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2020年02月29日
風の強い冬(二月廿六日)
今年は、暖かいことの多いここ数年の中でも、特に暖冬である。久しぶりに顔を出したおっちゃんの店でもそんな話になって、おっちゃんは今年の冬は暖かすぎるとぼやいていた。そっちはどうなのと聞かれたので、暖かい寒いよりも気温の変動が、例年ほど大きくないのがありがたいと答えておいた。今年はどうしようもないレベルで服の選択を失敗したというのはないから風邪を引かずにすんでいる。
今年の冬の特徴は、暖かいことだけではなく、雨が多いのも例年とは違っている。多いとは言ってもチェコのレベルにおいてなので、一日中強い雨が降り続く日本の雨天のようなことはないけど、夜中から朝にかけて結構強い雨が降って、仕事に出る時間帯まで雨が残っていることも多いし、夜職場を出ると道路がぬれていて、小雨がぱらついていることも多い。
降水量ということで考えれば、例年は雪という形でふっているものが、雨になっているだけと考えてもいいかもしれない。ただここ二、三年はその雪さえも少なくて、夏場に水不足や、地下水の水位の低下が問題になっていた。これを地球温暖化などという便利な言葉で片付けるような思考停止はしたくないものである。地球の歴史上では特に珍しくもない気候変動であって、その原因の一つとしていわゆる「温室効果ガスによる地球温暖化」というものが考えられているのだが、証明はされていない。
気候変動というものが単一の原因で起こるなんてことはありえないので、EU主導の炭酸ガスの排出を減らす運動がうまく行ったとしても、温暖化を含めた気候変動が停まるとは思えない。そんな結果が出た後の、自称科学者を含む関係者が「対策の開始が遅すぎた」という言い訳をするのまで目に見えるような気がしてうんざりする。
話を戻そう。気になるのは今年雨が多いことが、水不足の解消、地下水の水位の回復にどれだけ貢献するのかということである。少しずつ溶けて地下にしみこんでいくという意味では雪が地面に積もっていた方がいいのではないかという気もする。その反面、積もり積もった雪が一度に解けて、川に押し寄せ洪水を起す心配はないから安心ではある。雨が多いとは言っても、日本的な感覚からいうとたいした量の雨ではないのだけどね。
そして、以前もプシェロフに行ったときに書いたけれども、今年は例年に増して風の強い日が多い。数年前にもキリルとか名付けられた大型の低気圧のせいで暴風が吹き荒れて大変なことになってことがあるが、今年はそのキリルに匹敵するのが一回、それよりは小さいけどかなり大きなのが二、三回チェコまで大風を届けた。
北大西洋で発生した低気圧がイギリスを越えて、勢力を保ったままフランスやオランダの海岸沿いに北上して北海のほうに抜けるときに、雨は降らなくても強い風がチェコをも襲うことがあるようなのである。これを日本語で何と言おうかと考えるのだけどうまい言葉が思いつかない。とまれ山地だけではなく平地でも突風が吹き荒れ、あちこちで被害が出ている。
特に多いのは、山林の木が倒れるという問題だが、それが鉄道の路線の近くだと線路をふさいだり、電線に触れて通電を疎外したりするという問題も起こるので、被害は大きくなる。以前に比べると格段に遅れることの少なくなったチェコの鉄道も、今月は風のせいであちこちで遅れを発生させていた。ドイツでもやっているという理由で、問題なく走れている路線で予防的に運行を止めていたのには、悪い意味でのドイツ化を感じてうんざりさせられたけど。いい意味でのドイツ化なんてないか。
突風でどこぞの屋根が飛ばされたというニュースは、毎年1回か2回は流れるものだが、今年はその回数が多いような気がする。寒くて雪が多くても雪の重さで屋根がつぶれたなんて事件が起こるし、チェコの冬ってのは、とにかく生きにくい季節なのである。昔のチェコの涼しい夏が一番過ごしやすかったなあ。またまた意味不明な文章になってしまった。
2020年2月27日10時30分。
2020年02月28日
ふざけんな、日本のテレビ(二月廿五日)
職場で日本語のできる同僚にとんでもないものを見せられた。ネット上にあげられた日本のテレビ番組の一部のビデオで、チェコについてのものだったのだが、二人して見ながら「ありえねえ」「ひでえ、ひどすぎる」「うそばっかりだ」「くそだ」と罵倒の言葉を並べてしまった。途中からもう一人のチェコ人もやってきたので、事情を説明したら、怒りのと言うよりは、驚きの声を上げていた。日本のテレビがこんな大嘘を恥知らずにも放送することが意外だったようだ。
ビデオのリンクを張ろうかとも思ったのだが、こんなもの見られてチェコはこんな国だと思われたら迷惑極まりないので、やめた。ちょっと説明しておくと、「世界の朝ごはん」とかいうコーナーで、チェコのプラハに住む若い夫婦が登場したのである。珍しくチェコが取り上げられたのはいいとしよう。ひどかったのはその中身である。
朝ごはんと言いつつ、作っているのが肉料理、日本語での説明は意味不明だったけれども、出来上がった料理を見たら、「ベプショ・クネドロ・ゼロ」だった。これが典型的なチェコ料理だと言うなら何の文句もない。ただ、朝ごはんにこんなの食うチェコ人なんているか。いたとしても普通のチェコ人じゃねえぞ。
まだチェコの典型的な朝ごはんの一つとして、500mlの瓶入りピルスナー・ウルクエルを持ち出されたほうがはるかにましである。昔は朝起きてピルスナー一本飲んで仕事に行くなんて人、掃いて捨てるほどいたらしいし。さすがに最近は仕事している人は無理だけど、年金生活者ならそういう生活をしている人を知っている。
さらに、レバーを使ったクネドリチキのスープが付いた。ほとんどすべての家庭が共稼ぎであるチェコで朝食に普段からスープを作るなんてありえない。スープを朝食に食べるとしたら、仕事に行く途中のビュフェットで食べるか、前の日の残りを食べるときぐらいである。インスタントのスープならまだ可能性はあるか。
そして、極めつけは、朝食にデザートと称してオボツネー・クネドリーキを作っていたこと。オボツネー・クネドリーキは、家庭で作る場合には、デザートとしてではなく、食事として食べるものである。この組み合わせのありえなさに比べたら、オボツネーを「ホボツネ」と表記し口にしていたのは、かわいい嘘である。
