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2016年03月12日
ルハチョビツェ(三月九日)
オロモウツから南に向かうブジェツラフ行きの電車に乗って45分ほど、スタレー・ムニェストの駅で乗り換えて、東へ、ウケルスケー・フラディシュテやウヘルスキー・ブロットを経て、一時間弱で到着するのがモラビア最大の温泉地ルハチョビツェである。以前出かけたときには、もう一回乗り換えたような記憶もある。現在では、一日に数本プラハから直通電車があるので、時間によっては行きも帰りも直通を使えるかもしれない。
ルハチョビツェは、現在でも温泉のある保養地として人気だが、すでに第一共和国の時代にはモラビア地方のお金持ちが保養のためのバカンスに出かける場所としての地位を築いていたようで、昨日書いた「チェトニツケー・フモレスキ」にも数回登場する。一回目は、偽造した銀行の預金通帳で多額の預金を引き出すと同時に、その一部を恵まれない学生に奨学金として提供するという善悪つけがたい片足の詐欺師と、偽造通帳に気づいて詐欺師を脅迫して一緒に逃亡することを強いた女性銀行員が、選んだ逃亡先がルハチョビツェだった。お金持ちの集まる町で多少の豪遊をしても目立たないという計算だったのか、お金持ちとはいえない女性銀行員のあこがれの場所だったのか、何とも言いがたいところである。
次はアラジムとルドミラが休暇で旅行に出かける場所として登場する。もちろん出かけた先で、休暇中と言いながら、殺人事件にぶつかり、現地の憲兵隊員やブルノからやってきた部下たちに捜査の指示を出して解決に導くのだけれども。捜査以外の場面では、保養に訪れたお金持ちたちの間で、アラジムは落ち着けなさそうにしているのである。
ルハチョビツェもチェコの温泉の例にもれず、湧き出した水、もしくはお湯を汲んで飲むのだが、いくつかの泉源がある中で、一番有名なのはビンツェントカだろう。ここの水は、瓶入りのミネラルウォーターとして販売されているように、他の温泉の水よりは飲みやすかったような気がする。昔々行ったカルロビ・バリでもマリアーンスケー・ラーズニェでも、フラニツェの近くのテプリツェでも、地元の人への礼儀として、特にテプリツェでは案内してくれた友人への礼儀として、頑張ってあちこちの温泉水を飲んでみたが、どれも何とも言い難い味がして、一口飲んだだけで十分、いや口に入れた後にこっそり吐き出してしまったものが多い。でも、ビンツェントカだけは、何とかコップ一杯分飲めたような気がする。本来は医者の処方箋をもらって治療のために飲むものらしいので、美味しくたくさん飲める必要はないのだろうけど。
ルハチョビツェでも、温泉地につきものの、温泉の水を利用した丸い形のウェハースが売られていて、箱だけではなく、一枚ずつでも買えるようになっていた。もしかしたら、売店によって使用している水が違って、味も微妙に違うのかもしれないが、残念ながらそれがわかるような舌はしていない。
温泉を利用した保養地なので、健康のために散歩が勧められているのか、ホテルなどの療養施設の立ち並ぶ地区や、周囲の山には歩きやすいように散歩道が整備されている。いくつもある温泉水を飲むためだけでも、かなりの距離を歩かされるし、何も考えずに森の中や並木道をのんびり歩き回れるもの気持ちがいい。現在では第一共和国時代のように高い服を身にまとったお金持ちが優雅に歩き回っているというわけではないけれども。川をさかのぼると、ダムがあって夏場は遊泳場としても使われていたらしい。
この町はまた、スロバキアの建築家ユルコビチの設計した建築物が多く残ることでも知られている。二十世紀の初めに活躍したこの建築家は、ベスキディ山中のプステブニに残した独特の木造建築群で有名である。民俗建築的な味のある木材の使い方、大胆な色の使い方が、ルハチョビツェに他の温泉地の町とはちょっと違った雰囲気を与えている。
現在どうなっているのか確認はしていないが、ユルコビチの設計した屋外プールは、以前出かけたときには、更衣室などの付属設備も含めて改修されておらず、残念であった。「チェトニツケー・フモレスキ」ではここで泳ぐシーンがあったような気もするので、改修が始まったのかもしれない。撮影のためだけに、無理やり使えるようにした可能性もあるが。
それから、スメタナ、ドボジャークに次ぐ、チェコ第三の作曲家レオシュ・ヤナーチェクがこの町がお気に入りで、頻繁に訪れていたことでも有名である。出身地のフクバルディからそれほど離れていないこの町で、いくつかの作品を書き、インスピレーションを得たといわれている。
3月10日22時。
ルハチョビツェもカタカナではなく、チェコ語で入れないと検索できなかった。温泉付きの療養施設は、宿泊もできるが、ホテル扱いではないのか出てこない。ちょっと残念。ユルコビチの設計した建物の宿泊費は……高いんだろうなあ。3月11日追記。
2016年03月11日
幸せな時代(三月八日)
一部のハプスブルク時代を称揚する人たちと、共産主義の時代を懐かしむ人たちを除くと、ほとんどのチェコ人にとって、チェコ人が、チェコという国が、歴史上最も輝いていたのは、第一次世界大戦後の1918年に成立した、いわゆるチェコスロバキア第一共和国の時代である。初代大統領マサリクの指導の下に、中欧では、いや西欧諸国と比較しても民主的な体制が築かれていたと言われている。スロバキア人に対する扱い、国境地代のいわゆるズデーテンドイツ人などの問題はあったけれども、少なくともドイツでナチスが台頭するまでの間は、経済的に発展を遂げ、政治的にも安定していたのである。
そんな、幸せな時代を舞台にしたドラマが、「チェトニツケー・フモレスキ」である。題名にある「チェトニーク」というのは、警察と軍の中間にあるような組織で、憲兵と訳すこともあるのだが、戦前の日本の悪いイメージの付きまとう憲兵ではなく、フランスのツール・ド・フランスなんかの警備にも駆り出される憲兵をモデルにチェコスロバキアに導入された組織らしい。普通の警察とは違ったレベルで犯罪捜査に当たっていたようである。一体にこの第一共和国の時代は、マサリクの夫人がフランス人だったからということはないだろうけど、フランスの影響が非常に強かったと言われる。ミュンヘン協定では裏切られるんだけどね。
「フモレスキ」の単数の「フモレスク」は音楽の型式の一種で、日本語では「ユーモレスク」とか、「奇想曲」とか「狂想曲」などという言葉で書かれることが多いらしい。言われてみれば小説や映画の題名に使われているのを見たことがあるような気がしないでもない。とまれ、ブルノで捜査活動に当たる憲兵隊員たちの姿をふーモアを交えながら描いた作品である。
ドラマを撮影した監督のアントニーン・モスカリクは、シャフラーンコバーの出世作であるニェムツォバー原作の「おばあさん」の監督としても知られているが、より重要なのは警察ドラマ、犯罪捜査ドラマの監督としての仕事である。特に、ビロード革命の前後に撮影された「犯罪捜査をめぐる冒険」では、指紋鑑定や血液型鑑定などの犯罪捜査史上画期的な捜査方法が生まれた経緯をドラマ化して好評を博したようである。そして、そのモスカリクが畢生の作品が「チェトニツケー・フモレスキ」なのである。
