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2016年02月29日

我が読書の記憶 幼年期の終わり(二月廿六日)



 今回オロモウツに来てくださって、あれこれお世話になった方との雑談の中で、小学校、中学校のころの話をしていたら、不意にあのころ読んでいた本のことが思い出されて、一冊思い出すと二冊三冊と思い出し、内容は思い出せても題名や作者が思い出せない本もあり、懐かしさに震えてしまった。年を取ったものだ。
 比較的本の多い家で育ったため、小さな子どものころからあれこれ本を読んできた。それが現在の活字中毒につながっていると言えば言えようが、さすがに絵本のことまでは覚えていない。小学校のときに定期購読していた学研の「科学」と「学習」のうち、「学習」の夏休みの付録だった分厚い物語集のようなものが、初めてのまとまった読書だったような記憶がある。毎年いろいろな作家のいろいろな作品を読むことができるのは、夏休みの喜びだった。この物語集のために書き下ろされたものも、既刊の本から採用されたものもあったようだが、悲しいのは具体的にどんな話を読んだか、まったく覚えていないことだ。

 では、このころ読んだ子供向けの本で覚えているものは何かと言うと、灰谷健次郎と今江祥智の作品である。灰谷健次郎は、ドラマで『太陽の子』を見て感動した両親が、本を買って来たのか、それ以前から『兎の眼』を読んでいて、そこから『太陽の子』につながったのか、どっちだっただろうか。『太陽の子』ではフウちゃんが、子供たちの中ではなく、大人たちの中で生き生きとしている姿に、ものすごくあこがれた。現実には子供同士の付き合いでアップアップしていたからそんなことを感じたのかもしれない。そして『兎の眼』では、何よりも元船員のおじいちゃんが作る「シタビラメのムニエル」なる料理が、妙に美味しそうだったのを覚えている。インターネットのない時代、「シタビラメ」も「ムニエル」も自分の頭の中で想像するしかなく、限りなくイメージを膨らませてしまい、後年実際に実物を見て、なんだかがっかりしてしまったのであった。

兎の眼 [ 灰谷健次郎 ]




 今江祥智の作品は、小学校の図書館で最初に『優しさごっこ』を読んだのだったか、それとも夏休みに読むべき戦争文学の一冊として『ぼんぼん』に手を出したのだったか。いずれにしても図書館にあった今江祥智の作品は、大した数ではなかったけれども、すべて借り出して読破した。大学に入ってから、近所の図書館で再会して再読して、こんなのを子供に読ませていたのかと、かつての自分はこの世界を理解できていたのだろうかと頭を悩ませたが、子どものころに今江祥智の作品に出会えたのは幸せだったのだと思う。


ぼんぼん [ 今江祥智 ]





 戦争中の体験にしろ、親の離婚にしろ、おそらく当事者にとっては耐え難い二度と繰り返したくなどない体験なのであろうが、文学作品を通してしまうと、文学作品として読んでしまうと、それがかけがえのない貴重な体験のように感じられて、自分がごく普通の家庭で生活し、文学になどなりそうにない人生を送っていることで親を恨めしく思ってしまうというどうしようもない子供に育ってしまった。ぐれるなんてことにはならなかったが、文学なんてのはごくつぶしの道楽だというかつての評価はすごく正しいのだと今にして思う。そしてチェコなんぞに流れてきた自分の考え方の発端が、この時期にあることに気づいて愕然とする。
 NHKの人形劇で見た記憶のある上野瞭の『ひげよ、さらば』もなかなか衝撃的な作品だった。人形劇が放送されていた当時は、本は読んでいないと思う。読みかけたとしても通読はしていないはずである。大学時代に今江祥智を再読し始めたころに、『ひげよ、さらば』も発見して、これはかつての自分には読めなかったはずだと感じたのを覚えている。勧善懲悪に終わらない物語は子供たちに読ませるには、残酷に過ぎ、途中で読むのをやめる子もいたのではないだろうか。人形劇をみて、本も子どものころに通読できたという人がいたら、心の底から尊敬する。


ひげよさらば タナカマサオの世界 【DVD】





 一時期離れた時期はあるが、児童文学というのは大人になってからも、我が読書の重要な一部であった。活字中毒者はジャンルは選ばないとは言え、自らすすんでそのジャンルの本を読む場合と、ジャンルに関係なく偶然その本を手にする場合があるのである。書店や図書館の人にとっては、子供向けの本を嬉々として読む変な大学生だったのだろうが。
 小学校時代に偶然手にした本の中で、その後の読書傾向に影響を与えたものとしては、もう一つ、正確な名称は覚えていないが、子供向けにリライトされた立川文庫のようなもので、真田十勇士だの、鎮西為朝などの英雄的人物たちの活躍が描かれた古い本がある。どこの出版社で出した本なのか不思議なのだが、一時期夢中になって読んだ。当時読んだ中に真田物が多かったからか、池波正太郎を読むようになったのかもしれない。これは、高校時代にNHKで放送された『真田太平記』の影響の方が大きいか。いや、『真田太平記』を見ようと思ったきっかけが小学生のころの読書だったのだ。

 それから、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロ、アルセーヌ・ルパンなどに、子供向けにリライトされたシリーズで出会ったのもこのころだった。外国発の児童文学、例えばケストナーなんかには、なぜか手を出していない『飛ぶ教室』にしても、『二人のロッテ』にしても、題名から、実際とはぜんぜん違う内容を想像して読むのを避けてしまったのだ。

飛ぶ教室改版 [ エーリヒ・ケストナー ]




 この辺りまでの我が読書というのは、お話、物語として読んでいたような気がする。その後、作り物の小説であることを意識して、児童文学以外の作品を読むようになるのが、もちろん時期的に重なる部分もあるけれども、我が読書の幼年期の終わりということになるのだろう。
2月27日11時30分。


 昨日に続いてちょっと実験。文章がぶつ切りになるような気もするが、考えてみればそんなのを気にしなければならないような大した文章ではないし、本屋さん気分で楽しいから本について書くときには、またやってみよう。2月28日追記。
posted by olomoučan at 05:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2016年02月28日

悩んで悩んで(二月廿五日)



 今日も昨日と同じ状況で、昨日よりは少しましだけど、夕方になってから、昨日の分を書き始めることになってしまった。今日こそ遅れを取り戻すぞということで頑張って書く。
 さて、ブログを開設して以来の悩みが一つ解決してしまった。今後も悩み続けることは確実ではあるが、とりあえず第一歩を踏み出してしまった。いろいろと望外にうれしいことが重なり、酔っぱらって口を滑らせかけてしまったので、えいやで、これまでお世話になった方と、今回お世話になった方、そしてチェコ人で日本語が非常によくできる悪友に、ブログをやっていることを報告してしまったのだ。当初の予定では、一月続けられたら誰かに教えようと考えていたので、ほぼ二ヶ月続けられた現在、教えるのはまあ予定通りと言えなくもないが、当初想定していたのとは、まったく違う方々に教えることになったのは、「運命なりけり」なのかなあ。