忙しいチェコの家庭で、ベプショ・クネドロ・ゼロやオボツネー・クネドリーキを作るとしたら、週末の昼食である。夫婦とも退職して年金生活に入っていれば、平日から昼食に作るかもしれないけど。念のために指摘しておくと、チェコでは、三食とも自宅で食べる場合に、一番豪勢になるのは昼食である。夕食は昼食の残り物を食べたり、パスタなどの軽いもので済ませたりすることが多い。
勘違いする人がいるかもしれないので強調しておくが、この番組で報じられたのは、間違いではない。制作側の意図的な大嘘である。普通のチェコ人に普段の朝食について取材したら、大抵は、いろいろなパンにバターなんかを塗ったものとチーズやハム、それにコーヒーか紅茶という答えが返ってくるはずである。手間をかける人の場合でもせいぜいスクランブルエッグや卵焼きなどの手軽な卵料理である。それではつまらないということで、制作会社がテレビ局の黙認のもとに、典型的なチェコの料理を、それも家庭では滅多に作らないものを作らせて、それを朝食に食べるという演出を要請したという事情が見えてくる。
もし、仮に朝食にベプショ・クネドロ・ゼロとオボツネークネドリーキにレバーの団子の入ったスープなんて組み合わせを、わざわざ作って食べさせる妻がいるとしたら、それは遺産か保険金狙いで夫を早死にさせたい場合じゃないのかと言いたくなるぐらい、ありえない「典型的な」チェコの朝食だった。その作らせた料理がチェコの料理なのは確かで、信じてしまう人がいかねないというのも、明らかな嘘よりもたちが悪い。
おまけに夫婦だという二人のチェコ語での会話が、単に素人がテレビに出て緊張しているという以上にぎこちなく、吹き替えっぽくも響く、こいつら本当に夫婦なのかとさえ怪しめるレベルのものだったし、どこから見ても完全に取材ではなくやらせだった。同僚なんて登場した夫婦のキスのしかたもありえんと憤慨していた。こんなのをニュースではないとはいえ、情報番組で報道して平然としているテレビ局も、そんな番組に出てあたかもそれが本当の情報であるかのように驚いたふりをしている出演者連中もひどすぎる。
恐らく、日本のマスコミの連中は、このぐらいの小さな嘘は許容されるとか何とか言って、他社の番組であっても弁護するのだろう。しかし、チェコを知る者にとっては断じて「小さな」嘘ではないし、奴らの言う小さな「嘘」、小さな「演出」が許容されてきた結果が、今の日本のマスコミの功よりも罪の大きな現状である。日本のマスコミが「マスゴミ」と批判されるのもむべなるかなとしか言いようがない。
こんなのを見せられると、何かあるたびに、「言論の自由」とか「報道の自由」とかわめくマスゴミ関係者には、盗人猛々しいという感想しか持てなくなる。不祥事が起こるたびに、謝罪と反省しかしない、いや反省したふりしかしない日本社会の典型がマスゴミなのだとしたら、報道の自由なんてないほうがマシである。
ちなみに、この大嘘チェコの朝食は、「知っとこ!」という番組で放送されたものらしい。すでに終了した番組らしいが、こんな嘘垂れ流し番組が、情報番組として10年以上も続いたところが日本のテレビの病の深さを反映している。日本のマスゴミが嘘垂れ流し機関だったのは戦前から変わらないということか。三つ子の魂百まで忘れずってのはちょっと違うか。
2020年2月26日20時。
2020年02月27日
チェコ語の疑問詞3(二月廿四日)
またまた忘れてしまいそうだったけれども、思い出したので続ける。前回は数詞に関して質問をするための疑問詞を取り上げたが、今回はまず、順序数詞を問う疑問詞である。チェコ語の順序数詞は、1が「první」、2が「druhý」となる以外は、数詞との関連性が非常に高いので覚えやすい。品詞としては形容詞扱いをしてもいいのかな。日本語だと名詞か、形容動詞か悩むところだけど。
順序数詞が形容詞、もしくは形容詞的な変化をするということは、順番を問う疑問詞も、形容詞型の言葉だということになる。前回の数を問う「kolik」からの派生語なのだろうけど、「kolikátý」という言葉が使われる。使われると言いながら、絶対にこれを使わなければいけない場面というのはそれほど多くなく、昔チェコ語のサマースクールに来ていた外国人とチェコ語で話をしていたときに使ったら、「何それ」と言われたこともある。
日本だと教科書に取り上げられていたと思うので、大抵の人は知っていると思うが、日付を聞くときにこの言葉を使う。日付で思い出さなければいけないのは、「prvního ledna」のように、なぜか2格を使うということで、この疑問詞も2格で使用することになる。
・Kolikátého je dnes? Dvacátého čtvrtého/Čtyřiadvacátého.
(今日は何日ですか?/廿四日です)
日付を、「何番目の日」と意識しているわけなので、月や年、世紀に関しても、「kolikátý měsíc」「kolikátiý rok」「kolikáté století」という表現が使えるはずなのだが、どちらかというと、日本語の「どの」にあたる形容詞型の疑問詞「který」を使うことの方が多い。日本の年号を使う場合、非常に限定的な使い方になるけど、「v kolikátém roce éry Heisei(平成何年に)」とかやるのはありかもしれない。でも、この場合でも、「který」で十分である。
時間の場合も、「kolikátá hodina(何時)」という言い方はあるけど、ほとんど使わず、「v kolik hodin(何時に)」「od kolika hodin(何時から)」などの表現のほうがはるかによく使われる。「七時半」と言われて、「何時半?」と聞き返すときに、「půl kolikáté?」という質問はしそうだけど、これも「kdy」とか、「v kolik」で用は足りるから、無理して使う必要はない。
それから、建物の階について問うのも、「kolikáté patro(何階)」という表現が使えるので、次のようなやり取りもできる。
・V kolikátém patře se to bude konat? Ve třetím.
