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2020年07月21日

武漢風邪対策大混乱(七月十八日)



 チェコの武漢風邪対策は、感染がチェコ国内に入って流行が拡大し厳しい封じ込めたい策をとっていた時期には、厚生省の疫学の専門家であるプリムラ氏を中心とする対策委員会が主導していた。その後流行の拡大を押さえ込むことに成功し、経済への影響を考えながら規制を緩和するという段になると、政治家が主導権を握るようになっていた。

 そして、規制緩和が進んだ結果、局地的な集団感染が散発するようになってからは、国全体での規制の強化は行われず、流行が発生している地方単位、場合によってはさらに小さい地域単位で規制の再強化が行われてきた。OKDの炭鉱で巨大な集団感染が発生しているカルビナーや、小さな集団感染があちこちで起こっていたプラハなどでは、国全体でマスクの着用などの規制がほぼ完全に解除された後も、規制が残っていた。
 皮肉にも感染症対策の初期にナノテクノロジーを使ったマスクや防護服を生産して医療現場を支えていた工場で集団感染が発生したフリーデク・ミーステクや、近くの村の工場で集団感染が発生したクトナー・ホラなどでは4一度解除された規制が、保健所の判断で再度導入されていた。その再規制に関しては、保健所と地方政府の話し合いで決められるものだと思っていたし、規制を強化する場合には、これまでも国全体の規制でそうだったように、猶予期間を設けて発表日の夜中からとか、翌日の深夜からという形になるものだと思っていた。国の決定も当初は即日のものがあって対応できないとあちこちから批判をあびた挙句に猶予期間を設けるようになっていたわけだから。

 それが勘違いでしかないことを知らされたのは、昨日の昼前のことだった。カルビナーやフリーデク・ミーステクなどが含まれるモラビアシレジア地方の保健所が、突如として地方全体の規制の再強化を発表したのだ。しかも、猶予期間なしで発表と同時に有効になる規制としてである。最初に厚生大臣がツイッターかなんかで発表したあと、地方の保健所の疫病対策の責任者が記者会見で発表すると同時に有効にされたのだったかな。
 内容は公共交通機関やお店などの自宅以外の室内でのマスク着用の再度の義務化と、病院や老人ホームにお見舞いに行く場合には普通のマスクではなく医療用の高性能のマスクが必要になるというもの、イベントの参加人数の上限を100人にするというものである。それから外国から通勤している人に対して、二週間に一度検査を受けることを義務付けて陰性である証明を提出することを求めている。これはポーランドからの通勤者を対象としたものである。

 問題は、この規制の再強化に関して、地方政府も各市町村も事前に相談も連絡も受けていなかったことで寝耳に水の決定だったようだ。前日まではカルビナーの炭鉱を中心とする集団感染も下火に向かっていて特に警戒する必要はないとか、集団感染が発生しているだけで無軌道に広まっているわけではないから対策を強化する必要はないというのが公式見解だったのに、突如感染が高齢者などの重症化の危険性が高い人たちの間にも広まりつつあると言い出したから驚きだった。
 厚生大臣は、感染の現状を分析した結果、規制が必要だという考え方には賛成の意を表したが、その規制の決定のあり方を批判していた。事前に地方政府側との交渉もなく、規制強化に猶予期間をおかないというのはやってはいけないことだというのだが、事前に連絡を受けていたはずなのだから、厚生省側からの指導で、せめて猶予期間をおくことはできなかったのだろうかと言いたくなる。

 当初は、規制にかかわることはすべて首相である自分の責任だと、らしくなくもかっこいいことを言っていたバビシュ首相も最近は、専門家たちが決めていることで自分の決定ではないと責任逃れの発言をすることが増えているように、チェコの武漢風邪対策ちぐはぐなものになりつつある。もともと制度の変更とか、現場の迷惑を考えずに猶予期間をおかずに実施することの多かったチェコの政治家、官僚のことなので、何度外国人警察の人とお互い口をこぼしあったことか、昔に戻ったと考えれば納得なのだけどね。
 オストラバで毎年行われている音楽フェスティバルが中止になって、代替イベントとして1000人に人数を制限して行われていたイベントは、開催期間中に、しかもその日のプログラムの途中で中止という最悪の終わり方を強制されていた。この件に関しては主催者だけではなく、参加者からも大きな批判の声が聞こえてきていた。

 この状況に、これでこそチェコだよなあと嬉しくなってしまうのは、昔の20年ぐらい前のチェコを知る人間としては当然のことである。この武漢風邪騒ぎもいい加減終わってくれよとは思うけどさ。
2020年7月19日11時。








https://onemocneni-aktualne.mzcr.cz/covid-19
https://www.krajpomaha.cz/







posted by olomoučan at 06:35| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2020年07月20日

サッカーリーグの行方(七月十七日)



 チェコで最大の武漢風邪流行地となっているカルビナーの状況は、一時期に比べると新規の患者の数も減って落ち着きつつある。感染者が確認されてチーム全体が隔離状態、より正確には外出禁止状態に置かれていたカルビナーのサッカーチームの検査も、水曜日に行われ木曜日に関係者全員が陰性であることが確認された。
 これで、リーグ戦追加残留争いの部の残り二試合と、二部のチームとの入れ替え戦が予定通り行われることになるかと思ったら、そんなことはなかった。今日行われた一部と二部の計16チームが参加するプロリーグ協会(仮訳)の総会で最終決定がなされ、入れ替え戦が中止されることが決まった。入れ替え戦を行った場合、一部の14位と15位のチームは、10日の間に4試合というスケジュールを強いられることになり、リーグ戦終了後二週間の準備期間を経て入れ替え戦に望む二部のチームに対して不利になりすぎるという意見に配慮した結果である。