 この件に限らず、最近はインターネット関係で悩んでしまうことが多い。今年一番の悩みは、ブログをはじめることで、どのブログサービスを選ぶかだったのだが、これは自分でも意外なことにすんなり決定することができた。いや、違う。悩むのが面倒くさくなって、清水の舞台から飛び降りてしまっただけである。他は、お金が絡むだけに、うじうじといつまでも悩み続けてしまっている。
 一つ目は、ジャパンナレッジである。このサービスの基本的なプログラムであるJKパーソナルに申し込むと、『日本国語大辞典』がネット上で使えるようになる。英語系の辞書なんかは使う予定もないのでまったく不要だが、百科事典も、そして『日本古典文学全集』さえも使えるようになるのである。月々千六百円ほどで、これだけのものが使えるのは、非常に魅力的で、我が学生時代であれば、悩むこともなく、すぐに申し込むところである。
 更に魅力的なのがJKパーソナル+Rで、月額で五百円ほど追加するだけで、『国史大辞典』『古事類苑』まで使えるようになってしまう。お金がなければ借りればいいかとか、親に出させようかなどと、一瞬不埒なことまで考えてしまった。
 しかし、しかしである。冷静になって考えてみると、これに申し込んだとして、果たして使うのだろうかという疑念が湧き上がってくる。職場には紙の書籍で『日本国語大辞典』も『国史大辞典』も置かれているが、日々の仕事に追われて、滅多に使うことはない。でも、ネット上で使えるようになれば、大きな本を本棚から引っ張り出さなくてもいいし、検索も楽なので頻繁に使うようになるかもしれないなどと、不要だけれども欲しいものを買うときの言い訳探しを始めてしまう。
 このジャパンナレッジのサイトは、お金を払わない無料の部分だけでも、十分に面白く、満足できてしまうのが悩ましい。「知識の泉」と題されたページでは、さまざまな魅力的なエッセイを読むことができる。中でも『日本国語大辞典』の編集者が書かれている「日本語、どうでしょう?」には、これまで何度も蒙を啓かれてきたのだ。それから「方言チャート」もなかなか楽しい。古い47都道府県バージョンでは、隣県にたどり着いてしまったが、新しい100地域バージョンでは、見事的中した。こういうコンテンツである程度満足してしまうので、ジャパンナレッジに申し込むのをためらってしまうのである。現在は個人用のサービスでは、まだ使えなさそうな『群書類従』が使えるようになったら、思い切って飛び込んでみることにしようか。

 もう一つ悩んでいるのが、漫画のネット上の違法スキャンファイルの根絶と漫画の保全を目標として活動を始めたJコミである。最近名称が変わったようだが、サービス開始当初の、作品数も少なく、すべてPDFファイルで提供されていた時代からお世話になってきたので、今でもJコミと呼んでしまう。
 もともとの方針では、すべての作品に関して無料でPDFをダウンロードできるようにしたいということだったはずだが、やはり漫画家の側からの抵抗が大きかったのだろう。紆余曲折を経てキンドル用のPDFをアマゾンで販売するという形になってしまった。現在ではJコミのサイトで直接PDFを購入するという形になっているかもしれない。そして、月額三百円の会費を払って有料会員になれば、毎月一冊ずつ欲しい漫画のPDFをダウンロードできるようになるらしいが、有料会員にならなくても、ブラウザ上で読む分には問題のない現在、あえて有料会員になる理由を見つけかねていというのが現状である。PDFがソニーのリーダーに最適化されたものであったら、有料会員になろうという気になってしまいそうだが。
 作家にも、読者にもメリットのある形で、漫画をネット上で提供していくというJコミの理念には、心のそこから賛同するし、その活動には頭が下がる思いがするので、有料会員になって少しでも力になれればと思う気持ちはあるのだが、うじうじと悩んで決断を先送りにしてしまう。おそらくこれは、ならないまま終わってしまうパターンだな。

 最後に、このブログに加えてもう一つサブブログを始めようかなと考えたことがある。もう廿年以上も前に、ワープロを使っていたころから作りためた『小右記』の訓読文があるので、それを少しずつ、簡単な解説もつけて公開してみようかと思いついたのだ。このブログ以上に需要はなさそうだが、かつての苦闘の証を死蔵するのももったいない気がするし、始めると解説を書くのに辞書を引く必要性が高まるので、ジャパンナレッジに申し込む理由が一つ増えるのである。一石二鳥と言えなくもない。でも、優柔不断な私はいつまでも悩み続けて、アイデアが存在したことすら忘れてしまうのだろう。
 考えてみれば、これまでの我が人生、こんなことの繰り返しだった気がする。後悔、そんなものは存在しない。思いついたという事実すら忘れているのだから。忘れられるというのは力なのだ。

2月26日22時30分。



 日国全巻セットがないとは思わなかった。2月27日追記。


日本国語大辞典(第1巻(あーいろこ))第2版 [ 日本国語大辞典第二版編集委員会 ]



posted by olomoučan at 05:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ

2016年02月27日

ボウゾフ城(二月廿四日)



 これまでも、深夜の十二時を過ぎてから記事を書き始めたことはあったが、今回ついに夜になって前日分を書き始めるという事態が生じてしまった。久しぶりに連日でお酒を飲んでしまって、昨日は一昨日の分を何とか書き上げたところで力尽きてしまったのだ。ここで昨日の分はあきらめて一日日付を飛ばして、今日の分を書くという処置をとってしまうと、自分に甘い私のこと、おそらくさまざまな理由をつけて書かない日が増えていくのが目に見えているので、十二時までに昨日の分を書き上げて、今日の分を書き始めることにする。

 日本語で城と言った場合に、チェコ語ではフラット(hrad)とザーメク(zámek)に相当する。フラットのほうは、山の中に立てられた戦争用のお城で、日本人がヨーロッパのお城と言った場合に思い浮かべそうなものである。強いて訳し分ければ城塞となるだろうか。一方のザーメクは平地に築かれていることが多く、戦うためというよりは、住むための、また領地経営のためのもので、強いて訳せば城館だろうか。大きな庭園がついていることが多いし。
 チェコで、日本人が考える典型的なヨーロッパのお城と言うと、先ず頭に浮かぶのが、カレル四世が王家伝世の宝物を収蔵するために建てたというカルルシュテイン、ブルノから北西に少しビソチナの方に入っていったところにあるペルンシュテイン、そして今回取り上げるオロモウツ地方にあるボウゾフなどである。城跡まで対象を広げると、ヤナーチェクの生地フクバルディ、プシェロフから少し東にベチバ川を遡ったところの丘の上に川沿いの隊商路を見下ろすように建っていたヘルフシュティーンなども入ってくるだろう。