「チェトニツケー・フモレスキ」は普通のチェコテレビのドラマとは違って、ブルノのスタジオで撮影された。主役のカレル・アラジムと、ベドジフ・ヤリーこそ、プラハから呼ばれたトマーシュ・テフレルとイバン・トロヤンという人気実力共に確かな俳優が演じているが、その他の脇を固める俳優の多くは、地元ブルノの、テレビよりも劇場で演劇俳優として活躍している演技の実力のある人たちで安心してみていられる。ヒロインのルドミラ役の女優はスロバキア出身の人だったけど。
1998年に第一シリーズが13作、その後第三シリーズまで製作されて全部で39本、前後編になっているものが一つあるので、38本の作品が撮影された。日本のドラマとは違って、時間が厳密に定められていないので、作品によって長短はあるが、大体80分から90分の間に、中心となる大きな事件と、一つ二つの小さな事件の捜査を行うことになる。その中にチェトニークたちを巡る人間関係や、当時の社会の様子などが描きだされていて、一度見始めてしまうと最後まで見入ってしまう。
最初の作品では、ブルノ近郊の農家で多発する鶏の盗難事件、国会議員のスレピチカ氏の所有する山林での密猟事件、そして盗電事件の捜査に当たる。当初はどの事件もなかなか解決できずに、捜査の中心にいたアラジムはあちこちから非難されるのだが、最後は内務大臣も登場して、盗電事件の犯人がスレピチカ氏であることを突き止める。このドラマで起こる事件の多くは、第一共和国の時代に実際に各地で起こりチェトニークたちが解決したものをモデルにしているという。
第一シリーズは、1930年代前半の比較的平穏な時代を舞台にしているが、先に進むにつれて、いわゆるズデーテンドイツ人や、国境地帯のポーランド人、ハンガリー人たちが不穏な動きを見せ始め、第三シリーズでは、ミュンヘン協定が結ばれた結果、チェコスロバキア第一共和国が崩壊するところまで描かれる。最終話でアラジムは妻(ルドミラ)と子供たちを義兄に託し国外に脱出させ、自分は危険を承知でブルノに残ることを選ぶ。アラジムが第一次世界大戦でロシアにいたときに恋に落ちた貴族の女性との間に生まれ第一シリーズの最後でアラジムの元に現れた娘クラウディアを妻にしたヤリーは、妻子と共に亡命する予定で飛行機には乗ったのだが、最後の瞬間に飛行機を飛び降りる。ヤリーもアラジムや仲間達とともに残ることを選んだのである。
ちなみに、主人公のアラジムは、第一次世界大戦でオーストリア軍として東部戦線に参戦した後、チェコスロバキア軍団に参加し、ロシア内戦を戦った人物として設定されている。チェコスロバキア軍団は日本のシベリア出兵の口実に使われたことで有名だが、アラジムを含むチェコスロバキア軍団は、ウラジオストックから日本に渡ったあとヨーロッパへと向かったのである。実は、その交渉のためにマサリク大統領は日本を訪れているのだが、あまり知られていないようである。
時代考証もしっかりしていて、当時の服装も見事に再現されたこのドラマは、ストーリーも完成度が高く、どの回も面白いのだが、不満が一点。事件関係者として何回か登場するイジナ・ボフダロバーという人気はある女優が、プラハになど行ったことのあるはずもないモラビアの田舎の婆さん役だというのに、プラハ方言でしゃべりやがるのだ。視聴率対策なのかもしれないけど、「チェトニツケー・フモレスキ」ほどの作品であれば、ボフダロバーなんか出なくても、十分に視聴率は取れたと思うのだけど。
このドラマの撮影はチェコ各地で行われており、オロモウツで撮影された部分もいくつかある。聖ミハル教会の脇についている修道院の入り口の前の通りとか、大学の中庭とか。そんな場面を発見すると喜んでしまうということは、オロモウツに愛郷心を感じるようになったということだろうか。
3月9日23時。
なんだか疲れていて何にも思いつかないので、これ。3月10日追記。
2016年03月10日
オロモウツプロスポーツ事情(三月七日)
オロモウツには、プロのスポーツチームだと確実に言えるチームが二つある。一つはサッカーのSKシグマ・オロモウツで、もう一つはアイスホッケーのHCオロモウツである。
サッカーのシグマは、昨期二部で優勝して今期から一部のシノット・リーガに復帰したものの、調子が上がらず、シーズンが半分と少し終わった時点で、降格圏内の下から二番目十五位という位置に沈んでいる。以前は、不調のシーズンでも落ちそうで落ちないチームだったのだが、このままではフラデツ・クラーロベーやチェスケー・ブデヨビツェのような降格と昇格を繰り返すエレベーターチームになってしまいそうである。
アイスホッケーのほうは、昨期から一部に復帰してレギュラーシーズンでは下位に沈んで、14チーム中のうち下4チームが参加するプレイアウトを経て、13位に終わったために入れ替え戦への出場を余儀なくされた。何とか残留を果たして、今期は好調で5位に入り、プレーオフに直接進出する権利を得たのである。こちらは一部リーグに定着しそうである、と言いたいのだが、近年のアイスホッケーは、順位の入れ替わりが非常に激しく、前年の優勝チームが入れ替え戦に回ったりするので、油断は大敵である。ヤロミール・ヤーグルを生み、ヤーグルがオーナーを務めるクラドノも、プラハ第二のチームであるスラビアも、現在は一部にはいないのだ。
私がこちらに来た2000年前後、シグマ・オロモウツは一部のガンブリヌス・リーガでがんばっていたが、アイスホッケーのチームは存在しなかった。1993-94のシーズンに、チェコスロバキアが分離して最初のチェコ一部リーグで優勝したのがオロモウツのチームなのだが、その後財政難でチームが分解していき、90年代の後半には、一部リーグに参戦する権利を、カルロビ・バリのチームに売却し、オロモウツは二部リーグに参加する。しかし1999年には二部リーグ参戦の権利も売却され、オロモウツからプロチームは消滅してしまう。優勝時の中心選手で長野オリンピックでも活躍したイジー・ドピタは、フセティーンに移籍し、フセティーンの六回の優勝のうち五回に貢献することになる。
2001年にはチームが再建され、三部リーグの参戦権を購入することで、チェコのホッケーシーンにオロモウツが復帰する。すぐに二部リーグに昇格するがそこから一部リーグに上がるまでには、十年以上の歳月が必要だった。途中でオロモウツが生んだ英雄ドピタがチームを買収してオーナーになったり、ドピタが選手としてオロモウツに復帰したりして、チームの強化が進み2013-14のシーズンになってやっと入れ替え戦に勝利して、一部リーグに復帰できたのである。
ただ、今シーズンが始まるころに、HCオロモウツの事務所が警察の捜査を受けたというニュースが流れ、ほぼ同時にドピタがチームの株式を売却してオーナーから外れたというニュースもあった。ドピタは、その後、一部リーグのトシネツの監督に就任したので、警察の捜査とは関係ないのかもしれない。さすがにチェコでも、あるチームのオーナーが別のチームの監督になるというのは問題になるだろうし。元選手がオーナーになることのあるアイスホッケーでは、オーナーが自チームの監督になるというのはたまにあるのだけど。
一方、2000年代初頭のシグマオロモウツは、一部リーグに欠かせないチームの一つとなっていた。当時のチェコリーグは、スピードもなくチャンスも少なく点も入らないというつまらない試合が多く、オロモウツも例に漏れず、0対0の引き分けを連発していて、見ていて面白いと思えるような試合はほとんどなかった。当時のことをよく言えば守備は堅かった。GKとして足元はいまいちだけど、ライン上でボールを止めるだけなら世界有数の魔術師とまで呼ばれたバニアクが君臨し、攻撃よりも守備に手間をかけていたのだから、点が取れれば勝てることも多かったのだが、スパルタなどの上位チームには本当にいいようにやられていた。しょうもないミスで失点をすることも多かったけど。何かの間違いでFWに点の取れる選手がいると、上位に進出できたけれども、大抵は中盤から下位をうろついているというのが、シグマ・オロモウツというチームの立ち位置だった。
