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2016年10月21日

上院議員選挙決選投票2(十月十八日)



承前
 自治体の首長が現職の大臣を破ったのが、南ボヘミア地方のターボル市を中心とする選挙区で、社会民主党の産業大臣ムラーデク氏が、ANOの推薦を受けたビェトロフスキー氏に、約20パーセントの差をつけられて落選した。ムラーデク氏は議席を失ったことを理由に大臣を辞職するようである。
 南ボヘミア地方の知事も、社会民主党の党員で、前回の下院の選挙の後、ハシェク氏と一緒にゼマン大統領との密議に参加していたのだが、その後の対応がハシェク氏に比べればはるかにましだったため、今回の地方議会選挙でも、南ボヘミアでは社会民主党がかろうじて第一党の座を守った。しかし、現職の大臣が落選してしまうところにも、南ボヘミア地方でも社会民主党への支持の低下が反映されている。
 ビェトロフスキー氏はムラダー・ボジツェという町の町長で、2014年には南ボヘミア地方で最も優れた町長として表彰を受けたらしい。そういう地方の首長が上院議員と兼職すると、市長や町長としての仕事がおろそかになったりはしないのだろうかと不安に思うのだけど、上院議員なら大丈夫という考えがあるのだろうか。小さな町や村の、町長、村長は、予算や仕事量などの関係で、国会議員でなくても、専業ではない場合もあるからいいのかな。

 以上が、政治的な意味にで気になる結果なのだが、何気なく結果を見ていたら、えっ、この人選挙に出ていたの? と言いたくなる人が立候補していただけでなく、決選投票にまで進んでいた。

 その筆頭は、何と言ってもヨゼフ・バーニャ氏である。この人、チェコで一番有名な競馬関係者で、騎手兼調教師兼馬主という日本ではできるのかどうかわからない立場にいる人物である。毎年チェコ最大の競馬のレース「ベルカー・バルドゥビツカー」という障害レースが近づくと、騎手として出場するのかしないのかが話題になる。今年は出ないとか言いつつ、結局騎手として出場して、終わると来年はもうないと言うのが決まりごとのようになっている気がする。最多出場と最多優勝の記録を更新中じゃなかったかな。
 今年はそんなに話題になっていなかったから、騎手としては完全に引退したということでいいのかなと思っていたら、選挙に出ていたのだ。テレビの談話などで理解する限りでは、そんなにでしゃばりな感じの人物ではなかったので、意外な取り合わせだったのだけど、調べてみたら、すでに2002年から地元の町の町会議員になっていて、2013年の下院議員選挙ではTOP09から立候補したが、惜しくも落選したらしい。
 そして今回は、TOP09とは犬猿の仲のANOに鞍替えして、カルロビ・バリ市を中心とする選挙区の上院議員候補として立候補し、カルロビ・バリ地方の議会の選挙にも立候補したらしい。いやあ、驚くべきことに可能らしいのだよ、この手の二重立候補。下院の選挙と、地方議会の選挙は候補者名簿に名前を載せるだけだから、あんまり立候補したという実感はなさそうだけど。
 選挙の結果は上院銀選挙では落選、地方議会選挙では当選ということらしい。地元の町の町会議員の職もあるから、議員としてだけでも二足のわらじを履いて、競馬関係者としても少なくとも二足のわらじを履いていることになるんだけど、大丈夫なのかね。とりあえずこの人には政治家として、TOP09とANOの間を引っ掻き回すことを期待しよう。

 それから、プルゼニュ市の選挙区でバーツラフ・ハロウペク氏が当選しているのにも、驚いてしまった。日本語に訳すと「愛国市民の会」とちょっとやばそうな名前になってしまう政治団体の候補として、一回目の選挙では0.5パーセントしかなかった差を、20パーセント以上に広げて、社会民主党の候補を退けて当選した。
 ハロウペク氏は、プルゼニュ市の市会議員でもあるというけれども、政治に手を出していたとはまったく知らなかった。そもそも、以前ちょっとだけふれた動物の子供が主人公になる子供番組の製作者としてしか知らないのだ。動物の子を主人公とした番組は、人間の勝手で親を失ったり、親が育児を拒否したりした子供たちを育てることを通して、自然保護、動物保護を訴えることも目的にしているのだろうから、政治家としてはその辺に力を入れてもらって、かつて起こった撮影後に子熊たちをどこで生活させるかなんて問題が起こらないようなチェコにしてほしい。そして、子供番組の続きを撮影してもらいたいところである。

 イジー・シュレーグルという名前を聞いて、長野オリンピックで優勝したチェコのアイスホッケーチームのメンバーであることに気づく人はどのぐらいいるだろうか。かつて社会民主党のパロウベク首相の勧誘で政界に進出し、社会民主党の下院議員となっていたシュレーグル氏も今回の上院議員の選挙に、モスト市を中心とする選挙区から社会民主党の候補者として立候補していた。
 この人、確かに社会民主党から下院議員の選挙に立候補して当選したのだが、その後パロウベク氏が、社会民主党を飛び出して結成したLEV21国家社会主義党というナチスを思わせる名称の党に参加するために社会民主党を脱党し、その後しばらくして下院議員を辞職していたはずである。それが今回再び社会民主党の候補者として立候補したということは、政界での恩人のパロウベク氏と袂をわかったということだろうか。パロウベク氏の党には資金関係のスキャンダルが起こっていたような記憶もあるので、その辺で見限ったのかな。

 注目すべき最後の一人が、ワレンシュタインの王国の首都になりかけたイチーン周辺の選挙区で当選したチェルニーン氏。チェルニーン宮殿という名前の建物を聞いたことはないだろうか。ウィーンにもあるのだけど、バロック様式で建てられたプラハのは現在外務省の庁舎として使用されている。わかるよね。お貴族さまの末裔なのだよ。ということで、当然シュバルツェンベルク侯爵の率いたTOP09からの出馬である。
 一応トマーシュ・チェルニーンという名前が使われているが、本当の名前は、トマーシュ・ザハリアーシュ・ヨゼフ・マリア・デポルト・ルドルフ・カジミール・ホスティスラフ・チェルニーンというらしい。いろいろと支族のあるチェルニーン家だが、この人の一族は伯爵位を世襲していたという。
 現在のチェコには公式には貴族は存在しておらず、爵位を公的に使用するのも禁止されている。それなのに、シュバルツェンベルクの支持者たちは、スノッブにも事あるごとに、「クニージェ、クニージェ」なんて爵位で呼ぶことで、貴族などとは縁のない普通の人々の支持を失って、ゼマン大統領の誕生に手を貸してしまったのである。この人の支持者が同じ愚を繰り返さないことを願っておこう。
10月19日16時30分。


2016年10月20日

上院議員選挙決選投票1(十月十七日)



 先週の地方議会選挙と上院議員選挙の第一回戦に引き続いて、金曜日と土曜日に27の選挙区で、上院議員選挙の決選投票が行われた。投票率は、一回目の選挙の33パーセントからさらに半減して15パーセント強と大きく低下した。一回目の選挙で落選が決まった候補者の支持者達が二回目の選挙を棄権したと考えると、理解できる低下ではあるけれども、少々寂しい数字である。
 同じように寂しい数字をたたき出すのがEU議会の選挙で、2014年の投票率は18パーセントほどしかなかった。EU議会議員とか偉そうにしているけれども、有権者の五分の一以下しか投票していないのに、国民全体の信任を得ているなんてことが言えるのかね。ついでに言えば、その議会によって担保されているはずのEU委員会以下の組織が、EU加盟国全体の民意を反映しているというには、説得力に欠ける数字である。結局、EUの運営に関して、選挙の結果がどうであっても大きな違いはないという大多数の有権者達の絶望がこの投票率に現れているのだろう。

 さて、今回の上院議員の決選投票の結果を見ていたら、面白い結果と名前をいくつか見つけたので紹介してみよう。中には一回目の投票の時には立候補していることに気づかなかったものもある。
 最初に全体の結果を概観しておくと、地方議会選挙と上院の第一回選挙では、ANOの圧勝だったのだが、決選投票に進んだ14の選挙区の内、3つの選挙区でしか議席を確保することができなかった。これは、バビシュの言うように既成政党の中で候補者が決選投票に進めなかったところが、ANOの対立候補を支持することにしたからかもしれないし、ANOが勝ちすぎることを有権者が警戒したからかもしれない。
 決選投票の勝者は、圧倒的にキリスト教民主同盟で、決選投票に進んだのほとんどが議席を獲得し、単独で擁立した候補と、他の党と共同で擁立した候補を合わせると、9の選挙区で議席を獲得した。連立与党を組んでいる社会民主党とバビシュのANOが対立を深める中、漁夫の利を得たというところだろうか。