 ボウゾフ城は、オロモウツからリトベルを通って更に北、平地に張り出してきた丘陵地帯の丘の上に建てられた城である。城下にはボウゾフという名前の村があり、オロモウツからバスで出かける場合には、リトベルで乗り換えてこの村に到着することになる。ただバスの便によっては、ボウゾフ村内でも本集落を通らず、別の停留場で下ろされて、お城のある村まで山を登る羽目になることもあるので注意が必要である。
 このお城は、典型的な中世の城のように見えるが、実は19世紀末から20世紀の初頭にかけて当時の所有者であったドイツ騎士団の団長が、築城の専門家で、当時の最先端の知識を生かして中世風の城塞に改築をした結果が現在の外観だと言う。内装までは完全に中世風にはなっておらず、一部当時の最新技術である電気が使えるようになっている。世界史で名前だけは知っていたドイツ騎士団というものが20世紀にまで存在し続けていたことも驚きだったが、それどころか現在まで存在し続けていて、没収された資産であるボウゾフ城の返還を求めて裁判を起こしていると言う話を聞いたときには、この21世紀に騎士団などというもが存在する意味があるのだろうかと考えてしまった。
 ボウゾフ城を、ドイツ騎士団から没収したのは、チェコスロバキアを解体してボヘミア・モラビア保護領を設置したナチスドイツであった。中でもナチスのSSの指導者であったハインリッヒ・ヒムラーがこの城を気に入り、SSの所有する城にしようという計画を立てていたらしい。そして第二次世界大戦末まで、この城にSSの特別部隊が駐屯しており、その部隊が近くの村であるヤボジチコで起こった村民の虐殺事件を起こしたと言う。ちなみに、チェコ政府としてはナチス・ドイツが接収したものに関しては資産の返還に応じていないので、ボウゾフ城も、ドイツ騎士団に返還されることはなく、チェコの国家の資産のままである。

 また、15世紀にチェコ王に選ばれたボデブラディのイジーの生地については、いくつかの説があるらしいのだが、そのうちの一つがボウゾフ生誕説なのだという。仮にそうであったとしても、当時の姿は改修の結果まったく残ってはいないのではあるが。
 お城の見学は、自由に見て回れるのではなく、ガイドに連れられてグループで部屋ごとに見て回ることになるのだが、見学コースの最後に中庭に出てくる。そこにある井戸に硬貨を投げ込んでつるべの先の桶に入ったら、またボウゾフに戻ってこられるというお話があるらしく、以前井戸さらいをかねて考古学的な調査を行ったところ、さまざまな遺物と共に大量の硬貨が、かなり古いものも、発見されたらしい。私も以前行ったときに試してみたことがあるのだが、結構狙った通りに落ちてくれずに何枚か投げたうち一枚入ったかどうかという結果に終わったような気がする。いや、あのとき以来一度も言っていないような気もするから、一枚も入らなかったのかもしれない。

 とまれ、オロモウツの近くでは、いやチェコ全体を通しても、これほど中世の雰囲気を感じられる場は少ない。観光客であふれかえり、観光客のための施設でけばけばしいまでの外観を持つに到ったプラハで中世に浸れる幸せな人たちには何も言うまい。
 ボウゾフ城は、改修の結果獲得した外観ということで、歴史的記念物としての評価が高くないため、世界遺産への登録なんてことはありえなさそうだけど、下手な世界遺産を見に行くよりはボウゾフを見に行ったほうがはるかに満足度は高い。四月から十月ぐらいにかけての観光シーズンには、オロモウツに来て、「ボウゾフを見ずして帰るなかれ」と断言しておこう。私も、二十年以上前に、そんなことを泊まっていたホテルの人に言われて、よくわからないのに、何とかバスに乗って出かけたのだから。

2月25日23時30分。



 この本、いい本なんだけどねえ。ドイツからチェコに入って、モラビアのほうまで来ないのが残念である。続編でモラビア編をやってくれないものだろうか。この記事に書いたもの以外にも、レドニツェ、バルティツェ、ブフロフ、ブフロビツェ、ソビネツなどなど、一見の価値あるお城はごまんとあるんだけど。2月26日追記。



ドイツ〜チェコ古城街道 [ 阿部謹也 ]


2016年02月26日

スラビア・プラハの憂鬱(二月廿三日)



 チェコで最も人気のあるサッカーチームは、スパルタ・プラハである。チェコ中にファンがいて、アウェーの試合でも集客力は非常に高い。またチェコスロバキアリーグが分離してチェコリーグが成立して以来、正確にはそれ以前の八十年代の半ばぐらいから、チェコ最強のチームであり続けているのもスパルタ・プラハである。
 では、チェコ最古のサッカーチームがどこかというと、スパルタの永遠のライバルであるスラビア・プラハである。スラビアが1892年、スパルタが1893年の創立で、ともに120年以上の歴史を誇っている。スパルタとスラビアを合わせて「プラハのS」と呼ばれることもあり、両者のいわゆるプラハ・ダービーは、サッカーを超えたイベントになっている。プラハのチーム同士の試合でも、この両者の試合以外は「小さなプラハ・ダービー」と呼ばれてしまうのである。

 そのスラビアプラハが昨年の九月に中国の投資会社に買収されてしまった。ゼマン大統領が先頭に立ってチェコの実業家たちを連れて中国を公式訪問した際に、話がまとまったもののようだ。その買収交渉にかかわった人物が元国防大臣のトブルディークで、この人物はチェコ航空とルジニェの飛行場が韓国資本に買収されたときにも重要な役割を果たしている。うーん。
 その結果、あのスラビアの赤白に立てに分かれたユニフォームに、簡体字の漢字が書かれることになってしまった。一説によると、中国側はスラビアのシンボルである左胸に輝く赤い逆さ星(上部に二本、下部に一本足が出ている)が、中国では縁起が悪いものだから、ひっくり返して普通の星のマークにするように求めたらしい。現時点では昔のままの逆さ星が使われているので、この話がガセだったのか、クラブ側が拒否したかどちらかなのだろう。いずれにしても、中国人ならそんなことを言いかねないというイメージは持たれているということになる。

