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2019年11月20日

昨日のできごと(十月十八日)



 昨日、「今日のできごと」として書いたことの中に、書き落としたことがたくさんあるので、いくつかを落穂ひろい的に取り上げることにする。11月17日はチェコ、スロバキアにとって重要な日だけあって、しかも30周年の日なので、あれこれ起こったのである。

 トリコロールというと、日本ではフランスの国旗をさすことが多いようだが、本来は三色旗のことなので、チェコの国旗もトリコロールである。日本人には赤、白、青の三色が並んでいればそれでいいような気がするが、国旗にトリコロールを使っている国の人たちにとっては、縦横、色の順番などは、ものすごく重要であるようだ。日本人も日の丸の色が逆になっていたら大騒ぎをするだろうと考えると、同じと言えば同じか。
 こんな話をするのは、このトリコロールでバビシュ首相が失敗をやらかしたらしいからである。首相として朝からテレビに映り続けていたバビシュ氏は、朝のうちはトリコロールのあしらわれたネクタイを締めていた。しかし、午後になるとそのネクタイを外してしまう。ちゃんと確認したわけではないが、そのトリコロールが、チェコのではなく、ロシア、もしくはスロバキアのものであることを指摘されて外すことになったという。

 チェコの三色旗は、白と赤の間に青が三角形で突き刺さるような形をしている。だから、横長のリボンなんかにあしらうときにも、上から白青赤の順番になるのかと思ったら、そうではなく、白赤青の順番が正しいのだという。それに対して、ロシアとスロバキアの国旗は、上から順番に白青赤である。バビシュ氏のネクタイもこの順番になっていたようだ。バビシュ氏はもともとスロバキアの人だから、スロバキアの三色旗でもおかしくない気はするし、この日確かブラチスラバでの記念式典にも出席しているから、言い訳のしようはあったと思うのだけどね。
 先日も、サッカーのロシア代用が、ユニフォームを提供する会社の製作した新しいユニフォームの袖の部分のトリコロールの順番が違っているといって着用を拒否したなんてニュースもあったしデリケートな問題ではあるのだろう。トリコロールの本場のフランスでは、シロが真ん中に来ないと許されないのだろうし。

 そんなチェコにとっては誇りであるはずのトリコロールに関して、批判にさらされているのが、サッカーの代表のアウェー用ユニフォームである。一体にチームスポーツのチェコ代表のユニフォームは、青赤白のうちの一色、もしくは二色を使用している。赤+青と白一色というパターンが多いかな。本来個人スポーツであるテニスでも、デビス・カップ、フェドカップのときだけは、代表に選ばれた選手たちは、チェコの国旗に使用されている色をあしらったテニスウェアを身につけている。シュテパーネクなど、国旗と同じデザインのものを着ていたこともあるくらいだ。
 だからというわけでもないのだろうけど、シュテパーネクが最初に、SNSで世界的なデザイナーのデザインと、民族の魂によるデザインの違いを七つ挙げろなんていう皮肉な投稿をしたらしい。それに続いてベルディフが、なんでこんな色にしたんだ、民族のほこりはどこに行ったんだなんてことをコメントしたのかな。テニス選手は、サッカーの選手よりもはるかに代表として活動する機会が少ないから、その分思い入れも大きいのだろうか。

 そのトリコロールを捨てたアウェーユニフォームで、ブルガリアまで遠征したチェコ代表は、あっさり0−1で負けた。勝ち抜けも決まっていたし、イングランドとの直接対決の得失点差で、グループ2位も確定していたから、モチベーションのあげにくい試合ではあった。それでもこのチームの、できのいい日と悪い日の差の大きさは、本大会に向けて大きな問題になりそうだ。現状を考えると出場できただけで御の字というところはあるのだけど、出場するからには上位進出を望みたくなるのがファン心理である。

 試合よりも語るべきはこの試合の観客席の奇妙さだった。イングランドとの試合で人種差別的な言葉が飛んだということで、無観客試合という罰が与えられたのだが、完全に観客ゼロではなかった。最近導入された、無観客試合でも14歳以下の子供たちと引率者だけは入場させてもいいという規定にも度づいて子供たちが招待されていた。ただ、その数が200人ほどというあまりにも少ない数だった。
 チェコテレビのアナウンサーの話によると、現在のブルガリアのサッカーを取り巻く環境は最悪で、試合に関する関心がそれほど高くなく、また大々的に募集をかける余裕もなかったので、使用したスタジアムを本拠地とするチームの子供たちだけが招待されたのだとか。協会長が辞任したとか、監督が解任されたとか、いろいろあったんだったなあ。そんな状況にあるチームに負けてしまったのである。
 それから、チェコ人の観客が数十人いた。一応代表チームに公式に招待された人たちということで入場が許可されていたらしい。よくわからないけどチーム関係者扱いになったのだろうか。とまれブルガリアの子供たちがおとなしかったこともあって、観客席のチェコ語の言葉が中継でも聞くことができたのはなんだか不思議な感じであった。

 最後にもう一つトリコロールに関する話をしておけば、問題発言を連発して市民民主党を追放されたクラウス大統領の息子が、手下達とともに結成した新政党の名前がトリコロールというのだった。世論調査によれば、現時点では国会に議席を確保するのは難しそうだが、何をやっても父親の七光りの域を出ないこんな人物の率いる政党が国会の選挙で全国5パーセントの壁を越えて議席を確保するようだと、チェコの民主主義いよいよ危ういということになる。
2019年11月19日23時。











2019年11月19日

今日のできごと(十一月十七日)



 今日は、ビロード革命の発端となった学生デモが発生した日として、チェコ各地で記念式典が行われた。始まりの地であるアルベルトフの学生寮はもちろん、治安警察と衝突したナーロドニー・トシーダなどに人々が集まっていた。特にナーロドニー・トシーダの人では、前日のレトナーでの集会を思い起こさせるほどに多かった。
 この様子はチェコテレビのニュースチャンネルで中継されていて、要所要所で、30年前のデモに参加した人たちのインタビューなんかも流れていた。面白かったのは、同じデモの参加者でも、この30年の時の流れを反映してか、現状に対する評価があれこれ分かれていたことだ。ハベル大統領を頭に戴いた市民フォーラム自体が、雑多な考えを持つ人々の寄せ集めみたいな感じで、共産党の退陣が決定的になるとすでに内部で権力争いが始まったというから、政治家とか官僚とかいう人種は、社会体制を問わず変わらないのだと言いたくなる。

