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2018年07月11日

政治家と学歴2(七月十日)



 ちょっとばかり旧聞に属してしまうが、学歴に関しては小池東京都知事も批判を浴びているようである。何でもカイロ大学首席卒業をうたい文句にしていたのが虚偽の学歴に当たるのではないかということらしい。実は卒業していないという話もあるのかな。この人、もともとはテレビで活躍した人なのだから、学歴もなにもかにもテレビ的にフィクションの経歴を演じ続けていれば十分だったのだろう。カイロ大学なんて言われてもどんな大学なのか知っている視聴者なんてほとんどいなかったはずだから、架空の大学名を使ったとしても大差はなかったに違いない。
 疑問なのは、大学で「首席卒業」なんてのが本当にあり得るのだろうかということである。中学、高校までなら、高校だと文系と理系に分かれるから完全に同じテストにはならないけれども、定期テストの結果で常に学内一位を保った人を首席卒業と言ってもおかしくはないような気はする。高校三年生の最後の定期テストだけをもとにすると、大学受験の関係で普段とは違う結果にもなりそうだけど。

 しかし、大学の場合には比較的自由なカリキュラムで、必修の科目はあるにしても個人個人で履修科目に大きな差がある。同じ科目名でも担当の教員によって難易度に大きな差があることも珍しくはない。それに、エジプトの大学もヨーロッパ的だという前提のもとに考えれば、ヨーロッパの大学では、ABCの評価の出る科目はそれほど多くなく、単に合格、不合格の区別しかしない科目のほうが多い。そんな状況で何を基準にして比較した結果、首席だの次席だの言えるのだろうか。
 卒業試験や卒業論文を基準にするにしても、論文の出来を点数化して順位をつけるなんて無駄なことをする大学があるとは思えない。学生の格卒業論文はともかく、本来論文の評価なんてものは発表されてすぐに固まるものではない。卒業試験にしても、こちらは口答試験だから、ABCなんて成績はつけても、100点満点で点数化することはない。これで序列を作るのも面倒な話である。

 成績を比べることで序列を比較的作りやすいケースを考えるなら、学部、学科、専攻、それに所属する研究室まで同じだった場合である。これなら、同期の人数もそれほど多くなく履修した科目にも大差はないだろうし、卒業試験の結果、卒業論文の比較もしやすいから、数値化しなくても序列化できなくはない。ただこのレベルで一番だったというのを、何とか大学首席卒業だなんて言えるのか。そもそも、専攻も学科も学部も異なっている学生たちをひっくるめて、何とか大学首席卒業というのが無茶な話なのである。
 それに、日本と違って同期で入学した学生の多くが同時に卒業するわけでもない。チェコだと6月、9月、1月と年に三回卒業試験を受けられ、卒業式は卒業する学生が一定数たまり次第順次行われている。そうすると、同期入学の中で一番最初に卒業したことを首席と言うのは可能であるが、複数人になる可能性も高いし、卒業が早かったことが必ずしも優秀であったことを意味するわけでもない。これでは首席卒業という言葉から想像するものとは大きく隔たってしまう。

 ということで、耳ざわりは非常にいいし、書かれているのを目にするとすげえと思ってしまいそうになるけれども、「大学首席卒業」というのは、最初から眉に唾付けるというか、真に受けたりはできない。もしかしたらここに書いたことは大間違いで、各大学で毎年首席卒業というのを認定しているのかもしれないが、本当に優秀な人はそんなことを声高に自慢したりはしないものである。だから、何とか大学首席卒業なんてことを自慢げに著書に記したり、自らインタビューで答えたりする人よりも、著者略歴に「怪奇大学で怠け学を専攻した」なんてことを書いてしまう作家赤城毅のほうを尊敬してしまう。

 それにしても、建前だけでも過度に学歴を尊重する社会を批判しているはずのマスコミが、真偽のはっきりしない学歴に振り回されてきた感があるのは滑稽である。憶測だとか知人の誰それの証言なんかではなく、エジプトまで出向いて大学に直接取材するようなことは期待できないのかねえ。それこそ小池氏の卒業論文を閲覧して本当に卒業に値するのかどうか調査するのも一つの手だと思うのだけど。
2018年7月10日23時55分。








posted by olomoučan at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年07月10日

政治家と学歴1(七月九日)



 水曜日にも下院での信任が得られそうな第二次バビシュ内閣で、批判を一番に集めているのが、ハマーチェク氏の内相と外相の兼任で、二番目が法務大臣のマラー氏の学歴の問題である。最初の話では法学の学位をとったスロバキアの私立大学で書き上げた卒業論文が盗作、剽窃の疑いありだという話だったのが、ブルノのメンデル大学で農学系の学位をとったときの論文にもその疑いがあるという話になった。よくわからないのだが、この人もともとは理系の人でブルノのメンデル大学でウサギの研究をした後、スロバキアのパンヨーロッパ大学という、いろいろと問題のある私立大学で法学の学位をとったらしい。それで弁護士か何かの法律関係の仕事をしていたところをANOに勧誘されたのかな。

 その二つの卒業論文に関しては、メンデル大学のほうは、前半の実験の理論的な背景を説明する部分が、他者の論文の引用であるにもかかわらず、出典を明記していないのが、盗用に当たるのだという。ただ後半の実験とその結果をまとめた部分は独自の研究であり盗用ではないという話である。いちいち引用して出典を明らかにするのが面倒だったのが、そこも自分の説として考えていたのかは知らないけれども、この論文が盗用扱いされるのは確実なようだ。
 もう一つのスロバキアの大学での論文に関しては、最初はこちらが盗用じゃないかと批判されていたのだが、盗用ではないが、その内容のレベルの低さが問題になると専門家がコメントしていた。そもそもこの大学での教育に関して、認可されていないはずのチェコの支部に所属していたとかいないとか、更なる問題も出てきているようである。このあたり、旧共産圏の私立大学というのは、どうして認可されたのだろうかといいたくなるようなものが多いのである。