 スラビアというクラブは、九十年代の後半以降、出資者には悩まされてきたクラブである。1997年にイギリスの投資会社ENICがスラビアを買収したときには、イングランドのトッテナムやスペインのバレンシアなども所有する会社だっただけに、チェコ側も結構期待したのではないかと思う。当時、本拠地であったエデン・スタジアムの老朽化が問題になっており、建て替えも期待されたはずであるが、実際に建て替えが始まるのは、ENICが株主から外れた後のことである。
 ENICがスラビアに何を求めていたのかは不明であるが、スラビア側が期待したことはほとんど実現しなかったと言ってもいい。スポンサーとしての役割すら十分に果たしていなかった節もあるし、この時代のスラビアがタイトルから遠ざかったのも当然だったのかもしれない。唯一、よかったと言えそうなのは、ゴールキーパーのラデク・チェルニーが念願の国外移籍を果たしてトッテナムに移籍したことぐらいだろうか。それもスラビアにしてみればチームの弱体化にはつながるのだが。

 ENICから株式を買い取ったチェコ人のグループの手でエデンの地に古いスタジアムを破壊して新しいスタジアムを建設する工事が始まり、それと共に、短期間のスラビアバブルとでも言いたくなる時期が始まる。スタジアムの杮落としが行われたのは2008年の春で、そのシーズンスラビアは、監督ヤロリームの下、久しぶりにリーグ優勝を遂げたのである。
 そしてその勢いのままにチャンピオンズ・リーグの予選を突破して本戦に進出し、翌2008/09のシーズンも連覇した。これによって、スラビアはチェコリーグでスパルタ以外では初めて、リーグを連覇し三回の優勝を誇るチームになったのである。しかし、このときには後のチーム崩壊の兆しは見え始めていた。エデンのスタジアムの建設による借金や、前オーナーのENICによる何の根拠によるのかもわからない多額の支払い請求などのせいで、まず財政面で問題が表に出ようとしていた。チャンピオンズ・リーグからの収入で一息はついたものの、二連覇の後のチャンピオンズ・リーグには、格下のチームにまさかの敗戦を喫して、進出することができず、財政面は更に悪化した。
 監督のヤロリームが、選手よりも監督が表に出るチームを作ろうとした結果、二連覇中に活躍したベテラン選手をベンチに置いたり、無理に若手を使おうとしたりして、チームがうまく回らなくなってしまった。それに、タバレスというアフリカ系の選手を安く買って高く売ることに成功したせいで、中途半端に結果と育成の両方を追いかけるようになり、必要以上の数の「期待の若手」をあちこちからかき集めて、贅沢なプロ契約を結んでしまった。期待通りに成長して外国に売れれば財政難をも救うことになったのだろうが、大半は不良在庫と化してしまって、スラビアの財政を更に悪化させることになったのである。
 そのため、本当に有望な選手は、トルコやドイツ、ロシアなどに片っ端から売り出すことになり、残った中途半端な選手と、スラビア出身で外国からチェコに戻ってきた選手を集めたチームになっってしまった。2010年以降は、もちろん成績も振るわず、よくて中盤、下手をすると残留争いに巻き込まれるという状態になってしまった。そんな落ちぶれたスラビアを救うために現れたのが、中国企業だったのである。

 昨年の夏の移籍期間には、まだ完全にオーナーにはなっていなかったので、特に強化資金を出したわけではなく、選手の獲得も少なかったのだが、例年だったら売りに出されていたはずの前シーズンに大活躍したシュコダがスラビアに残ったのが一番の補強だと言われていた。この冬は、スラビアがスパルタ以上にチェコ国内から有力選手を獲得したので、中国資本が入ってきた効果は現れているようである。しかし、胸の赤い星が、共産中国の赤い星になることに、スラビアファンは耐えられるのだろうか。 耐えたくないけれども、耐えなければならないと言うジレンマが、外国人排斥の運動に参加して鬱憤晴らしをすることにつながるのではないかと、うがった見方をしてしまう。外国資本排斥とは言えないのだから。

 二連覇の時期は、スラビアのキーパーがオロモウツを永く支えてくれたバニアクという人だったこともあって、スパルタよりもスラビアを応援していたのだが、バニアク様が引退されてからは、特に応援する気にはなれなくなり、今回の件でますます応援したくなくなったのであった。

2月25日0時30分。
 うーん、翌日に終わらなかった。

 スラビアで検索したらこんなものが出てきた。大半は「ユーゴスラビア」関係のものだったので、この「スラビア」を上げておく。2月26日追記。


楽譜 スラヴィア(スラヴ狂詩曲)/J.ヴァン・デル・ロースト作曲 輸入吹奏楽譜(T)/G4/T:8:00  【10P07Feb16】


2016年02月25日

ヨーロッパの傲慢一 羊頭狗肉篇(二月廿二日)



 このテーマも以前から温めていたものなのだが、考えがとっちらかっているのと、いちゃもんを付けたいことが多岐にわたっているとでなかなか書き始められなかった。とりあえず一度ぐらいはこのテーマで書いておこうということで見切り発車する。どんな方向に話が広がって、どこに着地するのか自分でもさっぱりわからない。おそらく今後も何度かこのテーマで書くだろうということで数字をつけておく。

 ヨーロッパの人は、チベットが大好きである。私には理解のできない理由で理解できないレベルでチベットのことが大好きである。中国に併合されて独立を求める運動をしているという点では同じである新疆のウイグル人にはまったく冷淡であるのに、インドに併合されてしまったシッキムなんて知っている人もいないのに、チベットにだけは異常な共感を示すのである。
 おそらく、ダライ・ラマという人物が鍵を握っているのだろうが、この人物がどうにも評価しづらい人物である。ラマ教、もしくはチベット仏教の僧衣を身に付けて、眼鏡をかけて腕時計をしている姿には、どうしようもない違和感を感じてしまう。実際のところがどうだったのかは知らないが、オウム真理教の麻原彰晃がダライ・ラマにすり寄っていたと言うか、麻原がダライ・ラマの名前を悪用したという話も納得できてしまう。だからダライ・ラマが悪というわけではないが、何ともいえない胡散臭さを感じてしまうのだ。
 おそらく、ダライ・ラマという存在は、欧米の人たちのオリエンタリズムを刺激してしまうのだろう。ヨーロッパが期待するアジア人を、見事に演じているといってもいい。オリエンタリズムの裏返しとして、異質なはずのアジア人の口から、ヨーロッパ的な自由、民主主義を称揚する言葉が出てくることに喜びを感じるのかもしれない。