ハパルやラータルなど、オロモウツで活躍して代表に呼ばれ、ドイツなどに買われていった選手が戻ってくることもあったが、それが成績の向上にはほとんどつながらなかった。
以前から、ウイファルシやロゼフナル、コバーチなどを代表に輩出し守備よりの選手の育成には定評のあったオロモウツだが、いつのころからか、攻撃よりの選手も育ち始め、チェコには珍しい攻撃的なチームが出来上がったのが2009〜10年ごろだったと記憶する。このころのオロモウツの試合は勝っても負けても面白かった。
チェコ全体を見ると、2005年ぐらいからスパルタの一強時代が終わり、リベレツやスラビア、オストラバがかわるがわる優勝を遂げ、スパルタ以外のチームでも、優勝を目指して攻撃的なサッカーを志向するようになるのもこの時期である。そして、2010年代に入ると、プルゼニュが攻撃偏重のサッカーで、スパルタとならぶチェコを代表するクラブになっていくのである。
その一方でオロモウツは、攻撃はするけれども得点ができないというよくないパターンにはまってしまって、若手の評価の高かった監督のプソトカでは悪循環に向かった流れを止めることはできずに、成績が凋落していき、2013-14年のシーズンに15位で二部降格の憂き目にあったのだった。
先日久しぶりにテレビで見たオロモウツのサッカーは、攻撃がかみ合わない昔の姿を見ているような気がした。ユース出身の若手を次々に使って上昇気流に乗っていた時代の面影はあまり感じられなかった。若手ばかりで苦境を乗り切れなかった反省から、ベテラン選手を補強したようだが、なんだかやっていることがバラバラで、今年も残留は難しそうだなあというのが正直な感想である。
サッカーにしてもアイスホッケーにしてもオロモウツのチームというだけで応援してしまうのだけれども、応援するからには頑張ってほしいとも思ってしまう。だから今期は、サッカーよりもアイスホッケーということになりそうだ。
3月8日14時30分。
これは優勝したチェコの選手なのかな? 3月9日追記。
2016年03月09日
サーブリーコバー賛歌(三月六日)
チェコのスポーツには、サッカーやアイスホッケーなど伝統的に強く、競技人口が多いおかげで世界的な選手を輩出してきた競技がある。チームスポーツでなく、個人競技では、オリンピックや世界選手権で金メダルを量産している陸上のやり投げや十種競技が相当するだろう。やり投げなら1950年代に活躍したザートプコバーを筆頭に、鉄人ヤン・ジェレズニーやシュポターコバーなどがいて、十種競技は最近は世代交代期なのか目立った成績は残していないが、ちょっと前まではシェブルレとドボジャークが世界の頂点を争ってしのぎを削っていたのである。他にもカヌーやカヤックなどの競技もチェコは伝統的に強い。ベルディフやクビトバーの活躍するテニス、ヤンダやコウデルカが頑張っているスキーのジャンプ競技なんかもこのカテゴリーに入れていいだろう。こんな小さな人口も少ない国なのに、なんでこんなに優秀な選手が出てくるのだろうと不思議に感じてしまう。
その一方で、突然変異的に、あまり盛んではないスポーツで競技人口も少ないのに突如世界的な選手が現れることがある。戦後すぐの世界の長距離界を席巻したサートペクも、現在のチェコの長距離選手の成績を考えるとその一人と言っていいかも知れないし、チェコでは競技人口の少ないアルペンスキーでメダルを取ったシャールカ・ストラホバーも入れられそうだ。しかし、一人でチェコのあるスポーツを切り開き世界を制覇したという意味で、スピードスケートのマルティナ・サーブリーコバーに勝る存在はいない。
今週末に行われたスピードスケートの世界選手権でも、四回目の総合優勝を果たしたが、今期は、3000メートル、5000メートルという長距離の種目では一度も一位を譲らなかったらしい。2007年ぐらいから世界選手権やワールドカップのレースで優勝争いに加わり始め、最近ではサーブリーコバーが負けたほうが大きなニュースになるような存在になっている。以前、転倒したのに、メダル圏内だったかどうかは忘れたけど、上位に入賞していた記憶がある。
しかし、チェコには、スピードスケート用のリンクは、屋内も屋外も存在しない。チェコでスケートといえば、まずアイスホッケーであり、その次にはフィギアスケートが来るのである。この二つは、同じ施設を練習に使えなくもないが、スピードスケート用の大きなリンクは、アイスホッケーのスタジアムに設置することはできない。最近は大会自体が行われていない可能性もあるが、以前サーブリーコバーが台頭してきたころのスピードスケートのチェコ選手権は、氷結した池の氷をできるだけ平らに整備して、何とかコースを設置して実施されていたぐらいである。最近は暖冬続きで、大会を実施しようにも会場が確保できなさそうでもある。
当時テレビで見た練習風景の一つは、自宅のマンションの玄関のスペースに滑りやすい素材の敷物のようなものを敷いて、その上でスケートで滑るときのように左右に足を滑らせるていくというある意味衝撃的なものだった。こんな環境からも、世界で戦える選手が育つのである。今でこそ、たくさんスポンサーがついているだろうが、最初の頃は、試合はもちろん練習のために国外に出ていくだけでも大変だったはずである。
競技人口も、ゼロではなかったにせよ、非常に少なく、ジュニア選手権などで活躍するサーブリーコバーの存在に魅かれて競技を始めた若手が出てくるまでは、監督と二人だけで世界を転戦していたのである。最近は、チームと呼べる程度に代表選手が増えているようだが、サーブリーコバーをのぞくと、短距離で後輩第一号のエルバノバーが頑張っているぐらいで、他は全くパッとしない。
このままでは、サーブリーコバーが引退したら、チェコのスピードスケートの火が消えてしまうのは目に見えている。そこで、室内リンクの建設の計画が立つのだが、実現されることなくここまで来ている。建設費、維持費などを考えると、どこかからよほどの資金が出てこないと実現は難しいのだろう。一時期は、コリーンというプラハの近くの町の近くの村に建設すると、具体的な計画を村長が語っていたのだが……。
ちなみにサーブリーコバーは、今年三度目の挑戦で参加基準を満たし、夏のオリンピックにも自転車競技で出場する予定である。日本の橋本聖子氏みたいな存在と言えば言えるのかもしれない。
3月7日13時。
これ使うと早く走れたりするのかな? 3月8日追記。
タグ:スピードスケート
2016年03月08日
泥水のようなコーヒー(三月五日)
泥水のようなコーヒーとは、まずいコーヒーのことだろうが、初めて飲んだチェコのコーヒーは文字通り泥水だった。かれこれ廿年以上も前、プラハで泊まったユースホステルのような宿泊施設の朝食についてきたコーヒーを一口すすったら、口の中がじゃりじゃりになってしまった。これはチェコで言うトルココーヒーというもので、砂糖を入れてかき混ぜて、沈殿させた上で飲むものらしかった。
