新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2019年12月31日
『チェコの伝説と歴史』続(十二月廿八日)
もう一つ、この本を読みながら気になったのは、自分の土地勘のなさである。あれこれチェコ国内の地名が出てくるのだが、初めて見る地名が多くて困惑させられる。現在の主要な地名はもちろん、歴史上重要な地名もある程度は知っているつもりだったのだが、古いチェコの伝説に登場する地名の中には、普通の地図には載っていない小さな村に過ぎないようなものもあるのだ。そこが観光地化していれば知る機会もあるのだろうけど。
建国神話に出てくる地名が現在まで残っているという点では、日本も同じか。九州の人間だからある程度の場所のイメージはできるけど、外国人には無理だどうなんて考えたら、あまり気にしなくてもいいような気がしてきた。それよりも、日本とチェコの建国神話において、どちらも山が重要な役割を果たしていることのほうを気にするべきか。
チェコの神話の山、ジープ山は、神話の真偽はともかく、実在していて、ここがチェフとその一族がたどり着いたジープ山だと比定されていて、山頂だったか山腹だったかに、教会が建てられているはずで、毎年多くの人がこの伝説のために山に登る。日本神話の高千穂の峰が、どこにあるのか決められていないのとは対照的である。神話は歴史ではないなんてことはわかりきっているのだから、ここと決めてしまってもいいと思うのだけど。
日本の高天原に当たるチェフたちの故地はハルバートという名前になっている。それは知っていたのだけど、ハルバートというのは、ホルバートのバリエーションだと理解して、現在のクロアチアのある辺りをさしているのだろうと思っていた。それが実は大きな間違いで、現在のポーランドの一部がかつてハルバートと呼ばれ、ハルバートという部族が住んでいたらしい。そうすると、クロアチア人もハルバートから移動したということなのかもしれない。
注に付されている地図に、いくつもの部族名が書かれているのは、このあたりで最古の国とされるサーモの国で、サーモにしたがっていた部族がいくつもあったという話を思い出させるのだが、イラーセクはこのフランク人の商人と言われる人物の立てた国については書かない。プシェミスル家の成立にかかわる神話を語り終えた後、登場するのは大モラバ侯爵スバトプルクである。
モラビアが中心的な舞台となる話は、このスバトプルクについての話と、その次のモラビアの神話とも言える失われた王イェチミーネクの話ぐらいしかない。これもまたなじみのない地名が多い理由になっている。今年の夏にあちこちしたときもモラビアが中心だったから、モラビアないなら結構細かい地名まで知っているのだけど、ボヘミアのほうは、特に北ボヘミアは鉄道で通過したことしかないから、ほとんど知らないといってもいい。
モラビアに関する話が少ないのは、イラーセクがボヘミアの出身だからだろうか。プラハの出身ではないはずなのに、プラハの話が多いのは、プラハの話が一番たくさん残っていたのか、今にも続きモラビア人をいらだたせているプラゴツェントリズム(プラハ中心主義)の反映だろうか。そのわりには、スロバキアの義賊ヤーノシークの話も採録されているのが不思議である。
正直な話、チェコ人とスロバキア人を一つの民族と見て、統一した国家を作り出そうという考えが生まれたのは、20世紀に入ってからのことだと思い込んでいた。しかし、イラーセクの『チェコの伝説と歴史』にスロバキアのヤーノシークの話が入っているということは、イラーセクがスロバキアをチェコの一部、もしくはチェコにつながるものとして認識していたということでもあろう。それがイラーセクだけの考えだとも思えないから、19世紀以前にもチェコとスロバキアを一つにしようという考えがある程度広まっていたということか。
ちゃんと勉強したわけではないから、我が知識には結構偏りがあるなあ。あれこれ本を読んで復習しておく必要がありそうだ。
2019年12月29日23時。
2019年12月30日
『チェコの伝説と歴史』(十二月廿七日)
1918年のチェコスロバキア独立以前のハプスブルク家に支配されたチェコで、チェコ語で創作活動をしていた作家たちの中で、ニェムツォバーと並んでよく知られているのが、この本の作者のアロイス・イラーセクである。ニェムツォバーの代表作である『Babička』が『おばあさん』の題名で日本語に翻訳され、岩波文庫にも収録されるなど日本でも昔からよく知られているのに対して、イラーセクの作品が日本語に翻訳され出版されたのは2011年のこの本が最初である。
翻訳者の浦井康男氏の解説によれば、イラーセクは歴史小説家として知られ、特にフス派戦争以後のチェコ民族の苦難の時代において、民族の尊厳を守るために、民族の敵とも言うべき存在と正面から立ち向かった人々の姿を描く作品が多いらしい。言い換えれば重厚なテーマの暗い雰囲気の作品が多いということにもなり、知名度のわりにチェコでもあまり読まれていない作品が多いようである。
そんなイラーセクの作品の中の例外が本書でチェコ語での題名は『Staré pověsti české』。チェコでは子供向けの本として出版されており、今でも多くの子供たちに読まれているらしい。邦題の「伝説と歴史」というのは、チェコ語「pověst」の苦心の訳のようである。「pověst」という言葉自体は伝説と訳されることが多いが、評判に近い意味で使われることもある。内容が事実だとは限らないということである。
チェコ語ではそれに「staré」が付いているので、昔から伝わっている真偽不明の古い歴史的伝説をイラーセクが集大成したものと考えておく。日本でも1980年代ぐらいまでは、子供たちが神話の天孫降臨から江戸時代ぐらいまでの出来事をエピソード的に取り上げた物語的通史を読んで歴史認識の基礎を築いていたが、同じようなことがチェコでも行われていたのかもしれない。なんてことを考えていた。
この本を手に入れたのは、出版から4年ほどあとの2015年のことだが、以来夏や冬の長期的な休みにうちのの実家に出かけるたびに、読み通そうと持参していたのだが、これまではあれこれあって一部しか読むことができていなかった。それが今年、うまく時間が取れて3日ほどかけて注も含めて通読することができた。
通読してあれこれ誤解していたことに気付いた。一番大きいのは、チェコの神話に当たる民族のチェフの話から通史的に伝説が並べられていると思い込んでいたことで、実際には通史というには取り上げられている時代も少なく、必ずしも年代順に並んでいるわけではなかった。特に聖バーツラフを除くプシェミスル朝の王については、いくつかの部分で断片的に取り上げられるに過ぎない。