 それで思い出してしまったのが、プレスター・ジョンの伝説である。キリスト教がイスラム教の攻勢に悩まされていた時代、かつて東方に向かったプレスター・ジョンがイスラム教徒の向こうに、つまりアジアにキリスト教を広めたおかげでキリスト教徒の国があるという伝説が流布していた。イスラム教の向こう側にモンゴル帝国が起こってイスラム教徒の国々と戦い勝ち始めたとき、ヨーロッパの人々はこれこそプレスター・ジョンの国だと考えて、熱心に使節を送りつけたりしたらしい。チベットが、ヨーロッパからイスラム世界を越えたところに位置することと、モンゴルではラマ教が信仰されていたことを考えると、奇妙な符合を感じてしまう。
 ところで、ヨーロッパの人たちは転生ラマというものを本気で信じているのだろうか、それとも、だだの社会制度として理解しているだけなのだろうか。いずれにしても政教分離の原則からは外れそうである。そして、もう一つ気になるのは、チベットへの共感が、政治的には相容れないはずの中国と経済的な結びつきを強めていかざるを得ない状況の中で、口に出せない中国への反感の裏返しではないかということだ。ヨーロッパが見ているのは、実はチベットではなく中国なのではないだろうか。ダライ・ラマはしたたかな人物のようなので、そんなことは百も承知で、ダライ・ラマを演じているような気もする。

 ただし、チェコ人にはチベットに共感する大きな理由が二つある。一つは、プラハの春以降の正常化の時代のチェコとソ連の関係を、チベットと中国の関係に見立てることができる点である。そして、もう一つが、近年チベットで増えているらしい、現体制に抗議するための手段としての焼身自殺である。ワルシャワ条約機構軍の侵攻に対して抗議の焼身自殺を遂げたヤン・パラフとヤン・ザイーツは、チェコでは民族の英雄となっているし現在でもしばしば社会に対する不満を訴えるために焼身自殺を図る人がいるのである。
 記事のタイトルと内容に乖離が生じてしまって、しかもおさまりが全くついていないのは、酒が入ってしまったからということにしておこう。

2月23日23時30分。



 いつの間にかダライ・ラマ関係の本、しかも専門書ではない一般向けの軽めの本が増えていてちょっとびっくりした。ブームなのだろうか。2月24日追記。

ダライ・ラマ スピリチュアル・メッセージ [ ダライ・ラマ(14世) ]


posted by olomoučan at 07:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年02月24日

広報活動

 このブログでは常に表示されるようになっているチェコの作家アロイス・イラーセクの『チェコの伝説と歴史』を訳した浦井康男氏が、『暗黒』というチェコの十八世紀後半の歴史を描いた歴史小説の出版のためにクラウド・ファンディングというものをしているということを聞いて、期限が迫っているけれども、お手伝いとしてこのブログでも広報しようと思う。

 詳細は浦井氏の解説に譲るが、再カトリック化の進められたこの時代はチェコ史の中でもなかなかとりあつかわれない、あつかいにくい時代で、研究者ではない我々のような素人にとっては、よくわからない、それこそ『暗黒』の時代のように思ってしまう。その時代を実感するために『暗黒』のような歴史小説は非常に有用であろう。私自身もぜひ読んでみたいと思っている。日本史の教科書よりも、歴史小説やゲームで日本の歴史を、歴史的な知識や物の見方を身につけた人も多いはずである。

 ぜひ以下のページをご覧いただきたい。

https://readyfor.jp/projects/temno


 こんな読者のいないブログで広報しても何の足しにもならないのかもしれないが、何かしたかったということで。

2月24日15時


名字の迷宮(二月廿一日)



 ブリュックナー、ワーグナー、シューベルト、シュバルツ、シュタイナー、シュルツ、思いつくままに挙げてみたが、これは、ドイツ人ではなく、チェコ人の名字である。ドイツ語の表記そのままの場合もあれば、チェコ語風に表記が改まっているものも、両方が混じっているものもあるのだが、チェコには、ドイツ語の名字を持つ人の数が非常に多い。シュタイナーがシュタイネルとなるなど、微妙に読み方が変わっている場合もある。チェコ語の復興に尽力したユングマンもそうだったように、十九世紀以前のチェコの都市部でははドイツ化が進んでおり、ドイツ人の割合が高く、チェコ人の中にもドイツ語で生活をしている人たちは多かったのだ。
 逆に、オーストリアには、チェコ語の名字を持つ人も結構いて、その多くはハプスブルクの時代に、ウィーンに出稼ぎに出てそのまま残った人たちの子孫だと言う。以前、オーストリアのテレビドラマを見ていたら、Kuceraという名字の人物が出てきて、チェコ語の名字であることに気づいた人が「クチェラさん」と呼びかけたら、「クツェラです」と訂正していた。そこに自分はチェコ人ではないという意識を見てもあながち間違いではないだろう。その一方で、ウィーンには共産主義の時代に亡命して定着した人々もいるので、街中の看板にチェコ語、チェコ語のチャールカ(´)やハーチェク(ˇ)のついた名字を見ることがあって楽しいのだが、この人たちはおそらく自らをまだチェコ人とみなしているのだろう。
 最近は遺伝子分析で、チェコ人はスラブ人なのか、ゲルマン人なのか、ケルト人なのかなんて研究も行われているみたいであるが、多くの民族が行き来したこのチェコの地で、遺伝子的にも文化的にも民族というものを規定するのは難しいことである。第一次世界大戦後の民族自決という考え方は、非常に美しい理想ではあったけれども、現実には実現の困難な机上の空論に近かったのだと、かなりの反省と共に実感させられている。

 ところで、チェコ人の名字には、外国人を指す言葉が使われているものがある。言葉が使えない者という意味であったらしいニェメツは、言葉の通じない隣人のドイツ人をさす言葉になっているが、名字としても使われるのである。皮肉なのは、チェコを代表する作家でチェコの民衆の間に残る民話を集める仕事もしたボジェナ・ニェムツォバーの名字がドイツ人であることだ。他にもポラーク(ポーランド人)、スロバーク(スロバキア人)、ラクシャン(オーストリア人)、スルプ(セルビア人)など近隣の民族名を名字にする人たちもいる。ハンガリー人は、一般的なマジャルだけでなく、古い呼び名のウヘルという形の名字も存在している。それから、フランツォウス(フランス人)、シュパニェル(スペイン人)という少し離れた国の人が名字になっているのは、ナポレオン戦争のときに、フランス軍の一員としてチェコにやってきてそのまま定着してしまった人たちの子孫だろうか。
 そういえば、ハンガリーの水泳の選手にチェフという名字の選手がいた。チェコにいるチェフ(チェコ人)と書き方は違うが、これもおそらく民族名を基にした名字ということになるのだろう。以前、小説でスペインだか、ポルトガルだかには、日本という意味の言葉を名字とする日本人の子孫だと伝えられている人たちがいるという話を読んだことがある。現在ではそんな名字の付け方はしないのだろうが、出身国や民族を識別のために名字のように使用するというのは、かつては一般的だったのかもしれない。古代日本でも渡来人の「秦氏」は、中国の秦王朝の生き残りだという話があったなあ。