 バビシュ氏やマラー氏本人が主張するように、本当に有能で法務大臣としての責務を問題なく果たすことができるのであれば、たいした問題でもないような気もする。学歴の有無が政治家として能力を左右するわけではない。それに学生の書く卒業論文なんて、所詮は学生の書くものだから、例外を除けば他の卒業論文も五十歩百歩だろうし、近年チェコで流行しているらしい卒論を外注する、つまり業者にお金を出して書いてもらうのに比べればましであろう。卒論を書いてくれる業者に頼むと、引用などの情報の出典の情報は、完璧に、ときに必要以上に表記されることになるらしい。
 それに例のプルゼニュの西ボヘミア大学でスキャンダルが勃発したときには、今回のものとは比べ物にならないくらいの完全な盗用があって、ほとんど同じ内容の卒業論文を書いて卒業した人が何人かいたという話もある。あのとき、何人もの政治家が夏休みの間に学位を獲得したりしていたが、それを理由に国会議員を辞任したというような話はなかったと思う。
 法の公正を担保すべき法務大臣は、単なる立場が違うという考えにも一理あるのだろう。ただ、人の噂も七十五日で、プルゼニュ大学事件の首謀者の一人、ホバネツ氏を内務大臣に就任させた社会民主党は、この人事を批判する前に、党内の要職を占める政治家たちが、同じ過ちを繰り返していないか確認するほうが先であろう。いや、政治にかかわるようになってから学位をとった政治家たちの卒業論文を、マラー氏の卒業論文と同じようにチェックすると面白い結果が出るんじゃなかろうか。以前亡くなったグロシュ氏が首相になったときには、ムラダー・フロンタ紙がグロシュ氏が学位をとった卒論を分析してかなり辛辣な評価をしていたのだけど、同じようなことをまたやってくれんもんかねえ。

 第一次バビシュ内閣では法務大臣は、ソボトカ内閣で党員ではない専門家大臣として抜擢されたロベルト・ペリカン氏が引き続き頑張っていたのだけど、バビシュ氏のやり口についていけなくなったのか、政界からの引退を決めて、大臣だけでなく昨年当選したばかりの下院議員も辞職してしまった。そのペリカン氏の後釜に座ったのがマラー氏なのだが、前任者と比べてどうかといわれると、現時点の印象では頼りなさの方が先に立つ。バビシュ氏の操り人形としては適任なのだろうけど、野党からの批判の集中砲火を浴びた場合に頑張りきれるのか心配である。

 なんてことを書いたら、マラー氏が今日突如辞任を発表した。このままではバビシュ内閣の信任投票にもANOの評判にも悪影響がありそうだから身を引くことにしたのだそうだ。同時に、自分は引用の出典を書き忘れるという小さなミスはしたかもしれないけれども、それは本来大臣を辞職するような問題だとは思わないとか何とかいうことも強調していた。
 その結果、水曜日に予定されている信任投票にむけては、首相のバビシュ氏が暫定的に法務大臣を兼任することになるようだ。外務大臣と法務大臣という重要な役職が暫定で兼任の状態で発足する内閣というのも前途多難そうである。野党側からは、刑事事件の容疑者として捜査の対象になっている人物が、司法権を掌る法務大臣になるのは末期的症状だなんていう批判が上がっていた。同じような口実で、社会民主党が内務大臣をANOから取り上げたんじゃなかったか。もういっそのこと内閣の信任は諦めて、下院の再選挙を行なった方がましじゃないかなんて気がしてきた。

 実は昨日、この内容で書いて投稿するつもりだったのだが、疲れていたせいか書くのを忘れてしまった。ちょっと書く日と投稿する日を調整したほうがよさそうである。毎日書くというのがぐだぐだになりつつあるのはあまりいい傾向ではない。一度休むとこうなるのだよ。
2018年7月9日23時23分。







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2018年07月07日

『済時記』を読む三(七月七日)



 十一月は一日の記事から残っている。

原文
十一月一日丁巳、酉刻太政大臣藤原公薨、


書下し
十一月一日丁巳、酉刻太政大臣藤原公薨ず、


 特に説明は不要であろうが、摂政を辞任した伊尹がこの日の酉時というから夜になってから亡くなったのである。


 前の十一月一日の記事から大きく間が開いて月末の廿七日の記事である。

原文
廿七日癸未、伝聞、今日以権中納言兼道朝臣任内大臣、以播磨守々義朝臣為参議、冊命之儀、一同任大臣儀、云検見天応以来公卿任例、未有不経大納言及内臣昇進此職之者、誠雖人主暗前鑑、殊亦右府不諍之所致也、上下人庶莫不驚奇矣、


書下し
廿七日癸未、伝へ聞く、今日権中納言兼道朝臣を以て内大臣に任ず、播磨守々義朝臣を以て参議と為す、冊命の儀、一へに任大臣の儀に同じ、天応以来の公卿の任例を検見するに、未だ大納言を経ずして内臣に及び此の職に昇進するの者有らず、誠に人主の前鑑に暗きと雖も、殊に亦た右府の諍はざるの致す所なり、上下の人庶驚奇せざる莫きか、