その後の歴史でも王たちについてよりもフス派のジシカについて詳しく記されているわけだけれども、このことについて、1978年という共産党政権下に出版された版では、イラーセクはチェコの諸侯や国王たちが歴史の主人公だった時代には関心を持っておらず、人民が歴史において役割を果たし始めたフス派戦争の時代からイラーセクの歴史は始まるのだといういかにもな解説が付いている。この版は、何とクレメント・ゴットワルトによる短い序文がついているという点でも時代の産物なのだけど。本人が書いたのかどうかは不明である。
誤解といえば、これまでチェコ語の子供向けの本で読んできたチェコの神話の冒頭部分と、イラーセクの書いたものとは微妙に違っていた。チェフには弟のレフがいて、このレフとレフに率いられた人たちがポーランド人の祖になったという話は知っていたが、二人の率いる集団が分かれたのは、新たな定住の地を求める旅の途中だと思っていた。それがレフたちも一度は、チェフとともにジープ山のふもとに定住してしばらくしてから再度旅立ったのだという。
どちらが正しいかという問題ではなく、自分が読んだ本の記述がイラーセクの本を元にかかれたものだと思っていただけに、その違いに驚いただけである。もちろん、この手の子供向けの神話を読んだのはチェコ語の学習を始めたばかりのころだから、こちらのチェコ語の能力の不備で誤解していた可能性もないとは言わないけど。
他にも二代目の指導者であるクロクがチェフの息子ではないとか、リブシェと結婚してチェコの指導者となるプシェミスル・オラーチが、以前から知り合いだったとか、「娘たちの戦い」の女性側の指導者がリブシェの侍女だったとか、こちらが知っている話とは微妙に違っていて、すでに知っている話なのに、興味深く読むことができた。
気になるところは他にもあったのだけど、クリスマス進行中でもあるし、次回回しにする。
2019年12月27日24時。
2019年12月29日
鉄道の問題未だ終わらず(十二月廿六日)
人的な被害は出なかったが、鉄道の運転士が赤信号を無視して発車した結果、線路の切り替えの設備が破壊され、その後大きな遅れが発生するという事故が二件起こった。事故を起こした会社は、チェコ鉄道とアリバである。アリバは、ダイヤの改変によっていくつもか路線をチェコ鉄道から引き継いでたったの一週間ちょっとで二件目の同様の事故らしい。
これは、チェコ鉄道などのほかの会社と比べて、アリバの事故頻度が高いという話ではあるのだけど、その根底には運転士の人材不足という問題が横たわっている。私鉄が運行を開始する以前から、運転士の超過勤務が問題になっていた。チェコ鉄道と、分離した貨物部門のČDカーゴや他の貨物鉄道会社の運転士を掛け持ちする事例がかなりの数に上っていたらしい。
今回のダイヤ改正で、担当する路線がかなり減ったチェコ鉄道だが、余剰になった運転士の解雇はせずに、運転士の勤務体制を見直すことで対応すると言っていた。誰一人辞めなかったということはないだろうが、アリバやレギオジェットなどの担当する路線の増えた私鉄では、運転士の確保に苦労していたようである。単なる利用客のところにまで、運転士を含むスタッフ募集のメールが届いたぐらいである。
人材不足の運転士を確保するために、他業種から転職を考えている人のための運転士養成コースが開かれているなんて話もニュースになっていたから、新人の経験のない運転士も仕事をしているはずだ。そんな新人が遅れてばかりで批判されているアリバで仕事をしていたら、遅れを出さないことに気が行き過ぎて信号を見落としたとしても不思議には思わない。事故を起こした運転士が本当に新人だったかどうかはわからないけれども、ほとんどすべての便が遅れるという状況を解決しないと、いつまた同じような事故が起こるかわからないとは断言できる。
アリバの運行する路線が遅れを連発する理由もニュースになっていたが、一言で言えばドイツ鉄道に押し付けられた中古の気動車がチェコの鉄道の路線に適応できていないことに尽きる。これらの車両は、ドイツの中でも平地、ほとんど起伏のない路線を走っていたもので、平地でスピードを出すことに特化しているらしい。
それが緩やかとはいえ、起伏の多いチェコの路線では実力を発揮することができず、登り坂の途中で止まってしまったなんてこともあったらしい。事前に一回でも試走していれば問題の発生する可能性があることがわかっていただろうに。ドイツ鉄道からの引渡しが遅れたことが原因だろうか。どこかの地方では各駅停車だけではなく急行も運行しているらしいが、登り坂で必要なスピードが出せずに止まったり遅れたりする急行に意味があるのだろうか。
また、登り坂でスピードが上がらない結果、何の問題なく運行できた場合でも、10分程度の遅れが発生するという例も報告されている。今回のダイヤ改正で運行担当がアリバに代わったところでも、去年までのチェコ鉄道が運行していた時代のものを基に時刻表が設定されている。チェコ鉄道のオンボロ気動車で可能なダイヤだから、ドイツ鉄道の旧型ならどうにでもなると安直に考えたのだろうか。こうなると会社の体質が問題と言ってもいいかもしれない。
アリバの広報担当は、準備期間が短かったわりにはよくやっていると自画自賛していたけれども、準備していたとは思えない結果である。登り坂で遅れてしまう問題に関しても、これから調整すればチェコ鉄道の使用しているものと同等の力を発揮するはずだと言っていたのかな。ということはエンジンやギアなどの設定が変えられるということだろうから、事前に試走して設定を変えておくのが普通だと思うのだけど、経費がかさんで利益が減るのを嫌がったのかね。
最近、チェコ鉄道が使用する機関車や客車などの車両を更新するのに、ドイツ鉄道からではなく、オーストリア鉄道から中古を購入している理由がわかった気がする。チェコ鉄道も準備期間が足りずに、車両の塗装がオーストリア鉄道のまま走らせたりはするけど、調整不足で性能を発揮できないなんて話は聞いたことがない。
ペンドリーノは試験走行を繰り返してなお、まともに運行されるようになるまで時間がかかったけど、あれは特殊例で、もう十五年も前の話だし、走らせるためにだけでも路線の大改修工事が必要だったのだ。あのときもドイツではなく、わざわざイタリアの電車を選んだわけだ。
それはともかく、アリバには一度オロモウツからプラハまで乗ったことがあるけれども、そのサービスのあり方やら車両やらにはまったく感心するところはなく、二度と乗るまいと思ったのだった。こちらが鉄道を利用しそうな行き先は、アリバを使う必要はなさそうなのが救いである。原則として行政区分としての地方の境を越えて走る長距離特急、急行を使っていればほぼ実害はないと言っていいのかな。
2019年12月26日24時。
2019年12月28日
永延二年二月の実資(十二月廿五日)