 また、本来は名前として使われるものが名字になっている人もいる。その結果、パバル・パベルとか、ペトル・パベルとか、ヤン・ヤヌー(ヤンの複数二格)とか、不思議な名前が出来上がってしまう。日本だと「玉木環」さんとかいそうだけれども、漢字のおかげで読む限りにおいてはそれほど違和感を感じずにすむが、この手のチェコ人の名前がローマ字やカタカナで書かれているとセカンドネームなのかななどと考えてしまう。
 チェコの典型的な名字の一つに、モラビアに多いと言われている動詞の過去形がそのまま名字になったものがある。テニス選手のナブラーティロバーも、男性形はナブラーティルで、「L」でおわる動詞の過去分詞形ということになる。ちなみに動詞ナブラーティットは、「元に戻す」という意味である。他にもビスコチル、ネイェドル、ポスピーシルなどなど。どういう事情でそんな名字が出来上がったのか、物語の一つでもありそうである。
 二つ以上の言葉を組み合わせて作られた名字も紹介しておこう。以前オロモウツの中央駅の切符売り場に、ビータームバーソバーさんという方がいた。窓口に表示されている名前を見ただけで話したことなどはないのだが、この方の名字の男性形はビータームバースで、日本語に訳すと「ようこそ」とか、「みなさまを歓迎します」という意味になってしまう。ネイェスフレバさんは、「パンは食べるな」という意味になるし、スコチドポレさんは、「畑に跳びこめ」という意味になるのである。これも名字の起源について調べたら面白そうである。

 以前、チェコテレビのニュースのリポーターに、バコバーさんという人がいた。友人達と男性形は「バク」か「バカ」か「バコ」のどれなのだろうという話をしていたら、調べてくれた人がいて、どうも「バカ」さんらしい。さらに「バカ」という村があることまで判明して、なんだか申し訳ないような気持ちになった。関係者には日本人と関わらないことを勧めておこう。そして、昔チェコ語を勉強していたころに同じ授業に出ていたシャシンコバー(シャシンカの女性形)さんには、ぜひ兄弟に日本語を勉強させて、日本でカメラマンとして仕事をさせて欲しいところである。
2月22日12時30分。



 チェコにもこの手の本、辞書があったりするのだろうか。読んでみたいような、みなくないような。2月23日追記。


全国名字大辞典 [ 森岡浩 ]


タグ:名詞 名字 人名

2016年02月23日

メタノール事件 不思議の国チェコ(二月廿日)



 スコッチウイスキーは、スコットランド人のイングランドの支配に対する抵抗の中で生まれ育ったものだ。
 昔、漫画だったか、小説だったかで、そんな話を読んで感動して以来、酒の密造と、それによる脱税は、ただの犯罪ではなくレジスタンスの意味を持つものとなった。つまりは、酒の密造なんて手間のかかることをするのは、単に金のためだけではなく、何かの目的を達成するための手段に過ぎないのだと考えるようになったのだ。もちろん、目的があるから犯罪を犯してもいいというわけではないが、酒の密造なんて被害者が出るものでもないのだからと、今にして思えば、気楽なことを考えていた。

 そんな認識が吹き飛んでしまったのは、チェコに来て、アルコールを使った脱税の仕方を知ったときのことだ。自分でお酒を造るのではなく、工業用アルコールを飲料用にしてしまうのだ。税率の低い工業用のアルコールを大量に輸入し、書類上ではどこぞに販売したことにして、実際は発見しにくい地下や壁の中などに設置した秘密の貯蔵庫に保存する。ほとぼりが冷めたころに、瓶詰めして偽のラベルや証紙などを貼り付けて、飲用として密売ルートに流す。これが一般的な密造酒による脱税の手法で、税率の差の分、また安価な工業用アルコールを材料とする分、儲けの多い商売であるらしい。
 この手法はアルコールだけでなく、ガソリンなどの脱税にも使われている。使用目的を偽って輸入した低税率の油に、国内で多少の手を加えて成分を整え、ガソリン、軽油としてガソリンスタンドに販売しているらしい。異常に値段の安いガソリンスタンドで入れたガソリンの質が悪く車の故障を引き起こすことがあるのは、儲けのためにこの手の密造ガソリンをひそかに購入しているからだという。事件が発覚すると、その脱税額の大きさに驚愕することになる。

 ところで、チェコでは、自宅でのアルコールの製造は禁止されていないのである。自宅の台所でビールを造るなんて話もあるし、チェルナー・ホラというビール会社が出している蜂蜜を使ったクバサルというビールは、もともと普通の人が自分用に開発したレシピを買い取って生産を始めたという話である。
 それに、EU加盟の際に、問題になりかけたらしいスリボビツェもある。工場で大量生産されるものもあるが、南モラビアを中心に、自宅の庭に植えてある果物を使ってお酒を醸造している人は多い。使う果物も一種類だけではなく、いくつか組み合わせて自分だけの味や香りを楽しむ人たちもいる。自宅で醸造したアルコールを蒸留所に持っていって、所定の使用料と税金を支払いさえすれば、合法的に蒸留してもらえるのだ。チェコでは酒の密造が体制へのレジスタンスだなどいう話は、そもそも成立しない。

 チェコの密造酒がただの金儲けの手段に過ぎないことが、最も悲劇的な形で表に出たのが、2012年に起こった表題のメタノール事件である。
 発端は、オストラバの近くの町で、メチルアルコール中毒と見られる患者が出たことだった。警察の調査で、新聞や雑誌、煙草などを販売しているスタンドで購入した蒸留酒が原因であることが判明する。その後、チェコ各地、ポーランドにまで犠牲者が広がり、チェコ政府は蒸留酒の販売を禁じる部分的な禁酒令を出すことになった。
 メタノール入りのお酒の購入先の中には、わりと大手のスーパーや、個人経営の食料品店なども含まれており、商品のラベルや瓶の封印に使われている証紙が偽造されたものであることが判明する。チェコ側では、ポーランドから密輸されたものだと言い出す人もいたが、すぐにポーランド側によって否定された。一番不思議だった意見は、蒸留の設備の洗浄の際に、使った殺菌作用のあるサボという洗剤が残っていて、それが製品に紛れ込んだのではないかというものだった。サボとエタノールが反応するとメタノールになるのだろうか。
 自社製品のラベルが偽造されてメタノールの販売に使われたことで、ブランドイメージが低下したからと言って、ある酒造会社の社長が、犯人につながる情報に懸賞金をかけると発表して話題になったが、その後の警察の調べで、この人物もメタノールを市場に流した密造酒グループの一員であることが判明して逮捕された。確かに挙動不審な怪しい人物ではあったが、蒸留酒の生産販売を手がけている会社が、直接関わっているのは意外であった。
 ショット形式で蒸留酒を提供している飲み屋では、開封済みのものは廃棄処分にすることが求められ、家庭にある蒸留酒を処分したい人たちのために回収用の場所を役所が設置したり、混乱を収めるためにさまざまな努力が重ねられていた。そして蒸留酒を製造している工場に対して、これまで以上の厳しいチェック体制が義務付けられたことで、設備投資の資金のない小規模の会社の中には、廃業を選ぶところも少なくなかった。お酒の消費者だけでなく、一般の生産者も、販売者もこの事件の被害者だったのである。