(それは何階で行なわれるの?/四階だよ)
気をつけなければいけないのは、確か英語でもそうだったけど、階の数え方が日本語と一つずれていること。一階はチェコ語では「přízemí」という。厄介なのは、うちの部屋のある建物もそうなのだけど、入り口を入るとすぐに上りと下りの階段がある建物で、下は地下一階というよりは半地下で、上は二階というほど高くなっていない。その場合、入り口を入ったところが「přízemí」で、ちょっと階段を上ったところが「první patro」となるのだろうか。その場合は日本と同じかなあ。正直よくわからない。
ただし、この例に挙げた文も、残念ながら「ve kterém patře」と「který」を使うことのほうがずっと多い。チェコ語も、特に話し言葉では簡単な表現を好むところがあるようである。日本語でも確かにそんな表現はあるけど、普通は使わないというのも結構あるわけだし、いやそんな表現は日本語の方がはるかに多いわけだから、ここはチェコ語に文句を言うところではあるまい。こういう表現をあえて使うことで出てくる効果というのもあるし。
何階かを聞くのではなく、建物が何階建てかを聞く場合には、またちょっと違った形容詞型の疑問詞「kolikapatrový」を使うことができる。できるんだけど、こんな長ったらしい言葉は使いたくないのか、「何階建てですか」と聞くのではなく、「階はいくつありますか」と聴くほうが多いので、「Kolik pater má tato budova(この建物には階はいくつありますか)」と聞かれるほうが多いかもしれない。
この手の「kolika」の後にあれこれつけて疑問詞になるものもいくつかあって、「kolikaletý(何年の)」「kolikanásobný(何倍の)」なんかがすぐに思いつく。もちろん、これらの表現も、別な言い方で十分なので、わざわざ覚える必要はないのだけどね。
もう一つ、「何回目」かを聞く質問にも「kolikátý」を使う。こんな質問そんなに何度もするわけではないし、うまく使えば「kolikrát」で何とかなるからなあ。とはいえせっかくなので、例文を挙げておく。
・Po kolikáté se letní školy zúčastníte? Po třetí.
(サマースクールに参加するのは何回目ですか?/三回目です)
重要なのは前置詞の「po」を使うということで、確信がないのは、「Po kolikáté」と二つの単語にするのか、「Pokolikáté」とつなげて一単語にするのかということである。初めてが「poprvé」と一単語になることを考えると、つなげたほうがいいのかなあ。書くときはともかく話すときは、つなげても、つなげなくても発音は変わらないから、どっちでもいいか。
こういう細かいことは、普通の教科書では分量の関係で書かないのだろうけど、分量を気にせず書けるのが、ブログの利点と言えば言えるか。これでも細かすぎるのでちょっと遠慮して少なめにしたんだけどさ。次はここでもちょっと触れた便利な「který」である。説明することはあんまりないので、例文の山になりそうである。
2020年2月25日24時。
2020年02月26日
スパルタの悪夢は続く(二月廿三日)
チェコのサッカーチームの中で、ファンの迷惑行為がひどくて、オロモウツ遠征を禁止してくれと思う双璧が、オスラバのバニークとプラハのスパルタの2チームである。ブルノのファンも迷惑であるのは確かだけど、2部に落ちて久しくかつてほど迷惑ファンの数は多くないし、オロモウツにやってくる機会もないので、このまま2部以下に留まってほしいと思う。
さて、今日オロモウツに、迷惑ファンとともにやってきたのは、オロモウツから強奪した監督を解任したばかりのスパルタだった。スパルタファンは、他所のチームのファンもかな、チームの成績が悪くなればなるほど、危険度が上がるから、こんな日はスタジアムには近づかないに限る。警察が駅からスタジアムまで包囲して歩かせるだろうし大きな問題は起こらないと信じたい。
この試合も、残念ながらチェコテレビでは放送されなかったので、見ることはできなかった。多少の因縁もあることだし見たくはあったのだけどね。スポーツをテレビで見るのが好きだというのは否定しないが、そのために有料放送と契約をするほどではないし、チェコテレビで放送されるサッカーやハンドボールの試合を欠かさず見るというわけでもない。タイミングが合えば見るし、チャンネル合わせて他のことをしていることも多いけど。
今日は、何だか何もする気になれず、横になってリーダーで小説を読んでいたので、いつものようなテキスト速報での確認もしなかった。試合が始まった5時ごろは寝ていたかもしれない。ということで試合の様子を知ったのは、夕食後の8時ごろに放送されたチェコテレビのスポーツニュース「ブランキ・ボディ・フテジニ」によってだった。
それによれば、この試合には解任されたばかりのイーレクも観戦に訪れていたという。ウリチニーとブリュックネルの爺様二人もいたに違いない。新監督のコタルは、イーレクの最後の試合からメンバーを5人変えたらしい。オロモウツのほうは、先週末テプリツェで2点決めたフォワードのユリシュがメンバーから外れた。これは、スパルタからレンタルしている選手だからだという。オロモウツ貧乏だから、レンタルもとのスパルタの試合でも出場できるような契約にする金がなかったのだろう。
試合は前半にオロモウツが先制した。ゴール前の混戦から最後はユリシュの代役のヒティルが決めた。25分ごろだったかな。その後は、ニュースではスパルタのチャンスがいくつか流れたけど、すべてキーパーの活躍で守りきった。シグマの守備も決して誉められたものではなかったと思うのだけど、スパルタの運のなさに助けられた感じである。スパルタは悪い流れから抜け出せそうにないなあ。
今のスパルタの状況から考えると、短期的な結果を求めるならストラカのようなモチベータータイプの監督を連れてくるのが一番いいと思うのだけど。イーレクも新任のコタルもそんなタイプじゃないからなあ。もちろん、短期的な結果ではなく、長期的にチームを強化するために選ばれたのがイーレクだったのだろうけど、それにしては見切りが早すぎる気がする。結果が早く必要なのはわかる。でも、今のままでは同じことの繰り返しで、選手も監督も使いつぶしているような印象さえある。