 この日も出仕しなかったのか伝聞で、権中納言藤原兼通が内大臣に任じられたことが記される。もう一人参議の補任も記されるが、これは付け足しのようなもの。平安時代において兼通の前に内大臣に任じられたのは、昌泰三年(900)藤原高藤だけある。高藤は就任から一ヶ月ほどで没しているから、なくなることを見越しての任官だったのかもしれない。こう見ると、兼通が内大臣になったのは、中納言から大納言を飛ばしての任官だったということだけでなく、内大臣に任じられたこと自体が異例だったのである。次に「一同任大臣儀」とあるのは、そんな異例な内大臣への任官が左大臣、右大臣への任官と同じだったということであろうか。
 済時は、天応、つまり奈良時代末からの公卿の任官の例を確認した上で、大納言を経ずして内大臣に就任したものはいないと記している。「内臣」とあるのは、内大臣の前身といわれる官職で、藤原氏の祖である鎌足が死の直前に任じられた官職でもある。

 ここでも十月廿三日と同じ「誠雖人主暗前鑑」という句が使われている。元服を済ませたとはいえ、未だ十四歳だった円融天皇、前例に暗いのは仕方がないと見るか、頼りない点のだと見るかは微妙なところだが、済時によれば、この件に関して一番悪いのは右大臣の藤原頼忠だという。頼忠が争いを避けたからこんなこと(中納言兼通が内大臣に就任したこと)になったんだと済時は考えているようである。身分の上下を問わず多くの人々が驚愕したらしい。
 それにしても、済時の日記の批判は強烈である。日記で権力者を批判したことで有名なのは実資だけれども、『済時記』の権力者批判は、『小右記』の道長批判に劣らない。残念なのはここに訓読した六日分の記事しか現存していないらしいことで、この六日分しか書かなかったということはありえないから、日記が完全に残っていたら、もしくはこの天禄三年の分だけでも残っていたら、平安時代の歴史は書き換えられていたかもしれない。

 摂政伊尹没後の弟達、兼通、兼家兄弟の摂関の地位を巡る争いは、『大鏡』の劇的な叙述が印象的なせいか、当時の日記で現存する『済時記』にも『親信卿記』にも記録されていないのに、兼通が中納言から関白になったと考える人も多いようである。『済時記』は欠が多いので、現存する部分に書かれていないからそんなことはなかったとは言い切れないのだけど、現存していれば……。
 考えてみると済時と実資って立場が似ているといえば言えるのである。性格も似ていたのだろうか。中宮職で上司部下の関係にあったときには、うまく協力して仕事ができていたようなので、済時も実資同様に有能な官人で政治家だったのだろう。
 以上原文の引用は宮内庁の「書陵部紀要」第23号からである。
2018年7月7日23時








2018年07月06日

『済時記』を読む二(七月六日)


 次の記事は廿三日。

原文
廿三日己酉、伝聞、右大将奉仰給勅答太政大臣曰、摂籙依請停之、自余如本者、依内記不候、令蔵人惟成作之、臣下上表蓋雖及数度、百王恒典輙不許所請也、而丞相病後始上此表、即停摂行、甚乖旧典、誠雖人主之暗前鑑、亦是相国不忠之所致也、去春以来世之云々盈満街衢、蓋依此故乎、


書下し
廿三日己酉、伝へ聞く、右大将仰を奉り勅答を太政大臣に給はりて曰く、摂籙請に依り之を停す、自余は本の如し、てへり、内記の候ぜざるに依り、蔵人惟成をして之を作らしむ、臣下の上表蓋ひ数度に及ぶと雖も、百王の恒典輙ち請ふ所を許さざるなり、而るに丞相病の後始めて此の表を上す、即ち摂行を停む、甚だ旧典に乖る、誠に人主の前鑑に暗きと雖も、亦た是れ相国の不忠の致す所なり、去ぬる春以来世の云々は街衢に盈満す、蓋し此の故に依るか、


 この日の記事も伝聞になっているのは、この混乱の時期、済時が三大を避けていたということなのだろうか。
 この日はまず、右大将で大納言の兼家が、天皇の仰せに従って、兄の伊尹に摂政を辞任する許可を伝えている。摂政以外は元の通りというから太政大臣の地位にはとどまったようである。このときの文書は、内記が参上していなかったから、蔵人の藤原惟成に作成させたという。花山朝で暗躍した藤原惟成はこの頃から蔵人を務めていたのである。

 以下は、この件に関する済時の批判なのだが、なかなか強烈である。まず、伊尹の摂政辞任が一度目の辞表で認められたことを批判する。済時によれば、臣下が辞表を数回提出しても、辞任を認めないのが昔からのルールなのだという。それなのに、伊尹は病気になって初めて辞表を提出したら、すぐに摂政をやめることが認められた。これはこれまでの慣例に背いている。
 次の「誠雖人主之暗前鑑」が少しわかりにくいのだが、天皇が前例を知らないことを批判しているものと読んでおく。それ以上によくないのは伊尹で、すべては伊尹の不忠がもたらしたことだという。「去春以来世之云々盈満街衢」の「云々」が指すものがわかりにくいけれども不平不満の類であろうか。昨年の春以来この世のあれこれが街中に満ち溢れているのは、すべて伊尹の不忠が原因だろうという。


原文
廿六日壬子、早旦□右府諧世事之報、良久言談、


書下し
廿六日壬子、早旦右府に参り世事の報を諧す、やや久しく言談す、


 このときの右大臣は一年ほど前に就任した藤原頼忠。「□」で表されている文字には、「参カ」という傍注がついているのでそれにならっておく。「諧」がわかりにくいが、この日の記事は、済時が早朝から右大臣頼忠のところに出向いて世俗のあれこれについてしばらく話したものと理解しておく。内容はおそらく伊尹の後任の摂政についてだろう。
 十一月分は次回に回す。