 警察の地道な捜査の結果、ズリーンを中心に活動する密造酒のグループが主犯であることが判明し、関係者が逮捕されることになるのだが、メチルアルコールを市場に流したときに、どんな結果がもたらされるか考えなかったのだろうか。各地に隠し倉庫や瓶詰めの設備を擁する大規模な組織で、外国から輸入した工業用アルコールを、機械的に処理して市場に流していて、メチルアルコールであることに気づかないまま流してしまった可能性もないわけではなさそうだが、被害者が出た時点で闇ルートに警告を流して販売を停めるぐらいこのとはできただろうに。こんなことがあると、チェコではやっぱりビール以外は飲めないと思ってしまう。
2月21日23時。



 体調不良の中で書いたせいか、いつも以上に文章が荒い気がする。この事件の被害者にというわけではないけれども、他に合いそうなものがないのでこれ。2月22日追記。




タグ:犯罪 脱税
posted by olomoučan at 06:29| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年02月22日

早起きの国チェコ(二月十九日)



 日曜日午前十時三十分。何の時間だと思われるだろうか。実はこれ、チェコで一部のスポーツの試合が始まる時間なのである。日曜日は、朝起きて朝食を取って、スポーツの試合を見に出かけて、終わったらどこかで昼ごはんを食べるという生活のスタイルがあったのかもしれない。
 サッカーでは、プラハを本拠地とするボヘミアンズ・プラハと、ビクトリア・ジシコフのホームゲームが伝統的に午前十時半から行われていた。おそらく同じプラハを本拠地とするスパルタとスラビアのホームゲームと時間が重ならないようにするという意味もあったのだろう。土曜の夕方にスパルタの試合を見て、日曜の午前中にボヘミアンズを試合を見るという人もいたに違いない。ただ、それまでホームチームが独自に設定していた試合開始時間に、サッカー協会が口を出すようになった結果、少なくとも一部リーグの試合からは日曜日午前十時半の試合は姿を消した。それが、ただでさえ不安定だったボヘミアンズとジシコフの成績が下降線を描くようになった原因であるような気がする。
 この試合開始時間を今でも守っているスポーツとしてはハンドボールがある。ハンドボールの一部リーグでは、土曜日、日曜日の午後に試合が行われることもあるが、少なくとも一試合は、日曜日の午前中に行われる。面白いことに女子のリーグでは、日曜日の十時半からの試合は存在しない。そして、日曜日の午前十時半からは、特別な事情がない限りチェコテレビのスポーツチャンネルで、ハンドボールの試合が放送されることを考えると、テレビでの放送枠を確保するために、伝統を守り続けていると言ってもよさそうだ。サッカーやアイスホッケーなどの人気スポーツを押しのけて、ハンドボールを放送すると言うわけにも行かないだろうし。

 思い出してみると、チェコテレビのスポーツチャンネルが誕生する以前、テレビでの中継がなかった時代にもハンドボールの試合は、日曜日の午前中に行われていた。チェコに来たばかりのころ、ハンドボールの試合を見たいと言ったら、スポーツ観戦が趣味だという友人が自分の町に来ないかと誘ってくれた。友人は、オロモウツからオストラバに行く途中にあるフラニツェ・ナ・モラビェという町に住んでいて、そこにセメント・フラニツェというハンドボールのチームがあるというのだ。セメントというのは、チームのスポンサーで、フラニツェでセメントの生産をしている会社だそうだ。
 この電車に乗って来てねと言われて渡されたメモを見てびっくりした。八時台の電車に乗るように書かれていたのだ。その理由が試合開始が午前十時半だからだということを聞いてさらにびっくりした。まだ何もしらなかったので、午後から試合だと思っていたのだ。当時はまだペンドリーノの導入によるチェコ鉄道の高速化が始まる前で、オロモウツからフラニツェまで急行でも一時間ほどかかったと記憶している。チェコの電車は一時間に一本というところなので、十時半の試合開始に間に合おうと思うと、オロモウツを八時台に出る電車に乗る必要があったのだ。

 さらに大変だったのは、同じ友人に誘われてカルビナーにハンドボールを見に行ったときのことだ。前年のリーグで優勝したカルビナーが、ヨーロッパのチャンピオンズリーグに参戦するので、予選だったかもしれないが、見に行こうと言われたのだ。自分で試合の予定を調べたり会場を調べたりする必要がなかったので、もちろん行くと答えたのだが、この試合も午前十時半からだったのだ。カルビナーは、オストラバからさらに先、ポーランドとの国境近くにある町で、当時は、オロモウツから出かけるには、結構厄介なところだった。ボフミーン回りで行ったのか、トシネツ回りで行ったのか、いや行きと帰りでルートが違ったような記憶もある。とまれ日曜日の早朝、七時ごろの電車に乗ることになってしまった。それでも会場に到着したのはぎりぎりで、体育館のすみっこの一番後ろの立見席しか残っていなかった。カルビナーとモスクワのチームとの試合は、モスクワ有利の予想に反して互角で、会場のおっさん達の盛り上がりに巻き込まれて興奮して叫んでしまうぐらいには面白かったのだけど、このときのことで一番印象に残っているのは早起きしなければならなかったことなのである。
 最近は資金難からチェコリーグで優勝しても、ヨーロッパのチャンピオンズリーグには参戦しないチームが多いため、今でもチャンピオンズリーグの試合を、午前中にやれるのかどうかはわからない。他のヨーロッパのカップ戦は、午後から行われることが多いような気がするが、それがルールになっているのだろうか。