 まずは、わが地元オロモウツから始めよう。オロモウツを中心とする選挙区では、かつて市長を務めていたテサジーク氏が上院議員を務めていたのだが、今回は社会民主党のオロモウツ地方の知事のスキャンダルなどがあって、市民民主党でも、社会民主党でも大差がないことを示してしまったせいか、第一回選挙で落選してしまった。
 決選投票に進んだのは、ANOの候補者と、キリスト教民主同盟の候補者だった。一回目の選挙ではANOのブラーズディル氏が33パーセントの得票率で、二位のキリスト教民主同盟のカントル氏に5パーセント以上の差をつけて勝ったのだが、決選投票では、カントル氏が5パーセントの差をつけて、当選した。

 ブラーズディル氏は、消防士か何かの制服を着たポスターが印象に残っている。確認したらヘリで重症の患者の元に向かう救急隊所属の医師だった。半村良の『高層街』でマスコミのいい加減な言葉の使い方の例として出てきた「フライングドクター」ってやつかな。あれ、違ったかな。
 一方のカントル氏は、キリスト教民主同盟のシンボルカラーである黄色に塗った自転車を市内の各所に放置するという奇妙な選挙運動をしていた。その黄色い自転車にどんな意味があるのかは理解できなかったけど。カントル氏の本業はオロモウツにあるパラツキー大学医学部付属の大学病院の医師だということだから、この決選投票はお医者さん対決だったというわけだ。

 このように専業の政治家、いや政治業者ではなく、自らの専門分野で実績を残した人が政党に入って、あるいは政党の推薦を受けて立候補することが多いのが上院の特徴で、不要論が絶えない中、存続を主張する人が多い所以でもあるのだろう。ただ古参の上院議員によると近年の上院には、悪い意味で下院的な議員が増えているらしい。


 政治的に重要な結果が出たのは、うちのの実家のあるホドニーンを中心とする選挙区で、現職の社会民主党の候補者シュクロマフ氏が、決選投票までは進んだものの、ラティシュコビツェという小さな町の町長を務めるフバーチコバー氏に負けてしまった。第一回投票の時点では5パーセントしかなかった差が、二回目の選挙では35パーセントの差に広がったのは、二回目に薦めなかった候補者の支持者が反シュクロマフでフバーチコバー氏に投票したからだろうか。
 シュクロマフ氏は、かつて社会民主党の副委員長を務めていたのだが、今回の地方議会選挙の敗者南モラビア地方の前知事ハシェク氏とともに、2013年の下院選挙の後、ゼマン大統領と密会したグループの一員だったので、副委員長を辞任することになった人物である。それで党中央での影響力を失っていたのだが、今回南モラビアで社会民主党が敗戦を喫する一員となるともに、自らもそれに巻き込まれて議席を失ってしまった。
 当選したフバーチェク氏は、無所属だけれどもキリスト教民主同盟の推薦を受けて立候補したようだ。上院ではキリスト教民主同盟の議員クラブに入ることになるのだろう。地方の市町村の長として実績を残した人物が立候補しやすいのも、上院議員選挙の特徴で、特に近年は、市長無所属連合(仮訳)という政治団体の台頭に象徴されるように、数が増えている。全国に候補者を立てる必要があるためどうしても大政党が有利になりがちな下院選挙では、政党内でキャリアを積んだ人物が優先されるから、実務に忙しい現職の市長、町長が立候補するのはそれほど多くないようだ。日本人的感覚からすると、自治体の長が地方議会や、国会議員の選挙に現職のまま立候補できるという制度のほうが不思議ではあるけれども。

 つい最近も、中央ボヘミア地方のある小さな町の町長が、地方議会の議員だったか、地方の行政組織の高い地位についているかしていて、その町が毎年地方が使用方法を決定する補助金を獲得しているのは、その二重の地位のおかげではないのかというニュースが流れていた。もちろん、本人は助成金をもらうためのプロジェクトがうまくできていたからだと否定するけれども、もちろん、地方の行政庁の高官であるから助成金が獲得できているのである。元厚生大臣のラート氏が知事を勤めていた時期から、この中央ボヘミア地方は助成金に関してはでたらめなのだから。
以下次号。

10月18日23時。


2016年10月19日

彼らはどこに行ったのか3(十月十六日)



承前

12:Jan Kovařík ヤン・コヴァジーク
 コバジークは、すぐに代表の主力になれると確信していたのだけど、声もかからなかった。クレイチーが出てくるまでのサイドハーフは、めぼしいのが同世代のピラシュぐらいしかいなかったと思うのだけど、全然呼ばれなかった。ヤブロネツで組んでいたラファタと一緒に使えば、いい得点源になったはずなのだが。
 数の多かったスラビア育ちの選手の一人。ヤブロネツで本格的に覚醒して、現在はプルゼニュでプレーしている。今年はシーズン開始直後から調子が上がらず、プルゼニュはスイスから同世代のマルティン・ゼマンを獲得することになった。クレイチー、ピラシュ、コバジークと代表で期待のこのポジションの選手って、調子の波が激しいか、怪我が多いかどちらなんだよなあ。ピラシュなんてまだ若いのに、怪我している期間のほうが長いという意味でロシツキーの後継者になってしまったし。


13:Marcel Gecov マルツェル・ゲツォフ
 バーハ、ドチカルと同じく、スラビア育ちでリベレツで本格的に活躍を始めた選手。このU21代表で最も過大評価を受けた選手で、ヨーロッパ選手権後イングランドのフラムに買われていった。やせぎすの線の細い選手で、両足なんか針金みたいだったから、これでイングランドはきついだろうと思っていたら、案の定ほとんどチャンスも与えられないままスラビアに戻ってきた。イングランドでのチェコ人選手の扱いなんてこんなもんなのだ。
 スラビアでもかつてリベレツやU21代表で見せた輝きは発揮できずに、いつの間にか消えてしまって、完全に忘れられた選手になっている。もう少したくましくなって復活してくれたらと思うのだけどどうかな。現在はポーランドリーグでプレーしているらしいけれども情報はほとんど入ってこない。


15:Milan Černý ミラン・チェルニー
 このU21代表にスラビア育ちの選手は多かったが、このチェルニーがほとんど唯一のスラビアで主力として活躍した選手だった。ただ、怪我が多い選手でU21の大会もぎりぎりで間に合ったのではなかったか。こいつも何度か代表に呼ばれたし、数年後には主力だぜと確信していたんだけどなあ。本人のせいばかりではないのだろうけど、実にもったいない選手である。
 もう一つの問題は、スラビアの放漫経営による財政危機で、売れそうな商品だったチェルニーは、常に売却リストの一番上にあった。一度はロシア行きがほぼ決まったものの怪我で破談になり、結局本大会後にトルコへと旅立った。その後は、忘れられた選手になっていたのだが、いつの間にかチェコに戻ってきていて、現在は一部に昇格したばかりのフラデツ・クラーロベーでプレーしているようだ。うーん、かつての姿を取り戻すのは難しいのかなあ。


18:Lukáš Mareček ルカーシュ・マレチェク
 マズフと同じくブルノで育った選手でアンデルレヒトに所属していた。その後、スパルタに戻ってきて、便利屋的な使われ方をしている。この選手もすでに国外でプレーしているという割には印象が薄かったなあ。あの頃はブルノから将来を嘱望された若い選手が何人も輩出されて、国外移籍を勝ち取る選手も多かったのだけど、大半はものにならないまま消えていったんだよなあ。特にカロウダ、ストシェシュティーク。こいつら今どこにいるんだろ。



FW
 フォワードは、カドレツが頻繁に招集されているけれども、かつてのコレルのような絶対感も、一時期のバロシュのような爆発感も発揮できておらず、中途半端な存在で終わってしまいそうな危惧がある。はやり、このU21と同世代のネツィットと、コザークの怪我が痛すぎる。この二人が怪我なく成長していれば、コレル=ロクベンツの電柱二本柱にはかなわないにしても、破壊力抜群のツートップになったはずである。まあ試合当初から二人出ることはないだろうけど。