2018年7月6日23時







2018年07月05日

『済時記』を読む一(七月五日)



 チェコ語で論文を書いて、それに『済時記』を引用するとか、寝ぼけた非現実的なことをわめく前に、ちゃんと読んで内容を理解しておく必要がある。わかる部分とわからない部分を確実なものにするために、まず日本語で『済時記』の内容について書いておこう。『小右記』と書き振りが違うから少しばかり読みにくいのである。
 天禄三年の十月と十一月の記事しか残っていないのだが、一番古い記事は、十月廿一日条である。このとき済時は三十二歳で参議、左兵衛督と讃岐守を兼任していた。後者は遥任だろうけど。

原文
天禄三年十月廿一日丁未、伝聞、大丞相依痾恙重、上辞摂籙、返随身表畢、


書下文
伝へ聞く、大丞相痾恙の重きに依り、上して摂籙を辞す。随身の表を返し畢んぬ、と、


 大丞相は、太政大臣のことだから、摂政を兼任していた藤原伊尹。済時とは従兄弟の関係になる。「痾恙」はあまり聞く言葉ではないが病気のこと。病気が重いことを理由に摂政を辞する辞表を提出したということである。
「摂籙」は、関白も指すともいうが、摂政の異称と考えて問題はあるまい。ここの書下しは「摂籙を辞するを上す」と読んだ方がいいかもしれない。「上して摂籙を辞す」だとすでに辞任が認められているような印象も受けるし。
 末尾の「返随身表畢」の訓読は一応こう読んでおく。与えられていた随身を返却する手続きをしたということであろう。もしくは随身を与えられたときの書類を返却したと理解してもいいかもしれない。
 この時点では済時は聞いたことを書きとめただけで、特に批判はしていない。


 次は廿二日条である。

原文
廿二日戊申、蔵人為長来云、太相府辞表事、右大将・藤納言共候 龍顔、皆奏可被停由、然後互争可承行此事執論之間、已及罵詈云々、


書下し
廿二日戊申、蔵人為長来りて云ふ、太相府の辞表の事、右大将・藤納言共に 龍顔に候ず、皆な停めらるべき由を奏す、然る後、此の事を承行すべきを互ひに争ひ、執論の間、已に罵詈に及ぶ、と云々、


 蔵人為長は詳細は不明だが藤原為長であろうか。『小右記』天元五年二月四日条には左衛門尉として登場し検非違使への補任の候補者となっている。その為長の報告では、太政大臣伊尹が摂政を辞任するということについて、右大将で大納言だった兼家と中納言の兼通の兄弟が円融天皇の御前に候じて、二人とも辞任を認めるべきだという奏上をしたということらしい。
 それで済んでいればよかったのだが、この二人、そのあと誰が伊尹の後を襲うかという問題について互いに争い、議論は罵言の投げ合いになったというのである。後に長徳元年の道隆没後に伊周と道長が陣の座で公卿たちの面前でやらかして実資に批判されたのと同じようなことを、この二人は天皇の前でやらかしたらしい。特に批判の言葉がないのは、あきれてものも言えないということだろうか。
2018年7月5日23時









サッカーを見ながらチェコ語における日本人の名前の格変化に思いを致す(七月四日)



 チェコテレビのスポーツ部門のアナウンサーたちは、事前に出場選手たちの名前の読み方を確認するなど入念な準備をしているはずなのだけど、今年のロシアでのワールドカップの中継に関して言えば、予算不足で、現地に出向かずプラハから画面を見ながらの実況が多いせいか、ひどいのが耳につく。担当者の数が少なくて一人で多くのチームの中継を担当するから準備に時間が足りないというのもあるかもしれない。自分にわかるのは日本人の名前だけなのだが、他のアジアやアフリカの国の人名も酷いことになっている可能性はある。いや、ひどいのは日本の試合、セネガル戦とベルギー戦の二試合を実況した奴だけかもしれないけど。ポーランドとの試合を中継したアナウンサーはそれほどひどくなかったし。

 何がひどかったかというと、まず一つはヘボン式のローマ字表記の日本の名字を読む際に、チェコ語の読み方を混ぜていたことである。アクセントが変とか、発音が微妙に違うというのは、日本で選手経験や監督経験のある人でもそうなのだから批判するつもりはないけれども、読み方を混ぜるのはいただけない。一番問題だったのは「Shoji」選手で、この名字を「ショイ」と読んでいた。
 日本語では「ショージ」と読むべきところだろうが、長母音が短母音になっているのは、最近の日本語のローマ字表記では長音符を表示しないから仕方がない。「ジ」が「イ」になるのは、チェコ語では「j」がヤ行の音を表すからである。つまり「ji」はチェコ語では存在しなくなって久しいヤ行のイ段の音を表すのである。ただ、チェコ語の読み方に合わせるとすれば、「Sho」も「ズホ」もしくは、「スホ」となって、「ショ」とは読めないはずなのだけどね。不思議なのは、同じ「ji」でも、キーパーのカワシマ選手の名前のほうは「エイジ」と「ジ」と読んでいたことである。
 セネガルとの試合では、ナガトモ選手のことを「ナガモト」と何度も言い間違えて、解説のルデク・ゼレンカに訂正されていたし、準備不足を批判されても仕方あるまい。ただこの「ナガトモ」「ナガモト」の間違いは他のアナウンサーもやっていたような気がするから、チェコ人には「トモ」よりも「モト」のほうが言いやすいのかもしれない。

