなのを通した共産党政権の検閲制度を懐が深いと評するべきか、内容が理解できなかったのだろうと評するべきか。後者だとすれば、いまいち笑えない身としては親近感を持ってしまう。
10. Afrika
チェコのアフリカ探検家というとエミル・ホルプの名前が上がるのだが、実はツィムルマンもアフリカの地を踏んだことがあるらしい。多分そのときの経験を基に書かれたのが戯曲「アフリカ、もしくは食人部族の中のチェコ人」である。
内容は、簡単にまとめると、四人のチェコ人からなるアフリカ探検隊が、人肉食の風習を持つ部族と出会って、チェコ語やキリスト教を教え、部族の長をプラハに連れ帰るまでのどたばた劇というところ。この部族のキリスト教化の中で、11番目の戒律、「汝の隣人を食してはならない」というのが生まれたのだとか。
隊員の名前もチェコ人には笑えるのだろうけど、こちらが笑えたのは二人だけ、一人は宣教師のツィリル・メトデイと冒険のスポンサーでもある男爵のルドビク・フォン・ウーバリ・ウ・プラヒ。前者は、大モラバにキリスト教をもたらした兄弟の名前をつなげたもの。肩書きも「ブラトル」で兄か弟を表す言葉が使われている。カトリックで神父を「オテツ(父)」と呼ぶのにもあてつけているのかな。後者は、途中までは完全にドイツ語の名前なのに、名字の地の地名が典型的なチェコ語というのがおかしいのだと思う。
それから、エミル・ホルプを思わせるのかなとも思わなくはないエミル・ジャーバ。ホルプが鳩なら、ジャーバは蛙である。最後の一人はボフスラフ・プフマイェル。名字の響きが可笑しいような気もするけどチェコ人がどう感じるのかはわからない。
この劇は2004年に初演されたもので、インターネットの時代になっていたことを反映して、最初の研究発表の部分では、インターネットの発明者が、実はツィムルマンだったことが明らかにされる。どうしてそうなるなんて疑問の答えは、ツィムルマンだからである。
11. Švestka
題名のシュベストカは、スリボビツェの原料になる果物である。スリーフカとかトルンカとか似たような果物を指す言葉はいくつもあって、同じものなのか微妙に違うのかよくわからない。日本の梅もこの果物の仲間として扱われるので、日本から梅の木が贈られて植樹なんてニュースがあると、シュベストカかスリボニュが木の名前として使われることが多い。
今回の放送ではじめてみたのだけど、衝撃の事実を知ってしまった。ツィムルマンは日本に行ったことがあるというのである。日本ではナイフとフォークの使い方を教えるという仕事をしていたようで、東京のレストランで箸で食べるのと、ナイフとフォークで食べるのを比較する実演をして見せ、ナイフとフォークで食べる際には、箸で食べるのと違ってタイプライターを打つだけの余裕があるなんて余興もあったという。あれ、そもそもツィムルマンは箸が使えたのか? ツィムルマンの生きた時代なら、日本でも洋食にはナイフとフォークを使っていたような気もする。
演劇のほうは、年を取ったことによって作品のレベルが下がったというのがテーマの一つになっているようで、そのできの悪さもまた笑いを呼ぶようだ。天才も年齢という敵には勝てなかったのであるって、ツィムルマンの映画によればツィムルマンがリプターコフを離れたときには、そんなに年寄りじゃなかったんだけどなあ。その後も生き続けて記念館のお婆さんがツィムルマン本人だとすると、最晩年は共産党政権下で創作活動をしていたということにならないか?