 もちろん、1989年の11月17日に学生デモが起こった理由である、1939年の犠牲者オプレタルなど学生達の追悼のためにろうそくを持ち寄った人たちも多かった。80年前は、この日に、チェコの大学が、ヒトラーの命令によって、すべて閉鎖されることになったのである。だからというわけでもないのだろうが、国立の大学では、「占領的ストライキ」と銘打って、大学の建物を学生たちが占拠するというイベントを行っていた。
 これは、80年前、30年前の出来事を振り返るためのものでもあったようだが、もう一つの理由としては、特にプラハのカレル大学の場合には、現在の大学の指導部に対する抗議という意味も大きい。カレル大学の学長は、ゼマン大統領とは距離を置いているようだが、大統領と同様に、中国シンパのところがあって、中国と関係の深い企業から、資金を受け入れようとしたことで批判されている。
 中国に都合の悪い研究ができなくなったり、できても発表できななくなるんじゃないかなんてことで批判されていた。ただ、今のチェコでチベット万歳以外に中国に都合の悪い研究なんてしている人はいるのかね。いはするだろうけど、そんな奇特な人は、何らかの方法で発表の場を見つけるんじゃないかなあ。研究のためのお金を増やそうとして、私企業との協定に走った短絡さ批判されても、研究者の側も、金だけもらって圧力には負けないという矜持があってもいい気がする。

 ビロード革命関係のイベントとなると、民主主義について語る人が多いのだけど、チェコも日本と同じで、民主主義を自分たちの都合のいいものにしてしまうことが多い。バビシュ氏は、自分は選挙で選ばれた国会議員によってえらばれた首相なのだから、民主主義的に選ばれた首相だと主張し、反バビシュ側はANOの選挙での勝利をポピュリズムによるもので民主主義の敗北だとする。上院の選挙でANOが惨敗したときは、バビシュ氏は他党が反バビシュで団結した結果で民主主義的ではないと非難し、反バビシュ側は民主主義の勝利だと自画自賛する。
 状況は日本も同じようなもので、特に右も左も支持していない人間からすると、どちら側の主張を聞いてもうんざりさせられてしまう。目糞鼻糞ここにきわまれりである。それよりも気になるのは、民主主義そのもの、もしくは民主主義という言葉に夢を見すぎじゃないかということで、民主主義がすべてを解決すると思い込んでいるようにも感じられる。民主主義が正しく機能すればなんてことを言う人もいるけど、これまで「正しく」機能したことなどあるのか。それに、上に挙げた発言を考えると、すべての人にとって「正しい」民主主義が存在するとも思えない。

 現在のヨーロッパ型の民主主義の最大の問題は、異なる意見に対する非寛容性だろう、これはヨーロッパ的民主主義がキリスト教的価値観に発する以上当然の欠点だともいえるけれども、「民主主義」的な議論の目的が、話し合ってよりよい結論を出すことではなく、勝つことになってしまっていることも原因の一つである。その結果、議論は自分の意見をテープレコーダーのように繰り返すか、相手の発言の揚げ足をとってささいなことを批判し合うだけに終わる。
 世界で最も民主的だったはずのワイマール憲法下のドイツがヒトラーとナチスに権力を与えたことや、市民革命を経て民主的に運営されていたはずのヨーロッパ諸国が帝国主義の下にアジア、アフリカを蹂躙し植民地にした過去も忘れてはなるまい。蛮行はキリスト教の名の下だけでなく、民主主義の美名のもとにも行われたのである。そして、やらかしたほうは過去のこととして忘れていても、やられたほうはなかなか忘れない。旧ソ連圏の国や北朝鮮が、国名に民主主義という言葉を使っていたのもあるしなあ。

 好き勝手に民主主義を連呼するのに少々うんざりして、こんならちもない文章を書いてしまった。またまた途中から看板に偽りありである。
2019年11月18日20時。










2019年11月18日

人皆レトナーへ(十一月十六日)



 レトナーと書かれているのを見て、プラハの地名だとわかる人は、かなりのチェコ通、いやプラハ通だろう。さらにサッカーのスパルタ・プラハのスタジアムがある場所だと知っている人になると、そこに熱心なサッカーファンという要素が加わることになる。では、レトナーが、大規模集会の行なわれる場所だと知っている人は、ビロード革命の研究をしている人だろうか。
 レトナーの丘の上には、プラハには珍しく広大な空き地(この言い方が正しいかどうかは疑問だけど)が残っていて、1970年代から軍のパレードや政治的な集会に利用されていたのだが、1989年のビロード革命に際して、大きな反政府集会が行なわれた場所でもあるのだ。翌年には、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世を迎えて、ミサも開催されている。

 とまれ、ビロード革命以後、大きな、バーツラフ広場には入りきれないような規模の集会を行なう場合には、レトナーの丘が選ばれる。だから、今回6月につづいて、大規模反政府集会が行なわれたのも当然といえば当然なのだ。ちょっと意外だったのは、ビロード革命の発端となったデモが起こった17日ではなく、前日の16日に行なわれたことである。正確にはこちらが勝手に17日だと勘違いしていたというのが正しい。

 金曜日、知り合いにあったらプロっぽい立派なカメラを首に提げ、手にはスーツケースを持っていた。理由を聞いたら、こんな大イベントがあるんだから、プラハまで行って写真取ってくるしかないだろうという答えが返ってきた。そういえば日本大使館からも、レトナーには近づくなという注意喚起のメールが来ていた。ただ、プラハでのことなので斜め読みしかしなかったため、この時点でも17日のことだろうと思っていた。
 そうしたら、午後テレビで、抗議集会の様子が放送されているのを見て驚いた。チェコ各地から集まった人の数は、主催者発表で30万人、警察発表が25万人で、携帯電話会社の概算が25万7千人という大規模なものだった。この手の数の発表は主催者発表が過大になるのは、チェコでも変わらない。日本だと、特に左翼系の反政府集会は最低でも2倍、ひどいときには10倍以上なんて発表が普通になっていることを考えると、極めて良心的な数字である。

 集会は、極めて整然と行われ、市内の公共交通に負担をかけた以外は、何の問題も起こさなかったようだ。主催者としても二度目の大規模抗議集会で手馴れてきた面はあるのかもしれない。何人かの選ばれた人たちが、舞台の上で演説をしていた、もしくは表明を読み上げていたが、俳優の姿が目立った。
 こちらがわかって覚えているのは、どんなタイプでもちょっと変わった人物を演じさせたら、右に出るもののいないイバン・トロヤン、非常に真面目な役柄からただ飲んだくれまで演じ分けて、知らないと同じ俳優だとは気づけないこともあるボレク・ポリーフカに、共産主義時代のアイドル女優的な存在だったダニエラ・コラージョバーの三人。みんななかなかいいことを言っていたと思う。劇場の俳優達は、ビロード革命のときもも主力の一翼をになっていた。

 集会で主張された主要な要求は、バビシュ首相の年末までの辞任、もしくはアグロフェルト社を完全に手放すこと。それと法務大臣のベネショバー氏の辞任、もしくは解任だった。実現しなかった場合には、再度抗議集会を開催するとも主張している。ただ、面の皮の厚さには定評のあるチェコの政治家が、大規模反政府デモで辞任に追い込まれた例はこれまで存在しない。
 ネチャス氏や、グロス氏、ソボトカ氏のような政党内で次代のホープとして大した苦労もしないままにキャリアを積んできたひ弱な政治家とは違って、バビシュ氏は良くも悪くも、ビジネスの世界でのし上がってきた人物である。そんなひどい言い方をすれば、厚顔無恥さでも人後に落ちない。ということは、今後デモの規模がどれだけ大きくなろうと、辞任することはありえない。