 同時に二部のチームの優勝チームだけしか昇格できないことに対する不満に配慮して、来シーズンは一部は18チームで行い、去年から始まったリーグ戦終了後の優勝などを決めるための追加リーグは中止されることが決まった。二部は2チーム減って14チームで行われることになる。個々まで聞いた時点では、一部からの降格チームはなしで、二部から2チーム昇格するという、以前ヤブロネツのラダ監督が提唱していたモデルになるものと思っていたのだが、ちょっと違った。
 残留争いリーグが残り2節を開催することができて最終的な結果が確定した場合には、一部の最下位のチームが降格し、二部からは上位3チームが昇格し、何らかの事情で最終的な結果が確定しない場合には、一部からのこう降格はなしで、二部からは上位2チームが昇格することになっている。ということは、二部優勝のパルドルビツェと2位に入ったブルノの昇格は決定というわけである。問題は3位のドゥクラで、現時点では、約一ヵ月後に始まる来シーズン、どちらのリーグでプレーするのか未定ということになっている。

 残留争いリーグの公平性についても疑義が呈されている。すでに残留を確定させたオロモウツ、テプリツェ、ズリーンの3チームは、カルビナーの武漢風邪での中断期間は選手たちに休暇を与えていたという。最下位だけは逃れたい3チームのうち、オパバとプシーブラムは、練習を継続していて中断期間を残り2節のための調整と準備に当てることができたのに対して、カルビナーはチーム全体での練習はもちろん、個別の練習もできない状態だったので個々の選手のコンディションも、チーム全体のコンディションも落ちている可能性が高い。
 現在の勝ち点ではカルビナーが、オパバとプシーブラムに2点の差をつけていて有利だが、日程的には最終節でカルビナーとプシーブラムの直接対決があることを考えると、残り二試合とも勝つ必要のないチームと対戦するオパバが有利だとも言える。モラビアの人間としては、ボヘミアのチームよりはシレジアのチームに残ってほしいと思うので、プシーブラムの最下位を希望するのだけど、今年のリーグの状況で降格チームが出るというのが正しいのか疑問である。

 ヤブロネツのラダ監督は、一部からの降格をなしにして、二部の2位と3位で昇格のためのプレーオフをやって、2チーム昇格ということにするのが一番いいと語っていたけれども、その通りである。これが不満に思うチームや選手が一番少なくなる方法だと思うのだけど、リーグ協会としては降格チームを出したいようだ。

 ちなみに来シーズンは、一部から下位3チームが降格して、二部からは優勝チームだけが昇格することになっている。それで来々シーズンはまた通常の16チームに戻して、優勝決定などの追加リーグも開催する予定なのだろう。二部のチームの中には来シーズンの昇格チームが一つになることを嫌って、反対票を投じたチームもあったようだ。オロモウツも反対票を投じたようだが、最終的には、30チーム中、27チームという大多数の賛成で入れ替え戦の中止と、上に書いたような降格、昇格の条件が決定された。

 来年のことを言うと鬼が笑うけれども、来シーズンは今シーズンとは違って、中国に迷惑をかけられることがないように祈っておこう。それにしても最近の中国は世界の迷惑でしかないよなあ。安価な労働力と巨大な市場を目当てに、ちやほやした日本やEUを初めとした世界各国の罪も大きいんだろうけどさ。
2020年7月17日24時。












2020年07月19日

鉄道事故対策(七月十六日)



 頻発する鉄道事故に対して運輸省は、特別対策委員会みたいなものを設置して話し合いを始めるようだが、現時点では特に具体的な対策は出ていない。運輸大臣のハブリーチェク氏は、短期的な対策よりも長期的な対策に力を入れると称して、今年は危険な状態で放置され続けている踏切の安全対策に予算をつぎ込むと言っている。武漢風邪の影響で補正予算の赤字額が過去最大というよりは空前絶後の額に上っているので、事故が連発しているからと言って、多額の予算が必要になる路線の予定外の安全対策にはなかなか踏み切れないのだろう。
 それにチェコの踏切が危険な状態にあるというのは、確かな事実である。遮断機のある踏み切りもなくはないけれども、遮断機がなく電車が近づくと点滅を始める信号があるだけというところの方が多い。そんな危険な踏切に遮断機をつけ、ストゥデーンカのペンドリーノの事故が起こった踏切など遮断機があっても事故の頻発する特に危険な場所は、立体交差にして踏み切り自体をなくしてしまう計画のようである。

 一部の専門家の意見では、安全上の観点から言えば、プラハ―オストラバ間などのの電車が最高時速160kmで走っているような路線に踏切が残っていることが間違いだという。新幹線方式、もしくは高速道路方式で専用の路線を仕立てて道路と交差するところは全て高架にすればよかったのだろうけれども、予算の問題もあるしなあ。ストゥデーンカの踏切を立体交差にという話は、事故直後からあったのに予算の問題もあって、十年以上の時間が経過しても実現していないのである。
 個人的には、この踏切の安全の問題は、設備ではなく、チェコの人々の意識の問題だと考えている。踏切に進入する際に一時停止が義務づけられているところも多いのだが、それを無視する人も多いし、遮断機が降りているのに進入したり、電車が見えているのに停車しなかったりと、踏切をスリル万点のアトラクションと考えているのではないかと言いたくなる。踏切ではなくても本来進入禁止のはずの線路上を近道として常用している人も多いようだし、今のままでは設備上の安全対策が進んでも事故は減らないんじゃないだろうか。

 今回の事故の連続に直接の対策をとろうとしない運輸省と違って、労働省が機関士の過酷な労働環境が人為的なミスが頻発している原因ではないかと見て、調査に乗り出した。職を失うことを恐れる機関士の多くがカメラの前で話すことは拒否しているようだが、もれ聞こえてくる話によれば、早朝から翌日の午後まで、一応夜間の睡眠時間が数時間取られているとはいえ、ほぼ二日間ぶっ通しの勤務があったり、同一区間を何度も往復する場合に、始発と終着の駅でろくに休憩時間も取れないまま朝から晩までひたすら運転させられる勤務があったりするらしい。
 それから、チェコ鉄道だけではなく私鉄が運行を始めた結果、複数の鉄道会社で勤務する機関士も問題になっている。一つの会社では勤務時間に上限があるため、もう一つの会社で働くことで収入を増やそうとしているらしい。その結果、ここの機関士の実際の勤務時間が把握できなくなっているので実態を調査しようというのである。この複数の会社での勤務の原因のひとつとして、私鉄の参入で機関士の人手不足が起こっているという話もある。