二月の朔日は『小右記』の記事は残っていない。『日本紀略』には除目召名が行われたことが記されている。召名は、除目で任命された官人の官位と姓名を記した文書をさすが、それを読み上げて任じられた官人に任命されたことを伝える儀式のことも言うので、ここはその儀式のことであろう。一月の除目に対して実資は不満を漏らしていたので、記事が現存すれば、ここでも批判の言葉が記されているに違いない。
三日の出来事は『大日本史料』には立項されていないが、『小右記』によれば円融上皇のところで、歌舞のことが行われている。円融寺の五重塔の供養で奉納するための練習だったかという。左大臣源雅信以下、藤原公季、安親などが参入している。実資は上皇の許での儀式が終わると内裏に戻って候宿している。
四日は、『小右記』の記事は残っていないが、『日本紀略』に祈年祭と大原野祭が行われたことが記される。祈年祭は毎年二月四日に宮中で行なわれた国家の安寧と穀物の豊作を願った祭り。春の大原野祭は二月の最初の卯の日に行われていた。
五日は『大日本史料』も『小右記』の記事を引いているが、兵庫寮の倉に放火して盗みを働いた犯人が逮捕され、摂政兼家の命令で追捕にあたった衛門府の官人が褒美をもらっている。ちなみに褒美は蔵人所の持っていた絹だったようだ。実資はこの日候宿している。
兵庫寮の倉が焼けたことは、前年の十一月十七日の条に記録が見えるようだが、残念ながら『小右記』の記事は残っていない。
七日は、いつのことかはわからないが倒壊していた大学寮の建物の建築が完成している。『日本紀略』には「大学寮諸堂曹司」とあるが、藤原氏の大学別曹である勧学院も立て直されたのだろうか。『小右記』の記事が残っていないのが残念である。この日は大弁以下の官人、および大学寮の学生たちが参列して建物の完成を祝っている。
またこの日東寺の長者を務めていた僧、元杲が辞任。これは『日本紀略』ではなく『東寺長者補任』というそのものの名前の書物の記述による立項である。元杲は藤原氏出身の真言宗の僧で、祈雨の修法に効験あらたかだったと伝わる。『小右記』にも雨乞いを担当する僧として何度か登場している。
八日には、『日本紀略』によれば、僧嘉因などを宋に派遣している。嘉因は前年宋から帰国したばかりの「然の弟子に当たる人物である。894年の遣唐使の派遣停止によって、日本から中国大陸に派遣された公式の使節は途絶えるわけだが、民間の船の往来は盛んになっていたのだろう。「然の場合も、嘉因の場合も、民間の商船に便乗して宋に赴いている。嘉因は「然が宋に向かった際にも同行しているので二回目の入宋ということになる。「然も嘉因も公式の使節ではなかったが、宋の皇帝と面会し日本の文物を献上している。「然と嘉因のことは中国の歴史書『宋史』にも献上物なども含めて詳しく記されている。
『日本紀略』によると、十日に釈奠、十一日に列見が行なわれている。釈奠は孔子とその弟子達を祭る儀式で、大学寮で行なわれたものである。この日に間に合わせるために大学寮の建物の再建が急がれたものか。列見は、毎年二月十一日に行なわれた儀式で、諸司の六位以下に叙されるべきだと選ばれた者たちが太政官に参上して列立し、大臣が点見した。
十八日は、『小右記』の記事があり、毎月恒例の清水寺参詣が行われたことが記される。また前日の十七日に左大臣の源雅信と右大将藤原済時が昇殿などのことを決めたらしいことが伝聞の形で記されるが、欠字が多くよくわからない。
廿一日には参議源忠清が亡くなっている。『公卿補任』によれば参議になって十六年目のことだったという。『小右記』にはこの日の記事はないが、これまで数回、参議、もしくは右衛門督として登場している。源忠清は醍醐天皇の孫で臣籍に降下した人物である。
廿七日は、『小右記』の記事が残っており、除目の召名に誤りがあった際に修正する直物とそれに附属する小除目が行なわれている。実資はその場にいなかったのか伝聞の形式で書いている。「事淡く薄きに依る」という理由で即座に退出したようだ。批判だろうか。
また、先日東寺の長者を辞任した大僧都元杲が大内裏内の真言院で御念誦を行なっている。大の月は廿八日から、小の月は廿七日から三日間行なわれた儀式だというが、実資によれば長年行なわれていなかった儀式が久しぶりに行なわれたもののようである。おそらく天皇の食事煮について記されているが、これは摂政兼家が決めたことだという。
廿七日小除目について、実資は廿八日の条で不満をぶちまけている。右大臣藤原為光の子、誠信が実資を飛び越して参議に任じられたのである。参議としても近衛府の中将としての勤続年数でも上にいる実資ではなく、誠信が任じられたのは父為光が、廿五日に摂政兼家のところに出向いて懇願したからに違いないと実資は批判する。「許されなければ私はこの家を出て行かない」なんて、かなり具体的な為光の言葉が記されているということは、誰かが情報を伝えてくれたのか、都中に広がっていたのか。為光が誠信の参議任官のために兼家に懇願していたという話は、正月廿九日と思われる記事にも記されている。
他にもいくつかの補任が行なわれようだが、誠信の件ほど問題にするべきものはなかったようで、詳しいことは記されていない。藤原道頼が右近中将に任じられたのを「執柄の孫なるが為か」と批判したぐらいである。道頼は摂政兼家の孫で、父道隆に軽んじられて出世は弟の伊周より遅れていた。それでも周囲と比べるとはるかに早かったのである。
2019年12月25日23時。
2019年12月27日
永延二年正月の実資(十二月廿四日)
永延二年の『小右記』は、略本系統の写本しか残っていないため、記事が読める日のほうが少ない。そこで、この月の記事の欠けている日にどんなことが起こっているのか、『大日本史料』を元に簡単に穴埋めをしようと思いついた。
一日は、清涼殿の東庭で群臣が天皇に拝礼する小朝拝が行なわれている。この時期、行なわれない年もある儀式で、花山天皇の時代に、何の連絡もなく中止になったのを批判する記事を読んだ記憶もある。小朝拝自体が、百官を集めて行われる、本来の朝拝を簡略化した略儀であることを考えると、花山朝の儀式運営が適当で、代替わりを経て通常の状態に戻ったと考えることができそうだ。実資としては小野宮流の頼忠が関白の地位を失って、九条流の兼家が摂政になったのは、望ましいことではなかっただろうが、同時に摂政兼家の就任で朝廷の運営が正常化されたことは歓迎すべきことだったはずだ。『日本紀略』には、左大臣源雅信、右大臣藤原為光以下が参入したことが記されている。
二日は、中宮と東宮が宮中で行う大饗という名の宴会。本来の予定通り二日に開催されるのは珍しいような気もする。中宮はまだ円融天皇の中宮の藤原遵子、東宮はのちの三条天皇である。ただし、前年の寛和三年にも二日に大饗が行われたことが『小右記』に記され、そのときは中宮ではなく、一条天皇の生母である皇太后藤原詮子が担当しているから、この年も詮子が行った可能性が高い。『日本紀略』には、「二宮大饗」とあるのみ。