しかし、このチェコのトルココーヒーは、本物のトルココーヒーとは違う。本物が専用の鍋で煮立てるのに対して、こちらはお湯をかけるだけである。実際どのようにして誕生したのかは知らないが、冷戦時代に、西側の技術に負けていることが許されなかったチェコスロバキアで、工業技術のいらないインスタントコーヒーとして発明されたのではなかろうか。アメリカなどの帝国主義的世界では、技術の無駄遣いをしているが、こちらではその問題を知恵を使って解決したとかなんとか言われていたのではないかと想像してしまう。本当のインスタントコーヒーが貴重品扱いされ、喫茶店なんかでもメニューに誇らしげに「ネスカフェ」と書かれていた時代もあるらしいのだが。
普通の粉末状のコーヒーに沸騰したお湯をかけるだけというのは、飲んだ後の処理を考えなければ非常に手軽だし、飲み方さえ間違えなければ、味もそれほど悪くない。少なくともインスタントコーヒーよりはましである。しかし、コーヒー好きとしては物足りない。インスタントよりマシとはいえ砂糖を入れずに飲めるほど美味しいわけではなく、砂糖を入れたほうが豆が沈みやすいような印象があり、必ず砂糖を入れることになるので、あえて飲みたいと思うものではなかった。一説によると、コーヒーに含まれるあまりよくない成分まで抽出されるので、避けたほうがいい飲み方だとも言う。
今から十年以上も前、ビール消費量の増大に危機感を覚えて、酒量を減らすことを決心したとき、代わりの嗜好品としてコーヒーを飲むことを思い出した。日本にいたころには、職場近くの喫茶店で焙煎したコーヒー豆を買って挽いてもらい、ドリップ専用のポットを買ってポタポタとお湯を落として時間をかけてドリップして飲む程度にはコーヒーが好きだったのだ。だから、チェコではコーヒーを飲まなかったともいえるのだが、ともかくコーヒーを淹れるための器具を探し始めた。
ペーパーフィルターは、問題なく見つかった。日本で使っていたメリタのフィルターもあったし、それとはちょっと形の違う名も知らないメーカーのものもあった。しかし、ドリッパーが見つからないのである。かなり探し回って、やっと見つけたドリッパーは青色のプラスチック製で、かなりごついものだったが、どちらのフィルターとも形が合っていなかった。サーバー式のコーヒーメーカーなら、合っていたのかもしれないが、自分でドリップしたかったのである。
コーヒー豆に関しては、スーパーで、イタリアやオランダのブランドのものの中から選んで買っていた。自分で入れるコーヒーは、チェコ式トルココーヒーよりははるかにましだったし、レストランや喫茶店で飲めていた普通のコーヒー程度には美味しかったが、100パーセント満足していたわけではない。
だから、数年前に(もっと前かも)、オロモウツにコドーというコーヒー焙煎のお店ができたときに、試すのは当然だった。試して、挽きたての豆で淹れたコーヒーの美味しさに感動し、ドリッパーを変えようと考えるのも当然だった。ドイツの会社であるはずのメリタのドリッパーがチェコで見つからないのは不思議だったが、見つからないので、結局日本に出かける友人に買ってきてもらうことになってしまった。
手動のコーヒーミルを購入し、本当の挽きたてを楽しむことも覚えたが、時間の余裕がなくてお店で挽いてもらった豆を使うことの方が多くなっているなあ。モカエキスプレスと呼ばれる家庭用のエスプレッソメーカーも手に入れて、週末などの時間があるときには、ドリップしたコーヒーとは少し違う味わいを楽しんでいる。ドリッパーも、最近コドーで販売されるようになったハリオという日本の会社の陶器製のものを手に入れた。メリタとの違いがわかるとは言わないけど。
毎日、朝食の後に、時間をかけて淹れた美味しいコーヒーを、ゆっくりと飲むというちょっとした贅沢を楽しんでいるというわけである。ビールと同じく、味を語れるほどの語彙も、微細な味の違いを感じられる舌も持ってはいないけれども、好きなものは好きで、美味しいものは美味しいのである。
ところで、チェコの喫茶店やレストランでは、最近コーヒー抽出用の機械が導入されたところが増え、トルココーヒー以外にも、プレッソと呼ばれるコーヒーが飲めることが多い。ただこのプレッソが、チェコ人たちが言うようにエスプレッソなのかどうかがよくわからない。
二年ほど前にハンガリーに行ったときに、飲んだエスプレッソは、小さなカップで出てきたが、衝撃的なまでに濃厚だった。そして、その夜眠れなくなった。コーヒーのせいで眠れないのだとは認識していなかったのだが、翌朝一緒にコーヒーを飲んだ人も眠れなかったと言っており、コーヒーを飲まなかった他の人たちはぐっすり眠れたらしいことから、濃厚なエスプレッソのせいであろうと納得したのだった。それに対して、チェコのプレッソは分量も多く、それほど濃くなく、何よりも飲んだからといって夜眠れなくなることはないのである。
ともあれ、自宅でも外でも美味しいコーヒーが飲めるようになったことは喜ばしいことである。しかし、今でもチェコ人のコーヒーの飲み方で一番多いのは、チェコ式トルココーヒーなのだという。そうなると、共産主義の時代とは関係のない伝統的なチェコの飲み物と考えたほうがいいのかもしれない。
一昨日の酒の影響で昨日はほとんど書けず、今日も筆が進まなかった。酔った状態でも、多少体調が悪くても、眠くてたまらなくても、何とか書けるようになりたい。
3月6日23時30分。
因みにチェコ版トルココーヒーは、飲んだ後の豆の粉末はそのまま流しに捨ててしまう。排水のパイプが詰まらないか心配なのだが、みんな気にする様子もない。
こんな記事を書いたのは、美味しそうなコーヒーのお店を、広告一覧の中から発見したからであった。いつか飲んでみたいものである。3月7日追記。
こっちのコーヒーも美味しそう。
2016年03月07日
ヘラニツェ?(三月四日)
本来は、夜寝る前の一時間、二時間を使ってささっと文章をまとめる生活を夢想していたのだが、昼日中のぽっかり空いた時間に書き始めてしまった。この時間は仕事で使う資料の作成に充てる予定だったのだけど、まあいいや。
以前、二年ほど前だっただろうか、雑誌「ナショナルジオグラフィック」の日本版のホームページを見ていたら、チェコの記事があった。確かモラビアにある「ヘラニツェ」とか書いてあって、へえこんな名前の町があるのかと思った。長年チェコに住んでいるからと言って、すべての町や村の名前を知っているわけではないのである。
しかし、記事を読み進めていくと、「あれっ、これ知ってるような気がする」となり、実はすでにこのブログに登場したフラニツェ・ナ・モラビェのことだった。チェコ語の地名の語頭の「Hra」を「ハラ」「ホラ」と書くのはすでに見たことがあったが、「ヘラ」は初めてだった。記事中にはポーランド人が出てきたから、ポーランド語では、フラニツェを「ヘラニツェ」という可能性はなくはないのだけど。
フラニツェは、もともとベチバ川沿いの高台の上に築かれ、その後川沿いの低地や対岸にまで広がっていった町である。ベチバ川を少しさかのぼったところには、テプリツェ・ナド・モラボウという温泉地もある。テプリツェというと、ボヘミアにあるテプリツェのほうが大きく有名であるが、どちらも「テプリー(=温かい)」という意味の言葉からできた地名で、温泉地なのである。ボヘミアのテプリツェにはベートーベンが滞在したという話もあったような気がする。