 これを動かない運輸省に対して、積極的に対策をとる労働省と評価してはいけない。この手の調査は前回事故が連発したときにも、実施すると言われていたのだが、実際に行われたのか、行われなかったのか、結果についてはニュースにならず、今回同じような人為的なミスによる事故が再度連発しているのである。
 機関士の超過労働に対する対策として、カミオンのドライバーに義務付けられているようなデジタル式の運転時間を記録する装置などで個々の機関士の勤務時間を管理することも考えられているようだけど、カミオンでもしばしば悪質な業者が記録の書き換えをしたり、まともに記録しなかったりしたということで摘発されているから、どこまで効果があるのか。
2020年7月17日16時。







プラハ発 チェコ鉄道旅行











タグ:事故

2020年07月18日

チェコ鉄道事故連発(七月十五日)



 飛行機の事故は、1件起こると続けて何件か発生することが多いとよく言われるが、チェコの場合には鉄道事故も連続する傾向にある。以前も鉄道事故が連発していることを書いた記憶があるので、確認したら、去年の三月初めのことだった。あれから1年半ほどのときを経て、再びチェコの鉄道に受難のときがやってきた。
 最初にニュースになったのは7月7に西ボヘミアで起こった事故だった。カルロビ・バリとドイツとの国境の駅ポトゥーチキを結ぶローカル線のペルニンク駅近くの山間部で、普通列車同士が正面衝突し死者2名、負傷者24名という被害を出した。山間部の道路から離れた場所での事故だったために、救急隊員はペルニンクの駅に救急車を止めて線路上を走って現場に駆けつける必要があったという。救急ヘリコプターも現場から離れた場所にしか降りられなかったようだ。

 事故の原因は、片方の列車の機関士が、ペルニンクの駅で反対方向に向かう列車を待った上で出発しなければならなかったところを、待たずに出発したことだと見られている。このローカル線は単線で、一部の駅の構内でしか対向する列車とすれ違うことができないようになっている。この駅がどうだったのかは知らないが、ローカル線の駅は無人であることが多く、駅員がいても切符の販売係で出発の指示をする人がいないので、機関士が勘違いをしていた場合には、それを指摘できる人がいない。安全対策がほとんどとられていないのが、一番大元の事故の原因だということになる。
 運輸省ではローカル線の安全対策に関して、一部の専門家が提案している機械を導入しての暫定的な解決法は取らず、EU規格の安全技術を導入する長期的な計画を立てているようだ。ただそれが実現するまでには、最低でも数年はかかるとされており、それまでの間、どのようにしてローカル線で人間のミスによる事故を防ぐかというのが課題になっている。

 人為的な原因で事故が起こるのは安全対策が不十分なローカル線だけではない。プラハからパルドルビツェ、オロモウツを経てオストラバに向かうペンドリーノの走る路線は、チェコの中では最も安全対策の進んだところである。特にプラハからコリーンまではブルノ行きの二つのルートでも利用されるために走る列車の数も多いのだが、ここでも機関士のミスで死亡事故が起こった。
 ペルニンクでの事故からちょうど一週間後の7月14日、プラハとコリーンの間にあるチェスキー・ブロトで、普通列車が停車中だった郵便用の貨物列車に追突し、普通列車の機関士が亡くなり、35人の人が怪我を負ったという。原因は機関士が赤信号を無視して走行を続けたことだというが、一説によると、一旦停車した後、再度走行を再開したのが事故につながったとも言われている。
 安全対策が進んでいる電化区間でも、赤信号のときには、電車が自動でストップするような対策はとられていないということなのだろう。人為的なミスは完全にゼロにするのは難しいものだが、チェコの鉄道管理局では、機関士に対してすべての駅で出発の際に運行管理室に連絡を取ることを義務づけることで、赤信号や進行禁止の状態での発車を防ごうとしているようである。

 7月に入っての死亡事故は以上の2件だけだが、ほかにも小さな事故が頻発している。最初は4日の事故で、プシェロフとオストラバを結ぶ路線のプシェロフの近くで、レオエクスプレスの電車が問題を起こしてこの区間の電車の運行が数時間停止した。この件は電車が起こした事故というよりは、鉄道の架線の状態が問題だったようだけど、垂れ下がった架線に電車がぶつかったのかな、チェコ語で読んでもよくわからない。架線の状態に問題があるという理由で一度停車し、運転再開の許可が出たので走行を再開したら事故が起こったということのようだ。
 2件目はペルニンクの事故で、3件目は7月10日に、プラハ―コリーン間で起こっている。この事故は、人身事故を起こして停車していたペンドリーノの乗客を運ぶために現地に向かっていた列車が、となりの線路で停車していた急行の車両に接触し脱線したというものである。幸いに怪我人などは出なかったようだ。気になるのはペンドリーノの起した人身事故だが、跳ねられた歩行者は亡くなったらしい。

 4件目は、プラハからベロウンに向かう路線で、12日に起こった事故ともいえないもので、プルゼニュ行きの急行が路線が空いているという表示で進入したら、そこにはすでに普通列車が停車していたというもの。機関士が気づいてブレーキをかけたのが間に合って衝突には至らなかった。これは、機関士ではなく路線の管理をしている人のミスであろう。
 5件目は上記のチェスキー・ブロトの事故。3件目もそうだが、チェコの鉄道網で一番重要な部分での事故だったために、多くの列車に遅れが発生し、特急など一部の列車は、ニンブルク周りの迂回路を使って運行していたようだ。当然遅れも分単位ではなく時間単位になる。
 そして、今夜、パルドルビツェ地方のフルディムの近くで、ローカル線の普通列車が脱線するという事故が起こった。原因は現時点ではわかっていないが、幸いなことに犠牲者はいないと言う。けが人も出ていないのかな。乗客は二人だけだったようで、救急車や警察が来るのを待たずに現場から歩いて自宅に帰ったとかニュースで言っていた。警察では情報提供のために連絡するように呼びかけているらしい。