2020年8月12日14時。
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2020年08月13日
永延二年九月の実資(八月十日)
この月は三日の出来事からである。『小右記』の記事は残っていないが、『小右記目録』に九月二日の項に、斎宮群行のために御燈の儀式が行われないことが記されている。御燈は三月三日と九月九日に行われた儀式である。『日本紀略』には御燈の停止に加えて、この日が廃務になったことも書かれている。
六日には『日本紀略』によれば、熒惑星が、「大微右上将星を犯す」という天文現象が観測されている。熒惑星は火星のことで、この星が関係する天文現象は大抵、兵乱ことにかかわる。大微右上将星は詳細不明。大微は大微宮のこととも考えられるがよくわからない。
十五日は『日本紀略』の記事があって、斎宮群行を前に斎宮寮の官人を任命する除目が、摂政兼家宿所で行われたことが記されている。
同じく十五日に陸奥守藤原国用に対して貢進された御馬を使って交易させるという官符が出されている。これは、平安末期に一時権力を握った藤原通憲が編纂を始めて未完に終わった歴史書『本朝世紀』の正暦元年八月五日条に陸奥守藤原国用が亡くなったという記事に付け加える形で記されたものである。
十六日は、摂政藤原兼家が、新築した二条京極の邸宅で饗宴を行なったことが『日本紀略』に見える。左大臣源雅信、右大臣藤原為光をはじめとする公卿たちがたくさん集まり、「池頭釣台」で酒を飲んだようだ。「釣台」というのは寝殿造りの図にしばしば登場する釣殿であろうか。
饗宴に際しては鬼退治の伝説で知られる源頼光が馬を卅頭献上しているが、このときは東宮大進を務めていた。宴の内容は、詩句や歌舞音曲の類に加えて、遊女までも呼び集められるという「希代事」と称されるようなものだった。「絹卅匹、米六十石」というのが遊女達に与えられた報酬だろうか。
翌十七日は、摂政兼家以下の公卿たちが大井川に出かけている。『小右記』には「俄に」と書かれているので、事前に計画していたのではなく、前日の宴会の席でそんな話になったものだろうか。同行したとして名前が上がっているのは、道隆、道兼など兼家の縁者が多い。川辺で和歌を作ったというのだが、実資は「事極めて軽忽たり、上下目を側む」と強く批判している。
実資自身のことについては、この日は物忌で閉門したようだが、「覆推」させた結果、開門している。
次の記事はこの月、最も重要な行事である斎宮群行の出発の儀式である。伊勢斎宮に選ばれた恭子女王は、数え年で五歳ということで、本人がすべての儀式をこなせたとも思えないが、乳母が補助役として支えたようである。
実資が早朝参内して、摂政兼家の直廬に参上して以後、天皇が紫宸殿に出御し、大極殿での儀式を経て、内裏に戻るまでの様子を、実資は細かく記録する。その記録を読んで、全部理解できるかと言われると、それは無理な相談だというしかないのだけど、平安京の大内裏を再建して、この記述のとおりに儀式を再現してみてくれないかなあ。
この日の斎宮群行については、『日本紀略』にも、例によって簡潔な記事が載せられている。
この月最後の記録は、廿八日のもので、『僧綱補任』に天台僧の安真が、崇福寺造営の功で権律師に任じられたことが見える。崇福寺は、近江宮に遷都した天智天皇が創建した寺で、天皇の行幸などもあり栄えたが、平安時代に繰り返し火災や地震の被害にあったために衰退したとされる。
2020年8月11日13時。
2020年08月12日
ボフミーンの悲劇(八月九日)
鉄道でプラハからオロモウツを経てオストラバに向かう幹線が、ポーランドにつながる国境の位置にあるのがボフミーンである。高速道路も、まだ完全にはつながっていないが、プラハ、ブルノ、オストラバを結ぶD1が、ボフミーンで国境を越える。確か、2012年にポーランドで行われたサッカーのヨーロッパ選手権に向けて、チェコ側とポーランド側で急いで工事を進めて連絡させる予定だったのが、チェコ側は完成したものの、ポーランド側が中国企業に受注させた結果、間に合わないという醜態をさらしていた。今ではポーランド側も高速道路が完成しており、残るはチェコ国内のプシェロフ付近だけという事になっている。