これで、シーズン再開以来、2連敗となったスパルタだが、悪いことはこの二つにとどまらなかった。イーレクの解任が決まった後、バーツラフ・カドレツが引退を発表したのだ。ロシツキー以後、チェコサッカー界において、もっとも将来を嘱望されていたカドレツが、27歳の若さで引退を選んだ理由は、度重なる怪我と手術で体、特に膝がぼろぼろになっているというもの。順調に行っていれば今頃はチェコ代表の中心になっていたはずなのに、残念なことである。結局期待の若手の域を出ることがないままだった。
ボヘミアンズの下部組織で育ったカドレツは、旧ボヘミアンズが倒産だなんだでごたごたしていたころにスパルタに移籍し、その後ドイツにも移籍したのだが、期待されたほどの活躍はできないまま、スパルタに戻った。その後デンマークに移籍してまたスパルタに戻るというプルゼニュでブルバに出会って覚醒する前のリンベルスキーと同じような出たり入ったりのキャリアを積んでいた。
不運だったのは、指導者に恵まれなかったことだろうか。悪い監督ばかりだったというわけではなく、リンベルスキーのブルバ、ソウチェクのト
十代の半ばぐらいから、将来を期待され続け、ボヘミアンズの生んだ最後の才能なんて呼ばれたのも大きなプレッシャーになっていたのかもしれない。ロシツキーもアーセナルに移籍してからは、怪我がちの選手生活で十分に能力を発揮しきったとは言えないけど、それまでの活躍で十分におつりが来た。カドレツの場合には、怪我する前もそこまで活躍できたわけではないし。この前ちょっと取り上げたフェニンよりもはるかに大きな期待を集めていた選手で、引退がチェコのサッカー界に与えた衝撃もはるかに大きい。日本のサッカー記者がカドレツを取材して記事にしてくれんかなあ。
2020年2月24日18時。
スラビアの監督の名前修正。
2020年02月25日
90年代のチャペク(二月廿二日)
1990年代に入るとチャペクの再評価が行なわれたのか、次々に、特に90年代の後半には、未訳の作品が次々に刊行され、チェコ関係の本を買いあさっていたこちらの財布に大きな打撃を与えてくれた。特に「小説選集」「エッセイ選集」と題されたそれぞれ6冊のシリーズが刊行されたのは、内容が一般読者受けする「売れそうな」作品ではなかっただけに大きかった。
この90年代のチャペクの翻訳ブームの原因を考えてみると、一つには、19989年に没後50年を迎えて著作権の保護期間が切れたことがあげられるだろう。音楽の世界でも著作権が切れた途端に演奏回数が増えるなんて話を聞いたこともあるし、翻訳の世界でも似たような事情はありそうだ。もちろん、ある程度知られた作家で、評価も高い作家でなければ翻訳はされても刊行は続かないだろうけど。そうなると、1989年に岩波文庫から刊行された千野栄一訳の『R.U.R.』がチャペクブームに先鞭をつけたといってもいいのかもしれない。
とまれ90年代に入って最初に翻訳されたチャペク作品はSF的な『Továrna na absolutno』である。金森誠也訳『絶対子工場』が刊行されたのは、1990年のことで、チェコ語の原典からの翻訳ではなくドイツ語からの重訳であった。出版社は、木魂社というあまり知られていない会社だが、簡単に絶版にしない良心的な出版社のようで、90年代後半にチェコ語の勉強を始めた後でも、注文して取り寄せることができた。この作品の翻訳としては、後に平凡社から飯島周訳『絶対製造工場』(2010)も刊行されている。こちらはチェコ語からの翻訳である。手に入れてはいないけど。
二つ目は『Krakatit』で、1992年に田才益夫訳『クラカチット』として、大手ではない楡出版から刊行されている。これも刊行後数年たってから購入して読んだ。この田才訳は青土社から2008年に再刊されているので、現在でも手に入りそうである。
読んだのはすでに廿年ほど前のことなので、正確な内容は覚えていないが、『絶対子工場』も『クラカチット』も、軍事転用のできそうな新技術を開発した技術者と、その技術をめぐる物語だったと記憶する。それが核兵器の登場を予言しているのではないかとかで評価されていたようだ。個人的には戯曲の『R.U.R』や、あれこれ話を広げ過ぎた感のある『山椒魚戦争』より面白かったと思うのだが、どちらが面白かったかと言われると答えに窮する。
どちらかの作品では、読んでいる最中に語りを信じていいのか、書かれていることが小説内の真実なのか、主人公の思い込み、妄想なのか、わからなくなるような記述に、不安を感じながら読んだ。この不安も読書の醍醐味の一つである。
そして、1995年からは、成文社が「チャペック小説選集」と題して、これまで全訳されたことのないチャペクの作品を六冊連続で刊行してくれた。ラインナップは以下の通り。
第1巻
石川達夫訳『受難像』(1995) 原題『Boží muka』
第2巻
石川達夫訳『苦悩に満ちた物語』(1996) 原題『Trapné povídky』
第3巻
飯島周訳『ホルドゥバル』(1995) 原題『Hordubal』
第4巻
飯島周訳『流れ星』(1996) 原題『Povětroň』
第5巻
飯島周訳『平凡な人生』(1997) 原題『Obyčejný život』
第6巻
石川達夫訳『外典』(1997) 原題『Apokryfy』
このうち、短編集『Boží muka』の一編「エレジー」(千野栄一訳)が、白水社が1971年に刊行した『現代東欧幻想小説』に収録されている。この本、1990年代には新刊で手に入らなかったのはもちろん、古本屋でも見かけることはなかった。今から考えると、存在を知らなかったのが残念な一冊である。
また、『Apokryfy』の抄訳が、「『経外典』から」(千野栄一訳)と題して、岩波の雑誌「ヘルメス」第23号(1990)に掲載されたようだ。収録された短編の翻訳としては、栗栖継訳「アルキメデスの死」が、『世界短篇文学全集』第10巻(集英社、1963)に、関根日出男訳「聖夜」が、『世界短編名作選 東欧編』(新日本出版社、1979)に収録されている。