 今回の集会の主催者の課題は、今後も現在の規模と参加者たちの熱意を維持して、抗議集会を繰り返し続けられるかどうかだろう。現時点では既存政党に頼らず独自に活動しているから、幅広い層の支持を集めることに成功しているが、選挙が近づいて既存政党の側が取り込みにかかったときにどうなるかという心配もある。この運動が独自に組織化を進めて政党化するというのは、ビロード革命の際の市民フォーラムの末路を考えると、難しそうである。ただ、次の総選挙まで今の規模と熱気で繰り返すことができれば、全国的にアンチANOの雰囲気を作り出して、バビシュ内閣を倒せるかもしれない。
 主催者もそれをわかっているのか、次の総選挙でバビシュ内閣を倒すために野党に共闘するように呼びかけているようである。ただなあ、ビロード革命後のチェコで、最初に政治を私物化しているとして批判されたのが、野党第一党の市民民主党なのである。今の指導部はその過去も、プラハの市政を食い物にした過去もなかったことにしているけど。キリスト教民主同盟も、教会の利権の代弁者になっているし、過去に与党として反政府デモの対象になったことのない政党の中で主催者の眼鏡にかないそうなのは海賊党ぐらいしかない。政治家を職業にしている連中が、程度の差はあれ政治を私物化しているのはチェコも日本も変わりない。

 また選挙制度の改革も求めていて、下院の5パーセント条項をなくして、小政党が議席を獲得しやすくすることも主張しているようである。これは、地獄の釜を開けるようなもので、現時点でさえ総選挙後の組閣が難しいのに、これ以上政党数が増えたら、内閣なんて成立しなくなる。それが相対的に内閣の力を弱めると考えると悪いことではないが、大統領の権力強化につながり、ゼマン大統領のような人物が選ばれる可能性がかなりあることを考えると、もろ手を挙げて賛成ともいかない。
 5パーセント条項を変えるとすれば、全国で5パーセントというのをやめて、各選挙区で5パーセントを越えればその選挙区では議席を獲得できるという形にするのがよかろう。これなら現在ほぼ存在しない地域政党に活躍の場を与えることができる。

 とまれ、こんな大規模な反政府集会が、政党主導ではなく開催できるところが、チェコの社会が健全であることを示しているのだろう。ただ、この集会が何をもたらすかということになると、チェコを知る身としては悲観的にならざるをえない。
2019年11月17日16時。











2019年11月17日

永延元年六月の実資(十一月十五日)



 永延元年六月の実資は、先月末以来の痢病に悩まされているところから始まる。仮文を提出して出仕していないため、全体的に記事が短く、内容にも乏しい。実資邸の外の出来事については、特に伝聞の形式で書かれていなくても、訪れた人から聞いた話だと考えたほうがよさそうである。

 一日は、まず雨乞いのための使者が、十八の神社に送られたことが記される。数から考えると平安京周辺の神社であろう。五月に行なわれた雨乞いの使者の発遣、雨乞いの修法は効果がなかったようである。また実資自身は病を押して恒例の賀茂社への奉幣をさせている。先月は穢れの疑いがあって中止したので、二ヶ月分の奉幣である。

 二日は、病気の話。たくさんの人がお見舞いに来ているが、実資の病は耐え難いものだったようだ。見舞いの客に会えたのかどうかが心配になる。

 三日は、朝方雨が降ったことを記す。雨乞いの効果が出始めたということか。ただしすぐにやんでいる。病状がよくならないので、さらに三日分の仮文を提出。お見舞いの客が四名。あまり知られた人はいないが、藤原景斉は、この時期『小右記』にしばしば登場する。

 四日は病気せいか、記事なし。

 五日は、太政大臣頼忠から、見舞いの手紙が来ている。また三日に続いて藤原景斉が来訪。

 六日も実資は病気療養中。見舞い客が多いが、特筆しておくべきは、蔵人の藤原兼隆だろうか。この人摂政兼家の孫で、父親は中納言道兼である。先月末にまだ元気だった実資が道兼を見舞っているので、その返礼であろうか。また兄の懐平など縁者も来訪している。

 七日も見舞い客あり。祈雨使の効果か、夜に入って雨が降る。太政大臣頼忠から再び見舞いの使いが送られている。頼忠の使者を務めたのは藤原知章か。六日の夜に内裏北部の桂芳坊小火騒ぎが起こったことを伝えている。

 八日になって、祈雨使の効果は高まり「風大いに吹き雨降る」というから、台風でも来たのだろうか。層に渡ってこの年帰国した藤原氏出身の僧「然が訪れる。これも病気見舞いであろうか。夕暮れ時に来て寺に帰れないということで、宿泊させている。伝聞で左大臣源雅信の邸宅で、藤原師長が崩れ落ちた建物の下敷きになったようなことが記される(別の可能性もあり)。これは風が強く吹いて雨が降った結果だろうか。

 九日は、記事なし。病状悪化であろうか。

 十日は、「赤痢未だ愈えず」ということで、「呵梨勒丸」を三十も服用している。『小右記』では、ここが初出だと思うが、以前「史料大成」版の『小右記』改題に、矢野太郎氏が、「呵梨勒丸」について、家伝の薬で小野宮家の人々の長命はこの薬のおかげかもしれないなんてことを書いていたので、自家で調合した丸薬なのだろうと思い込んでいた。念のために「ジャパンナレッジ」で検索してみたら、南方原産の果実であることがわかった。『日国』にも出ているから、大学時代にも調べて驚いたかもしれない。忘れていたけど。とまれ、これだけの数の「呵梨勒丸」(訶梨勒丸とも)を連日服用できるということは、小野宮家の財力の大きさを示しているのだろう。服用した後は「三四度快瀉」。「快瀉」というのが何ともいえないけど、その後は病状も落ち着いたようだ。末尾に病気快癒のために、証空を招いて加持を受けたことが記される。
 伝聞で宇佐神宮に一条天皇の即位を報告するため発遣される宇佐使に対する餞別の宴が行われたことが記される。使者となるのは藤原北家の時明。宇佐使は和気氏の五位のものの中から選ばれることが慣例となっていたが、このときは適任者がいなかったのだろうか。

 十一日は、朝方に雷雨。激しい雨が降っている。この日も見舞い客あり。藤原景斉など三回目で宿泊もしているので、見舞いというよりは、実資に外の情報を伝えるために定期的に訪問していたと考えたほうがいいかもしれない。
 病気のほうは、今日も「呵梨勒丸」を服用して出すものを出している。赤痢は止まったようである。医師の典薬頭清原滋秀が診察に訪れ、「今日能く瀉すれば」、明日は薬を服用しないようにという指示を残している。
 寛和元年に生まれた子供のためのものだと思われる印仏の供養を僧厳康にさせている。厳康は詳しいことはわからないが、この年、実資のために朔日の賀茂社奉幣や仏事に際しての斎食を務めている。