 さて、この事故の連鎖いつまで続くのだろうか。最近は武漢風邪の影響もあってバスもトラムも鉄道も、公共交通機関は全く利用していないのだけど、この状態が続くと利用しようという気にもなれなくなってしまう。
2020年7月15日14時30分。










タグ:事故 鉄道

2020年07月17日

ミロシュ・ヤケシュ(七月十四日)



 1989年にいわゆるビロード革命が始まったときにチェコスロバキア共産党の第一書記として指導者の立場にあったミロシュ・ヤケシュが亡くなった。68年のプラハの春がワルシャワ条約機構加盟国軍の侵攻で弾圧された後の正常化の時代の指導者、グスタフ・フサークの後継者として、1987年に党の第一書記に就任したこの人物の存在は、共産党政権が共産党に都合の悪い人物を排除し、指導部、特にフサークの言うことを聞く人間だけが出世できるようになっていた結果、人材が払底していたことを象徴していると見られている。つまりは、政治家としては無能だったと考えられているのである。
 ビロード革命に先立つ、学生を中心とするデモが各地で発生するようになってからも、教条主義的な強硬な態度を変えることなく、反政府側との交渉を拒否した。より正確には有効な手を何一つ打つことができなかった。それ以前の反政府デモにつながる社会不安、民衆の不満に対しても、俳優などの芸術家の給料を明かして高給取りだから不満は漏らさないなんて現実を見ない失言をしたのがビデオでリークされ、社会の反発を買い共産党の立場を悪化させていた。

 その結果、ゴルバチョフのペレストロイカの影響受けて共産党内にも、比較的現実を見つめられる改革派が増え、反政府勢力との交渉の妨げになりかねないヤケシュは、共産党からも追放された。それでも本人は共産主義のイデオロギーから離れることはなく、ゴルバチョフのペレストロイカや、市場経済の導入に対して反対の意見を表明し続けたという。
 ビロード革命後は政治の表舞台に戻ってくることはなかったが、ヤケシュやフサークのような共産党政権の指導者で、民衆弾圧の責任者だった人たちが暴力的な報復を受けなかったのが、チェコスロバキアの民主化革命が、ビロードと名付けられた所以なのだろう。ただし、ヤケシュは後に国境地帯で亡命しようとした人々が国境警備隊員によって射殺された件について、責任者だったとして裁判を起こされている。

 簡単に経歴を紹介すると、生まれたのは1922年で場所は南ボヘミアのチェスキー・クルムロフの近く。1937年にからはズリーンに移って、バテャの工場で働きながら、バテャの設立した大学を卒業している。共産党に入党したのは1945年のことで、党の幹部候補生として1950年にはモスクワの共産党の大学に送られている。留学生の同期にはプラハの春を主導するアレクサンデル・ドゥプチェクがいたというから、その後の歴史を考えると皮肉である。
 1968年のプラハの春に際しては、当初はドゥプチェクなどの改革派に賛同していたため、代表団の一員としてモスクワに連れ去られ、ワルシャワ条約機構との協定にサインさせられた。この時点では、いわゆる救援をソ連に対して求める手紙には署名しておらず、この時点では特にプラハの春の理念を裏切ったとは思われていなかったのではないだろうか。モスクワでの署名は、確か時のスボボダ大統領や、ドゥプチェク第一書記など、代表団のほとんども署名を余儀なくされたわけだし。

 その後、正常化をすすめるフサークの下で、出世を遂げ、フサークが独占していた大統領と共産党の第一書記の二つの地位のうち、第一書記を譲られることで実質的な後継者となったのだが、この選択は当時の共産党幹部にとっても驚きだったようだ。国や共産党にとってではなく、院政をもくろむフサークにとって一番いい選択がヤケシュだったのだろう。
 実際どんな人物なのかは知らないが、共産主義を強く信じていたというよりは、どんな政治体制にも自らを合わせていける優秀な官僚タイプ、悪い言い方をすれば有力者にすりよるコバンザメのような人物だったのではないかと勝手に想像している。そんな人物が最高権力者になった結果、ビロード革命の政治体制の変化には対応できなかったということだろうか。自分自身の存在が反政府デモと革命の原因になっていたわけだから。

 そんなチェコスロバキア共産党最後の権力者が亡くなったというのは、一つの時代の終わりでもあるのだろう。いわゆるポスト共産主義の時代の終わりがまた一歩近づいてきた。クラウス、ゼマンというビロード革命の民主化を私物化し首相、大統領を歴任した大物が二人残っているから完全に終わったとは言い切れない。いや、この二人が創設、もしくは再建し、クライアント主義と呼ばれる利益誘導型の政治をチェコに定着させた市民民主党と社会民主党が活動を続ける限り終わらないといったほうがいいのかもしれない。いろいろと批判されているバビシュ首相もクライアント主義が存在しなければ、首相になんてならなかっただろうし。
2020年7月15日14時。












2020年07月16日

イバンチツェ(七月十三日)



 ブルノの南西、モラフスキー・クルムロフとの中間あたりに位置するこの小さな町は、現在では画家アルフォンス・ムハの出身地として日本でも知られているかもしれない。チェコだとそれに加えて、チェコのテレビ史上最高のコメディアンとされるブラディミール・メンシークの出身地であることでも有名である。

 歴史的に見ると、フス派戦争の血まみれの時代の中から生まれたプロテスタントの一派、戦いを否定する兄弟団の主要な拠点の一つだったのことが重要である。イバンチツェには、ルドルフ2世の弾圧を受けてクラリツェに移転するまで、兄弟団の秘密印刷所が置かれていてさまざまな宗教関係の文書、書物が印刷されていた。その印刷所のあった建物なのか、小さな印刷所の記念館があって、サマースクールの週末の遠足で出かけたことがある。当時はその意味もわからないままに見物して終わったけど。
 そして、もう一つ重要なのが、この地に兄弟団によって設立された学校が、短期間だけだったとは言え、ヨーロッパレベルでよく知られた学問の拠点だったということである。16世紀の前半に兄弟団は各地の拠点にチェコ語で学ぶ学校を創設し始め、イバンチツェにも初等教育の学校が設立された。その上の中等、高等教育の学校が設立されるまでにはしばらく時間がかかったが、それは兄弟団がラテン語やギリシャ語などの教育に、実用性がないものとして懐疑的だったことが理由だと言う。