フラニツェからテプリツェにかけての辺りは、いわゆるカルスト台地になっていて、チェコの自然保護区域に指定されている。その中心となるのが、「ナショナルジオグラフィック」の記事にも取り上げられていた「フラニツカー・プロパスト」である。ハンドボールの試合を見に出かけたときに、ここにも友人の案内で出かけたのだが、「プロパスト」という言葉から、断崖、絶壁をイメージしていたので、山の中の森の中の道を歩いて、ここだと言われたときには、一瞬あれっと思ってしまった。最初に見た瞬間には、これは地面に空いた穴だと思ってしまったのである。
上からは、地面に空いた深い穴の底に水が溜まっているのが見えた。クレーターという言葉も頭に浮かんだけれども、クレーターというには周囲の崖が切り立っていて、確かに断崖になっていたので、横に広がる断崖ではなく、穴を取り囲むような断崖と考えれば、これでいいのだろう。上部には人が落ちないように落下防止用の柵が付けられている。これがなかったら、夏場など鬱蒼とした林の中で見通しがよくないために、墜落する人が続出しそうだし、恐ろしくて近づけそうにない。実際にこのあたりを支配していた大モラバの王様が、夜中に馬を走らせていてこの穴に落ちたという伝説もあるらしい。
水がたまった鍾乳洞の天井が落ちてこんな形なったのかと思ったら、そうではなく最初から縦にのびた、縦に広がった鍾乳洞と考えたほうがいいようだ。断崖の下に見える池の水面の下に深い穴がのびているらしい。これまでに多くの人が、この鍾乳洞の深さを調査するために潜ってきたが、いまだ底には到達しておらず、現時点で確認された深さでは、イタリアの何とか言う鍾乳洞に次いで世界で二番目に深い水中鍾乳洞らしい。調査をさらに進めればさらに深いことが判明するかもしれないともいう。ただ、調査の際に亡くなった人が出るなど、危険性の高い鍾乳洞でもあるようだ。「ナショナルジオグラフィック」の記事ではポーランドの潜水家が、世界記録を求めて調査のためにこの鍾乳洞に潜る計画を立てているとあったが、結果がどうなったのかはわからない。
ベチバ川の対岸にあるズブラショフ鍾乳洞が、二酸化炭素の多い鍾乳洞であることを考えると、この断崖の底の鍾乳洞の水にも二酸化炭素が含まれていて、穴付近の空気の二酸化炭素濃度が高くなっているのかもしれない。それが事故が起こる原因の一つなのだろうかと考えてしまった。
さて、その対岸のズブラショフ鍾乳洞だが、形容詞として「霰石」からできた言葉がついているので、霰石が重要な役割を果たしているのだろうが、日本語で霰石と言われてもいまいちイメージがわかない。
友人に連れられてこの鍾乳洞に出かけた時のことで、よく覚えているのは、入り口の看板に犬を連れて入ってはいけないと書いてあったことだ。この鍾乳洞は、空気中の二酸化炭素の濃度が高いおかげで、チェコ国内でも最も内部の気温の高い鍾乳洞らしい。二酸化炭素は空気よりも重いために、下に沈む。そのため、人間よりもずっと下のほうに頭のある犬を連れて入ると、二酸化炭素中毒で死んでしまうこと可能性があるのだという。小さな子供も連れて入るのなら、手を引くのではなく腕に抱えて、または肩車して入るように指導されていた。鍾乳洞の内部でも、見学コースから見える深くなっている部分には、髑髏のマークのついた危険を知らせる進入禁止の看板が置かれていたし、本当に危険なレベルで二酸化炭素の濃度が高いのだろう。
見学の際のことでもう一つ思い出したことがあった。鍾乳洞の説明とは別に、二酸化炭素の危険性を散々聞かされながら無事に出口近くの部屋に戻ってきて、ほっと一安心したところに、ガイドのお姉ちゃんが、「今は鍾乳洞の内部に灯がついていますけど、なかったら、どのぐらい暗いと思いますか」とか何とか言いながら、ばちっと電気を消しやがったのだ。これにはぶっ魂消てしまった。今となっては、驚きが、電気が消えて真っ暗になってしまったことによるものなのか、本当に電気を消してしまったことによるものなのかは思い出せないのだが。一緒にいた友人はあまり驚いていなかったので、いつものことなか、ちゃんと消すと説明していたかのどちらかだろうと思う。当時の自分のチェコ語力を考えると後者かなあ。
「ナショナルジオグラフィック」の記事を読んで、この私の記事を読んでいる人はいないと思うが、念のためにもう一度申し上げておく。あの記事の「ヘラニツェ」は、「フラニツェ」のことなので、チェコ語で検索するときには、「HERANICE」ではなく、「HRANICE」と書かなければならないのである。
3月4日16時。
チェコでも宣伝しているのでチェコのホテルも出てくるだろうということで、オロモウツよりもマイナーなフラニツェでも検索してみた。カタカナ表記では残念ながら、該当なしだったが、ローマ字で「Hranice」と入力したら大量に出てきた。でも、よその町もある。よく見ると、半径20km以内のホテルを表示する設定になっていたので、2kmに変更してみると四軒のホテルが残った。以前プシェロフで検索してみたときも、なんか違う感じだったから、ローマ字表記で検索したほうがよさそう。3月6日追記。
2016年03月06日
チェコ語の目標(三月三日)
昨日の記事は、読む人にはあまり意味のないものだっただろう。しかし、私にとっては書くべきことを思い出させてくれたという意味で有用な記事であった。その筆頭が、我がチェコ語におけるアイドルである。アイドルと書くとあれだから、題名は目標にしたが、会いに行ったりすることは考えず、遠くから聞いて、わあすごいと喜んでいるだけなのだからアイドルのほうがいいような気もする。
かつて、といっても、まだ十年ほど前の話だが、アメリカのライス国務長官が、チェコに来たときには、中東欧の安全保障が専門でチェコ語もできるらしいといううわさが流れ、記者会見などでチェコ語で話してくれるのではないかという期待が巻き起こった。
アメリカの国務長官といえば、オルブライトがチェコ語で話した記憶も新しく、今回もという期待があったのだ。オルブライトは、そもそもプラハで生まれ、ナチスの迫害を逃れて、戦後アメリカに亡命した人物なのだから、チェコ語ができて当然なのだ。真偽は確認していないが、ハベル大統領が生前、後継者の一人として擬していたという話もあったぐらいである。だから、ライス国務長官のチェコ語がどうであったか、結果についてはあえて書くまい。ずっと以前に日本の総理大臣が連れてきた本田技研のロボット、アシモのほうが評判を呼んだとだけ言っておこう。
アメリカ人のチェコ語の研究者には、面白い人がいて、チェコ語で複数形を作る際に男性形と女性形があって、女性形を使うのは女性しかいない場合で、男性が一人でも入ってしまうと男性の複数形を使うことについて、男尊女卑的な言葉だと批判している。その論拠が、女性百人と男性名詞である蚊が一匹の場合でも、男性形を使うというものなのだが、「女性百人と蚊が一匹〜しました」なんていう状況を想定できるのだろうか。他にもプラハに一年以上も住んでいたのに、ネクタイという意味の「クラバタ」という言葉を知らずにいて、それに気づいた後で、どうしてチェコ人は「バーザンカ」というチェコ語起源の言葉を使わないんだと憤慨している人もいた。同一人物だったかもしれない。とまれ、どちらも冗談だと思いたい話ではある。
だからアメリカ人は、という話ではなくて、アメリカ人でもこちらがびっくりするぐらいチェコ語ができる人はいる。時々チェコテレビに出て来て解説をしているアメリカ人記者のチェコ語は、一つ二つあれっと思う発音はあるけれども、非常にわかりやすくい外国人離れしたチェコ語で、自分もこのぐらい上手になりたいと思わせてくれる物であった。しかし、目標は高いほうがいい。では、誰を目標とするかというと、カンボジアの現国王陛下である。