三日は、天皇が上皇、もしくは皇太后を訪問する朝覲行幸が行なわれている。引用されているのは『栄花物語』だが、「日本古典文学全集」版の頭注によれば、二年後の正暦元年のできごとを誤って永延二年のものとした可能性もあるらしい。このとき上皇としては冷泉、円融、花山の三人の上皇が存在するわけだが、一条天皇が訪問したとすれば、父の円融上皇のはずである。仮にこの都市の出来事であるなら、一条天皇の蔵人頭で、円融上皇にも仕えていた実資も同行したか。
六日は叙位、もしくは叙位の議。このころ、六日に叙位で位階を進めるものを選定するための叙位の議が、七日に授位が行なわれた。『日本紀略』のこの日の条には「叙位議」とのみ。他に『公卿補任』に七日に叙された例が見られることから、六日に叙位の議が行なわれたと考えられる。
七日に叙位とともに行なわれたのは、白馬節会である。天皇が紫宸殿に出御し、左右馬寮が南庭に引き出す白馬をご覧になった儀式。馬の数は廿一疋とされた。七日節会とも呼ばれており、『日本紀略』には、「節会」としかないが、七日の条にある時点で白馬節会であることに疑いはない。花山天皇は馬好きでしばしば儀式でもないのに馬を牽かせて実資に批判されていたが、一条天皇はどうであろうか。
八日からは御斎会。十四日までの七日にわたって行われる。同じ時期に真言院では「後七日修法」も行われており、『大日本史料』では両方の名称で立項されている。
九日には蔵人の補任が行なわれ、平惟仲が蔵人に任じられている。現時点では右中弁で廿日条にも登場する。『小右記』での初出は、前年の寛和三年三月、昇殿を許されたことが記されている。
十五日には、『日本紀略』『公卿補任』の記載に寄れば、藤原伊周に禁色が許されている。祖父の兼家が摂政となり、父道隆がその後継者と目されていたがゆえの特別扱いだろうが、『小右記』が現存していれば、何らかの批判の言葉が読めたに違いない。この時期の伊周の扱いというのは、特別扱いされることの多かった藤原北家の本流の中でも特別で、ありえないぐらいのスピードで昇進を遂げている。当然実務経験を積む機会もなかったわけで、使えない公卿、ひいては大臣になってしまうわけである。
十六日は、踏歌節会の日だが、『小右記』の記事が現存する。それによれば、新中納言の藤原道兼が紫宸殿の「御後」と呼ばれる場所に侯じ、権大納言道隆が内弁の役を務めるなど、摂政兼家の息子たちが中心となって儀式が進められている。ただ、内弁道隆の差配にはあれこれ問題があったようで実資の批判にさらされている。道隆と道兼なら、実資は道兼のほうに親近感を感じていたような印象も受ける。
十七日は、何らかの理由で射礼が延期されているが、『日本紀略』にも詳しいことは書かれていない。
廿日は、『日本紀略』によれば、正月の外記政の始めである「政始」も行われたことになっているが、『小右記』に記事が残るのは、摂政兼家邸での大饗についてだけである。前年もこの時期、十九日に行っている。この日の大饗については、欠落があるようで、非常にわかりにくいのだけど、出席者が並び立つのに順番が問題にされている。この辺は、位階と官職とどちらを優先するのかなんて問題があって、難しいのである。
本来大臣大饗に際して天皇から下賜される甘栗と蘇のうち、蘇が西海道の国からまだ届いていないために、下賜されなかった。大臣を兼任していない摂政の行った、この日の大饗は大臣大饗とは微妙に違っていて、本来二疋のはずの引出物の馬が一疋になっている。
また伊周と並ぶ無能公卿として実資に批判されることの多い藤原公季が、季節にそぐわない色の下襲を着用しており、実資に批判される。特に節会や大饗のような重要な儀式の際には、季節に合わない色は着用しないものだという。
『日本紀略』によれば、翌廿一日に左大臣の、廿三日に右大臣の大饗が行われているが、現存する『小右記』にその記事はなく、廿一日条には、前日の夕刻に蘇が鎮西から献上されたことだけが記される。その後に、蘇と甘栗を勅使に「賜ふ」というのが、左大臣大饗へ勅使を遣わしたということなのだろう。勅使を務めたのは、摂政兼家の孫兼隆である。
『小右記』の廿九日条は、前半が欠落しているが、内容から地方官の叙任、つまり縣召の除目が行われたことがわかる。確実に読めるのは実資の母の兄弟である藤原永頼が讃岐に、高階敏忠が肥前に任じられたことぐらい。どちらも問題含みで、特に後者に関しては「未だ聞かざる事なり」と強く批判している。こんなことが多くて細かくは書かないという。『大日本史料』に引く『公卿補任』で実資の気に障りそうなのを探すと、道長が廿三歳にして権中納言に昇進しているが、参議に任じられることなく中納言というのは異例も異例である。
実資は最後に右大臣為光が、息子の誠信を参議に任ずるように懇願していることを記す。為光は自分が大臣を辞任してもいいから息子を参議にとまで言ったらしい。このときは許容されなかったが、一月後の二月末に実現してしまい、上臈でありながら参議に任じられなかった実資を怒らせることになる。ただし、藤原誠信は参議から昇進することができず、後に弟斉信が中納言に昇進したことを恨んで亡くなったとも言われる。
2019年12月24日24時。
2019年12月26日
名詞について――薀蓄系〈いんちきチェコ語講座〉(十二月廿三日)
かなり間が空いてしまったのは、この手の記事をどのような体裁にするか決め切れていなかったのと、チェコ語の固有名詞のカタカナ表記をどうするか悩んでいたからである。クリスマス進行が近づきそんなことも考えている余裕がなくなったから、再度見切り発車である。
@「いんちきチェコ語講座(二) 名詞」
チェコ語について書いた二つ目の文章がこれ。日本人がチェコ語を勉強する際に最初に覚えなければ行けないことの一つが、名詞に三つの性があり、そのうち男性名詞にだけ活動体と不活動体の区別があるということである。当然、納得できないこと、女性名詞が男性の名字になったり、男性名詞が女性の地名になったりすることなども指摘してある。格変化についてはさわりだけで詳しいことは書いていない。
A「いんちきチェコ語講座(三) 名詞の格変化」
具体的な個々の名詞の格変化についてではなく、チェコ語の名詞の格変化について概説したもの。このころはまだ、チェコ語の詳しい説明をした文章を書くつもりはなかったと記憶する。一年以上続けられるとも思っていなかったし。
妙に具体的なことも書いてあるけど、それは「困ったときのU」という学習者への助言? を導き出すためである。格に関しては、数字を使った呼びかただけでなく、ラテン語起源の学術的な呼び方も覚えておいた方がいいと言うのは、チェコに勉強しに来る人向けのアドバイスである。
B「複数の迷宮」
チェコ語の名詞を複数で使うときに問題になることを簡単に説明したもの。単複の区別とは別に、二つの場合に特別な形を使う名詞とか、単複で性が変わる名詞、数詞と結びつけたときに5以上は単数扱いになるとか、チェコ語の複数にはややこしいことがたくさんあるのである。
C「チェコ人も知らないチェコ語」