 もう一つの問題は、日本選手の名前の格変化がめちゃくちゃすぎて何格なのか理解できなかったことである。「ホンダ」「カガワ」などの「A」で終わる名前については、チェコ語の男性名詞の中にも「A」で終わるものがあるからか、問題なく格変化させられていたようだが、「ナガトモ」「オーサコ」のような「O」で終わる名前の変化がひどかった。少なくともスロバキア人の中には「O」で終わる名字の人はいるし、チェコにも存在してもおかしくないのだが、もうぐちゃぐちゃだった。
 この「O」で終わる男性名詞の格変化は、硬変化の男性名詞と5格以外は共通である。つまり、2格、4格の語尾は「-a」で、3格、6格は「-ovi」、5格は1格と同じで、7格は「-em」になる。気を付けなければならないのは、外国の人名なので、「O」をそのままにして、その後ろに語尾を付ける形も認められていることである。こちらの方が推奨されるのかな。つまり「Osako」の例えば二格は「Osaka」よりは、「Osakoa」のほうが推奨されるのである。それでも「Osaka」になるのであれば文句はない。「Osaku」「Osaky」など、一格の姿が見えなくなるような、何格なのかもわからないような形が頻出して、ものすごく聞きづらかった。

 もう一つ格変化で問題だったのは、「タカシ」と「イヌイ」などの「I」で終わる名前の場合で、前者は子音に「I」がついているので、形容詞軟変化が男性名詞につくときと同じ活用語尾を取る。つまり2格、4格は「Takašiho」、3格、6格は「Takašimu」、5格は1格と同じで、7格は「Takašim」になるはずなのである。それなのに、2格が「Takaše」になっていた。これでは一格が「Takaš」という軟変化の男性名詞になってしまう。
 では母音の後ろに「I」のついた「Inui」の場合にどうなるかというと、「Takaši」と同じように形容詞軟変化的な語尾を付けてもいいのだが、推奨されるのは、末尾の「I」を「J」に見立てて、男性名詞の軟変化と同じ語尾を付けるやりかたである。だから上に書いた間違いは、こちらに引きずられてのものだと言ってもよさそうである。気づいたのはたしか「Takaši Inui」の2格を「Takaše Inuie」(タカシェ・イヌイェと読む)と言ったときだったし。

 「シバサキ」と「シバザキ」が混在するという問題もあって、一見漢字の読み方かと思ってしまったのだが、実際はドイツ語の影響である。チェコ語では特に外来語において、ドイツ語の影響で「S」を理由もなく濁らせることがあるのである。例えばチェコ人が「シンカンゼン」「ボンザイ」と言っているのに気づいた人もいるかもしれない。だから「Shibasaki」と書かれていたのを、チェコ語的に読んだりドイツ語なまりで読んだりしたというのが原因なのである。

 日本人の名前の表記、読み、格変化に関しては、あちこちで気になる例に出会うのだけど、今回のワールドカップの中継は最悪だった。日本のチェコの人名表記とどっちがひどいかと考えると、それでも、やはり日本のマスコミの表記(即読み方)のほうがひどいな。チェコは、個々のアナウンサーが間違えることはあっても、ちゃんと読めている人もいるわけだけど、日本はマスコミ全体で変な表記を使っているし、自慢げに修正する人の表記も変だったりするからなあ。

2018年7月4日23時54分




 ローマ字表記の誤りを修正。7月9日





2018年07月04日

寛和三年二月の実資〈下〉



 十六日は、参内すると、清涼殿で御読経が行われている。これは天皇が十九日にこの殿舎に移るための準備だという。内裏の火災で再建中でもあったのだろうか。この日は殿上人たちが、「然の持ち帰った仏像や経典などを見るために蓮台寺に出向いている。実資も同行したようである。内裏に戻って候宿。
 この日は天皇の祖母に当たる藤原時姫に位が与えられている。時姫は摂政兼家の正室で天皇の生母の皇太后詮子の母である。その使いは本来四位の官人が務めるべきところ参らなかったので、五位の官人に役が回ったようである。また亡くなった大僧正の良源に慈慧という諡号が与えられ、使いを務めたのは少納言の源元忠だった。この段落の内容は、実資が直接かかわっていなかったからか、すべて伝聞の形で書かれている。

 十七日は、前日候宿した内裏から退出し、夜になって室町の姉のところに出向いている。神仏に灯火をささげるためだったようだが、その理由については判然としない。

 十八日は、十一日に清水寺に送った子供が帰ってくるのを迎えている。七日の芥子焼の儀式が終わってからの来たであろうか。東の対に住まわせている。兄の懐平がやってきて、実資と一緒にこれも兄の高遠のところに向かう。高遠のところでは軽く食事をして夕方帰宅。
 一搩手半の如意輪観音を造っているがこれは、子供のためだろうか。一搩手は手の親指と中指を広げたときの長さというから、誰の手の大きさを規準にしているのかはわからないけど、30センチから40センチぐらいの高さの像になるだろうか。

 十九日は一日中雨。雨の中を参内すると天皇が凝華舎より清涼殿に遷御する。引越しにつきものの陰陽師による反閉を務めたのは安倍晴明である。遷御の際の出来事も書かれているが特に批判は加えていないので問題はなかったようである。遷御の後、夜に入ってから公卿を召してサイコロ遊びが行なわれている。臨時の叙位が行われてたのか三人の官人が叙されている。

 廿日は、早朝内裏から退出するが夕方また参内して候宿。穀倉院の饗が行なわれたというが詳細は不明。公卿も三四人出席したようであるが、公卿たちが退出した後サイコロ遊びが行なわれている。実資も参加したのだろうか。

 廿一日は、雨の降る中早朝退出。二条第の改築工事を始めている。これは中宮遵子が滞在中は手をつけられなかったものに手を出したということだろうか。垣を築き古井戸を掘り返している。亡くなった実資室の源惟正の娘の法事について、縁者と思われる源氏の二人と話し合いをしている。