9:Libor Kozák リボル・コザーク
 この世代の誇る電柱形フォワードの一人で、チェコの一部リーグを経験せずに国外移籍した中では例外的に成功した選手である。チェコではオパバに所属して二部リーグで得点を重ねていたが、一部に昇格することなくイタリアのラツィオに移籍した。本大会当時はまだラツィオで活躍とまでは行かなかったが、徐々に出場機会を与えられており、大きな期待を抱かせた。考えてみればコザークが、これまでのところ最後のイタリアリーグで実力を発揮したチェコ人選手ということになるのか。今年移籍したクレイチー、シク、それからユース世代からイタリアにいるヤンクトの中から一人でもコザーク並みにイタリアで活躍できると嬉しい。
 現在はラツィオから移籍したイングランドのアストンビラにいるようだけど、度重なる怪我で初年度を除いてほとんど出場さえできていない。やはり、ロシツキーを見てもわかる通り、チェコ人選手はイングランドには行かないほうがいいのだ。コザークの破壊力が今の代表に戻ってくると大分変わりそうなんだけど。残念ながら、ビドラにもカドレツにも、コザークの破壊力はない。ただ怪我が治ってもネツィットと同じで一番よかった頃に戻れる保証はない。


11:Tomáš Pekhart トマーシュ・ペクハルト
 なぜと言いたくなるぐらい、期待と評価の高かったスラビア育ちのフォワード。チェコリーグではそこそこ点が取れるけれども外国リーグでは……ということで、十代の頃から何度も出入りをくり返し、現在はキプロスのチームにいるが、そこでもほとんど点が取れていないようだ。A代表にも何度か呼ばれて出場しているが、アウトサイダーの弱小チーム以外の相手に決めた得点はほとんどなく、対弱小チーム用フォワードというあだ名もあった。個人的にはあんまり期待したことのない選手なので、こんなもんだろうとしか言えないのだけど。


14:Václav Kadlec ヴァーツラフ・カドレツ
 本来はもう二つ下の世代に属するのだが、飛び級でこのU21代表に招集されていた選手である。カドレツについては、現在のところ、評判と期待を超えられていないと言うしかない。それなりに活躍はしているけれども、評価の高さからすると物足りない。カドレツなら以前と比べてチェコ人が活躍できなくなっていたドイツでも何とかなるだろうと思っていたのだけど、結局出戻りだったからなあ。まだまだ若いので今後に期待。


19:Jan Chramosta ヤン・フラモスタ
 2011年の大会当時から一番変化のない選手。当時はムラダー・ボレスラフの期待の星だったけれども、今はボレスラフのスター選手である。「フラモ・スター」なんて書かれた応援の幕もある。実は個人的にはカドレツより期待していたんだよなあ。調子の波がありすぎるのが嫌われたのか、半年プルゼニュにレンタルされていた以外はずっとボレスラフでプレーしている。今季は好調で10節で7ゴールを挙げて現在得点王である。ただ、この選手、点が取れなくなると長いんだよ。


20:Michael Rabušic ミハル・ラブシッツ
 イフラバ育ちで、ブルノに所属していたときにU21のヨーロッパ選手権を迎え、リベレツに移籍してリーグ優勝に貢献する。その後、イタリアに移籍したのだけど、イタリアリーグに積み重なったチェコ人選手の屍の一つになってしまった。タイプとしてはコザークに似ている印象が在る。ただ破壊力はコザークのほうが上だった。
 イタリアから戻ってきたリベレツでも調子が上がらず、今年からイフラバでプレーしている。イフラバ自体成績が低迷しているため、ラブシッツの調子も上がらないようである。逆かな。


22:Adam Hloušek アダム・フロウシェク
 ヤブロネツ育ちで大会当時はスラビアの中心選手だった。比較的早くから代表に呼ばれるようになり、中盤で使われることが多かったんじゃなかったかな。その活躍が認められてドイツに移籍したのだけど、その頃から情報があまり入ってこなくなり、代表に呼ばれることも少なくなっていった。現在はポーランドのレギア・ワルシャワで活躍中で、今季はチャンピオンズ・リーグの舞台にも立っている。





 名前を聞かなくなって久しい選手も多かったので、完全に引退した選手がいるかとも思ったのだけど、さすがはここ10年ほどでは最強のU21だけあって、全員現役で、それも各地の一部リーグのチームに所属していた。ただ、怪我などの影響で全盛期の輝きを取り戻せていない選手が多いのが残念である。一度でいいから、A代表の代わりにこのU21が、ユーロやワールドカップ予選に出るのを見てみたかった。ラダやビーレクが監督やってたときのA代表よりは、はるかにまともなサッカーやってたからなあ。
 監督のドバリルは、去年チェコで行われたU21のヨーロッパ選手権終了後、監督の座を引いて出身チームのスラビアに戻ってユースチームかなんかの監督をしていたのだけど、中国資本へのスラビアの身売りの後、アラブのどこかの国からオファーを受けて、そっちに行ってしまったんじゃなかったか。経験を積んでチェコの一部リーグの監督、ひいてはA代表の監督として活躍している姿を見てみたい。ただ、試合前に気持ちを盛り上げるために旧ソ連の国歌を聴くというのが、チェコ人には受けが悪そうである。
10月17日23時30分。


 長くなったけど、こんなので四回というのも嫌なので。10月18日追記。

2016年10月18日

彼らはどこに行ったのか2(十月十五日)


DF
 当時のU21の代表のディフェンスの選手で、A代表に定着して主力になったのは、マレク・スヒーしかいない。U21代表で活躍している間に、召集して経験を積ませることで、更なる成長を図るなんてことは、当時の余裕のなかった監督には無理だったんだろうなあ。サイドハーフの位置にサイドバックの選手を置く、サイドバック縦並べをよくやっていたのだから、レツヤクス、チェルーストカあたりは、呼ばれてもおかしくなかったと思うのだけど。

2:Jan Lecjaks ヤン・レツヤクス
 レツヤクスは、U21のヨーロッパ選手権でとんでもない反則を受けて、腕の骨を折る大怪我をした選手だったはず。退場すべき相手選手にはイエローも出なかったもんで、怒りまくった記憶がある。当時すでにベルギーのアンデルレヒトで主力として活躍していたから、A代表から声がかかってもおかしくないと思っていたのだが……。
 その後、スイスのヤング・ボーイズ・ベルンに移籍してヨーロッパリーグの試合で、たまに見かけることはあるけれども、忘れられた実力者の一人である。ヤロリームなら調子のいい時期に代表に呼んでくれそうな期待はある。


3:Radim Řezník ラディム・ジェズニーク
 このU21代表では、チェルーストカの陰に隠れてあまり目立たなかったような気がする。というか、この選手がこのチームにいたとは思わなかった。実力は当時から高く評価されていたようで、大会後にバニーク・オストラバからプルゼニュに移籍している。ライトラルがドイツに移籍した後にレギュラーに定着して、戻ってきた後も、ポジションを明け渡さなかった結果A代表に召集されるまでになったのかな。ただ、この二年ほど怪我で欠場が続いている間に、若手のマテユーが台頭して、怪我から復帰後もベンチに座ることが多い。

 
4:Ondřej Mazuch オンドジェイ・マズフ
 何だかんだであまり失点はしなかったけれども、不安定だったディフェンスの中心選手の一人。ブルノからドイツやイタリアに移籍したこともあるみたい。ヨーロッパ選手権当時はすでにレツヤクス同様、アンデルレヒトで活躍していた。その後ウクライナを経てスパルタに復帰した。ただ、もったいないことに控えでベンチを暖めることが多い。
 U21代表では、反則すれすれというか、運よくPKにならなかったというようなシーンを連発していたから、あんまりA代表に呼べという気はないのだけど、シボクとかカドレツなんかのベテランよりは、マズフを試してもいいかなとは思う。
 

5:Ondřej Čelůstka オンドジェイ・チェルーストカ
 現在はトルコで活躍しているらしい。スラビアやU21代表でのプレーを見ていると、これからどんな選手に成長していくのだろうかという大きな期待があったのだが、A代表にはほとんど呼ばれていない。スラビアからトルコ、そのあとイングランドやドイツでもプレーしていたようである。この選手も忘れられた才能の一人である。今のチェコ代表のサイドバックには、カデジャーベク、ゲブレセラシエというドイツで活躍している連中がいるから競争が激しいんだよなあ。


17:Marek Suchý マレク・スヒー
 若き中心選手としてスラビアのリーグ連覇、チャンピオンズリーグ出場に貢献した後、ロシアに変われて行き、大会当時はスパルタク・モスクワの選手だった。あの頃は、ロシアブームだったから、いやロシアでチェコ選手ブームが起こっていたからなあ。
 正直、これまでスヒーより、フブニークやカドレツなんかが優先されてきた理由が理解できないのだけど、今後は代表の主力のセンターバックとしてキャプテンも務めることになりそうだ。スヒーとカラス、バラネク、ブラベツあたりの若手を育てる方向に行ってくれると、将来に向けて希望が持てるのだけど。