 十二日には、摂政兼家からの仰せ事を、藤原行成が伝えている。内容についてはわからない。この日は阿闍梨が二人来訪。僧義師を招いて病気快癒を願っての読経もさせている。
 
 十三日は、宇佐神宮を初めとする諸国の神社に、一条天皇の即位を報告するための奉幣使が発遣されたことが記される。実資は病気で休暇中のため、おそらくこれも誰かから報告を受けて書いたものであろう。

 十四日は、さらに三日分の仮文を提出。呵梨勒丸の服用によって鎮静化していた病が再発したのである。再度呵梨勒丸を服用したところ、「四度快瀉」したが、夕方は病状が悪化。僧たちに加持を行わせた結果か、夜になって落ち着いたようである。

 十五日は、小雨で暴風。祇園社への例年通りの奉幣と、聖天供を行っている。病の中でもこの手の行事は欠かさないほうがいいのである。実資がしたのは指示だけだろうけど。

 十六日、十七日は記事なし。病状の悪化であろうか。どちらかの日に追加で仮文を提出したものと思われる。

 十八日も、見舞い客の記事。大切なのは藤原信理が、中納言藤原道兼が見舞いに来るという話を伝えていること。これは、先月廿八日に実資が道兼を見舞ったことに対する返礼なのだろう。道兼の病がどんなものだったのかは不明だが、すでに実資を見舞えるところまで快復したということでもある。

 十九日は、再度三日分の仮文を提出。従兄弟の公任と、歌人として知られる実方が来訪。この二人の訪問には「来問」という言葉が使われているが、次の兄懐平らに使われている「来訪」とどう違うのか。わざわざ二つのグループに分けて書いているということは違いがあったということか。夜に入って大風。

 廿日も実資は外出せず、伝聞の形で、摂政兼家の邸宅で行なわれた仁王講について記している。特に来客があったという記述はないが、誰かから報告を受けての記述であろう。

 廿一日は、宮中の内供僧が立ち寄り、廿二日は阿闍梨が訪問。これもまたお見舞いであろうか。

 廿三日の夜になって実資は久しぶりに外出。実資の姉にあたる人が住んでいたらしい室町の邸宅に出向いている。話し合って決めることがあったというのだが、何だろう。実頼関係のことか、中宮遵子関係のことか。

 廿四日も夜になって室町に向かう。

 廿五日は来客の情報のみ。源俊賢が訪れているのが目を引く。

 廿六日は記事なし。

 廿七日も来訪者のことだけ。受領階級の人が多い。

 廿八日は記事なし。

 廿九日は、摂政兼家が左右の大臣を筆頭に公卿たちを率いて賀茂社参詣を行ったことが記される。ここも伝聞の形が多く、実資は同行していないと見る。最後に「祈雨の賽あり」とあるのは、六月に入って雨が降り始めたことに対する感謝のための行事だろうか。

 卅日には再び仮文を提出。今回は病気ではなく物忌のためで、閉門し篭居しているから重い物忌だったようだ。夕方になって夕立が来たのか暴風と大雨に雷まで鳴っている。六月晦日の夏越の祓は例年通り行なわれている。

 一部、記事のない日があるため、断定はしにくいが、この六月、実資は一度も出仕していないように読める。勤勉な実資も病には勝てなかったのである。この時期は一条天皇の即位で、蔵人の入れ替えが合った結果、実資は久しぶりに蔵人頭の職を離れているので、比較的休みやすかったというのもあるのかもしれない。残念なのは、七月以降の記事が現存しないことで、いつ、どのように職場復帰したのかが読めないことである。
2019年11月16日22時。







◆◆現代語訳小右記 8 / 〔藤原実資/著〕 倉本一宏/編 / 吉川弘文館





2019年11月16日

チェコ代表勝利(十一月十四日)



 来年行われるサッカーのヨーロッパ選手権の予選も残り二試合。十月に予想を覆してイングランドに勝ったおかげで、勝ち点を積み上げることに成功したチェコ代表は、今日のコソボとの試合に勝てれば、グループ2位以上が確定して、本大会出場が決まる。負けても、チェコがブルガリアに勝って、コソボがイングランドに負ければ、出場できるから、負けても絶望というわけではないが、予選最後の予選最後のホームでの試合、やはり勝つべきであろう。

 この試合は、政治的な理由で極めて危険性の高い試合として認定されたため、チケットの販売や会場への入場に大きな制限がかかった。チェコでチケットを買えるのは身分証明書を提示したチェコ人のファンだけで、スタジアムへの入場に際してもチケットだけでなく身分証明書の提示が求められ、手荷物検査で余計なものを持ち込んでいないかどうかのチェックが行われていた。
 これをチェコのリーグでの試合にも導入すれば、チェコのスタジアムもはるかに安全で居心地のいい場所になるはずなのだが、一部のファンの強硬な反対で実現していない。その一部のファンが、発煙筒を持ち込んだり、グラウンドに物を投げ入れたりという愚行を繰り返して、チームに罰金を負わせているのだから救いがない。この切り捨てるべきファン層を、昔からのずぶずぶな関係に付け込まれて放置しているのがチェコサッカー界の最大の問題の一つである。

 ちなみに、政治的に危険な試合に指定された理由は、ゼマン大統領がコソボの認知の見直しをするべきだと主張したことと、九月のコソボでの試合の際に、チェコ人がコソボの独立の正当性の問題に絡んで現地で逮捕されたことが挙げられる。チェコ人がコソボの反感をあおるような横断幕を出したり、コソボ側がゼマン大統領に抗議するようなものを掲げたりして、政治問題と化すことが危惧されたのだろう。

 閑話休題。
 試合を前にして、チェコが勝ちそうな徴候、負けそうな徴候、どちらも存在した。勝ちそうなというよりは、勝たなければいけない理由は、昨日、11月13日が、ブリュックネルの80歳の誕生日だったことだ。一日ずれたのは残念ではあるけど、今年の夏からオロモウツではシグマ100周年に関連付けてブリュックネルのお祝いも開催しているのである。長年率いたチェコ代表がホームで勝利して本戦出場を決めることができれば最高のプレゼントになる。監督のシルハビーは、ブリュックネルもとでコーチを務めたことがあって、いわば弟子筋にあたるのだからなおさらである。

 負けそうな、不吉な兆候は、シクがけがで欠場すること、コソボでの試合で何ともなめたプレーで逆転負けを喫したことなんかも挙げられるが、一番まずいと思ったのは、月曜日に公開された、新しいアウェー用のユニフォームである。
 チェコ代表は伝統的に、ホームで使用する第一ユニフォームには、国旗の三色のうちの二色、赤と青を使ってきた。上が赤で、下が青、これは今後も変わらない。変わるのは上下とも国旗の残る一色、白を使ってきたアウェー用の第二ユニフォームで、何とびっくり蛍光黄緑とでも言いたくなるような色になってしまったのだ。こういうのは提供する会社が考えて提案するみたいだから、チェコの場合はプーマの仕業ということになる。受け入れた協会の連中も困ったもんだけどさ。