それはともかく、その国境の町ボフミーンで火事が起こったというニュースが最初に流れたのは土曜日の夜のことだった。火事が起こって一時間ほどしかたっていない時点だったので、情報は錯綜しており、確実なこととして報道されたのは、ボフミーンの12階建のマンションの11階で火事が起こって、犠牲者が出ているということぐらいだった。犠牲者の数に関しては、10人という説もあると紹介していたが、映像を見る限り建物が倒壊するような火事ではなく、一部屋、二部屋を焼いただけのように見えた。
今日になって火事の詳細がある程度判明し、犠牲者は全部で11人、そのうち6人は火事の起こった部屋で焼死し、残りの5人は火に襲われてパニックになってベランダから飛び降りた結果亡くなったということらしい。消防署は通報後5分以内に現場に到着し、はしご車や飛び降りさせるためのマットの準備を進めていたが間に合わなかったとも言う。
この件に関して、現場で様子を見ていた野次馬の一人が、消防隊員が現場についてから15分、20分ほど何もしていなかったとか、飛び降りのためのマットを実際に飛び降りてから引っ張り出したとか批判していたけど、こういう状況では時間が経つのが長く感じられるから、野次馬のいうことがどこまで信じられるか疑問である。それよりは、消防署の記者会見での、飛び降り用のマットは、10階以上という高さからの飛び降りは想定していないので、準備が間に合ったところで救えたかどうかは疑問だという発言のほうが信憑性が高い。一つにはマットめがけて飛び降りられるかという問題があり、もう一つはマットで衝撃を受け止めきれるかという問題があるという。
おそらく、一番の問題は火災を起こしたマンションの建築方法にある。これはパネラークと呼ばれる、共産党政権下でできるだけ早く大量に集合住宅を建設するために発明された建築技術で、日本語ができるチェコ人の中にはプレハブ式高層建築と呼ぶ人もいる。いずれにしても、日本では耐震性のなさから建築が許可されないような代物で、5階建てぐらいでやめておけばいいのに、チェコ各地に10階建てを越える背の高いパネラークが林立しているのである。
当時のこととて、安全対策などろくになされているわけがない。ベランダに緊急避難用のハシゴでも設置してあれば、一つ下の階に逃げられたのだろうけど、火に焼かれる恐怖に飛び降りることを選択するしかなかったということか。現場でははしご車も活動していたようだが、11階というのは、その能力を超えた高さで、救助の役には立たなかったようだ。消火と救助の活動で消防隊員にも怪我で病院に運ばれた人が何人かいるというし、消防署はできるだけのことはしたと理解していい。
今回の火事は、失火ではなく、放火だったようで、容疑者がすでに警察によって拘束され、犯行を認めているという。家族内の対立が激化した結果の犯行で、何かのお祝いに集まったのを利用して火を放ったようだ。犠牲者の中には子供も3人いたというから、すくわれない。
ボフミーンを含むカルビナー・オクレスでは武漢風邪の巨大集団感染もあったし、最近明るい話題がないよなあ。ここはハンドボールのカルビナーチームに頑張ってもらうしかない。その前に、ちゃんとリーグが開幕することが一番の明るいニュースになりそうだ。そして最後まで開催されてカルビナーが優勝となれば最高なのだけど。フリーデク・ミーステクも含めて武漢風邪にやられた町のチームの活躍を願っておこう。
2020年8月10日18時。
犯人は、妻と息子たちのお祝いの場にガソリンをまいて火をつけたらしい。隣の部屋のベランダにかなり無理をして逃げた人が4人、怪我で入院はしているものの命は助かったという。消防署の動きを批判していた野次馬の女性は自分の間違いを認めて謝罪していたが、信憑性にかける野次馬の発言を報道するのも問題だと思う。日本のマスコミお得意の目撃者のでっち上げはしないから、そこはまだましなんだけどね。
8月11日追記。