 廿二日は、藤原道兼と共に侍臣たちが金鼓を打ちに出かけている。実資も同行したのであろう。夜に入って帰宅したことが記される。

 廿三日は摂政兼家のところに出向いている。右大臣以下の公卿が多数参入していたので、その理由を尋ねると、先日左右の近衛大将以下が集まったときに、今日参加者それぞれが一種類の肴を持ち寄って催す一種物と呼ばれる宴会を行なうことを約束していたらしい。それぞれが持ち寄った肴についても記されているがよくわからない。摂政も食事を提供して酒宴が始まり、音楽も奏された。こういうときの例で褒美が渡されるのだが、四位、五位の官人にまで疋絹が与えられたことに対して、実資は軽すぎるのではないかと疑問を呈している。

 廿四日は、円融上皇の許に参入して夕方退出。右大臣以下の公卿たちが蓮台寺に出向いたことが伝聞の形で記される。右大臣が諷誦を修めたというが、「然の持ち帰った仏像や経典などを見るためという面もあったのかもしれない。

 廿五日は太政大臣頼忠のところで行なわれた御読経に参加。終わった後、兄懐平、従兄弟公任などとともに兄高遠の邸宅を訪問。ちょっとした酒宴が行なわれた後、歌を詠んだ。歌が苦手な実資も詠んだのだろうか。夜に入って解散。
 この日は中宮の御竈神を四条宮に移したということも伝聞で書かれているが、以前滞在していた実資の二条第から移したのだろうか。また、三月に行われる石清水臨時祭の舞楽の練習が始まっている。

 廿六日は。除目の際の間違いを修正する直物が行なわれている。一人二人の任官が行なわれたようである。

 廿七日は、太政大臣頼忠に呼び出されたあと、参内して候宿。

 廿八日は、太政大臣頼忠邸での御読経の発願に出席して、摂政兼家のところに出向く。兼家の話では天皇のご病気のために参内したということである。その後、室町の姉のところに寄ってから、二条第に向かい垣の工事の様子を見ている。

 廿九日は参内して候宿。伝聞で摂政兼家が蓮台寺に出向いて「然の持ち帰った仏像を見たことが記される。十八日の記事に諡号が贈られたことが記される良源大僧正の門弟たちが、お礼を申し上げるために参内している。この日は地震が起こったようである。また「然の持ち帰った仏画や仏舎利の入った七宝で造られた小さな塔を、皇太后藤原詮子に見せたらしいことが伝聞の形で書かれている。
2018年7月3日23時40分





2018年07月03日

寛和三年二月の実資〈上〉(七月三日)



二月一日は、恒例の賀茂社への奉幣を行っている。正月の一日には奉幣していないので、二ヶ月分の奉幣である。使者は、おそらく僧の厳康。このあたり神事、仏事の関係についてはいまいちよくわからない。四日の休暇を申請しているが、理由は記されていないので、何か個人的な事情によるものであろう。

 二日は夢見が悪かったという理由で、外出をはばかっている。この日は藤原元卓を使者として藤原氏の氏神である春日社に奉幣している。同時に三月の春日祭の勅使に選ばれている源俊賢の下に、祭使の衣装として摺袴を贈っている。また、兼家の子である道兼が春日社への参詣に出ているが、出発前の供応が贅沢に過ぎたようである。中宮の使は停止したとあるから、この日は藤原氏全体で奉幣することになっていたのだろうか。

 三日の記事は、前日の道兼の春日社への出発の際の出来事に対する批判である。贅沢極まりないというのだが、実資の兄の懐平も出席している。そして、更にひどいのは、道兼宅で女性が急死したのを隠して、春日社に向かったことである。公式には出発したあとに急死したことになったようだけど。これで、今年の春日祭は穢れた状態で行われることになった。

 四日は、まず円融上皇の元に向かう。左大臣源雅信と右大将藤原済時が四月に行われる予定の法華薄八講について雑事を定めている。上皇の生母である藤原安子のために行うものである。実資は決められたことを書き記す役を務めている。

 五日は、休暇を終えて参内。中宮大夫でもある右大将済時も参内しており、中宮遵子の行啓に付き従う公卿などのことを定めたという。

 六日はまず頼忠の四条宮を訪れて、中宮遵子が引越しする準備をしている。遵子の父頼忠もやってきて、天皇、この場合には摂政の兼家だろうか、の対応について不満を述べている。実資も前例通りにしても、前例通りの反応が返ってこないのだからという理由で、天皇に慶賀を奏するのは、中宮のためにも頼忠自身のためにもならないと進言している。

 七日は中宮の引越しである。夜に入って中宮遵子の滞在する二条第に太政大臣頼忠をはじめ、中宮大夫済時などの公卿以下の官人が集まってくるが、実際の移動が始まったのは深夜とも言うべき、亥のときで、集まった人々には湯漬が供されたという。移動に際して車を使うか、輿を使うかで混乱しているが、これは車を予定して太皇大后宮の昌子内親王に借りたところ、主殿寮から輿を送ってきたためである。結局道理には合わないけれども輿を使うことになっている。そのせいで、あれこれ儀式に齟齬が発生しているが、急なことで、また深夜でもあるということで、そのままにしている。輿を東西どちらの門から入れて、どちらの門から出すなんてところまで決まっていたのである。二条第を出て四条宮までの移動の道筋、四条宮での儀式の様子も詳しく記される。実資は深更退出したというけれども、移動の開始がすでに亥の時であるので、実際に退出したのは朝に近い時間であったかもしれない。