 監督や選手の口からは、当然否定的なコメントは出てこなかったけど、シルハビーが「このユニフォームで勝利を重ねていけば、みんな気に入ってくれるだろう」なんて言っていたのが、本心をうかがわせるような気がする。選手たちも口々に驚いたと言っていたけど、他に言いようがなかったんだろうなあ。アイスホッケー代表のユニフォームも、去年大きく変わって物議を醸していたけど、あちらは色に関しては、青、赤、白の三色を使うという伝統を守っていたんだよなあ。
 この変な色のユニフォームを着るのは、日曜のブルガリアでの試合ということで、コソボとの試合では心配する理由にはならないのかもしれないけど、相手が相手だし嫌な予感がする。今のチェコ代表って格下の相手との試合が下手だし、いいときと悪いときの差が激しすぎるし。そう考えると、きっちり勝ちづづけている日本代表がうらやましくなる。それなのにあちこちからあれこれ批判されているのを見ると、日本人も贅沢になったなあと隔世の感を感じてしまう。

 試合のほうは、前半のチェコはコソボでの試合を思わせる低調ぶりで、ボールは保持していたけど、点が取れそうな匂いはせず、これは悪いほうの代表かなと思っていたら、案の定後半開始早々に手抜きプレーから失点した。ただこの日のチェコは、そこで目を覚まして、以後はイングランド戦を思いださせるプレーで、コソボを完全に圧倒した。
 最初のゴールは、ソウチェクがシュートした後、キーパーにぶつかったのをファウルととられて取り消されたが、70分過ぎにクラールが、ペナルティエリアのちょっと外で、マソプストがもたもたしていてシュートできなかったボールを、見事にゴールの隅に蹴りこんだ。キーパーからはディフェンスの選手に隠れてボールが見えなかったようで、ほとんど反応できていなかった。

 その後、ヤンクトのシュート、オンドラーシェクのシュートがゴールのバーに嫌われて、これは引き分けに終わるパターンかとあきらめかけていたら、80分ごろだったかな、コーナーキックからソウチェクとオンドラーシェクがディフェンスの選手と競り合ってこぼれたボールがクラールのところに。クラールのヘディングでのシュートで同点だと思ったら、キーパーの目の前でチェルーストカが触っていたようで、チェルーストカの得点ということになっていた。
 逆転した後も、引きこもって守るようなことはせず、攻めながら時間を稼いで、そのまま2−1で勝利。ブリュックネルに誕生日のプレゼントを届けることに成功した。コソボは予想以上に厄介な相手だった。独立したばかりで代表が活躍することが、国の威信を高め国民を鼓舞するってことを意識して全く手を抜かないのだろう。正直、10月のイングランドの選手たちよりもはるかに好感が持てた。

 次は日曜日のブルガリアでの試合である。ユニフォームが……。とはいえ、無観客試合で行われることが決まっているので、蛍光黄緑の代表の雄姿を目の当たりにできるファンはいないはずである。もちろんテレビで放送されれば見るけど、見たいような見たくないような。ころっと負けそうな気がすると予想しておく。
2019年11月15日16時30分。











2019年11月15日

続々温故知新(十一月十三日)



 歴史的な文脈にいれて解説されたものを読みたいというのは、他にもあって、その一つは、一時期大騒ぎになっていた神戸かどこかで発覚した(起こったとは言わない)教員間のいじめの問題である。報道も教育委員会の対応も、あたかもこれが新たな問題でもあるかのような印象を与えて、何を今更と言いたくなってしまった。
 校内暴力や子供の間のいじめが顕在化して社会問題になっていた1980年代の時点で、教育関係者の中には、「子供のいじめが亡くならないのは当然だ。指導する教師の間にもいじめがあるのだから」と主張している人がいた。子供たちのいじめも発生した当初は、教育委員会や文部省では隠す方向で対応していたはずだから、教員の間のいじめもなかったことにされた可能性は高い。

 中学の頃の国語の先生が、この手の問題に関しては結構あけっぴろげに話をする人で、子供のいじめを鶏のけんかにたとえていた。鶏は群の中で上から順番にしたの者をいじめていって一番弱いのが死んでしまうというのだ。それに付け加えて、教員の間にもいじめのようなものだあるんだと語っていた。職員室に行ったら、自分の机が消えていたとか、会議の予定を教えてもらえなかったとか、この先生から聞いた話だったかどうかは記憶があいまいだけれども、具体的ないじめの内容も聞かされた。
 学校の先生の中にもガキみたいな人がいるんだなあとあきれ、先生だからという理由で尊敬するのではなく、自分の目で判断して尊敬できる先生だけを尊敬するという生意気なガキになるきっかけを与えてくれたことになるから、この先生も尊敬に値する先生だった。当時はすでに年配で威厳のある人だったからいじめられてはいなかっただろうけど、若いころは先輩に生意気だといじめられていてもおかしくないタイプの人ではあった。ただこの先生ならやられたら、やられた以上にやり返すだろうとも思っていたけど。

 80年代に顕在化しかけてなかったことにされた、教員間のいじめが90年代以降どのような経緯をたどったのか、検証して報道するようなマスコミはないのか。80年代には、子供のいじめ問題に絡めて、教員間のいじめについて指摘していた新聞記事もあったと記憶する。その新聞社では、記事にするしないはともかく、ある程度取材はしたはずなのだから、それを元に歴史的な変遷をたどってこそ、問題を放置し続けた文部省や教育委員会にたいする批判が有効なものになる。

 各地の教育委員会の出たらめっぷりについても、書くべきことはあれこれあるだろう。個人的にも教育委員会許すまじと思わされた一件がある。高校一年の頃の校長先生は最高だった。この人の元で三年間高校生活を送れていたらと思わせるような、素晴らしい方で、我々の入学と同時に転勤してきたから、本来であれば、最低でも我々が卒業するまでは校長を続けるはずだったのに、赴任して一年後に退職されてしまった。次に来た校長が最悪で、そのクソのおかげで一年の頃の校長先生のすばらしさが浮き彫りになったという面もある。
 大学に入ってから、その校長先生の自宅を訪問する機会があったので、退職された事情を聞いてみた。うちの高校に定年まで勤めるという約束で赴任したのに、教育委員会から転勤するようにという圧力をかけられたのに怒って、ふざけるなとケツをまくって定年まで二年を残して辞めちまったんだと仰っていた。
 転勤を求められた理由というのが、県の教育委員会の有力者の一族のぼんぼんが、母校であるうちの高校で校長をやりたいとごねて、その望みをかなえるためだったというのも、我らが校長先生が腹を立てる理由だったようだ。その新しいののせいで、校長先生だけでなく、そいつが高校生だったころからうちの高校に在任していた名物先生たちがみんな追い出されてしまったというのも、我々在校生の怒りに火をつけた。そのせいで萎縮してしまった先生たちもいたし。転勤させられるのを恐れない先生たちと、新しい校長の悪口で盛り上がったのはいい思い出ではある。