チェコ語の名詞の中には、複数でしか使わないものがある。ここで取り上げたのはそれではなくて、複数で使うことが多い名詞で単数の形がわかりにくいもの、つまり男性名詞なのか女性名詞なのかわからないものである。代表格の「フラノルキ」はチェコ人でも単数一格の形に戻せないことが多い。例によって枕が長すぎてあれだけど。
D「チェコ語における外来語と外国の固有名詞」
チェコ語の名詞の中でも特に外国語に起源をもつもの、チェコ語の文章に表れる外国語の固有名詞に関して問題点を指摘したもの。どちらかというと発音のところに入れたほうがよかったかもしれない。フランス語の固有名詞の語尾の発音されない子音は、1格では発音されないが、2格以降で語尾がついた場合には発音されるというのは覚えておいたほうがいい。
E「チェコで書かれたチェコ語の教科書」
日本のチェコ語の教科書では、名詞の格変化を変化の種類ごとに、1格から7格までまとめて勉強するのに対して、チェコで書かれた教科書では、1格から7かくまで、それぞれの格ごとに、すべてのタイプの格変化をまとめて勉強する。つまり日本では格変化表を縦に勉強し、チェコでは横に勉強するのである。チェコ語の名詞の格変化を身につけるためには、どちらかではなく、どちらも使うのがいいというお話。
F「略語、略称2?」
チェコ語には、アルファベットを並べた略号だけでなく、略号を許に普通の名詞が作り上げられたものや、名詞に形容詞がついたものから、一単語の略称となる名詞が作り出されたりするという話。略称ともともとの形容詞+名詞の間に性の一致はあるのかなんてことも考察してみたけど、あるとは言い切れないという中途半端な結論になってしまった。
G「地名の迷宮――名詞の問題」
男性の人名が地名やお店の名前となっている場合に、どのように格変化させるべきなのかという問に答えた(つもりの)文章。このやり方は、格変化のさせ方のわからない外国の地名、特に日本の地名を文中で使う場合にも援用できるというお話。
H「飲み屋の名前――名詞の問題」
Gとつながる問題で、飲み屋の名前が「U」とか「V」などの前置詞で始まる場合に、文中で使うためにはどうするのかという話。この辺は好みもあるけれども、個人的にはGで紹介したやり方を使うことのほうが多い。
I「牛の話」
チェコ語で動物を表す名詞を使用する場合に、日本語なら迷わず「ハチ」とか「ワニ」と言って済ませられるのに、具体的な種類まで考えなければならないのが困るという話を枕にして、牛を指す名詞がたくさんあって、悪口としてつ変わられることが多いというのを経て、間投詞的に使われる「ボレ」という名詞の5格について語った文章。
J「お金に関する俗語」
知らなきゃ使えないどころか、聞いても理解できないある特定の金額を表す名詞を集めたもの。
K「名字の女性形」
男性の名字から、どのようにして女性の名字が作られるかについての説明。チェコ語では男性と女性の名字が全く形になるのは例外的である。
名詞の格変化についてはまた次回。
2019年12月23日24時。
2019年12月25日
大学入試改革なんざやめちまえ4(十二月廿二日)
承前
ということで、今回は後者の「元外交官が嘆く、英語教育改革の愚 センター試験の「読み」重点は正しい NHKラジオ英語講座で磨ける能力とは」についてである。内容にはおおむね賛成するし、最後を除いて特に批判するようなこともないのだけど、何ともいやみな、英語で落ちこぼれた人間のコンプレックスを刺激してくれる文章である。今ではチェコ語が「ぺらぺ」ぐらいにはなっているので、それほど気にならなかったけど、最初にチェコに来たころ、大体何となくわかる程度の意思疎通はできるというレベルの英語で苦労していたころに読んだら、むかっ腹を立てて改革派に賛成してしまったんじゃないかと思った。記者の記事のまとめ方の問題だとは思うけど。
とまれ、読む力をつけるのが外国語習得の基本だというのは正しい。読んで理解できないようなことを、聞いて理解できるわけがないし、書いたり話したりなんてのも無理な話である。勉強法で気になるのは、最初は英語の発音がカタカナ英語だったけど、NHKのラジオ講座を聞いていたら矯正されたという部分で、これは大半の人には難しいだろうと思う。
チェコ語でも、他人のことは言えないわけだけど、かなりチェコ語がよくできる人でも、教科書のチェコ語の文にふられたルビの影響で、カタカナ発音が残っている人、特に「ti」を完全に「チ」と発音している人は多い。ただし、それが問題だというつもりはない。子音が連続しているところでついつい母音交じりに発音したり、RとLの発音が微妙だったりしても、使っている言葉が正しく文法にも大きな問題がなければ、それなりに通じはするのだ。
前の文章にも言えることだけれども、何のために外国語、特に英語ができるようにならなければならないのかという視点が欠けている。この人は外交官として活躍したというから、文法だけでなく発音まで正しい英語を使うのが望ましかったのだろうが、そもそも正しい英語の発音ってのはどこを規範にするのだろう。我が少ない英語での経験に基づいてもイギリス、アメリカ、オーストラリアなどなどそれぞれに違った理由で聞き取るのが大変で、実は一番聞き取りやすかったのがドイツ人の英語だったと言う落ちがつく。
チェコ語に関して言えば、最初は通じればいいであまり細かい発音は気にしていなかったのだが、師匠にチェコ語を習うようになってからは、師匠のような発音でしゃべりたいというのが目標になった。特に発音の矯正をしたわけではないけれども、師匠と話すときには師匠の発音を真似て話す努力はした。そのおかげで、聞き取りやすいとは言ってもらえるようになったが、完璧には程遠い。去年のサマースクールの発音矯正のクラスでは結構だめだめだったし。最近師匠と話していないのが、原因だと考えている。文法の面でもチェコ語を研究するつもりはないから、現在では使われなくなった古い文法の勉強はしなかったし、これからもする気はない。こんなのはたまに出てきたときに、これはあれだねとわかればそれで十分なのである。読んでいる場合には意味は類推できるし。
それから、大正期から続く英語の学習法が間違っていないのだというのにも、限定的だけど賛成する。明治大正、下手すれば江戸時代に英語を学んだ人たちの中に、現代でも通用するレベルで英語ができる人がいるのは確かだし、訳読を中心とした勉強法というのが正統的で、正しい英語を身につけるために必要だというのには賛成する。
ただし、この手の勉強法が合わないと言う人がいるのもまた当然のことだし、教科書で読まされる文章に魅力が欠けて、読む意欲がわかないことが多いのもまた事実である。だから、センター試験の英語は変える必要がないと言うのには賛成できても、英語の授業がこのまま、もしくは、我々が勉強したときのままでいいというのには、ちょっと同意しかねる。黒田龍之助師もどこかに書いていたように、面白い文章はえてして難しいというのも事実だから、バランスが大切なのだろうけど。