日本では父親のシアヌーク殿下(長いこと、この呼称が使われていたよなあ)のほうがはるかに有名であまり知名度が高くないようだが、シアヌークの息子に当たる現国王は、かつてプラハで勉強をしていたこともあって、信じられないほどにチェコ語が流暢である。歓迎の記念セレモニーで、「私は感激しております」だったか、「私のとってこの場に立てることは光栄なことであります」だったか、チェコ語であいさつを始めたとき、チェコ人は狂喜の渦に巻き込まれた。ハプスブルク家以後、王を持たないこの国に、外国からこの国の言葉、チェコ語で話せる王様がやってきたのだ。外国人排斥論者の連中も喜んだのではないかとみている。
国王の次に話した当時の大統領バーツラフ・クラウスのしゃべり方が、いつもののらりくらりというか、のんべんだらりというか、締まりのないだらしないものだったこともあって、カンボジア国王のチェコ語のほうが綺麗なんじゃないかと思ってしまった。そして、勝手ながら我がチェコ語の目標、最近は勉強していないからアイドルとして認定させていただいたのである。この時期、この件について、各方面に吹聴して回って、顰蹙を買ってしまったかもしれない。申し訳ない。
陛下は、1962年から十年以上プラハで勉強したが、特に当時のチェコスロバキアでの勉強を希望していたわけではないらしい。十歳になる前にプラハで勉強したいと言える子供はいないだろう。実は、社会主義的な政策を取っていたシアヌーク殿下が東欧各国の大使館に打診したところ、ちゃんと返事が返ってきたのがチェコスロバキア大使館だけだったらしい。その結果、政府からの奨学金をもらって、プラハで初等教育の段階から高等教育まで勉強し続けることになったわけだが、こういう話を聞くと、旧共産圏、東側諸国の政策というのも完全に一枚岩ではなかったのだということと、チェコスロバキアという国の懐の深さを感じさせられる。
当初は、プラハのカンボジア大使館から学校に通っていたが、1970年に、芸術専門高校に通っていたころ、クーデターでシアヌーク殿下が失脚すると、大使館に住めなくなってしまい、最初に通っていた小学校の校長先生の家に下宿させてもらうことになったらしい。芸術大学での勉強を終えた1975年に、一か月の予定でカンボジアに一時帰国した際に、政権を握ったクメール・ルージュにとらえられ水田での強制労働に従事させられたという。芸術大学の卒業式を理由に何とかカンボジアを出る許可を取って、プラハに戻ってきたものの、北朝鮮に向かうことになり、三度、チェコに戻ってくるまでには三十年以上の月日を閲しなければならなかったのである。
当時の記憶と、チェコ語版ウィキペディアの記載を参考に書いてみたけど、これ以上詳しいことは私には無理なので、誰かカンボジア研究者が、このあたりを研究して日本語で発表してくれるとうれしい。一度謁見の栄を賜り、チェコ語でお話させていただきたいという夢はあるけれども、自らのチェコ語を磨くためにも、夢は夢のままにしておきたい。
3月3日14時。
恐れ多いことではあるが、陛下のご尊顔を。3月5日追記。
2016年03月05日
ネタメモ(三月二日)
最近、書き始めるときに何を書くのか決められないことが、決めるのに時間がかかることが多い。ネタがないというわけではないのだが、書こうと思って温めていたテーマが思い出せなかったり、そのテーマで書くつもりだった内容がすっぽり抜け落ちてしまって、当初の予定とは違う話になることが頻発しているので、備忘録代わりにこれから書く予定のことを羅列してみる。いつも以上に読む価値のない内容になりそうだけれども。
既に設定したカテゴリーごとに見ていくと、「戯言」(「世迷言」に変えようかとも思っているのだが)では、ヨーロッパ批判をいくつか考えている。「ウクライナ問題」「アラブの春」「旧植民地への干渉」などなど、いちゃもんを付けたいことはいくつもある。ヨーロッパというよりはEU批判というほうが正しいかな。
ドイツに対して日本が抱いている、いや自分自身が抱いていた幻想とその崩壊についても書いておきたい。ドイツの戦後処理を神聖化して、日本のそれを批判するのはよくある論法であるが、チェコにいるとドイツのやってきたことが、そんなに素晴らしいとは思えないのである。バイツゼッカーのあの演説も、首相ではなく大統領だったからできたという面もあるし。昨年のフォルクスワーゲンの騒動や、難民政策の迷走で、日本でもドイツの評価は下がっているようだが、それでも環境問題を中心に過大に評価している人は多そうである。
他には外国から見た日本についても書こうと思うことはあるが、これはまだしばらく熟成が必要だし、別カテゴリーにしてしまうかもしれない。
次の「オロモウツ」は、まだ少ししか書いていないけれども、ネタ切れ。普通に観光案内するという手はなくはないけど、あんまり気が進まない。役に立たないホテル、レストラン紹介はできるかもしれないので、ちょっと考えてみよう。
このブログのメインテーマかもしれない「チェコ語」は、ネタはたくさんある。たくさんあるんだけど、一つ一つが小さくてうまく一本の話にできる確信がないので、少々ご無沙汰気味。前置詞の「do」と「na」とか、完了態、不完了態の問題とか、うまくまとめる自信がない。方言についても書きたいなあ。その結果、ますます、チェコ語を知らない人には読めない内容になってしまいそうだけれども、読者を意識する余裕はないのだ。そうだ、カンボジアの国王について書くのも忘れてはいけない。これについては内容は読んでのお楽しみということで。
この記事もそうだけど「ブログ」ネタは、あまり書かないことにしようと思う。何度か書いた「反省」も、これ以上は同じことの繰り返しになりそうだし、知人に正体がばれたとか、そんな大事が起こったときだけ書くことにする。最近、三人の方にブログのことを教えて以来、それだけでは説明できないぐらいアクセス数が増えているので、ある日、「読んだよ」というメールが知り合いから届くかもしれないと、わくわく、いや、戦々恐々としている。
ビールについて、すなわち「Pivo」のカテゴリーでは、いろいろなビール会社について書こうという構想があったのだが、現時点でかけそうなのはチェルナー・ホラのビール会社ぐらいだなあ。ビールの味を言葉で形容できるほどの表現力、語彙はないし、別々のときに飲んだ個々のビールの味を判別できるほど繊細な味覚をしてはいないので、グルメ記事風のビール紹介も無理そうだ。どうでもいい薀蓄と個人的な経験から出来上がった記事になるだろうけど、このブログの記事って全部そんなのばっかだからなあ。
本屋さん的なブログを目指さなくもないので、「本関係」の記事は書き次いで行くつもりだ。書評みたいなものにも手を出すかもしれない。チェコ関係の本に限定してしまうとネタ切れになりそうだから、その辺は気にせず、読んで衝撃を受けた作家や作品について書き散らすことにしよう。読書の一環と言えるのかどうか、大学時代に勉強で読んだ『小右記』についても書きたいことがたくさんある。書く前に調べたり思い出したりしなければいけないことが多そうだけど、別カテゴリーにしてしまうか、訓読文もあわせてサブブログにしてしまうか悩ましいところだ。いや、それをやると毎日更新ができなくなるかもしれないから……、と悩みの迷宮に入り込んでしまうのである。