 それで、最初は話が無駄に長いだけで特に目立つようなこともしていなかったそいつが、突然管理教育を強化するような方策を打ち出したときに生徒達の中から反対運動が起こって、ちょっとした騒ぎになったのだった。ただ、その騒ぎの責任を取らされたのは新しい校長ではなく、一緒に転勤してきた教頭で教育委員会の閑職に飛ばされたのだった。ふざけんなで、大学受験のために校長の署名が必要な書類が出て、個人的に頼む必要があったときには、受験を諦めようかとさえ思うぐらい嫌なやつだった。節を曲げて頼みには行ったけど、言葉だけで頭は下げなかったのは、せめてもの抵抗だった。卒業式に出られないように入試の日程を組んだのもこいつから卒業証書をもらいたくなかったからだったって、アホなガキだったなあ。
 そんなこんなで、人生というものの現実を見せ付けられて、青臭い正義を唱えているだけではどうしようもないということを教えられたのだった。それでも、今でもあいつだけは許せねえと思い出すことがあるから、我ながら執念深いというかなんと言うか。

 話を元に戻そう。今回の件で、実際にいじめを働いた連中が批判されるべきなのは当然だけど、それ以上に糾弾されるべきは、教育委員会であり、文部省であるはずだ。現場の教員が病んでいかざるを得ないような小学校の労働環境を改善することの方が、大学入試動向とか、指導要領なんかよりはるかに重要ではないのか。ちゃんとしたレベルの大学に入れるかどうかは、小学校でどれだけちゃんと勉強できるかにかかっているのだし、大学生の質を上げたければ、初等教育のレベルを上げることが大切になってくる。そこで先生が病んでいたら……。
 あれ、またなんか変な方向に行ってしまった。
2019年11月14日22時。








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2019年11月14日

温故知新続(十一月十二日)



 昨日こんな題名で文章を書き始めたのは、今の日本に、特にマスコミの報道に欠けているのが、この温故知新的な態度ではないかと思ったからだった。目の前のできごとに大騒ぎしてみせて、話題を作ることしか考えていないから、過去のことなどどうでもいいのだろう。読者としては、歴史的な文脈の中に入れたときに、どんな意味を持つのかという視点での記事を読みたいのだけどね。

 最初に、このことに気になりだしたのは、タピオカとか言う食べ物? だっただろうか。日本で流行っているという話を読んで、またどこかの会社が、どこかの国から、日本にもすでに似て異なるものの存在する食べ物を、今までになかった新しいものとして導入したのが、たまたま当たったのだろうと考えていた。その後、十年ぐらい前にもブームがあったなんて話をちらっとどこかで読んで、雑誌や新聞の記事ではなくて、個人の書いたものだったと思うけど、これもよくある、過去のブームの再来だったのかと理解した。
 そんなときに、朝鮮戦争の野戦病院を舞台にしたアメリカのドラマ「メッシュ」を見ていたら、タピオカが登場したのである。朝鮮戦争当時、日本が米軍の補給基地としての役割を果たしていたことを考えると、当時すでに日本に入っていたとてもおかしくはない。ブームになったかどうかはわからないけど。タピオカについて書くときにいちいち日本への伝来の歴史を書くなんてことは無理な話だろうが、これまでのブームと今回はどう違うのかなんて記事は見かけなかった。あまり興味のあることではないから、見落としの可能性もあるけどさ。

 そして、以前にも書いたけれども、東京医科大学の入試不正の疑いや、裏口入学が報道されたときも、過去の事例と比較するような記事は皆無だった。裏口入学なんて、80年代、90年代には、週刊誌なんかでも結構取り上げられていたのだから、そのときと、この東京医科大学の件がどう違うのか、もしくは変わっていないのかなんてことを知りたかった。ここの大学はOB回が窓口になっていてとか、国会議員のだれそれが枠を持っていてなんて、結構具体的なことが書かれていたと思うんだけどなあ。
 そういう大学入試の歴史的な流れを知っていれば、これまで文部省がどのように大学入試を改悪してきたかという観点から、センター試験に代わる新しい試験の導入についても批判できるはずである。この件に関しては、大学関係者からは怨嗟の声しか聞こえてこないけど、認可と補助金を握られている以上、正面から批判できないらしい。こういうときこそ、マスコミの出番となるはずなのに、文部省の情報操作に踊らされて、まともな批判ができていないのだから情けない。

 そもそも、一次試験に記述式の問題なんかいらないのだ。学生に思考能力とそれを文章にまとめる能力を要求する大学は、二次試験でやればいいだけの話である。文部省がセンター試験を商売の種にしようとして、一次試験だけで合否を決めるとか、私立でもセンター試験を利用して合否を決めるとか、意味不明なことを始めたのがいけないのである。
 センター試験だけでいくつもの大学を受けられるということは、一見、受験生にとって有利な制度のように見えるけど、一つ失敗したらおしまいと考えると、センター試験にかかるプレッシャーが過大なものになる。逆に二次試験があったり、別試験だったりすれば、センターで失敗しても取り返しがきくという気楽さがある。新テストも、それだけで合否を判定する私立大学の参加も見込んでいるのだろうけど、自分が受験生だったら、そんな大学は受けたくないなあ。

 目玉となっていた民間の英語試験を利用するという、責任放棄としか理解できない案も、現時点では延期になったようだけど、本質的な批判なんて見かけなかったし。そもそも高校を卒業した時点で、英語でペラペラ喋れる能力がいるのかって話である。外国語の学習においては、読み書きがしっかりできていれば、喋れるかどうかは、語学能力以上にコミュニケーション能力に左右されるはずだ。それに喋れても、話の中身が天気の話とか、道案内とか、わざわざ話さなくてもいいようなことしなないなら、そのために英語を勉強するなんて時間の無駄である。
 もちろん英語を専門とする学生は別だけど、日本文学や日本史を専攻する学生には、英語で話すための努力をする時間があるなら、古文漢文を原文で読んだ方がはるかに意味がある。専門的な知識が十分にあって、初めて大学生が英語で話す意味が出てくるのである。いや、話さなくてもいい。専門分野について論文を書けるようになればそれで十分である。どうせ、英語を専門に学んでいる連中には叶わないのだから、必要なときには通訳を頼めばいいことである。問題は英語で情報を発信できないことではなく、発信するべき内容が存在しないことにある。
 入試制度を変えたところで、この問題が解決するとは思えない。大学生の英語のレベルが下がっているとかいうのだって、実は大学が増えすぎて学生の平均レベルが落ちた結果じゃないのか。センター試験をやめるなら共通一次を復活させた方がましである。