MF
 中盤の選手も本当に主力になっているのはドチカルただ一人。U21代表の中盤はそれぞれ自分の役割がよくわかっていて、ここの技術では格上の相手とも堂々と互角以上に渡り合えていたので、当時の自分の役割もわからないままに右往左往しているだけのA代表よりは、強豪相手に勝負できると思っていたんだけどねえ。その後の選手たちの様子を見ていると、召集しなかった監督だけの責任とはいえないような気もする。

21:Jan Hošek ヤン・ホシェク
 あれ、この選手のこと、ほとんど記憶にない。スパルタの控え選手だったかな、いや、それは今プルゼニュにいるヘイダだ。
 ということでちょっと調べてみたら、当時のU21代表に多かったスラビア育ちの選手だった。ホシェクの場合は、スラビアからテプリツェに移籍し、ポーランドにレンタルで移籍した後、今年の春から二部のカルビナーでプレーしていて、一部昇格に貢献したようだ。そのカルビナー、降格候補だと思われていたのに、なかなかいいサッカーをしていて、現在順位では中位につけている。唯一のシレジアのチームとしてがんばって欲しいところだ。


6:Lukáš Vácha ルカーシュ・ヴァーハ
 スラビアで育って、リベレツで活躍して、現在スパルタにいる選手の一人。バーハが、スパルタの中心選手であることに満足しているのも現在のチェコサッカー界の問題を反映していると言えるかもしれない。まあ、軽率すぎるプレーを、大事な試合でやらかすのを見ていたら、西ヨーロッパのチームからは声はかからないだろうなあ。


7:Tomáš Hořava トマーシュ・ホジャヴァ
 いやあ、予定では、こいつがロシツキーの後釜候補というか、ロシツキーの負担を軽減する役を担うはずだったのだけど、小ぢんまりとまとまって普通のいい選手で終ってしまいそうである。代表にも呼ばれるけど、定着しているわけではないし。
 当時、オロモウツに続々と生まれた攻撃的な好選手たちは、ポスピシール、ナブラーティル、プシクリル、ドレジャルと、みんな動詞の過去形が名字になっている中、ホジャバだけ違ったから、跳びぬけた選手になるんじゃないかと期待したんだけど、他と同じでチェコリーグで中心選手レベルで止まってしまった。ダリダには完全においていかれたもんなあ。


8:Bořek Dočkal ボジェク・ドチカル
 ドチカルはスパルタの中心選手で終ってもらっては困る選手なんだけどねえ。スラビアで育ってリベレツで活躍して、現在はスパルタという点ではバーハと同じだけど、スパルタの前には、ノルウェーのローゼンボリで中心選手として活躍していた。そこから、ドイツとかイングランドに行って活躍してくれれば理想的だったのだが、チャンピオンズリーグ出場権獲得のための戦力としてスパルタがかなりの金を積んで移籍させたんじゃなかったかな。
 何だかんだで、この世代では一番代表で活躍しているのだが、ドチカルがもう一つ上のレベルに行ってくれないと代表としてはつらい。


10:Jan Morávek ヤン・モラーヴェク
 ボヘミアンズが生んだ天才の一人。一部リーグに復帰したボヘミアンズで彗星のようにデビュー勅語から大活躍し、二十歳前でドイツに買われていった。よりにもよってマガトのチームだったというのが運のつき、怪我で欠場を繰り返して、かつての輝きは消えてしまったように見える。比較的早い時期にA代表に呼ばれたのに定着できなかったのも怪我のせいである。後にイラーチェクがドイツ移籍濃厚と言われていた時期に、チェコテレビのボサークが、頼むからマガトのチームにだけは行かないでくれとコメントしたのは、モラベークの件が一因となっている。二人目の犠牲者はピラシュだったかな。
 現在はアウグスブルクに所属しているようだが、ほとんど話題になることがないから、そんなに活躍していないのかなあ。一人では無理でも、ホジャバとモラーベク二人でロシツキーの代役という青写真を、素人なりに描いていたこともあるのだけどねえ。ドイツ移籍が早すぎた選手の一人と言っていいのかな。

以下次回。
10月16日23時。

2016年10月17日

彼らはどこに行ったのか1(十月十四日)



 水曜日にPCを使用していたら、突然ウィンドウズが強制終了して、再起動と強制終了を繰り返すようになってしまった。過去の状態に戻すという緊急時の手当てをして、つまりは直近のアップデートをアンインストールしたら、とりあえず安定したので、放置していたのがまずかったのか、金曜日にモニターがブラックアウトしてしまった。ウィンドウズ10狂想曲が終了した後、ウィンドウズアップデートの設定を元に戻した記憶はないのだけど、アップデートが勝手に始まるようになっていたのに気づかなかったのが痛かった。
 電源を入れてみると、キーボードのテンキーをオンにするボタンだとかは機能しているし、ハードディスクのランプも付いているから、モニターとの接続がおかしくなっただけなのだろうかと考えて、かつて日本から持ってきたPCが同じ症状になったときに購入したモニターを、引っ張り出してみたら、放置している間に寿命が来たらしく、電源を入れることもできなかった。
 それで、モニターさえあればまだ使えるかどうかの実験は月曜日に職場で試すことにして、昔使っていたウィンドウズビスタのPCを引っ張り出した。このPCも普通の方法では電源が切れなくなったり、加熱しすぎて勝手に電源が切れたりと問題続出だったのだけど、モニターは生きているし冷却用のファンの上で使っていれば、電源がオフになることはない。修理するなり新しいのを手にするなりするまでの緊急避難的に使うには問題なかろう。

 久しぶりに使うと、意外なほどキーボードが硬く、キーの配置が違ったり、ショートカットが使えなかったりして、慣れるまでにしばらくかかってしまった。その間に、最近覗いていないかつてお気に入りに入れてあったブログなんかを覗いてみることにした。真っ先に向ったのは、チェコサッカー専門のブログで今でも復活を願っている「プラハの巨塔」。トップページの右上に、2011年のU21ヨーロッパ選手権のメンバーが書かれているのも懐かしい。このメンバーが代表の主力に育っていれば、チェコ代表もここまで弱体化しなかっただろうに……。
 それで、思いついた。こいつら今どうしているのだろうか。このチーム、チェコの代表の中でも最も思い入れのあるチームなので、わかる範囲で書いてみようと思う。代表に定着した選手もいるけど、よくわからないことになっている選手もいる。そんな選手についてはちょっとだけ調べてみることにする。以下、選手名の表記は当時の「プラハの巨塔」のままである。
 では、まずキーパーから。

1:Tomáš Vaclík トマーシュ・ヴァツリーク
 言わずと知れたチェフの代表引退後の正ゴールキーパー。当時は、キーパーにしては体格があまりよくないことから、過小評価された感じで、二部のビートコビツェ(オストラバのチーム)から、これも二部のジシコフに移籍したところだったのかな。デンマークでのU21の大会の後、国外に移籍するはずだったのに、直前に御破算になって、その後スパルタを経て、現在はスイスのバーゼルで活躍中。
 この選手が、チェフの陰に隠れていたとは言え、チェフの引退までは、代表でそれほど多くの出場機会を得られていなかったところに、ブリュックネル以後のチェコ代表の問題点の一つがあるといってもいい。必要以上にメンバーを固定化した結果、新しい選手の台頭が限られてしまったのである。

16:Marek Štěch マレク・シュテフ
 2011年当時、すでに国外で活動していた選手の一人だが、所属のイングランドのウェストハムでは、出場機会を得られず、他の若くしてイングランドに移籍した選手たちと同様にレンタル移籍で二部を中心にあちこちたらいまわしにされていた。バツリークのスイス移籍に際して、スパルタが獲得したキーパーの一人。しかし、同時に獲得されたビチークとの争いに負けて、控えをつとめることが多く、今シーズンはコウベクの台頭で第三キーパー扱いになっているようである。現在故障で欠場中だったかも。
 スパルタ復帰後、一度はA代表にも呼ばれ出場したこともあったとはずだが、正直イングランド帰りというのは、当てにならんなあというのが感想だった。あれならバツリークのほうがはるかに安定して見ていられる。この選手も、若くして国外に出たせいで、期待されたほどの成長ができなかった選手に入るのかなあ。個人的には思い入れの少ない選手だけど。

23:Jan Hanušヤン・ハヌシュ
 あまり記憶のない名前なのだけど、バニアクがスラビアをチャンピオンズリーグに出場させた頃、控えをつとめていた選手かな。もう少し後だったかもしれないけど、チェコリーグの出場経験もないまま、他のキーパーの怪我と出場停止のあおりを受けて、ヨーロッパのカップ戦でゴールを守ることになった選手がこんな名前だったような記憶がある。
 スラビアからどんな経緯で、どういう経路でたどり着いたのかもわからないが、現在はチェコの一部リーグのイフラバで活躍しているようだ。今年のイフラバは調子が上がらず、あまり話題に上がることもなく、監督が元代表のビーレクに代わったぐらいしか覚えていない。