hontoで確認したら、この「チャペック小説選集」のうち、第4巻の『流れ星』と第5巻の『平凡な人生』が品切れで購入できなくなっていた。ただし、『流れ星』のほうは、2008年に青土社から出版された田才益夫訳『流れ星』がまだ手に入るので、読むことは可能である。
長くなったのでエッセイ集の話はまた次回ということにする。「チャペック小説選集」とほぼ同じ時期に、「エッセイ選集」も全6巻で刊行が開始されて、今とは逆で本を買う金はあっても読む時間がない生活をしていたので、全部購入したはいいものの、読み通さないままいわゆる積読本になってしまったのだった。これもまた読書家の楽しみの一つである。
2020年2月22日24時。
2020年02月24日
チャペクの児童文学補遺(二月廿一日)
エルベンの『花束』について調べていたときに発見した「cesko store」では、「日本でのチェコ文学翻訳の歴史」という浦井康男氏の書かれた文章も手に入る。これもダウンロードして読んでみたら、国会図書館のオンライン目録では確認しきれない情報があれこれ出てきた。
一番衝撃的だったのは、『労働婦人アンナ』という、いかにもな題名のチェコの作品の翻訳が、すでに1930年に刊行されたというもの。訳者は神近市子で出版社はアルス。作者はイバン・オルブラフトで、この人の名前はどこかで見たことがあると思って確認したら、案の定、第一共和国の時代にチェコスロバキアの一部だった現在のウクライナの地方で活躍した義賊を描いた作品で有名な作家だった。それが、題名からして「Anna proletářka」というばりばりのプロレタリア文学を書いているとは、予想外もいいところである。
国会図書館で念のために調べると、日本語訳は、神近訳のほかにもう一つあって、1967年に大沼作人訳が『プロレタリア・アンナ』として、共産党の出版部門ともいうべき新日本出版社から刊行されている。大沼作人は結構地位の高い共産党員だったようなので、共産党公認の翻訳が求められていたのかもしれない。ただ、この本、読んだことはないけど二度も翻訳されるほどの作品なのかね。個人的には義賊を描いた作品のほうが読みたい。ブルジョワに対抗する義賊もプロレタリアートの仲間じゃなかったのか?
二つ目の衝撃は、中野好夫のチャペクの『Devatero pohádek』の初訳がすでに戦前に刊行されていたというもの。そのときの題名が『王女様と子猫の話』だというのだけど、国会図書館には所蔵されていないようである。こんなときには日本中の大学図書館を横断する形で蔵書の検索ができる「CiNii」が使える。大学図書館ではないが、近代文学館が所蔵しているようである。書誌によれば、刊行は1940年で出版者は第一書房。
浦井氏によれば、この最初の中野訳は、チェコの地名や人名をイギリスのものに置き換えた英語訳からの翻訳だったため、チャペクの童話の登場人物たちは、英語の名前で、イギリスで生活していたらしい。それをチェコのものに改めたのが1962年だというから、戦後岩波から出た1952年の初版ではまだイギリス版チャペクで、改版の際にチェコのものに改めたということになりそうだ。
最後は『ダーシェンカ』の話である。国会図書館で確認できる『ダーシェンカ』の初訳は戦後の小松太郎のものなのだが、すでに1934年の段階で秦一郎の翻訳『だあしゑんか、子犬の生ひ立ち』が出版されているという。日本語のウィキペディアの「カレル・チャペック」の項には、秦訳は1938年に高陽書院から出版されたと記されている。訳者はともかく年号が合わない。
それで調べていったら金沢にあるらしい喫茶店「珈琲屋チャペック」というお店に突き当たった。ここに「珈琲屋チャペックの本棚」というページがあって、『小犬日記』という本の写真が載せられて解説がついている。それによると、秦訳はまず1934年に『だあしゑんか、子犬の生ひ立ち』と題して、昭和書房から出版され、その後1938年に高陽書院から『小犬日記』と改題の上で再刊されたということのようだ。
別のページには日本で刊行された『ダーシェンカ』の表紙が並べてあるなど、筋金入りのチャペクファンだからこそ、喫茶店にまで「チャペック」と名付けたのだと納得させられた。また栗栖継訳の『チャペック戯曲集』が金沢の十月舎から出た事情が書かれたページもある。個人的にはそれよりも、「1」とついていながら「2」が出なかった事情の方が気になるのだけど、書けない事情があったのだろう。とまれ、こんなところにも金沢が日本の中でも特にチェコとの交流が盛んな街であることが見て取れるのである。
2020年2月21日24時。
2020年02月23日
上院議長選出(二月廿日)
オンブズマンの話には続きがあって、選出されたクシェチェク氏は、昨日就任の儀式として、宣誓式を行った。そんな大仰な式が行われるのは、大統領の許でだろうと思ったのだが、役職に推薦した人物の許で宣誓するというのもなんか変である。実際には、下院の議長ではなく、副議長の許で行われたようだ。
下院には、数人の副議長がいて議席を持つ政党が役職を分け合っているのだが、今回は第一副議長が担当になっていた。それが、第一副議長の職務なのか、議長不在の代理だったのかはわからない。問題はその第一副議長が共産党の党首だったことで、人権を抑圧してきたチェコスロバキア共産党の成れの果てに、人権を守るのが職務のオンブズマンが職務を全うすることを宣誓するの言うのはなかなかに皮肉である。
しかし皮肉はこれだけでは終わらなかった。共産党所属の副議長が、宣誓式が行なわれる前に心臓発作で倒れて病院に運ばれてしまうのである。その結果、内裏が必要となり、代理を務めたのが副議長の一人、SPDの党首オカムラ氏だった。これは偶然の産物なのだろうけど、ゼマン大統領に推薦されて、極右と極左の手によって任命されたオンブズマン。この組み合わせに、思わずチェコ語で「kombinace jako prase」と言ってしまった。
実際には、他の政党に所属する副議長が担当していたとしても、オンブズマンの仕事が変わるわkではないし大差ないのだけど、こういう役職にはイメージというのが大切だと考えると、オンブズマンの将来を暗示しているような気もしてくる。上院以上に目立たない役所ではあるけれども、重要な役所なんだけどね。