 考えが煮詰まらないまま書いたら、自分でも意味不明なものが出来上がってしまった。読んでくれた方には申し訳ないことである。
2019年11月13日22時。









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2019年11月13日

温故知新(十一月十一日)



 十一月十一日は、聖マルティンの日で、チェコのワイン業界がフランスのボジョレ・ヌーボーを真似て始めた聖マルティンのワインの発売はこの日から始まるはずなのだけど、今年はすでに先週の金曜日からホルニー広場などに直売のスタンドが設置されて販売が始まっていたようだ。それでいいのかなんて疑問は無駄である。チェコなんだからそれでいいに決まっている。
 去年か一昨年かは、11月11日の11時11分に販売開始なんて、時間まで厳密に決めていたことを考えると、えらくいい加減になったものである。現在ほど大々的になる前も、適当というか、各販売店で勝手にやってたような記憶もあるから、元に戻ったと考えることもできるのかな。このように、現在の出来事を理解するのに、過去の出来事を参照して参考にするのを温故知新という。うーん、我ながら無理のありすぎる書き出しだなあ。

 とまれ、この四字熟語の前半を、「故きを温め」と訓読するか、「故きを温ね」と訓読するかという問題はあっても、その意味するところは明らかだろう。そして、温故知新で思い出すものと言えば、国学者の塙保己一である。小学校だったか、中学校だったかの、確か国語の教科書にこの人の簡単な伝記が紹介されていて、その存在と座右の銘だったという四字熟語、温故知新を知ったのだった。
 盲目でありながら超人的なまでの意欲と記憶力で国学者として一家を成した塙保己一には、正確にはその業績には大学に入ってからお世話になった。古今の国書を集めて類従し校訂した上で、「群書類従」として上梓したのも保己一の業績である。『小右記』愛読者としては、『小野宮年中行事』が読めるというだけでも、「群書類従」と保己一には感謝の言葉しかない。
 続編として「続群書類従」「続々群書類従」も刊行されていて、現在ではデジタル化されてジャパンナレッジで閲覧できるのだけど、個人向けのサービスでは利用できず、大学図書館などの法人で契約しているところでしか閲覧できないのが残念である。気になったのが、このコンテンツの提供元が八木書店になっていることで、『小野宮年中行事』の収録された巻は、続群書類従完成会から刊行されていたと記憶する。

 確認したら続群書類従完成会は2006年に倒産し、出版事業を八木書店が引き継いだらしい。八木書店というと古書店としてのイメージが強く、出版社としては機構本のイメージしかなかったから、意外だった。『小右記』の前田本を影印判で出版しているのは、イメージどおりだけど。堅実出版活動をしているという印象だった続群書類従完成会の倒産は、日本の学術出版の行き詰まり振りを象徴しているのだろう。
 昔の貧乏大学生は、自分の専門に関する書物は、かなりの無理をしてでも手に入れたものだ。手に入らないものは、全ページコピーするなんてこともあった。遊びや食事にかけるお金を削って勉強にお金をかけていたのである。酒代は削らなかったけど。学術書が売れなくなっているということは、大学の数が増え、専門的なことを学ぶはずの大学生の数は増えているというのに、勉強を第一に学生生活を送る学生の数が減っているということだろう。

 1990年代初めの我々のころも、大学のレジャーランド化というのが問題になっていて、勉強しない学生はかなりいたけれども、その一方で、勉強するために大学に来たという学生もまだ多く、当時の学術出版は、そんな真面目な学生たちに支えられていたのだ。新本で買えない場合には、定価よりも高い古本を買うなんてこともあったし。
 大学は勉強のためだけに行くところじゃないなんてことを言う人もいるけど、勉強以外のことは大学以外でもできるだろうと言いたくなる。勉強をした上で、勉強以外のこともすると言うのならまだ理解はできるけれどもさ。それが自分で、もしくは親の金で大学に行っているのなら、勉強しなくても自業自得だが、高校まで勉強してこず、地方の駅弁国立大学にさえ合格できなうような連中を、税金で大学に行かせようってのは、おこの沙汰だよなあ。そんな制度を作るのなら、先ずやるべきことは大学と学生の数を減らすことだろう。

 日本には税金払っていないから、文句を言う資格はないだろうけど、偏差値50以下で入れる大学って、大学である意味あるのかななんてことを考えてしまう。専門学校でもいいだろうにって、文部省が天下り先の確保のために、専門学校をどんどん大学していた時期があるのだった。すべての元凶は文部省ということか。
 脱線して予定外の内容になってしまった。枕その2が、長くなりすぎた結果である。
2019年11月11日25時。









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2019年11月12日

歴史を知らない若者達(十一月十日)



 毎年、11月になってしばらくすると、ビロード革命の発端となった学生デモの行なわれた17日に向けて、過去を振り返るニュースが増える。革命以来30年の記念の年となる今年は、例年に増して詳しい報道がなされているような気がする。憲章77の関係者でも、これまであまり表に出てこなかった人たちのインタビューが流れたり、ビロード革命の陰で制作されながら、放送されなかった番組が紹介されたりしている。
 そんなニュースの中で、気になったのが、最近の、特に若い人たちに、ビロード革命に関して、陰謀史観とでも言うべきものを信じている人が多いというニュースだった。それによれば、ビロード革命というものは、1968年のプラハの春の時点で計画されていたものだったとか、裏にはアメリカや西側の諜報機関がいたとか、アメリカのエージェントとして動いたのが憲章77関係者だったのだとかいうことになるらしい。

 この手の陰謀史観というのは、特に現代が、いわゆるフェイクニュースで満ちているからということもなく、以前から機会あるごとに生まれては消えていくものだ。チェコの歴史については知らないが、日本の歴史に関してなら、うまくやれば小説になりそうというか、小説になってしまったものから、聞いただけでありえないと思うようなものまで、いろいろな説を見聞きしてきた。
 だいたい、アメリカの諜報機関が、CIAをさしているのだろうけど、旧東側の国にエージェントを送り込んでいないわけがない。それは認めるにしても、そのエージェントの存在が、革命運動につながるかというと全く別の問題である。実は、師匠から、あるアメリカ人のことを、あの人は人畜無害な顔をしているけど、CIAのエージェントなんだよと教えられたことがある。チェコに住むことでしか手に入らない情報を集めて、それをアメリカに送っていたのだとか。この手の人たちが反政府運動の支援をしていたとは思えない。それに、ソ連ならともかく、ソ連の属国に直接手を出すかなあ。あったとしても多少の資金援助とか、そのぐらいじゃないだろうか。