10月15日23時。



 今後しばらくはバツリークがA代表の守護神として君臨することになるのだろう。今日はスパルタ−イフラバの試合があったのだけど、3−0でスパルタの圧勝。ハヌシュは出場。10月16日追記。

2016年10月16日

チェコのビザ新事情(十月十三日)



 先に結論から言ってしまうと、数年前に半年しか出されないことに変更されたチェコの長期滞在ビザの期間は、2016年の一月から、再び一年の期限で発行できるように法律が改正されたらしい。だから、以前、ビザの発給を拒否された件に関して、発給の是非を審査したプラハの内務省の役人を批判したけれども、問題はそちらではなく、ビザの期限が一年になったという情報をつかんでいなかった日本のチェコ大使館である。現在大使館がビザの申請者にどんな情報を出しているのかは知らないが、少なくとも今年の四月中旬の時点では、大使館のホームページのビザ申請に必要な書類を説明するところに挙げられていた必要預金残高は半年分のものであった。
 一月にチェコに来て、二月にブラチスラバでビザの申請をした人が、半年ではなく、十か月分のビザをもらっていた時点で、変だとは思ったのだ。一年の予定でチェコに来てウィーンで申請をした人も、延長はいらないというようなことを言っていたのだが、何の情報も流れてこなかったので、個人の裁量で伸ばしてもらったのであって、制度が変わったなんてことはないだろうと考えていたのだ。
 しかし、その後、日本でビザを受領してくる人たちは、みな、正確には、発給日の関係で354日とか、363日とか微妙な数字だけど、一年分のビザをもらってチェコに来ている。話を聞くと、特に大使館から制度が変わったという話は聞いていないようだ。前回の問題の後、関係者には、申請に際して一年分のつもりで口座にお金を入れておくように連絡をしてあったので、実害は出ていないけれども、一年こちらに来る予定で、ビザが半年分のつもりで申請していたら、また拒否される人が出ていただろう。

 留学生の中には一年の予定でくる人が多く、そういう人たちは、半年のビザが切れる前に延長の手続きをしなければならない。しかし、延長すると、ビザではなく、長期滞在許可というものに切り替わってしまう。現在の長期滞在許可には、ビザとは違って、いわゆる生体認証などの登録が必要になる。高々半年の長期滞在許可のために、手の込んだ登録をすることのばかばかしさにようやく気付いたということだろうか。
 日系企業の駐在の方や、医師になるために医学部で勉強している人たちであれば、半年なんてことはなく、人によっては数年チェコに滞在するのだから、コストをかけていろいろな情報を登録しておくことは意味があるだろう。しかし、半年分滞在許可を延長しても、実際には授業の関係で、そのうちの二、三か月で帰国してしまうような学生にかんしては、データを蓄積しても意味がないし、滞在許可のカードも無駄になってしまう。そのことにようやく気付いたのだろう。導入する前に気づけよという話だが、当時はまだそういうややこしいデータは不要だった。

 それから、今年からチェコ大使館が留学生に勧めるようになった最初から長期滞在許可を申請するという方法の存在も関係しているかもしれない。これは2014年ぐらいから始まったのではないかと思うのだが、研究者などで一年を超えて滞在を予定している人たちが使っていた制度だった。日本国内で申請をすると、長期滞在許可を申請するために入国するビザというものが受け取れ、それを持ってチェコに来て、内務省の移民局(とでも訳しておこう)に出向いて、手続きを完了させるというものだった。日本の時点では手続きが完了していないので、内務省の事務所に出向けばそれで滞在許可がもらえるというわけではない。そこからさらに三週間ほど待つ必要があるらしい。
 私の知る最初にこの制度を利用した方の話を聞いていると、どうもチェコ大使館の担当者も、通常のビザと、長期滞在許可の違いを理解していないようで、長期滞在許可も半年しか出ないという情報を伝えられたようである。2014年の段階では、ビザは半年しか出ないけれども、ビザを長期滞在許可に切り替える場合には、一年、場合によっては一年以上の許可がもらえていた。ということは、長期滞在許可を申請した場合には、一年の留学中に更新、延長の必要はないということになる。役所の側としても、一年であれば、高いコストをかけて指紋などを登録したりカードを発行したりする意味もなくはないだろう。

 もう一つ気をつけなければいけないのは、大使館のほうから、内務省の事務所に三営業日以内に出頭すること、というような指示があることである。これも通常のビザと混同している証拠なのだが、長期滞在許可を申請した人がもらう入国用のビザは、全体の有効期限が確か90日で、そのうちチェコに入国してから60日間有効である。だから長期滞在許可を申請した人は、入国してから60日以内に、国内での手続きを完了しなければならない。だから三日過ぎてしまったといってあきらめたり、パニックになったりしないで、内務省の事務所に連絡を取ってみることだ。いつ来いとか、どこで手続きをすればいいかとか、少なくともプシェロフの事務所に連絡した場合には、そんな情報を教えてくれるはずである。
 ただ、わからないのは、昨年の時点では、いや今年の初めの時点でも、留学生たちは、この長期滞在許可の存在を知らず、ビザが間に合いそうにない場合には、チェコに来てからブラチスラバ、ウィーンに出かけて申請する、もしくは、出発を延期してビザが発給されるのを待つという方法を取るしかなかった。それが、突然、今年の夏から、通常のビザの申請と同時進行で長期滞在許可の申請もするように勧められるようになったというから、話が見えない。そんな便利な制度があるのだったら、今年の初めから使っていてくれれば、前回のビザの発給拒否という問題は起こらなかっただろうに。
 こういうときに、チェコだから仕方ないと思えるようになるのが、チェコで平穏に暮らしていくコツである。チェコでは必要のない情報はいくらでも手に入るが、自分が本当に必要な情報はなかなか手に入らない。情報が必要な人の手元に届くのはたいてい一番最後である。だから、ビザ関係の手続きでも、最終的な結果が出るまでは、何とかなるさと鷹揚に構えて、相手の不手際でうまく行かなかったときに備えて、罵詈雑言の準備をしておくぐらいの心構えでいるのが一番いいのだ。それができればチェコという魔国でも生きていけるはずである。
10月14日22時。


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2016年10月15日

チェコサッカー界のバーカ(十月十二日)



 前回、ヨーロッパ選手権にも、ヨーロッパのカップ戦にも、ワールドカップの予選にも関係しない話題で、チェコのサッカーのニュースが日本にまで届いたのは、酔っ払い審判の話だったが、今回も、いいニュースではなく笑いものになるニュースが日本でも広まっているらしい。今回は、誤審をやらかした女性審判に対して、あほな選手が女性差別的な発言をしたというニュースである。
 既に二週間ほど前の話になるが、チェコのサッカーの一部リーグのブルノで行なわれたブルノ―スパルタの試合は、終了間際にブルノが同点に追いつき3対3の引き分けに終わった。ただ、試合終了直後からその同点ゴールを決めたブルノの選手がオフサイドの位置にいたのではないかと言われており、オフサイドの旗を揚げなかった線審を務めていたのが女性だったことが問題をややこしくした。
 チェコのサッカー界は、意外なことに女性の進出が盛んであり、既に2003年には、ダグマル・ダムコバーが一部リーグの試合で主審を務めている。ダムコバーは、オリンピックや世界選手権などの国際大会でも女子の大会の重要な試合で主審を務めていたはずだ。世界的にも数少ない信頼できる女性審判として活躍していたのだが、その後サッカー協会の会長職に立候補しようとした後、審判を引退して、協会の審判部の部長に就任した。それだけでなくUEFAの審判評議会のメンバーにも就任したのかな。その影響なのか、ダムコバーが引退した後も、女性審判の姿を一部リーグでもたまに見かけるのである。

 さて、問題のシーンについては、試合直後のスポーツ紙のネット上の記事では、ゴールはオフサイドだったけど、その前にスパルタの選手がペナルティエリア内で、明らかにハンドの反則をしているから、ゴールを認めずPKにするのが正しかったはずだと書かれていた。PKはほほ得点になることから、引き分けというのは順当な結果だったのだろうと、この記事を読んだときには思った。
 それが、テレビの解説では、ハンドについては触れず、オフサイドの位置にいたブルノの選手のところにボールが届く前に、スパルタの選手が触っているように見えるので、味方からのパスではないと判断して、オフサイドの判定をしなかったのではないかという推測をしていた。それが正しい判定なのかどうかについては、特にコメントをしていなかった。女性に対する配慮だったのか、審判が男性でも同じように扱われたのかは、何とも言えない。
 結局、サッカー協会の審判部長のポーランド人が、誤審だったという判定を下し、本人もビデオで確認した結果、誤審だということを認めたらしく、四節にわたって審判としての活動を停止するというペナルティを受けることになった。他にも処分を受けた審判はいたし、それで終わってしまえば、よくある誤審の後のよくある処分で、特に国外にまで伝わるニュースにはならなかったのだろうけど、バカがいた。