さて、この日はもう一つ重要な役職が決まった。先月急死した上院議長のヤロスラフ・クベラ氏の公認を決める選挙が上院で行われたのだ。候補者として名を挙げたのは、二人。クベラ氏が所属していた市民民主党の候補と、上院の最大会派である市長連合とTOP09が立てた候補者である。こういう議会の役職が、個々の議員の選択ではなく、党利党略、もしくは政党間の事前の談合によって決まるというのはチェコも日本も変わりない。だから、クベラ氏のような特別な個性を持つ人でない限り、誰が議長になったかはあまり意味を持たない。重要なのはどの党から議長が出るかである。
政党間の談合では、上院の第一党から議長を選出することになっているようだ。これに関しては異論をはさむ政党はなかった。問題は、どの時点の第一党かというところにある。前回の上院の選挙が行われ、クベラ氏が選ばれた時点では、市民民主党が第一党だった。その後バーツラフ・クラウス若など3人の議員が党を除名された結果、市長連合とTOP09の統一会派が第一党になったのである。
上院の議席は、2年に1回、3分の1づつ改選さる。そのたびに新しい議長を選出するので、上院議長の任期は2年である。つまりクベラ氏の後任は、今年の秋の上院議員の選挙まで半年ちょっとの任期しかないわけだ。それで、今回の選挙に際しては、議長は改選時に第一党だった市民民主党の権利として認めるべきだという政党が多く、市民民主党の候補者が下馬評通り選出された。
負けた市民連合の候補者は、負けたことは予想通りだったけれども、これほど大きな差がつくとは思わなかったと語っていたが、市民民主党の候補者の半分以下の票しか獲得できていなかったから当然の感想である。市民民主党が支持を集めたというよりも、市民連合とTOP09に対する反発もあったのだろう。例のオンブズマン選出にかんしてデモを行うと主張している団体と一番近いと思われているのがTOP09なのである。市民民主党の政治家でさえやりすぎだという感想を漏らしたデモ団体に対する政治家の反発が、TOP09への反対につながったと考えるのである。
新しい議長は動詞の過去形を名字とする人で、クベラ氏が台湾訪問を計画したことに関して、中国からチェコ政府に脅迫文書が届いたことを受けて、台湾訪問については慎重に検討するとか言っていたかな。中国政府がチェコに対して、いわゆる「一つの中国」に反することはしないように脅迫するということは、日本など他の国に対してもやっているはずである。脅迫文書には「上院議長の台湾訪問が実現したら、中国で活動しているチェコ人、チェコ企業にどんなことが起こっても責任は持てない」なんてことが書かれていたらしい。こんなの外交的にありなのか?
平気でこんな内政干渉をしてくる国に対しては、あれこれ配慮する必要はなく、とっとと断交するのが一番だと思うのだけど、世界には金のことしか考えない政治家が多くて……。トランプ大統領を支持する理由があるとすれば、それは中国に対して強硬な政策を取り続けているところである。今の中華帝国の再現を目指す共産中国を野放しにしては、世界が悲劇に巻き込まれると思うのだけどなあ。
2020年2月20日24時。
2020年02月22日
オンブズマン選出(二月十九日)
以前もちょっと話題にしたが、任期がそろそろ切れるオンブズマンの後任が国会議員の投票で決まった。数日前のことになるだろうか。選ばれた後任の名前自体は意外でもなんでもなかったのだが、一回目の審議で選出されたのはマスコミの事前の予想に反していた。オンブズマンの選出の手続きの詳しいことは知らないのだが、ニュースでは、その日の審議における投票では当選者が出ず、後日再審議、投票になるものと予想されていたと語っていた。
オンブズマンという言葉を始めて聞いたのは、1980年代、小学校の高学年か中学生のときのことである。当時は正直何をするものかはよくわからなかったし、日本では一時は何かと使われていたが、一時の流行に終わって忘れられた存在になった印象もある。そもそも日本に公的機関としてのオンブズマンが存在するのかどうかするよくわからない。まあ日本だとあったとしても、政治家たちによって骨抜きにされて形だけのものになっているだろうけど。
チェコでは市民の人権を守る国の役所として、2000年に設立された。行政の判断、決定によって不当な不利益を被ったと考える国民が、オンブズマンに提訴し、オンブズマンは提訴を却下したり、当該の官庁に改善や審査のやり直しなどの指示をを出すことになっているようだ。このオンブズマン制度の導入は、時期から考えてもEU加盟のための制度の整備の一環として行なわれたもののようにも思われる。
こういう新制度は、一般に最初に人を得られるかどうかに、成否がかかっているが、チェコの場合には幸い適任者が存在した。初代のオンブズマンに選ばれたのはオタカル・モテイル氏で、10年にわたってこの役職を務め、在任中に亡くなった。オンブズマンの任期は6年だから、2期目の途中でなくなったことになる。2003年だったか、2008年だったかの大統領選挙に際しては、立候補はしなかったものの、どこかの党の候補者に擬されたこともあるはずだ。
モテイル氏は、法学部卒業後の1950年代の半ばから弁護士として活躍したあと、当時のチェコスロバキアの法務省に入り、プラハの春の1968年からは最高裁判所の裁判官を2年ほど務めている。その後弁護士に戻り、共産党政権によって政治犯として弾圧された人々の弁護に当たっていた。買われてビロード革命の後には、最後のチェコスロバキア最高裁判所長官を務め、1993年からは初代チェコ最高裁判所長官に就任し98年まで務めている。98年からはミロシュ・ゼマン内閣で法務大臣を務めているけれども。社会民主党の党員ではなかったようだ。
このような経歴を買われて、2000年末に新たに設置された人権を守るための役所の長に就任したわけだ。そしてモテイル氏がオンブズマンの存在をいい意味で有名にするような活動をしたおかげで、オンブズマンの存在がよく知られたものになったと言っていい。正直モテイル氏以後のオンブズマンの名前は知らない。知らないけれどもオンブズマンというものが存在していて、ちゃんと機能しているということが知られているのが大切なのである。
だから、今回選出されたオンブズマンも、それが誰なのかというのはあまり重要ではない。モテイル氏に続くような仕事をしてくれればそれでいい。重要なのは、新しいオンブズマンがゼマン大統領の推薦によって候補者となったことである。先日過去に関する批判を受けて推薦を辞退したバールコバー氏の代理と言ってもいい。