地方の公立の進学校の底力を称賛しているように読めるのも大賛成である。仮に田舎の高校の進学率が低いということがあるとしても、それは教育力が低いことは意味しない。田舎から出たくないと考える生徒たち、出したくないと考える親たちがいて、私立のいわゆるFランクの大学に行くぐらいだったら、浪人するか就職するかした方がましだという価値観が残っているからである。多分今も残っていると思う。うちの田舎にもレベルの低いといわれる私立大学があったけど、そこに行った同級生は一人もいない。
交通の便の悪さならともかく、教育のレベルが低いとかいう理由で地方の高校を哀れむなんて、現実を知らない都会の人間の思い上がりに過ぎない。仮に今後大学入試の改革をするというなら、地方の高校の先生で歯に衣着せぬ物言いのできる人を助言者として採用するべきだろう。そうしないと、地方のため野という美名のもとに、地方の負担が増加するだけである。我が高校時代の英語の先生なら、今回の改革案についてぼろくそにけなすだろうなあ。
最後にどうしてもこの人の意見に賛成できないのが、試験改革を企てているのが、英語の勉強に失敗した人じゃないかというところで、これはどう考えても自分は英語が得意だという人が、苦手な人に対して余計なおせっかいを焼いているとしか思えない。英語が苦手な人は、大学受験の英語を何とか乗り切れればそれで十分なのであって、こっちの方法で勉強すれば英語ができるようになるとか言われても、英語のいらない分野に進むからと関心を示さないだろう。海外旅行程度であれば受験英語の搾りかすでも何とかなるわけだし、嵐はやり過ごすに限るのである。
二つの文章を読んで不満だったのは、母語である日本語と外国語の関係に無頓着だったことで、日本語でできないことが外国語でできるわけがないのである。日本語でもまともな文章が書けない人間に、英語で書けなんていったところでできるわけがない。それは作文に限らず、話す方も同じであって英語教育をどうこうする前に国語教育を改めるべきだと思うのだけど。
改革推進派にしろ、反対派にしろ英語が得意な人たちにはこの視点が絶対的に欠けているのが、最大の問題である。国語を軽視するから英語どころか日本語すらもおぼつかない総理大臣やら、新聞記者やらが横行することになるのだ。
2019年12月22日22時。
2019年12月24日
大学入試改革なんざやめちまえ3(十二月廿一日)
承前
地方の高校生に同情的なことを語っているが、勘違いも甚だしい。地方の受験生が都会の受験生に対して不利な点としては、受験に時間と金がかかるというのに尽きる。東京の受験生ならピンからキリまでいろいろな大学をいくつ受けても、受験料以外に必要な金額は微々たるもだろうが、田舎の学生がそんな受験をしようとすれば、毎回東京に出るなり、長期的に東京に滞在するなどするしかなく、かかる金額は大きなものになる。
その意味で共通一次やセンター試験がそれぞれの県で受けられるのはありがたいことである。ただ、これにも県内格差があって、会場から離れたところの受験生は前日からホテルに滞在するなどしなければならない。うちの高校もバスツアー組んでホテルに二泊した。年に一度の試験だからありがたいと思えるけど、それに加えて英語の検定試験を受けるために会場まで、場合によっては何回も行かなければならないというのでは、大きな負担になる。それとも民間の英語検定試験を受験者のいるすべての高校で実施させるつもりだったのだろうか。
仮に地方と大都市の受験生の間にある格差を解消したいというのなら、最善の方法は受験にかかる費用を少しでも軽減してやることである。そんなこともしないで入試制度だけ変えて、地方のためにとか言われても、地方を馬鹿にするなとしか思えない。本来であれば受験業者の模擬試験を受けるのにも、会場のある都市まで出て行かなければならないところを、高校で受験できるように業者と交渉したりして、不利にならないようにしていたのも、田舎の高校の先生たちであって、政治家でも官僚でも、改革好きの理論家でもなかったのである。
さらに新試験を12月に実施する計画だったというのも、よく文部省の高校教育を担当する部署から文句が出なかったなあと感心してしまう。都会の高校と違って田舎の高校生にとって、地元の大学以外の受験は、受験旅行といわれるほどに手間がかかる。同じ大学を受験する生徒が多い場合には、高校の先生が引率する受験ツアーが組まれるほどで、その準備に手がかかるのと受験対策が行なわれるのとで、高校三年の三学期というものは、田舎の進学校には存在しない。
形式上定期試験はあったけれども、受験日程の関係で受けられない生徒も多く、大学へは内申書が提出されており重要ではないということもあって、それまでとは打って変わって適当なものだったらしい。自分では受験に出ていて受けていないので知らないのだけど、とにかく高校三年の三学期には本当の意味での授業も試験も皆無だったと言っていい。一月は共通一次のための対策ばかりだったし、それが終われば個別に二次試験、もしくは私立の受験対策で、自習+先生への質問的な授業ばかりだった。自宅で勉強すると称して登校しなくても全く問題にされなかった気もする。それどころか推薦で決まった奴は邪魔だから来るななんて雰囲気もあったし。来るなと言われて高校の代わりに自動車学校に通うなんてのもいたなあ。
そんな状態で12月に一次試験を移したら、高校の完全受験対策予備校化が早まって、へたすりゃ二学期の初めから通常の授業をなくして受験対策ということになりかねない。最初は自重するだろうけれども、そのうちずるずると早まっていくに違いない。そうなると高三の二学期、三学期の分の学習内容を一学期までに詰め込まなければならなくなり、先生や生徒達の負担は増加する。以前に比べれば勉強すべき内容が減っているとはいえ、大変なことは大変なのである。
この記事では、自分の学校の学生たちを自慢して、外国から来た先生の英語の講義でも問題なく理解できていると語っているけど、問題はその理解のレベルである。英語がよくできるのであれば、英語が理解できるというのはそのとおりだろう。ただ、その内容をどこまで深く理解できているのかというと、それは英語の能力ではなく個々の学生の知識と理解力による。講義に発表原稿が配られるという前提で言えば、文法は適当だけど聞けて話せるという学生よりも、話しや聞き取りは苦手だけど文法的なことはよくできるという学生の方がはるかに深く正しく理解できるはずだ。