 一人は怪我で欠場しているスパルタの中心選手バーハで、ツイッターに、「女は台所にいろ」というような発言を書き込んだらしい。この男は、チェコサッカー界の中でも、最も典型的な勘違い男で、実力がないとは言わないが、自分を過大評価して軽率なプレーを、スパルタでも代表でも繰り返し、これまで何度も敗戦の原因になってきた。自分のミスは軽く流し、ズルや笛を吹かれなかった反則については絶対に認めないくせに、他人のミスに関しては鬼の首を取ったように批判するのもこの男の特徴か。日本のチェコ語関係者の中には、チェコ語のchaの音を「カ」で表記する人もいるから、例外的に、「バーカ」という表記を採用しようかと思うほどだ。
 以前、現在U21の監督を務めるラビチカがスパルタを率いていたときには、自分と仲のいいセンターバックを試合に出すように強要したという話もあるし、正直バーハがスパルタの主力である間は、チャンピオンズリーグの本戦出場は難しいのではないかと思う。かつて、ジェプカが選手間に君臨して周囲の選手に悪影響を与えているということで、追放されるようにスパルタから移籍したが、バーハもそろそろ見切りどきだろう。すでにチームへの貢献よりも、悪影響のほうが大きくなっている。

 もう一人は当事者の一人、同点ゴールを決められたゴールキーパーのコウベクなのだけど、どんな状況での発言なのか、ネット上に書き込んだのかなんてことはわからない。試合直後の発言であれば、興奮のあまりということで許される面もあるかもしれない。ダムコバーは、かつて女性審判の利点として、面と向かって汚い罵詈雑言を投げられることが少ないと語っていたけれども、面と向かって罵れない分、試合直後のインタビューでぶちまけてしまったというのは理解できなくはない。
 しかし、もしネット上での書き込みであるのなら、明確にバーハの悪い影響を受けたと言えそうだ。そもそも、サッカー選手が、ツイッターやフェイスブックに頭の悪い書き込みをするという行動自体が軽率すぎる。怪我のリハビリ中にそんな軽率なことをして喜んでいる選手の影響を受ける選手がいたら、成績は上がらないだろうなあ。

 暫定監督のホロウベクは、同点ゴールに関して、誤審云々以前に、一点差で勝っている状況で、ロスタイムに入って自陣に押し込められたこと自体が問題だと評価していた。これが同点シーンの評価としては、スパルタ側からできる最上のものだろう。監督の中にも審判の誤審をとやかく言う人が多い中、ホロウベクの姿勢は評価できるし、今後の成績も期待できそうだ。そのためにも、バーハにはずっと怪我で欠場していてもらおう。バーハが出てくると、代表の試合でも、スパルタの試合でも興ざめで、本来なら応援すべき試合でも、その気がなくなってしまうから。
10月13日23時。


 またまた迷走。バーハは、スパルタの女子チームが出場している女子版のチャンピオンズリーグの試合を観戦して、感動したようなことを語っていたが、信じるには値しない。それとも「女子チームのほうがすごい。俺たちがでていないチャンピオンズリーグに出ているから」なんてコメントに、女子サッカーへの敬意を感じるべきなのかね。10月14日追記。


2016年10月14日

チェコ代表無残(十月十一日)



 フランスで行なわれたユーロ2016で結果を残せなかったサッカーのチェコ代表は、新たにカレル・ヤロリームを監督に迎え、最初のアルメニアとの親善試合では、新生と言ってもよさそうな内容を見せてくれたような気がしたのだが、誤解だったらしい。いや、相手のアルメニアが比較の対象にしてはならない出来のチームだったようだ。
 直後のロシアワールドカップ予選の初戦北アイルランド戦では、すでに化けの皮がはがれつつあったのだが、先週の土曜日のドイツ戦と、今日のアゼルバイジャン戦で、チェコ代表は悪い時期から抜け出せていないことが明らかになってしまった。十月の試合に関しては、けが人が多すぎるという事情もあるのだけど、ドイツ戦はもちろんのこと、アゼルバイジャン戦も試合開始直後を除けば、勝てそうな気配は感じられなかった。
 ハンブルクで行なわれたドイツとの試合は、2007年にまだブリュックネルが監督だったころに、下馬評を覆してチェコが3対0で勝利したのと同じ会場だというので、少し期待してしまった。ドイツが圧倒的に優勢だろうという戦前の予想は同じだが、あのときはチェコ代表が得意とするヨーロッパ選手権の予選であった。

 今回の二試合に関しては、ダリダが怪我で出場できなくなった時点で味噌がついていたわけだが、その後練習中に、ハンブルクでプレーしたことのあるドロブニーと、スパルタのフリーデクが、怪我をして欠場を余儀なくされた。ドロブニーは腕の骨折で、フリーデクは足をつき損ねて膝を怪我したらしい。すでに手術も終わったが、同時に今シーズン終了も決定した。つまり、怪我の回復時間とリハビリ期間を計算するとすでに今シーズン中の復帰は不可能だろうということだ。
 今年のヨーロッパ選手権もシーズン終了間際に起こした脳震盪のせいでメンバーから外れたし、スパルタがインテルに勝った試合でも、ヘディングで競り合った際に顔から落ちて交代していたように、怪我が、それも不運な怪我が多い選手である。いろいろなポジションでプレーできるので監督からすると使いやすい選手なんだろうけど……。スラビアで活躍しかけたミラン・チェルニーみたいにならないことを祈ろう。

 追加で招集されたメンバーには、驚かされた。スラビアのズムルハルとシュコダは、ある程度予想できたにしても、完全に忘れられていたロシアのトムスクでプレーするドロパは、スポーツ紙なんかの専門の記者にとっても意外な名前だったようだ。数年前にオストラバでプレーしていたのは覚えているけど、実はスロバーツコの出身で、十代半ばにスパルタに移籍してU19のチームのキャプテンを務めるまでになっていたが、チャンスが与えられなかったためにオストラバに移籍して、一部リーグにデビューしたらしい。その後、ポーランドとルーマニアのチームを経て今年からロシアリーグにステップアップしたのだという。
 ヤロリームを評価すべきところは、こういう忘れられた選手たちにまで目を配って、召集することを恐れないことだ。ドイツからポーランドに移籍したフロウシェクと、ポーランドで活躍したけれどもスパルタに戻れずイスラエルに行ったバツェクについては、スポーツ新聞などで名前が挙がっていたけれども、ドロパについては、ルーマニアにいたことも、ロシアに移籍したことも報道されていなかったから、本人も含めて驚きだったに違いない。他にも、まだ隠し玉がいそうな気がする。

 それはさておき、二試合ともひどい試合だった。予選開始以来一点も取れていないのは、チェコとキプロスの二チームだけだというから、攻撃陣しっかりしろと言いたいところなのだけど、試合を見ていると気になるのは、攻撃よりも守備である。攻撃はドイツとの試合でも、何回かおしいと思うようなシーンを作り出せていた。後は冷静に決めるだけというか、運がよければ一試合に一点ぐらいは取れるだろう。相手ゴール前での落ち着きと運のなさが今の代表の一番の攻撃面での問題である。

 守備のほうは、相手ボールになったときに、マークに着くところまではいいのだけど、相手選手との距離がありすぎてフリーでプレーさせているのとあまり変わらない。相手チームが前に出てくるのに合わせて、みんな同じように下がるので、ゴール前にたくさんの選手がいても、ペナルティエリアの境界当たりで相手をフリーにしてしまって、いつ点を取られてもおかしくないような展開になってしまう。北アイルランドとアゼルバイジャンは、ミスしてくれたので何とか引き分けたけれども、ドイツとの試合は、3点で済んでありがたかったと言いたくなる。
 アゼルバイジャンは、守備に人数をかけて引いて守っていたが、ペナルティエリアに近づくとボールを持った選手にきっちりついてパスを出しにくくするようなことはしていた。チェコもそれぐらいのことをやれば、ドイツに北アイルランドのほうが手ごわかったなんて言わせずに済んだだろうに。近づきすぎて抜かれることを警戒しているのだろうか。チェコの選手は相手をレスペクとしすぎたなんて言うけれども、言葉を飾らずに言えば怖がっているだけである。恐れを知らぬチェコ代表が見たいぞ。
 とにかく、守備がゆるくて相手ボールになったら相手がミスしない限り、確実にゴール前まで到達されてしまうというのは、見ているほうにとっては心臓に悪い。もう少しボールを取りに行くような守備、相手選手にプレッシャーをかけるような守備をしないと、かつてのように強豪と言われるチームと互角以上の試合をするのは難しくなるし、格下相手にも引き分けどころかあっさり負けてしまうこともあるだろう。