 そんな傾向を変えたのが、別の兄弟団の拠点プシェロフ出身で、国外のビッテンベルクの大学などで勉強して帰国し、兄弟団の牧師?としてイバンチツェに赴任したヤン・ブラホスラフだった。コメンスキーの先駆者とも言うべき兄弟団の、いやチェコの誇る知性は、ビッテンベルクに留学中には宗教改革者として知られるルターの説教に通っていたという。
 ブラホスラフは、自ら新約聖書を、非常に文学性の高いスタイルで翻訳し、印刷に回した。その翻訳のスタイルは旧約聖書の翻訳のスタイルにも適用され、すべてが完成したのはブラホスラフが1571年に亡くなった後、印刷所がクラリツェに移転した後のことなので、イバンチツェではなくクラリツェの聖書と呼ばれている。

 ブラホスラフが兄弟団の牧師の仕事には、外国語の知識が不可欠であることを説得した結果、イバンチツェにプロテスタントの師弟を対象にしたギムナジウムが設立される。同時にドイツなどの大学の学生たちが、授業の時間が少ないこともあって自堕落な生活をしていることがわかり、イバンチツェのギムナジウムでは道徳教育にも力を入れることが決められた。これが、師弟の教育に頭を悩ませていた貴族階級に受け入れられ、ジェロティーン家のカレル爺などの有力貴族もイバンチツェの学校で学んだという。
 外国語の教育のほうは、教師を見つけるのが難しい時代だったこともあって、時間がかかったが、宗教上の理由でビッテンベルクの大学を追放されたエスロム・リュディングルを、1575年に学長として招聘することに成功する。リュディングルはドイツではギリシャ語だけでなく、物理学や歴史学も教えていたという。毀誉褒貶の激しい人物ではあるが、リュディングルの存在がイバンチツェの学校の評価を高めたことは間違いない。

 同時に、チェコの再カトリック化を進めていたハプスブルク家には敵視され、時の皇帝ルドルフ二世がイバンチツェの領主だったリペー家に、リュディングルの追放を求める手紙を送ったという。特に1583年に届いた二通目の手紙は、兄弟団だけではなくリュディングル本人にも強いショックを与え、死因となった心臓発作を起こしたらしい。ただ参考にした雑誌の記事には、リュディングルが亡くなったのは1588年ともあるので、年が離れすぎているようにも思える。
 リュディングルを失ったイバンチツェの学校は、衰退に向かい、かつての評価を取り戻すことはなかった。1620年のビーラー・ホラの戦い以降は、プロテスタントの諸侯が力を失い、学校の母体となった兄弟団自体がチェコの領域内から追放されることになる。隠れキリシタンならぬ、隠れ兄弟団なんてものが存在し続けた可能性はあるが、公式に許された宗教としてプロテスタント系の宗派がチェコに戻ってくるのは、1918年の第一共和国の成立を待たねばならなかったはずである。
 
このイバンチツェの学校を巡る話も、キリスト教の非寛容性が如何に世界の害悪だった。いや現在でも害悪であり続けているかを示す事例だと言えよう。アメリカや西ヨーロッパで吹き荒れている人種差別反対の暴動も、奴隷貿易を認めたとうよりは、推進していたキリスト教への攻撃に向かわないのが不思議である。環境保護運動もそうだけど、良識派ぶった活動家ってのは、ご都合主義で攻撃対象を決めるからなあ。良識あるつもりの日本人としては付きあいきれない。
2020年7月13日22時30分。











2020年07月15日

プシェミスル家の遺産2(七月十二日)



承前
 四つ目は、チェコの高千穂の峰とも言うべきジープ山の山頂に建てられた円形教会である。プラオテツ・チェフとジープ山の伝説は、チェコの建国神話であって事実ではないだろうが、山頂の円形教会がプシェミスル家とジープ山の関係を物語る。この教会が建てられたのは、12世紀の前半のことで、当時の侯爵ソビェスラフ1世が、神聖ローマ帝国皇帝のロタール3世の率いる遠征軍を北ボヘミアのフルメツの近くで破ったことを記念して建てたと言われる。
 プラハの北方、ムニェルニークの近くにあるジープ山は、高さは約450メートルほどとそれほど高い山ではないが、山頂からは遠くまで見晴らしのいい景勝の地で、現在でも行楽の地となっている。確か年に一回、ジープ山山登り競走が行われていて、たくさんの参加者が麓から山頂まで駆け上がっている。昔チェコの中をあちこちしていたときには、行って見たいと思いながら、どこにあるか調べ切れなかったのだった。地図は見たはずなんだけど、チェコ語ができなかったし。

 五つめは、我等がオロモウツである。オロモウツはプシェミスル家のモラビア支配の拠点のひとつで、チェコの君主にオロモウツに封じられモラビア統治を任されていた兄弟や息子などが反乱を起こすこともあった。また、プシェミスル家最後の王バーツラフ三世が1306年にポーランド遠征を前に暗殺したことも知られる。オロモウツは、プシェミスル家が男系で断絶し、プシェミスル王朝が滅んだ地でもあるのだ。
 オロモウツ最大の教会、聖バーツラフ教会に接する形で、かつてプシェミスル宮殿と呼ばれていた建物が現存する。聖バーツラフ教会だけでなく聖アナ教会や大司教博物館の建物ともつながっていてどこからどこまでがその宮殿なのか判然としないのだが、現在ではジーデク宮殿と呼ばれることのほうが多いようである。ジーデクはプシェミスル家が創設に成功したオロモウツの司教座の司教で、ヨーロッパを舞台に外交官として活躍しており、その立場にふさわしい拠点を確保するために建てた、もしくは改築したのがジーデク宮殿だという。
 現存する宮殿でプシェミスル家の時代にさかのぼるのは、一部は城下公園からも見上げることができるロマネスク様式の窓と、天国の庭と呼ばれる部分である。30年近く前に始めてオロモウツに来たときに、このプシェミスル宮殿(だと思っていた)に入ったことがあるのだが、何の知識もないままの見学と言うよりは、見物だったのでほとんど何も覚えていない。チェコ語を勉強するためにこちらに来てからは、何となく行きそびれている。