カテゴリー「チェコ」では、大統領について書く用意がある。大統領選挙のことも書いておきたいし、これまで三人しかいないチェコの大統領だけではなく、マサリクやベネシュなどチェコスロバキア時代の大統領についても書きたいことがいくつかある。シュバルツェンベルク氏を中心にチェコ人の民族性についても書いておきたい。お気に入りのテレビ番組や映画の中には、ネタが思いつかないときのために取っておいてあるものがある。「チェトニツケー・フモレスキ」とか、「シュムナー・ムニェスタ」とか。
普通のガイドブックには出てこなさそうな「適当観光案内」も、いくつか準備してある。基本的に自分が行ったことがある場所について書くつもりなので、そんなにたくさんの場所について書けるわけでもなく、昔言った場所は記憶があやふやで書きにくいという問題もある。それにどの時点で書くかという問題もあって、モラビアの温泉地「ルハチョビツェ」は、「チェトニツケー・フモレスキ」の後に書いたほうがいいよなあなどと、特に気にすることもないのだろうけど、考えてしまうのである。
新しく書くわけではない「昔書いたもの」は、それほど増えることはないだろう。書いた文章は山ほどあるけれども、けりがついていないものが多く、その場合は、書き足して完結させるのではなく、同じテーマで新たに書き直すことにする。それに、人様には読ませられないようなこっぱずかしい物も多いし。
「スポーツ関係」は、サッカー協会批判がいくつか書けそう。問題だらけの組織なんだよ。試合を見ての観戦記がかけるほどスポーツに詳しくはないので、周辺情報を提供できたら嬉しい。オロモウツの生んだ代表監督ブリュックネルについてはぜひ一文物するつもりである。
こうして羅列してみると、まだまだ書くことはあるじゃないか。大事なのはどれから先に書くかである。最近真面目なテーマは、失敗作になることが多いので書きやすそうなところからだな。とはいえ、書き始める前の予想通りには行かないのが難しいところである。
3月3日0時30分。
「昔書いたもの」は増えないと言いつつ、昨日増やしてしまった。
チェコでもテレビでコマーシャルを見かけるサイトを発見したので、載せてみる。ちなみにオロモウツで検索をしたら、おもなホテルペンションはすべてできて、すごい。日本国内旅行向けに感じられるバナーが多かったので、これを選択。3月4日追記。
2016年03月04日
「僕」と「私」(昔書いたもの)
言うまでもないことだが、日本語には自分で自分のことを指す時に使う言葉が山ほどある。その中で、男性が使うものとして、現在でも全国的に使われているものは、「俺」「僕」「私(わたし)」「私(わたくし)」の四つぐらいだろうか。いや、正確に言えば、私自身が使ってきたものがこの四つなのである。
子供の頃は、乱暴だとか、下品だとか、よくわからない理由で、「俺」を使うのは、親に禁止されており、「私」は女の子っぽいという印象もあって、「僕」ばかりを使っていたような記憶がある。それが、中学生になるぐらいから、小説や漫画などの影響で「俺」も親に隠れて使うようになり、高校生ぐらいから、公の丁寧に話さなければならない場では「わたし」「わたくし」を使うことを覚えて、現在に到るわけである。
普段は、現在日本語で話すのは仕事上必要な時だけなので、大抵は「私」しか使わないのだが、たまに友人や同僚と飲みに出かけた時などには、状況に応じて「僕」「俺」も使い分けている。特に乱暴な口調で話す時に「俺」を使うのである。
海外に出て長いとは言え、言語形成は日本で行ったのだから、この感覚は、多少の違いはあっても、普通の日本人と変わらないものだと思っていた。ところが、最近立て続けに(と言っても二年ほどの差はあるが)二件「僕」の使用を否定する意見に出会ったのである。
一人は毎年春にオロモウツに来てくださる方で、東京出身で年齢は70歳ぐらいの方である。その方が「僕」なんて気取った言葉は使えないと仰るのである。東京でも下町のほうのご出身で、「僕」を使うのは、山手の方のいいとこの坊ちゃんたちで気取っているというイメージがあるらしい。考えてみれば、この「いいとこの坊ちゃんが使う言葉」というイメージが、田舎に伝わって、上品な言葉で子供に使わせるにふさわしいということになったのかもしれない。田舎の教育委員会とかPTAとかで学校での方言使用禁止の一環として、「僕」使用推奨運動とかいうのもあったんじゃないかという気がしてきた。
そして、もう一人が、最近、発掘したエッセー集を読んだ小谷野敦氏である。氏の本は日本にいた頃から読んでみたいとは思いつつ題名に萎縮して読む決心がつかなかったのだが、たまたまダンボールを開けてみたら出てきた『軟弱者の言い分』(これぐらいら萎縮せずにすむ)を読んで、そのことを後悔してしまった。読書欲が昂進する仕事の忙しい時期とは言え、久しぶりに(でもないか)時間を忘れて読みふけってしまった。
しかし、この本、十年以上前の本なのである。高校生ぐらいの頃は、十年以上前の本などというと古すぎるような気がしてあまり読む気にならなかったものだが、十年前と言われても最近のような気がするのは、年をとってしまった証拠だろうか。いや、当時は初出とか、文庫化とか認識していなかったので、十年以上前に書かれた本を新しいと思って嬉々として読んでいたんじゃないかという気もする。
閑話休題。
小谷野敦氏の「僕」嫌いは、面白い。面白いのだが、今一つピンと来ない。この文章で、氏は、「僕」と「私」を比べて、「私」を選ぶ理由を語っているのだが、その一つは「僕」は子供の言葉で「私」は大人の言葉であるというものである。個人的には、「僕」と「私」の境界線は、大体私的領域と公的領域の境界線に重なると考えているのだが、公と私の判別がつかないのが子供だと考えれば、「僕」は子供の使う言葉と言ってもいいのかもしれない。では、「俺」はどうなんだというのが知りたくなるのだが、氏のエッセイには、あろうことか「俺」が出てこないのである。それがどうもピンと来ない理由なのではないかと思う。尤も氏が「私」を選ん理由の一つが男女平等主義だということだから、僕以上に男の言葉としてのイメージの強い「俺」は使わないのであろうが、氏の抱いている「俺」についての感情も読んでみたいものである。
むしろ、氏が引用している上野千鶴子氏の「僕」に対する感覚のほうがわかるような気がした。「僕を使う男は軟弱な感じがする」とは、確かにどうでもいいことではあるけど、当たっているような気がする。一時期芥川賞作品ぐらいは読まなきゃと思って片っ端から読んでいたことがあるのだが、三田誠広あたりの「僕」が語り手の小説を読んで、俺よりも僕を頻繁に使っていた当時の自分は確かに軟弱者で、今風に言えばへたれだったなあと思う。人間としての本質があのころから変わったわけでもないし、人間的に成長したなんてこともないのだが、外国語嫌いを克服し、曲がりなりにも外国で暮らせているのだから、多少はたくましくなったと思いたいところではある。
ところで、昔のことを思い出してみると、小説や漫画の登場人物の影響で使ってみたけど、似合わないのですぐにやめてしまったものもいくつかある。中学生の時だっただろうか、SF系の小説で出てきた「俺」と「僕」の中間ぐらいの印象のある「おいら」を使ってみたところ、友人に大笑いされ、自分でも似合わないことを自覚したのですぐにやめることになったし、大学時代に知り合いが使っていた「おれっち」や、漫画や小説で使われていた「あちき」とか「あっし」なんかは、実際に人前で使ってみる前に、誰もいないところで口に出してみた瞬間に、後悔してしまったのだった。使ってみたいと思うのと、実際に使えるのとは別物なのである。その一方で、「わし」とか「わい」のような言葉にはまったく食指が動かなかった。これは関西っぽい感じが合わなかったのだと思う。