 結果は出ていないけれども、監督のヤロリームを強く批判する気はない。これまで代表と縁のなかった選手たちを呼んで、呼ぶだけではなく実際に試合に出場させて、試行錯誤しているのは、今回の予選が駄目だったとしても、将来に向けて大きな意味のあることである。試行錯誤の場であるべき親善試合一試合で予選に突入せざるを得なかったのは、監督の責任ではない。
 二試合とも試合開始直後に攻めようという意識が見られたのも、評価していい。ドイツとの試合でも最初の3分ぐらいまでは、相手陣内で試合を進めていたわけだし。その後、守備の不安定さに足を引っ張られるように、攻め込むのがうまく行かなくなるのは、点を取られたドイツとの試合でも、取られなかったアゼルバイジャンとの試合でも大差はなかった。

 所詮チェコはワールドカップの予選は苦手なのだから、ベテランに頼って、中途半端な成績を残すぐらいだったら、一気に若手に切り替えて、次のヨーロッパ選手権の予選を目標にしたほうがいい。その点で、新しい選手を招集することをためらわないヤロリームは、適任であろう。今回のシクのようにU21やU19の選手を何人かA代表に引き上げて戦力として育て上げることができれば、次のヨーロッパ選手権は期待できそうな気がする。
 ブリュックネル以後、ブルバ以前の監督は親善試合でも、あまり新しい選手を試さず、どんな試合でも怪我人が出ない限り同じ選手ばかりで新鮮味がなかったけれども、ヤロリームの代表は負けても、勝てなくても、何かしら発見があるので、今後もベテラン優先のメンバー固定に走らない限りは、ロシアになんか行けなくても監督は交代させないでほしいものである。
10月13日10時。


 いろいろ詰め込みすぎて失敗した感がある。文章書くのは難しいねえ。10月13日追記。


2016年10月13日

『太陽の世界』18巻(十月十日)



 日本では、東京オリンピックの開幕式を記念して休日であるこの日、チェコでは休日なんてこともなく、今日も今日とて仕事である。今年のチェコは九月の前半が夏並みの暑さだったのだが、ここ最近、急速に気温が下がって、朝など吐く息が白くなり、気温もマイナスに近づく日が増えている。こんな気候じゃこの時期にオリンピックはできんよなと考えて、次回の東京オリンピックを思い出す。夏のくそ暑いさなかに、台風に襲われる可能性の高い時期に東京でオリンピック? 誰が考えたのだろうか。悲劇が起こらないことを願っておこう。64年と同じで秋にやれよ、秋に。時期の都合で参加できないなんて競技は外せばいいだけなんだからさ。

 そんなわけのわからないことを考えていたら、日本から帰ってきた知り合いが、お土産だといって本を一冊くれた。その本を見て、驚きのあまり叫び声を上げるのを禁じえなかった。何せ、1990年代半ばから古本屋を回れるだけ回って、神田の古本市に足を伸ばしても、どんなに手を尽くしても発見することのできなかった本だったのだ。当時はインターネットなんて使っている人はいたけれども、電話すら引かないひねくれものだったので、コンピューターはあっても使えなかったし、ネット上で販売をやっている古本屋なんてほとんどなかったはずだ。
 その長年の念願がかなって手に入れることができたのが、表題の半村良の小説『太陽の世界』の第18巻だった。刊行された最終巻であるこの18巻でも、巻末の目録には、「全八十巻」と書かれており、1989年の時点では、執筆の中断はしても、後に再開する気だったのかもしれない。何せこの作家、連載に行き詰って中断し、十年以上たってから完結させた作品がいくつもあるのだ。『太陽の世界』も書下ろしではなく、角川書店のゲラ取り雑誌『野生時代』に一挙掲載したものを、単行本にし、その後文庫にするという形で刊行されていたし。
 文庫化された第一巻から第十四巻までは、どこかの古本屋でまとめて販売していたのを購入した。その店にあるのは、かなり前から知っていたが、あらすじに出てくる「ラ・ムー」という言葉から、伝説のムー大陸に関するオカルトじみた話なのかと敬遠していたのだ。しかし、半村良の作品をめぼしいものは一通り読んでしまえば、この希代の物語作家が単なるオカルト趣味の作品を書くわけがないのは明白で、満を持して購入に踏み切ったのだった。値段は正確には覚えていないが、絶版になって久しく、定価で買うより高かったのではなかったか。

 最初の争いを嫌い、道具の使用を穢れとして制限するアム族の設定からして秀逸で、安住の地を求めて旅を続ける途中で、モアイと呼ばれるイースター島のモアイ像を思わせる集団と合流し、苦難の果てに大陸の南東の果ての「ラ・ムー」にたどり着くまでが、最初の物語である。そして、時に舞台をアム族の外に移し、中心となる人物を変えながら、物語は拡大を続ける。
 残された神話や伝説などの資料から再現した物語と言う体裁をとっているため、神話に語られなかった英雄のその後は物語にも現れないことが多い。細かく書き込んで長く書こうと思えばいくらでも書けるはずだが、それよりもアム族とモアイが、大陸の南東の端から少しずつ勢力を拡大していくさまを何世代にも亘って描くことを選んだのだろう。
 文体的にもさまざまな実験があって面白いのだけど、特筆すべきは、アム族の、いや大陸の共通の言葉を作り出して、その中でもアム族の言葉の使い方が独特だという説明がなされるところだろうか。多くはルビで処理される言葉が、どこまで細かく設定されているのかはわからないが、その人造言語を使って言語学的な考察がなされたり、日本語との関連性が見え隠れしたりするのは、その部分だけを読んでも十分以上に刺激的だった。
 文庫版の最終巻にあたる14巻では、アム族の影ともいえるデギル(=悪魔)の二代目に当たるトマにかかわる物語が完結し、誘拐された双子の王子の片割れという謎を残しながらも、切りのいいところで終わっているので、そこから先が読めないのは残念だったが、終わり方としてこれはこれでいいのかという気持ちもあった。

 以後の四巻は、ハードカバーでしか出ていないということで、販売された冊数も少なそうなので、見つけるのは難しいかと思っていたら、ある日行きつけの古本屋の屋外の野ざらしの本棚に入れられた百円コーナーで15巻から17巻までの三冊を発見した。カバーも帯も何もなく、野ざらしで薄汚れていたけれども、思わず購入してしまった。この古本屋がどこにあったのかを、必死に思い出そうとしているのだが、全く思い出せない。小田急線沿いだったか、東急の田園都市線だったか。とまれ、以後、前にもましてその古本屋に通うようになったのだが、18巻は発見することはできなかった。
 15巻からは、新たな中心人物カゲルが、アム族の国の外側にあるマテロの国から外に移動するのに従って、物語の舞台も西に、そして北に移動していく。ネプトと呼ばれる通商を専らにする海洋民族との出会いが、この部分の中心で、カゲルは好むと好まざるとにかかわらずネプトに取り込まれ、そして誘拐されてデギルの手下に育てられ、長河と呼ばれる大河流域諸国を占領しようと企てたアム族の王子との対決を余儀なくされる。その戦いに勝利して、戦争によって疲弊した周辺諸国をまとめて王に即位する。

 カゲルの物語は、前半のハラトの王となったローロの物語と同じく、ラ・ムーの外に出たアム族が異民族の王になるまでを描いた物語である。言わばアム族が外に広がっていく、拡大する物語でもある。17巻は拡大が完結したところで終わったので、次はかつてのトマのように、ローロの息子のコルのように、外からラ・ムーに向かう人物が登場する内に向かう物語が続くのだろうと考えていた。
 実際に18巻を読んだら予想通りだったのだけど、カゲル王の領域からラ・ムーに向かう少年の物語は、一巻で終わるはずがなく、長河の流域から海に出て、これからというところで、こちらも予想通りに終わってしまう。返す返すも続きが書かれなかったことが残念でならない。栗本薫の『グイン・サーガ』は、他の作家たちによって書き継がれているが、どうなのだろう。この『太陽の世界』は、誰が書き継いだとしても、かつてのファンたちを満足させることはできないのではないだろうか。残された我々読者としては、繰り返し繰り返し読み返して、物語がどこに向かおうとしていたのかを、想像するのみである。