他にも上院議員たちが推薦した候補者が二人いて、合わせて三人の候補者による選挙となったのだが、事前の予想では、今日3回の投票が行われても、誰一人所定の票数を獲得できずに、後日再選挙となる可能性が高いと見られていた。1回の投票ごとに選出の条件が変わるという、よくわからないルールがチェコの国会にはあるのだ。
それがフタをあけてみたら、1回目の投票では決まらなかったものの、2回目の投票で出席議員の過半数という選出の条件を満たした候補者が出た。ニュースではこの予想外の結果の原因について、昨年来、反バビシュ、反ゼマンのデモを繰り返し主宰してきた団体が、ゼマン大統領の推薦した候補がオンブズマンに選出されたら、抗議のデモを行うと発表したことだと言っていた。それに反発した一部の、ゼマン大統領の候補を今回の投票で支持すべきかどうか迷っていた議員たちが、軒並み支持に回ったために選出が確定したということのようだ。
本来なら、いわゆる政治的な駆け引きもあって、後任の確定が無駄に引き伸ばされるところだろうけど、そうならなかったのはデモの効用の一つと言っていいのかな。デモの主催者たちの意向ではなさそうだけどさ。
2020年2月19日20時。
2020年02月21日
スパルタまたまた監督交代(二月十八日)
昨日の夜、週末に試合が行なわれた場合、毎週月曜日に放送されている「ドフラーノ・プルス」にチャンネルを合わせたら、プラハのスタジオにはいなかったけど、オロモウツのスタジオから、もと監督のペトル・ジョン・ウリチニーが参加していた。最近70歳の誕生日を迎えたばかりで、オロモウツで行なわれたお祝いの様子も、番組の一部となっていた。
去年の秋にはブリュックネルが80歳の誕生日を迎えているし、オロモウツの誇る二大監督はほぼ十歳違いのようだ。誕生祝の映像にはブリュックネルは登場しなかったが、ウリチニーの話では、いまでも二人であれこれ文句を言いながら、オロモウツのスタジアムで行なわれる試合を観戦しているらしい。
ちなみにシグマ・オロモウツの関係者には、もう一人、日本でも有名な監督がいて、ウリチニーにお祝いの言葉を語っていた。それは、中東の代表チームを率いて何度も日本代表と対戦したミラン・マーチャラである。マーチャラは監督としてのキャリアを終えた後、選手を引退し監督を始めたオロモウツに戻ってきて、シグマで仕事をしているのである。
去年までシグマの監督を務めていたバーツラフ・イーレクが、数年前2部で開幕直後に、引き分け続きで全く期待された結果を残せず、解任の声が上がったときに、もう少しチャンスを与えようと決めたのがマーチャラだったと言われている。その次の試合から連勝が始まり、10連勝以上したんじゃなかったかな。最終的には危なげなく優勝と1部昇格を決め、翌2017/18年のシーズンは1部で4位という久しぶりの好成績を残した。
イーレクは8位と前年より順位を落として終えた昨シーズン終了直後に、スパルタに引き抜かれたのだが、わずか半年あまりで解任された。現在のスパルタは、2017年の夏にストラマッチョーニ監督をイタリアから招聘して失敗した後遺症に悩まされ続けている。チームのゆがみがすべて監督にのしかかり、ただでさえ圧力のかかるスパルタ監督の座が、さらに重いものになってしまっている。
その状況は、引退直後に大きな期待とともにGMに就任した天才ロシツキーにも、ロシツキーが白羽の矢を立ててオロモウツから引き抜いたイーレクにも立て直すことはできなかった。ロシツキーもGMとしてはまだ駆け出しだしなあ。イーレクも外国人選手だけでなく、無駄にプライドだけは高い中途半端な選手たちを掌握するのは、最初から荷が重そうな感じだった。
それでも、シーズンの開幕直後に連勝でもできていれば、勢いに乗って多少の問題は自然と解消されたのだが、開幕直後のスパルタは完全に運に見放されていた。ほぼ毎試合ディフェンスラインの真ん中のセンターバックの選手が致命的なミスを冒して、そのミスがほぼ毎回失点につながっていた。その結果勝つべき試合を引き分け、引き分ける試合を負けるという試合が、何試合もあった。試合を通してほぼ完璧に守っていながら、失点のシーンだけありえないようなミスをすることもあったし、今年のイーレクは運に見放されているとしか思えなかった。
攻撃のほうが当初からそこそこ形になっていて点がとれていたのと、秋のシーズンの終盤には守備もミスが減ったこともあって、何とか4位まで順位を上げて冬休みに入ったのだった。冬休み中には怪我で離脱が続いていたドチカルが復帰するなど期待を抱かせるニュースもあったのだが、再開前のキャンプを移籍を求めるハシェクが拒否したり、親善試合で点が取れずに連敗したりと次第に不安を抱かせる要素の方が増えていった。
そして、迎えた土曜日、ホームのレトナーでの試合でスパルタはまた醜態をさらして0−2でリベレツに負けてしまった。簡単に言えば攻めてはいたのに、カウンター食らって、守備のミスが出て失点して負けたということになる。点が取れなくなかった分、秋よりも重症である。イーレクに運がないと思うのは、再開後最初の相手がリベレツだったことで、今年は中位に沈んでいるけど、スパルタ相手にはいつもいい試合をするチームである。
この敗戦が最終的にイーレクの解任に結びついたのだが、ここで解任するぐらいなら、冬休みに入るときに監督交代しておくべきだったのだ。そうしていれば、新監督の方針に基づいて冬のキャンプを行うことができたのだから。今のスパルタの問題は、こういう中途半端な時点での監督交代が多すぎることで、イーレクに替ったのはシーズン終了後だったから久しぶりに期待できるかと思ったのだけど、そうは甘くなかった。
1シーズン、2シーズンぐらいは成績の低迷を我慢して、一人の監督に任せるなんてことをしないと、かつての強かったスパルタは戻ってこないような気もする。我慢するといえば、ウリチニーが、ブリュックネルがチェコ代表のディフェンスを築き上げるのに、ボルフとウイファルシ(ヤンクロウスキと言っていたけど多分勘違い)のコンビを我慢強く使い続けたんだなんてことを言って、イーレクが、開幕当初からセンターバックの組み合わせを何通りも試していたことを、我慢が足りなかったと評していた。まだまだ若い監督なんだからこの経験を糧に、どこかのチームでまた監督を務めてほしいところである。ウリチニーだって何度も解任されたことがあるわけだし。