 八日は参内して候宿しただけである。

 九日は早朝内裏を退出して円融上皇の元に出向く。しばらくして退出して二条第に向かいあれこれ確認したところ、ひどく破壊されていた。引越しが行われた前夜、中宮の御在所に泥棒が入り服などを盗み去ったらしい。この件もあってか、夕刻中宮の元に出向いている。

 十日は世情が穏やかでないというので、穢れを占わせた上で、鴨川のかわらで祓えを行っている。そのため、奉幣をしなかったというのだが対象となる神社は不明。五日の休暇を願い出ているのは、穢れのためであろうか。

 十一日は、高遠、公任とともに、宋から帰国した「然が持ち帰った仏像や経典などを見に蓮台寺まで出かけている。最初に置かれた寺の名前は欠字があって不明。そこから蓮台寺に移動させた際の次第が細かく記されている。最初に七宝の塔があって中に仏舎利が納められているというのだが、輿に乗せて人々が担いだというから、塔の模型のようなものだったのだろうか。気になるのは雅楽寮が音楽を奉仕しているところである。
 その後夕方になって子供を清水寺に送っている。清水寺では、住僧の高信に子供のために芥子焼という修法を七日にわたって行わせている。

 十二日は右大臣為光の行った釈経の儀式に出向いている。実資は為光のことをあまり評価していなかったというか、嫌っていた印象があるので意外である。

 十三日は小野宮流の高遠、公任らとともに「金鼓を打」ちに出かけて、夜になって帰宅。この金鼓を打つというのがどういう意味を持つのかはよくわからない。この記事には書かれていないが、別の俊の記事では東山に出かけて金鼓を打ったことが記されていたはずである。

 十四日は、実資の実父斉敏の忌日でである。僧厳康に斎食をさせ、実頼が創建した東北院で法事を行っている。

 十五日は、参内した後、円融上皇のところで行われた御念仏に向かう。夜になって退出。
2018年7月3日0時16分。



2018年07月02日

第二次バビシュ内閣信任獲得か(七月二日)



 一回目の組閣で下院の信任をえられなかったバビシュ氏を首相とする二回目の内閣が、ゼマン大統領によって任命された。前回はANO単独の少数与党の内閣だったが、今回は社会民主党と連立した上での少数与党内閣である。共産党の閣外協力を得て信任に必要な過半数、101以上の票を確保する予定であるという。共産党も最後まで、駆け引きのつもりなのかなんなのか、信任案を支持するかどうか言を左右していたのだが、土曜日に最終決定として支持することを表明した。これで、第二次バビシュ内閣が下院で信任を得られることはほぼ確実になった。造反者がでるかもしれないけど。

 そのバビシュ内閣は、何の問題もないと言うわけにはいかず、現時点で最大の問題は、ゼマン大統領が社会民主党の外務大臣候補のポヘ氏を任命するのを拒否したことで、暫定でハマーチェク氏が外務大臣に任命されている。問題はハマーチェク氏が内務大臣に任命されていることだ。ポヘ氏は名目上は相談役か何かの役職について実質的には大臣の仕事をするというのだけど、そんな詐欺満みたいなやり口が許されるのかという疑問にはチェコだからと答えるにしても、内務大臣と外務大臣を同一人物が兼任するというのには無理がありすぎる気がする。
 普通、何かの事情で大臣がかけてしまったときには、後任が見つかるまでは首相が暫定で兼任するものだと思うのだが、今回は連立政権で、大統領が任命できないような候補者を出してきたことに対する責任を社会民主党が取るということで、党首のハマーチェク氏が兼任することになったようだ。ANOにしてみれば、連立交渉で散々譲歩させられたのだから、社会民主党の失態の尻拭いをさせられるいわれはないと言うことだろう。バビシュ氏は、外務大臣の件に関しては社会民主党と大統領で決めてくれというスタンスを取り続けている。

 そもそも、議席数で言えばANOとは圧倒的な差のある社会民主党なのだが、連立交渉の相手が見つからないというANOの弱みに付け込んで内務大臣と外務大臣という重要な役職をごり押しで獲得したのである。この既存の大政党の悪いところを凝縮したような社会民主党の交渉のあり方は、見ていて気持ちのいいものではなかったから、最近の世論調査でも支持率を上げられていない、むしろ一時期よりは下がっているように見える原因になっている可能性もある。
 一方で、ANOのほうも、第一回の組閣では連立交渉に対して、交渉がまとまらないのはANOに交渉する気がないからだと既存政党の側から批判されても、譲歩することなく結局は単独での組閣を選ぶという既存政党とは違う姿勢をみせていたのだが、今回の組閣では社会民主党、共産党にずるずると譲歩させられているようであった。ANOは既存政党とは一線を画しているというのが一番の支持を集めている理由なのに、一部とはいえ既存政党と馴れ合い始めたような印象を与えたのは、今後の支持率の低下につながるのではないかと予想している。

 ANOの大臣候補者にも問題があって、元防衛大臣で、第一次バビシュ内閣では外務大臣を務めた俳優のストロプニツキー氏は、外務大臣を社会民主党に譲ることになった時点で政界から身を引くことを表明した。防衛大臣になっていた産業大臣のシュレフトバー氏は、軽薄な言動で顰蹙を買い第二次バビシュ内閣では大臣の座を失うことになった。交通大臣のテョク氏こそ、政界引退の意向を撤回したものの、法務大臣のペリカン氏は、これ以上付き合いきれないと言うことなのか大臣も国会議員の職も辞任してしまった。