今は使えないが、いずれは使ってみたいというものもある。以前の職場の上司が使っていた「小生」、これは今の自分ではまだ似合わないような気がして使えない。もう少し年を取って貫禄がついてから(無理かなあ)、「小生はですねえ」などと言ってみたいものである。それから、「それがし」も、いつか、ふさわしい機会を得て使ってみたい。そのふさわしい機会が思い浮かばないのが、困りものなのであるが。ただ、同じく古めかしい感じのする「拙者」は、本来謙称でありながら、どこか尊大な感じがするせいか使いたいという気にはならない。
また、これは話し言葉ではなく書くときに使う言葉だろうが、平安時代の古記録にしばしば使われる「下官」も使いたいものである。戦前の軍人あたりなら「小官」とでも言いそうなところだが、平安時代至上主義者としてはやはり「下官」なのである。
ハードディスクの中のファイルを確認していたら、出てきた。一応けりがついているようなので、一部修正して投稿。どうでもいいちゃあどうでもいい話だけど、このブログの記事なんてそんなのばっかだしね。
小谷野敦氏の本は、記事内で取り上げたものは出てこなかったので、一番読みたいと思ったこれ。馬琴には興味はあるんだけどなかなか手が出せないんだよなあ。江戸期の日本語ってわかりにくいし。3月3日追記。
映画の題名(三月一日)
このブログでは、チェコの映画や本を紹介するときに、チェコ語の題を示さずに私が適当に訳した題名を使っている。「トルハーク」のように訳しようがなくて、もしくは、訳したくなくてチェコ語をそのままカタカナで表記したものはあるけれども。
これまでは、日本でも上映されて日本語の題がついているものについてはできるだけ避けてきた。納得できない使いたくない題名が多すぎるのだ。比較的マシな「コーリャ」も、ここまでは、本来はのばさずに「コリャ」というほうが原音に近いのがのばされているのは、日本語のただの「コ」よりは、長く聞こえなくもないので許そう。でも何で「愛のプラハ」が付かなければならないのだろうか。マーケティング上、「プラハ」を付けたかったということなのかも知れないが、アカデミー賞の外国映画部門で賞を取った作品でネームバリューは抜群だったはずだし、「コーリャ」という題名のほうがシンプルで絶対にいいと思うのだが。「コーリャ 愛のプラハ」なんて題名じゃこっぱずかしくて見にいけねえ、見られねえと思うのは私だけではなかろう。そもそも、金のために偽装結婚する男が主人公なのに「愛の」と言われてもなあ。チェコ人の愛はゆがんでいるというメッセージだというなら、それはそれで、ありかもしれないけど、題名を見ただけでは伝わるまい。
さらに頭を抱えたのは、「プラハ!」という邦題である。これを見てチェコ語の「レベロベー」だとわかる人はいまい。1968年のプラハの春の時期を背景にしているとは言え、舞台は国境地帯の小さな町でプラハなんぞ出てきはしないのである。チェコ語で「反抗者たち」という意味の題名には、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」のイメージが投影されているような気がするので、それを生かした題名でも悪くないと思うのだけど。やはりチェコと言えば、プラハだということでこんな邦題になってしまったのだろう。だから、日本人はチェコにはプラハしかないと思っていると憤慨するチェコ人が出てくるのだ。
英語の題名をカタカナ化するのもやめて欲しい。そのままじゃなくていじってあるのも気持ちが悪い。「スウィート・スウィート・ビレッジ」という題名を見て、あの「ベスニチコ・マー・ストシェディスコバー」の内容は想像できないし、内容を知っていると皮肉にしか聞こえないのは、我が英語力のなさゆえだとしても、この題名では見る気になれないなあ。題名ではなく、文章か詩の一節であれば、「村よ、我が心の中心よ」(注:この訳は間違いだった。地域の中心となる村を「ストシェディスコバー」と呼んでいたらしい)とでも訳したいところだけど、これで題名にしてしまうと、「明るい農村」みたいな内容を想像してしまいそうだからなあ。そうすると「故郷」ぐらいの簡単な題名でいいのかもしれない。
「トマボモドリー・スビェト」が、「ダーク・ブルー」になるのも何だかかなあ。今まで挙げたのよりはましだけれども、「スビェト(=世界)」を落とす意味があったんだろうか。「青黒き世界」とか、「群青色の世界」「ダーク・ブルーの世界」とかじゃ駄目だったのかな。もしかしたら、「この素晴らしき世界」と「世界」が重なるのが嫌われたのかもしれない。
「この素晴らしき世界」の「私たちは助け合わなければならない」というチェコ語の原題が、日本語訳にすると題名にはならないのは重々承知の上で、これじゃ駄目だろうと思う。それにこっちの方が、「コーリャ」よりずっと「愛のプラハ」が似合うような気がする。内容とチェコ語題を鑑みて、ぱっと思いつくのが、「情けは人のためならず」ということわざなのだが、これでは見る気になれないし。
一体に、チェコの映画や本の題名は、そのまま訳すと日本語では題名にしづらいものが多い。昔読んだ本では「消防士達の舞踏会」と訳されていたミロシュ・フォルマンの「ホジー・マー・パネンコ」は、ウィキペディアには、「火事だよ!カワイ子ちゃん」と書かれていて泣きたくなったが、原題の意味には近づいているのである。文になっている題名も多く、日本語訳そのままでは使えそうにないものが多いのだ。天才子役と言われたトマーシュ・ホリーの「どうやって鯨の奥歯を抜くか」「どうやって父ちゃんを特別教室に放り込むか」、ツィムルマン関係者が出ている「マレチェクくん、ペンを貸してくれたまえ」「ヤーヒム、そんなの機械に放り込んじまえ!」などなど、こんな日本語の題名では客を呼べそうもない。
こうして考えてみると、映画の邦題をつけるのは大変な仕事なのだと思わされる。こんなところで適当に書き飛ばすのとは違って、いろんなところに責任があるだろうから。それでも、もう少し何とかしてほしいというのが、チェコ語での題名の意味も知っていて内容も知っている人間の正直な感想なのだ。
最後に、自分で題名をつけてみて結構いけるんじゃないかと思ったものを一つ。モラビアの国民的な映画だと言われている映画がある。怪優ボレク・ポリーフカが、まったく演じずに素で登場したものだとも言われているけれども、共産党政権崩直後のモラビアの田舎を舞台に国を出て財産を築いた親戚の遺産相続をめぐるごたごたを描いた映画である。チェコ語では「デディツトビー――アネプ・クルバホシグーテンターク」というのだが、「遺産相続――あるいは、グーテンタークって言ってんだろが、馬鹿やろうども」としてみた。いかがだろうか。続編は「遺産相続――あるいは、そんなこと言っちゃいけねえよ」としておこう。
3月2日15時30分。
意外とチェコ映画のDVDは手に入らないのね。それなのに、こんなのが買えるとは! これも題名=文の作品で、「俺、アインシュタイン殺しちまったんだよ、みんな」とでも訳せるもので、「アインシュタイン暗殺指令」は納得できる邦題である。3月3日追記。