 その後、あちこちで通訳の仕事をして気づいたことがある。一体にチェコ人は早起きなのである。工場の一般的な昼間の勤務は午前六時から始まる。こんな生活に慣れていたら、日曜日の午前十時半からのスポーツの試合というのは、ごく普通のことで何の問題もなさそうだ。こちらに来たばかりのころにあれっと思ったサッカーの試合が、午後の比較的早い時間に行われることが多いのも、早起きのためには早寝をしなければならないという事情があるのだろう。最近はヨーロッパの流行に合わせて、午後八時からとか、以前ではヨーロッパのカップ戦で、外国のチームと対戦するときにしか考えられなかった時間からの試合もないわけではないが。
 この午前六時から仕事を始める理由については、午後の早い時間に仕事が終わることで、特に夏場の日の長い時期には、自宅で庭仕事をしたり、日本だと日曜大工でするようなことを平日にするためだと聞いたことがある。共産主義の時代には、いろいろなものが不足していたので材料だけ手に入れて自分たちて作るのが普通だったという話を聞いていたので、そんなものかと思っていたのだが、最近、そうではなかったことを教えられた。
 チェコがまだハプスブルク家の支配下にあったころ、皇帝が不眠症を患っていたらしい。皇帝は毎朝夜が明けるかどうかの早朝から執務し、当然、臣下たちも早朝から登庁して仕事をするようになり、それが国土全体に広がって行ったとも、自分が仕事をしている時間帯に臣下たちが寝ているの許せなかった皇帝が、強権的に午前六時からの就業時間を決めてしまったともいう。不眠症であったことには同情するが、まったくはた迷惑な皇帝である。でも、オーストリアで工場の始業時間が早いなんて話は聞いたことがないので、この制度が定着したのはチェコだけで、早朝からの仕事がチェコ人の民族性にあっていたから定着したのだという可能性もないわけではないけど。
2月20日22時30分。

2016年02月21日

スタジアム問題(二月十八日)



 久しぶりにサッカーの試合を90分、テレビでだけど、最初から最後まで見てしまった。ヨーロッパのカップ戦で唯一春まで生き残ったチェコのチーム、スパルタ・プラハと、ロシアのクラスノダルのヨーロッパ・リーグの試合が放送されたので、何気なく見始めたら最後まで見てしまったのである。
 試合は、チェコのチームであるスパルタが優勢で、いくつものチャンスを作っていたと言う点では面白かったが、チェコのサッカーにもロシアのサッカーにも興味のない人が見たらどうなんだろう。あちこちでパスミスを連発し、相手のミスに付け込むこともできず、どちらのチームも試合から遠ざかっていたことがよくわかるような内容だった。ロシアはいまだにリーグが中断中だし、チェコは先週末に再開して一試合こなしたに過ぎない。中断期間中にもキャンプを張って、強化のための練習や試合はしているのだが、公式戦はやはり別物なのだろう。
 スタジアムの芝の状態がよくなかったのもミスが多かった原因かもしれない。今年はまだ暖冬だからマシなほうだと思うが、十二月の前半の試合や、二月のこの時期の試合は、日程上仕方がないとはいえ、芝生も選手たちもかわいそうだと思うことがある。今日も吐く息が白くなっているのがテレビの画面越しにもはっきり見えたし。

 チェコの一部のチームの本拠地のスタジアムは、ここ十年ぐらいの間に、一部リーグの試合に使用するための条件として、夜間の試合ができるレベルの照明設備、芝生に積もった雪を解かすための融雪装置などを設置することが義務付けられるようになっために改修が進んでいる。そのために多少の雪なら問題なく試合は行えるようになっているのだが、それでもたまに大雪のために融雪が間に合わず、試合が延期になることがあるのである。
 ちなみに、この融雪装置は、現在は、芝生の下にパイプを通して、そこに芝に悪影響を与えない温度のお湯を流すことで、雪を解かすシステムが一般的らしいが、チェコで最初に導入された融雪装置は電熱線を芝生の下に通すというもので、時に芝生が焼けこげたり、スイッチを入れるとスタジアムの周囲が停電したりするというかなり危険なものだったらしい。

 この一部リーグで使用する条件を満たしていないために、ホームゲームを本拠地で行えず、よそのチームの本拠地に間借りしなければならないという事態も発生している。例えばボヘミアンズ1905は、スラビアプラハのエデンスタジアムを使い、ズノイモのチームは、ブルノのスタジアムに間借りしていた。
 そして、本拠地のスタジアムを改修する予定が立たなかったり、間借り先が見つからなかったりすると、二部から一部に昇格できないことになっている。昨年も二部で二位に入ったバルンスドルフというチームが、昇格できずに、代わりにズリーンが昇格したのだった。また、バニーク・オストラバが、長年使ってきたバザリというスタジアムを離れて、去年の夏から、ライバルチームだったビートコビツェ(すでに消滅した)の本拠地に引っ越すことになったのも、バザリの改修資金がなく、オストラバ市の支援も受けられなかったからだと言われている。これだけが理由ではないが、チェコで一番過激なファンたちとの間に軋轢を生じて、一部のファンが応援をボイコットすることになった。

 観客を増やすためにスタジアムの改修を進めて、観戦しやすいものにしようというサッカー協会の考え方は間違っていないと思う。ただ、もう少し弾力的に運用してもいいのではないかという気がする。日の長い夏場の試合に照明や融雪装置なんていらないのだから、七月、八月の夏場は条件を満たさない本拠地でのホームゲームを許可して、それ以外は間借り先を探させるとか、もう少しやりようがある気がする。本拠地以外でホームゲームを開催すると、確実に入場者は減るのだから、この規則を杓子定規に運用するのは本末転倒の感がある。ここ数年は幸いなことにそんなことは起こっていないが、観客数が千人以下では、見ているほうもプレーしているほうもたまらないだろう。
 いや、観客を、協会の言うように家族連れの観客を増やしたいのなら、火薬や発煙筒を持ち込んで試合の邪魔をする連中を何とかするべきだろう。以前からスタジアムの入場の際には荷物のチェックなどを行って危険物を持ち込ませないようにしているが、それが完全に機能していないのである。ああいうのを見ると、子供だけでなく、大人でも近づきたくないと思ってしまう。

 去年だったか一昨年だったか、バニーク・オストラバのホームゲームで、ハーフタイムにファンが暴れ始め、座席を破壊したり、破壊した座席をグラウンドに投げ込んだりした挙句に、警察と乱闘を起こすという事件が発生した。実はオストラバのファンの仕業ではなく、ポーランドのカトビツェのファンでポーランドでは試合に入場を禁止されている連中が、暴れるためにオストラバまで出向いてきたのだと言われている。暴れていた連中の多くは覆面をかぶって顔がわからないようにしていた。顔がわからなければ人物を特定できず処罰も受けないという姑息な考えなのだろう。それなら、入場の際の手荷物チェックで覆面も禁止物として没収してしまえばいいのだ。サッカー場で、サッカーを見に来たのではなく、暴れに来た連中の人権に配慮する必要などあるまい。
 いずれにせよ、サッカー協会には、スタジアムそのものの改修よりも、危険物の持ち込みを防止することに力を入れてほしい。何もやっていないわけではないのだろうが、現時点では実効はそれほど上がっていないのである。
 うーん。当初の予定とは全然違う話になってしまった。ちなみに試合の結果は、スパルタが何とか一点取って、1対0で勝った。

2月19日18時。




 思わず、うそーと言ってしまいそうになった。ホーム用の深紅のユニフォームではないのがちょっと残念。スパルタのファンではないのだけれど、ヨーロッパの舞台ではチェコのチームということで応援している。2月20日追記。


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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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