 六つ目、記事の最後に紹介されているのは南ボヘミアの中心都市のチェスケー・ブデヨビツェである。13世紀の後半に、プシェミスル・オタカル2世が、当時いわゆる東方植民をチェコの国土で進めていたドイツ系の住民の協力を得て建設した町のひとつだという。本来ドイツ系の町だったので、ブデヨビツェで最初にビール会社を設立したのがドイツ系の住民だったのも当然のことだったのだ。
 それはともかく、チェスケー・ブデヨビツェは、当時計画的に建設された典型的な国王都市の
特徴を示していると言う。それは中心となる広場が正方形であることと、通りが碁盤の目と言うには旧市街が小さすぎるが、通りが直角に交差している点である。オロモウツの近くでこんな特徴を持つ町というと、完全ではないけどリトベルだろうか。それに対して、オロモウツの二つの広場はいびつな形をしているし、通りなど直角に交わっているものの方が少なく、道に迷いやすい。

 この記事には以上の六件だけだが、他の記事にはプシェミスル家によって建設されたものとして、1230年に建設されたクシボクラートの城、13世紀の半ばにプシェミスル・オタカル2世によって建設されたベズデスの城なども紹介されている。この二つの城は身分の高い人を収容する牢獄としても使われていたので、親子、兄弟間での血で血を洗う権力争いを繰り広げたプシェミスル家なので、収監された人も多いようだ。また、南ボヘミアのランチュテインの城跡が1231年にプシェミスル・オタカル1世によって建設されたと紹介されているのだが、プシェミスル・オタカル1世が没したのは1230年なので、生前に建設が始まり死後に完成したと考えるべきだろうか。
 チェコの国家の基礎を築いたのがプシェミスル家である以上、残された遺産も膨大なものになるのである。
2020年7月13日14時。










2020年07月14日

プシェミスル家の遺産1(七月十一日)



 昨日の『小右記』の記事も、後半時間が足りなくなって大急ぎでまとめた感があるが、今日の記事も似たようなものになりそうである。何について書いたものか頭を悩ませていたら、チェコ版の「歴史読本」と言ってもよさそうな、歴史好きのための雑誌の記事が目に入った。「100+1 historie」という雑誌の別冊で、去年の夏に出たチェコの魔術的な伝説を特集した号である。
 その最初の記事が、プシェミスル家の遺産をテーマにしていて、チェコ各地にプシェミスル家の時代から残る建造物を紹介している。プシェミスル家の時代と一口に言っても9世紀から14世紀の初頭と長きにわたるのだけど、チェコの君主について書いているものも、プシェミスル家の君主は残り三人になって終わりも近づいているので、ちょうどいいということで、この記事に紹介されているものを紹介しよう。

 最初に取り上げられているのは、プラハのビシェフラットである。この川沿いにそびえる岩山の上に建てられた城がプシェミスル家の時代から存在したことは、イラーセクのチェコの伝説などにも登場することから明らかなのだが、よくわからないのは、ブルタバ川の対岸の高台の上に建設されたプラハ城との関係である。
 チェコの伝説ではなく歴史について書かれたものを読むと、大抵はプシェミスル家の最初の拠点はプラハではなく、プラハからブルタバ川を少し下ったところにあるレビー・フラデツの城だったとされている。その後、現在のプラハ城のあるところに城を建てて本拠地を移したと理解しているのだが、そうなると、この歴史のどこにビシェフラットを位置づけるべきなのかがよくわからない。プラハ城が先なのか、ビシェフラットが先なのか、ビシェフラットがプシェミスル家の本拠地だった時代があるのか。
 雑誌の記事によれはビシェフラットでもっとも建築活動が盛んだったのは、チェコの君主の中で最初に王位を獲得したブラティスラフ2世とその息子のソビェスラフ1世の時代だったという。ということは、11世紀の後半から12世紀前半にかけてと言うことになるから、プラハ城のほうが先なのかな。

 二つ目はズビーコフ城で、ブルタバ川の上流、南ボヘミアのピーセクの近くにある。この地に最初に城を建てたのは、プシェミスル・オタカル1世である。この手の建造物の例に漏れず、後世改築の手が入っているようだが、現存する最古の部分はマルコマンカと呼ばれる塔だという。一文字違えばナルコマンカで薬物依存症の人をさすことになるのだが、塔の名前と薬物は関係なさそうだ。
 城の名前のズビーコフは、城の建つ岩山のふもとにあった村に由来するらしいが、その村は1950年代に建造されたダムによって水没したという。交通の要所だったブルタバ川沿いにはたくさんの白が残っており、中にはダムに水没する予定だったものが移築されたものもある。ブルタバ川沿いの城は交通の便が悪そうなところが多いが、ズビーコフも車がないと行きにくそうである。
 城の名前の由来になった村には、伝説によれば、プラオテツ・チェフの娘の一人が、平民の男との結婚に反対されて駆け落ちし、住んでいたらしい。後に父親のチェフが娘の様子を見にきたところ、娘は平民の生活に慣れてなじんでしまっていたことから、慣れるという意味の「zviknout」から村の名前が付いたのだとか。