 いや、でも、もらった本はカバーも帯も挟み込まれた広告まで残っている美本だったのだけど、どこでいくらで購入したのだろうか。ちょっと怖くて聞けていないのである。
10月11日16時30分。


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2016年10月12日

選挙結果(十月九日)



 チェコの人が選挙が好きだとは言っても、日本のように民放までもが選挙のための特別番組を組むほどではない。ただ、同時に上院の選挙が国内の三分の一の地方で行なわれるとはいえ、地方議会の選挙で全国放送で選挙の特別番組が放送されるという点では、日本よりも上なのかとも思える。チェコの上院は日本の参議院以上に軽視されているのか、今回の選挙に関する報道でも、地方議会よりも扱いが下だった。いや、日本では地方議会の勢力分布が国政に影響を与えることはほぼないが、チェコでは、地方知事の選定にもかかわるので、影響力が大きいと考えたほうがいいのか。
 その理由のひとつとして、日本から来てはじめて知ったときには、開いた口がふさがらなかったというか、理解できなかったのだが、日本では確か公務員が選挙に立候補するときには、辞職した上でなければできないことになっているはずなのに対して、チェコにそんなルールはない。だから、落選すればそのままもとの公務員としての仕事を続けるし、当選しても本人が兼職できると考えれば、特に辞職の必要もない。

 これは、選挙で選ばれる議員職、地方議会の話し合いで選ばれる地方公共団体の首長職に関しても同様で、かつてオロモウツの市長は、同時に上院議員を兼ねていたし、前回の地方議会選挙と下院選挙で社会民主党が圧勝した後には、下院議員と地方の知事を兼職するものが複数誕生していた。これには、さすがに批判も多く、社会民主党では知事兼国会議員たちに、どちらかの役職を選んで、選ばなかったほうは辞職するように指示を出したのだが、地方のボス化しつつあった連中の中には、その指令になかなか従わなかったものたちがいた。
 かつてチェコの政界に大きな力を振るったのがバーツラフ・クラウスが設立した市民民主党だった。当初から、地方の政財界のボスたちが党内を牛耳って好き勝手なことをしているという批判を受けていたようだが、クラウスが党と決別した後、党は求心力を失い地方のボスたちの専横をますます許すようになり、ネチャスが政権を放り出した後は、党勢は一気に凋落した。社会民主党も対応を誤れば、この市民民主党に続きかねない爆弾を抱えているのだ。この辺の、既存の大政党のていたらくが、次々とポッと出の新政党が意外なほどに票を集めてしまう原因になっているのだが、本人たち、特に90年代にクラウスの取り巻きとして政治の世界に出てきた連中に、それを反省する様子はない。

 選挙の結果は、ANO、別名バビシュ党の圧勝に終わった。今回選挙の行なわれた13の地方議会のうち9の地方で第一党の座を確保した。これがそのまま地方知事の座を約束するわけではないのが、チェコの地方自治の複雑なところだが、選挙後の交渉で有利な立場を確保したのは間違いない。27の選挙区で改選が行われた上院議員の選挙でも、14の選挙区で決選投票に進んでおり、最終的にどれだけの議席を確保できるかはともかくとして、他の政党が多くとも一桁に終わったことを考えれば圧勝といってもよさそうだ。
 ANOと連立与党を組む社会民主党の結果は惨敗と評価できるものだった。合計ではANOに次ぐ第二党に留まったとは言え、これまで確か11の地方で第一党、もしくは地方知事の座を確保していたのに較べれば、今回第一党の座を確保できたのは、南ボヘミア地方とビソチナ地方の二つに過ぎない。交渉に長けた正当なので知事はもう少し増えるかもしれないが、地方のボス政治家たちの行動に嫌気が差した有権者が増えつつあるという証拠であろう。
 同じく与党のキリスト教民主同盟は、ズリーン地方で第一党の座を確保した。2000年前後には存在感を失い単独では下院の選挙に立候補できないところまで党勢は落ちていたのだが、その後、上下動はあるものの、次第に勢力を拡大しつつあると考えてよさそうだ。

 伝統的に問っていいのかどうかはわからないが、地域政党の勢力が強いような印象のあるリベレツ地方では、以前はTOP09と共同で候補者名簿を作っていたリベレツ地方のための市長連合(ちょっと違うけど、こう訳しておく)が第一党となった。ほかの地方でも単独で、あるいは別な党と連合を組んで議席を確保していたが、各地の市長達が中心となって作った市長無所属連合という政治団体の発祥の地は、ズリーン地方でそれが、全国的な組織に成長したようだが、各地方の独自性を示して、それぞれ微妙に違った名称で選挙に候補者を立てていた。
 全体的に右よりの政党の退潮は明らかで、市民民主党は前回の下院選挙よりはマシになっているとはいえ、議席を取れなかった地方があるなど以前では予想もされなかったような結果になったし、下院選挙では右派最大の勢力となったTOP09も市民民主党の後塵を拝する結果に終わった地方が多かった。特にTOP09の党首カロウセクは、バビシュとの同属嫌悪からポピュリストだと言って批判するけれども、人気取りの政党という意味ではこの二つの政党のほうが先輩である。クラウス人気と、シュバルツェンベルク人気に胡坐をかいて、好き勝手にやってきた結果がこれなのだから。

 個人的な最大の勝者は、ズリーン地方でキリスト教民主同盟を率いたイジー・チュネクだろう。フセティーンの市長として、ロマ人問題を解決するために取った過激な手法で話題を集め、上院議員にまで選出され、一時は党首を務めて国政の舞台でも活躍していたのだが、市内から移住させたロマ人に訴えられたとか、元秘書の女性に訴えられたなどのスキャンダルをいくつも起こして、市長と上院議員の座に逼塞していたのだが、今回の選挙の結果を受けてズリーン地方の知事に就任しそうである。その場合、さすがに三職兼務は無理だということで、フセティーンの市長職は辞任することが予想されている。ちなみに名簿の順位を上げるための「○」印を、全国で一番たくさん獲得したらしい。その数一万五千近くというから、フセティーンも含まれるズリーン地方での人気にはゆるぎないものがある。

 一方で、最大の敗者は、南モラビア地方の社会民主党のリーダー、ミハル・ハシェクである。地方閥化しつつある社会民主党の地方組織の欠点を体現したようなこの人物は、2013年の下院選挙の後、取り巻き連中と組んで、大統領のミロシュ・ゼマンと秘密の会合を持ち、党首のソボトカではなく、当時は下院議員でもあったハシェクに組閣の命令が出るように画策するという事件を起こしている。最悪なのは、そのことが報道された後も、そんな会合はなかったと否定し続け反省の色も見せなかったことだ。
 また最近は、南モラビア地方庁が大金を払って契約している広報担当の女性が、実在しなかったというスキャンダルも起こしている。謝礼と称したお金は実際に支払われているらしいのだが、実際に誰にお金が流れたのかなどについては、ハシェクはまともに説明をしていない。こんなでたらめな人物をそのまま選挙後の知事候補として担ぐ社会民主党の南モラビア支部も腐敗の巣窟と言えそうだ。
 その結果、ANOだけではなくキリスト教民主同盟にまで先を越されて社会民主党は、南モラビア地区で第三党に転落してしまった。ハシェクは、自分自身の責任を棚に上げて、ネガティブキャンペーンにやられたと、自分が犠牲者であるかのようなコメントを出していたが、こんな人物は、オロモウツ地方の市民民主党のボス、ラングルとともに、とっとと政界から消えてほしいものである。

 結局、ANOが勝ったというよりは、他の政党が負けたというのが正しいのかもしれない。ここ何回かの選挙で、議席を確保したポッと出政党の中では例外的に、ANOはうまく専門家を取り込んで活用することで、既存の大政党と同程度には有能であることを示した。バビシュのスキャンダルも他の政党がこれまでにやらかしてきたことと比べれば、同等以下のものでしかないし、新政党ということでチェコの悪しき財政官の癒着とも比較的無縁である。だから、ANO自体が強く支持された結果ではなく、消去法で選ばれた面があると考えたほうがよさそうだ。
 次の下院選挙で、ANOが本当に有権者に支持されて、政界に確固たる地位を築いていけるかどうかが決まるのだろう。特にバビシュを支持するつもりはないけれども、少なくともTOP09のカロウセクよりはましなようだから、社会民主党が一部の地方支部の癌と化している幹部を摘出することができなかったら、スロバキア出身で、共産主義時代に秘密警察に協力していた過去を疑われている首相が誕生することになるだろう。
10月9日23時。



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