そして大学での学習に必要な理解というものが、深く正しい理解であることは言うまでもない。特に英語の文献を読まなければ研究ができないような分野であれば、読むのも聞くのも大体わかるという能力よりも、聞き取りは苦手だけど読めばほぼ完璧に理解できるというほうが将来の研究に役に立つのは火を見るより明らかである。もちろん、読むのも聞き取るのも両方高レベルでできるのが理想だろうが、それは受験生に求めるべき能力なのか。それなら、大半の大学は閉鎖されるべきだということになる。卒業生でさえそのレベルに到達しないのだから。英語の能力だけで学生を評価するこの人の姿勢も大問題なのだけど、ここではおく。
個人的な経験から言わせてもらえば、外国語が聞き取れないというのは、耳の問題以上に語彙の問題が大きい。見たこともない知らない単語を耳で聞いたところで理解できないのは自明のことである。これは現地に滞在したところで意識して勉強しなければどうにもならないことである。特に英語のように表記と発音に大きな違いがあり、発音の地域差も大きい言葉の場合には、その単語を知らなければ類推のしようもない。高校生の語彙に関して勉強の仕方に問題があるとすれば、試験によく出るといわれる単語を、出やすい順番に集中的に覚えようとするところだろうか。ただ、これも試験が変わったからと言って、変わるものでもあるまい。
結局、この人の批判で賛成できるのは、センター試験の問題は重箱の隅をつつくような、どうでもいいことを問うものが多いというものだけである。ただし、これも制度を変える理由にはならない。この手の批判は共通一次の時代からなされていて、試験の後に問題を検討した先生たちも頭を抱えて何人かで話し合っても、恐らくこういう理由でこれが正しいのだろうという結論しか出せないものが、英語は知らないけど世界史や国語で毎年のように出題されていた。センター試験が始まるときにはこういう出題はなくすなんてことをいっていたと思うのだけど、結局変わっていないわけである。ならば制度を変える前に、運用の仕方、問題作成の仕方を変えるのが順番というものである。
ということで大山鳴動して鼠一匹、今回の改革とやらの試みが失敗に終わったのは、当然であり今後の受験生にとっては、幸せなことである。ふう。怒りを抑えつつ書いていたら当初の予定よりもはるかに長くなってしまった。いや、これで終わりではなく、もう一方の記事にも噛み付くのだった。それはまた次回ということで。
2019年12月21日24時。
2019年12月23日
大学入試改革なんざやめちまえ2(十二月廿日)
承前
さて、読んでむかっ腹を立てた一番の理由は、田舎の公立の進学校のことを何もわかっていないくせに、批判しそして悪用しようとしていた点にある。現場を知らない人が観念だけで作り上げた改革がうまく行くわけがないのである。田舎の公立の進学校というのは、いい意味でも悪い意味でもとんでもない存在で、扱いを間違えたらとんでもないことになるのだが、この人の考える新制度では導入されたら遅かれ早かれ大問題が勃発していただろうことは、田舎の公立の進学校の出身者として確信を以て断言できる。
改革の目玉の一つだった英語の試験に民間の試験を導入するという案は、地方の高校生と都会の高校生の間の機会格差が大きすぎることで批判されていたわけだが、改革を推進する人たちは、これを地方の高校の英語の先生たちに試験の監督などの業務を押し付けることで乗り切ろうとしていたらしい。素晴らしいアイデアであるかのように自画自賛しているけれども、正気を疑う。
地方の公立の進学校というところは、大抵は文武両道を掲げて部活動にも力を入れているところが多い。全国大会を目指さなないような場合でも、勉強以外に部活に力を入れるのは大切だと考えているのだ。ということは、部活の顧問を任されている先生が多いということになる。さらに高校三年生になると、今ではそれほど回数は多くないだろうけれども、受験産業の提供する模擬試験を土日を使って学校で実施することもある。当然試験監督は先生たちである。
かつて東京の大学に入って先輩の都立の先生に都立高校では研究日と称して、一日学校に出なくてもいい日があるという話を聞いて驚愕したことがある。当然土日の模試なんてありえない。うちの高校の先生たちなんて、授業で使う教材の準備や、試験の採点なんかに使う時間を確保するのにも苦労していたというのに、うらやましい話である。たださえ、自由に使える時間に差があるのに、民間の英語の試験まで追加されたのでは、働き方改革などなくても、高校側から反対の声が上がるのは当然である。この記事では取り上げられていないけど、日教組などの労働組合が賛成に回るとも思えない。
しかも、対象となる民間の試験は一つではないというではないか。受験できる回数の差も問題にされていることを考えれば、この英語の先生たちの(強制)ボランティアで試験を実行するというのがいかに現実離れしているかは明白である。確かに田舎の高校の先生たちに、「生徒のため」だという殺し文句でお願いをすれば、大抵は引き受けてくれるだろうが、それで本当にいいのか。
その「生徒のため」というのも、大きな問題になる。田舎の公立の進学校の存在意義、すくなくとも先生たちにとって最も重要な存在意義の一つは、いかに多くの大学合格者、特に国立大学の合格者を出すかということである。最近はもうそんなことはないと信じたいけれども、我々のころは、内申書に記入する成績や、欠席日数の改竄が普通に行われていた。すべては生徒たちが大学に合格するためなのである。最近も知り合いの日本の大学の先生から、入試の際に怪しい内申書を見かけることがあるなんて話を聞いたから、今でもやっているところはあるはずだ。
そんな「生徒のため」がモットーの地方の高校の教員がテストの実施を引き受けるということは、ものすごく大きな危険をはらんでいる。コメントをつけた方も書かれているが、問題が漏洩する、問題を見て似たような問題で練習をさせるなんてことが起こらない保証はない。というよりは、発覚して問題になる将来しか予想できない。いや、答案の改竄だってありかねないというのが、田舎の進学校の出身者の正直な感想である。
卒業した田舎の公立の進学校にはいろいろ問題もあって、ふざけるなと反発したところもたくさんあるけれども、生徒を大学に合格させるためだったら何でもやるという点では、これも気に入らないことの一つだったけど、完全に信頼している。そんな先生たちに大学入試の合否にかかわる試験の運営を任せるなんてのは、「猫に鰹節」ということわざそのものの状況である。教育委員会? 同じ田舎で価値観が同じなんだから、見て見ぬ振りどころか、積極的に加担するに決まっている。
それから、田舎の進学校の授業が、センター試験対策のためにゆがめられているというようなことも語っているが、これも少なくとも我々のころにはありえなかった。普通の授業は授業でちゃんとカリキュラム通りに行なうのだ。授業時間数が所定のものよりも多くてその分詳しい説明がなされていたのかもしれないが、それは決して受験対策ではなかった。受験対策は受験対策で別に行うのが田舎の流儀である。だから英語に関して民間のテストが導入されれば、その対策は行なわれるだろうが、指導要綱も変わらないのに、正規の授業が変わることはありえない。