 三つ目は、プシェミスル家のモラビア支配の拠点のひとつだった南モラビアのズノイモである。ズノイモの城の中庭には、古い円形教会があり、内部にはプシェミスル・オラーチ以来のプシェミスル家の歴史を描いた壁画が残っている。旧約聖書の名場面を描いた部分もあるようだけど、チェコにとって重要なのは、プシェミスル家の壁画である。この壁画はズノイモのプシェミスル家のコンラート2世の結婚式に際して描かれたものらしい。それで、君主ではなかったけどコンラートとその妻の肖像も描かれているのだとか。記事によれば、後世、この教会が教会としての地位を失い、さまざまな用途に用いられてきたことを考えると、壁画が完全な状態ではないにしても、現在まで保存されているのは奇跡的なことだという。
 ズノイモには、こちらに来たばかりの夏に出かけてお城の見学もした。円形教会があったのも覚えているのだが、当時はチェコ語もだめだめ、チェコの歴史についての知識もほとんどない状態だったので、その歴史的な価値などまったく理解できなかった。内部の壁画についても模写が展示されていたと思うのだが、みょうちくりんな絵だなあという感想しかもてなかったような気がする。やはり先達はあらまほしきものなのである。日本語でプシェミスル家について語れる先達がどれだけいるかと言う問題はあるけど。
 長くなったので、以下次号。
2020年7月12日14時。












2020年07月13日

永延二年八月の実資(七月十日)



 この月は、『小右記』の記事が残っていない三日から。『大日本史料』には、円融上皇が大僧正の寛朝によって灌頂を授けられたことが立項される。綱文では「両部灌頂」とされているが、金剛界の灌頂と胎蔵界の灌頂のことである。引用された『灌頂記』によれば、三日に受けたのは金剛界の灌頂で場所は上皇の居所の円融院。胎蔵界の灌頂は廿八日に遍照寺で受けている。遍照寺は寛朝が翌年に創建した寺なので、年が合わないけれども、遍照寺の基になった(と考えてよさそうな)広沢房のことだろうか。
 寛朝は、宇多天皇の孫で、東大寺別当などを経て大僧正にまで昇った真言宗の僧だが、『小右記』関係で重要なのは、円融上皇出家の際に受戒の戒師を務めたことである。残念ながら上皇が出家した寛和二年の記事が残っていないため、『小右記』では読むことができない。また、遍照寺が花山上皇の勅願で創建されるなど、当時の皇室と極めて密接な関係のあった僧である。この円融上皇の受戒については他の仏教書にも記録が残っているようである。

 
 この月最初の『小右記』の記事は七日のものである。この日、実資は早朝から摂政兼家に呼び出される。五日の夜の天文の観測で、熒惑星つまり火星が、軒轅女主つまり獅子座のレグルスをよぎるような動きをしたことについてである。それで、一条天皇と皇后(この頃はまだ円融天皇の皇后だった遵子かな)に「慎むべし」という。また、この天文上の異変に対してさまざまな対策が取られている。
 一つは天台の惣持院で熾盛光の御修法を十二日と十七日に行わせることで、天台座主の尋禅に仰せが遣わされている、熾盛光の御修法は天変地異などの災の際に、災害を除き国家安泰を祈る修法とされているから、「熒惑星軒轅女主を犯す」というのは天変地異の前触れとして考えられていたのかもしれない。
 二つ目は、八万四千の泥塔を供養することで、こちらは慈徳寺で行うことを座主に伝えているが、直後にすでに終わったという文がある。供養が終わったのか、連絡が終わったのか、よくわからない。三つ目は、熒惑星つまり火星を祭る祭りを開催することで、安倍晴明が、十二日と十九日に行うことを勘申している。自分が勘申したのにサボったみたいだけどね。
 最後にこの日が内裏の物忌にあたっていたことが記され、実資も参入する。普段の物忌よりもあれこれやることが多い印象なのは、重い物忌だったのか、天文上の異変のせいか。


 続いて『小右記』の記事の欠けている十一日に「定考」が行われる。出典は『日本紀略』。これは毎年八月に行われた官吏昇任の儀式で、六位以下の官人を対象にして勤務評定を行い昇任などを決定した。


 毎月十八日は、実資は清水寺に参詣する日だが、今月は中止。参内して摂政兼家のところに出向くと、安倍晴明が熒惑星の祭に奉仕しなかったので過状を提出させるようにという指示を受けている。
 また瀧口に詰めているはずの武官たちの出勤状況がでたらめなことになっているので、蔵人所の出納に出勤簿を検臨させることが決められている。平安中期の最大の問題の一つが官人たちの怠慢でしばしばそれを戒める命令が出ているが、実効性はあまりなかったようだ。対策の一つとして出勤簿を押さえたということか。実資から指示を受けたのは出納の小槻奉親。
 最後に実資が東宮のところに出向いて、しばらくして退出したことが記されるが、これは恐らく十九日に行われた東宮の童相撲に関することであろう。


 十九日は、お昼頃に参内した後、東宮に向かっている。童相撲のためである。この日の儀式は康保五年九月五日と同じように行われたという。実資は細部まで記録しているが、ここでは省略する。大切なのは蔵人四人の振る舞いについて、「上下目を側む、朝威を虧損する者か」と記していることである。ただし、、批判された四人はいずれもあまり有名な人ではない。


 廿一日は、まず、参内してから上皇の許へ。円融上皇が受戒の戒師を務めた大僧正寛朝の広沢房に渡御した。同行したのは左近衛大将藤原朝光、右近衛大将藤原済時以下四五人の公卿。実資は夕方になって退出して再度参内。「明日の事を案内す」というのだが、「明日の事」が何を指すかは、『小右記』の廿二日の記事が欠けているだけでなく、『大日本史料』にも項目がないので判然としない。
 最後に、恐らく十九日に行われた東宮童相撲における頭弁つまり蔵人頭で弁官を兼ねていた藤原懐忠の失態について批判する。すべては藤原在国のせいだというのだけど。どうも相撲の節会の儀式を童相撲に持ち込んだのがいけなかったようだ。

 ところで、この日の円融上皇の広沢房御幸に関しては、左近衛大将藤原朝光と右近衛大将藤原済時が作った歌が『新勅撰和歌集』に収録されている。詞書は「円融院御出家の後、八月ばかり廣澤に渡らせ給ひ侍りける御供に、左右大将つかうまつり、ひとつ車にて帰侍りける」とあって、まず朝光の歌が、