 まあ、陰謀史観であっても、それを信じている人たちは、歴史上の出来事について、自分なりの知識があって、いつ何が起こったというのだけはわかっているから、まだましなのだ。最悪なのは、歴史について何も知らない若者たちの存在で、ニュースでは、ビロード革命のことを聞かれて、1968年に起こったとか、マサリクが大統領に就任したとか、外国人でも知っているようなことを答えられない若者たちが登場した。ビロード革命前にチェコを強権的に支配していた政党を問われて、市民民主党をと答えた人もいたなあ。
 この問題について、専門家はチェコの高校までの歴史教育がよくないと言っていた。古代史に時間をかけすぎて、現代史を扱う時間が足りなくなるという日本でもよく聞く問題がチェコでも発生しているらしいのだ。チェコの歴史教育については詳しいことは知らないが、これを歴史の授業、歴史の先生のせいにしたのでは、何の解決にもつながらないということだけは断言できる。現代史を知らないだけではなく、近代史、いやそれ以前のことも知らないのである。

 問題は、この手の若者たちの歴史の勉強の仕方が間違っていることでも、歴史に興味を持っていないことでもない。自分たちが生きている社会に興味を持っていないことだ。普通にチェコ社会の中で生活していれば、いろいろなニュースが目や耳に入ってくるもので、毎年8月になればプラハの春の出来事について、11月になればビロード革命について繰り返し放送され、記事にもされているから、これらの出来事についての知識は蓄積されていく。チェコ語が完璧ではない日本人でも、かなりの知識を物することができたのだから、チェコ人なら当然はるかに多くのことを知っているはずである。
 それなのに何も知らないのは、自分のことしか考えていない証拠に他ならない。それも一つの生き方ではあるのだろうけど、反ゼマンのデモの中にも、ゼマン信者の中にも、そういう人たちがいるのだろうと考えると、暗澹たる気分になってくる。日本でもこの手の人たちが、政治家になって、東日本大震災の原因は米軍の兵器だとか、自然への敬意を忘れた日本人への警告だとか、頭おかしいとしか思えないことをわめいていたんだよなあ。民主主義ってこれでいいのか。
2019年11月10日24時。











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2019年11月11日

チェコのラグビー(十一月九日)



 昼食時にテレビをつけたら、チェコテレビのスポーツチャンネルで、ラグビーの中継が始まった。チェコの一部リーグの優勝を決める決勝戦で、タトラ・スミーホフとスパルタ・プラハというプラハのチーム同士の一戦だった。リーグなのに決勝というのは、リーグ戦の結果を元にプレーオフで最終順位を決めるからである。
 チェコでは、ラグビーは日本以上にマイナースポーツであるため、テレビでチェコリーグの試合が放送されることはほとんどないのだが、今回はワールドカップでの盛り上がりをそのまま継続するために、ラグビー協会のスポンサーが金を出してくれたのだろうか。ワールドカップの中継のハーフタイムに流されたチェコ各地のラグビーチームの紹介番組によって、見学希望者が激増しているらしいし、その中にはチームの存在をそれまで知らなかったという人も多いという話だから、ワールドカップ効果は絶大である。

 試合会場は、スパルタのホームグラウンドだっただろうか。一応ラグビー専用のグラウンドなのだが、マイナースポーツゆえの悲しさ、芝の状態はいいとは言えなかったし、小雨が降っていたせいもあって画面上ではラインが見にくくて仕方がなかった。客席も一部にあるだけで、立ち見をしている人も多かった。グラウンドのそぐ外側には林があって、風に吹かれて木の葉の舞い散る中でのラグビーは、季節感があってなかなか風情があった。

 試合のほうは自力に勝るスパルタが、タトラを圧倒した。直接対決で4連勝中だったらしいし、順当な結果だったのだろう。正直チェコのラグビーリーグまでは追いかけていないので、どちらが上とか下とかはわからないのだけど、スパルタはスクラムで圧倒的な差を作り出していた。足元が緩んでいたこともあって、しばしば漫画かよといいたくなるぐらい、ずるずると押し込んでいた。タトラは、チェコ代表のスクラムハーフが審判に余計な文句をつけて、シンビン、そのあと同じことを繰り返して退場処分を受けていたから、規律の面でも完敗だった。

 審判は、それほどうまいとは思わなかったけど、判定自体は穏当なものが多かったから、それにキャプテンでもないのにいちゃもんつけるって勘違いもはなはだしい。昔、大学ラグビーが華やかだったころに時々見かけた、実力以上にちやほやされて勘違いしたスクラムハーフを思い出してしまった。当時は無駄に大学ラグビーのスクラムハーフ、スタンドオフにだけ注目が集まっていて、勘違いするやつが多かったんだよなあ。ラグビーの選手だからといって、みんながみんな人格的にすばらしいというわけではないのだ。
 最終的な結果は40−3と大きな差がついた。試合後もワールドカップで賞賛の的になった、いわゆるノーサイドの精神てのはあんまり感じられなかったし、チェコのラグビーは、90年ごろの日本の大学ラグビーを思い起こさせる。両チームに一人ずつ南アフリカの選手もいたし、J&Tという大スポンサーが協会についたから、今後の発展に期待である。

 せっかくなのでチェコのラグビーについて触れておくと、ラグビーが盛んな町として知られているのは、プラハの近くのジーチャニと、モラビアのビシュコフである。1993年のチェコスロバキア分離以前から、例外を除いて、この2チームとプラハのチームが常に優勝を争ってきた。最近は資金力も選手の集めやすさも上のプラハのチームの優勢が続いているようである。
 現在のチェコリーグの1部は、ちょっと変わった方式で行われている。所属するのは、全部で8チーム。2019年は、スパルタ、タトラ・スミーホフ、スラビア、プラガ・プラハのプラハ4チームに、ジーチャニ、ビシュコフ、ズリーン、ドラゴン・ブルノが属していた。まず、一次リーグとして、各チーム各チーム総当りで1試合ずつ、合計7試合行い、その結果、7位と8位のチーム、今年はスラビアとズリーンの2チームが、2部のチームと昇格、残留を争うリーグに回された。
 そのあと、残り6チームで二次リーグ、こちらは普通にホーム&アウェーの総当り、合計十試合行なう。一次リーグの勝ち点は持ち越さないが、その順位によって、1位10点、2位8点……6位0点というボーナスポイントが与えられる。そして上位4チームが1位対4位、2位対3位というプレーオフの準決勝に進む。準決勝ではリーグ3位のジーチャニと、4位のプラガが敗退した。この2チームの3位決定戦はジーチャニが勝って、プラハチームの上位独占を防いだ。

 チェコのラグビーの問題点の一つは、強いチームがプラハに集中しすぎていることだろう。一部リーグの半分がプラハのチームで、決勝がプラハのチーム同士の試合になることも多い。プラハの一極支配を防ぐためにも、ジーチャニとビシュコフには頑張ってほしいのだけど。オロモウツ? うちのチームは下部でくすぶっているのだよ。

 とまれ、スパルタは、これで1993年の分離以来4回目の優勝ということになる。スパルタと名のつくチームのチームカラーである臙脂、黄色、青という三色をあしらったユニフォームは、正直サッカーのスパルタのユニフォームよりも趣味がよく、応援したくなる。タトラのオールブラックス張りの真っ黒なユニフォームも悪くなかったけど、スパルタの方が上だった。
2019年11月9日25時。











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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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