それで、うちの高校では、進学を希望する生徒は、特に三年生になると朝の授業が始まる前に一時間、最終授業が終わった後に一時間、毎日二時間の課外とか補習と呼ばれる受験対策の授業を受けさせられていた。放課後の補習は一年生から実施されていて、原則として普通の授業を担当する先生が補習も担当していたから、生徒達の授業数も凄かったけど、先生たちの担当する授業数もまた大変な数になっていたのである。
教育実習で都会の私立高校に行って、毎日の授業数の少なさにうらやましく思うと同時に、自分の担当する授業の少なさに、高校時代の先生たちに申し訳ないという気持ちを抱いてしまった。少なくともうちの高校の先生たちの授業は、真面目に受けていればそれだけで大学に合格できるレベルのものであったし、それに補習がついていたわけだから、これで受験に失敗したら申し訳ないというぐらい面倒を見てもらえたのである。
当時は反発ばかりしていたけれども、今から考えると高校時代にあれだけ勉強したからこそ、大学に入って専門的な勉強を始めた後も、講義を聞いたり専門書を読んだりして、まったく理解できないということはなかったし、必要に応じて質問していくこともできたのである。高校で日本史を履修しなかったせいで、古典文学や歴史書を読む際に苦労はしたけれども、単なる苦労ですんだのも高校までに基本的な知識をあれこれ身につけていたおかげである。
以下次号
2019年12月21日21時。
2019年12月22日
大学入試改革なんざやめちまえ(十二月十九日)
当初から問題しかないことを指摘され、批判されてきながら、首謀者たちが自らの思い込みのみで推進してきた内容が、実施が近づいて日本中に知れ渡った結果、総スカンを食って、その反感の強さに監督省庁である文部省がビビッて延期を決めたというのが、こちらが理解する今回の大学入試改革とやらをめぐる騒ぎの経緯である。
タイミングよく、改革推進派と反対派の書いた対照的な記事を読んだ。最初に読んだのは、推進派の文章で、「大学入試改革が頓挫か キーマンが明かす「抵抗勢力の正体」」というインタビュー記事。「週刊ポスト」なのか、そのネット版なのか、とにかく小学館の提供する記事である。インタビューを受けているのは、記事の説明がかなり意味不明だけれども、実際に文部省で大学入試改革の旗振り役を担っていたという大学教授。それはともかく東大と慶応大の教授を兼任なんてできるのかね。
もう一つは、反対派の「元外交官が嘆く、英語教育改革の愚 センター試験の「読み」重点は正しい NHKラジオ英語講座で磨ける能力とは」という、こちらは談話をまとめた体裁の、「週刊朝日」の記事である。話し手は世界各地で外交官として活躍した人物で、当然英語には堪能なようである。
後者は題名からして、大学入試の英語について語っているのは明らかだが、前者も大学入試改革と言いながら、大半は英語の問題に割かれている。どちらも、多分に手前味噌的なところがあるのは確かだけど、どちらが説得力があるかと言われると、自らの学習と仕事の経験をもとに、英語の入試を変える必要はないと断言する後者である。
前者も自分の経験と言えば経験と言える部分はあるけれども、「こんなことを言う人もいた」と具体的な人名も人数も出さずに、「だから問題なかったんだ」と言われても何の説得力もない。そもそも、どうして高校生卒業前の人間が日本の大学で勉強するために、英語で話したり書いたりできる必要があるのかが全く説明されていない。それなしに改革と言われても、説得力はない。
実は、前者の記事を読んだ時点で、むかっ腹を立てたのがこの話を書くきっかけなのだが、最近ネタに詰まっていることもあるし、両方の記事、とくに前者にいちゃもんを付けていこうと思う。一読して、仮に「週刊ポスト」の記事を信用できるなら、今回の大学入試改革の中心人物がこのような浅はかな考えしか持っていなかいなのだから、失敗に終わった(願望も含めて断言しておく)のも当然だという印象しかもてなかった。
この記事も一見、大学入試改革推進派の記事のように見えるけれども、これを読んで改革は継続するべきだと思う人などいたのだろうか。むしろ、改革推進派のふりをして、その駄目っぷりを暴露して、廃止に追い込むための記事に読めてしまった。発表している媒体が小学館の週刊誌だから、そんな難しいことは考えずに、ただ面白そうだから推進派の話を載せてみようというところだろうけど、支援のつもりが見事な攻撃になっている。
文中に受験生がかわいそうだとか何とかいう発言があるが、この人にはその原因を作ったのが自分だという反省が全くない。反対派を批判したい気持ちはわかるけれども、責任者なのなら受験者に対するお詫びから入るのが普通じゃないのか。この人もまた、自分の正しさを信じ込める幸せな人なのだろう。そして目的が手段を正当化するという極めて左翼的な思考の持ち主のように見える。誰だ、こんなのに大学受験の改革を任せようと決めたのは。
そもそも題名に「抵抗勢力」なんて言葉を使っている時点で、言葉を選んだのは編集者の仕事かもしれないけれども、記事の内容を読めば、思考法方がこの言葉で象徴されるものであることは明白で、ここにもいまだに小泉政権の成功を忘れられないエピゴーネンが存在したかと、そんなのが大学教育に携わっているのかと暗澹たる気分になる。小泉元首相が残した最大の負の遺産がこの敵を設定して執拗に攻撃することで味方を増やすという政治手法じゃないかと思うのだけど。使いこなせたのは小泉首相しかいなかったわけだし。
とまれ、抵抗勢力に認定されているものの中に、旧民主党勢力である野党とマスコミが入っているのにあれっと思った。今回の大学入試改革というのは、もともと民主党政権の肝いりで始まって、自民党政権になってからも実害はないからと放置されていたものが、予想外に世論の評判が悪いことに気づいた自民党がはしごを外したことで崩壊したのだと認識していたのだが、違ったのだろうか。政治家の動きはともかく、一般の人の話をすると、野党支持者よりも、むしろ与党の自民党支持者の方が、今回の改革に反対しているような印象を受ける。かく言うこちらも、元心情左翼とはいえ、日よってリベラルなどと自称する旧民主党勢力を支持しているつもりは全くない。かといって自民党を支持するところまでは落ちきれないでいるけど。
この中心人物の経歴の説明にも、誇らしげに民主党政権で文部省の高官を務めたことが書かれているし、民主党政権で改革の担当者を始めて、その後の自民党政権でも同じ役割を続けたように読める。そもそも、入試改革自体が、文部省が大蔵省から金を引っ張り出すために適当にでっち上げたものだと考えれば、自民党が始めたものでも民主党が始めたものでも大差ないし、こんな人物が責任者になったのもむべなるかなということになるのか。
以下次号
2019年12月20日22時。