  秋のよを今はとかへる夕くれはなくむしのねそかなしかりける

続いて済時の「返し」が、

  蟲の音に我なみださへおちそはゝ野原の露の色やかはらん

とある。


 廿三日は『小右記』の記事は欠けているが、『類聚符宣抄』に収録されたこの日付の太政官符から、九月に予定されている伊勢斎宮が伊勢神宮に下向する斎宮群行に関して、左右京職、五畿内、近江、伊勢などにおいては九月を歳月とすることが決められたことがわかる。


 廿九日は、『小右記』の記事はないが『小右記目録』に除目が行われたことが立項されている。当然『公卿補任』などにもこの日の除目のことが見られる。


 卅日はまず早朝に内裏を退出して、夜になって再度参内して候宿。次に伝聞の形で、斎宮群行のための大祓が行われたことが記される。また、未明と言うから、内裏を退出してすぐだろうが清水寺に参拝して、灯明を奉り、僧の高信に袈裟を与えている。最後に典薬頭清原滋秀真人の妻が亡くなったことを記す。実資は弔問の使を送っている。使は為信とあるが、詳細は不明。
7月11日13時。














2020年07月12日

カルビナーをめぐる大騒ぎ(七月九日)



 一昨日の記事にまたコメントがついていたので、前回コメントをくれた人が、記事を読んでまたコメントしたのかと思って確認したら、前回と全く同じコメントがついていた。こりゃ読んでないわ。自分のブログの宣伝のためにあちこちのブログにコメントを付けて回っているのだろうか。そんな暇があったら、文章を書いたほうがいいと思うのだけどねえ。とりあえず、二つ目のコメントは削除しておいた。三つ目が来たら一つ目も削除してしまおう。

 ところで、カルビナーで仕事をしている知り合いに連絡してみたら、会社の従業員からは患者は出ていないけど、家族や親せきが感染して隔離状態に置かれた人はいるような話が返ってきた。カルビナーなんてそんなに大きな町じゃないし、周辺の街を合わせてカルビンスコと呼ばれる地域全体でも25万人ぐらいしかいない中、2000人近くの感染者が出ているから、感染が疑われる人が出るのは仕方がないのだろう。とにかく本人は何事もないようで安心した。
 このカルビナーの集団感染の拡大については、政治問題化しつつあり、与野党を問わず、ANOを除く政党は厚生省と地方の保健所の対応が甘かった、遅すぎたのではないかと批判している。五月下旬のカルビナーの炭鉱で感染者が出始めたころに、楽観視し過ぎじゃないのと思ったことはあるのだが、同時にチェコだけではなくヨーロッパ全体で規制解除に向けて邁進していた時期に、地域を限定してとはいえ規制を強化するのは難しいだろうなあとも思った。

 重要なのは、カルビナーの市長も含めて、政府の対応を批判している人たちが、当時は何も言っていなかったことだ。どうにもこうにも後出しじゃんけんの観があって批判には同調しにくい。おまけに、チェコテレビのニュースのアナウンサーに代替案を求められても、まともな対策を答えられる人はいないし、批判のための批判に出している印象である。批判することで存在感を出そうという日本でもよくみられる政治ショーと化しているわけだ。
 もちろん、厚生省の対策が完璧で批判するところがないとは言わない。そもそもの話で言えば、この武漢風邪がここまで警戒して厳しい対策を取る必要がある病気だったのかというところから疑わしいのだけど、国会での議論をニュースで見ても、次への対策につながる建設的な議論にはなっておらず、秋に行われる地方選挙に向けた広報の場になっている。チェコの政治も、他のヨーロッパの国々や日本に負けずに衆愚化が進んでいるのである。

 もう一つ、ショーと化しつつあるのが、サッカーリーグのカルビナーをめぐる疑惑である。リーグ再開に際して、降格の危機にさらされていた4チームが積極的に賛成しなかったのだが、その中の一つだったカルビナーでは意図的に選手を感染させたのではないかという疑惑を口にする人たちがいるのだ。リーグが完結しなければ降格チームは出ないわけで、確実に降格を避けるためには、リーグ戦が開催できない状態にする、つまりチームから感染者を出すのが一番だと考えたというのである。
 このような主張をする人たちは、状況証拠、選手たちの検査が決まった経緯とか、関係者の証言と現実の食い違いなどを挙げて、これは怪しいと主張するのだけど、憶測に憶測を重ねている感じで、どこまで信じていいのやらである。当然カルビナーの側からも反論は出ているのだが、これもまた、どうにもこうにも怪しいというか、説得力がないもので、困ったものである。

 こうなったら、一番いいのは、カルビナーの次の検査がすべて陰性で、暫定の計画通りにリーグ戦だけでなく、入れ替え戦まで行うことである。入れ替え戦では日程的に厳しい1部のチームよりも、準備期間が長くなる2部のチームのほうが有利になるという不平も聞こえてくるけど、疑惑を疑惑で終わらせるにはこれが最善のはずである。問題は、4人だったチーム内の感染者が、新たな感染者の発覚で5人に増えたことである。
 個人的には、この問題で失敗したのはサッカー協会(もしくはリーグを運営するリーグ協会)だと思う。カルビナーで集団感染が発覚した時点で、カルビナーのチームがカルビナーで活動するのを禁止して、暫定的に他の町に活動拠点を移させるべきだったのだ。公平性を失うという批判はあるにしても、チームから感染者を出して再度リーグが中断されるよりはましなはずである。
 いや、中断した時点でリーグがまともに行われたとは言い切れなくなったのだから、降格なしで昇格だけということにしたほうがよかったのかもしれない。そうなると全節終了後のグループ分けをした上での追加のリーグ戦とプレーオフが維持できなくなるのかな。そこまでいいものだとは思えないのだけど。このカルビナーを巡る馬鹿騒ぎ、いつまで続くのだろうか。
2020年7月10日12時。












posted by olomoučan at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ
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