月曜日の「ドフラーノ・プルス」は、これでおしまいかというところで、ウリチニーがあれこれ喋り続けてぐだぐだな感じで終了した。とんでもない爺さんである。この爺さんかつての教え子、現在監督をしているような世代の元選手たちと、全員ではないにしても、今でもいい関係を維持していて、お互いに「父ちゃん」「息子よ」なんて呼び合っているらしい。その一人が、リベレツの監督でスタジオにいたホフティフで、番組中にも「タテュコ」なんて呼びかけていた。ウリチニーは回り工夫に「シンク」と返していたかな。
イーレクの後任には、Bチームの監督だったコタルが就任することになった。昔フラデツ・クラーロベーで監督やっていた人かな。今週末はスパルタがオロモウツに来るのでお手並み拝見といこう。ウリチニーの話は別記事にしたほうがよかったかな。
2020年2月18日24時。
2020年02月20日
聖母マリアの碑(二月十七日)
聖母マリアの碑、チェコ語で「Mariánský sloup」は、「柱」と訳す人もいるけど、柱には建物の中にあるイメージが強くて自分では使えない。日本の板碑、つまり薄い石の板に文字が彫りこまれている碑のことを考えると、柱碑と呼んでもいいのだろうけど、「柱」を音読みで「ちゅうひ」にしても、訓読みにして「はしらひ」でも、語呂が悪いことこの上ない。ということで、無難に碑と呼ぶわけだ。
聖母マリアの碑は、オロモウツのドルニー広場に置かれたものがよく知られている。一番上に聖母マリアと幼子イエスの像が乗っかったあれである。オロモウツのものは18世紀に、ペストの流行が終結したことに感謝するために設置されたものである。モラビアがペストに襲われたのは1713年から14年にかけてのことで、流行が終結してすぐに建てられ始め、完成したのは1723年だという。
それに対して、プラハの旧市街広場にも聖母マリアの碑が設置されていたことを知っている人はそれほど多くあるまい。チェコスロバキア第一共和国が独立を達成した1918年の11月初めまでは、旧市街広場のヤン・フスの像にも近い辺りに建っていたらしく、現在でもそのことを記したプレートがはめ込まれているのだとか。
1918年に撤去された聖母マリアの像は、破壊されたのではなくどこかに保管されていたようで、これをどうするかで延々議論が続いていた。旧市街広場の元の位置に再建しようと活動しているグループもあれば、断固反対というグループもあって、プラハ市の中でも意見が半々に割れていた。それが先日のプラハ市議会か、区の議会かで採決が行われ、事前の予想に反して再建案が可決された。それでそろそ工事が始まるんじゃないかな。
もともとプラハの聖母マリアの碑は、オロモウツのものとは違って、ペストの流行の終結に感謝して建てられたものではない。1650年に、チェコの国土を荒廃させた三十年戦争の終結、具体的にはプラハ市がスウェーデン軍の攻囲を撃退できたことに感謝して、設置されたものである。この事実が、1918年に碑が倒された原因にも、現在再建に反対する人が多い理由にもなっている。
三十年戦争の終結は、一般的にはヨーロッパに平和が戻ったという意味でめでたい出来事なのだろうが、チェコ民族の観点から言うと話はそこまで単純ではない。宗教的には、それまでも禁止されながらも黙認されていたフス派などのプロテスタントの信仰が弾圧の対象となり、再カトリック化が強硬に推し進められることを意味した。コメンスキーなどを庇護したモラビアのジェロティーン家も没落して、カトリックに転向した系統が細々と生き延びるに過ぎなくなる。
政治的には、チェコ全土に対するハプスブルク家の支配が強化され、さらなるドイツ化が進行することを意味した。プロテスタント系の諸侯が没落した後に、外国からカトリック系の貴族が入ってきた結果、貴族社会におけるチェコ起源の貴族の割合も低下した。その結果、神聖ローマ帝国内におけるチェコの国体というか、国家的独立性はほぼなくなってしまい、イラーセクの言うところの「暗黒」の時代が始まることになる。
だから、チェコ人にとっては、1918年の独立は、三十年戦争で失った国体の回復をも意味したのである。それが、1918年の独立直後に、三十年戦争の終結を祝う碑が解体された理由になる。しかも、実行したのは、フス派の英雄ヤン・ジシカの名前を冠したジシコフの住民たちだというから、話が出来過ぎているような気もしなくはない。
再建賛成派のほうは、歴史は歴史として理解するにしても、過去に建てられた記念碑を現在の論理で解体するのはどうかということなのだろう。さすがにゴットバルトなど共産党の指導者の像は撤去されたが、第二次世界大戦中のソ連軍の犠牲者をたたえた碑は、解体されないまま残っているものが多く、終戦記念日などには記念式典が行われることもあるから、三十年戦争終結の碑も、個々の戦争指導者をたたえたものではないし、同じように扱うべきだと考えているのではないかと推測する。まあ、観光名所を増やしたいだけという可能性もあるけど。
そんな賛否半々だったのが、予想に反して可決された功労者は、共産党の政治家らしい。審議が行われた議会の議員ではなく、オブザーバーとして参加していて意見を述べたのだが、これを聞いた中立派と一部の反対派が賛成に回った。共産党の政治家が賛成の意見を述べたことが賛成者を増やしたのではなく、強硬な反対の演説をしたことが賛成派を増やす結果につながったのである。
ようは、三十年戦争の終結は、ハプスブルク家によるチェコの国体の解体を意味しており、それを祝うような記念碑を旧市街広場に再建するのは許されないというようなことを語ったらしい。それを聞いた人たちの反応は、共産党員の、未だに1968年のプラハの春の弾圧を否定するような共産党員のお前が言うなというもので、強硬な反対派意外、みな賛成に回った結果、可決されたのだという。
チェコ人のこういうところは、個人的には高く評価している。最近、同じようなことが国会の場でもあったのだけど、その件については、また別稿とする。
2020年2月17日24時。