 その後任となったマラー氏の過去があれこれ問題を引き起こしている。一番最近のニュースは、学位をとった大学の卒業論文が盗作と言うか剽窃というかだったらしい。しかも学位を与えた大学がスロバキアの怪しい私立大学だったのかな。あれこれ、批判されているけれども、この件をつつくと問題になる政治家は、あちこちにいるはずである。
 十年ぐらい前にプルゼニュの西ボヘミア大学で、促成栽培によって短時間での卒業した学生がいることが問題になったとき、顧客の大半は政治家だった。ゼマン大統領にすりよりながら今回の連立を批判しているホバネツ氏もその一人で、その上で何事もなかったかのように内務大臣を務めていたのである。亡くなったグロス元首相の卒論もひどかったというしなあ。政治家の能力と学歴なんて全く関係はないのだから、そんなに無理して学歴をでっち上げる必要もあるまいに。「バカ田大学出身」なんて冗談をやってくれる政治家がいたら、それだけで支持してしまいそうである。
2018年7月2日0時15分。











2018年07月01日

カロウセクに勝った再(七月一日)



 以前も書いたように電子書籍と紙の本の両方を扱うhontoで『現代語訳小右記』を購入したのだが、買ったのは最初の二冊で金額にして5600円、重さにして1.4kgほど、日本国内の消費税はかからず、日本からの荷物にかけられるチェコ側の消費税もかからなかった。

 この外国からの荷物にチェコの消費税がかかるかからないの境目となる金額があるらしいのだが、その額がいくらなのかはっきりしない。20ユーロという説があったかな。我が畏友は、日本に行ったときに、日本で買ったものをチェコに送る場合には、すべて開封して、販売できない状態にしたうえで箱詰めし、伝表に内容物はゴミのようなものと書き、価値は5000円と書くらしい。それで今まで一度もチェコの消費税を取られたことがないと言うのだが、ゴミなんて書いたら発送を拒否されるんじゃないか。ちょっと信じられない話である。
 実家から送ってもらうような荷物は、価値が5000円ぐらいになっていても、税金を取られたような記憶もあるので、最近は小分けにして2kg以内で手紙扱いで送ってもらっている。手紙扱いにしたものに関しては税金を取られたことはない。ただ、本来のこの制度の対象であった国外のネットショップで買った商品に関しては、商品の重さにかかわらず課税されることになっていたはずである。

 これでは、どういう事情で課税を免れられたかわからない。今後のためにもあれこれ試しておいたほうがいいだろう。ということで、次は値段が高く、重さでは2kgを越えなさそうな本を注文してみることにした。安い本を何冊も買うと2kgを越える可能性が高いし、箱が大きくなって手紙扱いにしてもらえるかどうか不安だから、できれば一冊で一万円を越える本がいい。
 結局、かねてからほしいと思っていた小右記研究会が刊行した『小右記註釈』を注文したのだが、考えてみれば、上に書いた試す云々は、この本を買うために必要だった言い訳に過ぎない気もする。ジャパンナレッジの年会費と大差のない本を、今の低収入で購入するには自分を騙すための言い訳が必要なのである。ジャパンナレッジでさえも、いくつも口実を用意する必要があったし。

 注文すると、hontoには在庫がなく、版元から取り寄せるので発送まで時間がかかるという連絡があった。版元で絶版になっている場合には買えない可能性もあったのかな。それから一週間ほどして発送完了のメールが来たときにはほっとした。ほっとすると同時にしまったと思ったのは、送料が3300円を越えていて、SAL便の料金表で確認すると、重さも2kgを越えていることが判明したからだ。そいうえばこの本二冊組だったか。研究書はハードカバーで造本もしっかりしているから重くなるのだった。hontoには、海外の顧客向けに本の重さもデータとして提供してほしいものである。
 これで重さは手紙扱いのリミットを越え、金額も非課税の額を超えたのは確実である。届いたら、チェコの消費税、へたすりゃ20パーセント取られることになるのを覚悟した。願うのは円での2万円の20パーセント4000円の円をコルナに換えただけの税額にならないことだけである。これまで何度も、どのような計算で出てきたのか理解不能な額の税金を請求されたことがある。時間をお金で買うつもりでクレームもつけずに素直に払ったけど、カロウセク許すまじなのである。

 それなのに、あっさりと無税で受け取れてしまった。例によって在宅していたのに不在の連絡票が入っていて郵便局まで取りに行くことにはなったが、税関で停まっているので手続きの代行をするという郵便局からの連絡は入っておらず、取りに言ったら普通に渡してくれた。
 カロウセクを出し抜くことに成功したのだが、自分の功績ではない。理由を考えてみると、hontoで使われている梱包のおかげではないかと思えてきた。社名も、店名も入っていない無地のダンボールに、取り立てて特徴のない住所の印刷されたラベルがはってあるだけで、一見通信販売の商品には見えない。専門家が見るとまた違うのかもしれないが、素人目にはそうは見えない。宛名ラベルなんて個人の荷物の発送には使わないといわれればそれまでだけどさ。

 どういう規準で税金がかかるのか、かからないのかは相変わらず判然としなかったけれども、日本で買う値段+1500円ほどで、この大部の本を買うことができたのは、何より喜ぶべきことである。日本で買うと本屋までの交通費もかかったはずだと考えれば、お買い得感はさらに大きくなる。
 だけど、しばらくは大人しくしていよう。このままずるずると気軽に本を買うようになると、給料が本代だけで消えてしまうということになりかねない。クレジットカードは、お金が見えないだけに高額の買い物をする際に葛藤がなくて危険である。一冊2万円を越えるような本を買う際には、日本で毎月云万円も書籍に費やしていた時代でも、今回よりははるか悩んでいたのに、あっさりと購入に踏み切った自分が恐ろしくなる。
2018年7月1日0時25分





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posted by olomoučan at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係
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